関曠野さん講演録「ポスト3.11日本の将来を考える」第1部

関 曠野 講演録

3.11以後

― 原発事故をくぐった日本の将来を考える ―

2011年9月24日(土)東京都内にて開催

講演者:関 曠野

※ 本講演録は、当日の記録に関さんの加筆訂正を加えてあります。特に「経済問題」を扱った第二部は、現在の社会状況にあわせて全面的に書き直していただいたものです。

第一部:国土風土に根ざした思想を再考する INDEX

  1. 原理的矛盾をかかえる原発
  2. 生命進化の論理を全面否定する原発
  3. 疫病とみるべき原発事故
  4. 平和と人道に対する罪としての原発
  5. 反原発運動は、科学を人間の不可能性証明としてみる運動
  6. 震災と原発事故の歴史的意味を考える
  7. 日本人のふるさとへの想い
  8. 「国土」というとらえかたの欠如
  9. アメリカ追従の原発政策を進めた日本の理由
  10. 国土風土に根差した思想を再考する
  11. 死を受け入れる日本の思想
  12. 完全に安全なシステム vs 諸行無常
  13. 文明人の名に値する日本人
  14. 神道と仏教にみる日本人の思想
  15. 美しいものは儚い、儚いものは美しい
  16. 梅から桜への感性の変化
  17. いま、必要な行為の美学
  18. 美の伝統を代表する京都
  19. 「東京時代」の終わりの始まり
  20. 文化的首都としての京都
  21. 藩校のなかった京都の意味
  22. 薩長クーデターによる京都の危機
  23. 京都の市民がつくった「番組小学校」
  24. 町衆がリードした開国に即応した教育システム
  25. 福沢諭吉の影響
  26. 国際法を小学校一年で教える
  27. コミュニティセンターとしての番組小学校
  28. 京都再生プロジェクト~~琵琶湖疏水
  29. 日本人の力で工事を進める
  30. 環境を良くする「地域開発」
  31. 地域エネルギー源としての蹴上発電所
  32. 都市計画のモデルとしての京都
  33. 使い捨て文化と対極の日本の伝統
  34. 第二部:「ポスト・ドル基軸通貨時代の日本社会を問う」へ

原理的矛盾をかかえる原発

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも、今日はお忙しいところを私のお話を聞きにいらしてくださり、ありがとうございました。関です。

最初から単刀直入に話をしますと、私は1970年代から一貫して反原発派でした。その理由は非常に単純簡単、中学生でもわかるような理由です。ひとつは核反応というのは非ニュートン的現象であって、それをニュートン物理学の枠内の技術でコントロールすることは原理的に不可能である。ザルで水をすくうような事である。この原理的矛盾は、技術の改良とか安全の多重化ということによって解消できるものではない。

生命進化の論理を全面否定する原発

次の問題は、原発事故が起きた場合の放射能汚染というものをどうとらえるかという問題です。皆さんご存じの通り46億年前に地球が誕生した時、地球は放射能の塊であって、しかも宇宙から強烈な放射線が降り注いでおりました。

それが長い間かけて地球の物質的組成が変わって、生命の隠れ家となるようなエアポケットみたいなものが出来て、水が出来て、植物が生まれ、光合成が始まり、地球は緑の星になって行ったわけです。その中で生命が生まれて進化してきた。ということは、ウランを掘り起こしてエネルギー源に使うということは、地球を46億年前の状態に戻すことになる。そして生命進化の論理を全面的に否定することに等しい。だからこれは、原発事故というものを交通事故と比較して、死者の数が多い少ないなんていう問題じゃない。生命進化の論理の否定になるから。

疫病とみるべき原発事故

だからどうなるかというと、まずは直接すぐに癌や白血病で死ぬ人は少ないかもしれないけれども、長期的に生命を蝕むし、DNAが傷つけられて何が起こるか分からないし、しかも被害は成長期の子どもに集中します。さらに人々の住処が根こそぎ破壊される。つまり、水と土地と植物が汚染される。放射能が長期的に人間をむしばむという点で、原発事故を惨事と呼ぶのは間違っていると思います。むしろこれは、ペストとかコレラとか疫病みたいなものと考えるべきだと思う。とすると、福島原発でメルトダウンがはっきりしてきたときに、当然、事態を疫病と同じように考えて、福島県内の子どもと若者は全部県外に避難させるべきであった。それをしなかった。やる気になったらできたのに。原発事故が起きたら、それはもう、すさまじい疫病みたいなものなんだという認識がない。単なる普通のニュートン物理学の枠内のリスクの事故だと思っている。これは根本的に間違っていると思うわけです。

平和と人道に対する罪としての原発

そういう意味では、ウランの本性からすると核兵器と言う形で徹底的な破壊に使うのは、正しいと言うと語弊があるけれども、ウランの本性にかなった使い方ではあるわけですね。これを日常的なエネルギーに使うということは、毒薬を毎日の常食にする様なもので、これはとんでもない話です、放射能の危険ということでいうと、原爆よりも原発の方がよほど危険なんです。だから、未だに国連が原発に肯定的なことは、本当にけしからんことで、原発というのは平和と人道に対する罪で起訴していいものだと思っております。

反原発運動は、科学を人間の不可能性証明としてみる運動

それから反原発運動ですが、政府や東電は反体制左翼運動みたいに思っていたらしいけれど、そういうものではない。根本にあるのは科学についての考え方ですね。科学を知的活動と考えるか、それとも人間が空を飛んだり地球の裏側に情報を送るような事を可能にする魔法みたいなものと見るか。成果だけ見て、魔法のようなものだから商売になると、科学を商売ネタにする。私はね、科学を産業に応用して商売にすること自体には反対しません。

でも、産業に応用する以上は、知的活動としての科学というものを尊重してもらいたい。知的活動として科学を尊重すると、科学は決して魔法じゃなくて、むしろどちらかというと、人間にとっての絶対的な限界とか不可能性というものを証明するものなんです。

つまり1+1は絶対に4にはならないという。科学というのは、そういうきわめて厳しいものなんです。その科学が証明する限界や不可能性の内に、人間は核エネルギーをコントロールできないということも入っています。ですから科学のとらえ方をめぐる争い、それが電力会社と反原発派との争いになったという風に考えております。

震災と原発事故の歴史的意味を考える

私は反原発派として、福島原発の破局を許してしまった事を痛恨の極みと思っております。しかし今日の話としては、原発をやめて再生可能なエネルギーで日本の電力を賄えるかどうかといった問題は、私なんかよりもずっと適任の方が一杯おられます。そういう話じゃなくて、私自身は自分を在野の歴史家と考えておりますので、この震災と原発事故は歴史的に言って、どういう意味で日本の分岐点でありうるだろう。どういうふうに歴史的なパースペクティブで捉えることができるだろうかということで、私なりの考え方を申し上げて、皆さんに問題提起したいと思います。

日本人のふるさとへの想い

まず言えることは、この震災と原発事故を第二次大戦と敗戦の経験にたとえる人がおりますけれども、これは違うと思うんですよ。

第二次大戦の敗北したあの時にはまだ、「国破れて山河あり」と言ういい方ができた。

我々は原発で福島の山河を失ってしまった。その一方では、あれだけのすさまじい震災津波に見舞われても、大半の三陸の人々がこんな危ない所に住むのはやめたといって故郷を捨てるということがない。あれだけ危険に見える土地でも故郷の山河を愛して、何とか歯を食いしばって町や村を復興しようとしている。これは日本人だけではもちろんないんでしょうけれども、日本人にとってのふるさとへの想いというのはこれほど強いものかと、改めて感動しました。これも我々が日本の将来を考える上でのひとつのヒントであろう。

「国土」というとらえかたの欠如

ところで原発事故は、ちょっと大げさな言い方をすると、明治以来輸入技術で工業化してきたそういう日本の近代の破局と見ていいのではないか。しかし一方では、東北の人々を見ると日本人は国土への愛情を失なっていない。むしろ深まっている。そのことを考えなくてはいけないと思うんです。そう見ると戦後の日本人の問題点は、国土というものをあまり考えなかったことではないか。自然保護を言う人でもエコロジーとか環境とかとか抽象的な言葉を使ってきたので、ふるさとや国土という捉え方をどれだけしてきたか、そこに色々問題があったんじゃないか。

アメリカ追従の原発政策を進めた日本の理由

例えば今世界で原発大国と言うとアメリカがトップ、フランス二番目、日本三番目ですけれども、アメリカはそれこそ科学をビジネスにしてきた国ですから、だから原発大国になり原発商売をやる。フランスの場合ですが、ここはとにかくアメリカに左右されるのは嫌だと。アメリカから自立してフランスの栄光を追求したい、そういう意識が強い。原油市場は大方アメリカ資本が握っているから、原油を使わないですむように原発を推進して、それでエネルギー的に自立すればアメリカと喧嘩できるようになる。そういう発想で原発大国になっているんだと思います。そういうフランス流の国家主義がかなり背景にある。だから各国の原発事情は一様じゃないですね。

日本の場合はフランスと反対なわけです。アメリカべったりな所から原発大国になった。ご存じのようにジェネラルエレクトリックとかウェスティングハウスとかアメリカ製を導入してきた。地震銀座の日本の国情に合わないアメリカ製原発を動かしてきた。

じゃ、なんで、日本がこんなにアメリカべったりで、アメリカ直輸入の危険な代物を建設してきたのか。これはやはりですね、日本を負かしたアメリカという国の力の秘密をものにしよう、アメリカナイズしようという発想が、企業や政府だけではなくて国民にもあって、それが日本を原発だらけにしてきたのではないだろうか。そういうパワー崇拝みたいなものがあったんではないか。

国土風土に根差した思想を再考する

とにかく戦後の日本人は国土とか風土とか国柄とか、そういうことをあまり考えなくなった。かつての日本の好戦的排他的民族主義、これはよくないです。それがよくないというあまりに、国柄とか風土とかとかを論ずることが排外的民族主義みたいに思われてきたので、そういうことを考えない、議論してこなかった面があり、それが日本の国土風土にそぐわない原発がやたらにある現実を生んできたのではないか。

原発事故は人災ですから一般日本人が反省する必要はありませんが、国柄とか風土についてあまり考えてこなかったことは、日本人全体が反省すべきではないかと思っております。

国土、風土の違いはある程度まで思想と文化の違いになってくる。日本の国土風土に根差した思想や文化とはなんだったのか考えなおし、それを国造りの基本にして行くことが今後必要になってくると考えています。

死を受け入れる日本の思想

例えばその風土の違いで言うと、死ぬことについての考え方。これも日本と中国やヨーロッパとは違うと思います。例えば、キリスト教では前の世紀ぐらいまで、長い間、霊魂の不死というプラトンの説が教義になっていました。そしてキリスト教会は、例えばキリストの復活を信じれば永遠の生命が得られると言いますし、中国の場合は、道教では不死の仙人になることが理想とされます。

ところが私自身の知る限り、日本の歴史上、不死ということを懸命に探求した思想家とか作家はひとりもいないようです。日本人は死を受け入れているという感じです。

日本の子ども向けアニメがアメリカのテレビで放映されることがありますが、幼児向けアニメでも主人公や登場人物が死んだりする。アメリカではそれは困るということで、死ぬ場面はカットされたりするそうです。日本では、子どもでも人が死ぬシーンを見ても、そんなものかと思っている。死に方にしても、永遠に生きたいと思っている日本人は稀でしょう。むしろ、「きれいな死に方をしたい。みっともない死に方をしたくない」と思っている人が大半ではないでしょうか。

完全に安全なシステム vs 諸行無常

このヨーロッパ的な不死の追求は、同時に安全の追求になります。とにかく完全に安全なシステムを追求しようとする。ヨーロッパ哲学のロゴスというのも、確実な真理に確実に到達する方法として追求されてきました。

様々な社会システムも、とにかく安全ということを非常に重視して作られる。そしてこれだけ安全なんだから、ちょっとヤバい事やってもいいだろうというので、銀行のマネーゲームをやったり原発を作ったりする。根本には、人間は完全に安全なものを構築できるという信仰みたいなものがある。日本人の場合は、どうも違うんじゃないか。どちらかというと、死とか流転とか滅びというものを悟って受け入れるのが日本人の特徴ではあるまいか。諸行無常と言うことですかね。「ゆく川の流れは絶えずして」という感性です。

しかもこれは決してペシミズムとか無力感を意味していない。そういう無常感を、仏教の教義を知らなくても、日本人は感性として知っている。それが打たれ強さという強みになっているのではないか。今回の震災でも、東北の人々はあれほどのすさまじい震災津波に直撃されながら、礼節も他者への思いやりも失わなかった。これは世界を驚かせました。

文明人の名に値する日本人

今でもインターネット上では、日本人は世界でもっとも文明人の名に値する人々、”the most civilized people on earth”という外国人のコメントをよく見かけます。

大きな代償を払ってるんですけれども、今ほど日本人の評価が高かったことはないと思います。もちろん日本人は災害慣れしていることもある。だがそれ以上に、日本人には、普通の庶民でも災害に対する心構えができていると言うべきでしょう。安全をいくら追求しても完全な安全などあり得ないと思っているので、むしろ非常事態の中でも平常心を保てる心構えが肝心だと考える。そこが日本的なんじゃないか。そしてこれはやはり日本の風土に根ざしている。原発を絶対に安全と信じて災害多発列島につくる愚行は、本来の日本文化の体質から出てくるものではなくて、やはりアメリカかぶれから出てきたものでしょう。

神道と仏教にみる日本人の思想

それで改めて考えてみますと、日本の宗教の一番初めは神道です。神道はご存じのように人生を底抜けに明るく肯定する宗教です。

しかし日本でも次第に文明が発達して、人々が個人としての悩み苦しみ死の恐怖といったものを知るようになってくる。そこで日本人は伝来した仏教を学んだ。だから奈良や京都はお寺だらけなわけですが、しかし日本人は結局神道の底抜けに明るい人生の肯定を捨てなかった。ただ仏教が入ってきたことによってそういう肯定は条件付きになった。つまり人生は明るく素晴らしい楽しいものだけれども、同時に移ろいゆく儚いものである、そういう認識を条件として人生を肯定する。これが、特定の思想家というよりも、日本人全体が漠然と感じて身に着けている思想ではあるまいか。

美しいものは儚い、儚いものは美しい

そして物事のはかなさ、うつろいやすさを自覚していることは日本人の強みであると私は思います。そこから出てきたのが、美しいものは儚い、そして儚いものは美しいという美学です。そういう意味では日本人の美学と言うか美的感覚は、仏教の教義を知らない人でも仏教に大きく影響されているように思います。仏教に影響されて美しいものは儚い、儚いものは美しいと感じる感性が生まれた。そこには人生を肯定するけれども、同時に死と滅びと言うものを受け入れているところがあると思います。

梅から桜への感性の変化

その典型な例が、平安時代に日本人が最初は梅を愛でていたのが、桜を愛でることに変わった事です。平安時代の貴族は舶来崇拝で、唐の文化にかぶれていましたから、唐のまねをして梅を愛でていた。それが平安時代の間に遣唐使廃止などもあったんでしょうけれど、桜を愛でるようになった。もっともこれは、日本土着の伝統に戻ったということだと思います。

昔から日本の農民は、桜が咲くと山の神が田に下りて来て田植えを始めろという合図をしたのだと考えていた、ですから昔から農民は桜を愛でていた。

平安貴族も唐かぶれはやめて、日本の土着の桜を愛でる伝統に戻っていったのです。ただし、そこには仏教の要素が混じってきて、儚いものの美しさを咲いては散っていく桜が代表することになった。

いま、必要な行為の美学

そういう点では今どきは、原発事故や震災で日本経済がどうなるという経済の話ばかりですが、むしろ今の日本に必要なのは美学ではないか。これは美しいものを作るとかデザインがどうとかというだけのことではない、人間の行為にも美学があるので、東電の態度は見苦しい、醜いという、美学が必要なのではないか。そういう行為の美醜は、人間なら誰だって感ずることです。そういう意味の美学を再評価する時代が来ていると、私は考えております。

美の伝統を代表する京都

今日の講演には日本の将来と言うタイトルがついていますけれども、変な未来学みたいなものを論じるつもりは全然ありません。それよりも、温故知新ということで、過去の日本を振り返ってみる事の中から将来のヒントが出てくるのではないか。過去のヒントということでお話したいと思います。

ところで、日本で長らく美の伝統を代表してきたのは、京都という都市でした。江戸時代でも、江戸は単に将軍がいただけの政治の中心であったにすぎず、日本の事実上の首都は京都でした。それが明治維新のせいで京都から東京に首都が移ったことが、どれほどこの国の相貌を変え文化を変質させてしまったことか。日本文明の原理が美学から経済学にまるごと変わってしまったのです。

「東京時代」の終わりの始まり

明治以降の時代は、明治・大正・昭和・平成と元号で区分されています。しかし日本史では、時代は、江戸時代とか鎌倉時代とか権力中枢の所在地で区分されています。この区分からすると、明治以降の日本は「東京時代」ということになります。

そして私は、今回の原発事故をもってこの東京時代の終わりが始まったのだと考えています。東京的なシステム、東京的な価値観、東京的な政治、それが原発を作ってきた一方、東京のGDP信仰は三陸地方を切り捨ててきました。それがどん詰まりに来ていたところで、福島原発の破局がドカーンと全てをぶっ壊してしまった。ただ、東京時代の終わりがどう形をとり、その帰結はどうなるのか、それは誰にも予見できませんが、とにかく私見では東京時代の終わりが始まったのです。

文化的首都としての京都

そうならば温故知新ということで、平安時代から江戸時代までずっと日本の首都であった京都とはどんな町だったのか、もう一度考え直してみてもいいのではないか。

まず江戸時代ですが、我々は学校で当時は武家の天下だったと習います。しかし文化的首都は相変わらず京都であって、それを皇室が守っておりました。皇室が京都の守護神みたいになっていたので、武家の力は京都には及ばなかった。皇室が京都文化の武家に対する防波堤になっていたのです。

藩校のなかった京都の意味

だから、武家が支配する藩だったらどこにもある藩校が、京都にはなかった。その代わり、多種多様な学校がありました。今で言うフリースクールです。ですから江戸時代と言うのは実は二重構造になっていて、武家の権力は江戸にあるけれども文化は京都という構造でした。そして上方という言葉が示すように、関東より関西が格が上ということは当時の常識でした。

薩長クーデターによる京都の危機

しかしこの京都の地位が明治維新のせいで変わる。薩長が自分たちがクーデターで奪取した権力を正統なものに見せかけようとして、拉致も同然に皇室を強引に江戸に遷した。そして、日本では天子のおはします土地は「京都」と呼ばれるべきだったので、江戸を東の京都を意味する「東京」というでっちあげた名称に変えた。江戸城も「皇居」に変えた。

この遷都は京都にとっては大打撃だったわけです。京都のいわば看板だった皇室がいなくなってしまった。それだけではない。京都の伝統産業の顧客だった公家や皇室がまとめて東京に行ってしまい、京都は都市としてほとんど死にかけた。40万あった人口が20万台にまで減り、そのままだったらたぶん、美しい古都の京都は消滅していました。寺社仏閣も荒れ果て、京都は侘しい田舎町になってしまったでしょう。しかしそうはならなかった。なぜそうならなかったのか、これからお話したいと思います。

京都の市民がつくった「番組小学校」

時代の激変に対処するために京都の人たちは色々な事をやりましたが、そのひとつが教育改革でした。新しい京都市民を作る教育改革をやる。もうひとつは地域開発。京都を近代的都市に作り変える地域開発をやる。

教育改革ですけれども、これは番組小学校という江戸時代の寺子屋と全く違う近代的な小学校を早くも明治二年に市民の力で実現しました。明治初年の日本ではどこでも、オカミによる学制改革で文部省が通学を強制するは、それに民衆は反発して学校を焼き討ちにするは、という騒ぎでした。その中で京都だけは、明治5年に文部省が学制を実施する前の明治2年に、市民が財源も負担して、地元の力でどんどん学校を作っていったのです。

町衆がリードした開国に即応した教育システム

この番組小学校の設立は、東京遷都がもたらした危機には直接の関係はありません。京都にはかねてから町衆による自治の伝統がありました。応仁の乱で公家と武家の双方が勢力を失ったために、京都では町衆による市民の自治が発展しました。幕末から開国時期にかけて、その町衆が、日本も開国したのだから新しい時代に即応した教育システムで京都を活気付けようと考えたのです。明治維新前後には、京都には、町組という地域的自治組織がありました。それが番組という、通しナンバーのついた名前に変わった。60幾つかの番組があったのですが、基本的に1番組(1地域)ごとにひとつの小学校を作ることにして、明治2年にすでに64の小学校を設立しました。この計画は町衆がリードし京都市も助成、京都の富裕層も寄付しました。

福沢諭吉の影響

町衆の自治の伝統があったから、こういうことが出来たのだと思います。財源的には、子どもがいない人も地域のためということで、所得に応じて学校運営費用を負担し、それで集まった資金で金融会社を作って、その利子収入で64の小学校の運営費を賄いました。

町衆がこの教育改革に乗り出したきっかけは、福沢諭吉の影響です。福沢諭吉の著作を読んで、日本の開国に応えて京都も変わらねばいけないと考えたということです。「小学校」も諭吉が使った言葉です。

国際法を小学校一年で教える

学校でどういうことを教えたかというと、普通の国語算数音楽体育などを教えたんですけれど、日本は開国したのだからと小学1年生に国際法を教えました。それから京都の伝統工芸を守り育むような人材が必要ということで、書道と日本画を教えました。おかげで番組小学校からは北大路魯山人とか、様々な京都の美術工芸に貢献する逸材が輩出しました。

ほかに面白いですが、カリキュラムに「修身」というのがありますが、これは公衆衛生の勉強のことです。

コミュニティセンターとしての番組小学校

しかも、この学校は市民が自腹を切って作った学校なので、単なる学校というよりもコミュニティーセンターみたいなもので、ある程度の役所の機能があり、それから校舎は2階建てなんですが、見張り塔が上にあり、火事が起きたら知らせるという消防署の役割も果たしていた。それから町会所、町の寄り集まりにも使われました。

コミュニティーセンターを兼ねる小学校という伝統は今でも京都に残っていて、小学校の中に消防の倉庫があったりする。また番組小学校以来、京都では、学区は単なる文部省が指定した通学区のことではなく地域の自治組織でした。学区は独自財源を持って、学校の運営費を負担し、その分だけ学校の在り方に責任を負う。1941年の国民学校令が出て潰されるまで、そういう市民の自治組織でした。京都の町には今もそういう地域自治の伝統があって、町内会単位で運動会なんかもやったりする。

京都再生プロジェクト~~琵琶湖疏水

もうひとつ、京都再生のプロジェクトとして教育改革に並んだのは、琵琶湖疏水の計画です。これは要するに、琵琶湖の水を山を穿ってつくった水路で京都にもってくるという大工事です。

これは明治18年に始まって27年までかかった工事でした。当時の京都に北垣という知事がいまして、見識のある立派な人だったようです。この人が東京遷都のせいで京都が衰退していく様を深く憂いていて、どうしたら京都を再生させ新しい京都を作れるか思案していました。その時、東京帝国大工学部の学生で、旧幕臣の砲術家の息子の田辺朔郎という若者が学内で書いた、琵琶湖の水を京都に引くことが可能であるという論文がこの知事の目にとまったのです。それで知事は、この田辺に白羽の矢を立て、琵琶湖疏水という大プロジェクトに着手したわけです。

日本人の力で工事を進める

このプロジェクトは現在の金額で一兆円必要だったのですが、これは京都市民が特別税で負担しました。そして若干21歳の田辺が、日本史上空前の大プロジェクトの総指揮をとりました。当時の事ですから、こういう事業は大抵外国人の助言者を迎えて、外国人エンジニアを雇ってやるのが普通でした。しかし琵琶湖疏水の工事は日本人だけでやり、建設資材もセメントとダイナマイト以外は全部国産でした。当時はブルドーザーなど無い人力工事の時代だったので、琵琶湖から京都まで山を穿って水路をつくる工事は大変だったようです。

工学を勉強しながら工事を進めたそうで、夜に工学の勉強をして次の日の昼にそれを応用とか、そんな形で疏水を作っていきました。そして9年後の明治27年に疏水は竣工しました。その時、京都市民は大文字を焼いて、祇園まつりの山車を総出にして祝ったそうです。

環境を良くする「地域開発」

この琵琶湖疏水で注目したいのは、これは地域開発が環境を保護、むしろ良くする、環境や景観を破壊しない地域開発もあるという例になっていることです。我々は地域開発というと環境破壊や景観破壊とかすぐそう思いがちなのですが、とにかく琵琶湖疏水によって、これ以降、京都は二度と水不足に苦しむことがありませんでした。

さらに、伝統工芸や新興工業にも潤沢に水が供給され、京都の緑はさらに濃くなり、環境破壊どころか、哲学の道とか、疏水沿いに新たな名所が生まれました。

地域エネルギー源としての蹴上発電所

さらに特筆すべきことは、琵琶湖と鴨川には40mの水位の落差があるのですが、この差を利用して発電所を作りました。この蹴上(けあげ)の発電所は現在なお現役です。この発電所が京都に電力を供給したので、もちろん電灯は灯り、西陣織の製造にも電力が応用され、さらに京都は日本で最初に路面電車が走る町になりました。このおかげで、京都はまもなく企業と工場の数で東京と大阪を抜くに至りました。ここでひときわ印象深いのは、こうして京都は地域のエネルギー源を持つことができたために、中央政府や外部の大資本に食い物にされずにすんだことです。おかげで京都独自のペースで都市の近代化を進めることができた。これが中央政府と大資本に食い荒らされていたら、どんな京都になっていたことかと思います。京都の例は、地域の戦略としてのエネルギー問題の重要性を示すものです。

都市計画のモデルとしての京都

他にも京都の人は様々な試みをしましたが、何よりも番組小学校による教育改革、市民自治を原則とする教育改革、および琵琶湖疎水によって、一時、衰退しかけた京都は見事によみがえりました。ですから、美しい古都京都は自然に存続してきたのではありません。この京都の再生の物語はおそらく、日本の近代史の中でもきわめて注目すべき出来事ですが、なぜか教科書には載っていません。もう天子がいない京都は観光名所にすぎないからでしょうか。

それにしても、この京都の再生は、同じ明治時代に起きた栃木県足尾銅山の悲劇とは、あまりにも対照的です。もしも、近代日本の都市計画や地域開発が京都をモデルにしていたら、チッソの水俣病も福島原発の事故もなかったかもしれません。何でも京都のまねをしろとか、京都だけがエレガントで素晴らしいと言っている訳ではありませんが、やはり京都の例は学ぶに値するものではあるまいか。ところが日本ではどこでも、東京というモンスターが都市計画や開発のモデルになってきました。例えば原発の地元の自治体は交付金で東京をモデルにしてハコモノをつくり、それで文明化した気でいる。こういう愚行はもういい加減にやめるべきです。そして地域の市民自治に基づく開発、都市計画ということでは、やはり京都はモデルであろう。さすがに平安時代からの都、京都はだてに都であったわけではありません。

ところで京都の下京区には、学校歴史博物館という、この番組小学校を記念した当時の校舎をそのまま使った、こじんまりとした博物館があります。それから左京区には琵琶湖疏水記念館があります。みなさんも京都に寺社仏閣巡りに行かれた折には、ついでにこういうところにも足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

使い捨て文化と対極の日本の伝統

この京都と東京を比べると、日本の首都が京都から東京に遷ったことの意味がいかに大きいかを感じざるを得ません。東京の価値は何かというと、それはビッグということではあるまいか。とにかく大きいことに価値がある。大日本帝国。戦後は経済大国と大企業。これに対して京都の価値は、ビューティフルということでしょう。

京都の人の生き方は今でもそうですけども、とにかくあの狭い盆地に大きな豪邸なんて建てたってしょうがない。だから、質素だけど趣味のいい暮らしをするというのが京都人のライフスタイルであり、しかも実は、昔の日本人は皆そのような生き方をしていたのではないでしょうか。京都は狭い所にごちゃごちゃ人が住んでるから、東京みたいな郊外型の巨大スーパーなんて作りようがないです、だから未だにアーケードの昔ながらの商店街です。京都には首都圏みたいな広いスペースもないし、豊富な資金もないけれど、その中でいろいろ心地よく暮らす工夫をしてきました。ですから例えば、京都名物の町屋は、外気を遮断してしかも通風がいいという、省エネ住宅の傑作です。そして京都は西陣など呉服の一大産地ですが、良質な和服は高価です。しかし生地の持ちがよく、ほぐして縫い直せるので、お婆さんから娘からその孫にまで代々受け継いでいけます。本来日本の伝統はそういうものだったのではないか。日本人ほど、本来は使い捨て文明とは反対のことをやってきた民族はいないのではないか。

 

第1部終了

後半は、世界の動きを視野に入れた通貨・経済論を軸に展開する第二部です。 あわせてお読みください。

関曠野 講演録「3.11以後」第2部