関曠野さん講演録「成長幻想から仏教経済学へ」

関 曠野 講演録

ベーシックインカムで
日本を変えよう

― 成長幻想から仏教経済学へ ―

2013年12月8日 於:京都・仁和寺
「ベーシックインカムで日本を変えよう ― 成長幻想から仏教経済学へ」

講演者:関 曠野

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

主催:ベーシックインカム・実現を探る会

講演 INDEX

  1. はじめに
  2. 悪者探しではなく、システム欠陥の是正を
  3. 経済的民主主義・普通収入権があるべき
  4. ダグラスの理論を補完する
  5. ダグラスのA+B理論とは
  6. 銀行経済に従属する企業
  7. 銀行マネーが国家を管理する
  8. 銀行は無から金をつくっている
  9. 銀行の部分準備制度と信用創造の仕組み
  10. 裏付けのない「法定通貨」
  11. 経済にブレーキをかける利子
  12. 銀行とは富裕層のためのもの
  13. 1% vs 99%は経済の破局につながる
  14. 解決策はベーシックインカムと政府通貨
  15. 公益事業として通貨を発行する国家信用局
  16. 地方自治体の融資協議会が政府通貨融資を管理する
  17. イスラム銀行 ―― 投資の民主化に学ぶ
  18. 政府通貨で実行すべき国家プロジェクトとは
  19. 政治的には劇薬という政府通貨の問題点
  20. 政府通貨を皇室券として発行する
  21. 皇室券と日銀券の関係
  22. 政府通貨発行で国家負債もなくなる
  23. ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働力の流動化、少子化問題、都市人口集中、教育、女性の権利、起業
  24. ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働と余暇、年金制度
  25. 政府通貨とベーシックインカムの思想的根拠
  26. 政府通貨とベーシックインカムによる日本経済は仏教の精神で運営
  27. 「経営」という言葉は仏教から
  28. 仏教は道として極める仏道のこと
  29. 仏教は宗教というより精神療法
  30. 仏教は決断の宗教
  31. 苦の問題の解決に知性の総力を挙げる
  32. 徹底的に実践的な仏教
  33. 欧米の労働観は、奴隷制と神罰に由来する
  34. 労働が作業量として計測されるだけのヨーロッパ的労働観
  35. 日本では労働はたましいのはたらき
  36. ベーシックインカムによって西洋的労働観から解放する
  37. 慈悲と簡素さ
  38. 経済活動の目的は心の平安
  39. 仏教経済学の指針のもとでの投資や商業活動のありかた
  40. ネット世論の圧力で政府通貨とベーシックインカムの実現を
  41. 追記
  42. 質疑応答

はじめに

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)、『フクシマ以後―エネルギー・通貨・主権』(青土社)、『グローバリズムの終焉-経済学的文明から地理学的文明へ』藤澤雄一郎氏との共著 農山漁村文化協会(2014年3月5日刊行予定)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも関です。

年末のお忙しい中、私の話をお聞きするためにお集まりいただきましてありがとうございます。こうしてみなさんが仁和寺に集まったのも、やはり日本という国はどこの面でも行き詰っている。そのことをひしひしと感じておられるからではないのかと思うんですね。私は今日、この日本の行き詰った現状を打破するプランはあることをお話ししたい。このプランが絶対に正しいかどうかはわかりません。しかし私としては自信をもって出せるプランであり、それを皆さんが日本の現状を考える際のヒントにしていただきたいということです。まずそのための政府通貨の発行と全国民にベーシックインカムを支給するという問題。次いで日本経済と仏教の精神という二つのテーマでお話ししたいと思います。

悪者探しではなく、システム欠陥の是正を

今の日本の現状はもちろん貧困や失業も深刻な問題ですけれども、一番問題なのは不安だと思うんです。とにかく未来が不確実で不安で明日が信じられないから長期的な生活設計ができない。貧乏なら貧乏で、貧乏が一生こんな程度の貧乏と解っていればそれなりの人生設計ができるけれども、それもできない。こういう不安な社会では。悪者探しが始まる。とにかくどこかに悪者がいるからそいつをやっつければ社会がよくなるという、そういう風潮が広まってくる。こういう風潮は危険というよりナンセンスだと思います。そんなことやったって社会がさらにすさむだけですよ。やはり、この社会の問題は誰が悪いというよりも今の経済のシステムに構造的な欠陥があるからだ、その構造的な欠陥をきちんと是正する政策を実行すればいい、そう考えるべきだと思います。

経済的民主主義・普通収入権があるべき

ですから今日お話しするのは今の経済システムにどういう構造的欠陥があるかということです。その欠陥を是正する政策とは、経済的市民権、すべての人に経済に関与し参加する権利を認めて、経済自体が民主主義の構造を持つようにする、そういう経済にするということです。経済的民主主義とは、政府が福祉を拡充すれば民主主義だというようなことではありません。経済の構造自身が民主的でなければならない。昔は制限選挙といって貧乏人には投票権がなかった。今は貧乏人に選挙権を認めないと言ったら大騒ぎになるでしょう。だから今は普通選挙権が常識になっています。昔は貧乏人には知性と教養がないから選挙権がなくても当然だという議論があったけれども、今こんな議論をする人はいません。しかし経済に関してはそうじゃない。貧乏人は先祖の祟りかなんかで貧乏なんだから生活苦であがいて餓死してもしょうがないということになっている。これはおかしいんじゃないですか? 普通選挙権があるんだったら普通収入権っていうものがあってもいいんじゃないですか? 買い物をしたり銀行に預金したりする経済行動自身が選挙で投票するのと同じ意義を持つ。そういう経済でなければいけない。こっちに自動的に動くメカニズムとしての経済があって、こっちにそれとは別に民主主義がありますという考え方はおかしい。経済生活とデモクラシーはまったく一体のものであるべきです。

ダグラスの理論を補完する

ではどうやって経済行動自体が民主主義であるような経済を作るか、どのように今の日本のひずんだシステムをリセットするか。それをまず申し上げたいと思います。とにかく現状では誰しも食うに追われて生存競争で生き残るのに必死な世の中です。しかしたまには経済のシステムを大局的に見るということも必要だと思います。まず最初に構造的な欠陥の問題ですが、現代の工業経済、これは資本主義といってもいいと思いますが、これには構造的欠陥がある。どういう欠陥があるかという問題では、20世紀初めに社会信用論という経済思想を創始した英国人のクリフォード・ヒュー・ダグラスという人がいまして、私はこの人の理論を参考にしています。ただダグラスの理論は時代の制約もあって今となってみると色々補足や補完が必要です。ですから私はダグラスの理論をそっくりそのまま繰り返すのではなくて、参考にした上で特に現代日本の事情や歴史に合わせて補足や補完をしながら議論します。

ダグラスのA+B理論とは

ダグラスは、企業会計をA+B理論という形で考えました。Aは企業会計の中で従業員の賃金給与などに充てられるお金です。Bは生産設備の減価償却や他の企業から購入した機械とか部品とか原料に支払うお金、つまり物理的な生産費です。このA+Bに利潤を加えたものが商品の価格になります。 Bは物理的な生産に関係した費用です。他方で賃金は一応生産コストではあるけれども、一方では給与ですから勤労者の購買力になるものです。購買力として消費の資金になる、消費に回る。そうすると企業会計はA+Bですから、小学生でもわかることですが、A+B>Aです。この単純なことが大問題なわけです。商品の価格はA+B+利潤なのにそれを買う勤労者はAのお金しか持っていない。 これでは労働者は企業が生産した商品をすべて買うことはできない。A+B>Aですから。こういう構造があるから資本主義経済においては、必然的に生産と消費は釣合いがとれません。その結果、企業は生産過剰に悩み、勤労者は消費者としては慢性的に所得不足に苦しむことになります。

この生産と消費の不均衡が最後には恐慌にまで行き着く。今の世界の現状がそうです。これが資本主義のシステムに宿命的な構造の欠陥です。それまでのリカドウなどの古典的な経済学は経済を物々交換をモデルに考えていて生産と消費、需要と供給は自動的に均衡するとしていた。ダグラスは企業の会計監査をやったことがある人だったので、この誤謬を一掃したのです。

銀行経済に従属する企業

この生産と消費の不均衡という問題も、企業がすべて日用品などを作っている小さな企業だったら深刻な問題にはならないでしょう。ところが19世紀末からマルクスの言う機械制大工業、大企業の時代に入ります。企業は設備投資や研究開発に膨大な費用をかけるようになる。そうするとこの問題が深刻になってくる。A+B>Aで、企業会計の中で生産費用の比重がどんどん大きくなる。それに比例してAの部分、賃金給与分は相対的に縮小していく。これは経営者が強欲で賃金カットをするということではなく、構造的にこうなってしまう。当然それだけ経済は恐慌とか不況に陥る傾向が強まる。労働者がかなり賃上げされたとしても、A+BのBの部分にやたらに金が回っているようなら、どのみちギャップは埋まらない。

そして20世紀には企業は膨大な投資が不可欠になってくるので、大企業でも銀行からの巨額の融資を受けないとやっていけなくなります。こうして銀行が企業経済に介入してくると、システムにさらに深刻な問題が生じてきます。今は中小企業だって何億円もする機械が必要です。まして大企業なら天文学な額の融資が必要なわけです。そうなってくると企業は次第に銀行経済に従属して銀行経済の一部になってしまう。銀行がすべてを動かす経済が出現する。純然たる企業経済なんてもう町の八百屋さんかなんかにしか残ってない。先進国はみんなそういう状態です。

銀行マネーが国家を管理する

ところで世間に出回っている通貨の95%以上は銀行マネーです。銀行が貸し出したり銀行に返さなければいけなかったり、銀行がらみの金です。我々がスーパーのレジで出したり引っこめたりしているような現金で使われる通貨は通貨流通量の数%を占めるにすぎません。経済を動かしているのは銀行信用です。銀行のお金が世間を動かしている。そうなると銀行マネーに絡んでいる様々な問題がそのまま企業経済の問題になり、また企業の賃金で食って消費している労働者とその家族、国民の問題になってくる。そう言う形で国家は否応なしに銀行管理国家になってしまいます。いまだに日本銀行は国の銀行だと思っている人が多いんですけど、日銀は銀行業界の代表幹事みたいなもの、銀行カルテルの代表です。

みなさんが持っている1,000円札を見てください。日本銀行券と書いてあります。日本国通貨とは書いてありません。日銀が、経済がいいとか悪いとか言っているのは銀行業界にとっていいか悪いかを言っているだけで庶民の暮らし向きには関係がありません。むしろ相反することが多い。

銀行はあくまで自分たちの営利目的で通貨を動かしている。日銀が通貨を日銀券として発行している。そういう形で経済が回っています。私企業の銀行が自分のソロバン勘定で発行したり引っこめたりしている通貨が我々の生活を動かしている。それが先進国の現状です。たとえば私企業が空気や水を独占販売していて貧乏人は空気も吸えない水も飲めないという経済を考えられますか?中国はそれに近い経済のようですが。しかしマネーは現代では生活インフラみたいなものです。お金に恬淡としている人だってマネーなしには生活できません。そのマネーを全部銀行が独占販売管理しているわけですから。ある意味では空気や水を私企業が管理しているようなものです。だから貧乏人は金がないので餓死してもしょうがないという経済になってくる。

銀行は無から金をつくっている

そして銀行が通貨を発行するということはどういうことかというと、かりに銀行が一千万円を中小企業の経営者に貸すとします。そこで銀行は何をしているかというと、「関様」という預金口座を作ってそこに銀行の金を一千万円入れる。一千万入れるといってもキャッシュじゃないですよ。銀行の帳簿上のことですからコンピューターのキーボードをちょこちょこと打って、パチン。「はい、一千万入りました。貸しましたよ」という、コンピューターのキーボードをいじっただけです。

ところが借りた私はね、満期の来た2年後には汗水たらして稼いだ手の切れるようなキャッシュを利子をつけてちゃんと銀行に返さなくちゃいけない。コンピューターのボードをちょこちょこというわけにはいきません。つまり銀行が金を貸すというのは財布を作っただけなんです。その財布の中に後日我々が稼いだキャッシュが入るようになっている。それが銀行マネーです。こうして銀行は無から金を作っている、ゼロから金を得ているという。そういう構造になっているんです。

銀行の部分準備制度と信用創造の仕組み

さらに銀行の部分準備制度という問題があります。

これはつまり、銀行は手持ちの預金を貸しているわけではない、手持ち預金の8倍から10倍くらいの金を貸し出しているということなんです。あくどい高利貸しだって手持ちの金を貸しているだけです。ところが銀行はいわば架空の金を貸し出している。なぜそういうことになるかというと銀行は我々が預金した金を人の金と思っていない。自分の金と思っているんです。銀行の金融資産ということになっている。だから人の金の使い込みみたいなことをやってる。

どうやって我々の預金した金がその8倍10倍に膨れあがることになるのか。銀行はなにをやってるかというと、私がA銀行に100円を預けたらAはそのうちの10円を取っておいて90円を貸し出す。この90円を借りた人が今度はB銀行にその90円を振り込むとまたその90円から10円を取っておいて80円を貸し出す。この80円を借りた人がC銀行に振り込むとCは80円の内から10円を取っておいて70円を貸し出す。建前では銀行は我々の100円を預かっていることになっていますが、実際は使い込みと貸し出しで預金は殆ど無くなっています。それでもATMで預金を下ろせるのは銀行に新規の預金が次々に入ってくるからです。銀行のビジネスはこのようにネズミ講の一種です。

見てください。初めが100円だったものが+90、80、70です。どんどん水増しされていく。水増しということは、銀行が私企業のソロバン勘定で私的に信用を創造している、無からお金を作り出しているということです。実体経済に根拠のない半ば偽札みたいな金が世間に氾濫することになります。こういう金が銀行のソロバン勘定の都合で経済を動かしているわけですから経済が不安定になる。私企業の銀行が社会に公的に流通する通貨の量を勝手に増やしたり減らしたりしているせいで好況と不況が絶えず入れ替わる景気循環が発生します。しかも預金者はいつでも自分の預金を下ろす権利を持っています。だからミルトン・フリードマンみたいなごりごりの新自由主義の経済学者が部分準備制度はやばいからやめろと言っているんです。

この部分準備制度に対して過去に何度も完全準備制度が提案されています。この場合、銀行の預金業務を当座預金型と定期預金型に分ける。前者では銀行は金庫業で、預金者の金を保管し小切手を発行したりするだけで他者に貸し出さない。だから自分の預金が不安になった預金者が取り付け騒ぎを起こすといったことはない。後者は投資に使われるリスクを伴う預金で預金者もハイリスク・ハイリターンを承知しています。さらに次の問題です。

裏付けのない「法定通貨」

現代の通貨はどこの国でも通貨は法定通貨です。法定通貨とはつまり法律で通貨と定められたもの。昔は通貨にはすべて裏付けが必要だったので、紙幣も兌換紙幣でした。銀行に持っていくとそれに相当する金(きん)に代えてもらえた。今こういう制度は完全になくなりまして、国家が「これが通貨ですよ」と宣言すればそれがそのまま通貨になってしまう。金本位制の金と通貨が兌換できた時代は通貨には実物の担保があったわけです。銀行が持っている金の保有量で銀行の貸し出せる額が制限されたので、それが一定の安全装置になっていた。だが金本位制を廃止して金の裏付けで価値を保証する必要がなくなったから、もう通貨はタヌキが化かす木の葉みたいなもので、いくらでも刷れる、銀行が無制限にプリントできる。今アベノミクスと称して日銀がやっているのがこれです。むちゃくちゃ紙幣を刷ってる。刷ってるといっても事実上はコンピューターでちょんちょんとやっているだけですが。こんなことをやっていると紙幣は無限に紙切れに近づいていく。通貨という大事なもの自体が不良債権化してしまう危険があるわけです。通貨を金銀じゃなくて紙きれで代用するというのはある意味では合理的なことなのですが、やはり通貨には裏付けがないといけない。これはやばいということになると紙幣は一瞬のうちに紙切れになってしまいます。リーマン・ショック以来、世界にはもう信頼できる安全な銀行通貨はありません。

経済にブレーキをかける利子

それからなんといっても銀行マネーは利子つきの負債、借金のことなのです。この負債も経済が順調に発展成長をしている時には生産的な投資になりうる。それに見合った富を生産して利子つきでも返せるし、経済のアクセルになる。しかしこの利子とは何ですか。生産上の根拠が全くない金です。つまり銀行が独占的にマネーを管理し販売しているという特権から生ずる利得です。いわば関所の通行料のようなもので、まったく生産に関係ない金です。そして利子こそが銀行業を成立させている。ですから銀行が得ている収入は労働に対する報酬ではない。企業はブラック企業だって一応労働に対する報酬で存続していますが、銀行の場合は巨額の金を所有して動かしているという、たんなる所有に対する報酬です。 そして生産による根拠がない利子を返す金は生産以外のどこから出てくるのか。結局利子とは誰かにババ抜きでツケがまわって、負債を負債で返すことになるわけです。だから債務者本人ではなくてもツケがぐるぐるまわって誰かが銀行から借金してそれが利子の支払いに回るという構造になっているんです。

そして経済が不景気になり停滞してきても銀行はもう利子やめたなんて言いません。そうすると経済のなかで利払いという不生産的な部分が占める比率が異常に増えてくる。こうして銀行マネーはアクセルから一転してブレーキになる。銀行マネーによる全面制動がかかっているのが世界経済の現状です。とにかく負債はまだ経済に対してアクセルになる可能性がありますが、利子は順調な時にも余計な支払いで、不景気になると経済に対する決定的なブレーキになります。

銀行とは富裕層のためのもの

しかもですよ。

ここに企業Aがあって、そこに企業BやCが部品や原料を納めています。このBCがAに請求する代金にはこの両者が銀行に払う利子の分が上乗せされています。A自身も銀行への利払いを抱えている。そうするとAが作っている最終製品の価格にはA、B、Cの銀行への利払いがごっそり上乗せされています。ドイツのある研究によると平均して商品価格の半分が銀行への利払いです。

だから「俺は銀行に借金なんかない」なんて威張っている人だって商品を買うときには銀行に利子を払っているのです。それでは結局利子とは何なのか?我々も銀行を利便のために使っていますが、本当に銀行という制度で得しているのはやはりリッチ、金持ちです。何十億という資産があってそれを定期預金に預けておけば放っておいてもどんどん金が増えていきます。してみると銀行が仲介していますが、利子とは銀行そのものというよりは銀行の実際のスポンサーである富裕層のところに自動的に金が入る仕組みなのです。銀行とは富裕層が一般勤労国民から稼いだ金を吸い上げる仕組みにほかなりません。

1% vs 99%は経済の破局につながる

昔の産業革命時代の資本が足りない時代は、銀行がそういうことをやってもそれなりに経済発展に寄与した面はあります。しかし今みたいに経済が低成長、ゼロ成長の時代になっても銀行がひたすらリッチのために一般国民、プロレタリアートだけじゃなくて99%の一般国民から金を吸い上げて1%の富裕層の懐を増やしていることは経済の破局につながります。今の世界経済の問題はこれに集約されます。だから1%と99%という言葉が広まっています。一般国民は銀行に利子と負債で金を吸い取られて、給与のほうはA+Bの問題で相対的に減る一方ということになったらどこの国でも負債デフレが発生し経済は恐慌に行き着きます。

我々にとっては負債を負債で返す債務奴隷にされるのはたまらないことですが、富裕層にとっては、これは金が金を生むトリックです。定期預金を10億円預ければ何もしなくても金が金を生む。しかもその結果として生産と消費の均衡が狂って経済が破綻する。ほんとうは豊かな国のはずがホームレスはいるは、非正規雇用で若い人には希望がないは、という社会になってしまう。

このように企業経済に内在するA+Bの問題、そして銀行経済が孕む一連の問題があります。この2つは経済システムの構造的欠陥として是正する必要がある。これは資本主義の打倒といったことではなく、国民的合意に基づくシステムの再設計、リセットが必要ということです。どういう解決策があるかというと、

解決策はベーシックインカムと政府通貨

A+Bの問題に対する解決策はベーシックインカム。銀行マネーに関する解決策は政府通貨ないし公共通貨ということになります。

このどちらも生産と消費の均衡を回復させるための政策といえます。経済学用語でいえば、マクロ経済のフローの次元で生産と消費を均衡させるための政策です。放置したままでは不均衡がひどくなるばかりだから政策によって均衡を実現する必要があるということです。ベーシックインカムをやればすべての国民が月8万~10万円ぐらいを一律無条件に生涯にわたって支給される。当然これは福祉効果を持ちますけれども、これは結果であってベーシックインカムは福祉政策ではありません。政策上の狙いはあくまで生産と消費をマクロで均衡させることです。

公益事業として通貨を発行する国家信用局

政府通貨の発行とは、銀行が私企業のソロバン勘定で通貨をコントロールすることを止めさせることです。その代わりに国家機関が公益事業として通貨を発行し管理する。水道や電気と同じように社会生活に必要不可欠な公共インフラとして通貨を供給する。利子付き負債の銀行マネーではない経済循環を円滑に促進するための通貨を企業と国民に供給する。企業に融資された通貨は一応回収されますが、これは銀行の借金取立てではありません。通貨の過剰供給でインフレが発生するのを予防するための措置です。ですから返済の時期や条件については柔軟で交渉が可能です。今は国民経済計算というものがあって、生産消費所得投資といった経済の諸要素を統計的に把握できますから、それから生産と消費を均衡させるのに必要な通貨の総量を算定できます。その量の通貨を発行すればいい。具体的にいうと、国家信用局という国家機関を設立します。この国家信用局が毎年四半期ごとに国民経済計算に基づいて必要な量の通貨を発行し企業と国民に供給します。それと同時に以前に発行して経済循環の中で役割を終えた通貨を回収します。

この国家信用局の仕事はテクニカルなものです。必要な通貨量を算定して供給し、御用済みの通過を回収するという純粋にテクニカルな仕事です。言ってみれば気象庁が気象を観測して天気予報を出しているのと同じような業務であり、政府や政治家や官僚が手出しできるようなものではありません。

地方自治体の融資協議会が政府通貨融資を管理する

ベーシックインカムの話は後にします。まず政府通貨の話ですけれども、国家信用局は具体的にはどのように仕事をしたらいいのか。ベーシックインカムの支給は簡単です。毎月すべての国民の銀行口座に自動振り込みをすればいい。問題は政府通貨の企業への融資です。どこの企業だって利子が付かず負債にならない融資だったら喉から手が出るほど欲しいでしょう。そうなると利権や情実が絡んできたり、また場合によっては市場から退場すべき企業に融資して延命させてしまう、そういう問題が起きる恐れがあります。

この問題についての私の考えですが、自治体の首長が管轄し、自治体の職員、市民と議会の代表および金融専門家の四者で構成する融資協議会を作ったらどうか。そして企業から申請があった融資案件を四者で審査して、公共的意義が認められた企業に政府通貨を融資する。

今の日本でいうと、例えば東北被災地の復興に関係している企業に優先融資するといったことです。こういう形でやれば政府通貨の融資で、利権がらみのスキャンダルが起きる恐れはかなりなくなるのではないか。ただそうなると、政府通貨をすべての企業に融資するわけにはいかない。それから特定のマニア向けのビジネスをやっている企業に政府通貨を融資するわけにはいかないでしょう。それに政府通貨の融資はあくまで生産と消費を均衡させるための措置です。ですから生産部門ではない流通業や金融業はそもそも融資の対象にはなりません。

イスラム銀行 ―― 投資の民主化に学ぶ

そうすると仮に銀行マネーを政府通貨によって廃止したとしても、民間の資金需要を満たす民間金融は必要です。では民間金融はどういう形にしたらいいか。そこで利子のつかない民間金融としてイスラム銀行が参考になるのではないか。 イスラム世界ではコーランが利子を禁止しているので、イスラム銀行は基本的に融資の際の手数料で食っています。そして融資先の企業とはパートナーシップの関係をとります。企業が成功して収益を上げたら企業と銀行で収益を分ける。その分ける比率は企業2:銀行1です。企業が失敗したら銀行もリスクをかぶる。これが本当の市場経済なんじゃありませんか?今の銀行みたいに企業が失敗したらその資産を差し押さえにかかる。銀行自身が失敗したら税金で救ってもらえる。こんなもの市場経済じゃありません。ただの銭ゲバ経済ですよ。

そしてイスラムでは預金者と銀行の関係もやはりパートナーシップの関係です。銀行の業績が順調に伸びた場合、イスラム銀行は利子じゃなくて業績に見合った配当を預金者に払います。この場合は銀行2:預金者1の比率です。これ面白いですね。こうなると、どこの銀行に預金するかで配当が違ってくる。今我々は銀行が我々が預けた金をどう使っているのか全然知らなくて、暴力団に融資していたというニュースを聞いてびっくりしたりする。

イスラム銀行参考図

イスラム方式にすると自分の預けた銀行がどこに融資しているのか誰もが関心を持つようになる。配当が違ってきますから。そうなると預金それ自体が投資の性格を持ちます。これはいいことです。資本主義経済の一番の問題は、余剰資金がある富裕層が自分のソロバン勘定だけで投資をしていて、それが社会と経済に様々なひずみをもたらしていることです。イスラム方式でやれば、すべての預金者は自分の銀行がどういう融資をしているかに関心を持ちますから、投資の民主化になります。ちなみにイスラム銀行は聖職者の監査の下にあり、例えばギャンブル、他の銀行、兵器産業などへの融資は禁止されています。

しかも今の日本でもイスラム型銀行はすぐに作れます。政府通貨やベーシックインカムが実現していなくてもイスラム銀行を作ることは明日にでも可能です。資本金がちょっとあれば。そうしたらイスラム銀行に預金者が殺到するんじゃないですか?

政府通貨で実行すべき国家プロジェクトとは

政府通貨の話に戻りますが、仮に日本で政府通貨発行に踏み切るとする。今の日本には大体20兆~30兆といわれる需給ギャップ、デフレギャップがあります。だから膨大な額の政府通貨を発行してもインフレにはなりません。それなら、日本再生のためにこの際一連の国家的プロジェクトをやって、それに政府通貨を集中的に投下すべきです。

そういうプロジェクトとしては、まず第一に、東北被災地の復興です。第二に電力の問題。地域電力独占はみんな経営的にはゾンビ状態でいずれみんな潰れますよ。ですから電事連体制に代わる全国的な電力供給体制の新たな構築が必要です。これは大規模なプロジェクトで私企業の手におえるものではありません。これも国家プロジェクトとしてやる。同時に54基の今ある原発を廃炉にしなければいけない。原発を廃炉にするには膨大なコストがかかりこれも私企業ではできません。だから国家プロジェクトとしてやる。これはまた廃炉で原発関係の交付金を失う原発立地自治体に対する地域振興策にもなります。

それから高度成長期に作られたインフラが今一斉に寿命が来ています。その建て替えと補強が必要です。これにも政府通貨を投下する。さらに予測されている南海トラフ地震対する全国的な防災体制の構築というプロジェクト。あと一つ出来ればやりたいのは、日本の食糧自給率を70%にまで回復させるプロジェクトです。こういう一連の国家プロジェクトは政府通貨でないとできないでしょう。

政治的には劇薬という政府通貨の問題点

政府通貨の発行は資本主義の構造的欠陥から生じた経済危機に対する経済的特効薬であることはすでに歴史によって証明されています。戦前の日本とドイツの金融政策がその例です。しかし政府通貨は経済的には特効薬でも政治的には劇薬なんです。というのは政府通貨を議会制の枠内でやると政権与党の利権ばら撒きに使われて経済は滅茶苦茶なことになるからです。

戦前の日本とドイツでは高橋是清とドイツのライヒスバンク総裁のヒャルマール・シャハトが事実上の政府通貨発行をやりました。高橋の場合は日銀の国債直接引きうけ、ヒャルマール・シャハトの場合は労働財務証書という形で事実上の政府通貨を発行した。ドイツは、これでワイマール期のハイパーインフレでボロボロになったドイツ経済を3年間でヨーロッパ最強の経済に立て直し、完全雇用も実現しました。だからドイツ人はナチスをあれほど支持したんです。

高橋とシャハトは議会の雑音を排除して金融独裁という形でやったわけです。

高橋の場合はカリスマだったし、シャハトの場合はヒトラーから金融改革の全権を委任されていました。そういう形で二人とも金融独裁でやったから政府通貨の使い道も彼らの胸先三寸でした。これはアウトバーン建設に使うとかこれは東北の農村の振興に使うとか。

その結果、金融独裁の問題が出てきた。シャハトも高橋も金融実務家として政府通貨を軍拡に使うことにはインフレになるとして反対しました。そのために高橋は2.26で軍人に暗殺され、シャハトも最後は強制収容所に入れられました。

結局二人は金融独裁という形で軍国主義に都合のいいシステムを作ってしまった。このように政府通貨を議会政治の枠内でやると利権ばらまきで滅茶苦茶なことになるし、金融独裁でやるとファシズムになってしまう。

政府通貨を皇室券として発行する

それではどうしたらいいのか、議会制でもダメだし独裁制でもダメです。このジレンマを超越して政府通貨を実現する方途はないものでしょうか。そこで私の考えを申し上げます。

日本には皇室という政治を超越した権威があります。また現行の日本国憲法でも天皇は「国民統合の象徴」とされています。それなら日本国通貨の発行権は基本的に皇室にあるとしたらどうか。皇室直属の国家信用局を作って政府通貨を皇室券として発行する。皇室券でベーシックインカムの支給と企業への融資を実施する。天皇制国家主義みたいなことを言ってるわけじゃないですよ。これは政府通貨を立憲主義的に実現するための方策です。皇室は政治を超越した権威なのだから皇室が発行した通貨ならば国会も官庁も干渉できない政府通貨の非政治的な運営が可能になるということです。

そして国家信用局は永田町と霞が関の干渉を避けるために皇室の本来の所在地である京都に置きます。この仁和寺の一角を借りてもいいと思います。政府通貨は皇室の通貨、俗なる地の通貨ではなく天の通貨ですから、議会政治家や役人が汚い手を出すことはできません。そして国家信用局が皇室直属ということは、ひとえに「国民統合」の原則に忠実に業務を遂行するということです。今上天皇はああいうお人柄ですから「国民の幸福のためなら」ということでおそらくこの政策を了承されるだろうと思います。これは天皇の政治利用ということではなく、反対に皇室の非政治性を深く尊重した政策です。日本には先述した政府通貨をめぐるジレンマに対して皇室という切り札があるのです。

皇室券と日銀券の関係

ただこうなると、二重通貨という問題が起きてくる。世間に皇室券と日銀券という二つの通貨が出回って混乱が起きる可能性がある。この二つの通貨の間に相場の違いが生じてくるという問題です。どうしたらいいか。これについて私は東西ドイツ再統一の際の西ドイツのコール政権の政策が参考になると思います。 ドイツは東西分断時代も東西共にマルクを使っていたのですが、東西の経済力の差を反映して相場にはかなりの差がありました。ベルリンの壁崩壊当時にはその差は1:10にまで広がっていました。

ところが西ドイツのコール政権は、ドイツマルクと東のオストマルクを1:1の相場で交換すると決めました。これは当然西ドイツが損をして、そのツケは西ドイツの納税者に回りますが、コール政権はこれをドイツ再統一のコストとして割り切ったのです。

おかげでドイツは経済的混乱なしに再統一できました。日本の場合は分断国家じゃないから重大な問題は生じない。三年なら三年と期間を区切ってその期間は皇室券と日銀券は1:1で交換すると法で決めればいい。法定通貨だからそういうことができる。その間に何が起きるのかは大体予想がつきます。当然、ベーシックインカムの支給に使われている皇室券のほうが信用が高いから。この三年の間に大抵の人が手持ちの日銀券を皇室券に交換してしまうでしょう。

政府通貨発行で国家負債もなくなる

そうなると日銀券で預金する人もいなくなる。こうして三年の間に日銀は市場原理による自然淘汰の形で野垂れ死にすると思います。では銀行業界はどうなるか。今の大手都市銀行の主要資産は日本国債です。ですから銀行は相場が1;1の間に手持ちの厖大な日本国債を売って皇室券に換えようとするでしょう。しかし日銀券建ての国債なんてもう買う人いませんよ。そうなると主要資産が紙切れになってしまうのですから、大手都市銀行は軒並み倒産すると思います。大手銀行が軒並み倒産すると、国債の償還を請求する法的主体が消滅するわけですから日本国家の天文学的負債はチャラになる、自動消滅します。

国債みたいなやばいものを買ったのは金融機関の自己責任なんですから、これは仕方ないですね。そしてこれは市場の判断なのですから政府に責任はありません。その後は国家信用局が生産と供給が均衡する量の通貨を社会に供給するというテクニカルな仕事があるだけです。

次に政府通貨を発行した場合に税制とか福祉とか貿易とかがどうなるかという問題がありますが、そこにまで踏み込むとちょっと時間をとりますので今日は端折ります。基本的には政策を間違わなければとくに問題は生じないということです。ただ、政府通貨は主権国家の国民経済を前提にしています。無国籍なグローバリゼーションにはなじみません。だから資本の国際移動に対する規制は必要でしょう。それから貿易に関してはある程度の保護主義も必要です。ベーシックインカムを支給してもそれが百円ショップで中国製の安物を買うのに使われたのではどうしようもない。

ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働力の流動化、少子化問題、都市人口集中、教育、女性の権利、起業

そこでベーシックインカムの話になりますが、これで生産と消費の均衡が一気に回復することは間違いありません。その結果、デフレが終わるので失業や倒産も大幅に減るでしょう。

それだけではない。ベーシックインカムには様々な社会的効果もあるはずです。

まず労働力の流動化です。現状では経営者は簡単に従業員をレイオフできない。労働者の方も会社を辞めたくても辞められない。会社にしがみついているしかない。労使双方が身動き出来ない。これがベーシックインカムで最小限の生活資金が確保できるとなったら労働力は一気に流動化します。企業が労働者を簡単に解雇できるように法を改定するといった不人情なことをしなくても、ベーシックインカムがあれば労働力は流動化します。

それから少子化問題。私は長期的には人口の減少は望ましいという立場ですが、急激な人口の減少は好ましくないし、若い人たちが経済的事情によって結婚できないのは悲劇です。しかしベーシックインカムがあれば、仮に月8万とすると二人で所帯を持つと16万、子供ができて子供には半額の4万で計20万になる。最低20万は入ってくる。かりに後はアルバイト収入しかない場合でも、これで所帯を持てるんじゃないでしょうか。金額自体は少なくても生涯にわたる固定収入があれば生活設計が容易になります。少子化対策としてはベーシックインカムしかないと思います。

それから今の日本の根本問題は大都市への人口の集中、特に首都圏への人口の集中だと思います。これがベーシックインカムが支給されると月8万か10万でも物価の安い地方に行けばそれだけ使い出があるというので都会から地方に移住する人が増えると思います。

さしあたりベーシックインカムがあれば地方にすぐ職がなくても移住に不安はない。地方に移住してから職をぼちぼち探すなり自分で起業するなりすればいいわけで、ベーシックインカムは大都市に集中した人口を全国的に均しく分散させる可能性を秘めています。実際大都会のサラリーマンで地方に住みたいとか農業をやりたいという人はかなりいるわけで、そういう人は夢がかないます。

それから、教育の問題。今の日本で猫も杓子も大学に行こうとするのは学問が好きだからではなくて将来の経済的保証を求めるからです。だから生涯にわたってベーシックインカムが保証されるとなったら教育の在り方ががらりと変わるはずです。学歴の肩書きを付けるために大学に進学するより技能が身に付く専門学校に行こうという人が増えるでしょう。さらに中学高校を出たらまず社会人になって、社会の中で自分のやりたいことを改めて見つけたらその時大学に入って専門の勉強をする、それが普通になるでしょう。大学は社会人入学が中心になることが望ましい。今のように、受験秀才がそのまま大学にはいって社会常識に欠けた専門家になるのは大変問題です。教育改革でいくら議論を重ねても日本の教育問題の根本は所得の問題だからどうしようもない。ベーシックインカムを実施しないかぎり教育の問題は解決しません。

それから女性の権利の問題。女性に経済的なハンディキャップがあることは間違いがありません。最近は女性も企業戦士になってバリバリ働くことが女性解放だ、みたいな説を聞くんですが、こういう話を聞くと戦時中の女学生の女子挺身隊を連想してしまいます。専業主婦をするか、キャリアウーマンになるか、それとも無理なく職業と家庭を両立させるか、女性には多様な選択があってしかるべきです。ベーシックインカムは女性の選択を多様化するのではないか。また経済的事情で暴力亭主と離婚できないといった話は激減すると思います

そして現代は大企業といえども明日はどうなるかわからない時代です。これからは大企業で組織の歯車になって働くより自分で小さい企業でも起こそうという人が増えていくと思います。環境保護のためにも企業規模のスケールダウンでそういう草の根企業が増えることが望ましい。ベーシックインカムがあれば起業に失敗しても食い詰める心配はないわけですから起業に不安がなくなります。日本の経済をサラリーマン経済から起業型経済にするためにもベーシックインカムは極めて有効です。

ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働と余暇、年金制度

それから最後に労働と余暇の問題。労働と余暇は、人間の生涯にわたってバランスの取れたものであるべきです。ところが今の年金制度は産業主義的な制度で、若いうちはガムシャラに働いて歳をとったら産業廃棄物となって国に管理されてぶらぶらしておれ、そしてなるべく早く死んでくれという制度です。これはおかしい。人生観としておかしい。若い人にだって勉強や遊びのための余暇は必要です。ベーシックインカムには労働と余暇のバランスを回復させるという効果もあると思います。

年金制度に関しては、日本の年金制度はもう完全に破綻していて、若い世代ではどうせ年金はもらえないだろうと年金を納めていない人が多いですね。年金制度は所詮人間を労働資源としか見ていない制度なのです。それよりも定年制などやめて、誰もが生涯現役で働けるように職場や産業の在り方を変えていくべきではないか。

以上述べましたように、政府通貨とベーシックインカムは、日本という国をリセットしてがらりと変えることになるでしょう。繰り返しますが、経済の根本問題は生産と消費の均衡であり、その点で政府通貨とベーシックインカムには論理的なつながりがあります。だからベーシックインカムは福祉政策ではない。税収を財源にしてではベーシックインカムの実現は不可能だから政府通貨でやろうということでもありません。この両者は論理的にワンセットの政策であることをご理解いただきたい。

政府通貨とベーシックインカムの思想的根拠

もちろん政府通貨によるベーシックインカムが実現したからといってこの世が天国やユートピアになるわけではありません。

しかし現在の銀行の銀行による銀行のための経済というものはなくなります。現状では経済は銀行のために動いている。経済は問答無用で銀行のためにあるのだから、いったい経済生活は何のためにあるのか、我々は何のために働いているのか、そういうことを議論したってナンセンスなことになる。ところが経済的市民権が保障され、経済の在り方が国民の世論を反映するようになってくると、経済活動の目的は何か、私たちはなんのために働くのか、そういうことが問題になってくるでしょう。経済を動かす価値観、人生観、労働観、そういうものが明確にならないともう経済の運営はできません。政府通貨とベーシックインカムには、たんなる経済的合理性を超えた思想的根拠が要請されるのです。

これから申し上げますように、各社会の労働観は民族の宗教的伝統に深く影響されています。そして宗教的伝統ということでは、日本はやはり神道と仏教の国です。

政府通貨とベーシックインカムによる日本経済は仏教の精神で運営

それならば日本の経済は仏教の精神で運営されるのが望ましいのではないか、日本の伝統を考えるならば仏教の教えが日本の経済の在り方にかなっているのではないか。もちろん信仰の自由は尊重されるべきで、キリスト教徒の排除などありえません。経済全体の在り方として仏教の精神が運営の指針になるということです。そこでそうした指針になる仏教経済学についてこれから話をさせていただきます。ただ皆さんは仏教経済学という言葉には突飛な印象を持たれるかもしれません。袈裟をまとったお坊さんと経済学は結びつかない。ところがこれは私が作った言葉ではありません。1970年代に出た今読んでもきわめて意義深い「スモール・イズ・ビューティフル」Small is beautifulという名著があります。エルンスト・シューマッハーという人が書いた本ですが、これは図書館にも大抵あります。この本の第三章の題が「仏教経済学」なんです。これから申し上げることも基本的にこの本の中でシューマッハーが言っていることに私がいわば補足し敷衍したものです。そういう意味では全く突飛なことを申し上げているわけではありません。

「経営」という言葉は仏教から

講演会会場の仁和寺

講演会会場の仁和寺

仏教経済学がさほど突飛なものではないとことの例をもうひとつ出すと、経営という言葉がありますね。経団連なんてものがあるから「経営」はゴリゴリの資本主義的なビジネス用語だと思われています。だがこの経営という言葉は日本で最初にどこで使われたか皆さんご存じですか。それは源氏物語の中です。源氏物語の夕顔の章の中で「世話を焼く」とか「育てる」という意味で使われています。

だから経営者は本来「人を育てる者」を意味するはずなんです。そして紫式部がどこからこの経営という言葉を持ってきたかというと、これは仏教の経典からですね。経営は元々仏教用語なのです。ですから仏教経済学はそれほど突飛なものではない。聞いてみればなるほどというようなものなんです。シューマッハーは先ほどの本の中でどういう議論をしているかというと、基本的に欧米の経済学者と仏教徒の考え方の違いを対比して論じています。彼ははっきりとは言っていませんが、要するに欧米の経済学者は餓鬼なので、経済学の名で餓鬼道に堕ちた世界を論じている、そういうことです。

さらにシューマッハーが言うには、仏教には八正道という基本的な徳目がある。

この中の一つに正業(しょうごう)という徳目があります。これは浄らかな正しい生き方をということです。仏教にはこういう生活の指針が含まれているのだから、もともと仏教には経済思想があるということです。このようにシューマッハーは生き方として仏教経済学を論じています。私もそうなので、大乗仏教の色即是空の教義から経済理論を作るとか、そういうことを言っているわけではありません。

そして日本では「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の出だしを知らない人はいないでしょう。また田舎道を歩いていてお地蔵さんに出会ったら何かほっとした気持ちになる。そういう日本人の感性に染みこんでいる仏教、特定の教義ではない仏教的感性、それを大事にしたいのです。経済を運営するときにそれを基本的な姿勢にしたいのです。

仏教は道として極める仏道のこと

ただ私も戦後世代の例にもれず長いこと仏教というものを誤解していました。 偏見を持っていたわけではないけれど誤解していました。誤解の原因になったのは「仏教」という言葉です。この仏教という言葉は明治になってキリスト教を意識して使われるようになったもので、この言葉のせいで仏教はキリスト教と同じような意味での宗教なんだろうと考えていました。そう考えると色々おかしなことがあるので、理解に苦しんでいたことがありました。ところが明治以前は仏教じゃなくて仏道と言ったんです。仏教というのは信じるというよりは道として修めるとか極めるものなのです。このことが分からなかったから誤解してしまった。

私は西洋思想史は多少かじっていますが仏教には素人です。そんな私が仁和寺で仏教の話をするなど畏れおおいことですが、皆さんに仏教経済学についてイメージを持っていただく必要があるので、また今時の日本人によくある仏教に対する誤解や偏見を正すということも含めて、あえて知ったかぶりで西洋思想史をやってきた人間から見た仏教ということでお話しをさせていただきます。

仏教は宗教というより精神療法

では仏教とは何か。人間も動物も病気をしますが、人間だけがノイローゼやうつ病になったり精神病になったりします。仏教はこのことと深く関係しているように思います。だからあえて乱暴な言い方をすると、仏教は宗教というよりも精神療法といったほうがわかりやすい。実際チベットのダライ・ラマは神経生理学に非常に詳しいそうです。もっとも精神療法といっても仏教の場合は倫理学や美学も含む広い意味での療法ですが、精神療法と考えるとわかりやすい。そして釈迦という人は、宗教家というよりもむしろ宗教と闘った人だと思います。とくに世界は神が創造したとしてそれでカースト制度を正当化しているバラモン教と戦いました。

また釈迦の時代にはインドは都市や商業が発達して社会が複雑化してきて色々な新しい宗教が現れた。そういう宗教に惑わされる人も増えてきた。釈迦はそういう状況を見て憂うるところがあった。といっても宗教は迷信で唯物論が真理だといった単細胞なことは言いませんでした。いろいろな宗教を調べてみて、そうした宗教は出来そこないの精神療法だという結論に達した。そこで現実に根差し、人間と世界の観察に基づいた知的に洗練された精神療法を編み出した。それが仏陀の教えではなかったか。僧侶の方からは異論があるかもしれませんが、私としてはそう考えています。

仏教は決断の宗教

この釈迦という人、もともとは今はネパールになっている北インドのカビラヴァットゥ王国のゴータマという王子でした。王子ですから召使に囲まれて何不自由なく暮らし、将来は国王になって富と権力の座を極めるはずでした。ところが知性と感性が極めて優れた人だったので、二十代にして富と権力は人間を苦しみ、迷い、病気や死の不安から守ってくれないことを悟った。それで富と権力が約束されている将来の国王の座を捨てました。仏教という宗教は坐禅を組んで瞑想しているといった静的イメージがあるのですが、仏教のすべては、富と権力の座を捨てたゴータマ王子のこの決断の上に成立しています。仏教は決断の宗教です。

苦の問題の解決に知性の総力を挙げる

そして釈迦はすべてを捨てて森の中に入り6年にわたり死んでもおかしくないような激しい苦行をした。その苦行の末の釈迦の結論は、苦行は人間を解放しないということでした。そして森の中から出てきた釈迦は、村娘のスジャータが差し出したミルク粥を飲んで生き返った思いがした。だから仏教の根本には生きる喜びがあるのです。ところが仏教はネクラな厭世的な思想だと思われている。

釈迦は医王と呼ばれることがあります。医者の王様ということです。また釈迦は対機説法といって、相手の性格や境遇を見てそれに合わせて説法をします。これはお医者さんが患者さんの症状に合わせて薬を処方するのと同じです。このように仏教は医療に重なるところが多い。つまり仏教的な考え方からすると、喜びや楽しみはそのまま素直に味わえばいい。しかし苦しみや迷いや不安に対しては人間は知性の総力を挙げて取り組み解決する必要があると考えます。

だから仏教は四苦八苦とか一切皆苦とか言うのです。これは別に厭世的なわけではない。病気の話ばかりするからといってお医者さんはネクラな人間ではないでしょう。それと同じです。あくまで苦の問題にこそ知性を集中させるべきだ。楽しいこと、うれしいことについては屁理屈をこねる必要はない。そういうことだと思います。

徹底的に実践的な仏教

それから仏教は徹底的に実践的な教えです。ヨーロッパの形而上学みたいな要素は全然ありません。釈迦にある弟子が、「この世界は有限なのか無限なのか、死後の世界は存在するのか」といった質問をした。釈迦はそれに一切答えなかった。そして「私には人が現に抱えている苦しみを解決することが大事なのだ。」と答えたそうです。

仏教の各宗派には複雑精妙な教義があります。だが教義は解脱の境地に達するための乗り物で、目的地に着いたら乗り物は捨てられます。だから仏教は教義中心の宗教ではありません。また仏教では宗派間で教義の違いを巡って血みどろの宗教戦争が起こったということもありません。

それから時々仏教は宗教というよりも哲学ではないかという意見を目にしますが、哲学は頭で理解するものです。だが仏教は身体のトレーニングを伴います。何らかの身体のトレーニングをしない仏教徒は考えられません。こういう点では仏教は、あくまで実践的な成果を上げることを課題にしている教えです。

欧米の労働観は、奴隷制と神罰に由来する

そして日本人は仏教の教義の精密なところは理解していなくてもその伝統に漠然と影響を受けてきました。それでは神道や仏教の伝統は日本人の労働観にどのような影響を及ぼしてきたのでしょうか。

経済とはなんですか? 経済とは煎じ詰めれば労働ということです。動物はそこらへんに転がっているものを食べていればいいけれど、人間はどうしても働いて食うしかない。それが経済ということです。しかも人間の労働観は民族の文化によって大きく異なり、それには宗教的伝統の影響が決定的なのです。このことに経済学者は全然気が付いていないのですが、私のように西洋思想史をやった人間から見るとそうなんです。

ヨーロッパ人の労働観を形成した一つに古代ローマの奴隷制の遺産があります。ローマでは奴隷は物言う道具といわれ人格のない道具として扱われました。もう一つは聖書の遺産で、アダムとイブが禁断の木の実を食べて原罪を犯し楽園から追放されて(注)、それ以来人間は額に汗して働かざるをえなくなった。神罰としての労働ということです。ローマの奴隷制の遺産とキリスト教の神罰としての労働。

これが欧米の労働観の根本にあります。古代にローマ帝国が滅亡した後、この古代の遺産は西ヨーロッパ各地の修道院に保存されて、修道院が新たなヨーロッパ文明を形成する核になります。修道院から新しい文化が生まれ、それがヨーロッパ文明を作っていきます。その中で代表的だったのがベネディクト派の修道院です。このベネディクト派の修道院においてローマの奴隷労働とキリスト教の神罰としての労働という二つの遺産が融合しました。それが欧米の労働観の原型になった。

ベネディクト派の修道院には「労働は祈りなり」ラボラーレ・エスト・オラーレという標語がありました。これは、人間は神の道具として奴隷のように働くべしということです。ベネディクト派の修道士は、ローマのように人間の主人に仕えるのではなく神が主人の奴隷になった。キリスト教では神を「主よ」と言います。キリスト教では神と人間と関係は主人と奴隷の関係です。その神に奴隷として奉仕することが労働です。

だから労働とは一種の苦行で、苦しみに耐えてこそ価値があるということになる。苦しい労働を禁欲的にやる、そのように奉仕してこそ神に褒められる。

労働が作業量として計測されるだけのヨーロッパ的労働観

それゆえにヨーロッパ的労働観では、労働は純然たる作業量のことです。たんなる作業量として測られる、つまり時間単位で測られる。均一の作業量で何時間働いた、何日働いたという形で測られる。だからヨーロッパ的労働の代償はラテン語に由来するサラリーで、日給とか月給とかで払われる。サラリーマンの原型は古代ローマの奴隷なんです。

労働とは苦痛に満ちた非人格的で量的に測られる作業にすぎない。そういう発想があるから、ヨーロッパは機械が発明されてもそれで労働を楽にすることはなく、今度は人間を機械の奴隷にしてしまった。機械によってヨーロッパ的な奴隷労働をむしろ拡大したといってもいい。機械のせいで人間はますます忙しく奴隷のように働くことになった。

そうなると労働なんて奴隷がやることなんだからと、他方で働かないで豪勢に贅沢できる奴がかっこよくて賢い、真面目にコツコツ働くやつは馬鹿だという風潮が生まれてくる。それが昔も今も欧米の上流階級の気風です。働かないで金をがっぽり儲けてえらい贅沢ができる。そういう人間であることをひけらかす伝統が欧米にはあります。儒教の中国にも似た伝統があります。帝政中国のエリート官僚は働かなくていい身分であることを誇示するために爪をやたらに伸ばしていました。世界的に見れば上流階級が働かないで贅沢できる身分であることをひけらかす伝統の方がむしろ主流でしょう。今のアメリカの金持ちなんかも似たようなものですね。

日本では労働はたましいのはたらき

だが日本ではどうでしょう。日本ではまじめにコツコツ働く人が評価され、尊敬されるのではないでしょうか。

この国では、食うために仕方なくやっているんだというのでぞんざいな仕事をするような人間は軽蔑されます。だから日本人は世間があまり高く評価しない仕事でも概してきちんとまじめにやります。それから日本の上流階級にも働かないで贅沢できる身分であることをひけらかす伝統はなかったと思います。

京都のお公家さんだってみんな芸事のお師匠さんなんかをやっていたんで、ぶらぶらしていたわけではない。天皇も質素な暮らしをして儀式だの詩歌や学問の勉強で忙しかった。そして日本では賃金と労働条件が少しいいというだけでポンポン職場を変える人は今も少ないんじゃないでしょうか。むしろ経営者の方はそういう人が出てくるのを待っているのかもしれませんが。ヨーロッパ的ないしは中国的な労働観だととにかく労働は苦痛にすぎない。経営者にしてみれば労働はできるだけ切り詰めたい費用にすぎない。できれば完全にオートメ化してゼロにしたいコストに過ぎない。

労働者も仕方ないから苦痛に耐えて働いている。苦痛に耐えた代償として賃金をもらっている。だから労働者の方も少しでも楽をすることしか考えない。欧米や中国の労働観だとそういう風になりやすい。ところが日本の場合はちょっと違うのではないか。まず日本には神道の伝統がありますから。物にもたましいが宿ると考える。だから労働も単なる物質的必要を満たすための物質的活動と考えない。労働もたましいの働きと考える。日本人にはそういうところがあります。

ベーシックインカムによって西洋的労働観から解放する

もう一つは仏教の影響で、労働を修行とか精進と考える傾向があります。労働することは人格的修養であると考える。労働することによって人は自分を成長させることができる。自分中心じゃない社会人に成長する。言葉でなく毎日の労働で人としての在り方を身に着ける。日本人にとって労働は社会倫理の実践なのです。

だからこそ日本人にとっては失業は大問題なのです。経済的に苦しいのどうのという以前に人間失格の危機ですから。日本人には報酬以上にとにかく仕事があるということが大事なんじゃないでしょうか。このように日本人の労働観は神道と仏教の影響なしには考えられません。

私がベーシックインカムを推進するのも、日本人を西洋的キリスト教的労働観から解放したいからです。日本人はもともと凝り性の職人気質の民族でね、日本経済はそういう日本人の気質に合ったものであるべきです。労働は苦痛に満ちた奴隷労働だからできるだけやりたくないという欧米的および儒教的な発想は日本人には馴染みません。もっとも経営者や経済学者の中には欧米崇拝で日本人はまだ奴隷の自覚が足りない、奴隷になり切れてないと怒っている人もいますけれどね。政府通貨によるベーシックインカムが実現したら働くことの意義、経済活動の目的ということが改めて問題になってくるだろうと言いましたが、そういう意味では、こっちに物質的経済があり、こっちに精神的文化があるという二元論はもう通用しなくなってくる。経済が民主化されたら経済自体が文化活動になってきます。そうなると日本の神道や仏教の伝統が新たな意味をもってくるだろうということです。そしてシューマッハーは、仏教経済学の二原則は非暴力と簡素さ、シンプリシティだといっています。

慈悲と簡素さ

非暴力とは仏教用語でいえば慈悲ですね。この仏教の慈悲というのはたんなる感情でもないしいわゆる愛他主義のことでもない。むしろ利己主義か愛他主義かという議論は偽の議論だという思想だと思います。この世のすべてのことは相互に密接につながっているのだから、他人や動植物や自然に対して無慈悲にふるまう人間は、結局最後には自分自身に対して無慈悲に振る舞うことになる。そういう認識であり、そういう認識から生まれてくる感情だと思います。だから人に冷たい仕打ちをすれば、最後にはそれが自分に跳ね返ってくる。経済はそういう認識に立って運営されるべきだということです。

それから簡素さということですが、これは何も仙人みたいに禁欲的な生活をしろということじゃない。そうじゃなくてやはり正業ということですから、人生をよく生きるために邪魔になるもの、足手まといになる余計なものは整理しろ、場合によっては捨てろということです。釈迦のようにすべてを捨てて森の中に入る必要まではありませんが。

経済活動の目的は心の平安

仏教の視点では、富はやたらにあっても余りに少なくても困るものなんです。たとえば貧乏はなぜいけないのか?贅沢ができないからでしょうか。そうじゃないでしょう。貧乏であるということはたえず不安に苛まれ、社会的に屈辱的な思いをするという心をかき乱される体験です。もちろん極度に貧乏していれば健康も害しますけれどね。なにより貧乏とは心をかき乱し人間を貧しくする体験です。だから貧乏は良くない。

しかし、富裕であるということも心を乱す。富裕であれば財産の管理に神経をすり減らし、それなりにストレスや不安で一杯で財産を管理するために生きているようなことになってしまう。財産に執着して人間が見えなくなってくる。おまけにいかがわしい人物がすり寄ってくる。これはこれで心をかき乱される体験です。極端な貧困と極端な富裕は共に人間の心をかき乱す。貧富の差は、あってもそこそこのものでなくてはならない。これを仏教経済学の言葉で言うなら中道ということでしょう。そして経済活動の目的は物質的なものではなく一定の心の状態を実現することにある。あまりにも貧困で技術も未発達だと、人々は生存競争で生き延びることに必死になる。しかしある程度衣食住が充たされたら経済活動によって実現さるべき究極的な心の状態とはどんなものかが問題になってきます。簡素さという仏教経済学の原則からすれば、それは静かな喜びを伴った心の平安ということになるでしょう。

そして日常的に経済活動をしながらそういう心の平安を達成する、そういう経済を考えるべきなのです。これはそんな突飛なことではないはずです。表面的にはせっせと活動し忙しく働きながら心の中は不思議な平安が支配している、そういう体験をしたことがある人は少なくないでしょう。

仏教経済学の指針のもとでの投資や商業活動のありかた

仏教経済学を指針とする経済は、別に停滞した眠ったような経済ではありません。そこには相変わらず企業があり、労働や投資や商業活動があります。こま鼠のようにあくせく働く必要はないスローな経済ではあるかもしれませんが。しかし仏教徒が修行の成果として涅槃に近づくように、経済活動の終着点は心の平安であるべきなのです。経済的な富も技術の革新もこの理想を達成するための手段です。日々の労働もまた悟りと解脱への途である。これが仏教経済学の理想です。そして社会は経済成長、GDPの拡大に固執する必要がなくなります。というのもGDPが絶えず拡大しないと回っていかない経済を作り出しているのは、銀行マネーだからです。銀行マネーにはこれまで述べてきたような一連の矛盾があり、それによる破綻を先送りするためには何が何でも経済の成長が必要なのです。この点では銀行は絶えず泳いでいないと呼吸ができなくて死んでしまうホホジロザメと同じです。だから銀行は死んでも経済成長をやめられない。だが銀行マネーが廃絶されたら社会はゼロ成長でも困りません。むしろ均衡を原則とする経済にはゼロ成長の定常状態に向う傾向があるでしょう。

そうしたゼロ成長経済でも大半の企業はそこそこにやっていけると思います。企業も銀行マネーへの隷属から解放されるのですから。戦後日本の大企業はずっとアメリカ風のコーポレーションをモデルにしてきました。そして質の維持と向上より量と規模を重視する経営をしてきました。しかしこの日本株式会社の時代は90年代以降のデフレと共に終わりました。これからの日本の企業は顧客の信用第一に長年暖簾を守ってきた京都の老舗をモデルにすべきです。老舗型の企業ならゼロ成長でもやっていけます。そういう企業を支えるのは、市場占有率ではなくて独自の製品やサービスから生まれる誇りでしょう。どんな企業もその企業文化の質が問われることになるでしょう。

ネット世論の圧力で政府通貨とベーシックインカムの実現を

これで一応今日の私の話は終わりますが、最後にもう一つ生臭い話をしなきゃいけない。もし私のプランがかなり妥当なものだとして、どうやったらそれを実現できるのかという大問題が残っています。ベーシックインカム党という政党を作って選挙戦を戦って政権取るといったことはできない。そんなことをしても政党間の利権政治に巻き込まれるだけです。

私の考えでは、将来的には議会制国家を自治体連合国家に作り変えて自治体の協議会が中央政府の代わりになることが望ましい。しかしそういう国家体制の転換はすぐには実現しない。ではどうしたらいいか。

現状は自民党政権ですが、自民党政権は一度死んだ者が息を吹き返したゾンビです。そして、60年代の、高度成長よもう一度、というタイムマシン政権です。ゾンビがタイムマシンに乗っている。こんな政権が長くもつはずがない。世界的にも政党政治はどの国でも崩壊状況で、この点ではアメリカやヨーロッパの議会政治も中国の一党独裁もみんな末期症状です。では日本の状況はどうかというと、イタリアと似た感じですね。安部自民党ゾンビ政権がこけた後にはもう有力政党はありません。泡沫政党のきわめて不安定な連立政権になるでしょう。世論の圧力に弱いことがそういう政権の唯一の取り柄です。足腰が弱いから右顧左眄して千鳥足でふらふらする。ですからこの手の政権が出来たら政府通貨をやれ、それでベーシックインカムをやれという世論の圧力を徹底的に高めるべきです。

もっとも世論の圧力を高めるといっても皆さんも忙しいから集会だのデモだのはやってられない。各地でベーシックインカム研究会を作るのもいいけれど、それも容易ではない。しかしパソコンを持っていればネットで発言することはいつでもすぐにできるはずです。だからとにかくネット世論を盛り上げるべきです。インターネットを覗いたらどこもかしこもベーシックインカムの話だらけという状況をつくりだす。そして「ベーシックインカムをやります」といわなくては選挙ではとても当選できないと政治家が観念するような空気をネット世論で醸成していく。こうしてよろめく泡沫政党の連立政権を世論で包囲し押し切って、超党派で政府通貨とベーシックインカムをやらせる。

それからアベノミクスが案の定破綻したら、デフレに対してはもう政府通貨しか打つ手は残っていないという声が出てくると思います。そういう声は前からかなりあったわけですから。実際、どう見ても経済の窮状の打開策としては今や政府通貨とベーシックインカムしかないのです。海外でも財界寄りの新聞までそうした議論を取り上げるようになってきています。

さしあたり皆さんは私の見解が基本的に正しいと思えたならば以上の方向でネット世論を盛り上げていただきたい。長いことご清聴ありがとうございました。

(注)キリスト教の中でも明確な原罪の教義があるのは、聖アウグスティヌスの神学を継承した西欧のカトリックとプロテスタント諸派だけです。ロシア正教など他の宗派には明確な原罪の教義はありません。

追記

社会信用論チャート1

社会信用論チャート2

追記:ダグラスの社会信用論には政府通貨の発行とベーシックインカムの実施に加えてもうひとつ「正当価格」JUST PRICEという政策提言があります。これはある国の経済の供給と需要にかりに20%のギャップ、デフレギャップがあった場合、一定の期間を区切って全国一斉にすべての商品を20%値引きして販売するというものです。値引きした分は販売部門に政府通貨によって後で補償されます。これも円滑な経済循環を促進するための政策です。もちろんこの措置によっても売れ残る商品は出ます。しかしこの政策の狙いは心理的効果にあります。

デフレの状況では消費者は商品はこの先さらに値下がりすると予想して財布の紐を締めてしまい、そのために企業は価格破壊競争に走りデフレは一層深刻化します。しかし値引きが全国一斉に同一の値引き率で公的に秩序だった形で行われた場合には、大抵の消費者は値引き期間中に商品を買っておこうとするでしょう。正当価格の狙いはこうした心理的効果によるデフレ・スパイラルの予防にあります。

ダグラスと同時代の通貨改革論者シルヴィオ・ゲゼルは使わないでいるとどんどん目減りする減価貨幣によって人々に否応なく商品を買わせることを考えました。インフレを起こそうとしているアベノミックスにもそうした通貨の減価を目論んでいるところがあります。こうした貯蓄に対する事実上の課税によって消費を強制する試みに対して、ダグラスは所得を保証したうえで価格を正当なものにすれば人々は進んで商品を買うと考えた訳です。

質疑応答

大分から来ましたAと申します。最初にまず誰が悪いというスケープゴート探しをするんじゃなくてまず構造自体の問題であるというお話があったと思いますが、日本人をあえて考えてみると、構造の中でコツコツやるのが日本人的かなと思ったので、世論をネットでもりあげていくというのはちょっと難しいかなと思ったんです。その点では盛り上げ方をお聞きしたいと思います。はかなさみたいなものをめでて、経済状況もそれと同じでその中で順応していくというか、頑張っていこうみたいなのがあるような気がするんですけど。

はかなさの美学といえば、日本人は別に経済がゼロ成長でも平気なのではないでしょうか。日本人の感性や考え方は進歩というより諸行無常ですからこの国はむしろゼロ成長経済に向いているのではないか。ネット世論の盛り上げ方としては、政府通貨とベーシックインカムで景気回復とか経済成長再びみたいなことが強調されると私が言っていることと趣旨がずれる感じですね。生産と消費の均衡の回復が経済の根本問題で、それには政府通貨とベーシックインカムしかないこと。これが一番わかりやすくて世間で通る議論ではないかと思います。

しかもこればかりは、日本人的な精神でコツコツと部分的に徐々に実現というわけにはいかない。通貨の問題はシステムの問題ですから。このことがなかなか分かってもらえなくて私も苦労しているんです。通貨currencyとは紙幣や硬貨のことではなくて近代経済を統合しているシステムのことなのです。ですから部分的手直しということはできません。アベノミクスなるものは、日銀がじゃんじゃん通貨を発行して銀行に注ぎ込めばデフレは部分的手直しで何とかなると思っているわけですが、かえってそれでシステムの不安定性が増している。このままやらせておけばえらいことになると私は思っています。通貨や金融に関してだけは困難であってもシステムを再構築するラディカルな政策が必要です。

関さんのお話大変感動しました。明日からでももうベーシックインカム実現したいなと思います。私は国産小麦を使ったパン屋をやっています。いい材料ばかり使ってまさにゼロ成長の儲からないなぁと思いながらも仏教経済学の精神でやっていまして、今日勇気をもらいました。話は変わるんですけど、年金制度のこれからをちょっとお聞きしたいと思います。私は今40歳なんですけれども、いままで真面目に20年払ってきまして、でも消えた年金の役員たちの下手人もまだ挙がってないし、消費税を今度から上げるといって、謝罪もなくまた違う使い道にしようとしている。個人的にちょっと悩んでいまして年金を払うのを、今ちょっとストップしています。ちょっと下世話の話なんですけど、どのような行動をとっていいかというご相談と年金制度の未来をお聞きしたいです。

これについては原則的なことを申し上げるだけで、人生の選択に関してあなたに受けあえるような責任ある発言はちょっとできませんけれども。私があなたの年だったら年金払いませんね。私は今70です。戦後の繁栄で一番得をした世代です。ろくに働かなくても年金はがっぽり。だから今の高齢者は保守化して、高齢者の利権を守ってもらおうと自民党に票を入れているわけでしょう?

あなた方はツケだけまわっておいしいものは何もない損な世代です。本当に私は怒っている。あなたのように起業されている人は本当に幸せです。日本人は労働を修行として考えると私は言いましたが、そういう意味ではアルバイト暮らしで食いつなぎながら気が付いたら40代になっていたといった方々の空しい思いは察するにあまりあります。これぐらい日本人の気質に反する生き方はありません。私があなただったら年金を払う分を別のものに使いますね。その分貯金したほうがましかもしれません。年金制度は実質的に崩壊していると思います。私の周りでも若い人は国民年金を納めていない人が普通です。

年金という制度は果てしない経済成長や人口の増加が前提になっています。日本の年金制度は基本的には農村を解体させるための政策でした。高度経済成長を支える労働力を作り出すためには地域の地縁血縁の相互扶助でつながっている農村の社会構造を解体させる必要があった。日本の農村は戦後の農地改革のおかげで一応豊かでした。必死になって都会に職を求めて出る必要はなかった。それじゃ困るから都会に働きに来ても年金があるから大丈夫という制度を自民党政権が作った。今は日本は完全に都市化してしまったのでこういう制度は歴史的役割を終えて破綻ということになった。国は長期的なことは考えていません。

定年制は人間をたんなる労働資源として見ている制度です。私としては、定年制はやめてベーシックインカムで基礎所得を保証して、高齢者でも生涯現役で働けるように職場と産業の在り方を変えていくべきだと思っています。例えば高齢者には職住接近というだけでも助かる。満員電車で通勤なんて高齢者にはしんどい。そういう労働環境があればベーシックインカムにプラスアルファ―程度のなにか老後の基金で年金はなくても済むのではないか。それに今は青壮年の体力を要求しない仕事も増えています。ただし定年制の廃止はあくまでべーシックインカムとワンセットでなければならないと思います。

福井から来ましたBと申します。今日はお話ありがとうございました。質問というかご意見を伺いたいことがあります。私もベーシックインカムの実現を目指したいなと思いまして周囲の人にも話していますけれども、そんなものを導入すれば働かなくなる人が出る。ということをいう人がいます。私はそうは思ってないんですけど。 ベーシックインカムの状況でも貧富の差というものは拡大していくわけです。それを抑制するためには法の整備が必要になってきます。そうすると今の腐敗した政治では、富を持つものによって政治も作り変えられてしまいますので、ベーシックインカムとは私は日本に合う選挙制度や政治システムとセットにならないと実現は難しいと思っています。それに関してベーシックインカムとセットになるべき政治システムというものに関しては何かアイデアをお持ちなのかということを個人的にお聞きしたいと思っています。

ベーシックインカムと聞くとすぐに条件反射的に「そんなことやったら怠け者が増える」という反応が返ってきます。これはなぜか。現代人の労働は奴隷的労働だから人々は心の中に「一度遊んで暮らせる身分になってみたい」という無意識な欲望をもっています。それがベーシックインカムと聞いてすぐさま口に出るということではないか。ではそういう人が実際にベーシックインカムが実現したら遊んで暮らすかどうか。月8~10万円程度の所得で遊んで暮らせるかどうかは別にして、まったく働かなくなってダルマさんみたいになる人はきわめて稀なのではないか。人間にとっては何もしなくていいことは、むしろ苦痛です。というのも労働は個人と社会を結びつけるもっとも決定的な絆だからです。働かないでいることは辛いことです。だから私の周囲の年金暮らしの人でもダルマさんをやっている人は一人もいません。引きこもりやニートが羨ましいという人も聞いたことがありません。何もしないで平気という人はむしろ病理的な例でしょう。

ただベーシックインカムが実現すれば我々の働き方はスローで寛いだものになりそうです。もうあくせくする必要はなくなります。これは大変結構なことです。1970年代に北欧などで生涯総労働時間の規制ということが議論されたことがありました。現代人は働きすぎるから環境が破壊され資源が枯渇する。だから一人の人間が生涯に働く時間に上限を設けようという議論でした。実際、環境保護という点では、バリバリ働く有能な人より競輪競馬に夢中の方が環境にやさしいと言えるのです。まあ競輪競馬はさておいて、現代人の働くテンポが緩やかになることは環境にとっても人間にとってもきわめて望ましいことです。

それから仏教経済学は何よりも経済を運営する姿勢のことです。理論でも政策でもイデオロギーでもありません。日本人の民族的宗教的伝統に根を持つ労働観を尊重して経済を運営していこうということです。そしてこの伝統は神道と仏教であり、アメリカのキリスト教的伝統や中国の儒教的伝統とは異質なものです。日本人はこのことをはっきり認識してわが道を行きわが道を貫くべきです。これは排外的ナショナリズムとは何の関係もありません。自分たちの個性とそれを形成してきた自国の歴史を自覚するということです。そして外国とは国際法の遵守とギブ・アンド・テイクのビジネスを原則として付き合う。国際法を守らず詐欺的ビジネスをやる国とは付き合いません。つまり経済的には互恵を条件とした開国で社会的には脱グローバル化の鎖国ということです。もっとも自国の文化にとって栄養になる外国の文化は積極的に学習し摂取します。そのかぎりで国際的な文化交流は重視します。そしてこのような外国文化の学習、そのおいしいところを適当につまみ食いすることには、昔から日本人は大いに長けていました。例えば音楽。外国人は概して音楽に関しては国粋的で、フランス人はカンツォーネを聴かないしイタリア人はシャンソンに無関心です。アメリカ人など同じ英語の英国の音楽すら聴かない。ところが日本ではシャンソンやタンゴやカントリーでプロの歌手さえいます。こんな国は他にありませんよ。おかげで日本は市場規模でアメリカと肩を並べる音楽大国になっています。

それから政治体制についてはデモクラシーしかありえません。今日も私はデモクラシーは経済的なものでもあるべきだという話をしました。政治体制は、各国の民族的宗教的伝統に根ざした労働観とは別の事柄です。というのもデモクラシーにはいわば人類学的な普遍性があるからです。例えば仏教の信徒の団体であるサンガには模範的なデモクラシーが見られますが、仏教でなければデモクラシーは実現できないということはない。他方で同じキリスト教の伝統を持ちながら、スイスには本物のデモクラシーがあるのに、アメリカにはデモクラシーと称する政党とマスコミのデマゴギーがあるだけです。デモクラシーには人類学的普遍性があり、近代の欧米にしかないものではない。ですから例えば日本でも戦国時代の末期にこの京都府に山城国一揆として一時的に共和国が生まれたことがあったし、江戸時代の惣村では入れ札(選挙)で村長を選ぶことが普通でした。輪番制もあったようです。また寺や神社が中東のモスクに似た役割を果たして民意が表明される場になり、それが為政者に伝わるといったこともあったらしい。

ではなぜデモクラシーには普遍性があるのか。それは一度征服などによる暴力に基づく統治が否定されると、その後は世論による統治しかありえないからです。そして世論が本物の世論であるためには、個々人の意見が尊重されねばならない。ところが世論の統治としてのデモクラシーには常に二つの危険があります。その一つは政党やマスコミや教育が世論を操作したり捏造したりする危険です。この危険を警戒し絶えずそれと闘うことなしにはデモクラシーは存続できません。もう一つは、世論にはまともな言論とおかしな言論を篩い分ける淘汰のメカニズムが備わっていなければならない、誰もが好き勝手なことを言っているのは世論ではありません。今日のデモクラシーにはこの言論の淘汰機構が欠けています。だから容易にデマゴギーに堕してしまう。言論の自由は、言論の篩い分けを可能にするための自由です。好き勝手なことを言ったり嘘で人を欺く自由ではありません。アメリカは自由な選挙と言論の自由があればデモクラシーなのだと言っていますが、この世論の淘汰がないのでデマゴギーに支配された国家になっています。

そして個々人の意見を尊重することは個々人に他者と等しい権力を与えることです。その意見が正当なら人を動かせるということがなければ意見を表明する自由は無意味です。ですからデモクラシーのもう一つの原則は自治と分権です。権力の集中の排除です。この点ではやはり模範的なのはスイス連邦です。スイス人は自由な選挙で選ばれる議会がありさえすればデモクラシーだとは考えない。議会への権力の集中を排除するために、国民発議権などの直接民主主義やカントンの自治で議会の権力を制約し、カリスマ的指導者がでてこないように大統領も輪番制にしています。だから皆さんも多分、今のスイスの大統領の名前を知らないでしょう。とにかく本物のデモクラシーということでは、スイス連邦から学ぶことは多いです。

京都から参りましたCと申します。本日は貴重なお話ありがとうございます。政府通貨の制度の物価上昇に関してなんですけれども、先生のお話だとデフレ下では機能すると思うのですが、インフレに転じている時であったり、今みたいに需給ギャップが縮小していた場合だとこれをやると物価が永続的に上昇してしまうと思います。その対策というのがあれば教えていただけるでしょうか。

まさにそうした問題がありうるから国家信用局がテクニカルに信用を管理する必要があるのです。ただし大規模なインフレやデフレはあくまで銀行が私的ソロバン勘定で通貨の供給を増減させているから発生するということは押さえておいていただきたい。しかし経済循環の円滑な促進に必要な量の通貨をきっちり正確に算定することは不可能でしょうから通貨の過剰供給で多少インフレが発生することはありうるでしょう。そして生産と消費が均衡する量の通貨を供給することだけでなく、通貨の価値を安定させることも国家信用局の課題です。そしてこの機関はソロバン勘定で動いているわけではないから、事態をコンピューターで適切に分析し、それに応じていくらでも通貨の供給量を調整できます。ではどのように調整するかについては、いろいろな方策がありえます。景気の過熱を抑制するための臨時措置として企業への融資に利子を付けることもありうるかもしれない。場合によっては一時的にベーシックインカムを減額することもありうるかもしれません。しかしこれはあくまで通貨の過剰供給を修正するための措置であり、銀行の借金取立てや貸し剥がしと同じものではありません。物価の上昇が止まったらこういう措置は直ちに撤回されます。

そしてこの通貨の価値の安定ということも、私がベーシックインカムは信用の公的管理とワンセットでなければならないと主張する理由です。税収を財源としてではベーシックインカムは難しいから政府通貨でということではないのです。この点では、私はスイスでの動きに危惧を持っています。ご存知のようにスイスでは先に国民発議によってベーシックインカムの支給を憲法条項にするかどうかで近く国民投票が行われます。スイスの案は、私のようにマクロ経済のフローの次元で生産と消費を均衡させるといったものではなく、福祉のより充実した代案として出てきたもののようです。これはやはりインフレをもたらす危険がある。28万円ほどを支給するという案ですが、スイスはハンバーガーが何千円もする物価が高い国なので、日本円にすれば8~10万円程度の支給ということらしい。しかし通貨の供給量の公的調整がないからインフレになる可能性がある。そうなるとベーシックインカムは実質的に数万円程度の所得保証の名に価しないものになってしまう恐れがあります。そして財源としては税収で、社会保障費を全廃してベーシックインカムに回すということらしい。ベーシックインカムを通貨改革の一環としてではなく、福祉の代案として考えると、そういうことになる。しかし例えば身体障害者や一人暮らしで病気がちの高齢者などの場合、月8~10万程度の所得があればいいということにはならないでしょう。やはりベーシックインカムと福祉や社会保障は別個に考える必要があります。もともと別のものなのですから。スイスの案はもし実施されたら税収を財源とするベーシックインカムは不可能であることを証明する結果になると予想しています。

京都で関西ベーシックインカム勉強会というのをしていますDと申します。今日はお話聞かせていただきましてありがとうございました。少し前なんですけれども政治記者をされている方の講演を以前お聞きしたことがありまして、そこで自民党の方が給付付税額控除ということで、ベーシックインカムに近い形であれば実現もう少し早まるんじゃないかというお話を聞かせていただいたことがあります。 このようなベーシックインカム的な方法から実現してみて問題点が起きて変更していくという形よりは、最初から政府発行通貨によるベーシックインカムという形で進めていくということの方が望ましいのでしょうか。そのあたりをお聞かせいただけたらと思います。

お話したように政府通貨は議会政治とは両立できません。だから世界で政府通貨発行の方向で動いている国は一つもありません。その点では、皇室の伝統的権威というものがある日本は、世界の中で例外的に信用の公共的管理を容易に実施できる国なのです。議会制による混乱もファッショの危険もなしにです。その自民党の案というのは存じませんが、負の所得税というのは以前からよく議論されていますね。所得が一定の基準に満たない人に対しては国が逆にその基準にまで所得を補填するという措置です。これはケインズ主義者を自称したニクソン大統領がやろうとしてウォーターゲート事件で流産してしまったもので、新自由主義のミルトン・フリードマンも推奨している政策です。まあ、これは大企業にとってはさほど懐が痛まずに有効需要は確保できるという財界も異論がない政策なのでしょう。銀行も安泰な政策です。だからといって私はこれを否定するつもりはありません。これですぐに実施できるようなら、まず負の所得税を実現したらいい。日本の国籍さえあれば誰にでも最小所得への権利があるという思想が世に広まるのは結構なことです。そしてこれをやってみても経済はさほど好転しなくて、やはり政府通貨を発行しないとダメだということになると思いますよ。

どうも京都から来たEです。ありがとうございます。質問ですけどイスラム銀行のお話をされていましたが、イスラム銀行がうまくいっているのはやはり思想的にもバックボーンとしてイスラム教というものがあると思います。日本で、関さんが言われるように仏教をバックボーンとして、しかも皇室発行券とか使ってはたしてそれでうまくいくかなと思うんですね。働くことはいいのだけれどお金ということに対して日本人は少し汚さを感じる側面、士が偉くて上で商が下というような考え方まだあると思います。そのあたりは、どう思われるか、お考えをぜひお聞かせください。

今日は通貨改革と仏教経済学の話を同時にしましたので、皆さんも私の話をどう整理して理解したらいいのか、多少戸惑われたかもしれません。別立てにして話すべきだったのかも。そこで私の勝手なお願いですが、この二つの論題ははっきり区別して頂きたい。政府通貨とベーシックインカムはあくまで制度の構築の問題です。他方で仏教経済学はあくまで心構えの問題、経済は日本の宗教的伝統に根ざした労働観を尊重して運営さるべきだということです。ですから国家信用局は、憲法の「国民統合」の原則に忠実にあくまで金融のエキスパートとして仕事をします。毎朝仕事に取りかかる前に皇居の方向を拝んだり、座禅を組んだりするわけではありません。

それから庶民の間にはお金を汚いもの、不浄なものとみなす風潮があることは確かです。その理由ですが、おっしゃるように官尊民卑の遺制があると思います。江戸時代の武士は、武士には義があるのに町人や職人には利しかないと公言していました。もっともこれは身分差別というより、町人や職人の方が自由で豊かだったことに対する武士の僻み根性の表れだったのではないかと思いますが。そしてこの武士の高慢さを高級官僚が受け継いでいます。官僚には義があるのに愚かな国民には利しかないのだから、国民は官僚に指導さるべきだという屁理屈です。そして金には超然としている振りをする。しかし有利な天下り先のことで頭が一杯の官僚のどこが士なんでしょうか。しかも彼らは実質的に銀行の下僕です。公僕ではなくて銀僕です。だからバブルが弾けて破綻した銀行を国民の公金で救ってやる。とんでもない話です。

庶民が金を汚いものとみなすもう一つの理由は、銀行の銭ゲバ経済の当然の反映です。銭ゲバが経済全体を動かしている。だから庶民がお金を銭ゲバの道具とみなすのは無理からぬことです。そしてもう一つの重要な理由は、庶民にはお金のあるべき姿についての漠然としたイメージがあるので、それに較べてこの浮世のお金は汚いと感じるのです。庶民は実は労働に対して「賃金」を払うという西洋的発想には納得していません。そして報酬というものは、相手に対する敬意をこめた「謝礼」であるべきだと思っている。だから賃金としての金は汚い感じがする。しかし講演で申し上げたように、現代社会ではお金は生活インフラです。電気や水道と同じようなものです。だから葬式に行くのにも香典が必要です。香典は汚いお金でしょうか。

私がデモクラシーは経済的なものでもあるべきだと論じたのは、まさにお金の在り方を変えたいからです。皇室券の形ですべての国民に無条件にベーシックインカムが支給され経済的市民権が保証されるようになれば、人々のお金についての考え方も変わるでしょう。そしてマネーは人々の人倫の絆、国民の相互信頼の印とみなされるようになることでしょう。

もう一つとてもお伺いしたいことがありましてお伺いします。天皇の存在についてなんですけれども、確かに江戸時代ですと幕府があり天皇がいる。その二つが調整を非常に良くしていたので江戸時代というものはうまく成り立っていたと思いますが、明治維新以降天皇の存在というものは大分変形変容してしまったと思うんですね。戦争をするために一神教の主となる天皇というものをつくったのではないかと考えます。私は天皇制については反対なんですけどその点についてはどのようにお考えでしょうか。

肝心なことは皇室と天皇制を明確に区別することだと思います。皇室は古代日本に登場して以来幾多の歴史的変遷を経てきた存在です。皇室の歴史は古代に帝政中国から導入された律令国家の体制が日本の風土に即して変容してきた歴史と言えるでしょう。他方で天皇制はあくまで薩長が維新と称するクーデターで非合法に簒奪した政権を正当化するためにでっちあげた虚構です。明治の天皇制国家はファッションとして国粋を装いました。しかし前から指摘されていますように、この国家のモデルになったのはカイザーのプロイセンです。帝政ドイツの権威主義国家体制です。そして明治政府はヨーロッパの強国は一神教のキリスト教と不可分であることを知って、天皇を神格化する神学として国家神道なるものをでっちあげた。キリストが人となった神であるように天皇は現人神とされた。しかし江戸時代の京都では天皇は「天皇はん」と呼ばれていたわけですよ。この点では、天皇制国家によって最大の打撃を受けたのは日本古来の神道の伝統でしょう。

そして左翼は明治国家の体制を天皇制と命名することによって、左翼イデオロギーによって虚構をむしろ補強してしまった。左翼は天皇制を虚構として暴くことをせず、あたかも日本の歴史の中に深い根を持つものであるかのように論じることによって、天皇制に事実上協賛することになってしまった。しかし薩長の権力亡者がクーデターをやる以前には、皇室は歴史的変遷の末に京都文化と一体化していたのです。ですから皇室は江戸城(皇居)から平安時代以来の座である京都に、京都御所に帰還して本来の姿を取り戻すべきでしょう。「京都」はもともと天子のおはす都という意味なのですから、これは当然のことです。そして京都は例えばバチカンやかつてのイエルサレムのような聖都、京都皇国といったものにすることも考えられます。私が皇室券を発行する国家信用局は京都に置くべきだと言ったのも以上のような見解に基づいております。

関さんがよく言われる「高橋是清は日銀による国債の直接引き受けをして事実上の政府通貨を発行した」という文言。国債の日銀直接引き受けがなぜ政府通貨の発行になるのですか。わかりやすく説明してもらえるとありがたいのですが。

日銀による国債の直接引き受けを図にすると下図のようなことになります。

日銀国債直接引受参考図

日銀は政府が売ってきた国債をその額に相当する通貨を刷って直接買い取ります。これは政府と日銀の間の売り買いですから、政府の日銀に対する借金にはなりません。そして国債には本来銀行に払うべき利子が付いていますが、日銀の場合は利子収入を国庫に納めることになっているので政府が日銀に利子を払う必要もありません。この方式なら政府は銀行に対する負債にならず利子も付いていないお金をストレートに手に入れることができます。つまり政府通貨の発行と事実上同じことになります。

ただこのように既成の制度の運用で政府通貨の発行に等しいことをやった場合、長期的には問題が生じてくる恐れがあります。つまり日銀が売れるかどうか不明な厖大な額の国債を帳簿上で抱え込むと いう問題です。

下図は日銀が目下いわゆるアベノミックスでやっている国債の間接引き受けを図にしたものです。

日銀国債間接引受参考図

これは日銀が経済危機でアップアップしている銀行にお金をどんどん注ぎ込むための方策です。金融用語では公開市場操作における買いオペと呼ばれるものです。日銀はお金をどんどん刷り増しして、それで銀行業界から各銀行がこれまでに買い貯めた国債を買い取る。引き換えに銀行には日銀が無から創造したお金がたっぷり手に入る。銀行業界を救済するためのものです。

こうすれば資金が潤沢になった銀行は企業や個人にお金を気前よく貸すようになって景気が回復するというのが日銀の言い分です。しかし非正規雇用などによる賃金の低迷、失業や倒産という実体経済の現状で、それでも銀行から借りようという人はきわめて少ない。そこで銀行は日銀から注ぎ込まれたお金を株式や商品などへの 投機に回す。それで株価が上昇して景気が回復したかのように見えることがあります。また株の高騰などで手持ちの金融資産の価値が上がった富裕層が、いわゆる富裕効果で贅沢品を買ったりして、やはり景気がよくなったように見えることがあります。しかしこれは一時的で線香花火のようなバブルにすぎません。そして日銀がいつまでもこんなお金の刷り増しをやっていると円=日銀券の価値に不信感をもつ投資家が増え、国債の利回りを高くしないと国債に買い手が付かなくなる。すでに日本の税収の四分の一は国債を買っている銀行への利払いに充てられています。そして長期国債の利回りが2%台になると税収はすべて銀行への利払いに充てられ、日本国家は消滅するという議論もあります。