「仁和寺講演追記・イスラム銀行について」 関曠野(思想史)

講演で私はイスラム銀行のことを話しましたが、イスラム銀行が車住宅などの個人ローンをどのようにやっているかには言及しませんでした。これを補足説明しておきます。 車や住宅の場合、融資希望者に代わってまず銀行がそれを買ってしまいます。それに多少価格を上乗せして希望者に売り,債務者はそれを長期分割払いで返済します。これは利子のように見えますが、まず利子を払ってしまい複利で増えることもない。価格の上乗せは融資手数料とみなすべきでしょう。

イスラムの個人ローンでは債務者が死んだり不治の病になった場合には債務は帳消しになります。また債務の保証人の必要はなく家族の連帯責任もありません。融資のリスクは債務者ではなくすべて銀行が負うというのがシャリ ア(イスラム法)の原則です。だから返済期限も明確でないことがあります。

では進学ローンのような無形のものにはどうするか。この点では、日本や欧米とイスラムでは教育観がまるで異なることに注意する必要があります。日本や欧米では大学教育は基本的に資本主義的な労務管理であり、それが学歴差別や学歴信仰の原因になります。例えば、奨学金の制度は、30年代大恐慌に際して新卒の若者が労働市場に大勢入ってきて失業問題がさらに深刻になることを防ぐために若者を大学に囲い込んでおくというローズヴェルト大統領のニューディール政策の産物でした。そしてアメリカが恐慌を大戦の軍需ブームで乗り切った後は、大卒の学歴は豊かな消費社会に都会のホワイトカラーとして参入するための入場券になりました。しかしイスラム社会にはこのような労務管理としての大学教育やそれに伴う学歴信仰はありません。

この社会では古典的な学問観が生きつづけています。イスラムの価値観では貧しい家庭の子弟の向学心を借金漬けにして金儲けの種にすることは言語道断なことです。そしてイスラム社会には学問は社会の共同財産とする立場から貧家の子弟に学資を無利子で貸す慈善団体がいろいろあるようです。銀行は融資希望者と面談のうえそうした団体との仲介役をやります。

銀行自身が融資することもあります。その場合は、日本の講に似たTAKEFULというシャリアの概念が使われます。卒業して社会人になった債務者は奨学基金に返済し、それは基金の資本の補填に充てられます。 既卒者と進学希望者の共済組合のようなもので、もちろん無利子融資です。

ただイスラムの進学ローンでは進学の動機、目的、学習プランなどが面談で厳しく審査されます。社会に貢献する専門家の養成につながる進学であることが融資の条件になります。そしてイスラムでは大学教育も基本的に実用教育とみなされるので、科学技術系の学部学科への進学が優先されるようです。

ベーシックインカムはいかなる政治的意志により実現されるか。  ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕

元外交官で評論家の天木直人さんが、ご自身のメールマガジン(2013年5月29日第390号)で「ベーシックインカム論者はいまこそ対案を提示すべきではないか」という文章を書いておられた。それに応答する形で今回のメルマガを書いてみよう。

天木さんは、斉藤美奈子氏の東京新聞コラムを引用する形で、最近の生活保護法改悪(改正?)とマイナンバー制度導入に反対する対案をベーシックインカム論者は提起すべきではないか?と問いかけている。これに対する答えは、ある意味、ベーシックインカム論者には明確だろう。すなわち「無条件・個人単位」の「普遍的・万人への」所得保証こそが、温情主義(パターナリズム)や煩雑な制度と差別的スティグマにからめとられている生活保護制度への対抗案だということだ。

しかし、これでは、天木さんの本当の問いかけに答えたことにはならない。天木さんは、メルマガの最後を「少なくとも政治にその意思さえあれば」と書いて締めくくっている。

天木さんの言いたいことは、ベーシックインカム論者は、政治的に実現可能な対案を示せといっているのだ。無条件・個人単位のベーシックインカムが既成の社会保障制度に比較してよりましな制度だということは重々承知だ!そんなことはわかっているから、どうしたら、それが実現するのか、いいかげんにプランを示せ!ということだろう。

まさに、このメルマガのタイトル「ベーシックインカムはいかなる政治的意志により実現されるか?」が問題なのだ。

政治的意志ということで想起されるのが、ユーロ金融危機で揺れる欧州で台頭する既成政党とは一線を画す勢力のことだろう。野末編集長が何度もとりあげてきた海賊党やイタリアの五つ星運動などだ。これらの運動のスローガンや政策プランの中にはいっているのがベーシックインカムである(五つ星運動が、無条件の所得保証かどうかは明確ではないが)。上記の運動の特徴は、議会主義や政党政治を批判して人民の直接民主主義による政治改革を行おうということにある。また、その手段としてインターネットの大規模な活用ということも掲げられている。このこととベーシックインカムはどのように関連するのか。

関曠野さん(思想史)が、以前から強調しているように、近代租税国家と税の分配装置としての政党政治は、共に不即不離の関係にあって同時進行で解体過程にあるということだ。右肩上がりの経済成長の限界と共に税収も伸びず、その税収の大半を国債など負債の利払いに追われる近代国家とその延長にある福祉国家の欠陥を超越すべく、欧州の新興政治勢力は台頭してきたとみるべきだろう。ここにベーシックインカムが政策として盛り込まれる必然性があり、加えて、ベーシックインカム運動は通貨改革を伴う政府通貨発行へと行き着かなければならない。だが、ここで立ち止まろう。再度言う、それならば、その政治的意志はどこからどのように生まれてくるのか。

ポイントは、やはり、直接民主主義だ。これも、いままでのメルマガで紹介してきたが、スイスにおけるベーシックインカム制度化の国民投票実現への署名活動である。国民投票が憲法に明記されているスイスならではの動きだが、これこそがベーシックインカム実現のための政治的意志表現の重要なヒントとなる。

残念ながら、現行日本国憲法には、国民直接投票の規定がない(厳密には、憲法改正条項があるが)。そこで、考えられるのが、住民投票条例だ。原発問題と同様に各地方から続々とベーシックインカム住民投票条例運動が巻き起こること。またこれにリンクして全国知事会が過去に提起してきた日銀による国債の「直接」引き受け(政府通貨発行)政策圧力が中央政府に加わること、この二つこそが政治的意志の転換点だ。だが、再々度、ここで立ちどまることを余儀なくされる。どのようにしたら、上記のような状況が生まれてくるのか?

この状況が生じてくるためには、現在のまやかし量的緩和政策であるアベノミクスが失墜することに(これには、欧州やアメリカの経済的危機も加わる)よる一段の経済的混乱がなければならないだろう。そして、その萌芽はすでにあるともいえる。たとえば、7月の参議院選挙をめぐる自民党の地方県連と中央本部との対立だ。この対立は沖縄の普天間基地移設問題と福島の原発政策をめぐるものである。この対立の内容にはここではふれないが、日米安保エネルギー体制の揺らぎと言っておこう。中央と地方の対立、それも「沖縄と福島」という場が近未来の政治混沌への示唆となる。

ベーシックインカムと通貨改革の政治的意志は、さらなる政治的・経済的混沌を待って、表現されるだろう。天木さんが以前から提案されているインターネット政党も同じ位相で実現すると考える。インターネット政党は、「政党」という名前を借りてはいるが、それは、徹底した、既成政党政治と儀式化・既得権益化した議会政治への否定からはじまる。すなわち政党を否定する「政党」なのだから。

私の天木さんへの最終回答は、「まだ、少し、待とう!」ということだ。

地方と中央の格差と対立がさらに深まる時、そして、グローバリゼーションの化けの皮がはがれる時、過去の新自由主義論や幻想福祉国家論などのヤワな政策を吹き飛ばす、本格的なベーシックインカムと通貨改革を政策提言として含む政治的動きが生まれてくることを期待する。私もそこに参画する事を最後に記して天木さんへのお返事としたい。

金融庁、預保版「特融」創設=無担保・無制限で危機回避―保険・証券にも公的資金

以下のようなことを許してはなりません。「公金」で金融業界全体を救済することを誰が合意したのでしょうか?マネーゲームのつけを「消費増税」などで、もたざる99%の国民におしつけてはならないと思います。(文責、白崎)

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金融庁、預保版「特融」創設=無担保・無制限で危機回避―保険・証券にも公的資金

 時事通信 11月10日(土)2時33分配信

金融庁は9日、リーマン・ショックのような国際金融危機を回避するため、預金保険機構による「特別融資」制度を創設する方針を固めた。経営破綻すれば金融システム不安につながるような大規模金融機関に対して、日銀の特別融資(日銀特融)と同様に無担保・無制限で貸し出し、危機の連鎖を断ち切る。銀行に限定していた公的資金の注入対象も保険、証券会社などに広げる。

金融庁は12日、金融審議会(首相の諮問機関)に新たな金融危機対応措置の原案として提示する。年末までに詳細を詰め、来年の通常国会にも関連法案を提出する。 

成長を超えて~~ベーシックインカム・通貨改革と脱原発への道 (4) ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕

原発再稼働問題でも原発建設予定地での推進派と反対派の対立でも原発推進派から必ずでてくる科白が「原発がないと地域の経済が立ち行かない」というものだ。長い間、原発は地域を潤す特効薬として宣伝され政治の道具として使われてきた。そうであるならば、原発のかわりに、原発を受け入れている地方にベーシックインカムを支給して原発がとまっても何ら経済的に問題はないということを証明しようという発言がでてくるのは当然だ。twitterで映画監督の鎌仲ひとみさんがそんな風によびかけていた。正論だと思う。

正論には違いないがその実現のためには通貨改革を含めて相当な下準備がいるだろう。実現はそう簡単なことではない。そもそも、わたしたちには、いつの間にか東京を中心とする大都会は富んでいて、地方は限りなく貧しいという思考が刷り込まれている。確かに現実は「貧しい」のだ。ただ、それが永遠の昔からの常態であったような錯覚に陥っている。まずは、ここの思考の塊をほぐすことからはじめてみよう。

現在、知事選挙で話題の山口県には、上関原子力発電所建設計画問題がある。この原発を誘致しようとしている上関町とはどんな町なのだろうか。町の高齢化率は約50%(全国平均が20%)。ここ40年間で人口が6割減っている(1970年には8308人だった人口は2010年で3332人になっている)。これに関しては、朝日新聞(山口地方版)2011年3月8日に「交付金見込み17%増 上関予算案」という見出しの次のような記事がある。少し長いが全文引用する。

『上関町の2011年度一般会計当初予算案が7日、3月定例議会に提案された。上関原発建設計画に伴う国の原発立地地域特別交付金10億3800万円の歳入を見込み、総額は前年度比17・2%増の43億9496万円。「総合文化センター」と「ふるさと市場」(いずれも仮称)を年内に着工するほか、今年度に続いて全町民に2万円の振興券を配る。  総合文化センターは公民館と図書館、多目的ホールのある施設で、総事業費は約13億円。併設するふるさと市場には直売所や飲食店、航路待合所などを設け、総事業費約4億円を見込む。ともに上関町室津の埋め立て地に建設し、12年秋に完成する予定。室津小学校跡地に建設中の温浴施設「上関海峡温泉」と合わせ、11年度当初予算案に占める3施設の事業費は約11億2700万円。うち10億3800万円を特別交付金でまかなう。特別交付金は09~13年度に計25億円見込まれる。

町民3558人(1日現在)に2万円の「花咲く海の町振興券」を交付する事業は今年度初めて取り組み、経済効果があったとして新年度も約7400万円を予算化した。中電の寄付金などで運用する「ささえあい基金」を充てる。

一般会計当初予算の総額は09年度比で34・2%増、08年度比で40・5%増。歳入に占める町税(2億4233万円)の割合は5・5%しかない。「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表は「身の丈を度外視した予算。ハコモノばかり造って、将来は運営費がかさんで大変なことになる。よその原発立地町村の教訓を踏んでいない」と指摘する。(渡辺純子)』

(上記、人口推移および新聞記事の存在は、『原発廃炉に向けて』エントロピー学会編所収の「上関原発の建設中止の行方」三輪大輔著より学んだ)

なんと、中国電力の寄付金をもとに現金給付まで計画されているではないか。これこそお涙ちょうだい的「偽」ベーシックインカム!そして、予算総額はどんどん増えているが、歳入に占める町税の割合は微々たるものだ。この摩訶不思議な財政の背景に、原発立地困難地区対策として政策立案された「電源三法」(発電用施設周辺地域整備法、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法)があることはよく知られている。基本的な三法の仕組みは以下のようなことだ。

全国の電力会社(9電力会社と沖縄)から販売電力量に応じて一定額(1000kwにつき85円)の電源開発促進税を徴収し、それを電源開発促進対策特別会計の予算とし、その予算を電源立地促進のための多種類の交付金・補助金・委託金、特に発電所を立地する自治体(周辺市町村も含む)への「電源立地促進対策交付金」という「迷惑料金」にあてるというものだ。しかし、引用した記事のなかで山戸さんが言っているように「電源三法」制度は一時的な雇用・財政効果しかもたらさず、立地自治体には常に増設の圧力がかかり、麻薬的な作用を地域に強いるという批判は様々な論者からなされている(交付期間の終了により、財政規模が激減してしまうので、別の安定的な財源措置が必要になる)。また、法人住民税についても、進出企業の本社が他の自治体にある場合、従業員数に応じて比例配分される。そのため、電力会社本社が大都市にあり発電所が地方にあるような場合、法人住民税の多くは本社のある大都市に吸い上げられてしまう(たとえば、立地市町村に100人の従業員がいて、大都市本社など他の市町村に9900人の従業員がいれば、法人住民税の法人税割の99%は大都市に吸い上げられる)。

(電源三法、法人住民税のことは『新版・原子力の社会史』吉岡斉著および『脱原発の経済学』熊本一規著から学んだ)

冒頭に述べた地方はかぎりなく「貧しい」という刷り込みとも関連するがこのように地方が中央からの原発関連の予算配分にもたれて生きる構造、そして中央が地方から財・物・人が吸い尽くされてしまう構造はどのように生まれてきたのか?もちろん、この構造は、原発問題にかぎらず日本の近現代史における「中央VS地方」という構造に重なっているわけだ。

その歴史的原因は明治維新にある。典型的な例としても、また、福島原発が生まれてきた背景としても「東北」を例にそのことを考えてみたい。

東北地区は、幕末、東北諸藩が奥羽列藩同盟を結び薩長連合軍に対抗した。明治維新政府樹立後は、この東北同盟各藩は「朝敵」の汚名を着せられ弾圧政策にさらされる(それは白河以北一山百文という差別的な言葉によくあらわれている)。会津藩・盛岡藩など、減俸・転封を命ぜられた。これらの政策により東北地区は独自の近代化が遅れ「辺境」の地においやられてきたといってよい。この後、明治政府は、中央集権化政策のために官選知事を派遣して中央のコントロールのきく地方支配を貫徹しようとする。有名な県令・三島 通庸(みしま みちつね)はその典型的人物である。三島は、山形、福島などで地方隷属化の政策を断行し自由民権運動など抵抗勢力には厳しい弾圧を加えた。また、三島は、「土木県令」とあだ名されるように中央政府に都合のよい土木開発を行いその財源として地方への重税を課している。ゆがんだ「国土計画」の象徴が三島だ。三島のような人間像は、現在の東京電力の幹部にも受け継がれているといってよい。

このような流れと対極にある人物が盛岡藩出身の政治家、小田 為綱(おだ ためつな)である。小田は私擬憲法の「憲法草稿評林」の作成者として知られている。私は憲法思想と共に、彼が東北地区の地域実情にあった国土プラン「三陸開拓案」を明治政府に提案した人物としてその思想を評価すべきだと思う。小田のプランは現在からみても地方の地方による地方のためのものだといえよう。小田は、東北地区の農業開拓のために明治になって失職した士族を帰農させることを考えていた。この帰農プランの具体的な予算案もつくり、帰農者の生活資金などには鋳銭工場をつくりその利益をあてること、また、不足分は、富裕層からの借金なども考えていた。加えて地方独自の産業育成のための「陸羽銀行」(地方銀行)の設立や地方の人材育成のための「陸羽大学」(地方立大学)の開学も計画した(哲学・政治・農業・理化、医学、文学などの12学部の総合大学)。残念ながらこれらの提案はことごく明治政府によって無視されてしまう。

3・11以後の現在から未来を考えるとき、この小田為綱の思想から学ぶことは多いに意味がある。真の地方主権ということを考えていかない限りベーシックインカムも通貨改革もそのラディカルな実現は達成されないだろう。(この稿続く)

国際金融資本を鋭く批判するイタリア喜劇俳優べッぺ・グリッロの五つ星運動のブログ紹介

http://www.beppegrillo.it/japanese/2010/12/person-of-the-year-2010-movime.html

 

以下、そのブログから「銀行支配」という文章を転載します。

 

かつて議会があり、連邦政府があり、国とその将来について公的な討論がなされた。大して機能していなかったが、代表機関の国連もあった。これらすべては、記憶であり、民主主義的様相の灰で、過去の埃である。何も価値がなくなってしまった。他の組織は、人々にとって、WTO、BCE、IMFという神秘的なマークによって時代遅れになってしまった。私たちの運命は、彼らの手中にあるが、私たちはそれが誰によって操られているのか知らない。誰が目的を決めているのか知らない。誰も代表者を選んだわけでもないが、彼らに私達の生活は依存している。欧州中央銀行(BCE)は、政府に対して、脅しのレターを出すことができる。WTO は、自由経済で世界をむちゃくちゃにすることを決められる。 生産は多国籍企業がインドの子供か中国の労組のない権利のない労働者に任される。 何のグローバル競争について私達は話をしているのだろう。規則や権利が同等であれば競争は存在する。グローバルな搾取、産業化した先進諸国の給与の低下、前世代からの戦いで得た社会的、労組的成果の喪失について話したほうが正しいのではないか? いったい誰がすべてを決めたのか?WTOか。誰の名において?ギリシャはすぐにデフォルトにはならない。もし破綻したら、ギリシャの国債を有するフランスの銀行が倒産するから。 だから、まずその国有財産を売り、銀行を救済しなければならない。世界は銀行中心で社会政治についてはもう話題にもならない。EUはBCE、国連、WTOに取って代わられ、政府はIMFにとって代わられた。戦争自体が、リビア戦争で明らかになったように、もやは単に経済的目的しか持たず、もうイデオロギーや宗教、領土の戦争ではない。銀行は戦争に投資し、戦争が銀行に投資する。ホテルでは、身分証明書の代わりにクレジットカードを求められる。子供が生まれると、小児科医が決められる前に、財政赤字の分担分とともに納税番号が与えられる。政治家たちは、銀行家たちの給仕係で、私たちがその勘定を払うのだ。

【翻訳】リミニでの我がオスカー授賞式 マイケル・ハドソン

 イタリアの町、リーミニ(フェリーニの生まれ故郷で有名)で、ケインズ左派のマイケル・ハドソンらの通貨改革などの経済問題の話を2100人もの人が集まって聞いたというYouTubeの会場風景映像と、そのハドソンの報告をお伝えします。

 

原文:Our Very Own Oscar Night in Rimini By Michael Hudson 

 

  マイケル・ハドソン: 前証券エコノミスト。UMKC(ミズーリー大学カンザス校)の著名な研究教授。”Super Imperialism: The Economic Strategy of American Empire”(new ed., Pluto Press, 2002)他、著書多数。近刊予定 ”Hopeless: Barack Obama and the Politics of Illusion” (AK Press)に寄稿。(本稿は、2012年2月27日、website「カウンターパンチ」に掲載された[前日、アカデミー賞授賞式でオスカー像が授与されている]。

 

  私はちょうど、イタリアのリミニから帰った時だった、リミニでは、研究人生のなかでももっとも素晴らしい光景のひとつを経験した。カンザス大学ミズーリー校(UMKC)に関係する我々4人は、現代通貨論(MMT)について3日間にわたって講演するために招かれ、欧州が何故今日のような通貨危機にあるのを説明し、他の選択肢があること、99%に課せられた緊縮財政と1%による巨大な富の獲得が自然の力によるものではないことを説明した。

 

  ステファン・ケルトン(UMKCの経済学ブログNew Economic Perspectivesの次期代表・編集者)、犯罪学者・法学教授のビル・ブラック、投資銀行家のマーシャル・アウエルバッハと私は、フランスの経済学者アラン・パークスとともに、金曜日の夜、講堂となったバスケットボール場に踏み入った。2100人以上と伝えられた聴衆で満員の会場の中央通路をはるばると歩いた。聴衆が我々をファーストネームで呼びかけ、オスカー授賞式会場に入るようなものだった。彼らは全員が我々のブログを読んでいるとのことだった。ステファニーは、ビートルズがどんなに感じたが判ったと言った。スポーツイベントではなく知的イベントのための拍手が長く続いた。

 

  もちろん、対戦相手がそこにいなかったことが違いであった。多数の報道陣がいたが、優勢なユーロ・テクノクラート(欧州の経済政策を決定する金融ロビーイスト)は、緊縮策への可能な代替策の議論が少なければ少ないほど、彼らの横暴な金融支配を貫徹することがより容易になることを願っていた。

 

  我々の米国から(アランはフランスから)の飛行機代とリミニ海岸のフェデリコ・フェリーニ・グランド・ホテルの宿泊費集めのために、聴衆の全員が寄付をしてくれていた。会議は、パオロ・バルナルド記者が組織したものだが、彼はランダル・レイとともに現代通貨論(MMT)を学び、イタリアのマスコミ文化のなかに、何が欧州の生活状態を実際に決定づけているかの議論の必要があることに気づいた。その議論とは、この危機を、領地を拡大する新しい金融領主となる機会とすることを願う金融エリートの登場、赤字を賄うような中央銀行を持たず、公債所有者とネオリベラル[新自由主義]派から選ばれたユーロ官僚の世話になっている政府が売り払いつつある公的領域の民営化ということについである。

 

  パオロと多数の通訳・インターンのサポートスタッフは、米国では最近までほとんど聞くことのなかった金融・税理論へのアプローチを聞く機会を与えてくれた。ちょうど1週間前のワシントンポストは、現代金融論(MMT)をレビューする記事を掲載し、フィナンシャル・タイムズは長文の討論でフォローした。しかし、その理論は、主としてUMKC経済学部とバード大学レヴィー研究所(我々の大半がそれに関係しているが)でのものにとどまっている。

 

  我々の主張の主眼は、商業銀行がコンピューターのキーボード上で信用創造する――借主が利子付き借用証書に署名するのと引き換えに当座勘定信用を与える――のと同じように、政府も貨幣を創造することができるということである。銀行から借り入れる必要なくして、キーボードが行うと同じように、政府が財政支出を賄うためにほぼ自由に信用創造することである。

 

  もちろん政府が自由に信用創造するといっても、政府は(少なくとも原則として)、長期の成長と雇用を促進するために、それを支出することが違いである。それによって公的インフラに投資し、健康ケアその他の基礎的な経済的機能を調査・開発し、提供するのである。銀行のそれは、もっと短期枠のものであり、所定の担保物件の提供を条件に貸し付ける。銀行の貸付の約80%は、不動産担保の住宅ローンである。その他の貸付は、リバレッジド・バイアウト[買収先企業の資産を担保とした借入金による企業買収]と企業買収のためになされている。しかし、企業による最近の固定資本投下の大半は、内部留保から賄われている。

 

  残念ながら、企業利益の流れは、ますます金融セクターに向けられている。銀行への返済や違約金としてだけではなく、自社株の買戻しのためにである。その目的は、株価を維持し、それによって今日の金融化された企業が経営者に与えるストック・オプションの価値を維持するためである。株式市場――教科書の図表では、いまだに新しい投資資金を集めるものだと説明しているが――について言えば、高利のジャンク債のような信用をもとに企業を買収し、株を借金と交換する道具と化している。あたかもそれが事業を行うための必要経費であるかのように、利子の支払いが控除されるので、企業の所得税負担が低減されるのである。課税当局が放棄するものは、だらけの経済によって富を得る銀行と公債所有者への支払いのために利用されるのである。

 

  脱工業化経済、金融型経済の時代へようこそ! である。産業資本主義は、金融資本主義の諸段階の連続の時代に入ったのである。:バブル経済から、[企業の資産から負債を差し引いた場合にマイナスとなる]負の資産、担保権執行の時代、債務デフレ、緊縮財政、とくにPIIGS(ポルトガル・アイルランド・イタリア・ギリシャ・スペイン)をはじめとする欧州諸国の陥った債務支払いのための日雇い労働者身分のような段階へ、である。バルト諸国(ラトヴィア・エストニア・リトアニア)は既に余りにも深く債務に陥ったため、住民が外国で仕事を探し、借金を背負った不動産から逃れるために移住しつつある。2008年の銀行暴利の崩壊以来、同じことがアイスランドを見舞った。

 

  経済学者は何故、この現象を論述しないのか? その答えは、政治的イデオロギーと分析上の目隠しの組み合わせである。日曜の夕方に会議が終わるやいなや、例えば、ポール・クルーグマンの「ニューヨーク・タイム」のコラム「欧州を苦しめているのは何か?」(2月27日、月曜日)は、欧州問題を単に、自国通貨の切り下げができない各国の無能力のせいにした。彼は、問題を欧州の福祉支出、財政赤字をユーロ圏問題の原因とする共和党の路線を正当に批判したのだ。

 

  しかし彼は、EU憲章にガラクタ経済学者が書き込んだ結果として、赤字を通貨化[公債を引き受け]できないという、欧州中央銀行(UCB)に科せられた束縛の問題を説明から除外している。

  「もし[EU]周辺国がまだ独自通貨を持っていたならば、急いで競争力を回復するために自国通貨の切り下げという手段を使えるし、使うだろう。しかし、そうはしない。ということは、それらの国は長期の大量失業と緩慢で過酷なデフレの状態に置かれることを意味する。彼らの債務危機はおもに、この悲しい展望の副産物なのである。落ち込んだ経済が財政赤字につながり、デフレが債務負担を拡大するからである。」


  貨幣価値の下落は、輸入品価格を上昇させる一方で、労働力の価格を引き下げるだろう。外国通貨建ての債務負担は、通貨切り下げと調和させるなかで増大するだろう。それによって、政府が自国通貨建て債務を切り下げる法律を通さない限り、さらに問題を生み出すこととなる。これは、(米国がそうであるように)公債はつねに自国通貨建てで発行せよという、国債金融の第一義的指令を満足させるものとなる。

 

  1933年、フランクリン・ルーズベルトは、合衆国内の融資契約における「金約款」(銀行その他の債権者が債務者から同等価値の金で支払われることを可能にしていた)を撤廃した。しかし、クルーグマンは、いつもの新古典派的手法において、債務問題を無視している。

 

  とくに苦しんでいる国には、悪い選択肢しかない。デフレの痛みを味わうか、ユーロから離れるという大胆な選択肢しかない。それは、他のすべてが失敗に終わる(ギリシャはそれに近づいている)までは政治的に実行不能であろう。ドイツは、それ自身の緊縮政策を改定し、インフレを受け入れることによって助けることができようが、それはありえない。

 

  しかし、ユーロから撤退する国がユーロを苦しめているネオリベラリズム政策を維持するならば、ユーロから離れても、緊縮財政、担保権執行、債務デフレを回避するのに十分ではない。ユーロ後の欧州経済が中央銀行を有し、なお公的財政赤字を賄うことを拒否し、政府が商業銀行や公債所有者からの借金を強いるとしたら、どうだろうか? 政府が、経済に対してその成長力を提供することよりも財政をバランスさせるべきだと考えるとしたら、どうだろうか?

 

  アイルランドのように、政府が公的福祉支出を削減したり、損失を出した銀行を救済したり、赤字の銀行に政府のバランスシート上で賭けをさせるようになったら、どうだろうか? ついでに言えば、アイスランドができなかったように、政府が不動産担保ローンその他の債務を債務者の支払い能力までに減額しないとしたら、どうだろうか? その結果は、なお続く債務デフレ、財産への担保権執行、失業、そして国内の経済と雇用機会の縮減による国外移民の波となるだろう。

 

  それでは何がカギなのだろうか? 中央銀行が設立されたときにやるべきこととされたことを行うような中央銀行を持つことである。すなわち、政府の財政赤字を貨幣化[公債を買い取ること]して、経済成長と完全雇用のために最善の方法で、お金を経済に投入できるようにすることである。

 

  これがMMTのメッセージであり、我々5人がリミニの聴衆に説明するために招かれた意味であった。何人かの参加者がやってきて、はるばるスペイン、フランスから、そしてイタリア中からやってきたと説明した。新聞・ラジオ・テレビから多数の取材を受けたが、政治的にまずいとの理由で、主要メディアは我々を無視するよう指示されていたと聞かされた。

 

  それが、ネオリベラルの通貨緊縮策なのである。そのモットーはTINA(There Is No Alternative=選択肢はない)であり、事態をこのように維持したいのである。どれだけ多くの選択肢があるかの議論を封じ込めることができる限り、市民がその生活条件が縮小され、富が経済ピラミッドの頂点の1%に吸い上げられることに、市民の黙従が続くことが彼らの願いなのである。

 

  聴衆は、何よりもステファン・ケルトンからその説を聞きたがった。彼は、経済学について私がこれまでに聞いたなかで、もっとも明確な説明を提示した。MMTの論理のユークリッド的な提示である。映像を見て欲しい。最後には、コンサートのように感じた。

 

  本当の中央銀行がどのように緊縮を回避し、雇用を後退させるのではなく促進するかについての経済上の説明を聞くために会場を埋めた聴衆の規模は、国民を洗脳しようという政府の企みがうまくいっていないことを示すものであった。政府のそれは、ハーバード大学経済学部101番教室に、はるかに及んでいない。ハーバードの学生は、間接債務、金利などの不労所得でのただ飯食い、そして寄生的金融の分析を除外した経済の図式絵を描く非現実的な異世界に抗議して、退場したのである。

【翻訳】カナダ市民が中央銀行を提訴

中央銀行と通貨のあり方を根底的に問い直すニュースがカナダで報じられましたので、翻訳してお伝えします。

カナダ市民が中央銀行を提訴

カナダ銀行・財務省を被告とする訴訟

プレスリリース(トロント、2011年12月20日)カナダ市民2人と経済シンクタンクがカナダ連邦裁判所で国際金融権力と対決へ

 これらの市民は、カナダ中央銀行をカナダ人の利益のために使用し、国際金融組織の支配から離脱させるという宣言を要求している。国際金融組織の利益と指令は、カナダ人の利益とカナダ憲法の最高法規性よりも上位に置かれている、という。

  憲法学者・弁護士のロッコ・ギャラッティは2011年11月12日、ウィリアム・クレーム、アン・エメット、通貨・経済改革委員会(COMER)の代理として、連邦裁判所に提訴した。カナダ中央銀行に、その法定任務と責任を行使させることによって、その本来の目的のための使用に復帰させるためである。その任務には、地方・連邦政府の「人的資本」支出(教育、健康その他の社会サービス)やインフラ整備のための、利子なし貸し出しを行う[つまり政府が利子なし通貨を発行する]ことが含まれる。

  この訴訟はまた、「税額控除」の企業その他の納税者への振替の前の国の歳入を計算しない、または真実の歳入総額を明らかにしないで持ち越す、という会計方法における政府の財政上の虚偽をも争うものである。

  原告は、1974年以来、カナダ中央銀行と通貨・金融政策は、カナダ中央銀行法に反して、海外の民間銀行と私的利益によって支配されるという現実に、徐々にではあるが確実に滑り落ちてきたと主張している。

  原告はまた、国際決済銀行(BIS)、金融安定フォーラム(FSF)と国際通貨基金(IMF)はすべて、ある意識的な意図をもって設立されたと主張する。その意図とは、貧しい国々を貧しいままにとどめ、今ではすべての国にまで拡大した貧困状態をそのままにしておくことであり。そして、これらの国々において上記の国際金融機関は、金融を支配することにより、カナダのように国の政府と憲法の優位性を乗り越えることに成功したとしている。

  原告によれば、BISとFSFの後継者である金融安定理事会(FSB)の会議、その議事録、討議、審議は秘密とされ、議会・行政当局でも入手不能であるばかりか説明責任もなく、カナダの公衆へも同じ状態になっている。カナダ中央銀行の政策がこれらの会議によって発せられるにもかかわらず、である。これらの機関は、本質的に私的で、外国組織でありながら、カナダの銀行システムと社会・経済政策を支配しているのである。

  原告は、被告(行政当局者)は、程度の違いはあるものの無意識的・意識的に、これらの国際機関とともに密かに、カナダ中央銀行法とカナダの金融・通貨政策、社会・経済政策の独立性の無力化に関与すること、銀行・金融システムという手段によって議会によるカナダの統治を無視することを認識し意図している、という。 (以下、翻訳略)

原文

Canadians Challenge Central Bank In Court

 

文責:ベーシックインカム・実現を探る会
訳者:鈴木武志

亀井さんが「日銀は政府から国債引き受けを」と発言!

亀井さんが「日銀は政府から国債引き受けを」と発言!これを評価してBIの財源に。

「3月にはいって、国民新党の亀井金融相が、『日銀は政府から国債引き受けを』と発言している。これは政府通貨発行のことで、政府通貨を財源にすれば、BIへの足掛かりをつくることができる。亀井氏は、おそらくリフレ的発想の可能性があるが、「政府通貨」発行に言及したことは大いに評価したい」(白)

http://www.asahi.com/business/update/0301/TKY201003010190.html

講演「生きるための経済」補遺ーー「会計」から「信用の管理」へ (関曠野)

この十一月に地元有志のお招きで東京都町田市で社会信用論について講演する機会があった。事前に幾つも質問が来たりしてベーシック・インカムや通貨改革に世の関心が急速に高まっていることを感じさせられる講演会になった。そして講演の後の質疑応答も演者の私自身の勉強になるようなものが多かった。しかしその中に一つ、私が戸惑ってしまった質問があった。会場の奥の方にいた若い男性から「政府通貨を所得保証その他公共の利益のために発行することは分かるが、その金自体の出所はどこにあるのか」と訊かれたのである。私はその場で質問の意味がよく分からず、その人を納得させるに足る明快な答えはできなかったように思う。そして後で質問を再考して彼が言いたかったことが分かって、社会信用論についての自分の説明不足に気づいた。

要するにこの人は通貨の問題を「会計」の観点から考えていたのである。政府通貨の発行を財政的な「支出」とみなすならば、左の「支出」の欄に対応して右に「収入」の欄がなければおかしい。三月に東京で講演した際にも、会場から似たような質問が出た。「話を聴いていると、政府通貨が個人と企業にどんどん供給されて、しかも回収されないように見える。インフレになるのでは」という質問である。これも政府による通貨の供給を会計の視点で「支出」と捉えている質問といえる。

しかし社会信用論においては、収入や支出という言葉は意味をなさない。会計とは結局損得勘定のことである。だが社会信用論における信用の社会化や基礎所得の保証は損得には関係のないことである。ゆえに政府通貨は会計や財政の視点で管理されるものではなく、それを個人や企業に供給することは「支出」ではない。このことを改めて説明しよう。

経済とは簡単に言えば「生産されたモノやサービスが消費されること」である。そして社会信用論においては、通貨と信用は生産されたものが消費される過程を順調に進行させる潤滑油のようなものになる。ダグラス少佐は、そのための交換手段にすぎない通貨を切符に喩えている。人々が電車を利用するためには切符を発行する必要がある。そして乗客が目的地についたら切符は回収され廃棄される。切符それ自体には何の価値もない。通貨もそれと同じで、生産されたモノの消費を促進すること以外には何の価値もない。人々が貨幣の価値をフェティッシュ的に信じ込むようになる原因は、銀行のせいで通貨(所得や資金など)が絶えずひどく不足する経済状況が作りだされているからである。そこから生産と消費ではなくマネーそれ自体が経済を動かしているという錯覚が生じる。もっとも現代の銀行経済においては、これは錯覚とは言えないのだが。

政府通貨は、個人と企業にその必要に見合う交換の手段を与えて生産と消費の過程を円滑にする目的で供給される。その企業に対する融資の在り方は、電力会社による電力の供給に似たものである。電力会社は、夏にはエアコンや高校野球のテレビ観戦による需要増大を見越して電力の供給を増やし、夜には人々が電気を消すので供給を減らす。このように電力は常に調整しながら供給されているので発電量の過剰や不足はまず起こらない。政府通貨もそれと同じで、国は国民経済の分析と予測に基づいて、生産のために必要と思われる量の通貨を企業に無利子で融資する。これは電力需要の予測や気象庁の天気予報に似た作業だから、政党や官僚の特殊利害などが混じってはならないものである。それゆえに政府から独立した公的機関である国家信用局が通貨と信用を管理することが望ましいだろう。

他方では、国は個人に対する基礎所得保証および販売部門に対する無利子融資で消費を支え、生産と消費を均衡させる(社会信用論の目的はこの均衡の実現であり、生産と消費の果てしない拡大=経済成長ではない)。そして消費者が商品を買った時点から通貨の回収が始まる。販売部門と企業は、その利益で先に融資された資金を政府に返済しなければならない。だがこの返済は借金の取立てではない。これは、先に供給した通貨を回収して、通貨の過剰供給でインフレが発生することを防ぐための措置なのである。だから速やかに返済できない企業が出てきても、返済条件の再交渉はいくらでも可能な筈である。

今日の世界には、実体経済(生産+消費)と銀行マネー経済という二つの経済がある。これに対し社会信用論が実施された世界では実体経済しかなく、通貨は生産と消費の過程を円滑に進行させる切符や潤滑油のようなものにすぎない。そこでは生産されたものが消費されるサイクルに即して通貨は発行され回収される。こうして国民経済の次元では、日銀のバランスシートに代表される会計は信用の管理に取って代わられる。収入と支出という言葉はもう意味をなさないのである。

リチャード・クックの『Credit as a Public Utility』の字幕原稿公開です!

アメリカの社会信用運動の活動家・理論家のリチャード・クックの重要なビデオ字幕原稿が翻訳公開となりました。

これから、字幕つけの作業も順次すすめますが、重要なものなので、まず、原稿の公開となります。

今回の翻訳をすすめてくださったのは、反ロスチャイルド同盟のサイトの安部芳裕さんやその翻訳チームの方々です。本当にありがとうございました。

以下から読むことができます。

http://rothschild.ehoh.net/material/animation_07.html