関 曠野 講演録
3.11以後
― 原発事故をくぐった日本の将来を考える ―
2011年9月24日(土)東京都内にて開催
講演者:関 曠野
※ 本講演録は、当日の記録に関さんの加筆訂正を加えてあります。特に「経済問題」を扱った第二部は、現在の社会状況にあわせて全面的に書き直していただいたものです。
第二部:ポスト・ドル基軸通貨時代の日本社会を問う INDEX
- ポストフクシマで問われる日本の政治経済システム
- 戦後日本における美学から経済学への文明原理の転換
- 伝統とは新しい境地を切り開くこと
- 嘘で動いている現代社会
- 自由貿易論の由来
- アメリカの覇権を正当化する嘘としての自由貿易
- 特権的地位を得たドル紙幣
- ドル基軸通貨体制を防衛するための「自由貿易」
- 主人と奴隷の弁証法
- 必要なくなる自由貿易による正当化
- 日本にのみ通用する「自由貿易」
- アメリカの本音では迷惑な日本のTPP参加
- 19世紀と20世紀で違う貿易の意義
- 過剰生産を貿易で解決したアメリカ
- 消え去るしかない世界貿易
- アメリカ型浪費型経済の終わり
- 現代経済は市場経済というのはデマ
- 現代は銀行独占経済
- 公益事業としての通貨発行を独占している銀行
- インフラ通貨から金融商品通貨への変容
- マルクスの資本主義論の間違い
- 議会制と政党政治化では党派マネーになる政府通貨の問題
- 民間需要に社会信用論はどう対処するか
- イスラム銀行に学ぶ
- 公共通貨とベーシックインカムの相互関係
- 第一部:「国土風土に根ざした思想を再考する」へ戻る
ポストフクシマで問われる日本の政治経済システム
反原発派は、普通の事故と違って、原発事故は一度起きてしまったら取り返しがつかないとして、原発に反対してきました。福島の事故は今なお進行中ですが、その取り返しのつかないことがすでに起きてしまったのです。この事故の全貌が健康被害を含めて明らかになるには、あと何十年もかかるでしょう。事故の傷跡が一応癒えるには、1世紀ぐらいはかかるでしょう。
冷戦の時期には、どこかの邪悪な国が日本を核攻撃して領土を奪う危険があるとされていました。ところが今、我々は自国の政府と電力会社によって核攻撃され、国土の一部を立ち入り禁止の形で奪われてしまいました。この日本の政治経済システムこそ、真に我々の敵であります。してみればこのポスト・フクシマの状況で、我々がまず問わねばならないのは、「なんでこんなシステムができてしまったのか」という問いでありましょう。
戦後日本における美学から経済学への文明原理の転換
そこで今日は、その部分的なヒントになりそうなことを申し上げました。
その第一は、戦後日本の見境なしのアメリカナイズという問題です。そのせいで、国土、国柄、それが育んできた文化について深く考えなくなってしまったことです。第二に、戦後からさらに明治維新にまで歴史を遡れば、京都から東京への首都の遷都はたんなる行政的措置ではなく、日本人の価値観や生き方の転換や変質を意味していました。しかしこの事実も軽視されてきました。私の見るところでは、これは美学から経済学への文明の原理の転換、ビューティフルからビッグへの価値の転換にほかなりません。
伝統とは新しい境地を切り開くこと
それゆえに、維新と遷都で一度は死にかけた京都の再生の歴史は、ポスト・フクシマの状況に放り出されて迷い悩む日本の草の根の人々には、進路を照らす指針やヒントになるのではないでしょうか。そこでとりわけ大事なのは、京都の永年の地域自治の伝統です。番組小学校の運営費も琵琶湖疎水の建設費も、京都市民は政府をあてにせず特別税などで自ら拠出しました。これもしっかりした自治の伝統があればこそです。英語で伝統を意味するTRADITIONの語源をラテン語に遡ると、これは「譲り渡すこと」を意味しています。伝統とは、価値あるものを世代から世代に譲り渡していくことである。そして京都の場合、市民の地域自治がその価値あるものでした。この伝統ゆえに京都は雅であるとともにタフな都市でもあった訳です。そして伝統とは古臭い物事にしがみついていることではなくて、それ自体絶えず脱皮しながら人々が新しい境地を切り開くことを可能にしてくれるものなのです。
嘘で動いている現代社会
原発は実はウランで動いているのではありません。原発は嘘で動いています。「原発は安全」という嘘で国民を騙せていなければ、電力会社も政府も原発を建設したり稼動させることはできません。しかし嘘で動いているのは、原発だけではありません。実は、現代社会全体が嘘、ふたつの嘘によって動いています。それを以下の表にしました。
嘘 | 真実 | |
---|---|---|
「自由貿易」 | → | アメリカ資本の利益になるように作られているドル基軸の世界貿易システム |
「市場経済」 | → | 銀行の独占経済 |
自由貿易論の由来
まず自由貿易ですが、これは十九世紀半ばの英国で生まれた言葉です。当時の産業革命のさなかの英国では、新興のブルジョア企業家層と貴族の地主層が対立していました。そして、産業資本家層は農産物の輸入を自由化すれば、労働者の賃金の切り下げが容易になると考え、高い関税による農業の保護を主張する地主層と対立しました。その際、前者の要求を正当化するために出てきたのが自由貿易論でした。これは要するに、各国がその得意とする有利な産業分野に専念して、商品を障害なしに国際的に自由に取引できるようにすれば、結果的に世界全体が豊かになるという議論です。アダム・スミスの「見えざる手」の説を国際経済に適用した議論と言えます。ですから自由貿易論は農産物の輸入に関する英国の国内的議論にすぎなかったのです。しかも現実には、産業革命で先頭を切っていた当時の英国でも、50%の保護関税が普通でした。
アメリカの覇権を正当化する嘘としての自由貿易
そして、この自由貿易という言葉は今でも使われているだけでなく、世界経済の理想、あるいは原則や基準とされ、各国の政財界やマスコミが掲げる錦の御旗みたいになっています。ところがこの錦の御旗の「自由貿易」は、まったくの嘘なのです。この言葉は本来の自由貿易論とはまったく関係がない、政治的現実を正当化するために意図的に誤用されています。では、それで何が正当化されているかというと、アメリカの覇権、アメリカ資本の特権的利益のために存在しているドル基軸経済システムをもっともらしく正当化するために、世論を煙に巻く煙幕として使われているのです。ただし目下、アメリカは覇権国家としては経済的軍事的に急速に没落しつつあります。だが、アメリカが行き詰っているがゆえになおさら、自由貿易が奇跡を起こす魔法の呪文として、騒々しく至るところで唱えられているのが現状です。
特権的地位を得たドル紙幣
では、この嘘はいつから蔓延するようになったのでしょうか。そのきっかけはおそらく、アメリカがドルと金の交換を停止した、1971年のニクソン声明です。それまでアメリカは各国に、貿易で稼いだドルを随時アメリカが保有する金と交換しますと約束していた。この約束がドルの価値を裏づけ、ドルが信認される根拠になっていました。たが、ニクソン声明でドルは、連邦準備銀行が発行するただの紙切れになってしまった。いずれリーマン・ショックと世界恐慌に行き着くアメリカの没落が始まったのです。しかしこれは長期的な問題で、当座は、アメリカはタダで労せずしてぼろ儲けをするトリックを見つけました。アメリカが第二次大戦で勝ち、比類ない超大国になって以来、ドルは世界貿易の準備・決済通貨でした。ドルの力ゆえに旧ソ連にさえドルで高級品が買えるドル・ショップがあったほどです。それだけに、ドルで回る世界貿易は自由貿易どころか会員制クラブみたいなもので、ドル準備がない国はそれに参加できませんでした。だから南の国では、民衆が飢えてもドルを稼げるコーヒーやカカオを栽培するといったことも行われました。
ところが、ニクソンがドルと金の交換という国際公約を破棄したので、これ以後アメリカは、自国が保有する金の量に制約されずにドル紙幣を発行できるようになった。そして各国から輸入した商品に対しては、ドルを刷って払えばいいことになった。ニクソン声明以前のアメリカは世界でトップの先進工業国でしたが、その圧倒的な経済力軍事力以外に特権をもっていた訳ではありません。しかし、ドルを梃子に世界の銀行になるという特権を手に入れたのです。
ドル基軸通貨体制を防衛するための「自由貿易」
我々が資金を銀行から借りようとすると、銀行は「信用の私的創造」ということで、コンピューターのキーボードを叩いて、その資金を労せずして無から作り出して我々に貸します。しかし負債の返済期限が来たら、汗水たらして必死で稼いだピカピカの現金を銀行にもって行かねばならない。商品と引き換えにドルを刷ればいいアメリカの立場は、この銀行と同じものです。こうしてアメリカは、真面目に働かなくても豊かさを享受できる特権的な国になりました。これが1970年代以降に成立したドル基軸の世界経済システムです。アメリカが「自由貿易」を錦の御旗にして守ろうとしているのは、このシステムなのです。自由貿易の建前は、商品の障壁のない自由な交換による互恵であり国際的な共存共栄です。
しかし実際は、アメリカはそんなことには関心がありません。ただ、例えば日本車の輸入が増えすぎて経常収支の赤字が深刻になると、ドル自体の信認が揺らぎかねない ―― そういう場合にドルを防衛するために「自由貿易」をがなり立てるのです。そして、「日本は農業を高関税で保護するなど、フェアでない」と主張します。日本車のせいでアメリカの労働者が失業しても平気で、大統領選の際に一応騒ぐだけです。
主人と奴隷の弁証法
輸入商品の代価にはドルを刷ればいいアメリカは、結構なご身分に見えるかもしれません。しかしその後起きたことは、哲学者のヘーゲルが「主人と奴隷の弁証法」として論じたことに重なります。ヘーゲルによると、主人は奴隷を働かせて自分は安楽に暮らしている。だが、そのうち、主人は奴隷に依存しなければ生活していけないことが明らかになり、主人と奴隷の立場は逆転してしまう。アメリカが主人なら、さしづめこの奴隷は日本や中国でしょう。アメリカは勤勉な日本に貢がせた。しかしアメリカの産業は衰退し、アメリカ人は日本の車や電化製品なしでは暮らせなくなってしまった。そして日本は対米輸出で稼いだドルでアメリカの国債などをどんどん買い、アメリカの債権者になっていった。アメリカはドルをキーボードで無から作れても、日本の債権になったドルに対しては現金で払わなければならない。実際アメリカはその国債の利子だけでも日本に毎年八兆円も払っています。
必要なくなる自由貿易による正当化
アメリカは1970年代以降、とりわけレーガン政権以降、工業国からいわば金融国になったために、利子つき負債という銀行マネーの宿命的矛盾から2008年のリーマン・ショックに行き着き、目下の世界恐慌の震源地になりました。今のアメリカは、メガバンクも家計も、企業も国家や自治体も、みんな莫大な負債に押し潰されています。そのためにドルの世界貿易の準備・決済通貨としての地位も大きく低下し、ドルに対する世界の信認は揺らいでいます。ドルに代わって、世界の主要通貨のバスケット方式で貿易を決済することも、議論され始めています。
この状況では、もうアメリカには、ドル防衛のために自由貿易をがなり立てる余裕はなくなっているように見えます。アメリカが梃子入れして、世界貿易の完全な自由化を意図して、1995年に設立された世界貿易機関(WTO)での協議も、自国の零細農民を保護せざるをえない中国やインドの抵抗で、暗礁に乗り上げたままです。とにかく今のアメリカには、かつてドル防衛の費用を日本に一方的に負担させたプラザ合意の当時のような勢いはなく、自分の家に火がついています。そしてその国内でも、国民生活の安寧と経済の再生のためには、自由貿易ではなく保護主義が必要という声が高まってきています。アメリカの覇権がこれほど弱体化すれば、ドル基軸経済システムを自由貿易という偽りの決まり文句で正当化する理由がなくなります。
日本にのみ通用する「自由貿易」
しかしアメリカがあまりこの言葉を使わなくなったのに、世界中、とりわけ日本では、「自由貿易」がまるで神のお告げのような言葉としてまかり通っています。なぜなのか。それはドル基軸システムのおかげで高度な経済成長を実現できたと思っている国々が、アメリカの凋落にもかかわらず、何とかこのシステムを建て直し存続させようとしているからです。アメリカの衰退、ドルの地位の低下という歴史の現実を無視したこの動きは、ほとんどカルトに堕した、経済成長信仰および過剰消費社会アメリカの生活様式を世界が真似るべき模範とする価値観と一体になっています。そして、この点でとくに悪あがきが目立つのが日本です。
この国の政財官界のエリートは、戦後日本は、アメリカのドルと核の傘の体制にうまく適応してきたおかげで、経済が高度に成長し、経済大国になれたと信じています。しかしその後、金融国家に変容したアメリカは、その貿易赤字とドルの揺らぎは日本の輸出攻勢が主な原因だとして1985年のプラザ合意で日本にドル防衛の費用を押し付け、その結果生じた日本の金余り現象はバブルの発生と破綻を惹き起こし、90年代以降の長期的デフレをもたらしました。それでもこの国のエリートは懲りていない。彼らは60年代の甘い生活がいまだに忘れられないのです。だから、60年代に出来上がった日本の政策から大きく方向転換し、アメリカとドルから自立することは、考えもしないのです。
アメリカの本音では迷惑な日本のTPP参加
目下、日本は、環太平洋経済提携協定(TPP)の交渉に参加するかしないかの問題で、大きく揺れています。日本では、TPPは日本の市場と資産を狙っているアメリカの圧力という見方が広まっていますが、私はこれは少し違うと思います。TPPは深刻化している失業の問題に積極的に取り組んでいる振りをする必要があるオバマの、来年の大統領選に向けた選挙対策です。経済的にはあまり意味がない政治的アトラクションです。ところがその国際交渉に日本が入ってくると大変なことになる。
TPPが実現すれば日本は関税自主権を失うだけでなく、健保など国民生活の枠組みになっている制度がTPP基準で改変されて、日本は別の国になってしまうでしょう。しかもそれでデフレ、震災、原発事故の三重苦に喘ぐ経済が立ち直る可能性はゼロです。だがアメリカにとっても関税がゼロになれば、実力は世界一の日本の製造業の高品質な部品や資本財がなだれ込んでくる。アメリカの衰退した製造業はTPPで日本に止めを刺される恐れがある。日米は相討ちで共倒れになります。
ですから本音では、アメリカにとって日本のTPP参加は迷惑なはずです。ただのアトラクションには入ってこないでほしい。ところがTPPをごり押ししている外務省や経済産業省の官僚は、60年代そのままの発想で、オバマの顔を立てて、アメリカにゴマをすっているつもりなのです。滑稽というしかありません。
国連やIMFなど戦後の国際秩序は大戦で勝利した超大国アメリカがつくりました。だがベトナム戦争やニクソン声明後、アメリカの影響力は衰えつづけ、今はアメリカはもう、国際世界の主役どころか急速に没落している国です。しかし日本の官僚は浦島太郎なので、その頭の中ではアメリカ中心時代がいまだに続いている。とんでもないことです。
19世紀と20世紀で違う貿易の意義
以上述べましたように、「自由貿易」は、アメリカ資本(大企業と大銀行)の巨大な利権になっているドル基軸経済システムを正当化する煙幕として使われてきた言葉です。だから「自由貿易が日本と世界に繁栄をもたらす」といった主張をする人は、アメリカ狸に化かされているのです。それでは、このシステムが崩れてきている中で、世界の貿易は今後どうなっていくのでしょうか。だがその前に、19世紀と20世紀では貿易の意義が違ってきたという問題を考える必要があります。
かつては貿易はいわば必要悪で、どの国も高い関税で自国の産業を保護育成することが普通でした。ところが、英国では産業革命のおかげで、有り余る商品を生産できるようになり、それを海外にも売りさばく必要から、自由貿易の名で「貿易はいいことだ」という議論が登場したのです。しかし、その英国でさえ、産業革命のエネルギー源の石炭は国内で自給していました。こうして貿易は、長らく国民経済の自給を補完する二次的なものにすぎませんでした。自由貿易の論理を徹底すれば、世界中の自動車と電子技術製品は日本が作り、例えばフランスはワインと香水だけ作っていればいいということになりますが、そんなことは現実にならなかった。
過剰生産を貿易で解決したアメリカ
ところが20世紀に入ると貿易は別の意義をもつようになりました。ダグラス少佐が社会信用論で分析したように、資本主義の工業経済には勤労者の所得不足=購買力低下とそれに伴う企業の販売不振=過剰生産の問題が付き纏います。この問題は富の再分配によって解決するしかありません。しかし大恐慌を経たアメリカは、この問題を分配ではなく、貿易によって解決しようとした。過剰生産の商品は海外に輸出すればいい、という戦略です。そこで戦後のアメリカは、ドルを基軸通貨とする世界貿易のシステムを作り上げた。こうして貿易は、アメリカの体制的矛盾を解決するという、政治的意味をもつものになりました。しかしその後アメリカは、厖大な商品と資本を輸入して生きのびる金融立国の国になってしまい、ドル防衛策もあれこれ講じたけれども、結局、ウォール街の金融も破産してしまった。
消え去るしかない世界貿易
世界貿易の胴元だったアメリカが最終的に破産し、中国などの貿易立国を可能にしてきたローンやクレジットに支えられたアメリカの巨大な消費市場も消滅してしまったのですから、戦後の「世界貿易」のシステムというものも今後は消え去るしかないのです。事実、リーマン・ショック以来、世界の貿易はどんどん縮小し続けています。市場の消滅、ドルやユーロの揺らぎに加え原油価格の高騰が海運業を苦しめており、恐慌は銀行の信用状を介した貿易の決済にも悪影響を与えます。目下はどこの国も輸出による恐慌の打開に空しい期待をかけていますが、売りたい国ばかりで買いたい国がありません。とにかくどこの国のエリートも、世界貿易の時代はあらゆる点から見てもう終わったという、明らかな現実を直視しようとしないのです。
アメリカ型浪費型経済の終わり
交易は人類とともに古く未開社会にも存在しました。しかし「世界貿易」はアメリカの世紀と言われる20世紀においてだけ、アメリカとそのドルの比類ないグローバルな影響力と、豊富で水のように安い原油を条件として成立した、歴史的に特殊な現象です。そしてこうした条件は消え去りつつあります。アメリカとドルが凋落すれば、それに代わる基軸通貨やエネルギー資源などない以上、世界貿易というゲームは終了するしかない。
これは「経済成長」というアメリカ的な幻想が消滅したことの必然的な帰結です。では貿易そのものはどうなるのか。例えば日本は、もうカレー粉の原料をインドから輸入することさえできず、カレーライスは食べられなくなるのか。いや、そんなことはありません。世界はたんに、ニクソン声明以前の、ある意味ではまっとうな状態に戻るだけです。
そこでは経済は国家主権の下にある国民経済になり、貿易は国家的自給を補完する二次的なもの、つまり本来の常識的な貿易に回帰することになる。この過程を、レーガン政権以来のアメリカ主導の世界経済の、いわゆるグローバリゼーションに対して、ローカリゼーションと呼んでもいいでしょう。これによってアメリカの世紀は完全に終わります。それと共に世界貿易を前提に貿易立国でやってきた中国や韓国のような国は破綻するでしょう。
その点日本は、GDPの輸出依存度がせいぜい10%台の内需経済の国なので、相対的に恵まれています。各国の御用マスコミは、世界経済がグローバル化すれば南の貧しい国も奇跡のように豊かになると宣伝してきましたが、今後のアメリカはインドのような貧しく荒廃した国になるでしょう。現にアメリカ国民の貧富の差はエジプトやイエメンより大きいのです。そして言うまでもなく、アメリカの世紀の終わりは、アメリカ的な資源浪費型生活様式の終わりでもあります。
現代経済は市場経済というのはデマ
次は、「現代の経済は市場経済」というのはデマだという問題です。旧ソ連が崩壊したとき、西側のエリートは「これは、国家に統制された指令経済に対する市場経済の勝利だ」と喧伝しました。ところが現在、市場原理の模範とされたアメリカを震源地として世界恐慌が発生しています。だから市場原理というものに問題があるのでは、と考える人たちが増えています。しかし旧ソ連の崩壊を見てきた以上、指令経済を肯定する気にもなれない。そのために経済の自由で公正な在り方ということをどう考えたらいいのか、途方に暮れている人が多い。しかし実は、指令経済か市場経済かというのは、偽のジレンマであり存在しない問題なのです。というのも現代の経済は全然市場経済ではないからです。
現代は銀行独占経済
世界の現状を見てみれば、市場経済などどこにも存在していないことは小学生でも分かるはずです。バブル破裂当時の日本でも、今のアメリカやヨーロッパでも、政府は無茶なギャンブルをやって破産した大銀行を納税者の公金で助けています。経済をギャンブルで破綻させて、世間にとんでもない迷惑をかけた張本人の大銀行が、その被害者に助けてもらうとは、前代未聞のスキャンダルです。そして市場経済なら、事業に失敗した企業は、法的に清算されて消滅するのがルールなのではありませんか。だから、倒産という厳しく苦い現実があるのではありませんか。ところが大銀行にかぎって、悪事をはたらいて破産しても、政府がかばってくれて、破産のツケを一般の人々に回せるのです。こんな市場経済がどこにありますか。
現代経済は、市場経済ではなくて、銀行による独占経済なのです。市場経済に不可欠な潤滑油である通貨の発行権を、銀行が独占している経済なのです。銀行マネーはどういうものでどんな問題があるかは、すでにインターネットで公開されている私の講演「生きるための経済」で説明してあるので、ここでは繰り返しません。
公益事業としての通貨発行を独占している銀行
通貨が過不足なく出回っていて、商品とサービスの交換が円滑に行われることなしには、市場経済は成立しません。その意味では、通貨の流通は市場経済にとって空気や水のように不可欠な、一種のインフラだといえるでしょう。してみれば銀行が通貨の発行権を独占している経済は、私企業が空気や水を独占的に販売していて、貧乏人は空気も吸えず水も飲めないで死んでしまう経済のようなものです。本来、経済のインフラとして、公益事業としてあるべき通貨の発行を、私企業にすぎない銀行がやっていて、その経営がおかしくなると誰にもカネを貸さなくなり経済は餓死する、ないし潤滑油がなくなってエンストする。それが現在の世界恐慌の原因なのです。
インフラ通貨から金融商品通貨への変容
通貨は市場経済のインフラということの実例は、第二次大戦後の世界経済です。この戦争に無傷のまま勝利し、比類ない超大国になったアメリカは、安定した世界市場を作り出すことを意図してブレトン=ウッズ体制を構築しました。この体制の下では金の価格は1オンス35ドルと定められ、例えば日本にとって1ドルは360円というように西側諸国の為替相場は、このアメリカが保有する金に裏付けられたドルの価値を尺度にして固定されました。
この場合、アメリカはドルを、商品の交換が円滑に行われる世界市場を成立させるための、一種のインフラ的通貨にしたわけです。もちろんこの体制は、貿易によるアメリカ企業の繁栄を狙って構築されたものではありましたが、通貨はあくまで交換のための手段でした。
ところが先述のニクソン声明によって、ドルは金の裏づけを失い、ドルをはじめとする各国の通貨は資本市場の信認によってその価値が決まり、それが絶えず上下する変動相場制に移行しました。通貨はたんなる交換手段ではなくなり、それ自体が商品に変わった訳です。こうして為替相場とか円高といった言葉が生まれました。そしてこれをきっかけに世界経済は金融化・虚業化しはじめ、その長期的な結果として今の世界恐慌が発生しました。
いわゆるグローバリゼーションなるものが意味しているのは、世界貿易の発展などではなく、経済の金融化・銀行化なのです。それは、産業が衰退したアメリカが、残された唯一の競争力のある商品であるドルを梃子に生きのびようとする戦略から生じたものです。そして、目下、そのドルの地位がどんどん下落しているのです。
マルクスの資本主義論の間違い
この戦後の世界経済の歴史を振り返ると、マルクスの資本主義論が間違っていることがよく分かります。マルクスにとって資本主義の要は、生産手段の私的所有と労働力の商品化です。しかし、私有財産とそれに基づく社会契約は特殊に資本主義的なものではなく、むしろ普遍的な文明化の原理というべきものです。
マルクスの議論を鵜呑みにして、そこらの食堂や商店まで国営にしてしまった共産圏の実情がどんなものであったかは、今更、説明する必要はないでしょう。そして、資本主義の根本的不条理は労働力の商品化ではなく、資本の商品化 ―― 利子が付くことで貨幣が商品になり、それによって経済が動いていることなのです。そして、この資本の商品化は銀行が独占しているビジネスであり、国家が公認している銀行券以外の通貨をつくる者は偽札を製造した罪で厳重に処罰されます。
しかし、交換手段としての通貨はいわば社会資本なのであって、商品化されてはならないのです。通貨は市場経済のインフラなのだから、国民経済の規模に見合った通貨を過不足なく流通させることは、国の公益事業であるべきなのです。これは自治体の水道局が公益事業として家庭や企業に水を供給していることと同じです。ですから、恐慌や激しい景気変動のない、安定した自由で公正な経済を実現するためには、銀行券を国が管理する公共通貨ないし政府通貨に置き換える必要があります。もちろん、通貨の発行=信用の社会化は、企業間の規律ある競争を排除するものではありません。
議会制と政党政治化では党派マネーになる政府通貨の問題
ところがここで、二つの問題が出てきます。
まず第一に、現在の議会制と政党政治という国政の枠組みの下では、政府通貨は選挙に勝って与党になった政党の党派マネーになってしまうでしょう。それはその党の票田を優遇する徹底的な利権バラマキ政治の道具になり、ひどいインフレが発生するでしょう。ゆえに議会制民主主義と称している体制が存続するかぎり、公共通貨の発行は不可能です。
ただ、私の見るところでは、世界に唯一その気になれば政府通貨を発行できる国があります。それはスイス連邦です。スイス人はたとえ議会にでも権力が集中することを警戒します。そのためスイスでは、様々な形で議会の権力は相対化され、抑制されています。
例えば政府の構成では、選挙結果がどうであれ、すべての主要政党が入閣することになっていて、与野党の区別がなく、議会が政党間の政権争奪戦の場になることが予防されています。大統領や議会の長老は持ち回りで就任する名誉職であり、カリスマになる恐れはありません。そして、カントン(邦)の自治や、国民投票による直接民主主義によっても議会の権力は相対化されています。スイス連邦は中央集権の要素が全くない、自治体連合として成立している国と言えるでしょう。
こういう体制なら、政府通貨を発行してもそれが党派マネーになってしまう恐れはありません。もっとも、スイス・フランの高騰という悩み以外には経済的に安定している国なので、今のスイスにそうした動きはありませんが。それゆえに、日本の国家体制をスイス型の自治体連合国家に近いものに変えれば、公共通貨の発行は可能になるというのが現在の私の見解です。
民間需要に社会信用論はどう対処するか
それから第二の問題は、信用が社会化された世界で、民間の資金需要にどう対処するのかという問題です。自治体連合国家において、国家予算自体が市民の参加によって民主的に編成されるという、理想的な状況を仮定しましょう。その場合、信用が社会化されている以上、企業への融資も市民の承認が必要になる。だから、資金は、市民生活に深く関わっている企業に、優先的に融資されることになるでしょう。そこまではいい。だが問題が出てきます。例えば全く新しいタイプの事業を起こそうとする人、あるいは少数の人にしか価値が分からない学術書を出版しようとする人への融資はどうなるのか。こういう融資を大多数の市民が承認してくれるでしょうか。市民が容易に承認するのは、最大公約数的な資金需要にかぎられるでしょう。これは、かつて自由主義者のJ・S・ミルが論じた、「多数者の専制」という問題です。つまりデモクラシーを徹底すると、それが全体主義にひっくり返ってしまうという問題です。
しかし実はこの問題は存在しません。銀行マネーが問題なのは、銀行がそれを私的に無から信用として創造して、利子付き負債として販売することにあります。様々な民間の資金需要を充たす民間の金融業が存在することは、何ら問題ではないのです。資金を貸したい人と借りたい人を仲介して、その手数料で営業している金融業なら、銀行のように「金が金を生む」トリックをやっている訳ではありません。そういう業者は、すでに流通している通貨量の枠内で通貨の使い手を変更しているだけなので、銀行による信用の創造のように経済を撹乱する恐れはありません。ただ、融資の際に利子を付けると銀行に似てくるので、仲介の手数料だけで営業してもらう必要があります。そうなると、利子をとらないイスラム銀行の例が有る程度まで参考になりそうです。その場合、業者は利子をとらない代わりに、融資した事業が成功したら、その収益を融資先と折半ということがあってもいいでしょう。そういう利得が許されているなら、業者は様々な事業に積極的に融資するでしょう。
イスラム銀行に学ぶ
ただ庶民はこういうイスラム風銀行に預金しても、それには利子は付きません。では銀行は資金集めに苦労するのではないか。そうでしょうか。今でも、庶民が預ける程度の額の預金に付く利子など、ATMの使用料にもなりません。銀行は、自分が借りるときには徹底的にケチなのです。そして大部分の人は預金に付く利子など当てにせず、支払いの便宜などから銀行を金庫代わりに使っているだけでしょう。ですから、イスラム風銀行が、とくに資金集めに困るということはないはずです。
公共通貨とベーシックインカムの相互関係
そして最後に、ベーシック・インカムは公共通貨によってしか実現できないし、また経済の安定と均衡という点では、公共通貨の最も有効な使い方であることを強調しておきたいと思います。というのも、全世界的に近代の租税国家は崩壊しつつあり、どこでも緊縮財政が経済をさらに収縮させている現状では、税収を財源にしたベーシック・インカムは逆立ちしても不可能だからです。ギリシャやイタリア、スペインをはじめとする各国の財政破綻の原因は、やはり銀行マネーです。ドルが金の裏づけを失って以来、各国の国債が先進諸国の大銀行にとって最大の金融資産になりました。そのせいで現在、そういうメガバンクのマネーゲームが原因の破綻が、直ちに租税国家の崩壊を惹き起こしている訳です。目下の世界恐慌は、国際金融資本のもはや回復不可能な破綻と、工業経済の唯一のエネルギー源である原油の生産が先細りという、二重の危機が重なって発生しています。ですからこの恐慌を打開するには、結局、国家体制を全面的に転換させて、銀行マネーを社会的に管理される公的信用に置き換えるしかありません。そのような利子と負債から解放された経済は、エネルギー不足でゼロないしマイナス成長になっても安定と均衡を保つことができるでしょうし、銀行に負債を利子付きで返済するために、やむを得ず資源を浪費し、環境を破壊する必要もなくなるでしょう。ただし信用の社会化がその効果を最大限に発揮するには条件があり、それは政府通貨がベーシック・インカムを保証するために使われることです。
第2部終了