関曠野講演録「ベーシック・インカムについて考える ― マネーは何のためにあるのか」

関 曠野 講演録

ベーシック・インカム
について考える

― マネーは何のためにあるのか ―

TAGTAS/FORUM第三期レクチャーより
2010年12月27日 於:Spaceカンバス
「ベーシックインカムを考える ― マネーは何のためにあるのか」

講演者:関 曠野

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

主催:TAGTAS 前衛舞台芸術連合

TAGTAS(トランス-アヴァンギャルド・シアター・アソシエーション)が、年間を通じて公開の連続研究会を開催しています。 「TAGTAS/FORUMー条件なき大学ー」は、演出家、振付家、舞踊家、俳優、舞台制作者など舞台上演に関わるものや、人文研究者などが集まって、互いの領域を横断しながら、協働で討議していく公共の場所を目指しています。 舞台に関わるすべての方々をはじめ、学生、社会人、反/非社会人などの幅広い参加をお待ちしています。 年間で全三期30回を予定しています。

http://d.hatena.ne.jp/tagtas/

講演 INDEX

  1. はじめに
  2. なぜBIが必要なのか
  3. 恐慌はなぜ起こるのか
  4. 1. 法定通貨
  5. 2. 負債経済
  6. 3. 利子
  7. 部分準備制度と信用創造
  8. 恐慌の原因、まとめ
  9. 「政府通貨」の発行
  10. 「租税国家」とは
  11. 経済成長モデルに立脚する租税国家
  12. 政府はなぜ銀行を救済したのか
  13. アイスランドと、ギリシャ・アイルランドとの財政破産の違い
  14. 租税国家から社会信用国家へ
  15. ソーシャル・クレジット・ステイト
  16. 政党政治と租税国家
  17. 自治体の連合体としての国家
  18. 中央と地方
  19. 自治体銀行 ―― 段階的な戦略
  20. 社会実験を促進するためのBI
  21. BIの未解決問題 ―― 3K労働

はじめに

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも関です。

ベーシック・インカム(以下BI)という言葉は、市民権を根拠に、全国民に一律無条件に8万円程度の所得を生涯にわたり給付するというものですが、この言葉は最近は驚くほど広まりましたね。新聞雑誌でもよく見かけるようになって、そう言う意味ではもう異端思想でも何でもない。下手すると悪い意味で変な主流になるかもしれないという、そういう状況です。ただし、その割には中身が薄いという感じがしているんです。

私はこれまでBIについてかなり発言してきた人間で、私の講演などもインターネットにアップされて全国的にかなりの読者がいるようです。

ところで私はつい先日、当分BIについては発言しないと宣言しまして(本サイトのメールニュース・バックナンバー参照)、これがかなり波紋を呼んでいるようなんですがその意図をお話します。私はBIについてはこれまで経済論として議論してきました。それがいかに必要であり可能であるかという議論をしてきました。ただ、そういう議論をする段階はもう終わったのではないか。もうこれだけ言葉は広まったし、BIという言葉が何を意味するかは非常に多くの人がもう知っている。

それで今後はむしろ政治論としてBIを議論したいのです。BI論議を政治化すべき段階に来たと私は判断しているわけです。そのための仕掛けで一旦発言を中断することにしました。経済的なBI論議はもういいから、政治的な次元に議論を移行させるタイミングとして、世の中がもっとガタガタになってくるのを待ちたいのです。頃合いを見計らってまた発言を始めるつもりです。今日の話は、どういう風に私が今後BIの議論を私流に政治化して行くのか、そのひとつの皮切りになります。今日の議論を皮切りにして後しばらく中断の後、様子を見てまたいろいろ問題を提起しようと考えております。

そういうことで今日の話は、BIと言うよりももっと根本的なマネーの問題です。マネーはこれまで経済の問題として議論されてきた。しかしマネーは根本的に政治の問題なのです。政治としてのマネーという、それを今日の話の軸に据えたいし、そういう観点からマネーの改革を考えていきたい。通貨改革の一環としてBIと言うことを私は前から考えています。と言ってもこれは難しい問題じゃない。マネーというものについての考え方は2つしかない。

ひとつは生活のツール、道具である。これは私の立場であるし、たぶん皆さんもそう思われているでしょう。

もうひとつは権力のマジックの源泉としてマネーを偏愛する立場。それが今の持てる者、銀行なり富裕者なりの立場であります。そういう意味では、ツールかマジックかという、立場の争いがあります。

BIは政府通貨と結び付いて、これからお話するようにツールとして、生活の道具としてのマネーを実現するものです。今日はそういう観点から論じますので、BIは今日の話の「結論」として出てきます。ですから、講演のタイトルは「BIについて」なのに関はなかなかその話をしないじゃないかと、皆さんイライラされるかもしれませんが、ちょっと勘弁してください。その前提になる話を延々とやりますので、その点をひとつご承知願います。

なぜBIが必要なのか

そもそもBIの話をする前にですね、BIが必要になる根拠を考えましょう。それは我々が今置かれている経済状況がまさに恐慌だからです。恐慌はなぜ起きるのかということとBIの必要は密接に関係するので、まず恐慌の原因について話したいと思います。

ただ恐慌と言っても、久しぶりに豊橋から東京の都心に出て来てきまして、ちょっと街の様子を見ても恐慌という深刻な状況には見えませんね。東京の街はイルミネーションに彩られて相変わらず繁栄しているように見える。

日本の場合は確かにリーマン・ショックの間接的な打撃を受けた程度で済んでいるんです。日本の銀行は90年代にバブル崩壊で火傷したので、その後のマネーゲームに手を出す余裕がなかった。だから欧米の銀行みたいにマネーゲームに大規模に手を出していないので、帳尻の悪化ですんでいるところがある。経済状況で言うと、アメリカとEUはタイタニックで沈没寸前と言う状況ですね。アメリカなんか子どものホームレスだけで百何十万という。日本にもホームレスはいるけれど、ちょっと考えられないでしょう、そんな数。

日本はそれに比べると浸水ぐらいですんでいる。それもあって日本では経済危機に関しては間の抜けた生ぬるい議論しか見かけません。

しかし、やはり世界が恐慌状態の中で、日本だけが安全地帯ということはあり得ない。じわじわ、じわじわと世界恐慌の影響は及んで来るし、現に及んで来ています。東京にしたって、有楽町西武が閉店とか、次々に寂しい話が出て来ているわけです。ましてや地方に行かれたら、これが同じ日本かと思うほど荒涼とした光景があります。町全体が次第にゴーストタウン化している、そういう所もあります。

この恐慌の原因ですが、1930年代にアメリカを震源地にした大恐慌がありました。ただね、この前の大恐慌の場合は、あくまで金融メカニズムが、つまり資本主義の矛盾や欠陥がもろに出て来て恐慌になった。純粋に経済問題だったということがあります。

しかるに今私たちが体験している21世紀のこの恐慌は、ちょっと違っています。かつて1970年代にローマクラブ報告「成長の限界」と言う本が出て、世にたいへん衝撃を与えた事があります。あの本が証言したように70年代に資本主義は成長の限界にぶつかっている。資本主義の成長の限界だったのですが、先進各国の政府、銀行、大企業は、この事実をもみ消して、マネーゲームや生産拠点の海外への移転で袋小路の現実をごまかしてきた。

しかしどうもその限界の問題から逃れられなくなった。特に70年代以来、文字通りの経済のエネルギー源である原油の価格がどんどん高くなってきた。そういう長期的な資源と環境の危機が、今回の恐慌の背景になっています。それを背景に金融資本のグローバルな破綻が起きているわけです。

しかしこの資源と環境の危機という問題は、今日の話に直接には関係ありませんので、一応カッコに入れます。

恐慌はなぜ起こるのか

それで、恐慌の原因というのは3つに尽きるわけです。

1. オートメーション

どんどんオートメーションが進んで人手がいらなくなる。当然、いわゆる機械による失業で所得がなくなる人が出てくる。それだけじゃない。オートメーションで労働者がいらなくなれば、雇用されている労働者も賃金が抑えられて低くなってしまう。さらに今の生産の現場では、機械が主役で人間は雑用をしている。だから人間にはコンビニのレジみたいな、雑用と言っては失礼だけれども、低賃金の雑用の仕事しかないという状況があります。

オートメーションが進行すればするほど、雇用による所得に固執しているかぎり、所得はどんどん先細りになっていく。それによって市場もしぼんでいく。所得に裏打ちされた有効需要が減るのですから。

この問題が、生産と消費を均衡させるためには人々の所得に対して雇用以外の何らかの補強措置が必要である、という議論の根拠になります。オートメで言えば、日本はロボットテクノロジー大国でありまして、その点ではオートメによる打撃は大きいはずの国なんです。それはぜひ考えていただきたい。

2. 企業会計

それから企業会計。現代企業は膨大な設備投資を必要としています。しかも、競争に勝つためには絶えず生産設備を高度化していかねばならない。企業会計の中で設備投資に充てる費用がどんどん膨れ上がっていく。

それに反比例して、企業会計の中に占める勤労者の賃金給与は減っていきます。相対的に減っていく。

しかも、その勤労者の賃金給与だけが商品の購買力であるわけです。労働者、すなわち消費者でもありますから。ということで、企業はどんどん設備投資をやっても、それで大量生産した商品を企業で働いている労働者が買うことができないということが起きてくる。

その結果、所得不足による商品の販売不振と言うことで、これも経済危機の原因になる。とにかく商品の価格には設備投資費が上乗せされていて、これからお話するように、銀行への利払いがさらに上乗せされている。そういう上乗せされた価格の商品をますます低くなる給与じゃ買えない。そこで需要不足および販売不振による過剰生産の問題が、資本主義に付きまとうことになります。

こうして資本主義が順調に発展していくこと自体が、やがて恐慌を引き起こすわけです。恐慌はなにかが間違って起きるんじゃなくて、資本主義の必然なのです。

3. 銀行マネー

それから銀行マネーと言うことですが、今の企業は膨大な設備投資を必要としているので、どうしても銀行からの融資を受けないとやっていけない。町の小さな工場だって、何千万もする機械を買わなきゃいけない。そんなものは手持ちの資金では買えないので、銀行から融資を受ける。

こうして企業が絶えず投資するためには、銀行からの融資が必要なので、経済の95%は銀行が貸し出す銀行マネーで動いています。

私たちが普通お金と言うと、財布の中に入っていてスーパーのレジで払うようなものと思いがちですけれども、そういうマネーはせいぜい経済全体の3%位だと言われています。後は全部銀行マネー、銀行信用で動いているんです。

だから銀行がお金を貸す、貸さない、貸してくれるかどうかで、経済の在り方が決まってしまう。銀行がマネーフロー、お金の流れを取り仕切っているということをしっかり認識する必要があります。

で、銀行マネーの問題が3つあるんですね。

  1. 法定通貨
  2. 負債経済
  3. 利子

1. 法定通貨

昔はお金と言えばイコール宝物ということでもっぱら金銀のことだったわけですね。19世紀ぐらいまでは。それが20世紀に入ってから、どこの国でも法定通貨ということで、国家が法律によってお金と定めたものがそのままお金であることになった。具体的に言えば紙きれですよね。それが通貨であることになって、今、世界のたいていの国ではマネーと金(きん)は切り離されています。

この法定通貨というのは国が発行しているのではなくて、国が委託するようなかたちで、実際は私企業にすぎない銀行が発行しています。いまだに日本銀行は日本国の銀行だと勘違いしている人が多いんですけれども、日銀は基本的には私企業で、私企業として帳簿の公開もしています。要するに日銀は銀行業界の代表なのです。

だから日銀が経済状態が良いの悪いのと言っているのは、銀行にとって良いの悪いのであって、庶民の生活の浮沈には関係ありません。そして、銀行による銀行のためのマネーということで、日本銀行券という千円札以上のマネーを発行しています。

現代の大規模で複雑な信用経済が、金銀の呪物崇拝から法定貨幣に移行することは、不可避だったと私は考えます。しかし問題は、その法定通貨が私利で、私的利益、私的企業の儲けのために発行されていることなんです。生産や消費の実態など踏まえないで、銀行の儲けになるかどうかだけで発行されたり回収されたりしていることが問題なんです。

これはつまり、現代経済は根本的に無秩序だ、アナーキーだっていうことですよ。だから景気が上向くとか下向くとかいうのも、自然現象ではなく、このアナーキーの現れなんです。しかも、法定通貨なら金銀と違って紙切れだから、無制限に出せる。紙きれにお札の模様を刷ればいいんですから。それが非常に社会を混乱させる。

たとえば今の恐慌にしても、きっかけはアメリカのサブプライムローンという住宅ローンのバブルですが、とても住宅ローンを払いきれないような低所得層に5千万とか6千万円の家をローンで買わせる。銀行はいくらでもペーパーマネーを発行できるから、そういう危険なこともできる。

2. 負債経済

それから次に負債経済。現代経済は主に信用、すなわち時間差のある交換で動いています。だから、今すぐじゃなくて将来払いますよ、という約束でお金を借りられることは、とても大事なことです。

ただ問題は、先に言ったように銀行が自分が儲かるか儲からないかの基準だけでお金を貸して、それが我々を法的に拘束する負債になることです。人間誰だれだって借金は気が重くて嫌なんだけども、銀行にとっては人に借金させることがその資産になる。それだけでおかしいですよね。人の借金が俺のシアワセという。これはそれだけでどこかおかしいと思わなくてはいけません。

しかも銀行は、自分のそろばんだけで生産とか消費の実態の客観的な分析なしに貸しているから、返せない人が次々に出てくる。その時に銀行は、お前にまた貸してやるからそれでローンを払えと言う。ローンをローンで、負債を負債で払うということがザラにある。これで銀行の資産はさらに膨れ上がる。

そういう意味では、今の経済は負債経済ですから。もしすべての人、すべての会社が全ての負債を返しちゃったら、経済はその瞬間にストップしてしまう。崩壊してしまう。誰かが負債で苦しんでいてくれている、――― 誰かどころじゃない、大抵の人がローンで苦しんでくれている。そのおかげで経済が動いている。これは異常な経済ではないか? しかも、経済が倍々ゲームで一時的に成長している間は、負債をある程度返せるからいいんですけど、一旦それが揺らいでくると、経済は積み重なった負債で身動きできなくなる。

日本の90年代以来の経済の低迷は、バランスシートリセッション、バランスシート不況と言われている。要するに企業が借金だらけで動けない。借金を返す方が先になって、とても新規投資をして、人を雇って、新しい商品を売りまくって、なんていうことをやる余裕がない。借金漬け経済ということが、日本の今のデフレの根本です。でも日本は、個人や家庭にさほど借金がないからまだいいですよ。アメリカが悲惨なのは、クレジットカード社会なので、個人が借金につぶされちゃっていますから。

銀行にとっては人の借金が自分の資産だから、いざとなったら差し押さえでも何でもやる。今、アメリカではどんどこローンを滞納した住宅を差し押さえていて、ホームレスが何100万人も生まれています。それが負債経済というものです。

3. 利子

そして、銀行マネーの一番の問題点は利子の存在です。負債の場合なら、ラーメン屋を開店するために1千万借りたけれど、商売が予想どおり当たって、繁盛して返せました、ということもあるでしょう。それなら負債にも生産的な意味があったことになる。だが利子と言うのは実体経済の中に何の根拠もない。

では利子を払う金はどこから持ってくるのか。負債の場合は負債に見合うだけの儲けがあるかもしれないけれど、それにさらに利子がプラスされることには何の根拠もない。しかも場合によっては、それが複利でものすごく増えていくわけですよ。だから住宅ローンなんて、最後は利子分の方が元本よりも大きくなっちゃうでしょう? 根拠のないお金を銀行がふんだくっているわけですよ。

で、どうするかというと、人からもぎ取ってくるしかない。詐欺や犯罪みたいな事をしないと利子は返せません。そんなことをしないで利子を返すためには、また借金をして多重債務者みたいになる。そういうことが今の資本主義国では普通なわけです。結局利子とは何かといえば、要するに、お金を持って貸し付けている銀行とその株主などの経済強者にお金が移動するということです。持たざる者から持てる者にお金がどんどん吸い上げられ、利子のせいで富が富裕層にさらに集中するのです。

皆さんは、「俺は借金なんかひとつもしていないから銀行経済には関係ない、利子も関係ない」と言われるかもしれない。しかし、会社にいて給料をもらってる場合、たいてい企業が銀行から借りたお金がそこに入っています。

しかもそのお金で商品を買うと、その価格の3分の1から半分は利子だと言われています。直接と言うことじゃなくてね。たとえばトヨタが車を作る場合、何百という会社がトヨタに部品や材料を納入しています。そういう会社がみんな銀行への利払いを抱えている。それを全部集計すると最終的に商品価格の3分の1から2分の1が利払いということになってしまう。

BIをかりに実施しても、それで商品を買って銀行に利子を払うんじゃあ、BIっていったい何なんだろう。そういうわけで、無人島にでも行かないかぎり、現代人は銀行経済の魔手から逃れることはできません。

部分準備制度と信用創造

そしてこの法定通貨、負債経済、利子という要素は、銀行マネーの根本原理である「部分準備制度」がはらむ問題を、危機的に増幅させるのです。この制度は、銀行はその貸付に対しては部分的な準備=預金があるだけでよい、とするものです。つまり銀行は全預金者が一斉に預金を引き出したりする恐れがないのをよいことに、預かっている預金の八倍から十倍の金を貸し出しているのです。こうして我々が預金した一万円が十万円に化ける。差額の九万円は、銀行がパソコンのクリックひとつで何の対価も労働もなしに無から創造したもので、負債となり現実の金となっていずれ利子付きで銀行に戻ってきます。そしてこの九万円が回りまわって別の銀行に預金されれば、それはまた十倍のカネになります。こうして部分準備制度はインフレの恒常的な原因になり、実体経済が負債で揺らぐと、銀行マネーは今度はデフレの原因になります。

銀行によるこの無からのマネーの創造は「信用の創造」ということですが、もちろん現代経済に信用は不可欠です。だが問題は、銀行が本来、公共的社会的な意義をもっている信用を私企業として私的利益の目的で横領し独占していることなのです。そしてこの独占を確実にするために、大銀行はカルテルを作り、そのカルテルが「中央銀行」と呼ばれているのです。言うまでもなく、この部分準備制度による銀行信用の創造と、それによる融資=通貨の供給が経済的アナーキーの根本原因です。

多くの人は銀行を大きな金庫のようなものと勘違いしていて、銀行がマネーフローを取り仕切っているということを理解していません。だから自分の預金は銀行の金庫に保管されていて、それをATMで引き出しているのだと思い込んでいる。だが実際は預金は銀行が作り出すマネーフローの中に消えているのです。それでも我々がATMで預金を引き出せるのは、銀行に次々に新たな預金が入ってくるからです。だから銀行は、ネズミ講みたいなことをやっているわけです。例えばですが、詐欺師の集団がいて偽札を作り、しかもそれでネズミ講をやっているとします。誰でも「これはひどい話だ」と思うでしょう。しかし銀行がやっていることは、この詐欺師集団とあまり変わらないと思います。

とにかく、こういうかたちで経済を銀行が勝手に取り仕切っていると、結局銀行は経済を窒息させてしまう。

恐慌の原因、まとめ

では、なぜこの経済はリーマン・ショック以前にもっと早く窒息しなかったのか。思うに、戦後長らく銀行マネーのトリックが破綻しなかった背景には、石油という魔法の資源が水のように安かったということがあるのではないでしょうか。そのおかげで資本主義の矛盾をもみ消したり先送りしたりできた。それが70年代からじわじわと原油の価格が上がってきて、とくに今世紀に入ってから急騰してきた。それを背景として、銀行マネーのトリックが全面的に破綻したと言えるように思います。

それではここで、恐慌の原因についての話をいったんまとめます。

まず、オートメ化と企業会計の矛盾が需要不足と過剰生産をもたらしますが、これはまだ不況の状況です。不況なら、「企業の在庫調整でそのうち景気が回復するから、それまでの間、政府は雇用対策をやれ、企業は賃上げをやれ」などと、のんきなことを言っておられる。だが、不況に出口がなく、遊休化した過剰資本が投機に向ったあげくバブルが弾け、銀行マネーの機能がアクセルからブレーキに一転して、経済全体が銀行への負債で身動きできなくなる。これが恐慌です。恐慌とは銀行マネーの問題点がはっきり表面化したもので、銀行マネーによる経済の窒息死です。

アメリカで住宅バブルが弾けたことをきっかけに起きた今の世界恐慌は、その意味では銀行マネーのグローバルな最終的崩壊、ハルマゲドンです。天文学的な額のマネーゲームをずっとやってきたせいで、世界の金融資本が抱える負債の総額は人類社会全体のGDPの十四、五倍に達すると言われています。こんな負債を返せる筈がありません。世界の大手銀行はすべて、破産の実態をあの手この手で誤魔化して生き延びているゾンビ銀行です。だから各国の政府やマスコミが垂れ流している、「もう少し辛抱すればトンネルの出口が見えてきて景気は回復する」という言辞はまったくのデマです。この銀行の破綻に加えて、いわゆるピーク・オイルの問題があります。国際エネルギー機関によると、世界の原油生産は2006年にピーク(原油増産の限界点)を越したとみられるそうです。だからもう1960年代のような経済成長はありえないのです。

日本でもアメリカやEUでも、今、各国の政府がやっていることは、恐慌という現実を否認してそれを不況にすりかえることです。そして「これは不況なんだから従来の不況対策を徹底すれば間もなく景気は回復し経済はまた成長する」と言い張る。そして、ゾンビ銀行が生き返れば問題はすべて解決するとして、必死になって国民の血税で銀行を救済している。危機の原因である銀行を無くすどころか強化しようとしている。こうして政府が銀行の手先としてあれこれ策動するために、恐慌はますます破局的なものになっています。

「政府通貨」の発行

これまで述べてきたように、不況が大恐慌に転化する根本原因は、銀行マネー、銀行信用です。ですから銀行マネーを経済と生活の信頼できるツールであるような別のマネー、別の通貨システムに置き換えないかぎり恐慌は解決しません。それは「政府通貨」の発行ということです。政府通貨は四つの点で銀行マネーと異なり、それと正反対の性格をもちます。

  • まず第一に、「政府」という言葉が示すように、それは公共の福利、社会全体の利益のために発行されます。具体的に言えば、それは、経済が滑らかに回って安定するよう、自由な交換の手段としての通貨を、社会に過不足なく供給することを目的に発行されます。

  • 第二に、銀行はその商売の道具である銀行券をアナーキーに発行しますが、政府は通貨の管理を公益事業として行い、水や電気のように社会に必要な通貨を供給します。ですから政府通貨に利子は付きません。

  • 第三に、政府通貨による融資にも返済が必要ですが、これは発行されて交換の促進という役割を終えた通貨を回収して、経済の正常なサイクルを維持するための措置、通貨の過剰供給によるインフレの発生を予防するための措置です。乗客が移動という目的を達成したら、降りた駅で切符が回収されるのと同じことです。だから政府通貨による融資は、当座貸し越しです。それは、返済が法的義務で担保を差し押さえられることもある銀行マネーの負債ではありません。

  • 第四に、銀行が損得勘定だけでアナーキーに融資するのと異なり、政府通貨は国民経済計算のできるだけ客観的なデータに基づいて、社会の必要に応じて供給されます。データに誤差があって経済がインフレ気味になった場合には、通貨政策をすぐに修正すればいいのです。

そして政府通貨による恐慌の解決には、すでに立派な先例があります。1930年代の大恐慌に見舞われた時、日本とドイツだけが政府通貨の発行に踏み切ったのです。その結果、恐慌は2、3年で解決しました。ところがアメリカは、悲惨な大戦が生んだ軍需ブームによってしか恐慌を克服できなかった。この日独の実例が広く知られると銀行資本にはまずいので、政府通貨の発行はファシズムのやることだという議論が出回っていますが、これはぜんぜん事実ではありません。日本で国債の日銀引き受けというかたちで政府通貨の発行をやったのは高橋是清(これきよ)で、インフレになると軍拡に反対して軍人に暗殺された人です。もちろんファシストなどじゃない、偉大な人です。

ドイツのシャハトは、これも金融のエキスパートで、彼の場合はヒットラーに全権を与えられて金融改革をやって、ヒットラーは一切口出ししなかった。だから銀行家として一番合理的と考える通貨改革をやり、ワイマール期の、パン一つ買うのに大八車一杯の紙幣を持っていく必要があったハイパーインフレをたった3年で解消し、ドイツをヨーロッパ最強の経済に立て直した。シャハトもまた軍拡に反対して、最後は強制収容所に送られました。だから政府通貨の有効性は、とっくに証明済みなんです。そこで、マネーフローを人々が往来する大通りにたとえましょう。大通りでは人々は自由に往来できて当然です。ところが、私企業が通りのあっちこっちに勝手に関所を作って通行人から通行料を取ったら、誰でも怒るでしょう。しかし、銀行がマネーフローで関所を設けて金を巻き上げていることには怒る人がいない。これは不思議です。これに対して、あくまでマネーの順調な流れを維持すること、それが政府通貨の課題です。

ついでに言うと、政府通貨の発行には税収の裏付けなんか必要ないんで、それで国家予算を編制する場合には国家財政の財源という問題はなくなりますね。社会に必要なものを見極めて、正しい国民経済計算をやって、それに基づいた通貨供給をやっていればいい。電力や水の供給と同じ問題です。

この政府通貨によってBIを保証することが、経済の流れをスムーズにするためには理想的ですが、これは後でお話しします。

「租税国家」とは

ところが政府通貨の発行に対しては、実は重大な障害があるんです。

現代国家は「租税国家」である。皆さんは租税国家という言葉は聞きなれないと思いますので、これから詳しく説明します。国家というものは、昔の左翼の発想だと暴力装置だということになる。国家を国家たらしめているのは暴力の独占である。そういう要素も少しはあるけれど、国家の国家たる根本は税金です。モナコは税金がなかったかな。しかしあれは代表的な例とはいえない。やはり国家たるものは、税金を取ってそれを国民のためと称して使う。そして税金が絡んでくると、まさにマネーの問題が政治の問題になってくるんです。

それでは、租税国家というのはどういうものか。江戸時代の年貢は、本当の意味での税金とはいえない。幕府や藩がぼったくっているだけで、見返りの行政サービスなんてないわけですから。それから戦前、大正時代の初めくらいまでは選挙が制限選挙と言って、富裕な納税者でなければ選挙権がなかった。当時は、国家はお金持ちクラブのようなものと思われていたんですね。庶民は高い税金を払う必要がない代わりに、何もしてもらえなかった。年金も健康保険も何もない。

先進諸国で租税国家と言えるものが完成されたのは、第二次世界大戦後のことです。それはどういうことかと言いますと、この国家は税金を誰からもくまなく取る。その代わり、ちゃんと税金でサービスをしますという建前になっている。だから消費税となると、ホームレスの人でさえ商品を買えば税金を納税している事になります。納税しているんだからホームレスの人も面倒をみるべきだ、ということになりますが、そういうかたちで誰からも税金を取るけれども、それは行政サービスとしてちゃんとお返ししますと国は約束する。

そして、戦後にできたこの租税国家が存立する前提となっているのは、経済成長です。

経済成長モデルに立脚する租税国家

この国家は、永続的な経済成長を制度の前提として設計された国家です。市民から強制的に税金を徴収する。所得税なり消費税なり。しかし税収は、直接間接に、経済発展の条件を整備するために使われる。そして経済発展で国が豊かになれば、国の市民へのサービスが拡大し、福祉国家が充実してくる。強制的に税金を取られても、結果的には、それによるサービスや福祉の拡充で市民にとってプラスになるとして、税金が正当化されているわけです。そういう見返りなしには、国が強制的に市民から税金を取る根拠がありませんから。

そして、経済の低迷で国家予算に見合うだけの税収がなかった場合には、しょうがないから国債を銀行に買ってもらい、赤字を埋めるということになりますが、これは本当はおかしい。

国や自治体は、企業みたいに投資による事業の拡大を目指しているわけではない。それがなんで、銀行に借金して利子を払う必要があるのか。現に、日本の法律では、基本的に赤字国債の発行は禁止されている。建設国債は認められていますが、赤字国債の発行は本来違法なんです。ということは、国債の発行は、国が財政的にピンチになった場合の、あくまで臨時的、一時的、例外的な措置だということです。

そして国債を発行すること自体、将来、経済が成長をして増えた税収で借金を返せるという前提があってのことです。ところが、1970年代以降、先進国はどこでも低成長経済になって、税収不足が恒常的になり、それでいて福祉の拡充を求める世論は揺るがない。ですから先進国はどこでもタブーを破り、赤字国債を発行するようになった。その結果、銀行に対する国家の借金がどんどこ増えて、国家予算のかなりの部分が銀行への利払いに充てられるようになった。これは全く不毛な支出です。税金はいろいろなことに使えるはずなのに、利払いでは何の意味もない。国が自由に使えるお金が減るだけです。

政府はなぜ銀行を救済したのか

ところで、日本政府は90年代、バブル崩壊後に破産寸前になった銀行を、公金を投じて助けました。なんで、地上げ騒動などで世間に大迷惑をかけたあげく、窮地に陥った大手銀行を納税者が助けてやる必要があるのか。

こんな不条理な措置を、自民党政府が世間への釈明もなしにとったのも、実は租税国家と銀行マネーは一体のものだからです。先に申し上げたように、銀行に任せておくと、銀行は社会にどんな混乱が起きようが悲劇が起きようが知ったこっちゃなく、自分の損得勘定だけで融資しますから、社会はきわめてアナーキーな不安定な状態になる。そんな混乱が拡大すると、最後には銀行自身も危なくなる。それで銀行マネーとは別の通貨流通システム、マネーフローを作り、それで銀行マネーの支配を補完することが必要になる。あくまでも銀行マネーに従属し、そのサブシステムとして機能する、人為的な、政治的なマネーフロー。それが税金だということです。

だから税金をマネーフローとして考察することが必要です。公共の福祉が課税の建前になっていますが、税金は赤い羽根の募金じゃない。銀行の矛盾を覆い隠してごまかして、銀行の経済支配を補完することが現代における税金の役割です。

そしてリーマン・ショック以来、先進各国の政府はそろって、マネーゲームの破綻でゾンビ化したメガバンクを公金で救済しようとしました。税金というマネーフローは、銀行のマネーフローを補完するためのサブシステムと考えれば、これはある意味で当然なんです。だいたい銀行は昔から影の政府だったのですが、これがリーマン・ショック以来、アメリカやEUでは正体を現して表の政府になってきている。アメリカの今のオバマ政権は銀行政権というしかない。ウオール街の金融マフィアみたいな連中がホワイトハウスの経済政策担当になって、ウォール街とメガバンクの利益のための政策をどんどこやっています。そういう意味で、今や先進各国の政府は銀行の代理人にすぎません。今の政府は何をやっても失敗していて、事態を悪化させることしかしていないのに、銀行の代理人の役割だけはちゃんとやってるんです。よく見ていただきたい。

アイスランドと、ギリシャ・アイルランドとの財政破産の違い

たとえば今、EUでは、ギリシャとアイルランドが財政的に破産ないしは破産寸前というので、ECBヨーロッパ中央銀行が、巨額の支援の融資をしました。しかし、あんな支援は毒まんじゅうを食わせるようなものです。つまり、ぜんぜん両国民を助けるための融資じゃなくて、アイルランドとギリシャに貸し込んでいるドイツ、フランス、その他のヨーロッパの大手銀行と、その株主や両国の国債の保有者を助けるための融資です。

しかもその融資にきわめて高い利子が付いている。だから負債でつぶれたギリシャ、アイルランドがさらにまた負債を抱え込み、しかもそれで当座なんとか浮かんでいられるだけなのです。それがEUによる救済の内幕で、銀行が生き延びるためなら社会や国家が滅びようがなんだろうが知ったこっちゃない、という状況が生まれています。もうギリシャもアイルランドも孫の代までもみんな、銀行に借金を返すためだけに生きているような国になってしまうでしょう。さらに債権者の銀行のご機嫌をとるために、ギリシャとアイルランドの政府は経済がどん底なのに大増税と超緊縮財政をやっている。この二つの国では、若者が将来に見切りをつけてどんどん外国に移住しているようです。まさに亡国です。

その点、救いはアイスランドです。アイスランドは、銀行が勝手に国のGDPの11倍もの規模のマネーゲームをやったあげく、ご存じのように国家的に破産した。しかしここでは、国民投票で銀行救済を拒否した。具体的に言うと、アイスランドの銀行が資金源だった外国に対して抱えている負債を、国ぐるみで踏み倒したのです。その結果、経済はたいへん厳しい状態ではあるけれど、マネーゲームに責任がない一般国民が銀行に利子と負債を払いつづける必要がなくなった。

この債務不履行の結果、アイスランドのクローナが暴落した。だが、暴落した分、タラの塩漬けなんかを安く輸出できるようになって、経済が持ち直してきている。失業率も大方のEU諸国より低い。状況はひどいけれど、とにかくやっていけるし、アイスランドは再建できるという希望が生まれてきている。その点、ギリシャとアイルランドにはまったく希望がない。それなら、一時的にはどんなに苦しくても借金を踏み倒しちゃえばいいじゃないか。それをやらない。そこが根本問題なんです。

銀行がギリシャやアイルランドにさらに増税だの緊縮財政を強要したら、経済はさらにじり貧になることは誰でもわかります。でも、銀行は政府に対するそういう強要をやめない。結局、銀行の帳簿のつじつまが合っているかどうかだけが問題なんで、その結果が実体経済にどういう影響を与えようが知ったことではない。銀行としてみれば、わかっちゃいるけどやめられないんです。政府の方もですね、租税国家は経済成長を前提に設計されていますから、こういう状態になっても、必死にがんばればトンネルから抜け出てまた景気回復がある、まず銀行を救おう、という発想でやっている。その結果、ますます断崖からまっさかさまみたいな状態になってきています。

租税国家から社会信用国家へ

それではなぜ経済成長が必要かというと、これは要するに利子の問題があるからです。そこそこ食っているだけじゃ、絶対、銀行に借金を返せないから、経済規模を拡大することで利子を返さなきゃいけない。利子つき負債の銀行マネーが経済成長の論理を生み出すのです。

福祉国家の延長線上でBIを考えて、福祉と同じく消費税なり所得税なりの税収を財源にBIをやればいいという議論が、日本ではまだ主流だと思います。私はそう言っている人の揚げ足を取るつもりはないんですが、現実には租税国家の解体がどんどん進行しています。先進諸国ではもう景気の回復や経済成長はありえないので、税収は先細りになるばかりで、今後は福祉、社会保障支出の大幅削減が予想されるし、アメリカでは財政破綻した自治体が教師、警官、消防士などをまとめて解雇し、治安がひどく悪化している例もあるそうです。

租税国家と銀行マネーは一体なのですから、恐慌で銀行マネーが崩壊すれば、それに伴って租税国家の解体が進行する。具体的に言うと、政府が増税しても税収は落ち込む一方だし、赤字国債を発行しても買い手がつかず、税収の大半は銀行への利払いに充てられ、最後には国家予算の編成自体が不可能になるという極限的事態もありうるわけです。こういう国家の自殺を回避する方策はただひとつ、銀行券を政府通貨に置き換え、政府通貨を土台にして国家体制を再組織するしかありません。

そこで、経済を滑らかに回すためにー ―― 負債にも利子にも関係がない ―― 切符のような純粋な交換の手段として政府通貨が発行される、そういう政府通貨によって経済が動く国家を私は「社会信用国家」、ソーシャル・クレジット・ステイトと呼びたいと思います。

ソーシャル・クレジット・ステイト

この国家においては、国民経済の正確なデータに基づいて、必要なだけの通貨を経済に供給することが国家の仕事、その国家信用局の仕事になります。これは気象庁の天気予報のような基本的に技術的な作業です。このように国家の仕事は「信用の管理」になるので、税収を基に国家予算を組んで支出するという、会計としての国家財政というものはなくなります。もちろん国債発行の必要もなくなります。そして当然、財務省も廃止されます。ただ、税金は自治体レベルで部分的に残ってもいいでしょう。例えば、ある町が市民の合意に基づいて、景観保存税を設けるといったことです。

政府通貨の企業への融資については、様々なシステムが考えられます。とにかく国民生活や地域社会に必要不可欠な仕事をしていると公的に認められた企業には、政府通貨が融資されるでしょう。それから日銀と日銀券は廃止されても、地域の銀行は存続が認められるでしょう。だから政府通貨がカバーしない、例えば趣味的な商品を扱っている企業などには、そういう商業銀行が融資する。ただ諸悪の根源である部分準備制度=銀行による私的でアナーキーな信用の創造は認められません。あくまで手持ちの預金だけを貸し出してその手数料でやっていくことが銀行の営業条件です。もっとも、イスラム銀行のように、事業が当たった場合には資金の借り手と銀行が儲けを折半ということは、あってもいいかもしれません。

だが以上とは別に、国家には教育、医療、福祉、国防、その他の資金となる国庫への収入が必要です。税金のかたちをとらずにそういう収入を確保する必要がある。そこで、私は以前の講演で提案したのですが、企業への融資に1~2%のごく低い利子を付けたらどうか。利子という言葉がまずいなら、融資手数料と言ってもいい。政府通貨による融資は国民経済の大動脈をなすものですから、これによる国庫への収入は膨大なものになる筈です。これは、政府が銀行と同じ金貸し業をやっていることを意味しません、そうではなくて、これは企業経済の繁栄が、そのまま国民生活の安定と充実につながるような連動装置を設けることなのです。

政党政治と租税国家

ところが租税国家を社会信用国家に変えようとするや、その最大の障害として現れてくるのが、議会制と政党政治なのです。議会なるものは租税国家の一環をなしている制度であり、だから議会政治の中身といえば、国家予算の編成をめぐる政党間の争いや駆け引きや取引です。税金の取り方、使い方そして昨今は国債発行額の限度といった事柄で政党が争っている、それが議会というものです。ですから租税国家が社会信用国家に変わったら、議会と政党はすることがなくなってしまいます。そもそも会計としての国家財政というものが消えてしまうのですから。

政党とは何ですか。それは租税国家を前提にして、それを自分たちのグループにできるだけ都合よく利用したい連中が、他のグループと争うために徒党を組んだものです。

政党はそういうグループや個人の野心で動いているから経済全体の分析なんかどうでもいいんです。銀行が経済全体の事なんか考えずに融資しているのと同じです。政党と政治家は次の選挙で勝って権力を握れるかどうかだけで動いている。そういう意味では銀行は貪欲を動機として動いており、政治は野心や名誉欲を動機として動いている。人間には野心や名誉欲も必要でしょうが、それで経済を動かされては困るんです。

いずれにせよ社会信用国家が生まれたら、大手都市銀行と政党は存在理由がなくなる。だから銀行と政党は、こういう方向での社会の変革には死に物狂いで抵抗するでしょう。しかし銀行マネーの崩壊と租税国家の解体が進行すれば、そうした抵抗の基盤がどんどん崩れていくことも事実です。

議会制と政党政治は政府通貨とは相容れないと、今、言いましたが、あえてですよ、議会制の枠内で政府通貨が発行されたらどうなるか。それに近い例は中国の人民元です。人民元は変な意味での政府通貨で、銀行マネーならぬ党派マネーです。やはり利子付き負債のマネーですが、中国共産党の独裁支配の道具です。中国では党が銀行に命令します。だから、人民の福祉も社会の安定も生産も消費のバランスも考えておらず、共産党の権力を守れるかどうかの観点だけで融資されている。昨今マスコミは、中国は未来の超大国などというヨタ話を垂れ流しています。冗談もいい加減にしてもらいたい。党派マネーで動いている国にまともな経済発展などありえません。

実際、中国経済の歪みや政府の無茶苦茶な景気刺激策が生んだバブルは凄まじいようで、投資目的で建設され誰も住んでいないマンションが全国に200万あるとか、そのような状態です。

自治体の連合体としての国家

ところで先程から政府通貨と言ってきましたけれども、これは銀行が発行する通貨と発行主体を区別して政府通貨と言っているわけです。通貨の性格で言ったらパブリックマネー、公共通貨と言えるでしょう。この場合、政府通貨における政府とは何を意味するのか。選挙で勝った党派とか、武力クーデターで権力を握った党派とかを意味することはあり得ない。

ここで「政府」とは、社会契約に基づく全人民のしっかりした合意を意味しているのだと思います。政府は人民相互の合意を象徴する存在であるべきです。社会契約とは、社会に参加する以上は人を傷つけるようなことはしませんとか、自分の利益がみんなの利益に一致するように努めますといった、基本的なことをすべての人がすべての人に対して約束することです。

そうならば、政府通貨発行の条件は、その発行と使途の公共性、それが公共の利益に即しているかどうかについての全人民の合意ということになります。そうすると、政府通貨の発行に際しては、国家予算の編制の徹底的な民主化が必要になるでしょう。誰も排除されてはいけない。すべての市民が国家予算の編成に参加する。そうでないと本当に信認されて安定する通貨は発行できない。してみると、政府通貨と国家予算編成の徹底的な民主化は一体のものなのです。しかし、この予算編成の民主化、全人民の討論による予算編成など、可能なことなのでしょうか。

これは論理的には簡単にできる。つまり中央銀行と並んで中央の政府も廃止すればいい。国家を自治体の連合体として再組織する。そして、自治体が市民も参加してその予算案を作る。市民参加の予算作りはブラジルで始まって、日本でも埼玉県の志木など実験的にやっている自治体があります。(ただ自治体連合としての国家といっても、外交や国防などのナショナルな事柄はどうするかという問題があります。これは例えば、自治体の首長が協議会を作り、その成員が互選で「内閣」を組織するといったことなどが考えられるでしょう)。

そういう市民参加で各自治体の予算案を作って、それを中央の国家信用局に上げる。そして国家信用局は全国から集まってきた予算案を国民経済計算のデータと照合しながら調整し、統合して、国家予算を編成し、それに従って通貨を供給すればいい。この場合、国家信用局の課題は調整と統合およびインフレの予防です。通貨の過剰供給によるインフレが発生することがないよう予算案を審査し、必要なら自治体の同意の下にそれを修正する。ただし予算案の中身には立ち入らない。もし市民がおかしな予算を作って問題が起きたら、そのツケは市民自身が払って、将来への反省材料にするべきなのです。以上は体制転換の精密な青写真などではなくて、こういう考え方、やり方もあると、例を説明申し上げているわけです。

中央と地方

このようなかたちで、全人民の討論による国家予算の編成が可能になります。この方式なら、国家予算で何を優先するのか、教育か医療か福祉か国防か、そういうことも常時国民投票をしているのと同様な形で決めることができる。そして予算がつくというかたちで国民の選択が明確になるわけです。今の話を聞いて、これは結構だが革命的ユートピアじゃないかとおっしゃるかもしれません。しかし国家予算編成の民主化について、私は悲観していません。確かに、今、私が提示した方式はラディカルすぎる。すぐに実現できるものではない。しかし租税国家が解体する中で、議会も政党も中央の官僚制も、もうまともに機能していません。皆さんもそう思うでしょう? 今の国会なんか、程度の悪いナンセンスギャグコメディーみたいなものです。

国家は機能不全の状態。これは深刻な問題ですよ。日本の財政はアメリカやEUよりはまだ破綻までに時間的に余裕があると思いますが、このままほっておくといずれは、年金も、健康保険も、全部なくなっちゃうかもしれない。

そしてこの状況の中で、市町村から道府県に到る自治体が、国民生活の危機と転換の焦点になってきていると思うのです。その理由は、国と地方では財政の事情が違うからです。国の場合は財政が火の車になったら、日銀=銀行業界に懇願して、景気刺激策や赤字国債発行で多少は渋々協力してもらえることがある。しかし地方にはそんな日銀とのパイプなどなく、財務省の言いなりです。地方は90年代のバブル崩壊後に、国に景気対策として地方債による公共事業をやらされた。今その巨額のツケが回ってくる中で、税収がどんどん落ち込んでいる。しかも地方自治体は中央の政府と違って住民に密着していますから、福祉切捨てなどやたらに不人情なこともできない。アコギなことをすれば、すぐに首長の評判にはね返る。こうして自治体は、破綻した国家財政と住民の間で板ばさみになり、身動きできない状態です。そのうえグローバリゼーションによる地域経済の衰退や地域人口の高齢化など、国政のツケもすべて東京以外の地方に回されています。

それゆえに、現在の日本では中央と地方の間に活断層が走っていて、それが今後のこの国の政治の震源になりそうです。これからは地方自治体が日本の政治の焦点になってくるでしょう。だから我々としても、国政選挙なんか放っておいて、自分たちの住んでいる地方自治体の尻を叩く必要がある。もしも自治体が、財政が苦しいから、例えば保育園への補助金を打ち切るとかそういうことを言ってきても、頑として認めないようにする。「子どもたちが健やかに育つためには、優良な保育園が絶対に必要だ。財政のことはそっちで考えろ」と、徹底的に分からず屋として抵抗して、自治体を追い詰める。自治体が追い詰められて、国家に八つ当たりしていくように仕向けることが必要です。とにかく、自治体の財政事情に対して物分りがよくなってはいけないと思います。むしろ要求をどんどん出していくぐらいのことが必要でしょう。

自治体銀行 ―― 段階的な戦略

それはとにかく国家を自治体連合に再組織するというのはラディカルな案で、すぐには実現しない。それでは、段階的に社会信用国家を作っていく手立てはないでしょうか。ここでまず必要なのは、日銀と財務省をバイパスするマネーフローを作ることです。住民の利益に、必要に答えるような、マネーフローを設計する。

自治体の懐は苦しいけれども、自治体はそれぞれ、山野だの、名所旧跡だの、公共の建物だの、様々な資産を持ってます。そうした自治体の持っている資産を裏付けにして、各自治体が資金を……出しあって、全日本自治体銀行という公立銀行を作ったらどうか。この銀行はあくまで公共の福祉のための銀行ですから、教育とか福祉とか地域社会の安寧と繁栄に必要なものに優先的に融資する。地元の地域社会で重要な役割を果たしている地場産業、中小企業に融資とか。一応、利子は取ります。政府通貨じゃなくて日銀券を使っていますから。ただし低利子で、しかもこの利子収入は、そのまま自治体の収入になります。今みたいに経済が低迷している時には、こういう利子収入は自治体にとっては非常によい財源になる筈はずです。それから、この銀行で働くのは自治体の公務員で、その職務で特別に高い給与をもらう訳ではありません。

そしてこの公立銀行は、銀行の部分準備制度を公共の福利のために活用すればいいのです。全国の自治体が懸命に資金を集めても、100億円くらいにしかならないかもしれません。しかし、今、言ったように部分準備制度を応用すれば、これが800億とか1,000億になって地域社会に融資できます。

自治体の公立銀行の実例としては、現にアメリカに北ダコタ銀行という州立の銀行がありまして、これが非常に成功している。この銀行は、かつて東部の銀行資本と戦った西部の農民運動が生んだ銀行です。地元の地域経済発展のために、公共的な意義のある融資をやっています。その収入は北ダコタ州の収入になります。今、アメリカの州や都市の多くが破産状態ですが、北ダコタ州は黒字で、失業率も全国でいちばん低い。

この自治体銀行は、地域の銀行とは協力し協調する必要もあるでしょう。北ダコタ銀行もそうしています。ただ、大手都市銀行は自治体銀行に対して、「営業妨害だ」と激しく反対するでしょう。それなら我々は逆に「大手銀行はこれまで何をしてきたのか」と問い詰めればいいのです。大手都市銀行は潰れた方がお国のためです。

もし全日本で自治体銀行を設立してうまくいったら、次のステップに進む。今度はいよいよ通貨を発行する。政府通貨に等しいものを、日銀と財務省をバイパスして発行する。ただ、日本国の法律では日銀が法定通貨を発行するので、それ以外には誰も通貨を発行できないことになっています。しかしこの問題は言い逃げてしまえばいいんです。これは通貨ではなく証書です、人が働いて物やサービスを生産したことを証明する証書です、と言い張って、それを実際は通貨として流通させてしまえばいい。そういう証書の流通によって経済が一気に回復したら、財務省や日銀も文句をつけにくいでしょう。

そういう自治体財産証書みたいなものを発行し、自治体がそれを梃子にして日銀と財務省をバイパスした地域自治体連合経済を作っていく。こういうことをやらない限り、租税国家は追い詰められて、増税と緊縮財政を繰り返して自滅するだけです。

社会実験を促進するためのBI

ここでようやくBIの話になります。というのも政府通貨が根本的な課題で、政府通貨が実現したら、BIはお茶の子さいさいで出来てしまうからです。まず、BIの財源の問題がなくなります。そして銀行マネーが消滅し、利子付き負債の返済が経済を動かすことがなくなると、経済成長、GDP(経済規模)の拡大はもう国や企業にとって至上命令ではなくなる。そして政府通貨の安定した流通を実現するためには、生産と消費が均衡することが望ましいと考える人々が増えるでしょう。その結果、政府通貨でBIを保証することこそ、政府通貨のもっとも有効な使い方だとする世論が高まるでしょう。

そういう意味で、BI実現のためには、まず政府通貨という第一のハードルを突破しければならないと、私は考えているのです。その上で、BIについて二言ばかり付け加えたいことがあります。まず第一に、BIは福祉の延長線上にあるものではないことはおわかりだと思います。逆にいえば、仮にBIが実現したからといって福祉は切り捨ててもいいということにはなりません。BIと福祉は、本来、目的も意義も異なるものなのです。

私の考えでは、BIを求める世論の高まりは、今の社会が巨大な実験をしようとしていることに関係しています。冒頭で申し上げたように、今後、我々はゼロ成長経済の中で生きていくしかありません。ところが現代社会では、経済も国家も成長を前提にしたシステムとして作られている。教育もそうです。そしてゼロ成長やマイナス成長社会をどうしたら作れるのかは、はっきりいって誰にもわからない。結局、そういう新しい社会は、すべての人が生活者として実験し、模索する過程の中から、徐々に生まれてくるのでしょう。そうした実験的な生き方を可能にするところに、BIの深い意義があると私は考えています。

具体的な例を上げると、今の就職超氷河期で必死に就活して、100社回っても全部はねられた、そんな思いをするくらいなら、以前から関心があったし、地方で有機農業をやってみようか、と考える若者はかなりいるんじゃないでしょうか。

といっても、都会人が一人前に農業をやれるようになるには、だいたい10年はかかりますよ。

しかしBIがあれば、ライフスタイルの転換は極めて容易になる。安心して農の修業ができる。それから経済成長ゼロの社会においては精神的な要求の充足が重要になってくるでしょう。そこでは芸術や芸能の役割は大きいでありましょう。しかし芸術は、それでは食えないものと、相場が決まっています。それだけにBIは芸術や芸能に関係する人たちを支えることで、経済中心から文化中心への社会の原理の転換に貢献できるだろう。実験的な生き方を可能にするBIは、革命とか暴力なしに社会の在り方を変えていくことができる。

だから、「BIが実施されたら怠け者が増える」といった議論を、私は相手にしません。むしろ実験的な自由な生き方をしてみようと思う人が、一斉に出てくるんじゃないでしょうか。

BIの未解決問題 ―― 3K労働

しかしながら、BIには実は未解決の大問題があると思います。3K労働をやる人がいなくなる可能性がある。BI論者の中には、3K労働をやる人には高給を出せばいいという議論がありますが、そういう発想はダメだと思います。今の若者はたとえ高給を貰えても嫌な仕事はしない。ネットカフェ難民になるくらいだったら3K労働をやろう、とは思わないようです。もっとも私は、食い詰めても自分がピンとこない仕事はしないというのは、今の若者のいいところだと思っているんですよ。彼らは、自分がピンとくる仕事なら、無給のボランティアでもせっせと働きます。ともあれ、派遣切りをやられたり、ネットカフェ難民をやってる若者でも、月50万やるから漁業やらないかと言っても来ないらしい。私の地元の渥美半島でもそうですが、今の漁業は中国人労働力なしには動いていかない状態になっています。

これはしょうがないです。だからBIが実施された場合、アジや秋刀魚の味覚はあきらめる必要があるかもしれません。そこでちょっと脱線して、この問題をさらに考えてみますと、漁民の子弟は就職と思って漁師になるわけではない筈です。就職と考えたら、こんな3K労働は嫌だ、ということになるでしょう。

そうじゃなくて漁村や農村、とくに漁村の場合はどこでも近代以前からの長い歴史があり、豊かなフォークロアが語り継がれる共同体がある。そういう共同体の中で育ってその伝統を世代的に継承していく、そういう意識で漁師になるのだと思うのです、漁民の若者は。これを就職みたいにしてしまったら、農業や漁業はやる人がいなくなる。ですから農業や漁業の後継者不足は、ある意味でフォークロア的共同体をどうやって再生させるかという問題でもあると思います。これは経済政策や政府の号令で解決できる問題ではない。これもやはり様々な人が模索するしかないことなのでしょう。しかし、そういう模索をする人々には、BIはやはり一つの支えにはなるでしょう。

とにかく3K労働の問題は、BI論議において未解決の問題であると私は考えております。

今日はこれで一応話を終わりにします。どうもご静聴ありがとうございました。