【時評】「なぜ、ベーシックインカムは個人単位の支給なのか?」

参議院選挙の争点に消費税の問題が浮上している。この問題に関して菅直人首相は「低所得者世帯には、消費税の逆進性緩和のために、税金を還付する」と発言している。さて、ここで問題にしたいのは、この税金の還付はあくまでも「世帯単位」を対象とするということについてである。このHPの読者は、すでにご存知だと思うが、ベーシックインカム(以下BIとする)は、世帯単位ではなく、「個人単位」の支給だ。

では、なぜ、「個人単位」なのか?そのことの意味を再考してみたい。

20世紀半ばに成立した福祉国家は、男性が稼ぎ手として外で働き、女性が専業主婦として家事に専念するという近代家父長制(性別役割)を前提として設計されていた。したがって、福祉受給も家族・世帯単位として制度運用が図られてきたと言えよう。しかし、20世紀後半から現在にいたる過程において、労働市場への女性の進出や男性稼ぎ手の労働の多様化・不安定化により、近代家父長制にゆらぎが生じてきている。この結果、福祉受給の「個人化」ということが考えられてきた。たとえば、厚生年金制度は、1985年に基礎年金制度が導入されたことにより、一部「個人化」された。また、雇用保険は、「個人化」された制度だともいえる。逆に、生活保護や障害者関連制度では、世帯単位となっている。

「個人化」は、女性の就業に不利にならない制度ということで、「性や家族形態に中立な」制度に近くなったともいえるだろう。また、家族内の世帯主への権限の集中などの「家族内の不平等・不自由」からの脱却をも促すだろう。

BIは、この「個人化」を究極にまで推し進めて、女性でも男性でも、大人も子どもも高齢者も、障害のある人もない人も、病気の人も健康な人も、すべての個人に対しての支給を主張している。

この「個人化」の基礎にあるのは、基本的人権としての所得保証という考えである。基本的人権は、あくまでも、この世に生をうけた、すべての「個人」に対して保障されている。しかし、その基本的人権に基づいて市民が法の下で自由・平等とはいっても、その自由を行使し平等を享受するためには、それを支える経済的・物質的根拠が必要だ。たとえば、基本的人権のひとつに、思想・信条の自由がある。ここにAさんという労働者がいるとする。Aさんは、自分の労働現場で、その労働現場の不正を内部告発しようとしている。しかし、生計の手段を雇用主に握られているAさんは、生活のために・食うために、自分の思想・信条を押し通して内部告発することが困難な状況にある。こういうときに、基本的人権が法の下に保障されているとはいっても、そこには、欺瞞があるのでないだろうか。

あるいは、誰でも自由に平等に教育を受ける権利というものがある。これも、教育を受ける権利があるとはいっても、学資や教材費の負担の問題、親の資産などの差により、実質的には、万人の教育への権利が保障されているとはいえない。ここにも欺瞞がある。

これら欺瞞を解消し、法のもとでの「個人」の自由・平等、法によって「個人」は自由になる、ということに力と実効性をもたせる経済的根拠(個人への所得保証権)を付与するのがBIだ。すなわち、建前しか存在しない基本的人権に実効性をもたせる制度だともいえる。

再定義しよう。

法と経済は融合され、法の支配のもとに経済もおかれなければならない。その中核にあるのがBIなのだ。

以上が、BIが「個人単位」での支給となる本質的な理由なのである。

  • 文責:白崎一裕

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