先週のメルマガで予告させていただいた通り、「POSSE」誌vol.8に対しての批評をはじめてみよう。まず、「BIには全面的に反対」と主張されている萱野稔人さんの論についてである。
萱野さんの反対の論拠は多岐にわたっているが、先週からの内容の連続性で萱野さんインタビューの、『「労働からの解放」の先にBIは関与できない』という小見出しの部分を検討する。先週のメルマガで私は、BIは労働市場に縛られてきた人間存在を解放し、多様な「承認や居場所」を創造するはずーーーと主張した。萱野さんは、内容的にこれに対する批判をのべている。
BIは、賃労働から解放されて豊かな社会生活を構築する価値を、BIの価値の中に含めることができない。なぜなら、BIは現金を給付して「あとは自由にしてください」ということまでだからだ、というのである。また、BIはパターナリズム(温情主義)を批判し、人々の生き方にとやかくいわないのだから、個人の生き方でどれほど孤立を深めることがあっても「自己責任」ということになる。それを、BIの先には「人びとは生を充実させる(はずだ)」という論理はおかしいーーとも言う。加えて、賃労働以外のところで生を充実させなさい、という強迫観念に人びとを追い込むとも主張する。
確かに、BIは「個人単位・無条件の現金給付」の制度であり、基本原則はそれ以上でもそれ以下でもない。ロックの主張する政治的能動性を有した個人というものがBIがあるからといって自動的にできあがるものでもないだろう。関曠野さんが主張する「社会的属性に還元されない自由な人格」というものを白崎はBIの先にあると主張するが、その根拠はどこにあるのか?という批判が生じるのは当然だ。
まず、この問題を考えるために前提条件を確認しておこう。BIによる賃労働からの解放というが、正確に言えば、賃労働をする自由もあれば、しない自由もあるということであり、言い方を変えれば、労働市場に参加する自由もあれば、おりる自由もあるーーということである。次に、BIを「今」要求するリアリティの問題である。
なぜ、BIなのか?そこを理解できないとBI論争は言葉遊びに終わるだろう。リアリティのひとつは、今ほど「賃労働」の抑圧性が高まっている時代はない、ということだ。具体例を示しておこう。最近、出版された『<働く>ときの完全装備』(橋口昌治・肥下彰男・伊田広行著、解放出版社)のなかの橋口さんの書かれた「若者のおかれている状況~労働と自由と生存に着目して」という章に、注目すべき文章がある。長くなるが、その部分をご紹介しておきたい。橋口さんは、およそ次のように言う。
2000年代以降、就職活動において大学生や高校生は「正社員になる」ために、面接の際に「自分の過去の経験をふまえ淀みなく一貫性をもって将来の『やりたいこと』を」求められた。「現在の就活では、個性的で交換不可能な『自分』を語ることによって初めて労働力商品として交換の対象となるという矛盾を乗り越えなければ」ならない。そして「正社員になるために一方では『やりたいことを探せ』と言われ、一方では『やりたいことをあきらめろ』と言われるダブルスタンダードが、今の若者をとりまいているのです。」
このダブルスタンダードこそ、子どもたち・生徒たちが大人の欺瞞として受け取る最たるものだということだ。私は、私塾で、多くの子どもたちと付き合ってきたのでそれが痛いほどよくわかる。学校で、彼らは何と言われるか?「夢をもて、君たちは無限の可能性がある」と言われ続け、それが入試や就職が近くなると「現実をみろ!夢ばかり追うな、分相応になれ」と、まさに矛盾・ダブルスタンダードの言葉を浴びせられる。これこそ賃労働の抑圧性と言わずして何といおうか。さらに、現在ではダブルスタンダードの「教育」の果てには、失業かまともに働く場所もないーーという状況である。教育と所得(入試・就職)が密接に結びついているというのはすでに詐欺状態なのだ。ここにいたっては、労働と所得の分離、そして、教育と所得の分離がBIによってなされるべきである。この分離により教育は市民教育としてまともになる可能性がでてくる。市民教育こそ萱野さんに対するお答えの根拠となる。(この稿、続く)