講演「生きるための経済」補遺ーー「会計」から「信用の管理」へ (関曠野)

この十一月に地元有志のお招きで東京都町田市で社会信用論について講演する機会があった。事前に幾つも質問が来たりしてベーシック・インカムや通貨改革に世の関心が急速に高まっていることを感じさせられる講演会になった。そして講演の後の質疑応答も演者の私自身の勉強になるようなものが多かった。しかしその中に一つ、私が戸惑ってしまった質問があった。会場の奥の方にいた若い男性から「政府通貨を所得保証その他公共の利益のために発行することは分かるが、その金自体の出所はどこにあるのか」と訊かれたのである。私はその場で質問の意味がよく分からず、その人を納得させるに足る明快な答えはできなかったように思う。そして後で質問を再考して彼が言いたかったことが分かって、社会信用論についての自分の説明不足に気づいた。

要するにこの人は通貨の問題を「会計」の観点から考えていたのである。政府通貨の発行を財政的な「支出」とみなすならば、左の「支出」の欄に対応して右に「収入」の欄がなければおかしい。三月に東京で講演した際にも、会場から似たような質問が出た。「話を聴いていると、政府通貨が個人と企業にどんどん供給されて、しかも回収されないように見える。インフレになるのでは」という質問である。これも政府による通貨の供給を会計の視点で「支出」と捉えている質問といえる。

しかし社会信用論においては、収入や支出という言葉は意味をなさない。会計とは結局損得勘定のことである。だが社会信用論における信用の社会化や基礎所得の保証は損得には関係のないことである。ゆえに政府通貨は会計や財政の視点で管理されるものではなく、それを個人や企業に供給することは「支出」ではない。このことを改めて説明しよう。

経済とは簡単に言えば「生産されたモノやサービスが消費されること」である。そして社会信用論においては、通貨と信用は生産されたものが消費される過程を順調に進行させる潤滑油のようなものになる。ダグラス少佐は、そのための交換手段にすぎない通貨を切符に喩えている。人々が電車を利用するためには切符を発行する必要がある。そして乗客が目的地についたら切符は回収され廃棄される。切符それ自体には何の価値もない。通貨もそれと同じで、生産されたモノの消費を促進すること以外には何の価値もない。人々が貨幣の価値をフェティッシュ的に信じ込むようになる原因は、銀行のせいで通貨(所得や資金など)が絶えずひどく不足する経済状況が作りだされているからである。そこから生産と消費ではなくマネーそれ自体が経済を動かしているという錯覚が生じる。もっとも現代の銀行経済においては、これは錯覚とは言えないのだが。

政府通貨は、個人と企業にその必要に見合う交換の手段を与えて生産と消費の過程を円滑にする目的で供給される。その企業に対する融資の在り方は、電力会社による電力の供給に似たものである。電力会社は、夏にはエアコンや高校野球のテレビ観戦による需要増大を見越して電力の供給を増やし、夜には人々が電気を消すので供給を減らす。このように電力は常に調整しながら供給されているので発電量の過剰や不足はまず起こらない。政府通貨もそれと同じで、国は国民経済の分析と予測に基づいて、生産のために必要と思われる量の通貨を企業に無利子で融資する。これは電力需要の予測や気象庁の天気予報に似た作業だから、政党や官僚の特殊利害などが混じってはならないものである。それゆえに政府から独立した公的機関である国家信用局が通貨と信用を管理することが望ましいだろう。

他方では、国は個人に対する基礎所得保証および販売部門に対する無利子融資で消費を支え、生産と消費を均衡させる(社会信用論の目的はこの均衡の実現であり、生産と消費の果てしない拡大=経済成長ではない)。そして消費者が商品を買った時点から通貨の回収が始まる。販売部門と企業は、その利益で先に融資された資金を政府に返済しなければならない。だがこの返済は借金の取立てではない。これは、先に供給した通貨を回収して、通貨の過剰供給でインフレが発生することを防ぐための措置なのである。だから速やかに返済できない企業が出てきても、返済条件の再交渉はいくらでも可能な筈である。

今日の世界には、実体経済(生産+消費)と銀行マネー経済という二つの経済がある。これに対し社会信用論が実施された世界では実体経済しかなく、通貨は生産と消費の過程を円滑に進行させる切符や潤滑油のようなものにすぎない。そこでは生産されたものが消費されるサイクルに即して通貨は発行され回収される。こうして国民経済の次元では、日銀のバランスシートに代表される会計は信用の管理に取って代わられる。収入と支出という言葉はもう意味をなさないのである。