参考になります。ビル・トッテン氏のコラム

ビル・トッテン氏は、その講演で次のように主張しています。

(以下のサイト上からの(3)の一部を引用)

このような日本の財政・税体系の問題点の指摘は重要だと考えます。この視点とベーシックインカムの論理が合体する必要性があると思います。(白崎)

「2つ目は、日本政府は増税をすることなく、巨額の負債を返済することができる。私の試算を見てほしい※33。

日本政府の国家債務の78%は、借金を返済するためのものである。日本の国家や国民のために使われているのは政府の債務の22%だけなのである。

さらに、1968年から国民が支払ってきた税金の29%は、政府の借金のために使われた。国家や国民のために使われたのは税金の71%だった。

また、日本政府は民間銀行が作るお金の約89%を毎年借り、そのうち75%を、再び民間銀行へ借金返済として支払っている。

日本政府が巨額の公的債務を積み上げたのは、政府自身がお金を作らずに民間銀行にお金を作ることを許しているからなのである。

ーーーーーーーーーー 以下(略)」

ビル・トッテン氏のコラムのURLは以下のとおりです。

 

講演録

 

私が考えるカジノ経済の弊害(1)~(4)

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188505_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188506_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188507_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188508_629.html

上記講演に対する質問と回答(1)~(4)

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188658_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188742_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188792_629.html

http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1188895_629.html

簡単な「お金」の歴史

1、「お金」の起源

マネー(お金)という言葉は、ラテン語のmoneta に由来します。最初のローマのコインは、紀元前344年に女神ジュノー神殿で鋳造されました。コイン以前には、牛や豚の歯や貝殻のようなさまざまなものがつかわれました。

歴史上のお金の大部分は貴金属からつくられるコインの形であつかわれるものでした。それゆえに、お金は、それ自身が価値あるものでした。近代的なお金の単位の多くは、貴金属の量を起源とするものを再現したものです。たとえば、一ポンドは、銀のローマンポンド(12オンス)がもとになっています。

2、イギリスにおける銀行業務のはじまり

イギリスにおいて、近代的な銀行はチャールズ1世の時代の1640年にはじまりました。チャールズ1世は(彼が王でもある)スコットランドに対抗するために召集した軍人たちに支払う給料のために、商人や貴族が安全な保管場所としてロンドン塔に保管していた金塊を差し押さえました。

第二次ビショップ戦争は、すぐに終息し、議会のもつ課税権は復活しました。金塊は、再び、持主のもとへもどったのです。

1642年、王と議会のさらなる内戦が勃発しました。ロンドンは議会の根拠地であり、王国内では安全な都市でした。王と議会の双方に金塊を差し押さえらないようにするために、人びとは、街の金細工師の手に金をあずけました。そのことが彼らの金の安全を保障する方法となったのです。

3、金細工士、最初の銀行家たち

この金の引き換えにおいて、預け主は、約束証書としての受領書をうけとりました。これらの受領書、すなわち、最初の銀行券、は、いったんそれらの信用が確立されると、大変な評判となりました。 なにせ、金は重くて扱いにくいものですから、すぐに、これらの受領書は紙幣として使用し始められました。誰もが、金を預けていることにより100%保障されているこの受領書を、よろこんで受け取るようになりました。

金細工師たちは、一部の人たちしか、受領書を預けられた金と引きかえないことに気がつきました、引き換えられた以外の部分の金を元手にして、彼らは保有する金の量以上の受領書(紙幣)をきわめて密かに発行することを始めました。この新しく創造された紙幣(マネー)は、こうして金利付きで貸し出しを希望する人々に貸し出されました。これは、かなり法的に怪しい行為だったのですが、それは、けっして司法の裁きをうけなかったのです。

4、イングランド銀行

こうして、1694年に、何もない、まさに無から創造されたお金(マネー)の発行は、効果的にイングランド銀行の創立を正当化しました。ただ、それは、設立された最初の銀行ではありませんでした(クッツが1690年に創立していました)。しかし、お金の創造の本質は、銀行がお金の供給をし続ける役割の中心となることだったのです。

1694年当時、イギリスは、いまだ、大部分が農業国家でした。大半の人々は、自ら作物を育て食糧を得、自ら家をたて、燃料のまきをあつめ、泉から水をくみ、しばしば、衣服をつくっていました。お金は必要なかったのです、現在の大部分の人々にとって今日そうであるようにーーーー。しかし、国家が戦争に向かうとき、さらに多くのお金が必要となりました。

当時の王であるウィリアム三世は、フランスと戦争をしたために資金が必要となっていました。 王の徴税の権限と正当性は限界にきていました。それで、もっともすばやく、簡単な方法で王の必要性をみたすことは借金することだったのです。六つのロンドンの金細工師協会は(この協会は、ウイリアム・パターソンという人物によりひきいられていた)8%の金利で金において120万ポンドを王に貸し付ける条件で、最初の共同出資銀行の設立を王の権限で与えられました。これが国債のはじまりだったのです!

より重要なことは、どんなふうにでも、かれらは、私的な貸し付けに紙幣で120万ポンドを創造する権限が与えられていたということなのです。この紙幣は、理論上は、金によってその価値が裏付けられていました。しかし、金は、王に貸し出されていたままだったのです。それが意味するものは、120万ポンドの二倍以上が貸し出されているということなのです!!

このことは、一般大衆には、隠されたままだったので、その正当性について、けっして裁判所の審理をうけることはありませんでした。今日も、銀行は、上記のような活動をベールに覆い隠したままにしておきたいのです。(続く)

文責 白崎一裕