「生きるための経済」関さん講演の補遺――ゲゼルの減価貨幣について

関曠野さんの「生きるための経済」の補足として、当日の司会の白崎が、ベーシックインカム論議でよく話題になるゲゼルの「減価貨幣」についての質問をさせていただきました。それが以下の文章です。

 

 

(白崎) ベーシックインカム(BI)の導入に賛成する方々の中に、BIを減価貨幣で支給したらどうか?というご意見がけっこうあります。この背景には、いくつかの論点が含まれているように思います。ご存知のようにこれは、シルビオ・ゲゼルの減価貨幣の考え方に基づいています。ゲゼルはお金の流通が滞るのが問題だと考え、お金の流通を速やかにするために、貨幣の価値が一定の割合で減っていくシステムを考えたわけです。減価すれば、どんどん貯めないでつかっちゃうだろうということですね。また、利子経済をなくすためにもマイナスの利子としての減価を考えている。それに減価はインフレ対策としても有効ではないか?というのですね。
特に地域通貨を実践している人たちは、1930年代の恐慌時にオーストリアのヴェルグル村で成功した「スタンプ貨幣」とBIのつながりを考えるようです。私も減価の割合によっては、部分的に減価貨幣を導入してみてもいいのでは?と考えることもあるのですが、このあたりのことについて、関さんのご意見を伺いたいと思います。

 

 

 

◆(関曠野) ゲゼルの減価貨幣論は現在欧米では殆ど話題にならないのに日本では意外によく知られているようです。これはだいぶ前にNHKがドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの特集番組をつくり、その中でエンデが減価貨幣に言及したせいらしい。それで果てしない経済成長による環境破壊を憂慮する人たちがゲゼルの通貨改革論に関心をもつようになった。利子で動く経済は果てしない経済成長に向かい、最後には破滅する。それに対しゲゼルのマイナスの利子を課されて減価する貨幣は動植物の生命のように老化する貨幣として評価すべきだというのがエンデの主張のようです。

この評価は全くの勘違いに基づいています。エンデは児童文学者としては評価すべき人なのでしょうが、こと経済思想に関してはナイーブで世間知らずな人というしかありません。ゲゼルに関するエンデの誤解を広めたという点では、NHKも困った番組を作ってくれたと思っているんですよ。

 

とにかくゲゼルの減価貨幣は生命論などには何の関係もありません。ゲゼルが問題にしているのは、供給側と需要側という二つの立場の非対称性です。つまり商品を生産した企業とそれを仕入れた販売業者は、どうしても商品を売り捌かねばならない。さもないと倒産してしまう。生産し販売する供給側は商品を売り切ることを強制されている。ところが消費者の側には商品を買っても買わなくてもいい自由が常にある。

だから需要側=消費者にも供給側の立場に相応して商品の購入を強制する必要があるというのがゲゼルの考えなのです。使わないと目減りする減価貨幣は、消費者の自由を消滅させて商品の購入を強制するための手段です。この「強制」というのは私の解釈ではなく、ゲゼル自身が使っている言葉です。

しかし現在我々が直面している経済の危機を考えて下さい。

問題は、金持ちなのにケチな人が高級車や別荘を買おうとしないから景気が落ち込むといったことなのでしょうか。そうではなくて、会社が倒産して失業し、失業保険も切れてコンビニのお握りも買えないといったことが問題なのではないでしょうか。現代社会では人口の大部分は給与生活者かその扶養家族であり、それゆえに雇用、所得、物価といったことが大問題になります。

古典経済学はミクロの視点から経済を個人の行動や選択に還元します。しかし現代の複雑で高度に組織された経済は、一国の経済を集計して投資、消費、雇用、所得といった要素で分析するマクロの視点なしには理解できません。ゲゼルもダグラスと同様に利子や銀行制度の弊害を論じています。しかしゲゼルは利子や金融を企業会計の問題として捉えていない。彼の思想には、こういうマクロの視点がすっぽり抜け落ちているのです。

十八世紀の人アダム・スミスは、住民がみんな自営業者で彼らの商取引で社会が成立しているような状態をモデルに経済を考えました。ゲゼルの経済社会観は、このスミスと大して変わりません。ダグラス大佐はゲゼルの減価貨幣を「商業の繁栄しか考えていない」と批判しましたが、要するにゲゼルはマクロ経済学以前の人で、金融資本や大企業による市場の支配といったことは彼の視野の外なのです。彼には当時ドイツで猛威を揮っていたマルクス主義を批判しようという志があったようですが、十八世紀の発想に戻ることではマルクスを批判したことにはなりません。

 

 

ところで手持ちのお金を使わないでいると毎年少しずつ減価していくという仕組みは、貯蓄に対する処罰的な課税だと言えます。商業にはプラスでしょうが、このように処罰の恐れによって動く経済があっていいものでしょうか。また人々に消費を強制することはエコロジカルどころか、欲しくない商品まで買わせる浪費的な消費の奨励につながりかねません。これに対してダグラスの国民配当は、贈与を経済の原動力とするものです。

減価貨幣は三十年代大恐慌の際にオーストリアの小さな町で実験されて成功を収めたと言われています。しかしそれは地域的に限定され短期間に終わった実験にすぎなかった。長期間実験を継続していたら必ずマクロ経済的な問題にぶつかって挫折していた筈です。事実、同時期に似たことを試みたスイスの通貨改革運動は、結局ゲゼル思想を見限ったお陰で今日まで存続しています。これはさまざまな中小企業が緩やかな協同組合をつくりWIRという仮想の計算貨幣で相互の決済を行うもので、むしろダグラスが地域経済のために構想したシステムに似ています。

今この国では「格差」が大問題になっています。さまざまな格差は最後には各自が保有する貯蓄の格差に行き着きます。そして銀行はこの格差を特権に変える制度だと言えるでしょう

。銀行に預金をすれば、それには利子がついて魔法のようにカネがカネを産む。そして実体経済の裏付けがない銀行マネーのせいで経済が破綻しても、充分な貯金があれば経済的困難を容易に切り抜けられる。だから恐慌になると人々は貯金を溜め込んでしまうので経済の収縮が止まらない。経済が混乱する根本には、この貯蓄という問題があるのです。

それゆえにゲゼルもダグラスも貯蓄に縛られない経済システムを構想しました。そして目下先進諸国の中央銀行が政府を丸め込んでやっている量的緩和という恐慌対策も、貯蓄破壊の側面を持っています。膨大な紙幣を刷ってばら撒けば破産状態の銀行が抱える負債も減価して軽くなるし、人々は貯蓄を減価する前に使ってしまうようになるだろうという訳です。しかし皮肉なことに、このようにインフレで負債デフレを解決しようという策動がかえってデフレを深刻化させています。とはいえ長期的には量的緩和がハイパーインフレを惹き起こす危険は否定できません。そしてハイパーインフレほど社会を荒廃させるものはありません。

ゲゼルにせよオバマにせよ、貯蓄の破壊で貯蓄の問題を解決しようとすること自体が間違いなのです。この問題に対する唯一妥当で理性的な解決策は、信用の社会化と国民配当によって貨幣を富を分配する切符に等しいものに変え、貯蓄が経済を左右する今日の状態から脱却することです。利子は、それをマイナスの利子に逆転させてもやはり社会に弊害をもたらすでしょう。肝心なことは、富の私的所有に対する報償としての利子をなくしてしまうことなのです。