ダグラス小伝

C・H・ダグラス(Clifford Hugh Douglas)について

・社会信用のはじまりは、この名前から始まった。その人の名は、クリフォード・ヒュー・ダグラス。彼は、1879年マンチェスター郊外の町ストックポートに生まれた。ケンブリッジ大学に進み、そこで数学の名誉学位をとった彼は、その進路としてエンジニアの道を選択した。

・ダグラスは、重要な仕事を任された優秀なエンジニアだった。インドでは、ウェスティングハウス社のマネージャー兼エンジニアとして、南米では、ブエノスアイレス大西洋鉄道社の副電気技術主任をつとめた。イギリスに戻ってからは、ロンドン郵政公社地下鉄の建設にたずさわり、第一次大戦中には、ファンボロウの王立航空機工場の工場長補佐の地位にあった。彼の肩書に「少佐(Major)」の名がつくのは、このときに、軍用機の製造にかかわったことからくるものである。インドでは、政府の強い求めで水力発電の調査をし、その計画の有効性を主張したが、「資金不足」で計画は棚上げとなった。これらの経験は彼に「金融問題」を気づかせることとなる。

・ダグラスは仕入原価会計の専門家でもあった。英国政府が航空機工場の経理における「ある混乱」を整理するために1916年にファンボロウへ彼を行かせたのは、彼のこの専門性のためである。 ダグラスは、ここでコスト計算や資金計画の必要性などの分析から、「A+B理論」(関曠野さん講演録を参照)の着想を得る。
ダグラスは、アカデミズム的な意味での経済学者の肩書はもっていなかった。しかし、誤った前提で研究している経済学による権威づけは彼には必要なかった。今日の経済の本質とその欠陥の分析において、彼は偉大な「経済思想家」とよばれるべきだろう。

・ダグラスは、最初、1918年12月号の「English Review」において“Delusion of Super-Production” という論文を発表し、その後にA・R・オレイジの論壇誌「新時代」に次々と論文を発表する。これらは、『経済民主主義』という著作として出版され、これが、ダグラスの最初の著作となる。同年には『信用力と民主主義』、続いて『社会信用論』(1923年)、『生産の統制と分配』(1931年)、『民主主義への警告とアルバータの経験』(1937年)などの著作が発表される。これらの著作とは別に、社会信用論の講演を世界各地でおこない、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、日本、ノルウェーなどへ講演旅行をしている。

・イギリスやカナダでは、「社会信用党(ソーシャルクレジット)党」が誕生し、カナダのアルバータ州では、社会信用党の政府までが生まれた。彼は、それらの党のリーダーとなるように要請されたが、固辞し続け、理論活動とその普及に努める。

第二次大戦以降、亡くなるまで、ダグラスは、その社会信用論の思想を深めていく。
彼は、1952年9月29日にスコットランドの自宅で亡くなった。73歳だった。(文責、白崎一裕)

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