関曠野さん、大阪・應典院講演「追記」

●  関曠野さんの大阪・應典院での講演の「追記」を仮アップいたします。この「追記」は講演録正式アップの時に掲載しようと思いましたが、内容の重要性から仮アップいたします。正式アップも近々いたしますので、もう少しお待ちください。(白崎)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

追記 -会場からの質問で考えたこと

関曠野(思想史)

 

 2016年の11月にはじめて大阪で講演をさせて頂きました。私の話を聴きに来てくださった関西の皆さんに改めて感謝申し上げます。さすが大阪というべきか、講演の後では会場から幾つも鋭く率直な質問があり、私もたいへん勉強になりました。そしてこの大阪での講演をきっかけに、今後は「政府通貨」と「ベーシックインカム」という言葉を止めて、その代わりに「国民通貨」および「(基本)国民配当」を使うことにしました。

 

その理由ですが、会場からの質問で、「政府通貨」と聞くと政府がある日号令を出して自分の預金や保険契約などがパーになるという過激なデノミのようなものをイメージする人が多いことが分かったからです。実際には、銀行券と国民通貨が共に流通する移行期間があるでしょう。しかしイメージだけが問題なのではない。私が安易に「政府通貨」という言葉を使ってきたことが、もともと問題だったのです。会場からのもうひとつの質問が、そのことを私に気付かせてくれました。それは「通貨は公共の利益のために超党派的かつ民主的に発行されるべきということは分かった。だがこれは、政府通貨とベーシックインカムは今後も実現できないということではないか」という質問でした。これは当然の疑問です。政府通貨ときけば、議会制国家の枠内で、政権与党が政権維持を目的に党派的に発行する通貨になってしまう。実際、今の自民党政権は経営危機の東電救済のために無利子で公金を融資しています。こういう悪質な党派的政府通貨はすでに実現しているのです。中国の人民元も一種の党派通貨でしょう。「政府通貨」という言葉がこうした党派通貨を容認するものと受け取られるようなら、この言葉は使うべきではありません。

 

このように議会と政党の国家体制は、通貨の公共的な発行と管理、それによるベーシックインカムの支給とは原理的に両立しえないのです。もともと議会制は銀行経済とそれを補完する租税国家を前提とし、徴収した税金に使途を審議するための制度です。だから議会からは、政権与党による党派通貨以上のものは出てきません。議会は銀行経済と一体である以上、脱銀行の通貨改革はできません。だからベーシックインカムも実現できません。租税国家には、全国民にまともなBIを支給できるほどの税収はないからです。それでも国家がBIの導入を検討すると言い出した場合は、それは福祉合理化が狙いです。今の経済危機の中で戦後の福祉国家は完全に破綻しています。だから財政難の国家としてはBIと引き換えに社会保障を全廃できれば大助かりです。今フィンランドが検討している案は、まさにそういうものです。

 

私は以前から通貨は議会や官庁から独立した国家信用局が経済統計を踏まえて発行することが望ましいと主張してきました。これは国民の国民による国民のための通貨です。だから「国民通貨」と呼ばれるべきです。そしてこの通貨の使途も公的民主的に協議され、社会の合意に基づいて決められる必要があります。さもなければ国民通貨とは言えません。だから通貨改革とBIを実現するには、やはり国家体制の転換が必要です。その場合、デモクラシーの老舗のスイス連邦がひとつのモデルになりうるでしょう。スイスでは議会の権力はカントンの自治権および国民投票制によって制約されています。そのうえその議会も、一定の得票があったすべての党は入閣するので、議会は世論が代表される場であり、与野党の政権争奪戦の場ではありません。こういう体制なら通貨の使途は厳しくチェックされ、国民通貨が党派通貨に堕する恐れはきわめて少ないでしょう。スイス連邦は議会制国家というよりカントン中心の地方自治体連合国家なのです。このことがスイスを経済的デモクラシーにも適した国にしています。

 

今日どこの国でも議会と政党の国家体制は崩壊の過程に入っています。議会政治は銀行経済を前提にしていて、銀行は果てしない経済成長なしには存続できない。だからゼロ成長で銀行が破綻した現在、議会政治は空回りするだけの茶番劇に堕しています。アメリカのトランプの当選は共和民主の二大政党制が死んだことを意味しています。また議会制発祥の地英国で、EU離脱という一大事が国民投票で決まったことの意義はどれほど強調されてもいい。また昨今EUで急伸している反EU反ヨーロ反移民の諸政党は政党のかたちをとってはいますが、議会に党員を送り込むことより自治体を押さえることを重視してきました。その結果。グローバリゼーションに切り捨てられた地方の庶民を代弁する勢力としてEUの政治を揺るがすに至っています。日本でも遠からず国政の焦点は、中央の国会から地方自治体に移っていくと私は見ています。日本でもローカリゼーションのうねりが生じるでしょう。そして通貨改革とBIがローカリゼーションの中心的な戦略になるでしょう。

 

 今私はベーシックインカムと言いましたが、今後はもうこれを使わず、代わりに「(基本)国民配当」というという言葉を使うつもりです。誰が「ベーシックインカム」を最初に使ったのか私は知らないのですが、この言葉には戦後の先進諸国のケインズ主義的福祉国家路線の匂いがします。だからフィンランドがやろうとしているような福祉合理化に、この言葉はよく馴染む。「所得」というのはエコノミストの用語で、ヘリコプターマネーを大衆にばらまいて有効需要を大量に創出という彼らの上からの発想にも馴染みます。それに「所得」というから、働いていないのになぜ所得があるのか、といった疑問異論を招きやすい。

 

ダグラスがBIと言わずに「国民配当」という言葉を使ったことには理由があります。彼の課題は福祉政策でもマクロ経済の管理でもなく、経済的デモクラシーの実現でした。そしてこのデモクラシーの根幹をなすのは、すべての国民の貨幣=購買力への権利です。ダグラスが言うように、富の生産は人類が車輪やバネを発明して以来蓄積してきた文明の遺産に依拠しています。だからすべての国民には文明の相続人として国民経済が許すかぎりの配当をもらう権利があります。資本の所有者にだけ株や債券といったかたちで特権的配当があって、庶民には雇用による所得があるだけという経済体制は、デモクラシーではなく近代的農奴制とでも呼ぶべきものでしょう。ですから一国の経済生活に参加しているすべての国民には一定の配当をもらう権利があるのです。これは道徳的理想や過激な政治的信条などではなくて、近代経済の現実に根差した国民の基本権です。この基本権を無視すれば、富の極度な偏在が円滑な経済循環を妨げ、1%のスーパーリッチと99%の一般国民に引き裂かれた経済社会は破滅に向かいます。このままでは遠からず銀行経済は全面停止状態に陥り、文明は崩壊します。その兆候はすでに出てきています。だから今こそ、すべての国民のお金への権利が承認されねばならない。われわれが必要としているのは、お上が恵んでくれる「所得」ではなく、配当への当然の権利なのです。

仮アップ 関曠野講演録 IN 應典院「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」(大阪)

 

2016年11月19日 於:大阪・應典院

 

「銀行は諸悪の根源 ― どうしたらおカネを『みんなのおカネ』にできるか」

講演者:関 曠野

 

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

 

主催:ベーシックインカム・実現を探る会、ベーシックインカム勉強会関西

 

 

 

 

「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」 

関曠野(思想史家)講演録 IN 應典院(大阪)

 

 

トランプパニックの意味

 

まず初めにアメリカでトランプが大統領に当選してしまったので世界的に大騒ぎになっていますね。柄の悪いドナルドダックみたいなおっさんが大統領になっちゃった。これは大変だというので、特にグローバリゼーションを推進してきた各国の体制エリートはパニック状態と言っていい。私自身はトランプの当選よりも彼の当選に対する世間の反応の方が気になります。

人間としてはトランプよりも前のブッシュの方がよっぽどでたらめだと思うんですよ。

しかしブッシュが当選した時にはパニックは起きなかった。なぜトランプの当選でこんなに世間が大騒ぎになっているのか。これはやはりね、トランプ自身の人物評価はどうであれ、トランプが当選したことの意味を世間が薄々解っているからだと思います。アメリカが主導してきた戦後の豊かな工業社会が終わろうとしている。いや、終わるというか崩壊しようとしている。その予感があって、トランプがその予感を象徴している。それだから世間がこういうパニック状態になっているのだと思うんです。けっしてこれはトランプという人間の素質の問題ではないと思います。

そういう意味で戦後が終わり新しい世界が始まろうとしている。その不安が今の世界を支配している。明らかに2017年以後世界はがらりと変わるだろうと思います。今の戦後の世界秩序がどのようにして生まれ、今後どのように変わっていくか、それが今回の講演のテーマですが、ともかく豊かな社会が成長の限界にぶつかって否応なしに終わらざるを得ない。これはトランプだろうがヒラリーだろうが安倍政権がいつまで続こうが、関係ない。終わらざるを得ないということですね。

 

自由貿易と軍事的覇権をやめる

 

そしてトランプ自身、まさに時代を反映した大変リアルなことを言っている。つまり自由貿易を止めると言っている。20世紀は戦争と革命の世紀といわれますが、これは皮相な見解です。この世紀は貿易の世紀でした。だが世界を動かしてきた自由貿易が終わろうとしている。これからのアメリカは保護主義、一国至上主義で行くとはっきり言っている。このトランプ原則はぶれないだろうと思います。それと自由貿易主義とワンセットになっていた同盟国の安全保障体制も見直し、同盟国に負担を要求するという。こういう形でアメリカはもう軍事的覇権を求めず、世界の警察官をやめると言っている。

この自由貿易とアメリカの軍事的覇権が戦後のいわゆるパックス・アメリカーナ、「アメリカの平和」の二本柱だった。2大原則だった。ところがこのアメリカ帝国をもうやめると言ってるわけです。これは大変なことです。驚天動地の変化といっていい。だからこそマスコミはこの問題を論評しないで、トランプが女性に失礼なことをしたとか、そういうことばかり騒いで、話をすり替えようとしています。トランプは確かに飲み屋で気炎を上げているような感じのおっさんですけれど、原則は原則でものすごくはっきりしている人です。それをマスコミは徹底的に無視している、それが庶民の怒りを買って彼の当選になったんではないだろうか。

 

右翼左翼図式からグローバルVSローカル図式へ

 

何はともあれトランプの人物評価は別にして、歴史的な転換が不可避に起きようとしています。私の言葉で言いますと、グローバリゼーションが終わってローカリゼーションの時代が始まろうとしている。世界を単一の市場として統合しようとするグローバリゼーションの動きが終わって、これからは国民経済が復活する、さらに国民経済の中でも地域経済が復活する。そういう時代が始まろうとしている。また我々自身が積極的にそういう時代の転換を促進しなければいけないと考えています。

それからもう一つ、トランプの当選がはっきり示したことがあります。右翼左翼という従来の政治パターンではまったく理解できない時代が始まりました。これは非常に重要です。トランプ当選は彼の勝利というより、ヒラリーと民主党の敗北という要素の方が強かったと言えるでしょう。トランプはそんなに評価しないけれども、ヒラリーと民主党はもっと嫌だという庶民の空気があったようです。その結果、アメリカでは民主党が代表する左翼、それからトランプを露骨に誹謗中傷したマスコミが信任を失った、失権したと私は思っています。これまで左翼とマスコミは「我々は人民の利益を代表している」と称してきた。それが庶民の信任を失った。おそらく今後左翼とマスコミは消滅に向かっていくでしょう。だからと言って右翼の時代が来るわけではありません。さっき言ったようにグローバルかローカルかが現代政治の焦点になってきています。これからはローカリゼーション、ローカリズムの時代が始まるということです。

 

なぜ、左翼は失権したか

 

では左翼はなぜ失権したのか。1960年代にマーティン・ルーサー・キング牧師がアメリカの公民権運動を指導したことはご存知と思います。最後は暗殺されましたが。彼はなぜ黒人はいつまでも低い地位に留まっているのかという問題を考え抜きました。そして黒人には貧困な母子家庭が多い。その貧困な母子家庭が黒人の貧困を再生産しているという結論に達したんです。それで黒人の解放に本当に必要なのはそういう貧困な母子家庭を消滅させるベーシックインカム(以下BI)だと考えるようになった。これが彼らのいわば遺言だったと言えます。BIによる黒人の解放。特に女性の解放、母子家庭の貧困の解消。

ところがですね、アメリカ民主党はこのキング牧師の提言を全く無視しました。とにかく経済成長主義だったわけです。これからの経済はグローバル化で成長するということで、結局財界の別動隊となってグローバリゼーションの片棒を担いできたのがアメリカやヨーロッパの左翼です。ま、日本も似たようなもんだと思いますけれど。この財界協調路線がグローバリズムで痛めつけられた庶民の怒りを買った。経済成長主義ということでは左翼も右翼もない。左翼は実はエリートとグルなんじゃないかと庶民は疑い始めた。そうはいっても左翼っていうのは一応社会正義を代弁しているような顔をしなくちゃいけない。そこでアメリカ民主党に代表される左翼は、富と権力の公正な分配という問題を差別問題にすり替えたんです。富と権力の不公正な分配に対する抗議を差別の糾弾にすり替えたのです。それであちこちで差別現象と称されるものをほじくりだして騒ぎ立て、それで社会正義の代表者みたいな顔をする。それも言うにこと欠いてハリウッドで黒人俳優がオスカーをもらえないのは差別だとか、そんなことを言ってる。それにアメリカの庶民の堪忍袋の緒が切れたということがあると思います。

 

壊し屋、トランプ

 

だからトランプという人物自体は私はあまり問題にする気はないんです。アメリカの大統領というのはかなりマスコットの要素があってそんなに実権を持っているわけじゃない。ただ一つ違うのはブッシュでもクリントンでもオバマでも結局はアメリカのいわゆるディープステイトと言われる本当の奥の院の支配層のいうことを代弁しているだけでした。トランプはアメリカ帝国を壊そうとしている。これはやはりこれまでとは違うんじゃないか。ホワイトハウスの招き猫では済まないのではないか。そういう意味では人間のタイプは全く違うけれど、トランプはちょっとゴルバチョフに似た役割を果たすかもしれない。つまりトップダウンで体制を壊す。そういう人間になる可能性がある。それは別に革命思想を持っているということではなく、庶民層の怒りを代弁をしている限りにおいて、またアメリカ社会の停滞と混乱を何とかしなければと思っている一般のアメリカ人の気持ちを代弁している限りにおいて、トップダウンで体制を壊す人間が登場した。そういう見方もできると思います。 ただしトランプの任期中にアメリカ経済は連銀の誤魔化しに限界がきて最終的に崩壊する可能性がある。これは誰が大統領やったって打つ手がない問題ですが、それが全部トランプの無能のせいにされる、そういうスケープゴートにされる危険もありますね。その時になって「大統領なんてヒラリーにやらせておけばよかった」と後悔するかもしれません。

 

アウトサイダーのトランプ

 

トランプは何をやるかわからない危険人物のように思われていますけれど、私にいわせれば彼は大変わかりやすい単純な人ですよ。まずたたき上げの一匹狼の実業家です。だからエリートのサークルには属していないアウトサイダーです。もう一つ不動産屋ですから基本的に内需で食っている。だから国民の懐が温かくないと自分の商売も廻っていかないのでグローバリズムには反対なんです。経済を統計数字でしかみていないエリート層と違って、商売柄庶民の生活の実情を知っている。彼の政策も、周囲に色々わけのわからない連中をかき集めていますが、別に特定のイデオロギーがあるわけじゃない。要するに景気のよくなりそうなことなら何でもやる、見境なしにやるということです。非常に単純なんです。

しかもむちゃくちゃなこと言ってる。地球温暖化論議はアメリカの製造業をつぶそうとする中国の陰謀だなんて言っている。しかしですよ、トランプが本気で保護主義をやって世界貿易が縮小すれば、温室効果ガスの排出は劇的に減ります。温暖化について正確な科学的知識を自慢するインテリはここ何十年現実を一ミリも変えてこなかった。むしろ温暖化についてむちゃくちゃなことを言っているトランプの方がよほど温室効果ガスの排出を減らす可能性があります。政治家は学者じゃないんですから、これでいいんです。

 

経済戦争をしかけるトランプ

 

ただ景気を良くするためには何でもやるというので、かなり矛盾したことを言っている。企業の法人税を大幅に下げる。その一方で財政出動してインフラ公共事業をどんどんやるという。これ矛盾してますよね。じゃ、減税しながら財政出動するための財源はどうするんだ。この点では、トランプは外国との経済戦争である程度財源を作ろうとしているのではないか。そうすると関税などで増税なしに税収が増える。だから中国からの輸入品には45%の関税をかけると言っている。日本に対しても、ご存知のように在日米軍の駐留経費を日本に全部負担させようとしているし、ヨーロッパに対してもNATO関係の費用を全部ヨーロッパが持てと言っている。要求はこれに留まらないと思います。彼は破産するたびに借金を踏み倒してのし上がってきた男で、その政策を対外的にもやる可能性があると思います。日本はアメリカの国債を厖大に持っていて、毎年アメリカから8兆円の利子収入が入ってきている。トランプはひょっとしたらですが、日本が汚い商売をやって買ったアメリカ国債なんだから利子を払う必要がないとか、払っても1兆円に負けろとか言ってくる可能性があると思います。とにかく彼は外国との経済戦争は本気でやる気です。それ以外に財源の当てがありませんから。

 

「逆=黒船」へ

 

でもトランプのアメリカがそういう経済エゴに徹するのは私としては大歓迎です。おかげで日本もグローバリズムから脱却して経済的にも主権国家になり国民経済を立て直す、地域経済を再生させる。それ以外に選択肢がないということがはっきりしてくる。だからトランプのアメリカの自国中心主義は高く評価しています。とにかくこれで戦後日本が一貫して国家存立の前提にしてきた自由貿易とアメリカの覇権が消滅することになります。これからの日本はもう戦後の延長線上にはありません。トランプのアメリカという「逆=黒船」で、日本も鎖国ではないけれど、貿易をあてにしない内需中心経済への転換を迫られています。

 

お金とは、生産と消費を仲介するもの

 

今日のメモにあります本題に入ります。まずお金ということですけれどもね。お金は生産と消費を仲介するものです。つまり生産されたサービスや商品をお金があるから買えて消費するという単純な話ですね。お金は生産と消費を仲介する。だから貨幣というものは、消費を促進するためにあるのです。このことをしっかりと考えていけば世の中の仕組みが良く見え来ます。そして近代国家というのは根本においてお金の流れとして組織されています。国家というと我々はつい法律中心に考えていますけれど、法律というのは国家の骨格みたいなものです。国家の血液として循環しているのはお金なんです。だから国の実態はまずお金の流れとして解明すべきなのです。そのように解明していくと物事が良く見えてくる、何がどうなっているのかメカニズムがよくわかってくる。

 

銀行業に管理されているお金の流れ

 

そこで現状でのお金の流れですが、私企業である銀行がお金の流れをコントロールし、管理しています。日銀は資本金をもって設立された、株式も発行している私企業です。私企業が日本という国を取り仕切っている、内閣だの財務省の官僚だのはいわばその番頭に過ぎない。見かけだけの権力しかもっていない。日銀の正体は銀行業界のカルテルです。そして銀行業界が金の流れをコントロールしている以上、銀行が影の支配者として日本国家を取り仕切っているということです。

そしてこのお金の流れを血液循環に例えるならば、そこに極度の淀みや歪みが生じている。その結果お金の流れが滞って脳血栓や動脈瘤とかそれに近い現象が起きている。それが今のデフレなんですね。どうしたらお金の流れが再び順調に血液のように循環するようになるか。それが私が前から提起している問題で、BIもその一環です。BIは福祉じゃありません。お金の流れの淀みや歪を無くすための政策です。どうしてこのお金の流れに淀みや歪みが生じるのか。

 

C・H・ダグラスのA+B理論

 

20世紀初めにこの問題を最初に解明したのが英国のエンジニアのクリフォード・ヒュー・ダグラスという人です。私もこの人からお金の流れについての考え方を学びました。この人のことについては私も再三話しているので今日は延々と話すことはしませんけれども。

この人の重要な議論はA+B理論というものです。メモに書いてありますけれども。企業の帳簿を見てどういう風にお金が支出されているのか見てみましょう。そうすると従業員の賃金給与に支出されている部分Aがある。もう一つは生産のための原料と生産設備に関連して支出されている部分Bがある。原価償却とかそういう形で。そしてダグラスが発見したのは、どこの企業の帳簿でもA<Bだという事実でした。どの企業もAに比べると生産設備関係の支出Bの方が遥に大きい。しかしここには深刻な矛盾がある。企業が生産した商品を市場で売る際の価格は、このA+Bに銀行への利払いや利潤を上乗せしたものです。ところがそれを買う勤労者大衆にはAの所得しかない。しかも彼らだけが商品を買ってくれる消費者なのです。このように消費者の購買力という視点から見ると、企業が生産した商品の一部しか勤労者は買い取れない。すべてを買い取ることはできない。この基本的矛盾の結果、結局企業は売れ行き不振で生産過剰に苦しむ一方、勤労者の方は所得不足、必要なものさえ買えない所得不足に苦しむと。これは企業の会計構造それ自体に根差した問題です。企業の帳簿はあくまで効率的な生産のためのもので、消費には関係がないのです。ただしこのA<Bのギャップはタオルを作っている町工場のレベルなら大きな問題にはなりません。だが19世紀末以降、企業の機構が巨大化複雑化して、生産設備の刷新や研究開発に巨額の投資が必要になってくると、深刻な矛盾になってきます。

 

利払い銀行融資がマネーを歪める

 

さらに企業の機構が巨大化複雑化してくると、どんな企業でも銀行からの融資が必要になってくる。そうでなければやっていけない。トヨタクラスの巨大な多国籍企業だって銀行からの融資無しには回っていかない。そうなると銀行からの融資には利子を付けて返さなければいけない。利子というものは全く不生産的なものです。銀行は何も生産していない。生産に関係ない利子というもので儲けている。銀行は通貨の使用権に利子という価格を付けて売っているわけです。しかも利子はどんどん増えて、場合によったら複利で元本を上回るほどの額になる。こうして企業会計の中で銀行への利払いという不生産的なものが占める比率が大きくなっていきます。そうなると今お話したA<Bの矛盾に加えて銀行への利払いがお金の流れを歪めてしまう。この二つがお金の流れを淀ませ歪ませる根本原因です。

商品の価格には銀行への利払い分も上乗せされているので。ドイツのある研究によると商品価格の三分の一から約半分が銀行の利払い分だそうです。そういう形で経済の非生産的な部分が拡大していく。この二つの要因がやがて恐慌を発生させます。デフレになり、デフレはいずれ恐慌になります。

 

資本主義の矛盾をはぐらかすアメリカ

 

しかしここで疑問が生じてきます。ダグラスが論じたように現代経済の土台にそんな矛盾があるならば、なぜ資本主義は存続してきたのか。資本主義はあっという間に崩壊してしまったのではないか。実際英国人のダグラスは産業革命以来の資本主義の発展は宿命的な限界にぶつかったと見ていたのです。ところがアメリカがダグラスに対する答えを用意していました。第一次界大戦に参戦したのをきっかけに経済超大国にのし上がったアメリカは、ダグラスが指摘した矛盾をはぐらかすような新しいタイプの資本主義を作り上げた。それが20世紀の先進諸国を支配することになりました。

どういうことかというと、まずフォードシステムですね。自動車王ヘンリー・フォードは自動車の生産を徹底的に合理化して安く車を作れるようにし、労働者に自分たちが作ったT型フォードを買えるような高い賃金を払うことにした。これでA<Bの問題がはぐらかされたのです。第二に、勤労者大衆、消費者の所得不足の問題です。これには月賦販売方式で対処した。ローンというものを作りだして、普通の勤労者でも車や住宅のような高価なものを月賦で買えるようにした。このフォード・システムとローンによってA<Bのギャップという問題をはぐらかし先送りすることに成功した。これがアメリカの消費社会の特徴なんです。

 

石油という魔法が資本主義の矛盾を先送りに

 

 アメリカはこの問題をはぐらかしたり先送りしできた背景には、20世紀初めのアメリカは世界最大の産油国で、産業の一番の原動力である石油が安く豊富に買えたということがある。石油は英国の産業革命を可能にした石炭と比べても比較にならない優れたエネルギー源です。石油という魔法の資源のおかげでダグラスの指摘した矛盾を先送りできた。逆に言うと石油の価格が高騰してくるとアメリカの資本主義は行き詰る。実際それが石油ショック以来の状況です。

しかしご存知のように1930年代にアメリカは大恐慌に直撃され、労働者の4人に1人が失業という事態になります。してみればアメリカはダグラスが指摘した問題をはぐらかしただけで解決することはできなかったんですね。結局A<Bと銀行マネーの問題で格差が拡大した。階級、階層、職業別、地域格差が拡大していた。この富の分配の歪は他方では余り金によるバブルを惹き起こし、それが繁栄するアメリカという幻影を生みだしていた。そしてこの幻影が消えて景気が一気に悪くなると銀行に対する負債が重くのしかかってきて経済のブレーキになる。ということで大恐慌になった。お金の流れにおける脳血栓や動脈瘤がポックリ死をもたらした。

 

「自由貿易」で体制矛盾を輸出する

 

それでは、どうやってこの恐慌を打開するのか。これは富と権力の公正な分配という形で解決するしかない問題です。しかし当時のアメリカのエリートにはそれをやる気などない。そこでエリートが出した結論は、この矛盾を貿易による経済の拡大と成長で先送りにするということでした。英国のような植民地帝国のブロック経済を戦争で叩き潰し、アメリカの覇権の下でグローバルな自由貿易の国際秩序を作り出す。富と権力の歪んだ分配という問題はニューディールで多少手直ししただけで、そのままにしておく。そして矛盾のツケを外国に輸出することで問題を先送りにする。これが「自由貿易」という言葉が意味していることなんです。「自由貿易」とは、自国の経済の歪みや矛盾、体制の危機を他国に輸出することです。そういう形で外国に矛盾のツケを回し外国の富を貿易で奪って経済を成長させる。経済が成長すれば多少は富のかけらを勤労者大衆にも分配できるということでね、問題を先送りできる。他方で、戦間期、第一次大戦と第二次大戦の間の時期は貿易戦争の時代ですね。ダンピングとか、いわゆる隣人窮乏化政策がまかり通った。更にダンピングが高じて通貨戦争になる。自国の通貨を切り下げて輸出を有利にする。アメリカはこういう貿易戦争通貨戦争を予防できる国際秩序を作ろうとしました。

 

グローバル貿易VSブロック経済

 

この結果20世紀はアメリカが主導する貿易の世紀になりました。20世紀はアメリカの世紀であり、それはすなわち貿易の世紀であった。20世紀はよく革命と戦争の世紀だと言われますが、これは皮相な見解です。20世紀は実は貿易の世紀なんです。

第二次大戦の原因はふたつあります。ひとつは、一国資本主義の限界という問題。もう一つは完全雇用が先進諸国の最大の政策目標だったことです。一国資本主義の限界。現代企業の巨大な生産力にとっては、どんな大国であってもその市場は狭すぎ資源は少なすぎる。そこで日本とドイツは大英帝国型のブロック経済。植民地の資源と市場を持つ経済を作ろうとして戦争に訴えた。ドイツはレーベンスラウム、生存圏、日本は大東亜共栄圏という形でブロック経済を実現しようとした。アメリカはそれに対して世界全体が市場になるグローバル貿易を目指した。アメリ企業の巨大な生産力からすると、アメリカのような広大で資源に富む国でも狭すぎる。結局第二次大戦は、このアメリカのグローバル貿易主義がドイツと日本のブロック経済主義を叩き潰した戦争でした。

 

ブレトンウッズ体制という飴と鞭

 

そしてアメリカはまだ戦時中の1944年にアメリカのブレトンウッズという田舎町で連合国の関係者を集めて会議を開いて、世界の戦後の通貨貿易体制を構築します。第二次大戦後はこのブレトンウッズでアメリカが作り上げた通貨貿易体制が西側の先進諸国を支配します。これはメモにも書いてありますように、アメリカの戦略目標は、この通貨貿易体制によってふたたび恐慌や戦間期に起きたような通貨戦争貿易戦争が起きないようにすることでした。そのためにはどうしたかというと、ドルを金で裏付けて、そのドルを世界貿易の準備通貨決済通貨にする。金1オンスを35ドルと定める。その金で裏付けられたドルを基軸に世界各国の通貨の相場を定め固定相場にする。

だから例えば1ドルは360円として1970年代の始めまでこの相場は変わらなかった。そしてドルの価値を保証するために各国に輸出で稼いだドルは要求すれば金と交換しますよと約束する。そういう形でドルの流通を確実にする。こうしてアメリカの同盟国であればこのシステムに乗っかって世界中の資源と市場に自由にアクセスできますよと保証する。

他方でこの体制から逃げ出されちゃ困るので同盟国に米軍の基地を置く。安全保障体制と称して。だからアメリカが同盟国友好国に基地を展開しているのは冷戦でソ連と対抗するためというのは口実に過ぎなかった。本当は同盟国の主権を制限するため、同盟国の首に首輪をつけるためのものなのです。ヨーロッパや日本の米軍基地はそのためのものです。

だからこれは飴と鞭ですよね。アメリカの体制に従順に従っていればちゃんと資源と市場へのアクセスは保証される。だがアメリカの後見なしに主権を行使しようとすれば軍事基地を置かれているので圧力をかけられる。現に1950年代にエジプトのナセルがスエズ運河を国有化した時に英国とフランスはそれを阻止しようと現地に出兵しましたが、アメリカの圧力で結局撤兵せざるを得なかった。そういうことです。

 

変動相場制移行の意味が重要

 

ところがこのブレトンウッズ体制は、1971年のニクソン大統領声明で終焉します。ニクソンはドルと金の交換を停止すると宣言し、これ以後ドルは金の裏付けがないペーパードルになりました。ドル基軸の固定相場制の下で戦後の世界貿易はほとんどドル建て決済になりました。だから外貨としてドルを持っていない国は貿易に参加できない。そういう体制だったので、ドルがペーパードルになったからといってもドルを使うのを止めることはできない。それでは、ドルの価値は何で決めるかというと、その時その時の為替相場で決めようという変動相場制になるわけですね。この固定相場制が変動相場制に変わったことの意味をちゃんと理解している人が本当に少ない。経済学者でさえもわかっていないのが、たくさんいる。しかし実際今の世界の騒ぎは全部変動相場制が原因なんですよ。だから変動相場制が意味するものをきちんと押さえておく必要があります。

アメリカがドルと金の交換を停止した理由ですけれども、ひとつは日本やヨーロッパが戦災から復興してきて、競争力をつけてきたのでアメリカは当初のゆるぎない超大国ではなくなった。相対的にアメリカの地位が低下した、ゆるぎない大国ではなくなったということです。戦後は先進国の繁栄で、経済規模が巨大に拡大したものですからアメリカが保有する金を要求されたら金庫がすっからかんになってしまう。とくに重要なのは石油価格の問題でしょう。この頃までにアメリカの油田は枯渇しはじめていた。だが石油の需要は増える一方で、アメリカも膨大な石油を輸入せざるをえなくなった。この状況でドルと金を交換していたら、アメリカが保有する金はあっという間になくなってしまうでしょう。ニクソン声明はアメリカにとってはやむをえない政策の変更でした。

 

固定相場制の歴史的意義

 

とにかくこういう形で変動相場制になった。それで、変動相場制とは何なのかということなんですけどね。

しかしその前にブレトンウッズの固定相場制の歴史的な意義を考えてみてたいと思います。終戦直後から1970年までの時期の銀行の融資は、各国の戦災からの復興なり、各国経済の発展に貢献する社会的役割を期待されていたのです。単なるもうけ主義の融資じゃなくて社会と経済への貢献が期待されていた。その背景には大恐慌への反省もありました。銀行がもうけ主義の融資に走ったことが大恐慌の原因になったという反省もあって、社会的に責任ある融資ということが強調された。

融資には公共的責任があるとされた。自分勝手なギャンブル的融資はしちゃいかんと法的な規制が一杯あったわけです。銀行の社会的責任ということが1970年までは強調されていて、銀行もそれを無視することはできなかった。

 

変動相場制がカジノ資本主義を生む

 

それが変動性相場制になったらどうなるか。各国の通貨の価値は刻々変動する為替相場で決まる。つまりドルだの円だのポンドだのマルクだの、各国の通貨が株と同じものになるということですよ。そうなるとトヨタ、日産、ホンダのどの株を買ったら一番儲かるかというのと同じ発想で通貨が扱われる。通貨が純然たる金融資産になるということです。各国の国民経済がお金の流れとして組織されているということなど無視されてしまう。とにかく手持ちの金をうまく転がして金融資産をどんどん増やす。そういう姿勢で銀行が融資するようになる。そうなると資本市場はカジノに似たものになってしまう。通貨は金転がし。銀行と富裕層による投機の対象になる。どの株買ったら儲かるかと同じ調子で通貨が売られたり買われたりする。銀行は社会と経済の実態を無視して純粋に利子収入だけを目的に金を貸すようになる。

本来資本市場というものは、社会にとって必要な資金を供給するためにある。資金の需要と供給のバロメーターとしてある。それが社会の実体経済を無視してギャンブルの舞台にになるわけです。だから1970年代以降カジノ資本主義という、社会の実態に関係のない資本主義が発生してくる。そのカジノのおこぼれの金が我々庶民や小さな企業に多少回ってくる、そういう状況になる。銀行の社会的責任が一応強調された固定相場制が変動相場制に変わって、銀行がギャンブル業になってしまった。これが現代のさまざまな危機の根本的な原因です。

 

資本主義とは何か~生産の三要素

 

そこでちょっと視点を改めて資本主義とは何なのかを考えてみたいと思います。資本主義というのは難しく考えればえらく難しい問題になるけれど、簡単に考えるとえらい簡単な話なんです。今日はその簡単な方で行きます。

まず生産の三要素は、資本と土地と労働です。この三つの要素がないと生産は成立しません。資本というのは何かというと、お金のある人が生産のための道具や設備を買うとそれが資本になる。例えば印刷会社を始めようと思って印刷機を買ったらそれが資本になる。大工さんが金槌を買うのも資本です。土地というのは単なる地べたのことではなくて、農地になったりするし地下資源があったりする、いわば資源としての地球のことですね、これが土地です。それから労働はもちろん人間の労働ですけれども、人間は労働しながら生活しているわけで、いわば労働とは生活者としての人間のことです。(板書)

ですから例えば江戸時代の日本だって生産はこの三つによってやっていたわけです。

ただね、生産には資本が必要だからといって、そこからすぐに資本主義が生まれるわけではない。資本主義が生まれるためには、江戸時代の日本にはなかったような特殊な状況が必要なのです。それは、僅かな資金で大儲けできる一攫千金の機会がいくらでもあるような状況です。こうした状況があって、ちょっと何かを作ったりちょっと運んで売ったりするだけで、たちまち原資の何十倍もの金が入ってくるぼろもうけのチャンスがあったら、お金は資本として貴重になりますね。

 

資本主義の発生~資本の商品化

 

近代の初めにヨーロッパ人が新大陸アメリカを征服した段階でそういう状況が生じました。とにかくわずかな金で大儲けができる。そうなると資本はものすごく貴重になる。たとえばアメリカで奴隷を使って煙草を栽培し葉巻にしてヨーロッパに運んで売れば莫大な儲けになった。ちょっとでも資本があればそれでぼろ儲けできる。だからぼろ儲けを可能にする資金として資本自体が商品化されます。で、この資本の商品化をしているのが銀行なんです。17世紀の英国でイングランド銀行という形で最初の近代銀行が生まれました。英国がカリブ海の植民地のプランテーション経営などでぼろ儲けできる状況が生じた中で銀行が成立しているわけです。銀行はお金そのものを売っているのではなく、お金の使用権を売っています。そして、貨幣の使用権に利子という価格を付けて売っているのが銀行です。そうやって資本を販売している。市場で儲ける機会に比べて資本が少ないから、希少だから、資本に非常に貴重な価値があるから銀行の商売が成り立つ。だからぼろ儲けの話が少なくなったら、資本主義も銀行も消滅するはずなのです。そして現に消滅し始めている。それが世界経済の現状です。今の世界にぼろい儲け話は滅多にありません。

コツコツと地味な商売をやるしかない。現代経済の基調は否応なくそうした方向に変わってきています。

 

国際金融資本と主権国家の対立

 

ところがですよ、変動相場制の下では銀行主導で経済が純粋な商品としてのお金で動いているから、経済自体が金融化してくる。アメリカの場合、1980年代ぐらいまではGDPに金融業が占める比率は20%だったのが、今は40%を越えています。経済の半分近くが純粋に金融業界の取引額になっている現状です。そうなると金融資本というカジノ業界にとっては、先ほど言った生産の三要素のうちの土地と労働という存在が邪魔になってくる、儲けに対する制約になってくる。銀行の儲けというのは純粋に帳簿上の数字の問題です。だが土地と人間は現実の存在です。そこから軋轢や衝突が生じてくる。それも高度経済成長期によくあった、銀行が融資した開発業者のプロジェクトが地元住民の反対で潰れるといった次元のものならまだいい。現在この問題は、国際金融資本と国民全体の衝突にまでエスカレートしています。

国家は領土と人民によって成立しています。だからどんな国家でも土地と労働(人間)を代表せざるを得ません。そのために国家は資本にとって制約になってくる。国境などにお構いなく無制約に自由に動きたい金融資本には邪魔になってくる。しかし銀行という組織を成立させ、その営業利益を保証しているのはあくまでも国家が定めた法律なのです。国家の法律があるから銀行業が成立しているんです。にもかかわらず銀行には国家が邪魔になってくる。だから出来るだけ国家の制約を逃れようとする。それには当然国家の方からの反撃、特に国家を構成している人民からの反撃がある。また土地という要素も人々が資本の無制約な自由に反撃する根拠になる。地球は人類のかけがえのない住み処であり、資本の儲け話で使い捨てにされてはならないという声が高まってくる。

こういう形で国際金融資本と主権国家の対立がだんだん深まってきてます。この対立はレーガンの時代以どんどん深まって、現在極限に達していると言えるでしょう。以上申し上げたように、金融資本が主権国家すなわち人間と土地に対立してその無制限な自由を追求すること。それがグローバリゼーションという言葉が意味していることなんです。

 

資本の国際移動の自由とグローバリゼーション

 

そしてグローバリゼーションの発端はやはり変動相場制にあります。変動相場制で銀行の在り方が変わり経済と社会を支配し、土地と人民はその商売の邪魔になってきたので、なるべく無力化させようとする。だからグローバリゼーションは銀行主体の金融的な現象で、それに付随して社会の変化、企業の変化などがあるということです。ではグローバリゼーションはどのようなかたちで進行したのでしょうか。まず最初は。資本の国際移動の自由です。つまり円で儲けた金でマルクを買ってそれでさらに儲けて、その儲けた金でドルを買うとか、そういう自由な金転がしができなきゃ意味がないでしょう?金融カジノというのは。一国内でゴタゴタやっても意味がない。昔は資本は国家に規制されて勝手に国外に動かせなかったのです。たとえば戦後まもなくの日本で資本を海外に自由に持ち出せたら戦災からの復興など不可能になるから勝手に持ちだせなかった。昔の庶民は海外旅行なんてできなかったですね。

まず資本の国際移動の自由が拡大して、資本には国境がなくなると今度は全世界を舞台にお金のギャンブルをやる時代が始まった。とにかく金が自由に動くから、儲からなくなると一斉に逃げ出す。例えば90年代のアジア通貨危機では、東南アジアとか韓国に出ていたアメリカの資本がどうも本国の方が利上げで儲かりそうだと一斉に引き上げられ、アジア諸国の経済がガタガタになった。韓国はそれで破産状態になりました。

第二に、変動相場制の下で企業の多国籍化が急速に進行しました。いくら資本が全能といっても国民を入れ替えたり土地を動かしたりすることはできない。じゃあ資本の方が動いてしまえということで企業の多国籍化が進んだ。銀行はすでに国際化しているが、それに加えてモノづくりをやっている企業も生産拠点をどんどん例えばアメリカから中国に移す。そういう形で企業もなるべく国民と国境から自由になろうとする。

 

変動相場制が「変動人口制」を生む

 

一番最後に、これが一番大問題なのですが、変動相場制がついに変動人口制を生み出すに至ります。とにかく金融のグローバル化と企業の多国籍化は完了したから、次には生産の三要素のうちの人間の要素を徹底的に資本のコントロール下に置きたい。世界の人口を流民化、流動化させ、各国の人口をメガバンクと多国籍企業の都合のいい数に絶えず調整しようとする。これを私は「変動人口制」と呼んでいます。今世界では難民移民の問題が最大の政治の争点になっています。英国のEU離脱やアメリカのトランプ路線もそのきっかけになったのは移民でした。マスコミは移民とか難民とか言っていますが、これは変動人口制という問題なんです。とにかく国境も文化も無視して各国の人口の数をGDPの拡大に一番都合がいい形に調整しようとしているのです。

そのいい例がメルケルがトルコの難民キャンプからシリア難民をドイツに呼び込んだことです。以前にはメルケルは「このままではドイツはモスクだらけのイスラム国家になってしまう」と言っていました。「多文化主義は失敗した」と言ってたんです。ところが一転してシリア難民を呼び込んだ。この180度の転換の原因はおそらくドイツの銀行の危機です。ドイツが大恐慌の震源地になりそうだとかなり言われています。ドイツ経済は中韓両国並の輸出立国で実は脆弱なところがある。この脆弱さをユーロを梃にしたを金融マネーゲームで補ってきた面があります。ところがリーマンショック以来ドイツの銀行が抱えている金融派生商品やギリシャその他の国債がまとめて不良債権化した。金融で水膨れした経済が危ない。ドイツがこければEU自体もこける。そこで急遽難民移民で百万人くらい人口を増やせば、一時的にある程度消費が増えて、GDPが拡大する。それでGDPの予測数値を投資家に見せる。ドイツの銀行は危ないけれどまだ倒産しませんよ。ドイツはやっていけますよと投資家を説得する。このようなGDPの見かけのうえの数値稼ぎのためにシリア難民を呼び込んだ。おそらくこれがメルケルの豹変の真相です。

 

GDPのために利用される浮遊人口

 

シリアの内戦から逃れた人たちは隣国のレバノンやトルコの難民キャンプにいく。この段階では彼らは難民です。だがそこからメルケルの呼びかけに応じてヨーロッパに移動した人たちは流民というか、浮遊人口と呼ぶべき存在です。フローティング・ポピレーション。グローバリゼーションはここまできた。変動人口制で浮遊人口をあちこちに絶えず移動させてGDPの数字を一時的に改善する。それで投資家や金融業界を納得させる。まだうちのGDPは伸びますよと言って納得させる。移民を入れるのは財界が低賃金で働く奴隷労働者が欲しいからだという人がいます。しかし移民を労働力にするためには言葉や技術の習得とかに何年もかかるでしょう?今のグローバルな金融危機の中で各国のエリートにはそんな悠長なことを考えている余裕はありません。とにかく浮遊人口で自国の人口を増やして消費を拡大しGDPの数値を瞬間風速でいいから上げられればいい。当座の消費が増えればいい。そういうことです。GDPの数字は金融界が物事を考える際の唯一の尺度ですから。

 

右翼ではない反移民運動

 

ですからこういう政策に反対しているヨーロッパの反移民運動は人種主義の差別と偏見に基づく右翼的な運動なんかじゃないですよ。落ち着いた生活がしたい、安定し安心できる生活をしたいという庶民のごく普通の気持ちを代弁しているだけなのです。だからそういう意味で、英国のEU離脱とか、アメリカのトランプ当選は当然の民意の反映だと思っています。右翼の勝利などではありません。こうして変動相場制は、為替相場だけじゃなくてありとあらゆるものが絶えず目まぐるしく変動する世界を作りだしてしまった。目を覚ましてみたらアパートの隣室で外国人が騒いでいるとか、そういう社会が作りだされた。

さらに今の社会で餓死する人はめったにいないとしても、雇用が不安定になった。だから昔のプロレタリアートではなくて今はプレカリアート、不安定労働者という言葉が広まっていますね。結局今の社会の一番の問題は、社会の安定したパターンが崩れてきて将来を見通すことが困難になっていることでしょう。すべてが絶えずくるくる変わっていき明日は何が起きるか分からない。通常の人間の神経では耐えられないような社会が生まれてきた。これが現代社会の根本問題です。

 

経済の金融化の帰結~グローバリゼーション

 

ここまで1971年のニクソン声明以来の世界経済の金融化、グローバル化を説明してきました。そこでこの経済の金融化がもたらした三つの帰結をまとめてみます。

まず第一がグローバリゼーションですね。資本の国際移動の自由から始まり国際金融資本によって国の主権がどんどん形骸化していく。富がグローバル化の中でメガバンクとスーパーリッチに集中する。1%のメガリッチが後の99%の国民より多くの金融資産を持っている、富を持っているという状態が生まれます。銀行の課題は富を集中させてそれを投資することです。しかし現代の工業経済は以前から「成長の限界」という隘路にぶつかっています。だから銀行による富の集中だけが進行し、それが途方もない規模になっているのです。

 

経済の金融化の帰結~銀行負債という負の成長

 

第二に、銀行への負債が増えるだけの負の成長です。レーガンの時代以来、先進国は銀行からの借金で成長と繁栄の見かけを維持してきました。これは国債などで銀行への利払いが増える一方の負の成長です。そして今日の繁栄のために未来を質に入れている経済であり、その結果先進諸国では世代間格差が深刻化し、若い世代にツケが回っています。ローマクラブが「成長の限界」というレポートを出したのは1972年ですが、その当時から経済成長の限界は始まっていました。そのもっとも重要な指標になっているのは石油生産の逓減です。

有望な新油田も見つからないし、既存の油田は次第に枯渇していく。だから成長の限界は物理的必然というしかありません。しかし銀行業界だけはこの事実を絶対に認めることができません。経済が成長拡大するから企業、国家、家計は利子なんて余計なものを銀行に払う余裕があるわけで、低成長、ゼロ成長になれば利子を払えなくなる。成長が止まれば銀行商売の基盤がなくなる。だから成長の限界論など無視してあやしげな金融商品などを開発して、むしろ営業を強化する。そういう形で非生産的な銀行への負債が増えるだけの負の成長になる。これが80年代以降の特徴で、90年代のバブル破裂以後の日本なんかひどいものですね。企業も家計も銀行への借金で押しつぶされ、それがブレーキになって経済が動かない。こういう事態を負債デフレといいます。かつての1930年代の大恐慌の原因もこの負債デフレでした。今の世界経済の危機の原因もやはり負債デフレとして説明できます。

 

パンクした車のアクセルをふむような量的緩和

 

ただし今はお金の流れが滞留しているだけではなくて30年代大恐慌当時にはなかった富の異常な偏在、一極集中が起きています。スーパーリッチやメガバンクへ富の一極集中が起きている。これほど経済がひずんだことは世界史的にも前例がありません。この富の集中の原因はやはり、ニクソン声明で通貨が金の裏付けを失いペーパーマネーになったことでしょう。これで銀行は無からいくらでも実体のないお金を創造し、それを転がすカジノ商売に徹することができるようになった。しかしカジノだけでは経済は動かない。長期的には実体経済が成長してくれないと銀行も自滅します。しかし負債デフレでブレーキがかかって経済が止まっているのに銀行が経済を何とか動かそうとするのからおかしなことが起きる。それが皆さんも聞いたことがあるはずの量的緩和やマイナス金利なんです。量的緩和というのは、銀行が持っている債権とか資産を日銀がどんどん買い上げる。そのために日銀は新たに紙幣を大増刷してお金を無から作りだし、銀行はそれを受け取る。それをまた自分が日銀にもっている預金する。こういう紙幣の大増刷を量的緩和といっている。しかし銀行にいくら金をつぎ込んだって、このデフレで借り手はない。むしろ企業はみんな借金を返すのに必死になっている。これはパンクとガス欠で動かない車の運転席で懸命にアクセルを踏んでいるような馬鹿げた行為です。それでも増刷でお金の価値が目減りし減価するならば、企業、国家がかかえている負債が多少は軽くなるでしょう。しかし実体経済が失速しているのに紙幣を増刷するだけでデフレがインフレに逆転などということはありえません。結局量的緩和では、各銀行の日銀の口座の預金がやたらに増えただけでした。

 

マイナス金利から消費強制の減価貨幣へ

 

それでも悪あがきして日本やEUの銀行は今度はマイナス金利という窮余の策に手を出した。各銀行は日銀がつぎ込んできたお金を日銀にあるその預金口座に入れる。これには日銀が利子を払う。これを日銀に預けると逆に銀行が利子を取られるようにする。預けると損をするというのがマイナス金利です。こういうことをやる思惑はね、預金をして損をするくらいならリスキーな事業にも渋々貸し出しをするだろうという思惑です。だがこんなことまでやってもこの不景気の中でお金を借りようという人はなかなかいませんよ。だからマイナス金利をやってもお金の滞留は直らない。しかもマイナス金利をやればさらにお金の信用は低くなる。こんなことを続けていれば、お金はどんどん紙くずに近くなってくる。

銀行は成長の物理的限界にぶつかっているのだから、どうしようもない。量的緩和もマイナス金利も効果はなく経済の混乱と停滞を深めただけでした。そこで世界の金融エリートが今考えている奥の手は、経済全体をマイナス金利にすることです。今のデフレの中で庶民は将来が不安なので財布の紐を締め貯金を貯めこもうとする。だから銀行に預けたお金が時間と共にどんどん目減りするようにする。減価貨幣ということです。そうなると預金がさらに減る前にお金を使わざるをえなくなる。庶民に消費を強制できる。それで景気が回復する、というよりデフレで死にそうな銀行が生き延びることができる。しかしこんなことをやったら庶民は直ちに銀行から預金を下ろしてタンス預金にしてしまうでしょう。預けると損をする預金などやる人はいません。そうでなくても今どきの銀行は取り付け騒ぎを怖れています。リーマンショック以来、庶民の中でも銀行が国家の影の主権者であり諸悪の根源であること理解している人が増えています。またEUの一部の国では預金封鎖に似た事態も発生しています。大規模な取り付け騒ぎはありえないことではありません。

それは困るというので、EUではお金はすべてディジタルな電子マネーにして現金を廃止しようという動きが出てきています。現金を廃止してしまえば、もう取り付け騒ぎもタンス預金も不可能になる。EUには500ユーロという高額のお札、日本でいったら5万円かな、それをもう廃止しました。スウェーデンは現金の使用を制限するためにATMをどんどん撤去しています。スウェーデンは社会民主主義の優等生みたいに言われてきましたが、こういうあざといことをやっています。現金廃止の口実は脱税や犯罪組織による資金洗浄の予防ですが。本当の狙いは取り付け騒ぎの予防とできれば庶民の預金もマイナス金利にすることです。

 

経済の金融化の帰結~国家が銀行管理状態へ

 

第三に国家が銀行管理の状態になることです。先進諸国は70年代以降低成長になり国家の税収も伸びなくなった。しかし議会制民主主義国家では政治家は利権集団へのばらまきや福祉政策を止めるわけにはいかない。それで赤字国債を発行して借金で国を回していくことになった。本来国債の発行は税収不足を補うための臨時措置だったのですが、それがどの国でも恒常的なことになった。

国債を買うのは主に大手銀行です。低成長で儲からないので、国家への融資が銀行の主な仕事になってくる。国債が銀行の主要資産になる。銀行は、企業は倒産の恐れがあるけれど国家は倒産しないと考えたのです。国家は貸した金を必ず国民から税金という形で強制的に搾り取って返してくれる。国民全員を債務奴隷にしてでも負債を利子付で返済してくれる。皆さんの中にも銀行に一文も借金していない人がいるでしょうが、そういう人でも国民として銀行に借金して利払いを強いられています。それで増税されたり福祉を削られたりしている。国家が銀行管理の状態になっています。しかも国内のメガバンクだけじゃなくて国際金融資本全体がグルでやっている銀行管理です。この不景気の中で日本は消費税率を8%にあげました。消費税のアップはだいぶ前からIMF(国際通貨基金)が国際金融資本を代弁して日本に要請していたものです。あとOECDね。これが要請していた。増税は日本の財務省や日銀が考えたことではなくて国際金融資本の司令部からの指令なんです。だから日本の庶民生活の現状なんか無視して消費税を上げる。上げる目的は日本国民からさらに税金を搾り取って国債の価値を維持しよう銀行の経営を安定させようということです。 昔は不景気になると減税や財政出動というのが定石だった。それが今は、増税と緊縮財政が強行される。これは国家が銀行管理になり、国民ではなく銀行に奉仕しているからです。だからこの問題はね、安倍政権が悪いのどうのこうの言ってもどうしようもない。国際金融資本と日銀を潰さない限りこの状態は変わらない。政治家なんてどうでもいいんです。

 

ローカリゼーションの中心戦略は「社会信用論」

 

この調子でやっていくと銀行は破たんに破たんを重ね,いずれは経済の全面的崩壊が起きると思います。通貨が全面的に信用を失って経済がストップする、経済が心臓まひになる。そういう可能性がある。これは大変なことなんです。皆さんによく考えてもらいたい。1930年代の大恐慌は基本的に貧困と失業の問題でした。当時はまだアメリカだって農民なんかが多くてね、まだまだ素朴な社会だった。今は社会がはるかに高度に組織されている。皆さんのなかにも水道ガス電気なんかを銀行振り込みにしている人も多いと思います。スーパーだって在庫はもう秒単位でコンピューター管理して商品が流通している。こういう状況の中で通貨の流通がストップ状態になったら、これは経済危機というより文明の崩壊です。生活環境は大震災の津波直後の三陸海岸みたいになっちゃいます。水道ガス電気は止まるし、スーパー行っても棚が空だし、そういう社会になる。そういう銀行の破綻が原因の文明の崩壊は、何としても回避したいというなら、20世紀の始めにダグラスが提起した解決策を再評価する必要があるというのが私の長年の主張です。ダグラスが主張したのはお金の流れ方を根本的に変えること、通貨改革です。彼自身はこれをは社会信用論。ソーシャル・クレジットと呼びました。そして通貨改革は、ローカリゼーションの中心的な戦略になる。これまでお話ししたように、グローバリゼーションは銀行マネー経済の必然的な帰結です。銀行経済においては、お金はすでにお金があるところにさらに集中するのです。この流れを逆転させ、お金を分散させなければならない。BIは福祉ではなく、お金を個々人という究極の単位にまで分散させる方策です。政府通貨も、お金が滞りなく円滑に流れるようにして、経済全体に適切に分散させるための措置です。

先ほどお話しましたA<Bの問題。企業の生産過剰と庶民、消費者の所得不足という問題。これはBIで簡単に解決します。雇用によってしか所得が分配されないということが経済を極度に不安定にしているのです。所得は人間が生活するのに必要なものなのに、他方で雇用は企業の都合で決まるものですから。しかもいろいろ偶然な要素で所得が決定されている。それが問題なんです。そこでもう一度強調しますが、BIはお金の流れの淀み歪みを無くして円滑に循環させるための政策で、福祉政策じゃないですよ。そしてお金の流れが集中から分散に逆転すると、大企業、大都市が解体していきます。おそらくチェーン店といったものもなくなっていくでしょう。

 20世紀にはじめにダグラスがA<Bや銀行金融の問題を中心に経済を分析した背景には、この頃から企業や国家の機構の巨大化複雑化が始まったことがありました。それを逆転させる。おそらくBIが実現した社会では銀行による資本の集中がなくなるので、中小企業、地場産業、町工場、商店街の世界が復活することになるでしょう。

 

政府通貨発行による安定と均衡経済

 

それから政府が通貨発行権を銀行から取り戻し、経済統計に基づいて通貨を発行するといういわゆる政府通貨の問題です。国民経済計算という統計があるのですが、それで大体去年どれくらい日本経済が富を生産したかを把握できる。それによる所得分布も把握できる。それに基づいて社会が必要とする量の通貨を発行し流通させればいい。もしインフレになりそうであれば通貨の供給を減らす、デフレになりそうだったら増やすと、調整はいくらでもできます。これには銀行に利子を払う必要がない。利払いという無駄な支出、経済のブレーキになる支出がなくなる。更に利子を払うためにむりやり経済を成長させる必要もなくなる。つまり経済は成長ではなく安定と均衡及び生産と消費の円滑な循環を目標にすることができる。それを目標にすることができるということで、必然的にそうなるとは言ってませんよ。こういう脱成長ということは銀行経済には絶対に無理なんです。銀行は利子で儲けている以上、何が何でも経済が成長拡大してくれないと困る。その結果文明が崩壊しても知ったことではありません。しかもね、本来通貨というのは、私企業が勝手に自分の儲けをそろばんで弾いて発行しちゃいけないんですよ。通貨は、人間の生死にかかわる問題なんですから。

 

政府通貨発行による無税国家の実現

 

そして政府が国家維持のために税金を徴収する必要もなくなる。国家が銀行に通貨発行権を譲渡してしまったから国家維持のために別途税金を取る必要が生じているんです。政府が自ら通貨発行すれば銀行から国債を証文に借金する必要もないし国民から税金を取る必要もない。つまり基本的な教育、医療、福祉インフラなどは、政府がそれに必要な分だけ通貨を発行すればいいのです。統計に基づいて上限を設けて発行すればインフレにはならない。税金というのは本来いらないものなんです。なぜ日本人はみんな税金を払うのを当然だと思っているのでしょうか。江戸時代の年貢じゃないんですから。

悪い例かもしれないけど、ソ連には税金がなかったのです。ソ連においては労働は賦役みたいなもので、国民は労働で国家に貢献しているんだから別途に税金なんてとる必要がないとしていた。その代り働かないで家で引きこもりなんてやっていると警察に捕まりましたが。だから私は決してソ連のことは褒めていません。しかしソ連は、税金なしでも国家が回った例なんですよ。だからソ連みたいな一党独裁じゃなくて真に民主的な形で政府通貨を発行すればね。税金は基本的にいらなくなるんです。

もっとも例外的に臨時の徴税はあるかもしれません。例えば大阪で市特有のプロジェクトをなんかやりたい、そして市民はそれに賛成した場合です。そういう場合には目的が限定された市民税みたいなものを徴収する。これは一種のカンパですね。

もう一つは、資本転がし金転がしと土地転がしで懐にはいった不労所得。これには徹底的に課税する必要があります。田舎の田んぼだった物件が近くに鉄道の駅ができたので地価が100倍に上がった場合です。金転がし、資本転がし、投機で儲けたりした不労所得に対しても課税する必要がある。これは道徳的な理由で課税するんじゃないんです。そうした不労所得で儲けた金を蔓延らせておくと経済が歪んでくる。だから経済秩序を健全なものにしておくためには、金転がしと土地転がしで得た不労所得に対してだけは徹底的に課税する必要があります。そうすれば、お金の流れに淀みも歪みもなく、社会の隅々にまで行き渡るということです。

 

経済的「人権」保障を

 

現代社会では人権人権という言葉をよく聞くんですが、これは単に国家が市民に保障すべき法的な権利とみなされています。しかしですよ。人間の最も根本的な権利とはお金への権利です。だって文明社会ではお金がなければ生活できないわけですから。今の社会は。原始社会じゃない。だから最小限のお金への権利。所得を保証される権利、これこそが根本的な人権です。それがあってこそ社会に参加できるわけでしょう。人権はあまりにも法的に考えられすぎている。そして経済的人権保障のためにはやはり富と権力の公正な分配が必要だということです。そういう意味で、今どきの人権論には私は大変批判的です。経済的な問題を無視した抽象的な法律論が多すぎる。

 

大都市から地方にお金の流れを逆転させる

 

そういう形で政府通貨とBIによって銀行経済は終わる。経済的デモクラシーが始まる。金融化とグローバリゼーションは終わりローカリゼーションが始まる。そういう形で大都市が衰退し、解体し、国民経済、地域経済が復活する。もちろんこれは貿易による他国の富の略奪を必要としない内需中心の経済でもある。国民経済復活は即ち国家内の各地の地域経済の復活につながります。今の日本の地域に必要なのは企業の誘致や観光客の呼び込みではなく、所得保証による有効需要の創出です。たとえば島根県は日本一高齢化していて過疎でも苦しんでいる県です。でも島根県が何とか低空飛行でやっていけるのは、高齢者への年金がBIの代わりになっているからでしょう。夕張市がまだ息をしているのも高齢者の年金がBIになっているからでしょう。ということは、積極的にBIを実施すれば地方経済は一気に復活すると考えていい。逆にいえば、通貨改革で国内の資金の流れを逆転させなければ、地方は経済的な貧血や栄養失調で死んでいくでしょう。

BIは一国の毛細血管の隅々にまでマネーが行き渡ることを可能にします。そうすればほっといたって地域経済は復活する。だからこのお金の流れの問題は、地方自治体関係者にじっくり考えてもらいたい。結局国家はお金の流れとして組織されているということが分かっていれば、この話も分かるはずです。ところが分かっていない。相変わらずお金とは中央官庁にお願いして回してもらうものだと思っている。奴隷じゃないですかこれ。それで一生懸命ゆるキャラで宣伝とか中国人観光客を呼び込むとか、そんなことをやっている。ど田舎に空港を作ったりね。本当に地方自治体が考えていることは明治時代から変わっていません。政府通貨とBIで中央、大都市から地方にお金の流れを逆転させることができるのです。そして人の流れはお金の流れに従います。資本が地方に分散され、都会から地方に移住しても基礎所得の保障があるならば、深刻化している地方の人口の減少という問題も解決に向かうでしょう。

 

BIで社畜脱却を

 

さっき言ったようにそういう形で大企業が衰退し、町工場と商店街の世界が復活してくる。そのうえBIが支給されると、おそらく社畜サラリーマンをやる人が減るだろうとと思います。自営業を始める人が増えるでしょう。一生涯月10万でも保証されればそれに基づいて人生設計ができる。そうなると社畜サラリーマンなどをやっているより自営業をやるという人が増え、仲間を集めて中小企業を立ち上げるとか起業をやる人も増えるとでしょう。だからBIにはサラリーマン撲滅の効果があると思っております。BIが支給されるんだったら物価の安い地方にいこうということで、大都市から地方に移住する人も増える。特に地方で農業をやろうという人が一気に増えるでしょう。今だってそう考えている人が多いんですから。ただ地方に行ったら生活できるか分からないから動けないないわけで。しかし月10万円程度の所得が保障されるんだったら、当座は農民修業をやって10年もすれば農民として自立できるでしょう。だったら進学ローンでえらい借金を抱えて大学を出たのにフリーターになんて人生を送る必要はなくなる。

 

種子島鉄砲の重要な意味

 

  日本でも世界でも1970年代以来のグローバリゼーションの過程は、ローカリゼーションの過程に逆転しようとしています。この転換のきっかけは、リーマンショック以来の銀行経済の最終的破綻です。そして通貨改革でお金の流れを公的民主的にコントロールするようにすれば、国民経済、ローカルな地域経済が復活してきます。デモクラシーはこれまでもっぱら政治体制の在り方とされてきました。しかしデモクラシーは何よりも経済のデモクラシー、銀行に通貨発行権を横領させない経済体制のことでなければならない。しかもね、日本という国は歴史的に地方の底力によって支えられ発展してきた国なんですよ。

皆さんも種子島の鉄砲伝来の話は知っていると思います。16世紀の半ばに嵐で遭難した中国のジャンクが種子島に流れ着いた。それにポルトガル人の商人が二人乗っていて鉄砲を持っていた。それを種子島の領主が大金はたいて買い込んで、お抱えの鍛冶職人の金兵衛にその複製を作らせた。これがきっかけで戦国時代の日本に鉄砲が一挙に広まった。この話は皆さんもご存知でしょうが、ただ考えてください。こういっちゃ悪いけど種子島は今もへき地です。辺境の離島です。そこにちゃんと鍛冶屋がいて、それが見様見真似であっという間にヨーロッパの鉄砲の複製を作ってしまうほどの技術を持っていた。これすごいことですよ、考えてみると。これが日本という国のすごさなんです。どこの国でもね、都は栄えていても一歩都を外れたら何もないのが普通です。種子島のような離れ小島にも都に劣らない文化文明技術学問があったという、これが日本の底力です。じゃ何で種子島にそれほどの鍛冶屋がいてそれほどの技術や知識があったのか。種子島も戦国時代でやっぱり領国だったわけです。種子島時堯って言ったかな。若干16歳の領主がいて、これが大変知的にシャープな人で、鉄砲の価値をすぐに見抜いた。そこで当時の種子島にしてみれば大枚をはたいてポルトガル人から鉄砲を買った。しかもそれを撃って遊んでいたわけじゃなくて、すぐに鍛冶屋に複製を作らせた。領主である以上は一国一城の主として職人だの商人だのワンセットの体制が必要なんです。だからちゃんと腕のいい職人がいた。ただし僻地といいましたが、当時の種子島は東シナ海を舞台にした国際貿易の拠点であったし、昔から砂鉄が取れる所でね、製鉄が盛んだった。そういう事情もありましたけれど、やっぱりこの話はすごい。種子島から50年後には当時日本最大の工業都市だった泉州堺が鉄砲の産地になって、日本の鉄砲生産量はヨーロッパ全体をしのぐに至りました。何でこういうことが可能にだったのかというと、戦国時代で種子島もそれなりに領国だったことが大きいのではないか。戦国時代というと皆さんはNHKの大河ドラマなんかの影響でチャンバラばっかりやった時代と思うかもしれませんが、戦国時代はそういう文化文明学問技術が日本の国土の隅々にまで広がっていった時代なんです。だから各地に群雄割拠となり、争いが起きたわけです。このあたりが日本は他の多くの国とは違うのです。国の隅々にまで文化技術学問が行き渡った。更に江戸時代になると天下泰平で争いがなくなったので、更に各地方の独自の文化と経済の発展があった。近代日本はこの江戸時代の豊かな遺産なしにはありえませんでした。

 まだまだ多くの人が日本は明治維新で中央集権国家になって、そのおかげで近代化したと思っています。これは違います。近代化を可能にしたのはそれまでの地方の蓄積です。地方の底力です。例えばこの大阪にしたって1960年代まで経済指標は全て東京を上回っていました。そういう意味では、戦前の日本の順調な近代化を可能にしたのは地方経済の強さですよ。地方には人材も富もあった。東京は何をやってきたかというと地方の富と人材を吸い上げてきただけです。吸血鬼みたいなものです。東京はエリート官僚がいて、マスコミがあって、大学があるというだけのスカスカの都市です。ああいう都市は潰さなきゃいけません。

 

エネルギーと食糧の自給率を高める

 

とにかく今の日本は国土上の人口分布を均等化させていく必要があります。これにはもうBIが一番効き目がある。どんな地方、へき地、辺境の離島にまで文化文明技術学問が広まって蓄積があったことが日本のすごさなので、その点では今の東京の一極集中は日本の歴史から見るとまさに亡国の現象です。この流れを逆転させて、かつての種子島の鉄砲伝来のような。地方に中央に引けを取らない文化経済技術学問がある日本を再建しなければいけない。ついでに言いますが、最近中国の脅威がどうのこうのと国防論議が盛んですけれども、国防の基本はエネルギーと食糧の自給率の高さです。本当に国防を考えるなら、とにかくエネルギーと食糧の自給率を高めることです。これもまた政府通貨やBIによって政策として可能になります。戦前の日本は食糧は、もちろん、エネルギーもかなり自給していた。70%くらいは自給していた。どうしていたかというと林業をうまく使ったんですね。暖房もこたつだし、木炭をうまく使っていた。だから戦前では林業は主要産業だった。そういうことを考えなければいけない。石油をあてにしないで林業を復活させる。バスなんてみんな木炭バスにすればいいんですよ。木炭バスというのは木炭燃焼の時の水素が出る。それを利用しているからあれは水素エンジンです。原始的なものじゃない。理論的に言うと石油エンジンよりも木炭エンジンの方が高級なんです。

 

ケインズのバンコール通貨構想

 

先に申し上げたように20世紀は貿易の世紀でした。英国のEU離脱、アメリカのトランプ当選でそれが終わり、しかも欧米では移民問題が社会を混乱させ政治の焦点になってきている。移民問題といわれているのは実際には、金融資本が主導したグローバリゼーションが生み出した浮遊人口、変動人口制の問題です。だから欧米で起きている反移民の動きは、排外的人種主義による差別と偏見といった問題ではない。浮遊人口という異常な現象が問題なのです。なぜ国際的浮遊人口などという異常な現象が生じてきたのか。その原因を遡ると、1944年のブレトンウッズの国際会議に行き着きます。この会議で米英を中心に連合国は、戦後にどんな国際的通貨貿易体制を構築するか協議しました。そこで経済的軍事的覇権国になったアメリカが、英国のケインズが提出した国際通貨バンコールで決済される貿易体制という案を叩き潰したことが、現代世界の混迷の発端なのです。

戦後の通貨貿易体制を考えてみますとね、ドル基軸ですから、貿易でドルを稼いでドルを持っている、そういうドル保有国だけが世界貿易に参加できる。だから戦後のドル決済貿易は特権的な会員制クラブみたいなものです。日本はこの特権をひときわ享受した国です。だが南の貧しい後進国にはドルを稼げる可能性がない。これで世界貿易の会員制クラブから排除される。しかも足元をみられて徹底的に食い物にされたりする。私は、健全な国民経済のためには通貨の問題が決定的であることを強調してきました。世界貿易についても同じことが言えます。貿易においても公正な通貨ということが決定的に重要なのです。

ケインズはブレトンウッズでドル覇権体制を構築しようとするアメリカに反論し、全く別の方式を提案しました。その方式ではまず貿易決済用の通貨と国内通貨を分けます。貿易の決済にはバンコールという名前の通貨を計算単位として使う。それをできるだけ公正公平に運用するようにする。それで貿易でぼろ儲けする国と、大損する国、そういう国家間格差が出ないようにすることを提案したんです。これをアメリカが潰した。この提案を潰された心労からケインズは若死にしたと言われています。バンコールのことを詳しく説明する時間はありませんので、関心がある方は家に帰ってから「バンコール」でネットを検索してみてください。色々解説されています。今例えばザイールとラオスが相互に貿易してそれでお互いに経済発展しようとするとします。しかしザイールもラオスも貧しくて通貨の価値があまり信用できない。だからやっぱり世界一信用があるドルで仲介しないと貿易は難しい。ドルは一番安定して価値があるから。でもケインズのバンコールを使うと各国の合意で国際的に価値が保証されている通貨だからドルを持っていない国でも世界貿易に参加できる。商品を売ったけれども相手の国がドル不足で対価を払ってもらえずに倒産するとかそういう危険がなくなる。バンコールはドル以上に安定した信用できる通貨ですから。だからケインズの提案が通っていれば、なにも先進国市場への輸出に必死にならなくたって、南の国も様々な自主的な発展が可能だったはずです。

 

自給国民経済への転換

 

ガンジーは先進国型の工業化ではなく、紡ぎ車でインドの農村を発展させようとしました。村の経済を発展させようとした。しかしドル基軸の世界貿易体制の支配下では、ガンジーの理想は見果てぬ夢に終わってしまいました。インドだって必死になって工業製品を作らないと発展できないことになっている。しかしバンコールの体制があったらインド的発展ということも可能だったでしょう。もちろん中国だってそうです。今の中国は先進国の下請け工場になるために国土を徹底的に破壊しています。

20世紀という貿易の世紀は終わりました。しかし今更どの国も鎖国して貿易を止めるわけにはいかない。そういう意味ではバンコールの再評価が必要なのです。全ての国に公平に貿易の機会を保障し、共存共栄の貿易をやる。肝心なことは貿易を古典的な貿易に戻すことです。つまり自由貿易と称して富の分配の歪から生じた体制の危機を外国にツケとして回すんじゃなくて、国民経済を二次的に補完する貿易をやる。基本的に自給の国民経済があって、どうしても足りないものを貿易で補う。貿易が二次的な役割しか持たなかった古典的な貿易に戻す。それが大事なんです。しかしバンコールのような体制は簡単には実現しないかもしれない。その時日本としてどうしたらいいか。とにかく変動相場制の下で為替相場に振り回される貿易はやるべきではありません。そういう貿易は国民経済を攪乱させます。国民経済と貿易との間には仕切りがあるべきです。それならばナチスドイツの例に倣ってバーター貿易をやるという手もあります。日本の商品には世界的に需要がありますからね。それならバーター貿易をやればいい。とにかく貿易を純粋なギブアンドテイクの、双方に公平で恩恵があるものにしていく。現状の貿易はそんなものじゃないということですね。

 

脱アメリカニズムが日本の課題

 

あと二つだけ申し上げます。トランプの当選は覇権国アメリカ、ドルと軍事力で世界を支配したアメリカが終わろうとしている徴でしょう。19世紀には大英帝国が強大な覇権国であり経済大国だった。だが英国はその価値観を世界に押し付けることはなかった。むしろ世界と自国を区別して「光栄ある孤立」を誇っていました。しかしアメリカは違います。アメリカはアメリカ的価値、普遍性を信じていて、それを宣教師的に世界に広めようとした。だから単に政治的軍事的経済的な覇権で世界を統治しようとしただけではなく、いわゆるソフトパワーでアメリカ的な価値観や文化を世界に広げようとしてきた。そしてマイカーと電化製品に代表されるアメリカ的生生活様式も広めた。つまりアメリカは、世界をアメリカの色に染めあげる傾向があった国で、そのあたりが大英帝国とは違います。ですからアメリカの世紀が終わるということは、我々の文化価値観、生活様式においても脱アメリカが進むということでしょう。さまざまな面でアメリカニズムからの脱却することが今後の日本の課題になるはずです。

たとえばマイカー社会は広大な国土と豊富な原油というアメリカ独自の国情から生まれたもので、日本のような国でマイカー社会は正しい選択なのかどうか、議論になっていい。そういう意味ではわれわれは日本独自の風土や伝統を改めて再評価することが必要です。もちろん国粋主義ということではなく、日本人はどのように伝統に従って生きてきたのか、改めて考え直す必要がある。こうして日本人は日本の創造的な伝統に立ち返る。そういう時代が始まろうとしていると思います。

特に江戸時代の再評価が必要でしょうね。江戸時代に日本人はアメリカのエネルギーを浪費する消費社会とは正反対の社会、しかも高度に文明化されたを築き上げました。昨今は江戸時代は自治と分権の多様性に富んだ社会だったと再認識されてきています。今後も江戸時代の再評価が進むでしょう。江戸時代がすべてよかった、ユートピアだったなどと言いたいわけではありません。しかし明治維新と文明開化の影響で江戸時代を安直に否定的に評価してきたのは間違いだったと考える人がますます増えています。

 

外圧で変化する日本の国家体制

 

そしてトランプのアメリカはウッドロウ・ウイルソン大統領以来の国際主義、覇権主義、自由貿易主義から降りる。19世紀のモンロー主義に回帰する。これで日本を取り巻く国際社会の文脈が大きく変わります。この変化に対応して日本も変わっていかざるをえない。こういう外圧を受けるたびに、日本はそれを新たな発展の好機にしてきました。日本はそういう国なのです。日本は外圧でしか変わらない、革命が内部から起きないダメな国だという議論がかってありました。これは間違った見解だと思います。日本の支配層は伝統的に社会の安定ということを非常に重視するんですよ。そして体制が安定するためにはコンセンサス、社会的合意が必要です。日本の支配層はそういう社会的合意を確保するために絶えず体制の補正や修正をやり、いろいろ非公式な安全弁をつけておくことも多い。それで江戸時代は265年も続いた。戦後日本でも、自民党は財界べったりの政党ではあるけれど、一面社会民主主義的な政策もやってきた。だから長期政権を維持できた。今は露骨に経団連の御用政党になっていますが。とにかく支配層が合意を重視するので、日本は体制の激変なしに社会が徐々に進化していく。これが日本の独特の体質です。そして私としては、これはむしろ日本人の良識と賢明さの表れだと思っています。実際世界には、革命や内戦で何百万人も死んで結果として深い傷跡が残っただけという国がたくさんあります。日本に革命や大規模な内戦がなかったことはむしろ称賛すべきことです。内戦があったといっても、天下分け目の戦の関ケ原でもたった一日で終わってます。薩長なんてとんでもない奴らだったけれど、徳川幕府は引き際よく消えていき戊辰戦争を長引かせなかった。そういうことで日本は凄惨な内戦などしたことがない。

ただそれだけに、外圧があるたびに日本の国家体制は一変することになった。国際情勢は国内のようにコントロールできませんから。だから古代には大陸に隋、唐の帝国が成立した際にはその圧力の下で大化の改新をやって国家体制を整えた。それから17世紀には全世界にヨーロッパが海洋勢力として進出して植民地主義の脅威があった。それに対応するために外交的に鎖国をした。その後19世紀には黒船の圧力で開国し、欧米に倣って近代化した。さらに第二次世界大戦で敗北したので、アメリカの覇権体制の下で生き延びるためにアメリカナイズした。このように日本は大きな外圧を受ける度に国家体制を根本から変えてきました。これが日本の歴史的な特徴なんです。

 

復活しない国際主義・覇権主義・自由貿易主義

 

  世界はトランプ大統領が何をするかで騒いでいますが、彼は大したことはできないでしょう。アメリカ経済は負債の山に押しつぶされていて、量的緩和といった連銀のトリックが問題をさらに悪化させた。この現状にはスーパーマンでも対処できません。それにトランプはアメリカが絶頂期にあった1950年代、60年代への郷愁があるだけです。しかし彼がどうなろうと、アメリカの国際主義、覇権主義、自由貿易主義はもう復活することはないでしょう。それに感づいているから世界のエリート、グローバリストはパニックになっている。戦後日本の国家体制にとっては、この三つは公理みたいなものでした。それがなくなる。ですから2017年以降、日本は否応なく国家体制の転換と変革の時期に入らざるをえないでしょう。そしてアメリカの二大政党制の崩壊に見られるように、どこの国でも政党政治の時代は終わっています。これからは、地方自治体が体制転換の拠点になると私は見ています。ローカリゼーションの時代が始まっているからです。だからこそ皆さんには、ベーシックインカムと信用の社会化は、たんなる所得保障ということではなく、地方の再生、内需中心の国民経済復活のための戦略であることを訴えたいと思っています。

ちょうど時間になりました。ご清聴ありがとうございます。

朝日新聞中部版関曠野さん原稿

この関さんの朝日新聞掲載の文章は、2009年3月8日「生きるための経済」の講演録を要約した内容となっています。最初にこちらの文章をお読みいただくことをお勧めいたします。

景気の底が見えない。日本でも海外でも目下経済は無情な悪循環の中にある。景気の悪化で企業の倒産や失業が増えれば人々の所得の減少で消費は落ち込み、それがさらなる倒産や失業を生む。今の経済危機の根本原因が人々の所得不足にあることは明らかである。だが危機の中であえいでいる企業に雇用による所得の保証は期待できない。しかも現代は産業のオートメ化が極限にまで進行した時代であり、たとえ経済危機がなくても現代人の大半は潜在的に失業者なのだといえる。

だが庶民の所得が回復しなければ経済は動きださない。それならば雇用と所得を一定程度切り離したらどうか。かねてから一部の人々の間で議論されてきた基礎所得(ベーシック・インカム)保証の制度は今こそ世間の関心を集めていい。これは、子供を含むすべての国民に個人単位で月八~十万の基礎年金程度の所得を生涯にわたり一律無条件に支給する制度で、支給に際し生活保護のような資格審査はなく貧富の差も考慮されない。この制度はおそらく危機の根本的打開策になるだろうが、問題はその財源である。税収が大きく落ち込む中で所得税や消費税ではこの制度にかかる膨大な費用を賄うことはできない。それでは経済の特効薬に見える基礎所得保証はやはり絵にかいたモチなのだろうか。

いや、そうではない。従来基礎所得保証の議論は福祉国家論の延長線上でなされてきた。そして「国民配当」の名で最初に所得保証の必要を論じたのは、大恐慌当時に社会信用論(ソーシャル・クレジット)を提起しケインズにも大きな影響を与えた英国のクリフォード・ダグラスであることが忘れられてきた。このダグラスにおいては所得保証は通貨改革の必要と一体になっている。そして彼の視点に立つならば、国民配当実施のための「財源」という問題は存在しないのである。

機械制大工業の時代に入ると企業には巨額の設備投資や研究開発費が必要になり、企業の経営は銀行の融資に左右され、「利子つき負債」である銀行信用がますます経済全体を動かすようになってくる。そのうえ企業の生産費用の中では減価償却費などに反比例して勤労者の賃金給与に充てられる部分が小さくなっていく。そして問題は、この事態が商品の価格を決定していることである。需要と供給の均衡で価格が決まるという古典経済学の説はもう通用しない。価格には銀行への返済や減価償却などの費用が含まれているのに、勤労者が雇用で得た所得は生産費用のほんの一部をなすにすぎない。ゆえに彼らは消費者としては企業が生産したものに見合うだけの購買力をもたない。こうして市場経済の現状では人々は所得不足、企業は販売不振に苦しみ、これは最後には恐慌に行き着く。

この状況に対し社会信用論は、信用の社会化、国民配当、正当価格という解決策を提示する。危機の根本は、銀行が自らの金融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右していることにある。だから政府が自ら公共通貨を発行し、社会の潜在的な生産と消費の能力に即してそれを無利子か超低利子で融資すればよい。そして人々の慢性的な所得不足を解消するためには国民配当が必要である。ダグラスによれば、生産は個々人の労働能力ではなく共同体の文化的伝統の成果であり、ゆえにすべての国民にはそうした伝統の相続人として配当をもらう権利がある。だがこれだけでは価格のひずみの問題は片付かない。かりに消費の低迷で経済に30パーセントの需要ギャップが生じたとすれば、それに等しい割合で小売価格を一律に引き下げる必要がある。そしてこの割引した分は後で国家から小売部門に補償される。こうして価格は、それによって生産と消費が均衡する「正当」なものになる。

社会信用論においては通貨は商品ではなく分配の手段である。それは消費のための生産を円滑に促進する切符のような手段であり、所得保証はそうした通貨供給の一環なのである。そして今日的な視角からも社会信用論は重要である。まず第一にこの方式の下でなら人々が環境保護を重視し基本的な欲求を充たした後は余暇を楽しむ生き方を選んでも経済に混乱は生じないだろう。そして現在の経済危機は明らかに文明の転機なのだが、省エネ化によるエネルギー収支の多少の改善は転換と呼ぶに値しない。おそらく文明の転換のためには無数の人々が草の根レベルで試行錯誤を重ねて新しい生き方を模索することが必要だろう。基礎所得保証の最も重要な意義はそうした社会の実験を容易にすることにある筈だ。

(朝日新聞中部版2009年5月12日の夕刊・文化欄に掲載されたものを転載)

関曠野さん講演「生きるための経済」についての質問とお答え

下記は、2009年3月8日「生きるための経済」の講演録に関する質問とお答えですが、これは、当日のフロアの皆さんからの質問をベースにしてはいますが、全面的に関さんが質疑応答部分を書き直して手を加えたものです。

質問にお答えするにあたって ―― 関曠野

三月の私の講演ですが、これは1930年代の大恐慌より深刻と思われる現在の経済危機の中で忘れられた思想家クリフォード・ヒュー・ダグラスの思想を日本の公衆に紹介することを目的にしていました。ですから伝道者よろしくダグラスの思想を至高の真理とか完璧な理論として宣伝したつもりはありません。ドグマへの盲従とか理論崇拝はもう沢山です。ダグラスの思想や理論はあくまでも考えるヒントです。それにエンジニア出身だったダグラスの考え方はもともと実用主義的(プラグマティック)で、知的エリートがすべてをコントロールするといった知性主義的なものではありませんでした。

ただ紹介といっても講演で話したことの中で二つのことは私には譲れない主張です。それは

  1. 政府通貨を発行して、銀行マネー(利子付き負債)で動く経済から脱却する必要、
  2. その政府通貨で全国民に一律無条件に基礎所得(BI)を保証する必要

です。そしてこの二つは以前からさまざまな人たちがダグラスの思想とは無関係に提唱していて、むしろそんなに目新しくない議論なのです。先に自民党内で政府通貨発行の話が持ち上がりましたが、そのきっかけは国連の顧問もしている今のアメリカでは例外的に良識派の経済学者ジョセフ・スティーグリッツが日本政府に「政府通貨の発行でデフレ、財政危機脱却を」と助言したことでした。そして講演で話したように政府通貨発行の例は史上にいくらでもあり、その殆どが大成功でした。

政府が銀行に通貨発行権を与えてわざわざ利子と負債を抱え込んでいることの方がおかしいのです。またベーシック・インカム(BI)も1990年代以来急速に人口に膾炙した言葉になってきています。またアメリカのアラスカ州では不十分なものながら全州民を対象にBIが1976年から実施されています。ダグラスの思想を知らない人たちの間で彼と同じ思想がいわばテンデンバラバラな形で浮上してきている訳です。だからこの人たちの間では政府通貨発行とBIはダグラスにおけるように結びついていません。しかしBIを実現しようとすると財源の問題にぶつかる。政府通貨なしに基礎所得保証を実施できるとは考えられません。他方で、政府通貨の場合、問題は国民がそれを信認するかどうかです。信用できない政府が発行した信用できない通貨と思われたら通貨として流通しません。しかし自分の所得を保証してくれる通貨だったら誰でも喜んで受け取るでしょう。政府通貨の信認のためには、それでBIを保証することに勝る方策はありません。こうして政府通貨とBIは政策的には双子のようなものです。このことを洞察していたダグラスはやはり優れた経済思想家だと思います。

そういう訳で

  1. 政府通貨を発行して、それでBIを保証すべきこと、
  2. その場合、財源の問題は心配する必要がないこと

この二点を理解して頂けたなら私の講演の目的は達成されたと考えています。この政策をことさら社会信用論と銘打つかどうかは、どうでもいいことです。肝心なのはレッテルではなく中身です。

社会信用論には政府通貨、国民配当(BI)、正当価格という三つの基本的政策があります。私の見るところでは、この三つの政策としての比重は、政府通貨が六割、BIが三割、そして正当価格が一割です。というのも、政府通貨が実現すれば経済の基本的問題は解決されるうえBIの実施が容易になるからです。

だからBIの実現を求める人は、政府通貨発行に向けた活発なキャンペーンをやる必要があります。それに較べ正当価格は不可欠な政策とは考えません。しかし実行できるなら望ましい政策ではある。例えば今、デフレの中でスーパーの間で必死の値引き競争が展開されています。ところが消費者はこの先にさらに値引きがあると見込んで必要最小限の買い物だけして財布の紐を締めてします。だから値引き競争は一時的にスーパーの収益を支えても長期的にはデフレをさらに悪化させるし現にそうなっています。これが正当価格のように全小売業種での全商品に対する一律で同じ割合の期限付きの値引きだったら、消費者は割引期間中に欲しいものを買っておこうとするでしょう。デフレ状況では正当価格はきわめて有効なはずです。

社会信用論はかっての「資本主義か社会主義か」といった図式とは次元が異なるものなので、そこに誤解が生じる余地があります。ダグラスの思想には国家主義やソ連型計画経済の要素があるのではないかという質問がありましたが、これもやはり誤解だと思います。まず考えて頂きたいのは、社会信用論においては通貨の発行と管理は一種の公益事業であり、ゆえに公的な管理が必要になるということです。管理されるのはマネーの流れだけです。それ以外の経済生活には国は一切干渉しません。そして通貨は政権担当者の利害や思惑などに全く関係なく、生産と消費をできるだけ均衡させるという具体的で普遍的な目標に従って管理されます。例えば日銀も調査統計局が三ヶ月毎に日本経済に関するデータを収集し、その分析や予測に基づいて金融政策を立てています。だからといって日銀がソ連型計画経済をやっていると言う人はいないでしょう。社会信用論の場合は、日銀が銀行業界の利益のためにやっていることを国民全体の公共の利益のためにやるということです。喩えるなら、車の流れを捌くために警官が交差点で交通整理をやっているとします。これを国家権力の社会に対する介入や統制だと言う人はいるでしょうか。また自治体が上下水道を管理していることを強権の行使だと言う人はいるでしょうか。

また国家主義という誤解の一因は、私が国民経済計算に言及したせいで、経済状況のきわめて正確なデータを国家の専門家が入手して彼らの知識を駆使すれば富の生産と通貨の供給を完全に一致させることができるとダグラスが説いたかのように受け取られたことにあるのかも知れません。もちろん神ならぬ人間にそんな奇跡は起こせません。要点は、銀行マネーという障害がなくなれば生産と消費をできるだけ均衡させようと努力することが可能になるということです。

そして経済をマクロの視点で捉えようとすること自体が国家主義だと言うなら、これは話が別です。二十世紀初めには経済学は未だに(認識論的には)個人主義的なものでした。そしてダグラスは初めて経済をマクロの視点で捉え分析した人で、おそらく彼の影響でケインズがマクロ経済学を創始し、その結果今日ではGDPといった言葉は世の常識になっている訳です。マクロの視点に反感をもつ人は、国家主義というより経済を社会的現象とみなすこと自体に反対なのです。つまりそういう人は、小さく単純で住民はすべて自営業者であるような牧歌的な共同体を経済のモデルにしているのです。そういう共同体なら経済はミクロの視点だけで理解できます。ただマクロの視点に反対の人は、現代経済をそういう小さな牧歌的共同体をモデルにして正しく理解できることを証明する必要があります。「価格」は論じても「物価」は問題にしなくていいことを証明しなければなりません。

ところでBIに対する強い反対論として予想されるのは「そんなことをやると止めどないインフレになる」という論です。講演でも会場から「社会信用論では通貨は供給されるばかりで回収されないように見える(これはインフレになるのでは)」という質問がありました。この問題は検討しておく必要があります。

政府通貨は多くの実例があり、その大半が大成功を収めています。しかしBIは本格的に実施されたことがありません。だから政府通貨でBIを保証した場合「絶対にインフレは起きない」と事前に断言することはできません。ただ通貨の回収がないというのは多分私の説明不足による誤解だと思います。まず注意して頂きたいのは、ダグラスに従えば近代企業経済においては勤労者/消費者は恒常的な所得不足に苦しむことです。この見解が正しいなら、BIを庶民に支給することがインフレ効果をもつことはありえません。そして庶民の所得(賃金+BI)は商品の購入で小売部門に移り、融資された資金の返済の形で小売部門と企業を経由して国立銀行に戻ります。こうして国立銀行による融資およびBIの支給という形で生成したマネーは、消費と資金の返済によって消滅します。

このマネーの流通サイクルでインフレが生じるとしたら、それは需要ギャップの算定を誤り、必要以上に商品の価格を大きく割引き、その割引き分を小売部門に補償した場合でしょう。だから信頼できる国民経済計算の方式を確立することが課題になりますが、計算を誤った場合でもひどいインフレが生じるとは思えません。

それと通貨が回収されないという印象を与えたのは、私が国立銀行と企業の関係に話を限定し税金という問題をカッコに入れたせいかも知れません。税金はもっとも強力な通貨回収のメカニズムです。ただ私としては、徴税はできるかぎり国立銀行の利子収入に置き換えることが望ましいと考えています。ですから何かの事情で富の生産が落ち込み、だぶついた通貨がインフレ要因になったので通貨の回収が必要になった場合には、国立銀行の利子率と正当価格の割引率を引き上げればいいのではないか。政府通貨とBIによって暴走インフレが起きるなどということは考えられません。暴走インフレが起きるとすれば、それは何かの事情で自国通貨の価値が暴落して原油や食料の価格が暴騰した場合でしょう。これは世界の通貨貿易体制にも改革が必要ということで、BIとは別の問題です。

しかし愚かな人民が愚かな政府を選び、その政府が政府通貨を利権のバラマキに使い、選挙での人気取り政策でBIの支給額をやたらに上げたりすれば、ひどいインフレが発生する恐れがあります。これは経済制度自体ではなく、デモクラシーと政府の質というやはり別の問題です。それからBIとインフレということでは、先に言及したアラスカ州の例は研究する価値があるかも知れません。現在この州は州民に一人年約二十万円を支給しています。BIと言えるほどの額ではありませんが、小さな州としてはかなりの総額になります。このアラスカ・パーマネント・ファンドが州の経済にどんな影響を及ぼしたかは研究の余地がありそうです。そして私の結論を言うなら、BIを実施した場合、デフレの危険は根絶される一方、生産された富と通貨供給量の多少のズレによってごく緩やかなインフレが生じる可能性はあるということです。ごく緩やかなインフレはさほど有害なものとは思えません。

講演ではこの国の地方自治体の財政危機について触れる余裕がありませんでした。1930年代の恐慌の当時は先進国でも国家はまだ福祉国家、市民サービス国家ではなかったので、倒産や失業はどれほど深刻でも、国や自治体の破産は考えられませんでした。しかし今の恐慌は、負債デフレによる国や自治体の破産という前代未聞の事態を惹き起こそうとしています。そうなると世界はどこも夕張やカリフォルニアみたいになって、福祉や社会保障の切捨て、基本的な市民サービスの切り詰め、公共料金の急上昇によってまともな市民生活は不可能になります。

自治体財政の危機は、とりわけ日本において深刻です。この国の中央(官僚と政権与党)は1985年のいわゆる日米プラザ合意以降、輸出ドライブを抑制して内需を拡大せよというアメリカの意を受けて地方に地方債の起債によるバブル的公共事業をやらせた。そしてバブル崩壊後にはーおそらく不良債権で窮地に陥った大手銀行を間接的に救済するためにーまたまた地方に地方債による公共事業を強要した。その結果、前から産業の空洞化、人口の高齢化であえいでいた地方は、さらに借金の山に押し潰されることになりました。ただ地方のこうした疲弊は、好調な輸出が経済を名目的には成長させていたお蔭で、いわば粉飾決算により覆い隠されてきました。それが今度の危機で輸出も激減したためメッキが剥げ、以前からのどん底状態が露呈した訳です。

GDPの縮小の度合いでは、日本が受けた打撃は金融危機の震源地のアメリカよりひどい。これはトヨタやソニーの輸出が落ち込んだせいではありません。2007年の国連統計によると、ドイツ、中国、韓国では輸出がGDPに占める比率はいずれも40%台であるのに対して、日本ではその比率は17.6%にすぎません。日本は貿易立国というのは勘違いで、日本経済の輸出依存度はきわめて低いのです。だから今の日本経済の問題は、内需型経済なのに地方の疲弊が原因でその内需が壊滅していることです。国と自治体の財政危機は結局、政府通貨の発行によってしか解決されえないでしょう。そして内需拡大のためにはBIに勝る方策はありません。

最後に、社会信用論には公共通貨、BI、正当価格という三つの基本原則があるだけで、その応用となると国の歴史、国情、制度に即して多種多様であることを強調しておきたいと思います。例えば政府通貨にしても、融資の公共性を誰がどのように認定するのか。国会の多数決で決めていいのか。それとも自治体が融資案を国にあげ、それを国家の三権に新たに加わる機関である国家信用局が審査する方がいいのではなど、いろいろ考えられる訳です。しかしいずれにせよ、政府通貨なしにはBIの実現は不可能であることを再度強調しておきたいと思います。

以下、質問とお答え

公共通貨を発行してBIを給付すると、より浪費・消費経済を加速させてしまうのではないでしょうか?

【答】 生産の目的は消費です。それ以外に生産の目的はあるでしょうか。しかしこのことと近年の「消費ブーム社会」は別の事柄です。1970年代以来先進国の企業は市場の飽和による過剰生産に苦しんできました。そこでマスメディアや広告会社をフルに動員して過剰に生産された商品を民衆に押し付け消費させてきた。フランスのボードリア-ルが論じたような「消費が精神的労働であり、しかも重労働」であるような社会が生じた訳です。だから消費社会を生んだのは民衆の欲望ではなく、銀行マネーで動く経済においては絶えざる生産の拡大が企業には至上命令になるという現実です。しかし信用が社会化され生産を無理に拡大しなくても民衆の基礎所得が保証される社会においては、生産の拡大は至上命令ではなくなるでしょう。企業はもう銀行に利子付き負債を返す必要がなく、所得に余裕のある消費者を相手にある程度利潤を確保すればいいだけなのですから。しかしこれは、社会信用論が実施されれば自動的に低消費社会が誕生するということではありません。ポイントは、もう銀行マネーに生き方、働き方を強制されることがないので、民衆が経済のあり方を選ぶことができるということです。生産と消費が均衡するレベルを選ぶ。そして人間はもともと無限の消費の欲望などもっていないので、衣食住プラスアルファの基本的欲望が充足されれば後は余暇をたっぷり楽しめる経済を人々が選ぶ可能性は大きいのではないでしょうか。

トンガのような小国で貿易で外貨に依存しているような国ではBIは無理ではないか?

【答】 トンガのことはネットで調べてみましたが、人口10万のミニ国家なのに食料の大半を輸入し、先進国の援助、観光収入、海外への出稼ぎ者からの仕送りでその代金を相殺している現状のようですね。BIは先進国しか実現できないものではなく、僅かな所得の増加が大きな効果をもつ南の貧しい国でこそ有意義という議論もあるようです。ナミビアではキリスト教会が小さな村でBIを実験的に実施してみたところ、かなりの成果があったそうです。しかしトンガの場合、BI実施の前提になる国民経済、国内の経済循環というものが成立していないようです。とくに豊かでなくてもいいから、まず経済的にある程度自立することが必要でしょう。政府通貨の裏付けになるのは一国の富を生産する能力ですから。

労働と所得を切り離すと、働かない人間が増えるのではないでしょうか?

【答】 人間は「パンのみにて生きるにあらず」で社会的評価や人との交流を求めるものだと思うのです。BIがあればこれ幸いと家に籠もってダルマさんになってしまう人の方が珍しいのではないでしょうか。また私の考えでは、いつの時代でも人口中の本格的な怠け者の比率は変わらないのではないか。だから今の競争社会でも人にたかって食っている怠け者が一定数いる訳です(これはいわゆる「引きこもり」の人のことではありません)。「怠け者が増える」という説に関しては、かなりの額の年金をもらっている高齢者の生活実態を社会学的に調査してみたらどうでしょうか。家でゴロゴロして奥さんに粗大ゴミなどと言われている人もいますが、これは好きで怠けているのではないでしょう。それからビジネスではなく芸術や学問、ボランティア活動などに専念する人たちが増えることは環境保護になります。私が気になっているのは、むしろBIによって3K労働をやる人が減る可能性です。3K労働などなくなった方がいいかも知れませんが、中には社会の存続のためにどうしても誰かがやらざるをえないものがあります。これをどうするかは大問題です。

国民の側が、ある種の企業・産業を発展させたい場合、そのことをどのように国立銀行に反映するのでしょうか。

【答】 これは上記のコメントで触れましたように、どのような形で事業の公共性を認識し政府通貨による融資を決定するかという問題ですね。これは草の根市民集会による討論と決定からスイスのような人民発議権や国会での審議までさまざまな形と手順が考えられるでしょう。つまりこれは社会信用論というよりデモクラシーの望ましい有り方の問題だということです。

国立銀行から企業などに融資するシステムは、国による一元化された管理社会になる恐れはないか。また、「社会信用論」全体の仕組みが、国家管理を強めるのではないか?

【答】 これについては上記のコメントですでに答えたと思います。国立銀行は通貨を一種の公益事業として管理するだけです。管理の基準になるのは経済統計で特定の党派の利害やイデオロギーではありません。もし悪質な政府が国立銀行を私物化するとしたら、それは通貨ではなくデモクラシーの質の問題です。ついでに言えば、今の経済は銀行(日銀)によって一元的に管理されています。

BI論者のほとんどが貨幣を論じていないが、それは、なぜでしょう。

【答】 やはり欧米でもBIの研究者は福祉国家論からBIに関心をもった人が多いせいだと思います。それだけ最初にBIを提唱したダグラスが忘れられていたということでしょうね。

障害者福祉などの現物給付の制度などは、BIが導入されたときにどうなるのでしょうか。BIと現物給付などは両立するのでしょうか。

【答】 BIと福祉は論理的に違うものであることをメールマガジンに書きましたので、「ベーシック・インカムは福祉なのか」という拙文を読んで頂きたいと思います。

http://bijp.net/mailnews/article/84

国民配当という名称だが、なぜ「国民」なのか?

【答】 これはダグラスがそういう言葉を使っているというだけの話で、名称は社会配当でも市民配当でも構わないと思います。

BIの実行単位は、「国単位」か「地方自治体単位」なのかそれとも「世界単位」なのか?

【答】 社会信用論は、銀行資本が私物化している通貨システムを市民の公共の利益のためのシステムに作り変えるものです。そしてどの国でも銀行資本は銀行の利益の立場から国民経済に通貨を供給する中央銀行、つまり銀行のナショナルなカルテルに代表されており、銀行券もナショナルな通貨として発行されています。社会信用論はこの見かけだけの公共性を本当の公共性に変形させます。ですからBIもナショナルな政府通貨によって支給され、政府通貨の価値を裏付けるものは国の実体経済の実力ということになります。もし現に世界通貨を管理している世界中央銀行が存在していたら、BIも世界通貨で支給されるでしょうが、そんなものはありません(ちなみにドルの世界貿易の準備通貨としての地位が危うくなる中で、国際金融資本の内部には、この際、国際金融資本の出先というべきIMF,世界銀行、スイスのバーゼルのBIS(国際決済銀行)などを世界通貨を操る世界中央銀行に作り変えようとする動きがあるようです。各国の中央銀行の場合はまだナショナルな制度であるかのように装いますが、世界中央銀行ならば人民の世論に全く影響されない銀行資本のグローバルな独裁が実現してしまいます。こんな動きは絶対に許してはなりません)。

適正価格の仕組みですが、一般的な需給ギャップで25%値引きするというプランですが、これは、すべての製品に対して行うのでしょうか。ものすごく売れている製品などは別の扱いのような気もするのですが?

【答】 正当価格の課題はマクロの観点から生産と消費のギャップを埋めることです。個々の商品の売れ行きが問題なのではありません。ですから売れ筋の商品が他の商品と一律にディスカウントされたら、それはさらにどんどん売れて需要ギャップを縮小させることになるでしょう。

ベーシック・インカムを支給し続ければ、インフレになるのではないか。インフレにしないためにばら撒いた貨幣(国民配当)をどのように回収するのかということが、いまひとつ、よくわからなかった。

【答】 これについては上記のコメントですでに答えたように思います。BIをやるとインフレになるのではと言う人は、近代の企業経済においては勤労者/消費者の恒常的な所得不足が生じるという社会信用論の根本的決定的な認識を軽視しているのではないでしょうか。この所得不足があるから庶民に対するBIの支給はインフレ効果をもたないのです。

ダグラスの意図からすると国民経済計算を行って全てのモノやサービスに正当価格を決めるということになるのであろうか。ダグラスの想定しているのは市場経済なのか価格統制経済なのかと疑問に思う。正当価格は、「価格統制」になるのではないか?

【答】 価格統制とは政府が市場における需要と供給など無視して特定の商品に関して価格の上限や下限を決定し、それに違反すると処罰されるものです。正当価格は名称で誤解されますが、需要ギャップに即した商品価格の割引率のことです。価格自体を決めるものではなく、また割引分は後で補償されます。この割引は政府によって処罰規定まで設けて小売部門に強制さるべきものなのでしょうか。私としては政府が流通大手に一律割引を要請し、業界がその要請に応じるならば効果は充分にあるだろうと思います。強制や課税が経済の問題を解決することはありません。調整coordinationが肝心なのです。ダグラスの方策は市場経済からその動脈硬化や貧血の原因を除去します。そして私利や利潤も否定されていません。しかし市場とは何よりも消費を目的とした生産を実現するものであるという基本的事実が忘れられてはならないのです。

BIは外国人には支給されないのですか。

【答】 これについては原則的に日本に国籍があることがBI受給の条件になると思います。これは排外的民族主義には何の関係もありません。BIは福祉でも定額給付金のような線香花火的な景気刺激策でもなく、BI支給の根拠は市民権です(生活保護の根拠になっている現行憲法第25条ではありません)。社会信用論は経済を根本から民主化する試みであり、ゆえにBIという所得への権利は政府通貨が公共の利益に即して使われているかどうかを監視し議論する市民としての責任と義務を伴うのです。これが外国人には支給されない主な理由です。しかし外国人でも永住者や長期滞在者にはその社会と文化への貢献を根拠にBIを支給することが検討されてもいいと思います。そして日本がBIを実現して恐慌を克服すれば、どの国でも人民は政府に同じ政策を要求するに違いありません。世界的に模倣されるような実例を示すことが真の国際貢献になる筈です。

BIは貧困を解消すると思いますが、所得格差にはどう関係するのでしょうか。

【答】 所得格差が問題になるのは、それが極端なものになって経済を破壊し恐慌に行き着く時です。レーガン革命以降の先進国では人口の数%のスーパーリッチが国の富の60%以上を所有する一方、中産階級は低所得層に、低所得層は窮民になるという格差の絶望的な拡大が生じました。そしてスーパーリッチの富は非生産的な投機に使われ、経済はギャンブル化して極度に不安定なものになりました。社会信用論はこういう経済の金融化、資本の異常な集中を解消し経済を安定させます。その結果として、慎ましく暮らしているが将来への不安はなく何の不自由もしていないという層が人口の大部分を占めるようになるでしょう。

BIより生活保護の拡充や最低賃金のかさ上げを目指すべきという意見もあるようですが。

【答】 先に述べたようにBIと福祉は論理的に別のものです。生活保護の拡充はBIの代わりになるものではありません。また最低賃金のかさ上げは大企業には影響がなく、ぎりぎりの採算で操業している零細企業を苦しめるものです。そういう企業は従業員の採用を控えるでしょうから失業が増え、とくに若者にとって低賃金でもキャリアの入り口になる雇用が失われる恐れがあります。

基本的必要は誰が定義するのですか。

【答】 この質問には勘違いがあると思います。BIは誰かが基本的必要を定義し、それに基づいて支給されるといったものではありません。BIは一律無条件に経済的に余裕がある人にも支給されるし、個々人はそれを好きなように使っていいのです。ただBI論議とは別にですが、最近は絶対的貧困の解消という問題意識から、人間の基本的必要についての考察なしには効果的な政策は立てられないという議論があるようです。この議論に関心がある方は、WIKIPEDIAの「BASIC NEEDS」の項目を参照してください。

http://en.wikipedia.org/wiki/Basic_needs

BIを一律に支給することは社会の多様性を損ないませんか?

【答】 例えば衣食住を現物で支給したら軍隊みたいな画一的な社会が生まれるでしょう。しかしマネーがマネーたる所以は、それが何に対してでも多角的に使える交換の手段であることです。そして所得に余裕があれば、カップヌードルと100円ショップの画一的な貧乏から脱却することができるでしょう。それとも貧富の差も社会の多様性として評価すべきだという御意見なのでしょうか。

思想関係の雑誌でBIは新自由主義が推奨している政策という議論を見かけたのですが。

【答】 これは新自由主義のミルトン・フリードマンが「資本主義と自由」の中で負の所得税を提唱したことを指しているものと思われます。負の所得税とは、国が国民の基準年収を例えば二百万に定めて年収がそれに満たない人には逆に所得を補填するという制度です。これはBIと違ってはっきりと福祉国家論の延長で出てきたものです。新自由主義は、福祉予算を直接受益者に渡してしまえば福祉関係の官僚制を維持する費用を節約できると主張する。「小さな国家」の一環としての小さく安上がりな福祉国家ということです。福祉論なのでBIとは無関係な議論です。

今の日本経済に存在する需要ギャップについては、政府の見解では51兆円、ある大学教授の算定では500兆円と、まるで数字が食い違っています。正確な数値を得るためにはどうしたらいいのでしょうか。

【答】 政府や日銀が発表する数字は世論や株価の操作を意図した大本営発表で信頼できません。失業率など「失業」の定義次第でいくらでも変わります。レーガン時代以来先進国の政府はいろいろ統計の取り方をいじってきています。ですからアメリカには SHADOW GOVERNMENT STATISTICS という民間のサイトがあって、政府の統計数字の嘘を暴くことを専門にしているくらいです。他方で学者や民間のエコノミストが出す数字も利害や立場が絡んで必ずしも信頼できません。私の素人考えですが、皮肉にも国際金融資本の手先みたいなIMF,世界銀行、 BISなどの数字が比較的信頼できるのではないでしょうか。しかし個人がIMFに日本の需要ギャップについて問い合わせても答えてはくれないでしょう。現状ではいろいろな統計数字を見比べて自分で信頼できる度合いを判断するしかなさそうです。政府は相手にしないで良心的で有能な学者や民間エコノミストを見つけるしかありません。

SHADOW GOVERNMENT STATISTICS

現在の銀行中心の通貨システムから信用が社会化されBIが支給されるシステムへの段階的な移行は具体的にはどういう形をとるのでしょうか。

【答】 論理的な手順としてですが、まず何党の政権であってもとにかく政府を突き上げて政府通貨の発行に踏み切らせます。そうなると「BIをやる財源がない」という口実がなくなるので、人民の下からの圧力で政府通貨によるBIの保証を実現させます。それと同時に銀行業務から信用創造の機能を段階的に剥奪していくことになると思います。その結果、今の日本銀行券は徐々に日本国財務省券に入れ替わっていきます。

政府通貨の発行で800兆円以上という国の巨額の負債をチャラにできるという話でしたが、そのあたりをもう少し詳しく話して頂けませんか。

【答】 あえて極端な話をします。政府通貨は紙幣として発行されBIの支給などに使われますが、それ以外に電子マネーとしても発行されるとします。そこで膨大な国債をもっている諸銀行に設けてある政府の口座にそれをコンピューターで振り込めば、800兆円以上という日本国の負債は1秒間で消えてしまいます。この行為に技術的な問題はありません。これが可能になる条件は、国民が政府通貨を通貨として信認しているかどうかだけです。そして国民が信認している通貨で貸したカネを返してもらえたのだから銀行が文句をつける筋合いはありません。なぜこんな簡単なことができないのでしょうか。なぜ財政赤字を理由に弱者に対する社会保障が切り詰められたり、消費税増税が議論されたりするのでしょうか。マネーとは即ち銀行マネー(利子付き負債)という固定観念に大半の人々が呪縛されていること以外にその理由はありません。

関曠野さん講演録「生きるための経済」全文

関 曠野 講演録

「生きるための経済」

― なぜ、所得保証と信用の社会化が必要か ―

第2回ベーシック・インカム入門の集い講演録
2009年3月8日 於:タワーホール船堀

講演者:関 曠野

主催:ベーシックインカム・実現を探る会/フォーラム・スリー

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

講演 INDEX

  1. メルトダウンに向かう経済
  2. ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」とリッチマン革命
  3. 現代は過剰資本の時代
  4. クリフォード・ヒュー・ダグラスという人物
  5. 過剰資本を視野においたダグラスの社会信用論
  6. 銀行制度の歴史
  7. 幻のマネーが経済を動かしている(信用創造)
  8. 銀行信用の功罪とは
  9. 利子の性質は現実にそぐわない
  10. パブリック・カレンシー(公共通貨)
  11. ダグラスのA+B理論
  12. 労働者に払われる賃金は銀行ローン
  13. 消費ギャップをいかに埋めるか
  14. 絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命
  15. 適正な価格の形成
  16. 国民配当と文化的遺産(カルチュラルヘリテージ)
  17. 社会信用論とベーシック・インカム
  18. 「所得への権利」という思想
  19. 生活インフラとしてのマネー
  20. 社会信用による資本の分散化
  21. 社会信用論の三つの支柱
  22. 社会クレジットの資本フロー
  23. 財政赤字解消、社会信用による公共事業、税金の廃止
  24. 衆知を結集したプランづくりを
  25. 社会変革の道具としてのベーシック・インカム
  26. 党派を越えた議論に期待
  27. 講演での質問への回答(書き下ろし)

メルトダウンに向かう経済

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも、関です。寒い中を私の話を聴きにお集まりいただきまして、ありがとうございます。

私はかねてから日本の世論に訴えたいことがありました。それがこのように話す機会を与えられまして、しかもこれほどの方々に集まっていただいた。これはやはり日本という国が変わる徴候ではなかろうか、そういう感じがしております。それで、今日はみなさま方にはお聴き慣れない話も出てきますので、あらかじめポイントを少し話しておきたいと思います。

まず第一に、私たちの置かれている状況は不況ではなくて恐慌だということです。不況と恐慌はどう違うかということでは経済学者の間でもいろいろ意見があるようですが、私の見方では、不況というのは資本主義のシャックリやくしゃみのようなもので、企業の在庫調整で片が付く。これに対し、恐慌は資本主義の原理的な矛盾や欠陥に起因するもので、その矛盾や欠陥にラディカルに取り組むことなしにはどうにも解決しないものである。これが第一ですね。

第二にそのような資本主義の矛盾や欠陥を正せる方策は、私の考えでは今日のお話ですけれど、ただひとつしかない。ベーシック・インカム。すべての国民に一律無条件に生涯にわたり一定の基本所得を保証すること。そしてもう一つは信用を社会化すること。

この信用の社会化というのはどういうことかはおいおい話させて頂きます。

ただ私がこう言ってもですね、世界の政府はどこでも今の事態は不況だといっている。恐慌と言いません。相変わらず recession だと言っている。

これには誤魔化している、現実から逃げているという面もあるんでしょうが、それだけじゃなくて政策能力に問題があると思うんです。つまり不況だと言っている限りはパターンの不況対策をやって、それを政策に見せかける。公共事業とか利下げとか。これが恐慌だということになれば、何をしていいか分からない。それでこれは不況だ不況だと言い張って、その結果としてオバマ政権であろうがどこの政府であろうが、やっている政策は何の効果もないどころか、むしろ事態を悪化させている。

はっきり言って世界経済はどん底に向かっている。恐慌と言うよりはむしろメルトダウンと言っていい状況だと思います。しかし目下の事態が恐慌である証拠に、かつて1930年代に恐慌の見事な分析を行ったジョン・メイナード・ケインズの名が復活してきております。ところがどうも私から見ますと、ケインズの一番つまらない側面、景気刺激策として一次的に赤字公共事業をやって……というようなケインズの一番つまらない面だけが評価されていて、ケインズのラディカルで面白い面は相変わらず忘れ去られたままであると思っています。

ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」と
リッチマン革命

ジョン・メイナード・ケインズ

ジョン・メイナード・ケインズ

1883-1946

このケインズのことを話の皮きりにしたいんですが、1930年代の大恐慌のさなか、ケインズはスペインのマドリードで珍しく一般人相手の講演を行いました。「我々の孫たちの経済的諸可能性」という講演です。その中で彼はどういうことを言っているかと言うと、まず人間のニーズ、欲求を2種類に分けます。一つは絶対的欲求、つまり衣食住などの基本的な要求です。もう一つは相対的欲求。これは基本的に人に差を付けたい欲求。お前はカローラだけれど俺はベンツだみたいな、そういう他人に差を付けたい見栄とか見せびらかしに関係した欲求です。そして1930年代においては、未だに産業革命は完了していないと彼は考えていた。ですから彼は今しばらく貪欲というものはそれなりの役目を果たすであろうと言っています。しかし我々の孫たちの時代においては、人間は経済というものに関心がなくなるだろう、基本的欲求の充足はもう何ら問題でなくなって、おそらく我々の孫たちは経済には関心がなくなり、芸術や学問など文化的な活動に忙しいだろうと言っています。

ところがこのケインズの死後、1960年代に先進国では若者の反乱がありました。あの若者たちは丁度ケインズの孫の世代に当たります。彼ら60年代の反乱する若者はゲバラや毛沢東を引用しましたけれども、彼らの思想と行動はむしろケインズによって説明できる。つまりは当時の若者たちのメッセージは、もうこんな豊かさはたくさんだ! この管理社会、この抑圧、この差別、この競争を代償とした皮相な豊かさはもうたくさんだ! 人間らしい感性豊かな生活をしたい。それが60年代の若者たちのメッセージであったように思います。その点ではケインズの予測は的中したと言っていいのではなかろうか。

そして60年代の反乱の後の1970年代、この時代はいろいろな意味で巨大な転機の時代でありました。

ケインズは、自分たちの孫の代には資本主義は老衰で安楽死するだろうと考えていたわけですが、実際資本主義の安楽死を予感させるような状況が生まれてきました。

つまり市場の飽和、技術革新の停滞、資源と環境の危機と言う形で、資本主義の成長の限界がはっきり表面化してきた。そして思想家としてもイリッチやシューマッハーのような人の著作が熱心に読まれました。さらに70年代から全世界的に先進国の企業の収益が低下し始め、今なおこの収益低下が続いております。かつての活力を企業は二度と取り戻せないように見えます。それが現在の恐慌まで行き着いてしまったと言える。しかし資本主義がこのまま安楽死するかと思ったらあにはからんや、1980年以降、レーガンとサッチャーによってこの資本主義の停滞と混迷に対する悪あがき的な富裕層の反撃が始まりました。

この反撃については、新自由主義とか市場原理主義とか、サプライサイド経済とか、いろんな言葉が使われていますが、一番わかりやすい言い方はリッチマン革命でしょう。

金持ちの贅沢と安楽への要求を突破口、経済の刺激剤にし、それで経済を活性化する。庶民にはいわゆるトリクルダウンで少しは富裕層のおこぼれが滴り落ちるはずだというレトリックで富裕層や大企業に対する優遇を正当化した。ところがこのリッチマン革命は見事に挫折しました。ケインズ自身は良き古き英国紳士だったので、人に差を付けたいという欲求だけで動く経済がありうるとは夢にも思わなかった。だが1980年代以降の先進国の経済はまさにケインズのいう相対的欲求、人に差をつけたいという欲求で動く経済でした。しかしそんなことではやはり経済は回って行かなかった。そしてレーガン時代にアメリカは世界最大の債務国に転落し、貧富の差が拡大し、さらにグローバル化によってアメリカ国内の産業は空洞化するという状況になりました。といってその後のクリントンにせよブッシュにせよ、レーガンからの方針転換をやったわけではない。結局レーガン革命の延長線上であれこれバブルを起こして何とかレーガン路線を復活させようとしてきた。そこでバブルをあれこれ起こした挙句、3度目の正直で今度の住宅バブルでこけたということだと思います。

現代は過剰資本の時代

してみると1970年代に資本主義はやはり安楽死を迎えていたのではないだろうか。それを変な悪あがきをしたものだから、この恐慌と言う形で悶死状態に陥るという……その悶死状態に我々は巻き込まれちゃってる、そうみた方がいいんじゃないか。それではケインズはなぜ資本主義が安楽死すると予想したのか。

資本主義とは要するに資本が貴重なものである経済システムのことです。資本がありふれたいくらでもあるものだったら、それは資本主義ではなくなってしまう。資本が貴重ということは、それが常に不足気味だということですね。どんどん拡大する市場があり斬新な技術革新があって一攫千金の素晴らしい投資のチャンスがあるのに、それに比して資本が乏しい。経済学用語風にいえば、資本の希少性(scarcity)ということになりますが、それが資本主義を成立させている。産業革命期には資本家はやたらに儲かった。儲かる以上は誰でも資本が欲しいので、資本の希少性、不足が生じていた。ところがケインズの孫たちの時代になると経済は完全投資(fullinvestment)の状態になる。投資すべきものはすべて投資されてしまい人間の基本的欲望はほとんど満たされてしまって、資本には価値がなくなる。言ってみれば資本は空気や水のようなありふれたものになってしまう。そういう状況を彼は想定していたんです。そして今の恐慌は資本の過剰から生じています。

もう人間の必要はほとんど充たされてしまった経済状況の中で使い途のない資本をどうするか。今の経済は過剰資本の処理で困っている。かつてマルクスが描いた産業革命の時代には資本が不足していて、そのせいで資本家による労働者の搾取ということが起きました。だが現代は反対で、資本の過剰が恐慌の原因になっている。その点では、資本の不足がえげつない資本家を生んでいた時代の「蟹工船」と言った小説、今読んでもあまり意味ないと思います。時代錯誤じゃないですかね(会場笑い)。

むしろ現代社会を考える上での重要な視角は完全投資ということでしょう。新規の大規模な投資のチャンスが消滅してしまった。こういう完全投資と過剰資本の時代を分析した点ではケインズは正しかったと思いますが、他方で私はケインズに対して異論があります。今しばらくは産業革命を推進しなければいけないという彼の議論には大変疑問があるのです。私の本来の分野は金融論・経済ではなくて歴史学ですので、歴史と言う観点からみますと疑問がある。

産業革命が人類をそれまでの衣食住にも事欠くような貧困から救いだしたことは否定できない。しかしそういう destitution というか、人々が衣食住にも事欠き、しかも不衛生な生活をしている窮乏状態を解消するという産業革命の使命は20世紀初頭ぐらいまでに達成されていたのではないか。というのも人間の基本的な欲求というものははたかが知れたものだからです。多分20世紀初めくらいまでに人間の基本的欲求はほぼ満たされる状況が成立していたのではないか。それならそれ以降資本主義は何をやってきたか。産業革命の使命が果たされてしまったので以後は、無駄なものを作る、がらくた、贅沢品を作る、危険な兵器などを作る。こういう状態の資本主義になったんですね。これが20世紀が戦争と環境破壊の世紀になった根本原因であります。

そういう意味でケインズの見方は間違っている、すでに20世紀の初頭に産業革命がほぼ完了し、資本が過剰になる時代が始まっていたと私は考えます。

クリフォード・ヒュー・ダグラスという人物

そして今日の問題は資本が過剰になっているのに、資本が不足だった時代の制度が恐竜のように生き残っていることなんです。それが現代の根本問題で、その最も典型的な例が銀行なんです。資本がもう不足じゃない時代に、ことさら資本を貴重なもの、不足しているものとして演出しているのが銀行です。そういう銀行のパワーをどのようにして解体するか。それを考えた人が今日お話しするスコットランド出身の始めはエンジニアだったクリフォード・ヒュー・ダグラスという人であります。

彼の思想は、社会信用論(Social credit)と呼ばれています。その社会信用論の一環をなすものとして彼はベーシック・インカムを提唱し、それを今日のベーシック・インカムをめぐる論議には見られない徹底した理論的・経済的根拠を持って基礎づけています。この人は1890年(※他の資料では1879年とのこと)くらいに生まれて、1952年に死んでいます。世代的にはアメリカの制度派経済学者のソースタイン・ヴェブレンとほぼ同世代で、ヴェブレンに大変共感を持っていた。この二人は時代を批判する視点を共有していたのです。ただヴェブレンは当時のアメリカ資本主義の大変辛辣な批評をしただけですけれども、ダグラスは金融資本のパワーを解体するための思想と運動を作り出した。

クリフォード・ヒュー・ダグラス

クリフォード・ヒュー・ダグラス

社会信用論を提唱。1879年マンチェスター郊外の町ストックポートに生まれた。ケンブリッジ大学で数学の名誉学位取得後、優秀なエンジニアとしてインド、南米で活躍。イギリスの地下鉄建設に携わった後、第一次大戦中に王立航空機工場の工場長補佐を務める。これらのプロジェクト管理の経験から生産資本の流れにおける矛盾に気づき、「A+B理論」を着想。論壇誌に次々に論文を発表し、社会信用論へと結実した。世界恐慌時代に一躍注目を集め、世界各地で講演活動や政策提言を行った。1952年9月29日スコットランドの自宅にて没する。

このダグラスという人がベーシック・インカムを史上はじめて提唱した人です。昨今はドイツのヴェルナーなどの本が訳されて、日本でもベーシック・インカムという言葉がだいぶ人口に膾炙してきました。しかし忘れられているダグラスこそが最初にそれを提唱し、それも単なる人道的発想からではなくて、資本主義の原理的分析に基づいて提唱した人です。

まずどういう人かと言うことを紹介しますと、彼はケンブリッジ大学に行きましたが大学がつくづく嫌になって中退してしまった。しかし優秀なエンジニアになりインドやアメリカのウェスティングハウス社などで働き英国の地下鉄の自動化装置とか様々なプロジェクトに携わりました。この人が第一次世界大戦中に空軍の大佐としてファーンボローの航空機生産工場の会計監査の仕事をやって、その時に企業の会計にはいろいろおかしな点があることに気づいたんです。最初に彼が発見したことは、労働者は企業から賃金給与配当を貰うけれどもそれでは絶対に企業が生産したものを総体として買い取れないということでした。労働者が生産したものの価格は労働者の所得をはるかに上回るということを発見した。これはどうもおかしいというので、100以上の工場の会計を調査しましたが、どこへ行っても同じで、労働者の所得の総体は決して消費にまわって商品の総体を買い取ることができない。価格と所得の間、生産と消費の間にとんでもないギャップがある。なぜそんなギャップが発生するのかを研究して彼は社会信用論に行き着いたのです。

しかしダグラスはですね、エンジニア出身で学会などにいた人ではありませんので経済学者などからは変人奇人扱いで相手にされなかったんです。一部の社会主義の雑誌が彼のエッセイを載せてくれるぐらいだった。

ところがそこへ1929年の大恐慌が発生して、ダグラスの言うことはすべてあたっていたということになった。

それで出し抜けに世界的な脚光を浴びまして、ダグラスは「経済思想におけるアインシュタイン」と言われ、カナダや英国の議会で証言したり報告書を提出したり、ニュージーランドの財政改革案を作ったりしています。日本にも国際会議で来ています。戦前には彼の著書も邦訳が出ています。英国以外でもアメリカ・カナダ・ニュージーランド・オーストラリアなど英語圏で彼の支持者は非常に多くて、そこから彼の社会信用論は社会信用運動に発展していきました。また彼の社会信用論は文学者にも共感をもって迎えられ、T.S.エリオットやエズラ・バウンドなどが信奉者でした。それからチャップリンがダグラスの本を読んであわてて手持ちの株と債券を全部処分し、おかげで大恐慌による被害を免れたという話もあります。

先ほどお話したケインズのラディカルで面白いところは、ほとんどこのダグラスの剽窃と言っていいんですね。ただエリート経済学者なのに堂々とダグラスを剽窃し、変人奇人扱いしないでダグラスの言っていることの正しさを認めたという点ではケインズという人はやっぱり偉かったんでしょうね。ケインズは友人にあてた私信でも「文明の未来はダグラスかマルクスかによって決定されるだろう。そして自分はマルクスは嫌いだ」と書いているそうです。

ところが大恐慌時代にこれほど脚光を浴び注目されたダグラスは大戦後には全く忘れられた人になってしまった。喉もと過ぎればっていうことなんでしょうね。恐慌がうやむやな形で大戦によって終わったものですから、ダグラスは一気に忘れられた人になってしまった。私自身もダグラスの名前を知ったのは、ケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」の最後のところで彼の名前が出てくるからです。それで初めてこういう人がいたのかと思った。

過剰資本を視野においたダグラスの社会信用論

そこでこれからダグラスの思想と理論について話していきたいと思いますが、所得保証論は彼の信用社会化論、ないし社会信用論、その一環として出てくるものです。

先に申したように人間の基本的で強烈な衣食住の欲求が満たされてしまうと資本は過剰になってしまう。この資本の過剰を作り出したひとつの要因は市場の飽和ですが、もうひとつは19世紀末以来産業のオートメ化が進んだということがあります。オートメ化が人間の基本的な欲求を効率的にどんどん満たしてしまう。その意味ではオートメ化は基本的には結構なことです。ダグラスも「オートメの製品は味気ないと言うけれど歯ブラシや鉛筆とかそんなものを手仕事で作ってどんな意味があるのか」と言っています。オートメ化できるものはどんどんオートメ化すべきだ。オートメ化が進むことによって、人間はつらい、単調な労働から解放されるのであると。問題はむしろオートメーションがちっともそれに見合う恩恵を庶民にもたらしていない、豊かさをもたらしていないことです。逆に人々を機械による失業などで苦しめる形になってしまっている。こうして豊かさの中の貧困というべき現実が生じている。

ダグラスがこういう議論をしていた20世紀の初頭でさえオートメ化が相当進行していたわけですが、いろいろな研究によると現代ではオートメ技術をフルに活用するなら全労働人口の四分の一程度ですべての生産ができてしまうようですね。ですから大半の現代人は潜在的失業者であるわけです。この事実を見据えないと、「雇用を守れ」とか言ったって、どうしようもないですね。そしてダグラスは、現代においてはオートメーションと市場の飽和、基本的欲求の充足により生産の問題はすでに解決した、現在の問題は分配であると主張します。

ところが相変わらず生産の時代を演出して分配の問題の解決を妨げるパワーが存在する。資本が過剰な時代に、ことさら資本を貴重なものにしたがるパワーが存在する。それが金融資本なんです。その金融資本が企業には資本が足りない、労働者には所得が足りないという状況を演出していることを彼は徹底的に問題にするわけです。ですからなぜ豊富の中の貧困という事態が発生するのかは、金融機関、銀行が何をしているのかという問題を抜きにしては説明できないのです。このように銀行というものを徹底的に問題にしたことが彼が忘れられ黙殺された一因でもあります。経済学者はダグラスの名前を知っていても口にしない。そういう状況は今でも続いています。

経済学者というのは間接的に銀行に雇われているんですね。マルクス系の人は別にして。そう思わざるを得ません。それならば、まず銀行と、銀行を可能にしているマネーの在り方、それを変革しなければならない。

しかしダグラスの場合、マルクスとはまったく違って彼は個人の自由を思想の根本に置き、市場も企業も否定しません。しかも全体として見ると、富が効率よく最も望ましい形で社会的に分配される、そういうシステムを彼は考えたわけです。ですから、まず金融資本、資本過剰の時代に資本不足を演出している銀行と言うものについて議論をしたいと思います。先ほど申し上げたように、銀行はジュラシックパークの恐竜みたいなものです。つまり資本が不足だった産業革命初期の時代とか、その前の英国が植民帝国になってイングランド銀行が出来た17世紀、そういう過去の遺産を時代錯誤的に背負っている恐竜です。

銀行制度の歴史

そこで銀行制度の歴史ですが、1694年に英国でイングランド銀行が創設され、その後できた世界の銀行は大方このイングランド銀行がモデルになっております。

イングランド銀行創設のきっかけは、英国とフランスの戦争です。この当時から国家間戦争の戦費は巨額なものになってきて、王の税金徴収能力だけではもうそれを調達することができなくなった。そこで英国王はロンドンの金貸しから借金することにした。金貸しとは金細工師のことです。彼らは金を人から預かっていて、その預かり証を紙幣として流通させて金融業をやっていた。そして国王は彼らから金を借りて、その代りに彼ら民間金融業者に公認の通貨を発行する権利を授けた。王と金貸しが一種の癒着をやったのです。

こうして銀行なるものは国家が金貸しに借金するという形で始まった。銀行は銀行券を発行する特権を王から与えられたのですが名前がイングランド銀行なので、それはあたかも国家の紙幣であるかのように見えます。けれども、実際は銀行の、銀行による、銀行のためのマネーなんですね、これは。今の日本銀行でも、アメリカ連邦準備銀行でもどこでも、銀行にはそういうカラクリがあるんです。

これは大変不思議なことと言えます。たとえば、ローマのコインを見てください。皇帝の肖像が刻んでありますよ。どこでも通貨というものは為政者が発行するのが決まりだった。日本だってそうです。世界中そうでした。なぜ、イングランドに限って国家が銀行から金を借りて見返りに銀行に通貨発行の特権を与えるという妙なことが起きたのか。それは当時の英国の歴史的事情に起因していると思います。宗教戦争の後、英国王は税金を集める能力を失ってきた。近代戦の戦費を調達できるような税金調達能力がなくなっていた。一方ではロンドンの金融業者は王とは比較にならないほどリッチになってきて、事実上イングランド王国の陰の支配者になっていた。その結果、私利私欲で動いている銀行がまるで公的機関のような顔をするようになり、しかもそれが全世界の銀行のモデルになってしまった。それに加えて17世紀以降の英国経済は巨額の長期的投資を必要としていました。

例えば英国の場合は、カリブ海地域に植民地をつくりプランテーションで黒人奴隷を使って砂糖やタバコを栽培してそれをヨーロッパに運んで売ればぼろ儲けができました。しかしこういうことは大事業ですから、長期的な膨大な投資が必要であって銀行のレベルでないとその資本は調達できないということがあったでしょう。さらに産業革命期になると企業はどんどん製造過程を機械化し設備投資する。これには大変金がかかって、やっぱり銀行から融資を受けないとやっていけない。

幻のマネーが経済を動かしている(信用創造)

そこで銀行は何をしているのかを改めて考えてみたいんですが、まず、銀行の特徴は fractional banking 、部分準備制度にあります。つまり銀行は預かっている預金の何倍ものお金を貸し出しているということです。だいたい8倍から10倍は普通ですからね。これが今の金融危機の焦点になっているデリバティブだとベースの50倍から80倍という例もあるようです。

そんなの一旦不良債権になってしまうとメガバンクでも返せません。それからもう一つの特徴は、信用の創造、無からの幻のマネーのでっちあげです。例えばAさんが銀行に100万円預金したとする。そこにBさんがやってきて銀行から企業の運転資金を100万円借りたとする。しかし銀行の帳簿をみると、Bさんに100万円を貸したからと言って、Aさんの預金を帳簿から削ったりしていない。それは相変わらず帳簿上に残っているんです。そしてBさんに100万円貸したことが銀行の資産として帳簿に載っている。そういうことで、預金を右から左に動かすような事をしないで無から新しい金を創り出している。

つまりBさんに貸した金は銀行が帳簿の上で無からつくり出した金なのです。Aさんの預金とは実は関係ないわけです。しかもBさんに貸した金は、Bさんには気の重い負債でも銀行にとっては期限内に利子付きで戻ってくる資産になる。そういうかたちで銀行は信用を創造する、クリエーションする。無から信用というものを作り出す。

してみると銀行は、有りもしないものを売って丸儲けしているとも言える。言ってみれば空気を売って儲けているみたいなもので、これは詐欺の一種じゃないか。実際銀行業には詐欺の要素がありまして、アメリカのテキサス州は20世紀の初めまで銀行業を不道徳なビジネスとして禁止しておりました。不動産屋は家を買いたい人と売りたい人を仲介して、その手数料で食っている。不動産屋が有りもしない物件を売ったら直ちに詐欺で御用でしょう。ところが銀行は有りもしないマネーを売って、しかもその影響力で影の政府にまでなってしまっている。こんなおかしなことはありません。

部分準備制度ということは、銀行マネーははじめから幻のマネー、不良債権だということです。しかもそれが経済を動かしている。なぜこういう無からの信用の創造という詐欺まがいのことが可能なのか。

銀行信用の功罪とは

そこで考えてください。人々が協力してアソシエイトし結合して何かを始めると個人個人ではできない新しい富が生まれてくるものです。ひとりではせいぜい何か小さな木工品しか作れない。1,000人が一緒になれば自動車でも飛行機でも何でも作れる。そうした協力と結合から生まれる富というものがある。銀行は言わばそういう富をくすねている。人々の協力と結合から新規の富が生まれる過程を私的に横領している。寄生虫的に横領している。

だから「無からの創造」が怪しからんのではなく、私的横領が怪しからんのです。そして銀行は負債の網の目で社会を覆いつくす。しかもこの銀行信用こそ社会を組織するもっとも強力な力であります。銀行こそ隠れた政府であります。というのも、我々がスーパーのレジで支払いに使っているような紙幣や硬貨は実際は経済を動かしているマネーの数パーセントを構成しているにすぎません。実際の経済を動かしているお金は、ほとんど銀行信用であって、お金の90パーセント以上は銀行マネーです。現代経済は銀行から借りたお金、負債で動いている。もっと正確に言うと負債を返済する義務で動いている。もしもですが、国家も企業も個人も銀行からの負債を100パーセント返しちゃったとします。すると経済は一瞬の間に全面的にストップしてしまう。そういう経済です。現代経済というのは。

そして人間は誰でも借金というものは嫌なんですけど、銀行にとってはこれは逆なので、銀行にとっては他人の負債が資産である。だから日本国家に800兆の負債があるということは銀行にとっては大変な資産なわけで、これは返してもらっては困るんですね。永遠に国を借金漬けのままにしておいて利子を払ってほしいわけです。千円札や一万円札など日本銀行券というのがありますが、日銀の帳簿でみるとあれは負債等なんです。負の帳簿につけているんですよ。日銀券が負の帳簿というのはおかしいように見えますが、銀行にとっては紙幣・カレンシー・通貨の本質は負債であるということを日銀券は象徴しているのだ思います。

しかも実際の日銀券を裏付けているのは、日銀の持っている日本国の国債です。それ以外にも日銀は金とかいろいろ持っていますが。国債というのが最大の財産です。国債というのは要するに納税者を人質に取った借金証書ですから。納税者を人質に取った国家の借金、それが日銀券の価値を裏付けているとも言えるわけです。

しかもそれに利子がついているわけですね。利子をつけて返さないといけない負債。しかも場合によっては複利でとんでもない額にどんどん増えていく。そういう利子つきの負債。

利子の性質は現実にそぐわない

この利子とは大変不思議なものです。利子というものは一旦決まったらもう変わらない。

企業は利潤追求でよく批判されるけれども、利潤は市場の動向で増えたり減ったりします。ところが利子にはそんなことは無い。絶対に変わりません。何があろうと。自然界に似たようなもの、物理法則で似たようなものは全くありません。ですから「阪神大震災で俺のマンションつぶれちゃったから利子を負けてくれ、住宅ローンの利子を負けてくれ」と言っても銀行は認めません。この絶えず増大するだけで絶対減ることの無い利子というもの。これがある意味で果てしない経済成長というものの根本要因です。利子を廃止しないかぎり環境にやさしい経済なんてできないでしょう。それから近代国家の特徴として銀行からの借金で食うようになったということがある。国家は銀行に国債を買ってもらう。それが税金以外の国家の財源になっている。

もしも国家に税金しか財源が無かったら、国家は税収の枠内でそこそこにやるしかない。ところが銀行に国債を売ってカネが入るとなると、国家はこれで勝手なことができるようになる。もちろん国債は借金だけれど、そんなものは納税者にツケを回せばいい。だから国債の発行が近代国家のやりたい放題の運営を可能にしていると言えます。そして利子つきの負債である銀行信用が、経済の中でますます大きな割合を占めてくると、その分だけお金が不足してくる。つまり自由に使える流通するお金が減ってくる。利子付き負債というマイナスのお金が自由に使えるお金の量を制限してくる。人々が自由に利用できるマネーの量を制限し、それによって、企業にとっても庶民にとっても資本を貴重な常に不足しがちなものにする。それが銀行という商売のカラクリなのです。ではどうしたら、そういう銀行の罠に嵌らずにマネーを潤沢に供給されるものにできるのか。

パブリック・カレンシー(公共通貨)

第一に必要なのは、利子付き負債というものをなくすことでしょう。利子付き負債で動いている経済を解消する。それから、絶えず新しい富を生み出す人々の結合と協力を象徴するような、そういう通貨を作りだす。

その場合、それは人民の結合と協力から生まれる通貨ですから、公共の通貨として国家が発行することになる。銀行券ではなく日本国紙幣です。そしてその公共通貨による融資には利子は付けない。付けるとしても事務的な経費に充てるためのごく僅かな利子がつくだけです。当然そういう通貨でも借りたら国に元本は返さないといけませんが、銀行のように他人の負債を増やすことを目的として発行される通貨ではありません。

そういう社会の合意と協力の徴である通貨を作り出す必要がある。それがダグラスの社会信用論から出てくる、第一の結論です。

しかも歴史上は、このように国家が直接通貨を発行することは、古代では普通のことであり、近代でもその例はざらにあります。

たとえばアメリカでは、独立革命以前の時代にペンシルベニア州がそうした通貨を発行し、そのお陰で州の経済は大いに繁栄しました。フランクリンはアメリカの植民地が繁栄している理由を訊かれて、それはこの通貨制度のお陰であり、英本国の方は皆銀行からの借金で喘いでいるけれどアメリカ人民は借金に無縁だと言ったそうです。一説では、それで困ったイングランド銀行が英国政府に圧力をかけて植民地を重税で締め付けようとし、この通貨制度をめぐる争いがアメリカ革命の一因になったそうです。その後も、例えば南北戦争が勃発した際に北部には膨大な戦費の調達が必要となり、リンカーンがそれをヨーロッパの銀行から調達しようとしたら、足元を見られ30から40パーセントとかそういう利子を吹っかけられた。そこでリンカーンはグリーンバックという政府通貨を発行することにした。この英断のお陰で北部は南北戦争を戦い抜くことができ何の問題もおきなかった。

ただ、リンカーンの暗殺にはこの通貨改革が絡んでいるという説もあります。今世紀に入ってからでは、ジョン・F・ケネディが連邦銀行が勝手に民間資本として通貨を発行しているのはおかしいと考え、政府通貨を発行する計画をたて準備しているところで暗殺されてしまった。これも通貨改革がらみという説があります。

日本の場合は、明治政府の太政官札、あれは政府貨幣ですよね。また戦前に高橋是清内閣が大恐慌の時代に国債の日銀引き受けということをやった。これは日銀と日銀券をそのまま使っていますが、政府貨幣の発行と事実上は同じことです。この政策で日本は、各国の中でもいち早く恐慌から脱却することができた。ただこの日本の例を見ると、太政官札は暴走インフレを起こしてしまった。高橋是清の政策は、ダグラスも、「私の言う政府発行貨幣とちょっと似ているな」って言っていますが、折角これで恐慌から回復した経済力は日中戦争に注ぎ込まれてしまった。

だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。

ダグラスのA+B理論

それでは銀行と企業の関係はどうなのか。先に申しましたように産業革命以来、生産の機械化、オートメ化が進み、それまで家内工業だった企業がいわゆる機械制大工業に変貌して膨大な設備投資が必要になりました。これは企業自身の資金では無理なので企業は銀行から融資を受けるようになり、こうして金融業界が実体経済に介入するようになった。その結果何が起きたかをダグラスは問題にするわけです。

この環境では、たとえ大企業であろうと、もう銀行なしに企業の経営はありえません。どの企業でも銀行に負債を負っています、今中小企業に対する銀行の貸し渋りが問題になっていますが、銀行が大企業に優先的に融資するから、中小企業に資金が回ってこないわけですね。逆に言うとそれくらい大企業だって銀行を頼りにしている。

トヨタの無借金経営とかあれはデマですからね。大企業であればあるほど相当内部留保があるにしたって、設備投資や研究開発や市場の開拓のために銀行からの融資が必要です。

そしてダグラスは第一次大戦中に企業会計の現場を経験する中で経済に一体何が起こっているのかを発見した。生産コストは常に労働者に対する賃金や給料をはるかに上回る、一国の商品の総価格は勤労者の総所得を上回るので勤労者は所得=購買力の不足に悩まされるということを発見した。この事実をダグラスはA+B定理として定式化しました。このA+B定理で彼は基本的には単純なことを言っているのです。

彼はまず企業の生産コストをAとBに分けるAは労働者の賃金とか、給料とかでこれは人々の所得になり購買力になる。ついでにいうとこの購買力(purchasing power)もダグラスが作った言葉です。Bというのは減価償却費とか、銀行への負債の返済、他の企業への支払いなどです。そのほかいろいろな外部費用、取引先の接待とか。そうすると小学生でも分かることですけれども、AよりA+Bの方が大きい。だから労働者は決して企業が生産した生産物の総体を買うことができない、ということです。これが商品の価格になるとこの生産コストのA+Bにさらに利潤がつく。ところがダグラスは利潤のことは大して問題にしていません。利潤はせいぜい企業会計の3%とか5%くらいもので、それが勤労者を苦しめているとはいえない。企業への金融の介入、これが問題なんだと彼は言っている。ところで皆さんは、AよりはA+Bの方が大きいのは当たり前じゃないかと思われるでしょう。

人件費とか労務費とかは企業の総経費の中のほんの一部に過ぎないということは当たり前じゃないかと。しかるに20世紀の初めの英国では、これは決して当たり前ではなかったのです。スミスやリカドゥの古典経済学がまだ幅を利かせていて、生産は必ず所得になって労働者はそれによって商品を自由に買って消費するとされていました。というのも古典経済学は独立自営農民などを経済のモデルにしていたからです。だからそれは後の機械制大工業には全く当てはまらない議論なのに、それがまかり通っていた。ダグラスはそれが時代錯誤の議論であることを指摘した。

ただしダグラスが真に問題にしているのは、Aより A+Bの方が大きいという単純な事実ではなく、マネーの流れです。時間と共に生産費用の中でAに対してBの比重がどんどん増える、逆に言うとAの比重がどんどん減っていくという構造を明るみに出したのです。

労働者に払われる賃金は銀行ローン

企業の製品というのは様々な中間段階を経て、最終製品になる。例えば自動車をつくるためには、まず鉄鋼やガラスやプラスチックを生産しなければならない。中間段階の製品を作っている企業は消費者に関係なしに生産してるわけです。だがそういう企業の生産費用も最終的には消費者が買う商品の価格に全部転嫁され、そこに集積されている。そういう何段もの段階を経て、最終製品になるような高度な工業製品は、その分だけBの部分をどんどん増やしAの部分を減らすことになる。

それから、労働者に給料を払うということの意味です。5月分の給料をもらうとする。その5月分の給料で労働者は実は何ヶ月も前に出荷され販売された既存の商品を買っている。ところが企業は現在進行中の労働者の作業に給料を払っているわけです。この進行中の作業を企業は投資活動としてやっているのであって、その投資活動の一環として雇用があって労働者が働いている。しかも企業の投資活動のかなりの部分が銀行からのローンに基づいている。

とすれば労働者に払われる賃金も実際にはかなり銀行からのローンである。だから労働者は一生懸命働いて自分の労働の成果として給料があると思っているけれど、実際はローン生活者みたいなものなんですね。そして労働者が賃金をもらってそれで商品を買うと、それを生産した企業の収益のかなりの部分は銀行に負債の返済で戻ります。そうするとなんのことはない、労働者はローンで暮らしていて、しかも商品を買うことで銀行にローンを返済していることになる。銀行ばかりが肥え太り労働者の境遇は一向に良くならない。そういうことになっている。これは銀行の融資によって成立している企業活動のいわば宿命でしょう。

もちろん企業の収益はみんな銀行への返済に充てられのではなく企業の内部留保に充てられる分もあるでしょうが、それを企業は再投資に使うでしょうから、これも勤労者の所得や購買力にはなりません。こういう形で労働者は、働けば働くほど、商品を買えば買うほど自分を追い詰めていく。といっても、労働者が賃金をもらって消費者として商品を買ってくれることだけが企業にとって市場であるわけです。だから労働者の所得が減ったら企業自身も販売不振に苦しむというジレンマがある。この問題をどう解決するのか。

消費ギャップをいかに埋めるか

このギャップをまたまた銀行からの借金で埋めるというのがひとつの手です。そうなると、企業自体も蟻地獄に嵌ったみたいなもので、金融化経済の矛盾をさらに銀行信用で埋めていくことになっていく。もうひとつは、貿易ですね。商品を輸出する。輸出で黒字になって外国の市場でもぎ取ってきた金というのは、銀行資本とは関係ない、利子も負債も関係ない、もろのゲンナマですから自由に使える。こんなおいしい話はない。だからどの国の企業も貿易戦争で勝って輸出で儲けようと必死になる、ということです。してみると輸出!輸出!貿易!貿易!と騒ぐということは、いかに企業自体の内部矛盾、労働者の所得は減る一方、設備投資などで負債は増える一方という矛盾が拡大しているかの証拠です。

このA+B定理からするととにかく、勤労者の購買力は驚く程限られている。ダグラスは、生産諸経費が価格の形をとり、それでいろいろな要素が消費者に転嫁されると、実際の勤労者の購買力は実質的な企業会計の数パーセントにすぎないのではないかと言っています。

その限られた購買力を奪い合わねばならないので、企業は激烈な競争をすることになる。購買力が限られていることが競争の主要な原因です。資本・購買力・マネーの不足のせいで企業間で激烈な競争が展開されることになります。それでも労働者の賃金以外に商品が売れて捌ける経路はありませんから、労働者がその賃金、給料で企業が何ヶ月も前に作った商品ならなんとか買えるようにしておかないと企業は破綻してしまう。どうしたらいいのか。

絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命

絶えざる生産の拡大。生産さえ拡大していけば、それに付随して労働者におこぼれで回る部分が ある程度増える。企業が拡大すればその分だけAの部分が名目上は多少絶対的に増える形にはなる。こういうことから、企業は絶えざる生産の拡大に駆り立てられる。そういう意味では経済成長というのは、近代企業の宿命なんですね。そしてA+B定理の矛盾がありながら企業がすぐに潰れずに生き延び恐慌が直ちに起きない理由もそこにあります。絶えざる経済成長で名目賃金は多少上がり、しかも勤労者は何ヶ月も前に生産されたものを買っているので、それが矛盾を多少は緩和します。だがそれだけに、経済成長がストップすると直ちに深刻な不況や恐慌が発生します。

しかし生産の拡大といっても、消費者が欲しがっているものは、ほとんどすべてもう作ってしまっている。では企業は何をやるか。苦し紛れにガラクタを作る、贅沢品を作る、全くの浪費でしかないものを作る、危険なものを作る。それが今の企業がやっていること。しかしながら、企業にはどっちかというと銀行の被害者の側面もあるわけです。銀行から金を借りちゃったんで、こういうことをやらざるを得なくなってしまう。企業自身も利子付き負債というものに悩まされている。

根本問題は、マネーが、生産や消費の現実とは全く無関係に銀行の金融的利益になるかどうかという尺度で融資されていることにあります。もちろん銀行も融資先の査定はやるでしょうが、結局銀行のそろばん勘定だけが肝心なのです。こういう形で銀行は、マネーを発行する権利を独占している。そしてマネーに見合う需要を作りだすような形でマネーを発行していない。現実の需要を見極めたうえでそれに見合う形でマネーを発行するということをやっていない。

しかも銀行の論理、利子付き負債の論理でマネーを発行し、企業に貸している。その結果として企業においては負債の累積的増大があり、労働者においては所得の継続的減少がある。これをいろいろ誤魔化したり、先送りしたりする手はありまして、だから簡単には破局にはならないんですけれども、根本的にはこの構造は変わりません。

この構造を解消するためには、負債経済、利子付き負債を返済する義務に基づく経済と縁を切って別のマネーの流れを作り出す必要があります。それから今言った、企業の投資によって雇用が産まれ、その雇用によってしか所得が生じない、しかもその労働者の所得だけが商品が買われ消費される経路であるというジレンマがあるわけですね。

労働による所得は雇用によって生まれ、雇用は企業の投資から生まれ、投資の背景には銀行の融資がある。この連鎖を断ち切らなければ、人々は所得不足、企業は販売不振に苦しむ状況はいつまでたっても変わらないでしょう。ということは、雇用と所得を一定程度切り離す必要があるということです。雇用と所得を切り離して人々の購買力を保証する必要がある。そうしないと経済は恐慌になってしまう。このように負債経済を解体すること、その一環として雇用と所得を切り離して円滑なマネーの流れを作り出すこと、これが社会信用論の課題であります。

適正な価格の形成

ここでこれまでの話を一旦まとめましょう。理解して頂きたいのは、ダグラスが問題にしているのは「労働者の搾取」といったことではなく、市場経済の要である「価格の形成」であることです。

まず、生産はあくまで人々の消費のためにあります。だから経済は生産と消費がプラスマイナスゼロで過剰生産とか過少消費がないことが望ましい。それゆえに価格は、それによって生産と消費が均衡するようなものであるべきなのです。ところがダグラスが実際の商品の価格を調べてみたら、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や将来に備えた研究開発費などで、労働者の賃金給与は僅かなものでしかなかった。つまり機械制大工業の時代には、価格は需要と供給の均衡によって自ずと決まるという古典経済学の説はもう通用しないのです。

そしてこの価格の歪みという問題の解決策は市場の中から自然に出てくることはない。というのも、その根本原因は、銀行が自分の金融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右していることにあるからです。

そして負債経済を解消する方策としては、国家による通貨の発行、パブリック・カレンシー、公共通貨を発行し企業その他に利子なしで融資するということでいいわけです。他方で雇用と所得を一定程度切り離さないと、近代企業経済はそのジレンマから抜け出せない。そしてこの切り離しをやるための方策が、ベーシック・インカムであるわけです。

国民配当と文化的遺産(カルチュラルヘリテージ)

ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。どういう意味で配当なのかというと、まず、社会の結合と協力から新しい富が生まれるんだということですね。

個々人の労働の成果とか対価ということではなくて、人々が結合し協力すること自体から新しい富が生まれる。そうした富は言うならば、共通の富のプールをなしている。その共通のプールから富をもらう、引き出す権利は誰にでもある筈だということなのです。それは誰がどれくらい懸命に働いたかとか、そういうことには関係ながない。しかし生産は個々人の労働能力の結果や成果であると考えているかぎり、この発想は出てこないでしょう。富とは共通のプールをなすものという発想がないとね。そこでダグラスの独特の主張なんですが、彼は文化的遺産、カルチュラルヘリテージというものを強調します。これは彼のエンジニアとしての現場体験から出てきた認識です。

彼によると、生産の90%は道具とプロセスの問題で、労働者の能力は大した役割を演じていない。道具とプロセスが生産というものを大方決定している。そうならば生産を決定しているのは共同体の文化的な遺産や伝統にほかならない。道具や知識や技術は、そうした遺産や伝統である。人類は何万年もかけて、そういう知識と技術の膨大な蓄積を行ってきたのであり、だから現代人は改めて火の使い方を学んだり、車輪を発明したりする必要はない。過去の何千という世代が蓄積したものを我々は享受しているのでありまして、すべての人間は人類のそうした偉大な文化的遺産の相続人である。そういう相続人として配当をもらう権利があると彼は言っています。

富というものは、共通の富のプールとして人々の協力と結合から生まれると同時に、文化的遺産として過去の諸世代もその創造に関わっている。そういう認識が国民配当を正当化します。

それからこれは私の個人的考えなのですが、自然は驚くべき富を人類に与えながら何の見返りも要求していない。その意味では、富は神ないし自然からの人類への贈り物と考えるべきです。宗教の安息日という習慣は、富は人間の労働の成果ではなく神の贈り物であることを忘れないためにあるものです。こういう思想も国民配当を正当化するひとつの論拠になると思います。それから先に申しましたように、国民配当で人々への所得、購買力を保証しないかぎり、経済は恐慌になっちゃう。現に恐慌になっています。だから恐慌を予防する経済的方策ということも国民配当を正当化する理論的な論拠になります。

この国民配当は内容的にはまさにベーシック・インカムのことですが、この国民配当という言い方のほうがいいと私は思うんですね。ベーシック・インカム、基礎所得保証という言い方をすると、通常「所得」は雇用や労働に結びついている観念なので、何で働かないでそんな所得をもらえるんだと反発や疑問が出てくる。その点、国民配当という言い方だと、より分かりやすく受け入れられやすいのではないか。

もっともこれは社会信用論の立場に立たないと出てこない、ヴェルナーなんかの所得保証論からは出てこない言葉かもしれません。つまりこの言葉には、こういう配当をやらないと資本主義は恐慌で崩壊してしまうという含意があるのです。

社会信用論とベーシック・インカム

ところで昨今は日本でもヴェルナーなどの本も翻訳され、ベーシック・インカムという言葉がかなり広まってきました。ただ、従来のベーシック・インカム論議は、どうも論拠とか思想的根拠がもやもやしていて曖昧なんですね。

人道的な配慮からやることなのか、福祉国家を完成させるものなのか、それとも福祉とは別のものなのか。そういうことがはっきりしていない。その点では社会信用論においては、所得保証をやらないと恐慌になるという理論的にはっきりした論拠があるわけです。そしてベーシック・インカム論の論拠に関しては様々な人が様々なことを言っていますが、ダグラスの社会信用論の究極の目的は、銀行と大企業の高度に組織された権力、影響力から個人を守り個人の自由を確立することです。ですから個人の人格の自由な発展という思想こそが社会信用論の、いわば哲学的基礎と言えるでしょう。

ところで、これまでのベーシック・インカムをめぐる議論は、必ず財源の問題で躓いてきました。

これを所得税でやるとすると、まず足りないでしょう。膨大な費用がかかりますから。それに所得税でやったら、ベーシック・インカムとは金持ちのカネをむしって貧乏人にばらまく階級闘争だと思われて非常にぎすぎすした社会になる。それでは、消費税でやったらどうかというのがドイツのヴェルナーの意見ですが、とんでもない率の消費税になってしまう(会場笑い)。せっかく所得を保証されても、商品が高すぎて何も買えない。ところが社会信用論に立脚するなら、財源の問題は一切心配する必要はないんです。パブリック・カレンシーでやりますから。しかし、これは紙幣を勝手気ままにじゃんじゃん刷ってばらまくということじゃない。生産能力があり、人民の必要ないし需要があって、その統計データを踏まえて通貨を発行して企業に融資するならば、経済は順調にまわっていきます。

「財源が難問」という発想は、国家の収入源は税金と国債しかないという発想から出てくるものなのです。とにかく公共通貨で基礎所得保証をやるならば財源のことは考えなくていい。その場合に問題になるのは、庶民がそれを通貨として受け取るかどうかということだけです。しかし折角所得を保証をしてくれる通貨なのに、馴染みのないお札だから受け取らないという人はいるでしょうか。みんな喜んで受け取るんじゃないでしょうか。福沢諭吉の日銀券じゃなくて、なにか別の図柄のお札だったとしても。そういうことで、財源の問題は心配しなくてよろしい。

「所得への権利」という思想

しかしながら所得というものについては我々はまだまだ古い考え方にとらわれておりまして、所得は雇用によってしか得られないものという考え方は日本の世論の中に深く根を張っています。

雇用による以外に富を分配できなかった過去の時代の発想という点では自民党も共産党も似たようなもので、だから口をそろえて「雇用を守れ」と騒ぐ。しかし現代という時代が要請しているのは「雇用を守れ」というスローガンではなく、「所得への権利」という思想なのです。そもそも企業の使命は消費者に良質の商品を効率よく提供することであって、雇用を維持することではありません。従業員の雇用を守るために材料費を削って粗悪な製品を作る企業を世間は認めるでしょうか。そしてマネーこそまさに「先立つもの」で、所得があってこそ潜在的需要が有効需要になって市場が活性化する。そこで企業活動も活発になって雇用が拡大する。だから「まず雇用を守れ」というのは全くの本末転倒なのです。

もちろん目の前に派遣切りで失業した人がいたら私だって何とか就職口を斡旋してあげたいと思うでしょう。しかし経済システムを全体として分析してみれば、雇用至上主義はまったく間違ったナンセンスな立場でしかありません。

そして冒頭で申し上げたケインズの言葉ではありませんが、基礎所得が保証されたらビジネスはやらずに芸術や学問や文化活動に携わる、そうした人たちがいっぱい出てきて、どこに問題がありますか。そういう人たちは購買力で経済に貢献してくれればいいんです。そういう文化で社会に貢献する人々こそ真の国力を作り上げるでありましょう。有能でバリバリ働く人が環境を破壊し社会の存続を危うくしている、それが現代という時代です(会場笑い)。

やっぱり我々はマネーというものに対する呪物崇拝に陥っているのですね。報道で、定額給付金をもらったおばあちゃんが神棚に給付金を祀ったという話がありましたね(会場笑い)。しかるにダグラスはマネーを切符に喩えています。

生活インフラとしてのマネー

鉄道の切符を買ってそれを神棚に祀る人はいないでしょう。切符はそれを使って電車に乗って移動するためのものです。お金もそうしたもので、あくまで自分の欲する財やサービスを円滑に手に入れるための手段、その目的で富の分配を効率よくやるための手段である。

ダグラスがA+B定理で言っていることの根本はそこにあります。マネーは本来分配の手段であるのに銀行の利益がそれを生産の手段にしちゃっているから、企業にとっても労働者にとっても次々におかしなことが起きてくるということです。

つまり現代においては生産の問題はすでに解決している。今日の問題は分配であり、それゆえにマネーを分配の手段として考える視点が必要である。そうしてこそマネーというものを客観的に、サイエンティフィックに考察できる。そういう意味でマネーは切符のようなもの、経済生活に参加して社会から排除されないための切符なのです。これを逆に言えば、現代の「貧困」とはたんにビンボーということではなくて、社会から排除され人間として否認されていることなのです。

別の言い方をするならば、現代においてはマネーは一種の生活インフラ、電気や水道のような生活インフラだということです。それを呪物崇拝で、マネーとは何か神秘的な力を発揮する力や特権の源泉と思う、そういう発想は根本的に間違っています。結局マネーを価値を保蔵する手段とみなすこと自体が呪物崇拝なのです。そういう意味で、人民が合意した公共の利益に基づいて発行される公共通貨ならびに国民配当は、マネーを人々の生活インフラに変えていくための制度です。もちろんチャンスがあったら商売をして儲けることは否定されていません。しかしマネーはそれ以前に基本的に生活インフラでないと困るということです。さもないと経済がおかしくなります。

社会信用による資本の分散化

この点では社会信用論を資本の集中か分散かという観点から捉えることもできます。

英国が東インド会社を創設して海洋商業に乗り出した17世紀、さらに産業革命が進展した19世紀以降の時代には、資本の巨大な集中が必要でした。銀行は資本を集中させる目的で作られた制度なのです。日銀や連邦準銀が「中央」銀行と呼ばれるのは、そこに資本が集中しているからです。しかし今のような資本過剰の時代に資本を集中させておくと、資本はウオール街のカジノ資本主義の元手になって世界経済のメルトダウンを惹き起こします。これに対しベーシック・インカムは資本を個人という究極の単位にまで徹底的に分散させ、それによって経済を安定させるものと言うことができます。

といっても、パブリック・カレンシーの発行には同意してもベーシック・インカムには反発する人が多いだろうと思います。思うに、働かないで所得をもらうのはおかしいと言う人たちはね、お金というものを「報い」だと思っているんですよ。報い。辛い苦しいことに耐えてね(会場笑い)、その報いとしてお金を授かるという。人生は辛い、悲しいものと思っている人たち。人生は楽しむべきものと考えない人たちが、雇用によらずに所得があるのはおかしいと言うのではないか。

社会信用論の三つの支柱

ところでダグラスは、国民配当、ないしベーシック・インカムだけで民衆の購買力を確保できるとは考えていませんでした。社会信用論には、実は三つの支柱があります。

  1. 公共通貨 = パブリック・カレンシー
  2. 国民配当 = ベーシック・インカム
  3. 正当価格 = ジャスト・プライス

パブリック・カレンシーがひとつですね。それから国民配当。そして三つめの支柱として正当価格・ジャスト・プライスというものがあります。これはどういうことかというと、それによって生産と消費が均衡するような価格だけが「正当」な価格だということです。具体的に言うと、例えば直前の四半期の日本経済の国民経済計算をやってみて、仮に、生産の総計が100、消費の総計が75だったとします。すると25%の消費ギャップがあります。これをどうやって埋めるか。それならこのギャップに等しい割合で小売価格を一律に引き下げたらいい。販売部門ですべての商品の価格を25%ディスカウントする。それによって価格は生産と消費の均衡を表すものになります。

といっても小売部門をいじめて損をさせようということではありません。小売部門は売上伝票をとっておいて、国家は割り引きした25%の分を後で小売部門に対して補償します。だからダグラスはこのジャスト・プライスのことを補償される割引(compensated discount)とも呼んでいます。これは消費税とは180度反対のものですね。

こういう形でやって(以下の図3を参照)、販売部門に関しては売れば売るほど儲かるという商業の論理は否定されていません。ただ価格をつり上げることで儲けることが否定されている。このディスカウントによって消費と生産が均衡し、インフレが起きなくなります。そしてこの正当価格によって、すでにベーシック・インカムで補強された庶民の購買力がさらに強化される、拡大される。そういう意味では正当価格はいわば消費保証の措置とも言えるでしょう。消費保証であり、また小売部門に対する所得保証でもある。

この三つの支柱が組み合わさることで、生産と消費が完全に均衡し通貨が円滑に流れて経済の動脈硬化の原因になったりしない経済が可能になると彼は言っています。ところが社会信用論を「要するにおカネのばら撒きだ」と誤解して受け取って、そんなことをやると暴走インフレが起きると心配する人がいます。もともとインフレやデフレ、不況や恐慌は銀行が実体経済の生産や消費とは無関係に自分の都合でおカネを出したり引っ込めたりすることが原因で起きるものです。社会信用論では、通貨はあくまで国民経済の潜在的な生産と消費の能力を示す統計データの集計、分析、予測に基づいて供給されます。

ですから経済がもしもインフレ気味になったとしたら、それはデータに誤認があるか分析に誤謬があるせいです。だからどこに誤認や誤謬があったのかを検討して政策の再調整をやればインフレは解消する筈です。これはいわば気象庁が天気予報の修正をやるようなものです。

社会クレジットの資本フロー

これまでお話ししてきたことをちょっと図式(図(1)~(3))にします。

図1:社会信用論の基本構図

図2:通貨の発行

生産の目的は消費である。 通貨はこのことを円滑に実現するために発行される。 即ち通貨は、(1)人々の間の潜在的需要をマネーに裏打ちされた有効需要に変え、(2)消費のための生産を促進する目的で供給される。 その発行は直前の四半期の国民経済計算のデータに基づき、企業と一人ひとりの国民に供給される。

図3:通貨の回収

生産の目的は消費なのだから、経済においては生産と消費が均衡して、プラスマイナス・ゼロであることが望ましい。 そこで、国家は勤労者/消費者に対し所得保証を実施するだけでなく、需要ギャップが生じた場合には、それに等しい割合で小売価格を一律に引き下げることを小売り部門に要請する。 そして、割り引いた分は、後で国立銀行によって小売部門に補償される。

私のまとめ方がまずいので、分かりにくい方もおられると思いますので、ダグラスは通貨の管理をやる部局をナショナル・クレジット・オフィス、国家信用局と言っていますが、一応、国立銀行と書きましょう。日銀と違います。これは本当の国立銀行です。公共貨幣を発行しそれを利子なしで融資します。この公共通貨は、教育や医療や公共インフラの整備といった、公共性の高いものにもちろん融資されますけれども、問題は、これと企業の関係ですね。

企業に対しても公共通貨は無利子で融資される。企業はそれで自分の好きな商品を作っていい、儲かると思ったものを作っていい。企業が出荷した商品は、問屋を経て小売りに行く。これは生産の面です。

一方企業は自分のところで働いている労働者に賃金を払う。勤労者はその賃金をもって小売部門に買い物に行って消費者になる。小売り段階で生産と消費が出会う。しかし勤労者に対しては国民配当が、月に10万なら10万出ています。その一方で小売商は衣料品を売りたいので、国立銀行から商品を仕入れるために1,000万円を当座貸し越しで借りるとします。そして衣料品をディスカウントした正当価格で売る。それから小売商は売り上げ金の中から無利子で借りた資金を銀行に返す。国立銀行の方はその際にディスカウントした分を小売商に補償します。

これによってインフレは起きないし庶民の購買力は確保される。人々は買った商品の代金を小売店に支払う、小売店はそれで企業から出荷された商品の代金を払うと共に銀行に仕入れの資金を返済し、企業は小売から来た代金で国に融資された資金を返済する。これが通貨が回収される過程になります。お金の流れは完全に生産と消費のリズムに一致していて、それに即して通貨が供給され、回収される。だから経済のどこにおいても、マネーが滞留して経済が動脈硬化を起こすことがない。すべては絶えず順調に流れるようになっています。

重要なことは、こうして通貨が潤滑油になって経済が順調なサイクルを形づくって回っていくことであります。これが社会信用論のポイントだと考えていただいて結構です。ところでベーシック・インカムをやるとするなら、その額はどれくらいが妥当かがいろいろ議論されています。私の考えでは、社会信用論に立脚するならば国民経済計算から引き出されるある程度客観性のある支給額の目安が存在するように思います。

たとえば、今のアメリカで社会信用運動を代表しているリチャード・クックという人がいます。この人は最近オバマ大統領にクック・プランというアメリカ経済の再建案を送ったのですが、まあ、オバマが相手にしてくれる可能性はゼロでしょう。このプランで彼はすべてのアメリカ人に月10万円。子どもには5万円のベーシック・インカムを支給することを提案しています。これに要する総費用が3兆6千億ドルで、丁度アメリカ人の個人負債の総計に等しいそうです。だから彼の案は、アメリカの勤労者が所得不足をクレジットカードなどのローンで補ってきたことを反映しているわけです。日本の家計の場合はアメリカほどのローン地獄ではないので、クックと同じ論理を使うわけにはいきませんが。

とにかくベーシック・インカムが月50万円ではインフレになっちゃうし、月1万じゃ経済循環の支えになる役目を果たさない、やはりどこかに目安があるだろうと思います。

財政赤字解消、社会信用による公共事業、税金の廃止

それからパブリック・カレンシー、公共通貨の問題ですけれども、これをきちんと制度化できれば、日本国の800兆といわれる財政赤字をぜんぶチャラにできます。というのも、先ほど言いましたように、マネーというのは、人がマネーと思って受け取れば、石ころでも木の葉でもマネーになるわけです。そうすると、この公共通貨で所得保証ということになれば、みんなそれを喜んで受け取ると思うんですね。みんなが受け取ったら、それはもう流通しちゃったんで、立派なマネーなんです。

そうなったら銀行も拒否できない。しかも日銀券と兌換性をもつようなマネーとして発行すれば、銀行も当然取引対象に使う。そうすると、銀行がもっている膨大な日本国国債を順次公共通貨で買い取ってチャラにすることが可能になる。銀行にしてみれば自分の資産が減ることになるから、抵抗するでしょうが。もっとも一挙に800兆を返したら経済が大混乱するから段階的に返済ということになるでしょう。

それから、公共事業を社会信用論でやるとしたらどうなるか。

かりにどこかの自治体が橋をつくることになり、業者が入札するとします。A、B、C、Dという業者が入札して、Aが10億円で落としたとします。そこでAは国から無利子でこの橋の工事をやるための資金を融資してもらう。そして橋が竣工したら自治体がAに10億円を払う。Aはそれで当座借越していた資金を国に返済する。そして橋に高い公共性が認められたら国はそれを自治体に回す。結果的には国が直接自治体に融資したのとほぼ同じことですが、入札の可能性を組み込んで自由経済と公共通貨を両立させる。

ただこの先に減価償却費という問題が出てきます。何十年か経つと橋が痛んでくるので建て替える必要が出てくる。その減価償却費がたとえば毎年500万円だとします。それをどうするか。住民から税金を徴収してそれで賄うか。しかし先に言った正当価格という方策がある。この500万円の分だけ正当価格を上げて増収分を公共事業関係費に充てればいい。25%のディスカウントなら、それをたとえば24%にして増収分で公共事業の減価償却費を払ってしまうということです。その結果、じゃんじゃか公共事業をやると、すぐに物価に響いてくることになります。そうなると、公共事業のあり方について人民はきわめて敏感になるのではないでしょうか。

それから先ほど国の財政赤字をチャラにできると言いましたが、将来パブリック・カレンシーがきちんと制度化されたなら税金というものを基本的になくすことができます。税金は政府の人民に対する強盗行為みたいなもので、本来あってはならないものだと思います。要するに税金は弱いものいじめの制度です。金持ちにはいくらでも脱税や財産隠しの手がある。大企業はどれほど法人税を課されても、それを商品の価格に転嫁してしまう。その一方でサラリーマンは給与から天引きで源泉徴収、そのうえ会社からの帰りに憂さ晴らしに居酒屋で飲むビールや焼酎も税金のかたまり。これではまるで中世の農奴です。

それでは税金をなくすにはどうすればいいか。教育医療インフラの整備など現代国家の公共サービスはどれほど金食い虫でも手抜きや縮小は許されません。そこでですが、先ほどまで公共通貨は無利子で融資されると申しましたが、これに1~2%の利子を付けて、それを国家の収入源にしたらどうか。公共通貨による融資は国民経済の大動脈をなしているので、たとえ1~2%の利子でも国の収入は膨大なものになる筈です。そしてこの方策には税金と違って不正や不公平ということが全然ありません。

実はこの方策には実例が現存しています。アメリカの北ダコタ州には北ダコタ銀行という20世紀始めに西部の農民運動が生み出したアメリカで唯一の州立の銀行があります。これは地域経済の繁栄と発展のために創設された銀行で、今のアメリカのメガバンクの危機の中でもビクともしていません。そしてこの銀行の利子収入は州政府の収入になります。そのお陰でアメリカ50州のうち46州がほぼ破産状態なのに北ダコタ州の財政は黒字です。この実例をみても、国家の収入源が税金と国債ということがいかに経済と政治を根本から歪めているかが分かります。

衆知を結集したプランづくりを

それから最後に強調しておきたいことは、ベーシック・インカムにせよ公共通貨の発行にせよ、いざ実施するとなるとそのやり方は国情や歴史の違いゆえに国毎に千差万別になるだろうということです。だから私がみなさんに関プランというものを出して押しつけることはできません。

会場には120名以上の市民が詰めかけた。

会場には120名以上の市民が詰めかけた。

参加者のなかには小沢修司さん(京都府立大学教授)、田中康夫さん(新党日本代表)、曽我逸郎さん(長野県中川村村長)の姿も。(後ほど公開予定の質疑応答参照)

日本の国情にいちばん適して、みんなが望む案はどういうものか衆知を集めて考えるしかありません。公共通貨、国民配当、正当価格、この三つの原則さえ守れば具体的なやり方はいろいろある。ですから、今日会場で資料をお渡ししましたのも、家に帰ってから資料を読んでいただき、どういうやり方がいいか、みなさんなり、グループなりで考えていただきたいからなんです。

たとえばです、公共通貨で企業に融資するとして、公共性の高い企業に融資するのはいいけれど、パチンコ屋に融資するかどうか、ちょっと考えちゃうと思うんです。といっても、パチンコ屋が庶民の娯楽であることも否定できない。融資しないのもおかしいのではないか。ですから、もし公共通貨が実現したとしても、民間銀行に一定の役割はあるだろうと私は考えております。しかし部分準備制度に基づいて無から幻のマネーを作り出すことは絶対に認めてはいけない。これが諸悪の根源なんですから。あくまで預かっている預金を必要な人に貸して手数料を稼ぐだけの堅実なマネーの仲介業者であってほしい。他方で、民間銀行なんかなくしてしまえ、国立銀行と公共通貨一本やりでいいんだという考え方もありうる。

さっき、リチャード・クックについて言及しましたが、彼のクックプランでは、月10万円ほどのベーシック・インカムを紙幣でなくバウチャーで配ることになっています。ベーシック・インカムはあくまで衣食住に使ってもらいたい、酒や博打に使われちゃ困るからバウチャーでやる、ということなんです。私としてはベーシック・インカムを酒や博打に使う人がいたって構わないじゃないかと思うので、バウチャーでやるというのはきついなあと感じます。それはとにかく、これもやり方がいろいろある一例です。

それから、公共通貨の発行にしても、そのために国立銀行を新たにつくるのか。日銀なり日銀券をそのまま残して中身を換骨奪胎してやるという手法もありえます。だから社会信用論の具体的なあり方は、歴史と国情に即して実に多様なものになります。

社会変革の道具としてのベーシック・インカム

ここで私個人の考えを申し上げますと、日本という国には明治維新以来の東京一極集中という一大害悪があると思います。東京だけがグローバル都市になり地方は植民地化されてきました。今はもう植民地どころではなく棄民地域みたいになっている地方もある。それだけに地方が再生すれば、その農業、地場産業、中小企業なりが再生すれば、そこから新しい形の経済、たぶんよりエコロジカルな経済が誕生するでありましょう。

そう考えると、ベーシック・インカムを実施する際には首都圏を5年くらい所得保証の対象からはずしたらどうだろうと(会場笑い)、そうすれば、地方に行けば基礎所得が保証されるというので、首都圏に集中している人口、とくに若年層がどっと地方に移動して、自動的に人返しができる。

たとえば東京のサラリーマンで、できれば脱サラして地方で有機農業をやりたいと思っているような人。しかし農業でそれなりに自立するには10年やそこらかかるでしょう。ベーシック・インカムがあれば、その間安心して農業の習得に専念できる。そして地方に若者が来る、人が来る、それだけで需要が生まれ、ビジネスが生まれます。だから首都圏は一定期間保証の対象からはずした方がいいというのが私の意見です(会場笑い)。

まあ私の案に皆さんが賛成するかどうかは別にして、ベーシック・インカムはこんな風に社会の変革にも使えるということはとても大事なことだと思います。

皆さんもお分かりのように、目下の経済危機はたんに経済的なものではありません。恐慌に加えて地球の温暖化や原油生産の逓減というダブルパンチになっています。これはいわゆる“緑のニューディール”で太陽光発電を普及させたくらいでは到底乗り切れない危機、文明の転換点だと言っていいと思います。こういう転機には、学者や役人はもう頼りになりません、文明の転換のためには、無数の無名の人々が草の根レベルで試行錯誤して新しい生き方を模索することが必要でしょう。そしてベーシック・インカムは、そうした人々がいろいろな実験を試みることを容易にします。失敗や挫折を恐れない生き方を可能にします。

ベーシック・インカムというと、雇用や所得をめぐる不安がなくなるというその福祉効果に我々は気をとられがちなのですが、社会的な実験が容易になることにその最も重要な意義があることを強調しておきたいと思います。

党派を越えた議論に期待

締めくくりにあと二点ばかり申し上げたいことがあります。とにかくベーシック・インカムは決して党派的な主張にしてはならない。戦前の社会信用運動が挫折した理由のひとつが、なまじカナダでダグラスの議論が大評判になって党派ができちゃったことなんです。社会信用党という党が結成され、しかもそれがアルバータ州で政権の座に就いた。ところが州政府の権力を握ったのはいいけれど、結局社会信用運動の名に値することは何もやらなかった。そして最後には世論に一種の右翼政党とみなされてしまった。ダグラスは当初はこの党に助言していましたが、すぐに見切りをつけ批判の文章を書いています。そのような苦い経験があるわけです。

ベーシック・インカム、公共通貨、正当価格は、理性と良識に基づく超党派のポリシーでなければならない。これには、財界人でも賛成する人がいるかもしれないし、貧乏人でも絶対反対という人がいるかもしれません。とにかくこれはイデオロギーとか階級階層の問題ではないと思います。

まず社会信用論についてネットなどを駆使して世論を啓発する。そして説得と討論、ひたすら理性と良識に基づく説得と討論に頼るしかないのです。その点で、社会信用運動はまさにデモクラシーの実践そのものです。それに、考えてみてください。社会信用論を実行して損をする人は誰もいないのです。個人も家庭も企業も国家も、みんな得をします。まあ銀行だけは損をするかもしれません。しかし銀行だって恐慌で破産するよりは堅実な地域銀行として生き延びた方がましでしょう。

ただし現在の歪んだ社会構造のお陰で個人的に権勢や特権を享受している権力亡者だけは、自分の地位と影響力の低下を恐れて反対するでしょう。しかし反対する人たちの大部分は、たんに論理がよく呑み込めていないだけでしょう。

そして締めくくりとして皆さんに申し上げたいことは、現代はもう右翼か左翼かの時代ではないということです。全く別の焦点が生じているのです。所得は雇用によってのみ生じるものなのか、それとも人間の基本的な自然権、ナチュラルライツに属するのかという焦点です。

現代社会は今後、この焦点をめぐって揺れ動くことになるでしょう。そして問題をさらに掘り下げてみると、これはマネーについての考え方の対立であることが分かります。マネーは特権と権力の行使を可能にする神秘的な呪力を発揮するものという考え方。そうではなくて、マネーは万人が人間らしい生活を自由に享受するために社会の連帯から生まれた生活インフラの一種であり、マネーによって人間は美しく楽しい不安なき人生を生きることができるという考え方。この二つの考え方の対立なのです。

そして現に、これは時代の争点になってきています。オバマ・ブームのアメリカでも、経済危機が深まる中で社会信用論に近い主張を掲げる動きが随分広がってきています。連邦準備銀行を廃止せよ、ベーシック・インカムを実施せよ、という議論は少なくともオンライン・メディアではすでにありふれたものになっています。そしてアメリカ人は、アメリカで最初にベーシック・インカムの実現を訴えたのは公民権運動の偉大な指導者マーチン・ルーサー・キング牧師であったことを思い起こしています。日本でも似たような動きが連鎖反応のように広がる可能性があると思います。それにこそ期待しております。

そして冒頭に申し上げましたように我々が直面している現実が恐慌であるとするなら、恐慌は社会信用論が提示した三つの方策、公共通貨、国民配当、正当価格、とくに最初の二つですね、これによる以外に解決されることはないであろうと確信しております。

どうも、たいへん時間をオーバーしてしまいました。申し訳ありません。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

当日の質疑応答の内容が公開されました。

関曠野さん講演「生きるための経済」についての質問とお答え