Art(ist)とベーシックインカム(前編) 武盾一郎

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昔は貧乏だったとよく聞きますが、親の実家の群馬もかつては、井戸があり、ちょっと出て行ってイナゴや山菜や木の実などを獲ったりしてたそうです。それだけを食べていたワケではないでしょうが、生命と金銭は切り離されていて、貧乏が命取りにはならなかったような印象を受けるんです。でなければ「貧乏人の子だくさん」なんて言葉はうまれないですよね?

そのかわり、不便だったり不潔だったり非合理的だったりしたのでしょう。

現在は、かつて自然界から直接恵んでもらってた水(や自生食物)は、いったん回収され、便利に作り変えられてインフラと呼ばれるものになりました。命に直結するほとんど全てのものはお金を介さないとアクセス出来ない仕組みになっています。近隣で井戸を掘って水を無料でシェアするとか、手つかずの自然があって誰でも山菜などが穫れるという選択肢は環境的にほぼ断たれています。

かつて自然が見返りを求めずに与えてくれていた分くらいは我々に解放されるべきだと思うのです。お金と生命が直結してしまっているならば、その分はお金にして。それがベーシックインカムを支持するベースです。

次に、お金、芸術、労働をキーワードにArt(ist)とベーシックインカムについて自分に引き寄せて考えていこうと思います。

 

 

1.お金

Art(ist)とベーシックインカムについて考える時、自分は「お金」についてどう思ってるんだろう?ということが気になりました。まず、「お金」について振り返ってみようと思います。

  • お金の原風景

僕は妹と二人兄妹の母子家庭で公団に育ち、母は小学校の教員をしていました。お小遣いは無く、欲しいものがあった時は申し出て、オーケーだとその分のお金を貰うか、リクエストを母が買って来てくれたりしたのでした。

食品添加物が問題になり始めた時期だったのか、おやつの習慣はなく、たまにあっても色のついたアイスはNGとかでした。子供の唯一の消費娯楽「買い食い」はたまに許可が出るのですが100円が上限でした。ここぞとばかり舌が水色に染まるような毒々しいお菓子を買っては喜んだものでした。

おもちゃは買ってもらうのが大変で、ミニカー数台とミクロマンとトランプを持ってたくらいでした。新聞折り込みの「おもちゃの広告」を眺めては夢を馳せらせたのでした。

一方、筆記用具は比較的好きに買えました。無駄に三段になっていて銃砲のように鉛筆を立てられる戦艦のような合体ロボのような、今思い出すと何のコンセプトだか分からないような筆箱を買って貰って喜んでました。おもちゃはダメでも玩具性の高い筆記用具ならオーケーだったのです。

今これを書いてると非常に貧乏臭い感じがしますが、団地の子供たちは大体そんなもんです。ラジコンを持ってる友だちがいるとみんな集まって順番にラジコン操縦するという風景は実際にありましたし、同様にブランコの順番待ちもありました。物質が完全に行き渡る直前、まだ生産の必要性があった最後の時代だったのでしょう。

埼玉県郊外の昭和40年代生まれの子供たちの遊び場はだいたい、雑木林、河原、空き地、田んぼなどで、探検ごっことか、カブトムシやクワガタ獲り、ザリガニ獲りなど、自然と戯れるお金の要らない遊びがほとんどだったと思います。

お金との関わりでいうと、小銭をビー玉やおはじきなどキラキラしたものと一緒に机の一番上の引き出しにしまっておく癖がありました。これは「お金」というより、カラスが光るものを集めてしまうようなプリミティブな感覚だったんだと思いますが、今もその癖が残っているのか小銭を瓶に入れてしまいます(笑)。

こういった感じが僕のお金にまつわるざっくりとした原風景です。多分「お金に疎い」んだと思うのです。この世知辛い浮き世を渡るには残念な性質だと自分でも思います。

  • 芸術あきない

金儲けのみに走るのを善しとしない価値観には「お金は悪」というイメージがあります。そして無節操に消費するのは下品だという価値観には「お金は大切」というイメージがあります。金儲けだと「金は悪」、消費快楽だと「金は大切」。この二つをセットにすると「ねえねえ、お金って悪いものなの?大切なものなの?」という矛盾を抱えてしまいます。その「悪」と「大切」をうまく接続出来ずジレンマに陥ると、「お金」を考える事を放棄し、より尊い「理想」とやらを追い求めてしまう。その成れの果てに待ち構えている虚構のユートピアが「芸術」である。というのが「お金と芸術の関係」に対する僕の観念的なイメージです。

お金と芸術はどこか相容れない感じがするのは何故だろうか。それは「金の為に作品を作ってるワケではない」という芸術家の理想を確保しておきたいし、「この作品は金の為に作られたワケではない、芸術品なのだ」という見る側の期待も確保しておきたいからかもしれない。

実際自分も絵を描き始めた20代はお金のことはまったくと言っていいほど考えてなかったです。作業に対してお金が派生するのはなんとなく分かるのです。「絵を描いて」と頼まれた場合はなんとなくお金を要求してもいいのかなあと思うのですが、出来上がった作品に値段を付ける感覚はまだ持ち合わせていませんでした。出来上がった自分の作品は「プライスレス」だったのです。

30代になってやっとお金のことを考え始め、頑張って売ろうとはしたのですが、なかなかうまくバランスがとれませんでした。「自分の作品は0円か1億円だ!」みたいな感覚もあって、自分の作品とお金をどう結びつけてよいかまるで分かりませんでした。

人に聞いたり見よう見まねで値段を付けたりして、たまに作品が売れるとそれを基準にしました。このサイズは幾らで売れたか、こういう仕事でギャラは幾ら貰ったか、重ねるうちに、ちょっとずつ価格を設定出来るようになってきました。

値段を付けてそれを相手に伝える時「ちぐはぐな気持ちや違和感がない」場合、売れるんですよね。

それでも「自分の作品を売って良いんだ」と自然に考えられるようになったのはここ3年くらいです。

ちょうどその頃2007年あたりからグラフィックデザインの仕事が入らなくなってきました。2009年にはピタリと仕事がなくなりました。

グラフィックデザインの仕事がなくなる時期と、作品とお金を結びつけて考えられるようになる時期が丁度重なっています。グラフィックデザインの収入が途絶えたので、作品をお金にしないとならない切羽詰まった必要性が生じたんだと思います。

 

 

2.芸術

芸術について考えるためには僕の表現の原点を書く必要があると思いました。まずはそこから書いてみようと思います。「表現」ってとても難しい言葉で、誰でも何をしても表現であるという言い方も出来ると思います。今回は作品化させようとするものという意味合いで表現という言葉を用いてます。

  • 表現の原点

僕には付きまとうイメージがありました。それは幼い頃の団地のダイニングキッチンなんです。白いテーブル、僕と妹は椅子に腰掛けていて、母が御馳走を運んでくれている。休日の午前中なのでしょう朝日で部屋がとても眩しいのです。テーブルの上には僕の大好きな食べ物(多分肉団子だったと思う)があるんです。と

ても幸福なんです、幸福なはずなんです、なのにとてつもなく哀しいんです。

今やその風景は塗り作り替えられたノスタルジーとなり果て、ビジュアルイメージの具体性は曖昧に溶け込んでしまってるので、本当だかなんだか分からなくなってしまってます。火薬が燃え尽き漂う硝煙に花火の余韻を感じる状態から、煙の匂いも消えた翌朝の花火の焦げかすから花火の記憶を何かの物語とすり合せてイメージを合成してしまってるかのようです。

傷痕のように辛うじて胸に刻まれたその感触を言葉にして再生するならば、「心の肝心な部分がえぐり取られてるように欠けてる感じ」「そこはかとなく哀しい感じ」「誰かと居ても寂しい感じ」「どうしても辿り着かない感じ」「触れられないもどかしい感じ」「自分を中心軸に据え置けず居場所を失って浮遊してる感じ」といった、「前向きな感情」とは呼べない「喪失と哀しみ」だったりします。

この「かなしみ」が僕の表現の原点でした。

そこに「何者かでありたい」「人と違っていたい」「目立ちたい」という自己顕示欲が加わり、恥ずかしさを凌駕する「どうしても表現したい衝動」に突き動かされて

、表現したんだと思います。思春期によくある表現衝動なんだと思います。自信や根拠があったわけではありません。

僕の初の表現行為は中学生の時のバンドでした。爆音は一瞬にして僕の喪失と哀しみを埋め尽くしてくれました。音にしびれたのでした。

  • 表現の持続

高校時代はバンド漬けだったのですが、なんとなく田舎にある大学の電子工学科に入学しました。たまたま知り合った地元のパンクス達とバンドを組むことになり、パンクバンドに大卒の肩書きは要らないし、これに賭けてみよう、と思ったので大学を辞めてメンバーと一緒に西武新宿線新井薬師前に暮らしながらバンド活動をしていました。

暮らしとバンドを維持する為にみなアルバイトをしながら暫くはハイテンションな暮らしが続きました。そのうちみんなバイトが忙しくなり、リハやライブの回数も減り、バンド熱も下がってきました。だんだんバンドが仕事の余暇としての息抜きのような場所となり、そしてとうとう解散するのでした。メンバーからバンド熱を奪ったのは「労働」だと、僕はとても労働を怨んだのでした。そこに失恋も重なりかなり自暴自棄になっていくのでした。

それでもどこか表現することを諦めきれませんでした。そんな時、妹が美術予備校を案内してくれて、絵を描くことに出会うのでした。25歳でした。

表現の初期衝動は数年で終わります。そこが継続への壁となります。

大方の人は表現活動を辞めるか離れるかしていきます。何かが満たされたのか、飽きたのか、諦めたのか、いろいろあると思いますが、要するに別のステージに移動したんだと思うのです。それは案外と幸福なことだったりするのでしょう。

表現を持続させていくには何かが必要になります。1.補完されない喪失を抱え続ける。(自律的に辞められない)2.社会的に必要とされ辞めることが出来なくなる。(他律的に辞められない)3.趣味として持続させる。(縮小継続)

僕は1でのたうち回ってる状態です、2に入り込みたいと願いながら。3は選択できない気持ちがありました。それは「24時間365日芸術家であれ」という「プライド」が「趣味」ということを受け入れられないでいるからです。

(後編に続く)

 

 

武盾一郎氏のサイト

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武盾一郎氏のツイッター

http://twitter.com/Take_J

武盾一郎氏を紹介するウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%9B%BE%E4%B8%80%E9%83%8E

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