Art(ist)とベーシックインカム(後編) 武盾一郎

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  • 表現の背骨

描くことに救われた僕は、日々の暮らしが全て絵画制作の為にありたいと願いました。映画を観ても、散歩をしても、食事をしても、誰かと居ても、昼寝をしても、眠って夢を見てても。生存と制作が直結してる、Lifeis Art. でありたいと。

絵が上手いわけでもない、美術エリートでもない、絵を描き始めたのが25歳と遅い。自分がそうだから、こぼれて落ちてしまう価値観、人、もの、風景、感情、に留まり、そこににある人間の不可解な本質を見つめたいと思いました。そこから自分なりの表現を打ち出したかったのです。

<レジスタンス>(1995~1999年)

そんな思いが重なり合った点で偶然に実現したのが『新宿西口地下道段ボールハウスペインティング』です。

http://cardboard-house-painting.jp/mt/

ホームレスの味方であるとか野宿者の人権を訴えたいとか、そういうのではなく、自分にとっての「芸術とは?」に対する掛け値なし直球の「体現・答え」だったと思うのです。

思いのままに絵の具をぶちまけて描く。それが生きてるってこと。

モロにベタだけど本当にそう実感しました。その気持ちで、ラブホテルに暮らしながらラブホテルに絵を描いたり

http://take-junichiro.tumblr.com/post/79868586/motel-room-painting-at-baraki-1996

デザインフェスタビルにペインティングをしたり

http://take-junichiro.tumblr.com/post/79857096/design-festa-building-painting-at-harajuku-tokyo

巨大な作品を描くのでした。これらは、複数人で描く。絵で埋め尽くす。という制作スタイルでした。

新宿西口地下道での制作で芸術はレジスタンス足り得るんだと実感した僕は、排除、撤去の圧力に抗う現場での制作を何よりも重んじました。

廃寮問題に揺れる東京大学駒場寮

http://take-junichiro.tumblr.com/post/79612250/take-junichiro-exhibition-at-obscure-komaba

神戸市須磨区下中島公園にある震災非公認避難所しんげんち

http://take-junichiro.tumblr.com/post/79862424/1998

現場に身を置いて制作する、滞在する、スクワットする、そのことがレジスタンスになるはずだと考えたのです。

「芸術は真実を純粋に追求するが故に反体制側に成らざるを得ないのだ」という気持ちでした。恐ろしく馬鹿っぽいですが本当にそう思ってました(笑)。

アートとアクティビズムの共存、レジスタンスとして力を持つアート。僕は芸術に抵抗という意味を与えようとしました。一瞬ユートピアを垣間見たのですが、それはコミュニティの中で潰されてしまうのでした。芸術が社会を変える夢を本気にした僕は木っ端微塵に打ち砕かれて酷く落ち込むことになるのでした。

<ファンタジー>

「絵とはファンタジーそのものである」

現実に挫折した人間がファンタジーに逃避する。と言ってしまえばそれまでかも知れませんが、2000年から僕は埼玉に引き蘢り神話とファンタジーの世界に入り込んで行きます。

これまでは思いをぶちまけ、放出、発散、解放して「瞬間」に全てをぶつけるというやり方でした。描く行為そのものが重要で、自分の身体も作品の内側でした。過程に生命があるんです。だから描いている最中の僕の身体も作品の内側に入っている、というわけです。

なので出来上がった作品は「動かない死体」のような感覚を持っていました。

そんな制作をしている間にも、少しずつ世界を作品の中に封入して行きたいと思うようになってきたのです。

僕にとってファンタジーとは現実を取り込んでいったん噛み砕いて溶かし、そこから再度成形したものを作品の中に閉じ込めてしまうことです。

そして封じ込められた作品は「不思議な感じがする」「向こう側に行く感じがする」など感覚に訴えるような息づく「時間」の保管庫となります。それは、死体ではなく「封印された生命」のイメージです。なので制作者の身体は作品の外側にあります。

なんといっても「不思議に感じる」というのが僕にとってのファンタジーの重要な要素です。「かなしみ」と「ふしぎ」はどこか通じてるんです。

ファンタジーへの入り口は新宿西口地下道で描いている時からありました。

目には見えないけど地下道には「何か居る」と感じる体験をしたのです。人でもないネズミでもない多分幽霊でもない。それはとても不思議な感覚で、僕は「精霊」と呼ぶことにしました。それ以来、僕は「場所」に「精霊を感じるか」をとても気にするようになるのです。これはいわゆる心霊スポットとかではなく、その土地・場所の持つ雰囲気みたいなものだったり、産土神であるとか、ゲニウスロキであるとか、そういったものなんだろうと思います。

それから神戸に滞在してた時、公園での生活が影響したのか、古事記や先代文字や縄文時代など、アニミズムや古代に興味を持つようになります。その後、車に暮らしながら放浪する東北地方で出会う神々しい自然も多大なイメージを僕に与えてくれました。

神々や精霊たち、人間の原初的な世界観、宇宙観、そういったものに触れた時の不思議感を描きたいと思うようになるのです。

埼玉に戻って落ち込みながらも苦心して制作するのが、古事記に登場するヒルコから着想を得た『夢のまほろばユマの国』の世界です。

http://uma-kingdom.com/movies/archives/000057.html

古事記に登場するイザナギとイザナミの第一子ヒルコは骨のない奇形児で、葦舟に乗せて流されてしまいます。

面白いことに、中世になるとヒルコは蛭子(えびす)となり、大衆俗信仰の福の神として復活します。

そんな捨てられた神々と精霊の世界を描こうと試行錯誤するのですが、現在は本当に封印されています。

<個人作品>

1995年アーティスト活動を始めてからずっと共同制作を基本にしていました。自分ひとりでも絵はもちろん描くのですがそれらを発表する発想があまりありませんでした。

最初の表現がバンドだったせいか、みんなで1つの作品を作るように、またセッションから曲を作っていくように、アイデアを出し合って複数で制作するやり方しか知らなかったのです。

1人で作品作っても孤独でつまらないし、自分1人の想像力ってたいしたことない。複数人で作った方が楽しくて作品が面白くなる。という考えでした。

それに個人に重圧をかけているように見える近代の芸術家像にどこか違和感もありました。

ところが、引き蘢り生活と世界を絵に封入したいという気持ちが、徐々にひとり作品を作らせていくことになりました。

最初は筆を持って絵の具を扱う気力すらなく、自分の吸った煙草の吸い殻にボールペンで落書きを始めるのです。

あれだけ巨大な絵を描いていたのに、根こそぎ折れた自尊心が辛うじて描ける絵のサイズが吸い殻だったのでしょう。

http://take-junichiro.tumblr.com/post/79560354/cigarette-drawing-2004-collaborated-with-ange

このシリーズが、絵の具を盛っていく「ペインティング」から、刻まれた線の痕跡である「ドローイング」に移り変わるきっかけとなるのでした。

煙草の吸い殻から画用紙に支持体を移し、F3サイズ(273×220mm)を中心に描いてるうちにちょっとずつちょっとずつ今の画風に成っていくのでした。

30代も後半になってようやく「画家」に近づくのです。

http://www.flickr.com/photos/take-junichiro/sets/72157611770365537/show/

3.労働

かつて労働を恨んだ僕は、絵画制作を日々続けているうちに、これって普通に労働ではないのか?と思うようになりました。金にならない働きをこんなにも一所懸命やっていて、なんでここまで人からバカにされないとならないんだ?と、半ばやけっぱちな気持ちにもなってきました。

例えば町工場で10年以上職人さんをやってきた人に不景気になったからといって「じゃあとっととバイトでも探しなよ」って言えますか?

アーティストが貧乏で困っていても「ならバイト見つけて働けやボケ、カス」と言われてしまいます。アーティスト活動って「何も労働してない」という認識なのです。

最初はそれでもいいと思っていましたが、長年続けていくうちにいい加減、悔しくなって来たのです。

  • 芸術労働者宣言

2010年9月8日、僕は「芸術労働者宣言」をしました。

https://docs.google.com/document/edit?id=1A0Tf87in_GANG_WsChJRbo50u9zVYKO3Rx0ZCgJowpI&hl=ja

芸術労働を考えることは、雇用された賃労働のみを労働としその枠内だけを守ろうとしてきた従来の「労働」を解放し、人間の全ての営みを労働として再定義させる可能性を秘めています。

家事育児であるとかご近所付き合いであるとか、コスプレだとかフリーソフトを作ってるだとか、無職だと呼ばれてしまうほとんどの営みについて考えることになります。

人間の全ての営みが労働ならば、それは保障されて然るべきなのである。

芸術労働者運動はベーシックインカムへと繋がると思うのです。

  • 僕の芸術労働

今、僕はどのような芸術労働をしてるのか、具体的に書いていこうと思います。

今年2010年7月9日(金)~7月18(日)に僕は初個展『Real FantASIA』を開催致しました。ありがとうございます。

http://take-junichiro.tumblr.com/post/865148642/real-fantasia

メインとなる作品は648×1016mmの紙に黒、銀のボールペンで描いているシリーズです。それらのタイトルを『RealFantASIA』とし、個展の表題にも致しました。

例えばこの2作品。

http://twitpic.com/uwxie

http://twitpic.com/uwx76

黒と銀、2作品同時進行で制作していきます。2009年10月29日に描き始めて、12月24日に描き終わっています。完成まで約二ヶ月かかってます。

ほぼ毎日制作します。描き方は48分描いて12分休憩を繰り返します。生活は地味に淡々と、制作風景はこんな感じです。

http://homepage.mac.com/take_junichiro/iblog/C622270572/E20091221213506/index.html

展覧会風景の動画に僕が制作方法について解説しる場面がありますのでこちらも参考にして下さい。

http://zoome.jp/whiteproduction/diary/292

絵画制作とは誰からも何も頼まれもしないのに身体に発注するアウトノミア・プロジェクトです。身体は毎日コツコツと手を動かして労働します。

そしてこの労働に対する報酬は売れた分になります。

実際この個展ではメインの大きい作品群は1つも売れず、F3サイズ(273×220mm)、はがきサイズ、名刺サイズの絵が売れました。完全に違法な労働を僕は自分に課していることになります。

冷静に考えると、いや、ちょっと考えれば分かることだが、絵がそこそこ売れても食ってはいけないのだ(笑)。

多くを望んでるワケではありません。描きたいものが描ける環境でありたい。

暮らす場所、描く場所、食べもの飲みもの、服、画材など、それから移動、インプットと解放、そして休養。

その為にお金はどうしたって必要ですが、必要な分だけあればいいです。生存と制作が保障されるなら。そして加えるとするならば、愛する人が現れた時にその人を守れるくらいの余裕が欲しいです。それが正直なところです。

最小限の消費とエネルギーで辛うじて制作をつなぎ、金も運も尽き、もう本当ににっちもさっちも行かなくなってしまったら潔く自害する。という選択肢しかないのだろうか。この膨大でマゾヒスティックな悦びの労働の報いは自己責任としての「自決」以外にないのだろうか。

僕はこの芸術労働を続けて、普通の労働者と同じように、普通に生きていきたい。幸福でありたい。

全ての営みは労働なのである。

<武盾一郎氏 プロフィール>

サイト

http://take-junichiro.tumblr.com/

ツイッター

http://twitter.com/Take_J

ウィキペディアでの紹介

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%9B%BE%E4%B8%80%E9%83%8E

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