仮アップ・関曠野さん講演録「戦後日本とは何だったのか ~通貨システムの改革が日本の未来を切り開く~」

38回長野県有機農業研究会大会 講演 

「戦後日本とは何だったのか ~通貨システムの改革が日本の未来を切り開く~」

 

 

関 曠野 さん

 

 

この講演録は、2018年3月3日に長野県塩尻市総合文化センターで開催された第38回長野県有機農研究大会・基調講演の記録を関さんに加筆・補足していただいたものです。

 

ただいま、藤澤さんと津村さんから紹介にあずかりました関です。壇上から失礼します。私はかねてから、地方で有機農業をやっておられる方々は地味な形で日本の未来を切り開いている人たちだと思っています。この点で今回、長野県有機農研の大会に講師として呼ばれましたことを大変光栄に思っております。ただ、時間的制約がありますので、皆さんにお渡ししたレジュメの内容を全部事細かに話せなくて、場合によっては枝葉の部分は飛ばすかもしれません。

 

戦後国家の完全な行き詰まり

 

早速始めます。とにかく、今の日本は、高度経済成長を前提に設計された戦後国家が完全に行き詰っている状態と思わざるを得ません。これでも世界的には日本はまだのうのうと暮らしていける国ではありますけれど、将来が見えない、若者に希望がない。その行き詰まりは、年金制度の破綻ひとつ見てもはっきりしています。しかも、成長の余地がもうないのに成長に固執している。そのことが問題をさらに深刻にしています。たとえば高度成長期に生まれた学歴競争社会は今は若者を進学ローンで苦しめ、金がかかる教育は急速な少子化の一因にもなっています。

 

薩長クーデターがつくった中央集権国家

 

この問題からまず切り口として入りたいのですが、戦後日本はアメリカによる敗戦と占領で生まれた国です。ではアメリカに敗れた日本帝国とはどんな国だったのか。有機農研と直接関係のない話ですけれども、それもちょっと考えてみると、薩長が維新と称したものは関ヶ原の敗者が徳川に報復したクーデターだと思います。この維新によるいわゆる王政復古とその後の薩長による日本全土の軍事占領によって生まれたのが明治国家、大日本帝国です。

では、薩長藩閥がつくった明治国家はいかなる国家だったのかというと、薩長は日本の歴史の巻き戻しをやったと思うのです。ご存じのように、日本は古代、帝政中国から律令体制という中央集権国家体制を導入しました。ところが、これは全然日本の国情に合わなかったので、どんどん解体していって、最後は江戸時代の幕藩体制になった。そういう意味では、日本社会の体質は自治と分権なのです。私に言わせると、日本はかなりスイス連邦に似た国なのです。中央集権には向かない国なのです。それが明治以来、日本の国柄、伝統、歴史に合わない中央集権国家をつくってきた。

 

戦後アメリカナイズの限界と脱アメリカナイズ

 

しかも、敗戦にもかかわらず、明治国家の骨格は生き残りました。どういう形で生き残ったかというと、アメリカナイズという形で生き延びてきた。明治国家がアメリカナイズを新たな戦略とすることで生き延びてきた。それが今の日本です。そして今、アメリカナイズの限界があらゆる点で出てきている。その象徴がアメリカ製の福島原発の事故です。そういう点では今後の日本は、否応なしに脱アメリカに向かうでしょう。脱アメリカナイズの過程で、同時にそれを戦略にしてきた明治国家の遺産も解体される。これが現在の私の見通しです。

ただし、脱アメリカナイズといいましても反米愛国みたいなことを言いたいわけではありません。アメリカ自身がもう世界の警察官を辞める、覇権の座を降りると言っています。だから、否応なしに日本人はポストアメリカの状況に対処していかなければいけない。このことを指摘したいだけです。脱アメリカナイズの一つの目標というか課題は、明治維新によって断ち切られた日本の自治と分権の伝統の復活、再生であろう。その兆候はすでに、社会の底流としてあると私は見ています。

 

アメリカは経済成長が宗教的救済となる国家

 

それでは、日本を負かしたアメリカとはどんな国だったのか。われわれはこのこともあらためて考えなければいけない。アメリカという国は、17世紀に宗教戦争の余波で、迫害された英国のピューリタンが新大陸アメリカに移住して建国した国です。そういう歴史があるので、ピューリタンにとっては、新大陸アメリカを開発して経済を発展させることが信仰の証明になった。経済発展が、宗教的な祝福や救済の意味を持つようになった。これがアメリカという国の一大特徴だと思います。この点では例えば、江戸時代の徳川幕府は世界的にも類を見ないような超保守主義の政権で、新奇なものは目の敵にしていました。にもかかわらず、ご存じのように江戸時代は、日本の経済と文化が飛躍的に発展した時代でした。だから、経済というのは、必要があれば自ずと発展するものなのです。そのことと、経済発展を至上の価値にする、宗教的価値にすることは、全然別のことです。このことははっきり銘記する必要があると思います。

 

テクノロジーカルトがアメリカ文明の特徴

 

そのアメリカですが、ペリーの黒船が来た頃は、まだ新興の小国に過ぎなかった。それが第一次大戦への参戦で一挙に超大国になり、さらに第二次大戦で覇権国になった。じゃあ、第一次大戦の歴史的な意義は何だったのでしょうか。まず言えるのが、ヨーロッパは第一次大戦で、近代の科学技術が戦争に使われたらどんな悲惨な事態が起きるかを体験してショックを受けました。そういう意味ではヨーロッパではある程度、「科学技術による進歩」信仰が揺らいだ。ところが、アメリカは大戦に参戦して一挙に超大国になったわけで、ヨーロッパとは逆にテクノロジー・カルトが生まれた。これがとりわけアメリカの特徴になっています。テクノロジーで物質的なことだけじゃなくて、精神的な問題とか、文化的な問題も全部解決できるというようなテクノロジー・カルトが現代アメリカ文明の特徴です。

 

石油と金融がアメリカ覇権の土台

 

それから、大戦中に潜水艦、戦車、航空戦力といった新しい兵器が登場しました。これはどれも石油で動くものでした。そういう点で第一次大戦は、工業文明のエネルギー源が石炭から石油に変わる決定的な転換点になりました。そして大戦中に開発された軍事技術が戦後は民間転用されて、それが20世紀の消費文明の土台になりました。一例を挙げると冷蔵庫とか、マイカーの普及も第一次大戦後だし、あと、航空旅行もやはり大戦中の軍事技術の民間転用という面があるわけです。

それから、アメリカは大戦への参戦によって、それまでの債務国から一挙に債権国に変わり、金融大国になりました。ドル箱という言葉が生まれるような状態。さらにアメリカは大戦の戦費調達のために戦時国債を発行して、国民に大宣伝をやって買わせた。これをきっかけにアメリカ人は、庶民も株を買うようになった。これもまたアメリカの特徴です。

こうした点で私は、19世紀の英国の石炭資本主義と、20世紀のアメリカの石油資本主義を区別しています。石炭は人間が重労働をして、地下から掘り出して、運送だって大変です。ところが、石油の場合は油田を掘り当てれば自噴してくるし、輸送もパイプラインで簡単です。石油の場合はむしろ、効率のいい膨大な石油のエネルギーをどう使い切るかが課題になる。その点で英国の石炭資本主義は、人間の勤勉さや勤倹貯蓄の美徳を強調した。それに対してアメリカの石油資本主義は、消費の快楽を宣伝したという違いがあると思います。そういう意味で、石油と金融の二つが、超大国アメリカの覇権の土台である。この二つからアメリカを分析できると考えています。

 

経済が原因の第二次世界大戦

 

しかし、第一次大戦で空前の繁栄を実現したアメリカも、30年代に大恐慌に見舞われます。大恐慌の原因については省きますけれども、簡単に言えば国民総ぐるみのマネーゲームの破綻です。大恐慌の結果、需要の不足と企業の過剰生産が深刻な問題になった。どの国もこの問題を輸出で解決しようとした。こうして貿易戦争、通貨戦争が本当の戦争に行き着きました。

ですから第二次大戦は基本的に経済が原因の戦争で、とくに完全雇用が国家の至上の課題とされていたことが戦争につながった、大戦はまた石油を巡る戦争でもあった。石油のない日本やドイツは、大英帝国型の資源と市場を国外に持つブロック経済圏をつくろうとして戦争を始めた。これに対して、大産油国であったアメリカは世界をブロックに分割することに反対し、日独を叩き潰して、グローバルな世界貿易体制をつくろうとしました。そして第二次大戦後、覇権国になったアメリカは新しいグローバルな世界貿易体制の構築に成功しました。それがブレトンウッズ体制といわれるものです。

 

ブレトンウッズ体制とは

 

これはどういうものかというと、金1オンスを35ドルに相場を固定する。このドルを基軸にして、世界各国の対ドル相場も固定する。そうすると各国通貨の相場が乱高下することがなくなって安定しますから、長期的で拡大する貿易が可能になる。それで世界貿易を発展させる。それがブレトンウッズ体制だったわけです。

アメリカはある程度貿易赤字をだすことで世界各国にドルをばらまく。このペーパードルの価値はアメリカが保有する金で裏付けられている。外国が輸出で稼いだドルはいつでもアメリカ連銀が保有する金と1オンス35ドルで交換しますよと言ってドルの価値を保証したわけです。あくまでドルと金の交換が体制の要でした。これによって世界貿易が飛躍的に発展しました。日本の経済成長も、結局はこのブレトンウッズ体制のおかげだったと言って間違いないと思います。

 

ニクソンショックの意味

 

ところが、1971年にいわゆるニクソンショックとなったニクソン声明が出てきます。ニクソンはこの声明で、ドルと金の交換を停止しました。なぜ、突如ドルと金の交換を停止したのか。私の見方では、アメリカの油田が枯渇し始めていたからです。油田が枯渇して、アメリカも今後、石油の輸入国になる。そうなったら、中東産油国が輸出で稼いだドルと金との交換を要求してきたら、アメリカの金庫はあっという間に空っぽになる。だから、アメリカとしてもドル、金の交換停止は、背に腹は代えられない措置だったと言えると思います。

このように20世紀は、石油がすべてを左右しています。このドルショックに引き続いて石油ショックが起きた。これはドルショックの副産物です。つまり、ドルショックによってドルが一気に減価しました。価値が下がった。そのためにドル建てで石油を輸出していた中東産油国は一挙に収入が減ったので、OPECという石油輸出カルテルをつくって、一斉に価格を釣り上げた。それが石油ショックということです。

 

 

石油とスタグフレーションの関係

 

その結果、歴史上初めてエネルギーという物理的現実が、経済に直接影響を及ぼすようになって、1970年代は不況なのにインフレになるスタグフレーションという経済史上、前例のない事態になりました。この原因は今申したように、エネルギー価格の高騰です。しかもこの頃から、ますます石油の産出量が頭打ちになり、減る傾向が出てきます。その結果、石油価格が80年代以降、高騰してきて、エネルギー価格の高騰が、結局は2008年のリーマンショックにつながったと言える。やっぱりこれも石油が原因なのです。

ただ、スタグフレーションは80年代には一応終わったのですが、これは別にレーガンやサッチャーの新自由主義の成果でもなんでもない。要するに、北海とノルウェー沖とアラスカ、メキシコでOPECの影響力が及ばない新油田が見つかったということに尽きる。その原因でスタグフレーションは終わった。エネルギー価格の異常高騰がやんだということです。

 

エネルギー収支の低下による石油文明の終焉

 

20世紀の産業社会の繁栄の土台は石油にあった。なぜ石油がそれほど決定的に文明を左右したのかというと、エネルギー収支の問題です。石油を採掘するとして、どれくらいのエネルギーを採掘に使うか。それによって、どれぐらいのエネルギーを入手できるか。このインプットとアウトプットの比が、エネルギー収支と言われるものです。どれだけのエネルギーの投下でどれだけのエネルギーが得られるか。これがエネルギー収支です。そして石油のエネルギー収支の途方もない良さが、20世紀の工業文明が繁栄した根本原因でした。このエネルギー収支が絶頂だったのが1930年代で、1対50ぐらいでした。それが現在、1対30以下になっています。どんどん落ちている。石油に代わる資源として騒がれているシェールオイルは1対5ぐらい。話にならないです。そういう意味では、客観的に石油文明は終焉に近づいている。これははっきり言えます。以上が石油の話です。

 

銀行経済と信用創造

 

今度は、アメリカが牛耳ってきた金融の話に移ります。金融とは要するに、銀行経済、銀行がお金を管理して取り仕切っている経済ということです。そしてアメリカは、いろいろな意味で現代の銀行経済を完成させた国です。

まず、世界各国には、日本銀行のような中央銀行があります。今でも中央銀行は、国家の銀行だと思っている人が多いですが、どこの国でも中央銀行は銀行業界のカルテルなのです。昔は銀行間の過当競争で共倒れやミニ恐慌や取り付け騒ぎがしょっちゅうあった。そういう危険を防ぐために銀行がカルテルを結成し、それが中央銀行という形をとっているわけです。だから、日銀もそういう銀行なので、国民のためではなく、銀行業界の利益に奉仕しています。

それから、銀行は預金者の預金を資金が必要な人に仲介しているだけと思っている人が多い。銀行は金庫番みたいなものと思っている人が多いですが、そうではない。銀行は融資するときに、お金を借りた人の負債のかたちで帳簿上に無からお金をつくりだしていて、それを社会に流している。銀行はお金の流れ、マネーフローをつくり出している。既にあるお金を右から左に渡しているのではない。銀行はお金を創造している。信用の創造といいます。このことが決定的な意味を持ちます。

それから、われわれがスーパーのレジで使うようなお札やコインは、通貨流通量全体の2、3%に過ぎません。実際の通貨流通量の90%以上は、銀行の融資とその返済で動いています。

さらに銀行には部分準備制度というものがあります。手持ち預金のだいたい7~8倍。10倍ぐらいのこともありますが、無から創造したお金を貸し出しています。それが儲けの根本になっている。手持ちの金を貸し出して手数料だけでは儲かりません。すべての預金者が一斉に預金を下ろしにくることはまずないから、こういう制度が成り立つ。ただ経済がどんどん拡大成長している場合には、この制度で通貨の供給が増えて社会にはプラスの効果をもちうる。だが経済が成長しない場合には、銀行は詐欺をやっていることになる。

 

資本の商品化と投資が銀行の仕事

 

銀行はどういう仕事をしているのでしょうか。銀行のやっていることは、硬い言葉で言えば、資本の商品化です。具体的に言うと、お金(資本)の使用権に利子という価格を付けて売っている。その結果、私企業のソロバン勘定で、通貨の供給が増えたり減ったりすることになる。景気がいいときはじゃんじゃん貸すが、ちょっとまずいなと思ったら、貸し渋りや貸しはがしで、一斉に通貨を経済から引き上げる。これが好況、不況の景気循環の最大原因なのです。銀行が一斉にお金を引き上げて、一挙に経済が落ち込む。そこから不運にもバブル崩壊期に社会に出た氷河期世代の悲劇も生じたのです。

そして銀行の社会的使命とは結局、資本を集中させて、それを投資することです。産業革命の時代の英国の産業資本家は、親類や知人からお金をかき集めて、それを資本に起業していました。だが銀行という制度があれば、資本の巨大な集中ができる。しかも、銀行が融資案件を審査して投資しますから、これが工業社会の劇的な発展を可能にした。銀行制度なしには、先進諸国の大規模な工業化はあり得ませんでした。

しかし、銀行マネーは返さなければいけない金で、利子付きの負債です。これでまず問題になってくるのは、銀行は金貸しだから債権者です。そして債権者の権利が絶対的なものにされています。だから、銀行から金を借りて何か商売を始めたけれども、不運にもやむを得ない事情で返済できなくなったというときも銀行は容赦しません。「そうか、そうか。支払えないならもうちょっと返済を待ってやろう」なんて言いません。担保物件の差し押さえということになる。債権者の権利が絶対的になっている。昔はそうでもなかったんです。古代中東なんかの例を見ると、債務者が返済できなくなったら帳消しとか延期、減免とかいろいろやっているのです。旧約聖書にも定期的な債務赦免の年 jubilee というのが出てきますね。近代の銀行制度になってから、債権者の権利が絶対的なものになった。

 

利子とGDPという問題

 

さらに利子という制度が、えらい問題なわけです。生産に関係ない余計なお金ですから、それを払わなければお金を借りられない。利子というのは何かというと、要するに金を貸してやる銀行の特権的報酬です。労働や才能に対する報酬ではない、特権に対する報酬。生産とは何の関係もない所有に対する報酬。だから景気が悪くなると利子がすぐに経済のブレーキになります。富の生産に関係なく絶対払わなければいけない金ですから。今の世界の景気がこの状態で、負債デフレです。利子と負債が経済のブレーキになって、経済が澱んだり、停滞したり、混乱したりしています。

この負債デフレの現状では日本でも欧米でも高度成長期は昔話にすぎません。しかしどの国も相変わらず経済成長がすべての価値観で動いています。経済成長はGDP(国内総生産)を尺度にして測られます。そしてGDPという言葉を聴かない日はありません。このGDPという経済統計は1930年代の恐慌下のアメリカでサイモン・クズネッツという経済学者が一国内の商取引の活発さを俯瞰するために工夫したものです。その際、彼は富の生産に貢献していないという理由で金融と広告宣伝業をGDP統計から除外しました。だが今は金融と広告も統計に入っています。それどころか英国ではドラッグと売春の推定取引額もGDPに入っている有様です。GDPが拡大しているように見せかけないと投資家が英国を見捨てるからです。

 

経済成長なしの通貨システム設計を

 

そしてこの経済成長至上社会を作り出している元凶は銀行です。というのも経済が倍々ゲームで拡大成長しなければ、利子という余計なものは払えないからです。ゼロ成長では銀行は死にます。だから銀行はリーマンショック以来。量的緩和やマイナス金利など、パンクしたタイヤに必死でポンプで空気を入れるようなことをやっています。しかし経済の現状はゼロ成長ならまだしも、銀行に対する膨大な負債も統計に入れればマイナス成長です。それでも「成長、成長」と騒がれる所以は、銀行経済においては経済が成長しないとお金が円滑に回らなくなり、人々の雇用と所得が危うくなるという厳しい現実があるからです。銀行マネー(利子付き負債)で経済がそれなりに動いたのは昔の話です。今日われわれは経済が成長しなくてもお金が円滑に流れるような通貨システムを設計する必要があるのです。

 

中央銀行と貨幣の二面性

 

ただし現代の銀行業界が中央銀行を頂点として組織され、中央銀行が国家と協調して通貨を管理する準国家的な存在になっていることには歴史的な意義があります。確かに中央銀行は私企業の銀行業界のカルテルに過ぎないと指摘できるのですが、一方では中央銀行は、社会的使命があるとされている。これはまったくの嘘とは言えない。つまり、単なる私企業と言い切れない面も持っている。というのは、どこの国でも中央銀行は、インフレを予防して通貨の価値を安定させることを公的な使命にしている。もう一つは完全雇用の実現。これも使命にしています。この二つを念頭に置いて通貨を管理することが、中央銀行の課題となっています。これは、まったくのおためごかしとは言えない。というのも、貨幣というもの自体に、ある種の二面性があるからです。中央銀行の二面性はそれを反映しています。

われわれは通常、貨幣とは商品やサービスを買う手段だと思っています。そのために貨幣というもののより根本的な役割を見逃してしまう。貨幣は商品を買う手段である前に、社会を組織する手段なのです。具体的に言うと、近代組織にはどんな組織でも収入と支出、予算と決算の会計簿があります。これは企業や国家だけの話ではない。小中学生の同好会から暴力団まで会計簿がない組織はありません。このように貨幣は、何よりも社会を組織する手段なのです。二次的に、商品やサービスを購入する手段になると言えるわけです。

近代社会の発展もこの貨幣の二面性を反映しています。市場経済のおかげでどんどん産業が発展していった。これは貨幣の商業的な側面です。だがそれに併行して組織する力としての貨幣が社会の在り方を作り変えていった。社会は会計の論理によってますますきっちりと組織されていく。低開発国が足踏みするのは、社会に会計の論理が完全に浸透していないからです。そういう国では賄賂や汚職が蔓延ります。

 

マネーは公共ソフトインフラ

 

このように社会が会計の論理できちんと組織化されてくると、貨幣は一種の社会のインフラになってきます。これはきわめて重要なことです。だから、近代社会は会計の論理によって組織され、お金の流れによって動いている、そういう社会ということになります。

そういう意味では、一国の通貨システムはインフラとみなしていいのではないか。インフラには、ハードインフラとソフトインフラがあります。ハードインフラは橋や道路、水道、鉄道 送電網、通信網などは物理的なインフラです。それに対してソフトインフラとは教育、医療、司法、金融などです。金融がソフトインフラとされるなら、一国の通貨システムはソフトインフラの最たるものといえる。一国の通貨システムは、文明社会の土台をなす基本的ソフトインフラとみなすべきではないか。それならば恐慌は大災害でハードインフラが崩壊した状態に喩えることもできるでしょう。ただ現代人はマネーとは自分の財布の中に入っている紙幣や硬貨のことだと思っていて、公共インフラとして考える習慣がないのです。

そこからまた、さっき言った中央銀行の二面性も出てくる。銀行業界のカルテルとしての中央銀行は商業の手段としての貨幣に関与し、富裕層が儲けた金を保全し利殖できるように通貨(お金の流れ)を管理します。だがその一方で、通貨の価値を安定させ完全雇用を実現させて社会の安定に寄与することも一応課題にしている。これは銀行業界が、通貨システムは公共ソフトインフラであることを暗黙のうちに認めたということです。

 

実体貨幣と機能貨幣

 

この貨幣の二面性ですが、これを私は実体貨幣と機能貨幣という形に分けています。これは私独自の分け方ですが、実体貨幣においては、貨幣それ自体に価値がある。要するに貨幣は財宝だという考え方です。ですから歴史上は金銀が実体貨幣を代表してきました。ここにおいては貨幣は、根本的には私的な利殖と蓄財の手段になる。実体貨幣の価値は結局、蓄財と利殖に奉仕することにあります。それに対して機能貨幣は、国家など共同体の経済を運営する手段である。そういう意味で、これはインフラとしての貨幣で、公共の利益に奉仕するものです。どの貨幣にもこの二つの要素があるのですが、現代では新自由主義の下で、実体貨幣の面がすべてになり、貨幣がインフラでもあることは無視されています。それが21世紀の現実ではないか。

機能貨幣の例を具体的に言うと、さっき説明したブレトンウッズ体制はある程度、機能貨幣の例といえるでしょう。ドルを基軸にした固定相場制で各国通貨は世界貿易発展のための安定した手段になる。こうしてニクソン声明までは、ドルは世界貿易を発展させるためのインフラとして機能していた。ただしドルの価値は金で保証され商業的な目的で使われたのだから、これは機能貨幣の完全な例とはいえません。しかしドルは「インフラであるかのように」使われたとは言えるでしょう。

ところがニクソン声明はドルと金の交換を停止し、ブレトンウッズ体制は変動相場制に移行します。アメリカが世界にばらまいたドルからインフラの要素がなくなり、ドルをはじめとする各国通貨は機能通貨から実体通貨に変質してしまった。通貨は経済運営の手段からたんなる金融資産になった。ドルや円、マルクはトヨタ、日産、ホンダの株と同じように絶えず相場が乱高下する金融資産になった。その結果1980年代以降のカジノ資本主義が生まれた。世界貿易にグローバルな金融ギャンブルが取って代わった。それがリーマンショックに行き着いた。ですから現代の課題は、通貨は文明社会の土台をなすソフトインフラという認識に立って 銀行マネー(利子付き負債)から経済を解放し、通貨システムをしっかりした公共インフラに作りなおすことです                                                                       

 

通貨改革提唱者、C.H.ダグラス 

 

こうした試みは通貨改革、monetary reformと呼ばれてきました。この通貨改革の提唱者としてもっとも有名なのは、20世紀はじめに社会信用論を創始した英国のクリフォード・ヒュー・ダグラスという人です。この人はもともと鉄道技師で、鉄道システムをモデルに通貨システムを考察しました。線路があるだけでは鉄道とはいえない。線路の上を列車が走ってこそ鉄道といえる。通貨も列車のように社会の中を流れ動いてこそ価値がある。われわれの財布の中の紙幣や硬貨は、お金の流れに乗るための切符みたいなものです。だからダグラスは紙幣や硬貨を切符に例えました。きっぷは乗客が目的地に着いたあとは捨てられます、通貨もそういうもので、実体があるものではなく機能があるだけです。生産と消費を媒介するという機能があるだけです。

 

国民(公共)通貨発行による通貨システムの再設計

 

この彼の議論を参考にして、どうしたら通貨を公共インフラとして構築することができるかを考えてみたいと思います。まず第一に、私企業の銀行がソロバン勘定だけで公共インフラの要素を持つ通貨を発行しているのは大問題です、私企業がお金の流れをつくり出して社会の在り方を事実上左右している。だが同じ私企業でも私鉄はソロバン勘定だけで動いてはいません。「今日は乗客が少ないから電車は出しません」などと言いません。客が1人でも定時運行をやります。鉄道は公共インフラである以上、私鉄には定時運行の責任があります。ところが銀行はそんなことは知ったことではない。不況だからといって銀行が一斉に融資を引き上げたら、倒産が増えて一家心中とか夜逃げとか悲劇が起きる。そんなことは知ったことではない、

こんなひどいことを放置しておいていいのでしょうか。やはり社会の土台である通貨というインフラを私企業の銀行が取り仕切っているのは、おかしいのです。これはいわば、空気が私企業のもので貧乏人は息ができずに窒息死するような社会です。

90年代にバブルで投機に走って破綻した銀行を政府は税金を投入して救済しました。その際の政府の言い分は要するに、通貨は公共インフラだから銀行の破綻は放置できないというものでした、ですから税金投入に際しては、私企業がソロバン勘定だけで重要なインフラを運営していていいのかという論争があってしかるべきでした。

そこでダグラスは、信用を社会化すべきだと主張します。私企業の銀行をなくし、国家の信用局が国民(公共)通貨を発行して、それを利子なしで経済社会に供給する。これは銀行の国有化ではないので注意してください。国有化したところで利子付き負債という銀行マネーの本性は変わりません。通貨システムのまるごとの再設計が課題なのです。

 

経済統計に基づく国民通貨発行

 

ではどういう再設計なのか。国家の信用局が国民通貨を発行することで、通貨の管理は国家の公益事業になり、私企業のソロバン勘定に攪乱されずに、通貨を資金が必要なところに満遍なく供給することがその課題になります。これと反対に、銀行の課題は社会を常に資金不足の状態にしておくことです。そうしてこそ借り手が増えて利子も高くできますから。だが信用局は、通貨が潤沢に社会全体に行き渡るようなお金の流れを作り出します。これは自治体の水道局がすべての必要なところに水が出るようにしているのと同じです

ただ、そんなことをしたら国家がやたらに通貨を発行して、暴走インフレになるではないかと心配されるかもしれません。しかし現代では統計の技術が高度に発達しています。昔は統計の技術が未発達でした。だからデタラメな金融より銀行のソロバン勘定の方がまだましで、経済秩序に規律をもたらすと思われた。しかし今日なら、かなり正確な経済統計が可能です。それによって国民が生産した富の総計を計算し、それを上限として通貨を発行すれば激しいインフレは起きないはずです。その場合、まず昨年の数値に即して通貨を発行する。そして今年の富の生産が昨年より多ければ経済はデフレ気味になり、少なければインフレ気味になる。これを指標として通貨の発行量を調整するということになるのではないか。これは電力会社が電力の消費量を絶えず監視しながら送電量を調整しているようなものです。

 

国民配当(ベーシックインカム)の支給

 

それから第二に、全国民に一律無条件に生涯にわたり一定のお金を支給する。これは世にベーシックインカムと言われているものですが、私は近年、ベーシックインカムという言葉を使わないようにしています。最近はダグラスに倣って、国民配当national dividendという言葉を使っています。現代の福祉国家は財政難の今でも年金や失業保険や生活保護などである程度の所得の保障をやっています。「基礎所得保障」(ベーシックインカム)というのは、あくまでこの福祉国家の発想から出てきた言葉です。だからセーフティーネットとみなされている。だが国民配当とベーシックインカムはかたちは同じでも理論的文脈においてまるで違うものです。国民配当は通貨改革の一環であり、通貨が公共インフラであることに理論的根拠をもっています。

国民配当は狙いは所得ではなく購買力を保障するために支給されます。この点がベーシックインカムと違うのです。例えば、月1万円の保障でも一応、所得保障をしたことにはなります。しかしそれでは、精々100円ショップにしか行けないでしょう。まともな購買力の保障となるとやはり、ある程度の金額が必要です。ベーシックインカムの場合、支給額の根拠は恣意的で曖昧なものです。最小限の生活費にはなるが労働意欲を削がない程度の額といったあやふやな議論になる。だが国民配当の場合は、どのくらいの額を支給すればそれなりの購買力の保障になるか、専門家が物価統計などのデータに基づいて議論し、根拠のある数字をはじき出すことができます。

そして国民配当はあくまで通貨改革の一環、通貨システムを公共インフラとして確立するための措置なのです。その意味で、国民通貨の発行とそれによる国民配当は、コインの表裏のように一体の政策です。

ところが世のベーシックインカム論は大抵その財源の問題で行き詰ってしまう。銀行経済と議会制の租税国家を前提にしているからです。だが通貨システムを再設計すれば、財源の問題は消えてしまいます。

 

 

 

 

 

通貨の発行と回収

 

発行された通貨は商品の売買に使われたあとは回収されねばならない。国家が通貨を発行するだけで回収しなかったら、経済は通貨の過剰で暴走インフレになってしまう。そして国民配当は、基本的に通貨回収のチャンネルなのです。

ダグラスの通貨改革の構想では、国民通貨を発行します。それを生産のための資金として企業に融資する一方、消費のための資金として全国民に配当を支給します。企業は融資された資金で生産し、それは流通部門で売られる商品の価格になります。そして国民が商品を買うと通貨は流通部門を経由して企業に行く。それで企業は融資してもらった資金を国に返済します。これで通貨は生産と消費を仲介したあとで、ぐるりと回って発行元の国に回収されるわけです。これは鉄道で乗客が目的地に着いたあと切符が回収されるのと同じです。国民配当というかたちで通貨回収のチャンネルを設けておけば国民通貨の発行が暴走インフレを惹き起こす恐れはありません。このように国家が自ら公益事業として通貨を発行する場合には、それと同時に国民に消費への権利を保障する必要があるのです。それで通貨システムは、生産と消費のサイクルを円滑に実現するソフトインフラになります。

 

 

国民配当は経済システムの安定のため 

 

 

国民配当が必要なもうひとつの理由は、通貨がインフラならばその流通にはインフラとしての安定性や信頼性、定常性が要求されるからです。銀行経済は本来きわめて不安定なものです。人々の所得(購買力)は雇用で決まり、雇用は個々の企業の都合で決まる。そして企業の経営は銀行のソロバン勘定で決まる。このように銀行経済は偶然に左右されていて不安定です。だから繁栄が一転して大恐慌になったりする。通貨を円滑に流通させ信頼できるインフラにするためには、こういう偶然の要素を排除する必要がある。偶然に委ねておくと、通貨の流れが歪んでしまう。これを水道に喩えると、ある場所では水が滞留して洪水になり、他の場所では水が来なくて炊事洗濯もできないような有様になる。流通が滞れば通貨は通貨として機能しなくなり価値を失う。そして経済は恐慌になります。だから通貨を安定したインフラにするためには、全国民に雇用に左右されない最小限の購買力を保障し、社会にお金を行き渡らせる必要があるのです。これは「平等の理念」といったことにはあまり関係はありません。システムの安定性は、むしろ工学的な問題だと思います。

ついでに言うと、国家が自ら通貨を発行するならば、税金は基本的に要らなくなります。現状では銀行が通貨発行権を横領しているから、国家運営のために別途徴税が必要になるのです。だから国民配当には財源の問題はありません。ただし資本転がし、土地転がしによる不労所得には懲罰的課税が必要です。これは富の生産とは無関係な巨額のマネーは、「バブル期の地上げ騒ぎのような」経済の攪乱要因になるからです。もっとも少子高齢化する今の日本では、土地はもう利権の源泉にはなりませんが。

 

東京一極集中という深刻な問題 

 

今の日本にはいろいろ問題がありますが、私から見ると一番深刻な問題は東京一極集中です。それによる地方の衰退。ご存じのように、増田レポートでは近い将来に800以上の地方自治体が消滅を予測されています。安い中国製雑貨の洪水で地方の中小企業が打撃を受けている、多少高くても質のいい国産品を買いたいと思っても、デフレのご時世で、スーパーで売っている雑貨は中国製ばかりです。その見返りで大企業は中国市場で日本車などを売れるが、地方の中小企業はたまったものではない。そして地方に職場がない高卒の女性が都会に出ていくので地方に女性がいなくなり、人口の再生産ができない自治体がどんどん増えている。歴史的に都市は死亡率が出生率より高い人口のブラックホールで、田舎からの人口の流入で存続しています。だから地方が死ねば東京もいずれ死ぬ。それに東京など世界の大都市は人口の異常な集中で水不足が深刻になるという予測もあります。

この東京一極集中も究極的には、お金の歪んだ流れ方が原因です。人の流れは金の流れに従います。金の流れがあるところには有効需要があり、雇用が生まれ、所得が生まれます。ましてや今のような不況の時代には銀行は商売柄、もっぱら富裕層相手に商売をするようになる。そうなると、ますますお金は、既にお金があるところにさらに集中する。しかも集中したお金は生産に投資されずマネーゲームに使われる。それでも東京ならばそれで儲けたおこぼれが少しは庶民にも回ってくる。地方は切り捨てられている。それが世界的にはグローバリゼーションであり、日本国内では東京一極集中という形をとっている。貨幣をインフラではなく純然たる利殖と蓄財の手段とみなすなら、当然そういうことになります。東京一極集中には政府も危機感を持っていろいろやっていますけれど、どの政策も焼け石に水です。

 

東京一極集中解決は通貨改革で

 

ですから東京一極集中を止めさせ地方を再生させるには、お金の流れを変えるしかありません。お金の流れを、東京への集中から地方への分散に逆転させるしかない。そうなると、やはり国民配当なしには、東京一極集中は止まりませんよ。逆に言うと国民通貨、国民配当が可能になれば、日本各地の地域経済の毛細血管の隅々にまでお金という血液が行き渡ることになり、自ずと地域経済は活性化します。お金があれば有効需要が生まれ、購買力が上がれば、市場が生まれ、企業活動が活発になり雇用が生まれる。これはものの道理です。ですから、通貨改革によってお金の流れを逆転させる以外に、東京一極集中と地方の衰退の問題は解決できません。

ここで戦後日本のアメリカナイズという問題にまた戻ります。戦後日本は果てしない経済成長の追求というアメリカの論理をやみくもに信奉してきました。目下の東京一極集中と地方の衰退は、この戦後日本が行き当たった袋小路です。この先に日本の未来はありません。未来は、脱アメリカナイズで古く良き日本の伝統、その魅力や活力を21世紀に相応しいかたちで甦らせることにあります。それによって地方を再生させ地域経済を繁栄させることにあります。そして脱アメリカナイズとは、これまで申し上げてきたように脱銀行であり、脱石油ということでもある。これは理想とかビジョンではなくて、ほとんど必然的なことではないか。日本の必然的な未来として受け止めるべきではないかと思います。

 

脱銀行の実例――― 藩札

 

脱銀行ということでは実は江戸時代に、さっき言った経済運営のための機能貨幣、もしくは公共通貨の素晴らしい実例があります。皆さんもたぶんご存じだと思いますが、各藩が発行していた藩札です。日本は17世紀に戦国の世が終わって天下泰平の江戸時代になり、いよいよ各地の地域経済が発展する時期を迎えた。ところが、当時の通貨といえば金属の金銀銅、金貨、銀貨です。これを正貨として鋳造する権利は幕府が独占していました。そのために各藩は、経済発展の時期を迎えているのに、通貨供給量が絶対的に不足していました。これから経済が発展する余地があるなら、まず通貨の流通を増やす必要がある。だが幕府には逆らえない。そこで苦し紛れと言えば苦し紛れなのですが、17世紀はじめに福井藩が史上初の藩札を発行しました。奇しくもこれは英国で最初の近代的銀行であるイングランド銀行が生まれたのと同時です。

藩札は先に説明したブレトンウッズ体制のドルに少し似ています。つまり各藩は農民から徴収した年貢の米を大坂市場に持って行って売って金銀の正貨に換える、そして「必要なら藩が保有する金銀と交換しますよ」という保証付きで紙幣を藩札として発行したのです。これはブレトンウッズ体制に似ている。こういうかたちで正貨を活用して通貨の流通量を何倍にも増やしたのです。忠臣蔵の家老の大石内蔵助が藩政立て直しのために相場より高い比率での交換を約束したといった挿話もあります。

日本では、銀行に比べると藩札は前近代的な通貨だ、みたいな偏見があるようですが、私は大成功した政策とみています。江戸時代の経済と文化の目覚ましい発展は、ほとんど藩札のおかげではないか。現に幕末には8割の藩が藩札を発行しており、明治になってからも流通し、しかもかなりいい相場で明治政府の通貨と交換されました。そういう形で藩は、金銀の正貨を財宝として死蔵しなかった。藩主が私有する財宝として扱わず、実体貨幣を藩経済の発展に役立つ機能貨幣に変えました。このように江戸時代の藩の武士は、公共に奉仕する精神をもった統治者でした。これはフランスの貴族や聖職者が収奪するばかりで革命で打倒されたのとは対照的です。

17世紀に英国では、貨幣は財宝という観念に基づいて個人的な利殖と蓄財に奉仕する銀行という制度が生まれた。だが日本では地域経済発展のための通貨が発行された。そこには藩の公共性という意識があった。そういう意味では、日本は公共インフラとしての通貨の素晴らしい先例をつくったと誇っていいと思います。現代人は藩札の歴史から学ぶことが多いのではないか。ちなみに信州では藩札が活発に利用されて、南信州では藩を越えて流通した例もあるようです。

 

スケールダウン・スローダウン・社会構造の単純化

 

それから、脱石油ということでは、20世紀は大都会、大企業など巨大で複雑な組織がやたらと増殖した世紀でした。これもやはり、石油のエネルギー効率のよさが可能にしたことです。今後、石油の供給が先細りになり、それと共に金融も先細るとすれば、巨大で複雑な組織の時代も終わるでしょう。

どういう流れになるかはある程度、予測可能だと思います。まず、組織は小規模化するだろう。スケールダウン。第二に、社会生活のテンポの減速、スローダウン。第三に社会構造の単純化、simplification。こういう傾向はもう社会の底流として出てきていると思います。それから、世界的に見ても、総合的に経済とか政治がうまくいっている国は、デンマーク、スイス、オランダなど、みんな小国です。小国のほうが国の運営がうまくいく。巨大国家はアメリカでも中国でも、統治も統合も困難な状態になっている。やはり、組織の規模が問題なのです。組織の小規模化が否応なしに現代の課題になっていると思います。

この三つが今後の流れになってくるだろう。ただし小国が望ましいとしても、もちろん、日本はそんな小国ではあり得ない。それなら日本という国を小国の連合体として組織する。つまり、連邦制です。現代版の幕藩体制です。連邦制が日本には理想的な国家形態でしょう。

 

「農」が社会の核に

 

石油など化石燃料をエネルギー源とする近代工業文明は終焉する方向に向かうだろう、そして石油文明が終われば、地域の農業が否応なしに社会の核になってくるだろう。人間は衣食住がなければ生きていけません。しかし農業というものは単なる産業の一部門ではない。第一次産業という言葉がありますが、農林漁業は産業というより生活様式、ライフスタイルなのです。ですから私は農業ではなく「農」という言葉を使っています。総合的な、文化的、社会的な要素を含めた営みを「農」と言っています。

  今後、農が社会の核になってくると言っても、これは江戸時代の農村社会に戻るということではありません。現代人は近代科学をいったんくぐっていて、その成果を活用できます。ですから農の復活は科学の成果を生かした産業の緑化、産業の土台が鉱物系から生命系に転換することを意味すると考えるべきでしょう。

 

林業の再生も

 

そういう産業の転換で私が一つ思うのは、農業だけでなく、やはり林業の再生も重要ではないか。戦前の日本では木炭がよく使われて、日本のエネルギー自給率は70%ぐらいあったのです。戦前は、林業は基幹産業でした。それが今は、林業で活気があった集落が限界集落になっている。日本は国土の7割が森林です。新しい視角での林業の再生を考えるべきと思います。森林は本来、生命科学の目で見れば、資源の宝庫なのではないか。問題は、そういう方向に投資が向かっていないことです。まだまだ石油でやっていけると思っているから。しかし、林業の再生は、国土保全ということを考えても、農の再生と同じぐらい重要ではないでしょうか。

 

日本文化は「野の文化」

 

私のかねてからの持論ですが、農業は産業の一分野ではない。agricultureという言葉は、ラテン語の原義に即して「野の文化」と訳すべきだと言ってきました。agricultureは直訳すれば「野の文化」と訳せます。有機農研の皆さんもそういう「野の文化」に参与している方々、「野の文化」としての農のさまざまな側面に包括的に関わっている方々であると思います。

さらに、ちょっと大風呂敷を広げますが、「野の文化」の再生を課題にすれば、これは同時に、戦後のアメリカナイズで歪んだ日本文明の再生にもつながるのではないかと思うのです。これは私の近年の持論ですけれど、日本文明の特徴はその深く農本的な性格にあると考えています。ヨーロッパ文明の原理は哲学のロゴスです。欧米人は、頭で世界を理解しようとする。世界を観念で捉えようとする。これに対して日本人は体を動かして、行いや営みを通して、世界を理解というよりは会得しようとします。頭だけではなく身体でも理解する。それが日本文明の古来の原理だったのではあるまいか。だから日本にはさまざまな「道」があります。仏教も明治以前は仏道といわれたので、仏教も道だったんです。

そういう営みの中でも、ひときわ重要だったのが農の営みであったのではないか。そういう意味では、例えば日本神話を見ても、太陽神の天照大御神をはじめとして、農がそこに深く影を落としていることは否定できません。また、例えば平安時代の国風文化ですね。平安貴族は最初は外来の唐の文化にかぶれ、その真似をして春になると梅を愛でていた。それが平安時代の間に愛でる対象が梅から桜に変わった。これは皆さんもご存じのように、春になると神が山から里に下りてきて「田植えの準備をしろ」と農民に合図をする。それが桜の開花だったんです。そして平安の貴族もそういう農的な感性を庶民と共有していたから桜を愛でるようになり、国風文化が誕生した。そういう意味では日本の野の文化は古来、天皇から庶民まですべての日本人が共有する文化だったのではないかと思います。

そしてこれも私の仮説ですが、日本独特のわびさびの美学も、農的な感性の産物ではないかと思っています。植物は勢いよく成長するだけが価値ではない。枯れて腐って、腐植土になって土地の養分になることも植物の価値だ、という農的な感性が、わびさびの美学の背景にあるのではないかと思いますが、どんなものでしょうか。

有機農研の方々は信濃の地で野の文化の再生に従事しておられます。野の文化と共に地方が再生し、そこから日本の未来が拓けてくるでしょう。

 

どうしたら通貨改革は実現するか

 

私のこれまでの話を聞かれて「じゃあ、いったいどうしたら国民通貨や国民配当という通貨改革が実現するのか」という疑問を持たれた方がいると思います。通貨システムというものは、あまりに重大な問題なので、誰か個人があれこれ考えて実現のシナリオがつくれるものではないです。とは言っても、全然見通しなしだったら無責任なことになりますので、私の個人的な見通しはこうだということでお話ししたいと思います。

まず、銀行経済はシステムですから、その部分的な変革は無理なのです。システムである以上、総取っ替えするしかない。「昔の左翼の破局待望論みたいなことを言うのか」と言われるかもしれませんが、部分的改革は無理なのです。例えば、経済成長という目標には多くの人が疑問を持っています。しかし銀行が経済を取り仕切っているかぎり、経済が成長しないと雇用も所得も福祉も保障されない。それでおかしいと思いながら経済成長至上主義に反論できない。

そして通貨改革党という政党をつくって、政権を取って改革ということも原則的に無理なのです。というのは、議会と政党の政治体制はあくまで銀行経済と租税国家を前提にした体制だからです。それにもし政権与党が政府通貨を発行したら、それは党エリートのための党派通貨になり今の中国みたいなことになってしまう。こうして政党による通貨改革は期待できない。もしどこかの政党がベーシックインカムなんて言い出したら、はっきり言ってそれは有権者を釣る撒き餌でしかありません。そのうえ昨今提起されているベーシックインカム政策はどれも危険なものです。財政難の福祉国家が社会保障費大幅削減の口実にベーシックインカムという美名を使っているようなものばかりです。繰り返しますが、肝心なのは通貨改革の一環としての国民配当なのです。国家を会社に喩えればベーシックインカムはその従業員の福祉手当です。これに対し国民配当はすべての国民を国家の株主にするものです。

 

銀行破産の果てに通貨改革が

 

皆さんはここまでの話で「結局通貨改革など絶望的じゃないか」と思うかもしれません。ところが実は私は大変楽天的なのです。というのは、銀行は自滅しています。リーマンショックのときに、銀行は事実上みんな破産しているのです。それをあの手この手で誤魔化しで平常運転しているように見せかけてきましたが、そのトリックがもう限界に来ています。皆さんもご存じでしょう、メガバンクの大リストラとか。銀行マネーは利子が問題だと言いましたが、実は今の銀行は利子で食えていない。手数料で食っている。そこまで追い詰められている。さらに客から預金預かり代を取るとか、せこいことを言い出している。それだけ本当に苦しくなっている。そういう意味では銀行は、遠からず営業停止状態に追い込まれると思います。どう考えても、今の銀行の危機を打開する手はもうありません。マイナス金利など打つ手は全部打って、この状態ですから。

そして営業停止状態になったら、社会生活は直ちに麻痺します。1930年代の大恐慌当時は先進国のアメリカでさえ社会は素朴で、国民の多くは自営農民や商店主でした。だから、倒産と失業の騒ぎで済んだ。ところが今の日本で銀行が営業を停止したら、一瞬にして日本全土が大津波に直撃されたみたいな状態になる。スーパーの棚はあっという間に空になり、水道、電気のライフラインも危うくなる。文明の崩壊みたいな状態になります。これは放っておけない。だからもし銀行が営業を停止した場合には、政府は社会の崩壊を防ぐために、即座に政府通貨を発行せざるを得ないでしょう。つまり政府は否応なく、通貨はインフラであることを認めざるをえなくなるのです。これは泥縄式の通貨改革です。しかしこの世では、重大なことに限って泥縄式で進行するものです。物事が青写真通りにきれいに実現するなんてことは滅多にないのです。

 

通貨改革・国民配当の世論を巻き起こす

 

どういう泥縄になるかは、私の個人予想ですが、とにかく緊急に政府通貨を発行して、銀行にそれを流す。それで社会生活を回すことになると思います。その際に、緊急事態で新しい紙幣のデザインなんてしている余裕はないから、日銀券をそのまま発行して、それにスタンプを押して政府通貨の印にする。それを供給という可能性が高いと見ています。

その場合、おそらく政府は、これは銀行が復活するまでのつなぎの臨時措置だと言うでしょう。だがもう銀行の復活はありえない。だから、そういう事態になったら、これを機会に国民通貨発行体制を確立すべきだ、そして国民配当を実現すべきだという世論を巻き起こす必要があります。

結局、通貨改革なしには経済が回っていかない状態になるのです。ですから私は楽天的です。結局、構造的必然性を持って、国民通貨と国民配当は実現せざるを得ない。どう考えたって、消去法でやっていくと、これしかもう打つ手が残っていないのです。

ただし、スムーズにめでたしめでたしで改革が進行するわけはない。マネーほど生臭いものはありません。通貨改革は混乱と紛争を伴いながら泥縄式に試行錯誤を重ねてじわじわ実現していくことになるでしょう。その際には、国民の多くが通貨システムについて理解していることが重要になります。通貨発行権は本来国家のものです。そして民主的な国家なら、通貨を公共インフラとして管理し、公益事業として通貨を発行することができる。だが現状では銀行が通貨発行権を横領している。そして通貨を純然たる私的な利殖と蓄財の手段として扱い、そのことが社会にどんな破壊的影響を及ぼしているかを考えない。こうした事実を少しでも多くの人に知ってもらう必要があります。

 

国民通貨発行の予算配分はどうするか

 

そこで国民通貨発行体制が実現したと想定します。そうなると日銀は国家信用局に置き換えられます。そして国民通貨が発行され無利子で社会に供給され、それで国民配当も支給される。これは技術的に容易なことです。問題はその先です。国家予算を編成し資金を配分するという現在財務省がやっていることをどうするか。ここがちょっと。私にもはっきり見当がついていない問題です。財務省はご存じのように、各方面からの予算要求をきいたうえでほとんど専断的に予算の編成をやっています。これは財務省が威張っているわけではない。どの官庁や自治体も少しでも多くの資金が欲しい。だから財務省の権限を尊重しその決定に従わないと、国政が混乱して収拾がつかなくなるからです。

これが国民通貨になったら、税収に制約されずに国家は通貨を発行できる。国債の発行で国家の銀行に対する負債が増えることもない。それで資金の配分を”民主的討論”で決めることにしたら、誰もが「もっと金を回せ」と言い出して国政は大混乱に陥る恐れがある。それをどうやって収拾してさまざまな要求を調整していくのか。私はこの問題について明解な答えを持っていません。ただ、人間の良識と常識で解決されるはずだというぐらいの楽天的な気持ちは持っています。例えばどこかの県でですよ。国民通貨が発行されるので気持ちが大きくなる。これまでのように地方債の発行で県の借金が増えることはないからと従来の3倍の予算を組むとします。その県は突然大金が転がり込んだので、遊び回って破滅する人間みたいになってしまうでしょう。県民が実際に生産した富を超える量の通貨が流通したら悪性のインフレが発生する。富は現実に生産されるものです。貨幣はあくまで富の符丁にすぎません。符丁が増えたから富が増えることはありえません。

 

デモクラシーの新たな試練としての通貨改革

 

上記のような危険があるので、公共通貨やベーシックインカムをやったら暴走インフレになると通貨改革に反対する人が前からいます。「銀行のソロバン勘定が経済の規律になっている。この規律をなくしたら、大衆はカネは天から降ってくるものと思いこんで、金遣いの荒いドラ息子みたいになってしまう」と言うのです。これは経済理論ではなく政治的信条の問題です。こういう人はデモクラシーを「すべての人の欲望をできるだけ充たせる体制」のことと解釈します。しかしデモクラシーの核心は欲望ではなく民衆の政治的学習能力にあります。デモクラシーとは民衆の学習能力を信頼し、それを育てようとする政治体制です。言論の自由、集会の自由といった自由をデモクラシーが重視するのも、民衆の学習能力を高めるためです。学習する民衆は絶えず試行錯誤しながら失敗から学ぶことができます。彼らは自称知的エリートによる指導を必要とせず、自分たちの社会を協力しあって統治することができます。デモクラシーは古代ギリシャ語の原義では「民衆による統治」を意味しています。

国民通貨発行体制がうまく機能するためにはそういう自治、民衆の賢明な自己統治が不可欠です。自治とは厳しいものです。それは民衆がお上に依存せず、自分たちをきちんと律していくことなのです。民衆にそういう自治能力がなければ、通貨を公共インフラとして民主的に管理することはできません。民衆の判断と選択が健全で賢明な学習するデモクラシーにおいては、先の例のようなデタラメな予算を組む県が出てきたりすることはないでしょう。国民通貨の配分という問題も、当初は紛糾しても、次第に問題を解決する制度が形成されていくでしょう。

私がダグラスの影響で通貨改革という問題を考え始めてから、もう20年近くになりますが、私の確信はますます深まっています。現代社会は、構造的必然として通貨システムを根本から改革せざるをえない。そうしないと紙幣はいずれ紙屑になって社会が解体してしまう。だが通貨システムを改革すれば人々は利子、負債。納税の義務という軛から解放されてマネーの奴隷ではなくなる。

生産の三要素は、資本・労働(人間)・土地(地球環境)ですが、資本主義とは資本が人間と土地を支配しているシステムのことです。通貨改革はこの状態を是正して、資本を人間と土地に従属させます。そして資本を否定するのではなく、人々の間に広く行き渡らせます。すべての人が生活するうえでの最小限の資金に困らないという意味での資本家になれば、資本の所有は特権ではなくなり、<資本主義>は消滅します。しかし人々が厳しく自分たちを律する習慣を身に着けないかぎり、この改革は実現しないでしょう。通貨改革はユートピアの夢ではなく、デモクラシーの新たな試練でもあることを最後に皆さんに訴えたいと思います。

 

 

 

 

 


関曠野さん、大阪・應典院講演「追記」

●  関曠野さんの大阪・應典院での講演の「追記」を仮アップいたします。この「追記」は講演録正式アップの時に掲載しようと思いましたが、内容の重要性から仮アップいたします。正式アップも近々いたしますので、もう少しお待ちください。(白崎)

 

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追記 -会場からの質問で考えたこと

関曠野(思想史)

 

 2016年の11月にはじめて大阪で講演をさせて頂きました。私の話を聴きに来てくださった関西の皆さんに改めて感謝申し上げます。さすが大阪というべきか、講演の後では会場から幾つも鋭く率直な質問があり、私もたいへん勉強になりました。そしてこの大阪での講演をきっかけに、今後は「政府通貨」と「ベーシックインカム」という言葉を止めて、その代わりに「国民通貨」および「(基本)国民配当」を使うことにしました。

 

その理由ですが、会場からの質問で、「政府通貨」と聞くと政府がある日号令を出して自分の預金や保険契約などがパーになるという過激なデノミのようなものをイメージする人が多いことが分かったからです。実際には、銀行券と国民通貨が共に流通する移行期間があるでしょう。しかしイメージだけが問題なのではない。私が安易に「政府通貨」という言葉を使ってきたことが、もともと問題だったのです。会場からのもうひとつの質問が、そのことを私に気付かせてくれました。それは「通貨は公共の利益のために超党派的かつ民主的に発行されるべきということは分かった。だがこれは、政府通貨とベーシックインカムは今後も実現できないということではないか」という質問でした。これは当然の疑問です。政府通貨ときけば、議会制国家の枠内で、政権与党が政権維持を目的に党派的に発行する通貨になってしまう。実際、今の自民党政権は経営危機の東電救済のために無利子で公金を融資しています。こういう悪質な党派的政府通貨はすでに実現しているのです。中国の人民元も一種の党派通貨でしょう。「政府通貨」という言葉がこうした党派通貨を容認するものと受け取られるようなら、この言葉は使うべきではありません。

 

このように議会と政党の国家体制は、通貨の公共的な発行と管理、それによるベーシックインカムの支給とは原理的に両立しえないのです。もともと議会制は銀行経済とそれを補完する租税国家を前提とし、徴収した税金に使途を審議するための制度です。だから議会からは、政権与党による党派通貨以上のものは出てきません。議会は銀行経済と一体である以上、脱銀行の通貨改革はできません。だからベーシックインカムも実現できません。租税国家には、全国民にまともなBIを支給できるほどの税収はないからです。それでも国家がBIの導入を検討すると言い出した場合は、それは福祉合理化が狙いです。今の経済危機の中で戦後の福祉国家は完全に破綻しています。だから財政難の国家としてはBIと引き換えに社会保障を全廃できれば大助かりです。今フィンランドが検討している案は、まさにそういうものです。

 

私は以前から通貨は議会や官庁から独立した国家信用局が経済統計を踏まえて発行することが望ましいと主張してきました。これは国民の国民による国民のための通貨です。だから「国民通貨」と呼ばれるべきです。そしてこの通貨の使途も公的民主的に協議され、社会の合意に基づいて決められる必要があります。さもなければ国民通貨とは言えません。だから通貨改革とBIを実現するには、やはり国家体制の転換が必要です。その場合、デモクラシーの老舗のスイス連邦がひとつのモデルになりうるでしょう。スイスでは議会の権力はカントンの自治権および国民投票制によって制約されています。そのうえその議会も、一定の得票があったすべての党は入閣するので、議会は世論が代表される場であり、与野党の政権争奪戦の場ではありません。こういう体制なら通貨の使途は厳しくチェックされ、国民通貨が党派通貨に堕する恐れはきわめて少ないでしょう。スイス連邦は議会制国家というよりカントン中心の地方自治体連合国家なのです。このことがスイスを経済的デモクラシーにも適した国にしています。

 

今日どこの国でも議会と政党の国家体制は崩壊の過程に入っています。議会政治は銀行経済を前提にしていて、銀行は果てしない経済成長なしには存続できない。だからゼロ成長で銀行が破綻した現在、議会政治は空回りするだけの茶番劇に堕しています。アメリカのトランプの当選は共和民主の二大政党制が死んだことを意味しています。また議会制発祥の地英国で、EU離脱という一大事が国民投票で決まったことの意義はどれほど強調されてもいい。また昨今EUで急伸している反EU反ヨーロ反移民の諸政党は政党のかたちをとってはいますが、議会に党員を送り込むことより自治体を押さえることを重視してきました。その結果。グローバリゼーションに切り捨てられた地方の庶民を代弁する勢力としてEUの政治を揺るがすに至っています。日本でも遠からず国政の焦点は、中央の国会から地方自治体に移っていくと私は見ています。日本でもローカリゼーションのうねりが生じるでしょう。そして通貨改革とBIがローカリゼーションの中心的な戦略になるでしょう。

 

 今私はベーシックインカムと言いましたが、今後はもうこれを使わず、代わりに「(基本)国民配当」というという言葉を使うつもりです。誰が「ベーシックインカム」を最初に使ったのか私は知らないのですが、この言葉には戦後の先進諸国のケインズ主義的福祉国家路線の匂いがします。だからフィンランドがやろうとしているような福祉合理化に、この言葉はよく馴染む。「所得」というのはエコノミストの用語で、ヘリコプターマネーを大衆にばらまいて有効需要を大量に創出という彼らの上からの発想にも馴染みます。それに「所得」というから、働いていないのになぜ所得があるのか、といった疑問異論を招きやすい。

 

ダグラスがBIと言わずに「国民配当」という言葉を使ったことには理由があります。彼の課題は福祉政策でもマクロ経済の管理でもなく、経済的デモクラシーの実現でした。そしてこのデモクラシーの根幹をなすのは、すべての国民の貨幣=購買力への権利です。ダグラスが言うように、富の生産は人類が車輪やバネを発明して以来蓄積してきた文明の遺産に依拠しています。だからすべての国民には文明の相続人として国民経済が許すかぎりの配当をもらう権利があります。資本の所有者にだけ株や債券といったかたちで特権的配当があって、庶民には雇用による所得があるだけという経済体制は、デモクラシーではなく近代的農奴制とでも呼ぶべきものでしょう。ですから一国の経済生活に参加しているすべての国民には一定の配当をもらう権利があるのです。これは道徳的理想や過激な政治的信条などではなくて、近代経済の現実に根差した国民の基本権です。この基本権を無視すれば、富の極度な偏在が円滑な経済循環を妨げ、1%のスーパーリッチと99%の一般国民に引き裂かれた経済社会は破滅に向かいます。このままでは遠からず銀行経済は全面停止状態に陥り、文明は崩壊します。その兆候はすでに出てきています。だから今こそ、すべての国民のお金への権利が承認されねばならない。われわれが必要としているのは、お上が恵んでくれる「所得」ではなく、配当への当然の権利なのです。

仮アップ 関曠野講演録 IN 應典院「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」(大阪)

 

2016年11月19日 於:大阪・應典院

 

「銀行は諸悪の根源 ― どうしたらおカネを『みんなのおカネ』にできるか」

講演者:関 曠野

 

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

 

主催:ベーシックインカム・実現を探る会、ベーシックインカム勉強会関西

 

 

 

 

「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」 

関曠野(思想史家)講演録 IN 應典院(大阪)

 

 

トランプパニックの意味

 

まず初めにアメリカでトランプが大統領に当選してしまったので世界的に大騒ぎになっていますね。柄の悪いドナルドダックみたいなおっさんが大統領になっちゃった。これは大変だというので、特にグローバリゼーションを推進してきた各国の体制エリートはパニック状態と言っていい。私自身はトランプの当選よりも彼の当選に対する世間の反応の方が気になります。

人間としてはトランプよりも前のブッシュの方がよっぽどでたらめだと思うんですよ。

しかしブッシュが当選した時にはパニックは起きなかった。なぜトランプの当選でこんなに世間が大騒ぎになっているのか。これはやはりね、トランプ自身の人物評価はどうであれ、トランプが当選したことの意味を世間が薄々解っているからだと思います。アメリカが主導してきた戦後の豊かな工業社会が終わろうとしている。いや、終わるというか崩壊しようとしている。その予感があって、トランプがその予感を象徴している。それだから世間がこういうパニック状態になっているのだと思うんです。けっしてこれはトランプという人間の素質の問題ではないと思います。

そういう意味で戦後が終わり新しい世界が始まろうとしている。その不安が今の世界を支配している。明らかに2017年以後世界はがらりと変わるだろうと思います。今の戦後の世界秩序がどのようにして生まれ、今後どのように変わっていくか、それが今回の講演のテーマですが、ともかく豊かな社会が成長の限界にぶつかって否応なしに終わらざるを得ない。これはトランプだろうがヒラリーだろうが安倍政権がいつまで続こうが、関係ない。終わらざるを得ないということですね。

 

自由貿易と軍事的覇権をやめる

 

そしてトランプ自身、まさに時代を反映した大変リアルなことを言っている。つまり自由貿易を止めると言っている。20世紀は戦争と革命の世紀といわれますが、これは皮相な見解です。この世紀は貿易の世紀でした。だが世界を動かしてきた自由貿易が終わろうとしている。これからのアメリカは保護主義、一国至上主義で行くとはっきり言っている。このトランプ原則はぶれないだろうと思います。それと自由貿易主義とワンセットになっていた同盟国の安全保障体制も見直し、同盟国に負担を要求するという。こういう形でアメリカはもう軍事的覇権を求めず、世界の警察官をやめると言っている。

この自由貿易とアメリカの軍事的覇権が戦後のいわゆるパックス・アメリカーナ、「アメリカの平和」の二本柱だった。2大原則だった。ところがこのアメリカ帝国をもうやめると言ってるわけです。これは大変なことです。驚天動地の変化といっていい。だからこそマスコミはこの問題を論評しないで、トランプが女性に失礼なことをしたとか、そういうことばかり騒いで、話をすり替えようとしています。トランプは確かに飲み屋で気炎を上げているような感じのおっさんですけれど、原則は原則でものすごくはっきりしている人です。それをマスコミは徹底的に無視している、それが庶民の怒りを買って彼の当選になったんではないだろうか。

 

右翼左翼図式からグローバルVSローカル図式へ

 

何はともあれトランプの人物評価は別にして、歴史的な転換が不可避に起きようとしています。私の言葉で言いますと、グローバリゼーションが終わってローカリゼーションの時代が始まろうとしている。世界を単一の市場として統合しようとするグローバリゼーションの動きが終わって、これからは国民経済が復活する、さらに国民経済の中でも地域経済が復活する。そういう時代が始まろうとしている。また我々自身が積極的にそういう時代の転換を促進しなければいけないと考えています。

それからもう一つ、トランプの当選がはっきり示したことがあります。右翼左翼という従来の政治パターンではまったく理解できない時代が始まりました。これは非常に重要です。トランプ当選は彼の勝利というより、ヒラリーと民主党の敗北という要素の方が強かったと言えるでしょう。トランプはそんなに評価しないけれども、ヒラリーと民主党はもっと嫌だという庶民の空気があったようです。その結果、アメリカでは民主党が代表する左翼、それからトランプを露骨に誹謗中傷したマスコミが信任を失った、失権したと私は思っています。これまで左翼とマスコミは「我々は人民の利益を代表している」と称してきた。それが庶民の信任を失った。おそらく今後左翼とマスコミは消滅に向かっていくでしょう。だからと言って右翼の時代が来るわけではありません。さっき言ったようにグローバルかローカルかが現代政治の焦点になってきています。これからはローカリゼーション、ローカリズムの時代が始まるということです。

 

なぜ、左翼は失権したか

 

では左翼はなぜ失権したのか。1960年代にマーティン・ルーサー・キング牧師がアメリカの公民権運動を指導したことはご存知と思います。最後は暗殺されましたが。彼はなぜ黒人はいつまでも低い地位に留まっているのかという問題を考え抜きました。そして黒人には貧困な母子家庭が多い。その貧困な母子家庭が黒人の貧困を再生産しているという結論に達したんです。それで黒人の解放に本当に必要なのはそういう貧困な母子家庭を消滅させるベーシックインカム(以下BI)だと考えるようになった。これが彼らのいわば遺言だったと言えます。BIによる黒人の解放。特に女性の解放、母子家庭の貧困の解消。

ところがですね、アメリカ民主党はこのキング牧師の提言を全く無視しました。とにかく経済成長主義だったわけです。これからの経済はグローバル化で成長するということで、結局財界の別動隊となってグローバリゼーションの片棒を担いできたのがアメリカやヨーロッパの左翼です。ま、日本も似たようなもんだと思いますけれど。この財界協調路線がグローバリズムで痛めつけられた庶民の怒りを買った。経済成長主義ということでは左翼も右翼もない。左翼は実はエリートとグルなんじゃないかと庶民は疑い始めた。そうはいっても左翼っていうのは一応社会正義を代弁しているような顔をしなくちゃいけない。そこでアメリカ民主党に代表される左翼は、富と権力の公正な分配という問題を差別問題にすり替えたんです。富と権力の不公正な分配に対する抗議を差別の糾弾にすり替えたのです。それであちこちで差別現象と称されるものをほじくりだして騒ぎ立て、それで社会正義の代表者みたいな顔をする。それも言うにこと欠いてハリウッドで黒人俳優がオスカーをもらえないのは差別だとか、そんなことを言ってる。それにアメリカの庶民の堪忍袋の緒が切れたということがあると思います。

 

壊し屋、トランプ

 

だからトランプという人物自体は私はあまり問題にする気はないんです。アメリカの大統領というのはかなりマスコットの要素があってそんなに実権を持っているわけじゃない。ただ一つ違うのはブッシュでもクリントンでもオバマでも結局はアメリカのいわゆるディープステイトと言われる本当の奥の院の支配層のいうことを代弁しているだけでした。トランプはアメリカ帝国を壊そうとしている。これはやはりこれまでとは違うんじゃないか。ホワイトハウスの招き猫では済まないのではないか。そういう意味では人間のタイプは全く違うけれど、トランプはちょっとゴルバチョフに似た役割を果たすかもしれない。つまりトップダウンで体制を壊す。そういう人間になる可能性がある。それは別に革命思想を持っているということではなく、庶民層の怒りを代弁をしている限りにおいて、またアメリカ社会の停滞と混乱を何とかしなければと思っている一般のアメリカ人の気持ちを代弁している限りにおいて、トップダウンで体制を壊す人間が登場した。そういう見方もできると思います。 ただしトランプの任期中にアメリカ経済は連銀の誤魔化しに限界がきて最終的に崩壊する可能性がある。これは誰が大統領やったって打つ手がない問題ですが、それが全部トランプの無能のせいにされる、そういうスケープゴートにされる危険もありますね。その時になって「大統領なんてヒラリーにやらせておけばよかった」と後悔するかもしれません。

 

アウトサイダーのトランプ

 

トランプは何をやるかわからない危険人物のように思われていますけれど、私にいわせれば彼は大変わかりやすい単純な人ですよ。まずたたき上げの一匹狼の実業家です。だからエリートのサークルには属していないアウトサイダーです。もう一つ不動産屋ですから基本的に内需で食っている。だから国民の懐が温かくないと自分の商売も廻っていかないのでグローバリズムには反対なんです。経済を統計数字でしかみていないエリート層と違って、商売柄庶民の生活の実情を知っている。彼の政策も、周囲に色々わけのわからない連中をかき集めていますが、別に特定のイデオロギーがあるわけじゃない。要するに景気のよくなりそうなことなら何でもやる、見境なしにやるということです。非常に単純なんです。

しかもむちゃくちゃなこと言ってる。地球温暖化論議はアメリカの製造業をつぶそうとする中国の陰謀だなんて言っている。しかしですよ、トランプが本気で保護主義をやって世界貿易が縮小すれば、温室効果ガスの排出は劇的に減ります。温暖化について正確な科学的知識を自慢するインテリはここ何十年現実を一ミリも変えてこなかった。むしろ温暖化についてむちゃくちゃなことを言っているトランプの方がよほど温室効果ガスの排出を減らす可能性があります。政治家は学者じゃないんですから、これでいいんです。

 

経済戦争をしかけるトランプ

 

ただ景気を良くするためには何でもやるというので、かなり矛盾したことを言っている。企業の法人税を大幅に下げる。その一方で財政出動してインフラ公共事業をどんどんやるという。これ矛盾してますよね。じゃ、減税しながら財政出動するための財源はどうするんだ。この点では、トランプは外国との経済戦争である程度財源を作ろうとしているのではないか。そうすると関税などで増税なしに税収が増える。だから中国からの輸入品には45%の関税をかけると言っている。日本に対しても、ご存知のように在日米軍の駐留経費を日本に全部負担させようとしているし、ヨーロッパに対してもNATO関係の費用を全部ヨーロッパが持てと言っている。要求はこれに留まらないと思います。彼は破産するたびに借金を踏み倒してのし上がってきた男で、その政策を対外的にもやる可能性があると思います。日本はアメリカの国債を厖大に持っていて、毎年アメリカから8兆円の利子収入が入ってきている。トランプはひょっとしたらですが、日本が汚い商売をやって買ったアメリカ国債なんだから利子を払う必要がないとか、払っても1兆円に負けろとか言ってくる可能性があると思います。とにかく彼は外国との経済戦争は本気でやる気です。それ以外に財源の当てがありませんから。

 

「逆=黒船」へ

 

でもトランプのアメリカがそういう経済エゴに徹するのは私としては大歓迎です。おかげで日本もグローバリズムから脱却して経済的にも主権国家になり国民経済を立て直す、地域経済を再生させる。それ以外に選択肢がないということがはっきりしてくる。だからトランプのアメリカの自国中心主義は高く評価しています。とにかくこれで戦後日本が一貫して国家存立の前提にしてきた自由貿易とアメリカの覇権が消滅することになります。これからの日本はもう戦後の延長線上にはありません。トランプのアメリカという「逆=黒船」で、日本も鎖国ではないけれど、貿易をあてにしない内需中心経済への転換を迫られています。

 

お金とは、生産と消費を仲介するもの

 

今日のメモにあります本題に入ります。まずお金ということですけれどもね。お金は生産と消費を仲介するものです。つまり生産されたサービスや商品をお金があるから買えて消費するという単純な話ですね。お金は生産と消費を仲介する。だから貨幣というものは、消費を促進するためにあるのです。このことをしっかりと考えていけば世の中の仕組みが良く見え来ます。そして近代国家というのは根本においてお金の流れとして組織されています。国家というと我々はつい法律中心に考えていますけれど、法律というのは国家の骨格みたいなものです。国家の血液として循環しているのはお金なんです。だから国の実態はまずお金の流れとして解明すべきなのです。そのように解明していくと物事が良く見えてくる、何がどうなっているのかメカニズムがよくわかってくる。

 

銀行業に管理されているお金の流れ

 

そこで現状でのお金の流れですが、私企業である銀行がお金の流れをコントロールし、管理しています。日銀は資本金をもって設立された、株式も発行している私企業です。私企業が日本という国を取り仕切っている、内閣だの財務省の官僚だのはいわばその番頭に過ぎない。見かけだけの権力しかもっていない。日銀の正体は銀行業界のカルテルです。そして銀行業界が金の流れをコントロールしている以上、銀行が影の支配者として日本国家を取り仕切っているということです。

そしてこのお金の流れを血液循環に例えるならば、そこに極度の淀みや歪みが生じている。その結果お金の流れが滞って脳血栓や動脈瘤とかそれに近い現象が起きている。それが今のデフレなんですね。どうしたらお金の流れが再び順調に血液のように循環するようになるか。それが私が前から提起している問題で、BIもその一環です。BIは福祉じゃありません。お金の流れの淀みや歪を無くすための政策です。どうしてこのお金の流れに淀みや歪みが生じるのか。

 

C・H・ダグラスのA+B理論

 

20世紀初めにこの問題を最初に解明したのが英国のエンジニアのクリフォード・ヒュー・ダグラスという人です。私もこの人からお金の流れについての考え方を学びました。この人のことについては私も再三話しているので今日は延々と話すことはしませんけれども。

この人の重要な議論はA+B理論というものです。メモに書いてありますけれども。企業の帳簿を見てどういう風にお金が支出されているのか見てみましょう。そうすると従業員の賃金給与に支出されている部分Aがある。もう一つは生産のための原料と生産設備に関連して支出されている部分Bがある。原価償却とかそういう形で。そしてダグラスが発見したのは、どこの企業の帳簿でもA<Bだという事実でした。どの企業もAに比べると生産設備関係の支出Bの方が遥に大きい。しかしここには深刻な矛盾がある。企業が生産した商品を市場で売る際の価格は、このA+Bに銀行への利払いや利潤を上乗せしたものです。ところがそれを買う勤労者大衆にはAの所得しかない。しかも彼らだけが商品を買ってくれる消費者なのです。このように消費者の購買力という視点から見ると、企業が生産した商品の一部しか勤労者は買い取れない。すべてを買い取ることはできない。この基本的矛盾の結果、結局企業は売れ行き不振で生産過剰に苦しむ一方、勤労者の方は所得不足、必要なものさえ買えない所得不足に苦しむと。これは企業の会計構造それ自体に根差した問題です。企業の帳簿はあくまで効率的な生産のためのもので、消費には関係がないのです。ただしこのA<Bのギャップはタオルを作っている町工場のレベルなら大きな問題にはなりません。だが19世紀末以降、企業の機構が巨大化複雑化して、生産設備の刷新や研究開発に巨額の投資が必要になってくると、深刻な矛盾になってきます。

 

利払い銀行融資がマネーを歪める

 

さらに企業の機構が巨大化複雑化してくると、どんな企業でも銀行からの融資が必要になってくる。そうでなければやっていけない。トヨタクラスの巨大な多国籍企業だって銀行からの融資無しには回っていかない。そうなると銀行からの融資には利子を付けて返さなければいけない。利子というものは全く不生産的なものです。銀行は何も生産していない。生産に関係ない利子というもので儲けている。銀行は通貨の使用権に利子という価格を付けて売っているわけです。しかも利子はどんどん増えて、場合によったら複利で元本を上回るほどの額になる。こうして企業会計の中で銀行への利払いという不生産的なものが占める比率が大きくなっていきます。そうなると今お話したA<Bの矛盾に加えて銀行への利払いがお金の流れを歪めてしまう。この二つがお金の流れを淀ませ歪ませる根本原因です。

商品の価格には銀行への利払い分も上乗せされているので。ドイツのある研究によると商品価格の三分の一から約半分が銀行の利払い分だそうです。そういう形で経済の非生産的な部分が拡大していく。この二つの要因がやがて恐慌を発生させます。デフレになり、デフレはいずれ恐慌になります。

 

資本主義の矛盾をはぐらかすアメリカ

 

しかしここで疑問が生じてきます。ダグラスが論じたように現代経済の土台にそんな矛盾があるならば、なぜ資本主義は存続してきたのか。資本主義はあっという間に崩壊してしまったのではないか。実際英国人のダグラスは産業革命以来の資本主義の発展は宿命的な限界にぶつかったと見ていたのです。ところがアメリカがダグラスに対する答えを用意していました。第一次界大戦に参戦したのをきっかけに経済超大国にのし上がったアメリカは、ダグラスが指摘した矛盾をはぐらかすような新しいタイプの資本主義を作り上げた。それが20世紀の先進諸国を支配することになりました。

どういうことかというと、まずフォードシステムですね。自動車王ヘンリー・フォードは自動車の生産を徹底的に合理化して安く車を作れるようにし、労働者に自分たちが作ったT型フォードを買えるような高い賃金を払うことにした。これでA<Bの問題がはぐらかされたのです。第二に、勤労者大衆、消費者の所得不足の問題です。これには月賦販売方式で対処した。ローンというものを作りだして、普通の勤労者でも車や住宅のような高価なものを月賦で買えるようにした。このフォード・システムとローンによってA<Bのギャップという問題をはぐらかし先送りすることに成功した。これがアメリカの消費社会の特徴なんです。

 

石油という魔法が資本主義の矛盾を先送りに

 

 アメリカはこの問題をはぐらかしたり先送りしできた背景には、20世紀初めのアメリカは世界最大の産油国で、産業の一番の原動力である石油が安く豊富に買えたということがある。石油は英国の産業革命を可能にした石炭と比べても比較にならない優れたエネルギー源です。石油という魔法の資源のおかげでダグラスの指摘した矛盾を先送りできた。逆に言うと石油の価格が高騰してくるとアメリカの資本主義は行き詰る。実際それが石油ショック以来の状況です。

しかしご存知のように1930年代にアメリカは大恐慌に直撃され、労働者の4人に1人が失業という事態になります。してみればアメリカはダグラスが指摘した問題をはぐらかしただけで解決することはできなかったんですね。結局A<Bと銀行マネーの問題で格差が拡大した。階級、階層、職業別、地域格差が拡大していた。この富の分配の歪は他方では余り金によるバブルを惹き起こし、それが繁栄するアメリカという幻影を生みだしていた。そしてこの幻影が消えて景気が一気に悪くなると銀行に対する負債が重くのしかかってきて経済のブレーキになる。ということで大恐慌になった。お金の流れにおける脳血栓や動脈瘤がポックリ死をもたらした。

 

「自由貿易」で体制矛盾を輸出する

 

それでは、どうやってこの恐慌を打開するのか。これは富と権力の公正な分配という形で解決するしかない問題です。しかし当時のアメリカのエリートにはそれをやる気などない。そこでエリートが出した結論は、この矛盾を貿易による経済の拡大と成長で先送りにするということでした。英国のような植民地帝国のブロック経済を戦争で叩き潰し、アメリカの覇権の下でグローバルな自由貿易の国際秩序を作り出す。富と権力の歪んだ分配という問題はニューディールで多少手直ししただけで、そのままにしておく。そして矛盾のツケを外国に輸出することで問題を先送りにする。これが「自由貿易」という言葉が意味していることなんです。「自由貿易」とは、自国の経済の歪みや矛盾、体制の危機を他国に輸出することです。そういう形で外国に矛盾のツケを回し外国の富を貿易で奪って経済を成長させる。経済が成長すれば多少は富のかけらを勤労者大衆にも分配できるということでね、問題を先送りできる。他方で、戦間期、第一次大戦と第二次大戦の間の時期は貿易戦争の時代ですね。ダンピングとか、いわゆる隣人窮乏化政策がまかり通った。更にダンピングが高じて通貨戦争になる。自国の通貨を切り下げて輸出を有利にする。アメリカはこういう貿易戦争通貨戦争を予防できる国際秩序を作ろうとしました。

 

グローバル貿易VSブロック経済

 

この結果20世紀はアメリカが主導する貿易の世紀になりました。20世紀はアメリカの世紀であり、それはすなわち貿易の世紀であった。20世紀はよく革命と戦争の世紀だと言われますが、これは皮相な見解です。20世紀は実は貿易の世紀なんです。

第二次大戦の原因はふたつあります。ひとつは、一国資本主義の限界という問題。もう一つは完全雇用が先進諸国の最大の政策目標だったことです。一国資本主義の限界。現代企業の巨大な生産力にとっては、どんな大国であってもその市場は狭すぎ資源は少なすぎる。そこで日本とドイツは大英帝国型のブロック経済。植民地の資源と市場を持つ経済を作ろうとして戦争に訴えた。ドイツはレーベンスラウム、生存圏、日本は大東亜共栄圏という形でブロック経済を実現しようとした。アメリカはそれに対して世界全体が市場になるグローバル貿易を目指した。アメリ企業の巨大な生産力からすると、アメリカのような広大で資源に富む国でも狭すぎる。結局第二次大戦は、このアメリカのグローバル貿易主義がドイツと日本のブロック経済主義を叩き潰した戦争でした。

 

ブレトンウッズ体制という飴と鞭

 

そしてアメリカはまだ戦時中の1944年にアメリカのブレトンウッズという田舎町で連合国の関係者を集めて会議を開いて、世界の戦後の通貨貿易体制を構築します。第二次大戦後はこのブレトンウッズでアメリカが作り上げた通貨貿易体制が西側の先進諸国を支配します。これはメモにも書いてありますように、アメリカの戦略目標は、この通貨貿易体制によってふたたび恐慌や戦間期に起きたような通貨戦争貿易戦争が起きないようにすることでした。そのためにはどうしたかというと、ドルを金で裏付けて、そのドルを世界貿易の準備通貨決済通貨にする。金1オンスを35ドルと定める。その金で裏付けられたドルを基軸に世界各国の通貨の相場を定め固定相場にする。

だから例えば1ドルは360円として1970年代の始めまでこの相場は変わらなかった。そしてドルの価値を保証するために各国に輸出で稼いだドルは要求すれば金と交換しますよと約束する。そういう形でドルの流通を確実にする。こうしてアメリカの同盟国であればこのシステムに乗っかって世界中の資源と市場に自由にアクセスできますよと保証する。

他方でこの体制から逃げ出されちゃ困るので同盟国に米軍の基地を置く。安全保障体制と称して。だからアメリカが同盟国友好国に基地を展開しているのは冷戦でソ連と対抗するためというのは口実に過ぎなかった。本当は同盟国の主権を制限するため、同盟国の首に首輪をつけるためのものなのです。ヨーロッパや日本の米軍基地はそのためのものです。

だからこれは飴と鞭ですよね。アメリカの体制に従順に従っていればちゃんと資源と市場へのアクセスは保証される。だがアメリカの後見なしに主権を行使しようとすれば軍事基地を置かれているので圧力をかけられる。現に1950年代にエジプトのナセルがスエズ運河を国有化した時に英国とフランスはそれを阻止しようと現地に出兵しましたが、アメリカの圧力で結局撤兵せざるを得なかった。そういうことです。

 

変動相場制移行の意味が重要

 

ところがこのブレトンウッズ体制は、1971年のニクソン大統領声明で終焉します。ニクソンはドルと金の交換を停止すると宣言し、これ以後ドルは金の裏付けがないペーパードルになりました。ドル基軸の固定相場制の下で戦後の世界貿易はほとんどドル建て決済になりました。だから外貨としてドルを持っていない国は貿易に参加できない。そういう体制だったので、ドルがペーパードルになったからといってもドルを使うのを止めることはできない。それでは、ドルの価値は何で決めるかというと、その時その時の為替相場で決めようという変動相場制になるわけですね。この固定相場制が変動相場制に変わったことの意味をちゃんと理解している人が本当に少ない。経済学者でさえもわかっていないのが、たくさんいる。しかし実際今の世界の騒ぎは全部変動相場制が原因なんですよ。だから変動相場制が意味するものをきちんと押さえておく必要があります。

アメリカがドルと金の交換を停止した理由ですけれども、ひとつは日本やヨーロッパが戦災から復興してきて、競争力をつけてきたのでアメリカは当初のゆるぎない超大国ではなくなった。相対的にアメリカの地位が低下した、ゆるぎない大国ではなくなったということです。戦後は先進国の繁栄で、経済規模が巨大に拡大したものですからアメリカが保有する金を要求されたら金庫がすっからかんになってしまう。とくに重要なのは石油価格の問題でしょう。この頃までにアメリカの油田は枯渇しはじめていた。だが石油の需要は増える一方で、アメリカも膨大な石油を輸入せざるをえなくなった。この状況でドルと金を交換していたら、アメリカが保有する金はあっという間になくなってしまうでしょう。ニクソン声明はアメリカにとってはやむをえない政策の変更でした。

 

固定相場制の歴史的意義

 

とにかくこういう形で変動相場制になった。それで、変動相場制とは何なのかということなんですけどね。

しかしその前にブレトンウッズの固定相場制の歴史的な意義を考えてみてたいと思います。終戦直後から1970年までの時期の銀行の融資は、各国の戦災からの復興なり、各国経済の発展に貢献する社会的役割を期待されていたのです。単なるもうけ主義の融資じゃなくて社会と経済への貢献が期待されていた。その背景には大恐慌への反省もありました。銀行がもうけ主義の融資に走ったことが大恐慌の原因になったという反省もあって、社会的に責任ある融資ということが強調された。

融資には公共的責任があるとされた。自分勝手なギャンブル的融資はしちゃいかんと法的な規制が一杯あったわけです。銀行の社会的責任ということが1970年までは強調されていて、銀行もそれを無視することはできなかった。

 

変動相場制がカジノ資本主義を生む

 

それが変動性相場制になったらどうなるか。各国の通貨の価値は刻々変動する為替相場で決まる。つまりドルだの円だのポンドだのマルクだの、各国の通貨が株と同じものになるということですよ。そうなるとトヨタ、日産、ホンダのどの株を買ったら一番儲かるかというのと同じ発想で通貨が扱われる。通貨が純然たる金融資産になるということです。各国の国民経済がお金の流れとして組織されているということなど無視されてしまう。とにかく手持ちの金をうまく転がして金融資産をどんどん増やす。そういう姿勢で銀行が融資するようになる。そうなると資本市場はカジノに似たものになってしまう。通貨は金転がし。銀行と富裕層による投機の対象になる。どの株買ったら儲かるかと同じ調子で通貨が売られたり買われたりする。銀行は社会と経済の実態を無視して純粋に利子収入だけを目的に金を貸すようになる。

本来資本市場というものは、社会にとって必要な資金を供給するためにある。資金の需要と供給のバロメーターとしてある。それが社会の実体経済を無視してギャンブルの舞台にになるわけです。だから1970年代以降カジノ資本主義という、社会の実態に関係のない資本主義が発生してくる。そのカジノのおこぼれの金が我々庶民や小さな企業に多少回ってくる、そういう状況になる。銀行の社会的責任が一応強調された固定相場制が変動相場制に変わって、銀行がギャンブル業になってしまった。これが現代のさまざまな危機の根本的な原因です。

 

資本主義とは何か~生産の三要素

 

そこでちょっと視点を改めて資本主義とは何なのかを考えてみたいと思います。資本主義というのは難しく考えればえらく難しい問題になるけれど、簡単に考えるとえらい簡単な話なんです。今日はその簡単な方で行きます。

まず生産の三要素は、資本と土地と労働です。この三つの要素がないと生産は成立しません。資本というのは何かというと、お金のある人が生産のための道具や設備を買うとそれが資本になる。例えば印刷会社を始めようと思って印刷機を買ったらそれが資本になる。大工さんが金槌を買うのも資本です。土地というのは単なる地べたのことではなくて、農地になったりするし地下資源があったりする、いわば資源としての地球のことですね、これが土地です。それから労働はもちろん人間の労働ですけれども、人間は労働しながら生活しているわけで、いわば労働とは生活者としての人間のことです。(板書)

ですから例えば江戸時代の日本だって生産はこの三つによってやっていたわけです。

ただね、生産には資本が必要だからといって、そこからすぐに資本主義が生まれるわけではない。資本主義が生まれるためには、江戸時代の日本にはなかったような特殊な状況が必要なのです。それは、僅かな資金で大儲けできる一攫千金の機会がいくらでもあるような状況です。こうした状況があって、ちょっと何かを作ったりちょっと運んで売ったりするだけで、たちまち原資の何十倍もの金が入ってくるぼろもうけのチャンスがあったら、お金は資本として貴重になりますね。

 

資本主義の発生~資本の商品化

 

近代の初めにヨーロッパ人が新大陸アメリカを征服した段階でそういう状況が生じました。とにかくわずかな金で大儲けができる。そうなると資本はものすごく貴重になる。たとえばアメリカで奴隷を使って煙草を栽培し葉巻にしてヨーロッパに運んで売れば莫大な儲けになった。ちょっとでも資本があればそれでぼろ儲けできる。だからぼろ儲けを可能にする資金として資本自体が商品化されます。で、この資本の商品化をしているのが銀行なんです。17世紀の英国でイングランド銀行という形で最初の近代銀行が生まれました。英国がカリブ海の植民地のプランテーション経営などでぼろ儲けできる状況が生じた中で銀行が成立しているわけです。銀行はお金そのものを売っているのではなく、お金の使用権を売っています。そして、貨幣の使用権に利子という価格を付けて売っているのが銀行です。そうやって資本を販売している。市場で儲ける機会に比べて資本が少ないから、希少だから、資本に非常に貴重な価値があるから銀行の商売が成り立つ。だからぼろ儲けの話が少なくなったら、資本主義も銀行も消滅するはずなのです。そして現に消滅し始めている。それが世界経済の現状です。今の世界にぼろい儲け話は滅多にありません。

コツコツと地味な商売をやるしかない。現代経済の基調は否応なくそうした方向に変わってきています。

 

国際金融資本と主権国家の対立

 

ところがですよ、変動相場制の下では銀行主導で経済が純粋な商品としてのお金で動いているから、経済自体が金融化してくる。アメリカの場合、1980年代ぐらいまではGDPに金融業が占める比率は20%だったのが、今は40%を越えています。経済の半分近くが純粋に金融業界の取引額になっている現状です。そうなると金融資本というカジノ業界にとっては、先ほど言った生産の三要素のうちの土地と労働という存在が邪魔になってくる、儲けに対する制約になってくる。銀行の儲けというのは純粋に帳簿上の数字の問題です。だが土地と人間は現実の存在です。そこから軋轢や衝突が生じてくる。それも高度経済成長期によくあった、銀行が融資した開発業者のプロジェクトが地元住民の反対で潰れるといった次元のものならまだいい。現在この問題は、国際金融資本と国民全体の衝突にまでエスカレートしています。

国家は領土と人民によって成立しています。だからどんな国家でも土地と労働(人間)を代表せざるを得ません。そのために国家は資本にとって制約になってくる。国境などにお構いなく無制約に自由に動きたい金融資本には邪魔になってくる。しかし銀行という組織を成立させ、その営業利益を保証しているのはあくまでも国家が定めた法律なのです。国家の法律があるから銀行業が成立しているんです。にもかかわらず銀行には国家が邪魔になってくる。だから出来るだけ国家の制約を逃れようとする。それには当然国家の方からの反撃、特に国家を構成している人民からの反撃がある。また土地という要素も人々が資本の無制約な自由に反撃する根拠になる。地球は人類のかけがえのない住み処であり、資本の儲け話で使い捨てにされてはならないという声が高まってくる。

こういう形で国際金融資本と主権国家の対立がだんだん深まってきてます。この対立はレーガンの時代以どんどん深まって、現在極限に達していると言えるでしょう。以上申し上げたように、金融資本が主権国家すなわち人間と土地に対立してその無制限な自由を追求すること。それがグローバリゼーションという言葉が意味していることなんです。

 

資本の国際移動の自由とグローバリゼーション

 

そしてグローバリゼーションの発端はやはり変動相場制にあります。変動相場制で銀行の在り方が変わり経済と社会を支配し、土地と人民はその商売の邪魔になってきたので、なるべく無力化させようとする。だからグローバリゼーションは銀行主体の金融的な現象で、それに付随して社会の変化、企業の変化などがあるということです。ではグローバリゼーションはどのようなかたちで進行したのでしょうか。まず最初は。資本の国際移動の自由です。つまり円で儲けた金でマルクを買ってそれでさらに儲けて、その儲けた金でドルを買うとか、そういう自由な金転がしができなきゃ意味がないでしょう?金融カジノというのは。一国内でゴタゴタやっても意味がない。昔は資本は国家に規制されて勝手に国外に動かせなかったのです。たとえば戦後まもなくの日本で資本を海外に自由に持ち出せたら戦災からの復興など不可能になるから勝手に持ちだせなかった。昔の庶民は海外旅行なんてできなかったですね。

まず資本の国際移動の自由が拡大して、資本には国境がなくなると今度は全世界を舞台にお金のギャンブルをやる時代が始まった。とにかく金が自由に動くから、儲からなくなると一斉に逃げ出す。例えば90年代のアジア通貨危機では、東南アジアとか韓国に出ていたアメリカの資本がどうも本国の方が利上げで儲かりそうだと一斉に引き上げられ、アジア諸国の経済がガタガタになった。韓国はそれで破産状態になりました。

第二に、変動相場制の下で企業の多国籍化が急速に進行しました。いくら資本が全能といっても国民を入れ替えたり土地を動かしたりすることはできない。じゃあ資本の方が動いてしまえということで企業の多国籍化が進んだ。銀行はすでに国際化しているが、それに加えてモノづくりをやっている企業も生産拠点をどんどん例えばアメリカから中国に移す。そういう形で企業もなるべく国民と国境から自由になろうとする。

 

変動相場制が「変動人口制」を生む

 

一番最後に、これが一番大問題なのですが、変動相場制がついに変動人口制を生み出すに至ります。とにかく金融のグローバル化と企業の多国籍化は完了したから、次には生産の三要素のうちの人間の要素を徹底的に資本のコントロール下に置きたい。世界の人口を流民化、流動化させ、各国の人口をメガバンクと多国籍企業の都合のいい数に絶えず調整しようとする。これを私は「変動人口制」と呼んでいます。今世界では難民移民の問題が最大の政治の争点になっています。英国のEU離脱やアメリカのトランプ路線もそのきっかけになったのは移民でした。マスコミは移民とか難民とか言っていますが、これは変動人口制という問題なんです。とにかく国境も文化も無視して各国の人口の数をGDPの拡大に一番都合がいい形に調整しようとしているのです。

そのいい例がメルケルがトルコの難民キャンプからシリア難民をドイツに呼び込んだことです。以前にはメルケルは「このままではドイツはモスクだらけのイスラム国家になってしまう」と言っていました。「多文化主義は失敗した」と言ってたんです。ところが一転してシリア難民を呼び込んだ。この180度の転換の原因はおそらくドイツの銀行の危機です。ドイツが大恐慌の震源地になりそうだとかなり言われています。ドイツ経済は中韓両国並の輸出立国で実は脆弱なところがある。この脆弱さをユーロを梃にしたを金融マネーゲームで補ってきた面があります。ところがリーマンショック以来ドイツの銀行が抱えている金融派生商品やギリシャその他の国債がまとめて不良債権化した。金融で水膨れした経済が危ない。ドイツがこければEU自体もこける。そこで急遽難民移民で百万人くらい人口を増やせば、一時的にある程度消費が増えて、GDPが拡大する。それでGDPの予測数値を投資家に見せる。ドイツの銀行は危ないけれどまだ倒産しませんよ。ドイツはやっていけますよと投資家を説得する。このようなGDPの見かけのうえの数値稼ぎのためにシリア難民を呼び込んだ。おそらくこれがメルケルの豹変の真相です。

 

GDPのために利用される浮遊人口

 

シリアの内戦から逃れた人たちは隣国のレバノンやトルコの難民キャンプにいく。この段階では彼らは難民です。だがそこからメルケルの呼びかけに応じてヨーロッパに移動した人たちは流民というか、浮遊人口と呼ぶべき存在です。フローティング・ポピレーション。グローバリゼーションはここまできた。変動人口制で浮遊人口をあちこちに絶えず移動させてGDPの数字を一時的に改善する。それで投資家や金融業界を納得させる。まだうちのGDPは伸びますよと言って納得させる。移民を入れるのは財界が低賃金で働く奴隷労働者が欲しいからだという人がいます。しかし移民を労働力にするためには言葉や技術の習得とかに何年もかかるでしょう?今のグローバルな金融危機の中で各国のエリートにはそんな悠長なことを考えている余裕はありません。とにかく浮遊人口で自国の人口を増やして消費を拡大しGDPの数値を瞬間風速でいいから上げられればいい。当座の消費が増えればいい。そういうことです。GDPの数字は金融界が物事を考える際の唯一の尺度ですから。

 

右翼ではない反移民運動

 

ですからこういう政策に反対しているヨーロッパの反移民運動は人種主義の差別と偏見に基づく右翼的な運動なんかじゃないですよ。落ち着いた生活がしたい、安定し安心できる生活をしたいという庶民のごく普通の気持ちを代弁しているだけなのです。だからそういう意味で、英国のEU離脱とか、アメリカのトランプ当選は当然の民意の反映だと思っています。右翼の勝利などではありません。こうして変動相場制は、為替相場だけじゃなくてありとあらゆるものが絶えず目まぐるしく変動する世界を作りだしてしまった。目を覚ましてみたらアパートの隣室で外国人が騒いでいるとか、そういう社会が作りだされた。

さらに今の社会で餓死する人はめったにいないとしても、雇用が不安定になった。だから昔のプロレタリアートではなくて今はプレカリアート、不安定労働者という言葉が広まっていますね。結局今の社会の一番の問題は、社会の安定したパターンが崩れてきて将来を見通すことが困難になっていることでしょう。すべてが絶えずくるくる変わっていき明日は何が起きるか分からない。通常の人間の神経では耐えられないような社会が生まれてきた。これが現代社会の根本問題です。

 

経済の金融化の帰結~グローバリゼーション

 

ここまで1971年のニクソン声明以来の世界経済の金融化、グローバル化を説明してきました。そこでこの経済の金融化がもたらした三つの帰結をまとめてみます。

まず第一がグローバリゼーションですね。資本の国際移動の自由から始まり国際金融資本によって国の主権がどんどん形骸化していく。富がグローバル化の中でメガバンクとスーパーリッチに集中する。1%のメガリッチが後の99%の国民より多くの金融資産を持っている、富を持っているという状態が生まれます。銀行の課題は富を集中させてそれを投資することです。しかし現代の工業経済は以前から「成長の限界」という隘路にぶつかっています。だから銀行による富の集中だけが進行し、それが途方もない規模になっているのです。

 

経済の金融化の帰結~銀行負債という負の成長

 

第二に、銀行への負債が増えるだけの負の成長です。レーガンの時代以来、先進国は銀行からの借金で成長と繁栄の見かけを維持してきました。これは国債などで銀行への利払いが増える一方の負の成長です。そして今日の繁栄のために未来を質に入れている経済であり、その結果先進諸国では世代間格差が深刻化し、若い世代にツケが回っています。ローマクラブが「成長の限界」というレポートを出したのは1972年ですが、その当時から経済成長の限界は始まっていました。そのもっとも重要な指標になっているのは石油生産の逓減です。

有望な新油田も見つからないし、既存の油田は次第に枯渇していく。だから成長の限界は物理的必然というしかありません。しかし銀行業界だけはこの事実を絶対に認めることができません。経済が成長拡大するから企業、国家、家計は利子なんて余計なものを銀行に払う余裕があるわけで、低成長、ゼロ成長になれば利子を払えなくなる。成長が止まれば銀行商売の基盤がなくなる。だから成長の限界論など無視してあやしげな金融商品などを開発して、むしろ営業を強化する。そういう形で非生産的な銀行への負債が増えるだけの負の成長になる。これが80年代以降の特徴で、90年代のバブル破裂以後の日本なんかひどいものですね。企業も家計も銀行への借金で押しつぶされ、それがブレーキになって経済が動かない。こういう事態を負債デフレといいます。かつての1930年代の大恐慌の原因もこの負債デフレでした。今の世界経済の危機の原因もやはり負債デフレとして説明できます。

 

パンクした車のアクセルをふむような量的緩和

 

ただし今はお金の流れが滞留しているだけではなくて30年代大恐慌当時にはなかった富の異常な偏在、一極集中が起きています。スーパーリッチやメガバンクへ富の一極集中が起きている。これほど経済がひずんだことは世界史的にも前例がありません。この富の集中の原因はやはり、ニクソン声明で通貨が金の裏付けを失いペーパーマネーになったことでしょう。これで銀行は無からいくらでも実体のないお金を創造し、それを転がすカジノ商売に徹することができるようになった。しかしカジノだけでは経済は動かない。長期的には実体経済が成長してくれないと銀行も自滅します。しかし負債デフレでブレーキがかかって経済が止まっているのに銀行が経済を何とか動かそうとするのからおかしなことが起きる。それが皆さんも聞いたことがあるはずの量的緩和やマイナス金利なんです。量的緩和というのは、銀行が持っている債権とか資産を日銀がどんどん買い上げる。そのために日銀は新たに紙幣を大増刷してお金を無から作りだし、銀行はそれを受け取る。それをまた自分が日銀にもっている預金する。こういう紙幣の大増刷を量的緩和といっている。しかし銀行にいくら金をつぎ込んだって、このデフレで借り手はない。むしろ企業はみんな借金を返すのに必死になっている。これはパンクとガス欠で動かない車の運転席で懸命にアクセルを踏んでいるような馬鹿げた行為です。それでも増刷でお金の価値が目減りし減価するならば、企業、国家がかかえている負債が多少は軽くなるでしょう。しかし実体経済が失速しているのに紙幣を増刷するだけでデフレがインフレに逆転などということはありえません。結局量的緩和では、各銀行の日銀の口座の預金がやたらに増えただけでした。

 

マイナス金利から消費強制の減価貨幣へ

 

それでも悪あがきして日本やEUの銀行は今度はマイナス金利という窮余の策に手を出した。各銀行は日銀がつぎ込んできたお金を日銀にあるその預金口座に入れる。これには日銀が利子を払う。これを日銀に預けると逆に銀行が利子を取られるようにする。預けると損をするというのがマイナス金利です。こういうことをやる思惑はね、預金をして損をするくらいならリスキーな事業にも渋々貸し出しをするだろうという思惑です。だがこんなことまでやってもこの不景気の中でお金を借りようという人はなかなかいませんよ。だからマイナス金利をやってもお金の滞留は直らない。しかもマイナス金利をやればさらにお金の信用は低くなる。こんなことを続けていれば、お金はどんどん紙くずに近くなってくる。

銀行は成長の物理的限界にぶつかっているのだから、どうしようもない。量的緩和もマイナス金利も効果はなく経済の混乱と停滞を深めただけでした。そこで世界の金融エリートが今考えている奥の手は、経済全体をマイナス金利にすることです。今のデフレの中で庶民は将来が不安なので財布の紐を締め貯金を貯めこもうとする。だから銀行に預けたお金が時間と共にどんどん目減りするようにする。減価貨幣ということです。そうなると預金がさらに減る前にお金を使わざるをえなくなる。庶民に消費を強制できる。それで景気が回復する、というよりデフレで死にそうな銀行が生き延びることができる。しかしこんなことをやったら庶民は直ちに銀行から預金を下ろしてタンス預金にしてしまうでしょう。預けると損をする預金などやる人はいません。そうでなくても今どきの銀行は取り付け騒ぎを怖れています。リーマンショック以来、庶民の中でも銀行が国家の影の主権者であり諸悪の根源であること理解している人が増えています。またEUの一部の国では預金封鎖に似た事態も発生しています。大規模な取り付け騒ぎはありえないことではありません。

それは困るというので、EUではお金はすべてディジタルな電子マネーにして現金を廃止しようという動きが出てきています。現金を廃止してしまえば、もう取り付け騒ぎもタンス預金も不可能になる。EUには500ユーロという高額のお札、日本でいったら5万円かな、それをもう廃止しました。スウェーデンは現金の使用を制限するためにATMをどんどん撤去しています。スウェーデンは社会民主主義の優等生みたいに言われてきましたが、こういうあざといことをやっています。現金廃止の口実は脱税や犯罪組織による資金洗浄の予防ですが。本当の狙いは取り付け騒ぎの予防とできれば庶民の預金もマイナス金利にすることです。

 

経済の金融化の帰結~国家が銀行管理状態へ

 

第三に国家が銀行管理の状態になることです。先進諸国は70年代以降低成長になり国家の税収も伸びなくなった。しかし議会制民主主義国家では政治家は利権集団へのばらまきや福祉政策を止めるわけにはいかない。それで赤字国債を発行して借金で国を回していくことになった。本来国債の発行は税収不足を補うための臨時措置だったのですが、それがどの国でも恒常的なことになった。

国債を買うのは主に大手銀行です。低成長で儲からないので、国家への融資が銀行の主な仕事になってくる。国債が銀行の主要資産になる。銀行は、企業は倒産の恐れがあるけれど国家は倒産しないと考えたのです。国家は貸した金を必ず国民から税金という形で強制的に搾り取って返してくれる。国民全員を債務奴隷にしてでも負債を利子付で返済してくれる。皆さんの中にも銀行に一文も借金していない人がいるでしょうが、そういう人でも国民として銀行に借金して利払いを強いられています。それで増税されたり福祉を削られたりしている。国家が銀行管理の状態になっています。しかも国内のメガバンクだけじゃなくて国際金融資本全体がグルでやっている銀行管理です。この不景気の中で日本は消費税率を8%にあげました。消費税のアップはだいぶ前からIMF(国際通貨基金)が国際金融資本を代弁して日本に要請していたものです。あとOECDね。これが要請していた。増税は日本の財務省や日銀が考えたことではなくて国際金融資本の司令部からの指令なんです。だから日本の庶民生活の現状なんか無視して消費税を上げる。上げる目的は日本国民からさらに税金を搾り取って国債の価値を維持しよう銀行の経営を安定させようということです。 昔は不景気になると減税や財政出動というのが定石だった。それが今は、増税と緊縮財政が強行される。これは国家が銀行管理になり、国民ではなく銀行に奉仕しているからです。だからこの問題はね、安倍政権が悪いのどうのこうの言ってもどうしようもない。国際金融資本と日銀を潰さない限りこの状態は変わらない。政治家なんてどうでもいいんです。

 

ローカリゼーションの中心戦略は「社会信用論」

 

この調子でやっていくと銀行は破たんに破たんを重ね,いずれは経済の全面的崩壊が起きると思います。通貨が全面的に信用を失って経済がストップする、経済が心臓まひになる。そういう可能性がある。これは大変なことなんです。皆さんによく考えてもらいたい。1930年代の大恐慌は基本的に貧困と失業の問題でした。当時はまだアメリカだって農民なんかが多くてね、まだまだ素朴な社会だった。今は社会がはるかに高度に組織されている。皆さんのなかにも水道ガス電気なんかを銀行振り込みにしている人も多いと思います。スーパーだって在庫はもう秒単位でコンピューター管理して商品が流通している。こういう状況の中で通貨の流通がストップ状態になったら、これは経済危機というより文明の崩壊です。生活環境は大震災の津波直後の三陸海岸みたいになっちゃいます。水道ガス電気は止まるし、スーパー行っても棚が空だし、そういう社会になる。そういう銀行の破綻が原因の文明の崩壊は、何としても回避したいというなら、20世紀の始めにダグラスが提起した解決策を再評価する必要があるというのが私の長年の主張です。ダグラスが主張したのはお金の流れ方を根本的に変えること、通貨改革です。彼自身はこれをは社会信用論。ソーシャル・クレジットと呼びました。そして通貨改革は、ローカリゼーションの中心的な戦略になる。これまでお話ししたように、グローバリゼーションは銀行マネー経済の必然的な帰結です。銀行経済においては、お金はすでにお金があるところにさらに集中するのです。この流れを逆転させ、お金を分散させなければならない。BIは福祉ではなく、お金を個々人という究極の単位にまで分散させる方策です。政府通貨も、お金が滞りなく円滑に流れるようにして、経済全体に適切に分散させるための措置です。

先ほどお話しましたA<Bの問題。企業の生産過剰と庶民、消費者の所得不足という問題。これはBIで簡単に解決します。雇用によってしか所得が分配されないということが経済を極度に不安定にしているのです。所得は人間が生活するのに必要なものなのに、他方で雇用は企業の都合で決まるものですから。しかもいろいろ偶然な要素で所得が決定されている。それが問題なんです。そこでもう一度強調しますが、BIはお金の流れの淀み歪みを無くして円滑に循環させるための政策で、福祉政策じゃないですよ。そしてお金の流れが集中から分散に逆転すると、大企業、大都市が解体していきます。おそらくチェーン店といったものもなくなっていくでしょう。

 20世紀にはじめにダグラスがA<Bや銀行金融の問題を中心に経済を分析した背景には、この頃から企業や国家の機構の巨大化複雑化が始まったことがありました。それを逆転させる。おそらくBIが実現した社会では銀行による資本の集中がなくなるので、中小企業、地場産業、町工場、商店街の世界が復活することになるでしょう。

 

政府通貨発行による安定と均衡経済

 

それから政府が通貨発行権を銀行から取り戻し、経済統計に基づいて通貨を発行するといういわゆる政府通貨の問題です。国民経済計算という統計があるのですが、それで大体去年どれくらい日本経済が富を生産したかを把握できる。それによる所得分布も把握できる。それに基づいて社会が必要とする量の通貨を発行し流通させればいい。もしインフレになりそうであれば通貨の供給を減らす、デフレになりそうだったら増やすと、調整はいくらでもできます。これには銀行に利子を払う必要がない。利払いという無駄な支出、経済のブレーキになる支出がなくなる。更に利子を払うためにむりやり経済を成長させる必要もなくなる。つまり経済は成長ではなく安定と均衡及び生産と消費の円滑な循環を目標にすることができる。それを目標にすることができるということで、必然的にそうなるとは言ってませんよ。こういう脱成長ということは銀行経済には絶対に無理なんです。銀行は利子で儲けている以上、何が何でも経済が成長拡大してくれないと困る。その結果文明が崩壊しても知ったことではありません。しかもね、本来通貨というのは、私企業が勝手に自分の儲けをそろばんで弾いて発行しちゃいけないんですよ。通貨は、人間の生死にかかわる問題なんですから。

 

政府通貨発行による無税国家の実現

 

そして政府が国家維持のために税金を徴収する必要もなくなる。国家が銀行に通貨発行権を譲渡してしまったから国家維持のために別途税金を取る必要が生じているんです。政府が自ら通貨発行すれば銀行から国債を証文に借金する必要もないし国民から税金を取る必要もない。つまり基本的な教育、医療、福祉インフラなどは、政府がそれに必要な分だけ通貨を発行すればいいのです。統計に基づいて上限を設けて発行すればインフレにはならない。税金というのは本来いらないものなんです。なぜ日本人はみんな税金を払うのを当然だと思っているのでしょうか。江戸時代の年貢じゃないんですから。

悪い例かもしれないけど、ソ連には税金がなかったのです。ソ連においては労働は賦役みたいなもので、国民は労働で国家に貢献しているんだから別途に税金なんてとる必要がないとしていた。その代り働かないで家で引きこもりなんてやっていると警察に捕まりましたが。だから私は決してソ連のことは褒めていません。しかしソ連は、税金なしでも国家が回った例なんですよ。だからソ連みたいな一党独裁じゃなくて真に民主的な形で政府通貨を発行すればね。税金は基本的にいらなくなるんです。

もっとも例外的に臨時の徴税はあるかもしれません。例えば大阪で市特有のプロジェクトをなんかやりたい、そして市民はそれに賛成した場合です。そういう場合には目的が限定された市民税みたいなものを徴収する。これは一種のカンパですね。

もう一つは、資本転がし金転がしと土地転がしで懐にはいった不労所得。これには徹底的に課税する必要があります。田舎の田んぼだった物件が近くに鉄道の駅ができたので地価が100倍に上がった場合です。金転がし、資本転がし、投機で儲けたりした不労所得に対しても課税する必要がある。これは道徳的な理由で課税するんじゃないんです。そうした不労所得で儲けた金を蔓延らせておくと経済が歪んでくる。だから経済秩序を健全なものにしておくためには、金転がしと土地転がしで得た不労所得に対してだけは徹底的に課税する必要があります。そうすれば、お金の流れに淀みも歪みもなく、社会の隅々にまで行き渡るということです。

 

経済的「人権」保障を

 

現代社会では人権人権という言葉をよく聞くんですが、これは単に国家が市民に保障すべき法的な権利とみなされています。しかしですよ。人間の最も根本的な権利とはお金への権利です。だって文明社会ではお金がなければ生活できないわけですから。今の社会は。原始社会じゃない。だから最小限のお金への権利。所得を保証される権利、これこそが根本的な人権です。それがあってこそ社会に参加できるわけでしょう。人権はあまりにも法的に考えられすぎている。そして経済的人権保障のためにはやはり富と権力の公正な分配が必要だということです。そういう意味で、今どきの人権論には私は大変批判的です。経済的な問題を無視した抽象的な法律論が多すぎる。

 

大都市から地方にお金の流れを逆転させる

 

そういう形で政府通貨とBIによって銀行経済は終わる。経済的デモクラシーが始まる。金融化とグローバリゼーションは終わりローカリゼーションが始まる。そういう形で大都市が衰退し、解体し、国民経済、地域経済が復活する。もちろんこれは貿易による他国の富の略奪を必要としない内需中心の経済でもある。国民経済復活は即ち国家内の各地の地域経済の復活につながります。今の日本の地域に必要なのは企業の誘致や観光客の呼び込みではなく、所得保証による有効需要の創出です。たとえば島根県は日本一高齢化していて過疎でも苦しんでいる県です。でも島根県が何とか低空飛行でやっていけるのは、高齢者への年金がBIの代わりになっているからでしょう。夕張市がまだ息をしているのも高齢者の年金がBIになっているからでしょう。ということは、積極的にBIを実施すれば地方経済は一気に復活すると考えていい。逆にいえば、通貨改革で国内の資金の流れを逆転させなければ、地方は経済的な貧血や栄養失調で死んでいくでしょう。

BIは一国の毛細血管の隅々にまでマネーが行き渡ることを可能にします。そうすればほっといたって地域経済は復活する。だからこのお金の流れの問題は、地方自治体関係者にじっくり考えてもらいたい。結局国家はお金の流れとして組織されているということが分かっていれば、この話も分かるはずです。ところが分かっていない。相変わらずお金とは中央官庁にお願いして回してもらうものだと思っている。奴隷じゃないですかこれ。それで一生懸命ゆるキャラで宣伝とか中国人観光客を呼び込むとか、そんなことをやっている。ど田舎に空港を作ったりね。本当に地方自治体が考えていることは明治時代から変わっていません。政府通貨とBIで中央、大都市から地方にお金の流れを逆転させることができるのです。そして人の流れはお金の流れに従います。資本が地方に分散され、都会から地方に移住しても基礎所得の保障があるならば、深刻化している地方の人口の減少という問題も解決に向かうでしょう。

 

BIで社畜脱却を

 

さっき言ったようにそういう形で大企業が衰退し、町工場と商店街の世界が復活してくる。そのうえBIが支給されると、おそらく社畜サラリーマンをやる人が減るだろうとと思います。自営業を始める人が増えるでしょう。一生涯月10万でも保証されればそれに基づいて人生設計ができる。そうなると社畜サラリーマンなどをやっているより自営業をやるという人が増え、仲間を集めて中小企業を立ち上げるとか起業をやる人も増えるとでしょう。だからBIにはサラリーマン撲滅の効果があると思っております。BIが支給されるんだったら物価の安い地方にいこうということで、大都市から地方に移住する人も増える。特に地方で農業をやろうという人が一気に増えるでしょう。今だってそう考えている人が多いんですから。ただ地方に行ったら生活できるか分からないから動けないないわけで。しかし月10万円程度の所得が保障されるんだったら、当座は農民修業をやって10年もすれば農民として自立できるでしょう。だったら進学ローンでえらい借金を抱えて大学を出たのにフリーターになんて人生を送る必要はなくなる。

 

種子島鉄砲の重要な意味

 

  日本でも世界でも1970年代以来のグローバリゼーションの過程は、ローカリゼーションの過程に逆転しようとしています。この転換のきっかけは、リーマンショック以来の銀行経済の最終的破綻です。そして通貨改革でお金の流れを公的民主的にコントロールするようにすれば、国民経済、ローカルな地域経済が復活してきます。デモクラシーはこれまでもっぱら政治体制の在り方とされてきました。しかしデモクラシーは何よりも経済のデモクラシー、銀行に通貨発行権を横領させない経済体制のことでなければならない。しかもね、日本という国は歴史的に地方の底力によって支えられ発展してきた国なんですよ。

皆さんも種子島の鉄砲伝来の話は知っていると思います。16世紀の半ばに嵐で遭難した中国のジャンクが種子島に流れ着いた。それにポルトガル人の商人が二人乗っていて鉄砲を持っていた。それを種子島の領主が大金はたいて買い込んで、お抱えの鍛冶職人の金兵衛にその複製を作らせた。これがきっかけで戦国時代の日本に鉄砲が一挙に広まった。この話は皆さんもご存知でしょうが、ただ考えてください。こういっちゃ悪いけど種子島は今もへき地です。辺境の離島です。そこにちゃんと鍛冶屋がいて、それが見様見真似であっという間にヨーロッパの鉄砲の複製を作ってしまうほどの技術を持っていた。これすごいことですよ、考えてみると。これが日本という国のすごさなんです。どこの国でもね、都は栄えていても一歩都を外れたら何もないのが普通です。種子島のような離れ小島にも都に劣らない文化文明技術学問があったという、これが日本の底力です。じゃ何で種子島にそれほどの鍛冶屋がいてそれほどの技術や知識があったのか。種子島も戦国時代でやっぱり領国だったわけです。種子島時堯って言ったかな。若干16歳の領主がいて、これが大変知的にシャープな人で、鉄砲の価値をすぐに見抜いた。そこで当時の種子島にしてみれば大枚をはたいてポルトガル人から鉄砲を買った。しかもそれを撃って遊んでいたわけじゃなくて、すぐに鍛冶屋に複製を作らせた。領主である以上は一国一城の主として職人だの商人だのワンセットの体制が必要なんです。だからちゃんと腕のいい職人がいた。ただし僻地といいましたが、当時の種子島は東シナ海を舞台にした国際貿易の拠点であったし、昔から砂鉄が取れる所でね、製鉄が盛んだった。そういう事情もありましたけれど、やっぱりこの話はすごい。種子島から50年後には当時日本最大の工業都市だった泉州堺が鉄砲の産地になって、日本の鉄砲生産量はヨーロッパ全体をしのぐに至りました。何でこういうことが可能にだったのかというと、戦国時代で種子島もそれなりに領国だったことが大きいのではないか。戦国時代というと皆さんはNHKの大河ドラマなんかの影響でチャンバラばっかりやった時代と思うかもしれませんが、戦国時代はそういう文化文明学問技術が日本の国土の隅々にまで広がっていった時代なんです。だから各地に群雄割拠となり、争いが起きたわけです。このあたりが日本は他の多くの国とは違うのです。国の隅々にまで文化技術学問が行き渡った。更に江戸時代になると天下泰平で争いがなくなったので、更に各地方の独自の文化と経済の発展があった。近代日本はこの江戸時代の豊かな遺産なしにはありえませんでした。

 まだまだ多くの人が日本は明治維新で中央集権国家になって、そのおかげで近代化したと思っています。これは違います。近代化を可能にしたのはそれまでの地方の蓄積です。地方の底力です。例えばこの大阪にしたって1960年代まで経済指標は全て東京を上回っていました。そういう意味では、戦前の日本の順調な近代化を可能にしたのは地方経済の強さですよ。地方には人材も富もあった。東京は何をやってきたかというと地方の富と人材を吸い上げてきただけです。吸血鬼みたいなものです。東京はエリート官僚がいて、マスコミがあって、大学があるというだけのスカスカの都市です。ああいう都市は潰さなきゃいけません。

 

エネルギーと食糧の自給率を高める

 

とにかく今の日本は国土上の人口分布を均等化させていく必要があります。これにはもうBIが一番効き目がある。どんな地方、へき地、辺境の離島にまで文化文明技術学問が広まって蓄積があったことが日本のすごさなので、その点では今の東京の一極集中は日本の歴史から見るとまさに亡国の現象です。この流れを逆転させて、かつての種子島の鉄砲伝来のような。地方に中央に引けを取らない文化経済技術学問がある日本を再建しなければいけない。ついでに言いますが、最近中国の脅威がどうのこうのと国防論議が盛んですけれども、国防の基本はエネルギーと食糧の自給率の高さです。本当に国防を考えるなら、とにかくエネルギーと食糧の自給率を高めることです。これもまた政府通貨やBIによって政策として可能になります。戦前の日本は食糧は、もちろん、エネルギーもかなり自給していた。70%くらいは自給していた。どうしていたかというと林業をうまく使ったんですね。暖房もこたつだし、木炭をうまく使っていた。だから戦前では林業は主要産業だった。そういうことを考えなければいけない。石油をあてにしないで林業を復活させる。バスなんてみんな木炭バスにすればいいんですよ。木炭バスというのは木炭燃焼の時の水素が出る。それを利用しているからあれは水素エンジンです。原始的なものじゃない。理論的に言うと石油エンジンよりも木炭エンジンの方が高級なんです。

 

ケインズのバンコール通貨構想

 

先に申し上げたように20世紀は貿易の世紀でした。英国のEU離脱、アメリカのトランプ当選でそれが終わり、しかも欧米では移民問題が社会を混乱させ政治の焦点になってきている。移民問題といわれているのは実際には、金融資本が主導したグローバリゼーションが生み出した浮遊人口、変動人口制の問題です。だから欧米で起きている反移民の動きは、排外的人種主義による差別と偏見といった問題ではない。浮遊人口という異常な現象が問題なのです。なぜ国際的浮遊人口などという異常な現象が生じてきたのか。その原因を遡ると、1944年のブレトンウッズの国際会議に行き着きます。この会議で米英を中心に連合国は、戦後にどんな国際的通貨貿易体制を構築するか協議しました。そこで経済的軍事的覇権国になったアメリカが、英国のケインズが提出した国際通貨バンコールで決済される貿易体制という案を叩き潰したことが、現代世界の混迷の発端なのです。

戦後の通貨貿易体制を考えてみますとね、ドル基軸ですから、貿易でドルを稼いでドルを持っている、そういうドル保有国だけが世界貿易に参加できる。だから戦後のドル決済貿易は特権的な会員制クラブみたいなものです。日本はこの特権をひときわ享受した国です。だが南の貧しい後進国にはドルを稼げる可能性がない。これで世界貿易の会員制クラブから排除される。しかも足元をみられて徹底的に食い物にされたりする。私は、健全な国民経済のためには通貨の問題が決定的であることを強調してきました。世界貿易についても同じことが言えます。貿易においても公正な通貨ということが決定的に重要なのです。

ケインズはブレトンウッズでドル覇権体制を構築しようとするアメリカに反論し、全く別の方式を提案しました。その方式ではまず貿易決済用の通貨と国内通貨を分けます。貿易の決済にはバンコールという名前の通貨を計算単位として使う。それをできるだけ公正公平に運用するようにする。それで貿易でぼろ儲けする国と、大損する国、そういう国家間格差が出ないようにすることを提案したんです。これをアメリカが潰した。この提案を潰された心労からケインズは若死にしたと言われています。バンコールのことを詳しく説明する時間はありませんので、関心がある方は家に帰ってから「バンコール」でネットを検索してみてください。色々解説されています。今例えばザイールとラオスが相互に貿易してそれでお互いに経済発展しようとするとします。しかしザイールもラオスも貧しくて通貨の価値があまり信用できない。だからやっぱり世界一信用があるドルで仲介しないと貿易は難しい。ドルは一番安定して価値があるから。でもケインズのバンコールを使うと各国の合意で国際的に価値が保証されている通貨だからドルを持っていない国でも世界貿易に参加できる。商品を売ったけれども相手の国がドル不足で対価を払ってもらえずに倒産するとかそういう危険がなくなる。バンコールはドル以上に安定した信用できる通貨ですから。だからケインズの提案が通っていれば、なにも先進国市場への輸出に必死にならなくたって、南の国も様々な自主的な発展が可能だったはずです。

 

自給国民経済への転換

 

ガンジーは先進国型の工業化ではなく、紡ぎ車でインドの農村を発展させようとしました。村の経済を発展させようとした。しかしドル基軸の世界貿易体制の支配下では、ガンジーの理想は見果てぬ夢に終わってしまいました。インドだって必死になって工業製品を作らないと発展できないことになっている。しかしバンコールの体制があったらインド的発展ということも可能だったでしょう。もちろん中国だってそうです。今の中国は先進国の下請け工場になるために国土を徹底的に破壊しています。

20世紀という貿易の世紀は終わりました。しかし今更どの国も鎖国して貿易を止めるわけにはいかない。そういう意味ではバンコールの再評価が必要なのです。全ての国に公平に貿易の機会を保障し、共存共栄の貿易をやる。肝心なことは貿易を古典的な貿易に戻すことです。つまり自由貿易と称して富の分配の歪から生じた体制の危機を外国にツケとして回すんじゃなくて、国民経済を二次的に補完する貿易をやる。基本的に自給の国民経済があって、どうしても足りないものを貿易で補う。貿易が二次的な役割しか持たなかった古典的な貿易に戻す。それが大事なんです。しかしバンコールのような体制は簡単には実現しないかもしれない。その時日本としてどうしたらいいか。とにかく変動相場制の下で為替相場に振り回される貿易はやるべきではありません。そういう貿易は国民経済を攪乱させます。国民経済と貿易との間には仕切りがあるべきです。それならばナチスドイツの例に倣ってバーター貿易をやるという手もあります。日本の商品には世界的に需要がありますからね。それならバーター貿易をやればいい。とにかく貿易を純粋なギブアンドテイクの、双方に公平で恩恵があるものにしていく。現状の貿易はそんなものじゃないということですね。

 

脱アメリカニズムが日本の課題

 

あと二つだけ申し上げます。トランプの当選は覇権国アメリカ、ドルと軍事力で世界を支配したアメリカが終わろうとしている徴でしょう。19世紀には大英帝国が強大な覇権国であり経済大国だった。だが英国はその価値観を世界に押し付けることはなかった。むしろ世界と自国を区別して「光栄ある孤立」を誇っていました。しかしアメリカは違います。アメリカはアメリカ的価値、普遍性を信じていて、それを宣教師的に世界に広めようとした。だから単に政治的軍事的経済的な覇権で世界を統治しようとしただけではなく、いわゆるソフトパワーでアメリカ的な価値観や文化を世界に広げようとしてきた。そしてマイカーと電化製品に代表されるアメリカ的生生活様式も広めた。つまりアメリカは、世界をアメリカの色に染めあげる傾向があった国で、そのあたりが大英帝国とは違います。ですからアメリカの世紀が終わるということは、我々の文化価値観、生活様式においても脱アメリカが進むということでしょう。さまざまな面でアメリカニズムからの脱却することが今後の日本の課題になるはずです。

たとえばマイカー社会は広大な国土と豊富な原油というアメリカ独自の国情から生まれたもので、日本のような国でマイカー社会は正しい選択なのかどうか、議論になっていい。そういう意味ではわれわれは日本独自の風土や伝統を改めて再評価することが必要です。もちろん国粋主義ということではなく、日本人はどのように伝統に従って生きてきたのか、改めて考え直す必要がある。こうして日本人は日本の創造的な伝統に立ち返る。そういう時代が始まろうとしていると思います。

特に江戸時代の再評価が必要でしょうね。江戸時代に日本人はアメリカのエネルギーを浪費する消費社会とは正反対の社会、しかも高度に文明化されたを築き上げました。昨今は江戸時代は自治と分権の多様性に富んだ社会だったと再認識されてきています。今後も江戸時代の再評価が進むでしょう。江戸時代がすべてよかった、ユートピアだったなどと言いたいわけではありません。しかし明治維新と文明開化の影響で江戸時代を安直に否定的に評価してきたのは間違いだったと考える人がますます増えています。

 

外圧で変化する日本の国家体制

 

そしてトランプのアメリカはウッドロウ・ウイルソン大統領以来の国際主義、覇権主義、自由貿易主義から降りる。19世紀のモンロー主義に回帰する。これで日本を取り巻く国際社会の文脈が大きく変わります。この変化に対応して日本も変わっていかざるをえない。こういう外圧を受けるたびに、日本はそれを新たな発展の好機にしてきました。日本はそういう国なのです。日本は外圧でしか変わらない、革命が内部から起きないダメな国だという議論がかってありました。これは間違った見解だと思います。日本の支配層は伝統的に社会の安定ということを非常に重視するんですよ。そして体制が安定するためにはコンセンサス、社会的合意が必要です。日本の支配層はそういう社会的合意を確保するために絶えず体制の補正や修正をやり、いろいろ非公式な安全弁をつけておくことも多い。それで江戸時代は265年も続いた。戦後日本でも、自民党は財界べったりの政党ではあるけれど、一面社会民主主義的な政策もやってきた。だから長期政権を維持できた。今は露骨に経団連の御用政党になっていますが。とにかく支配層が合意を重視するので、日本は体制の激変なしに社会が徐々に進化していく。これが日本の独特の体質です。そして私としては、これはむしろ日本人の良識と賢明さの表れだと思っています。実際世界には、革命や内戦で何百万人も死んで結果として深い傷跡が残っただけという国がたくさんあります。日本に革命や大規模な内戦がなかったことはむしろ称賛すべきことです。内戦があったといっても、天下分け目の戦の関ケ原でもたった一日で終わってます。薩長なんてとんでもない奴らだったけれど、徳川幕府は引き際よく消えていき戊辰戦争を長引かせなかった。そういうことで日本は凄惨な内戦などしたことがない。

ただそれだけに、外圧があるたびに日本の国家体制は一変することになった。国際情勢は国内のようにコントロールできませんから。だから古代には大陸に隋、唐の帝国が成立した際にはその圧力の下で大化の改新をやって国家体制を整えた。それから17世紀には全世界にヨーロッパが海洋勢力として進出して植民地主義の脅威があった。それに対応するために外交的に鎖国をした。その後19世紀には黒船の圧力で開国し、欧米に倣って近代化した。さらに第二次世界大戦で敗北したので、アメリカの覇権体制の下で生き延びるためにアメリカナイズした。このように日本は大きな外圧を受ける度に国家体制を根本から変えてきました。これが日本の歴史的な特徴なんです。

 

復活しない国際主義・覇権主義・自由貿易主義

 

  世界はトランプ大統領が何をするかで騒いでいますが、彼は大したことはできないでしょう。アメリカ経済は負債の山に押しつぶされていて、量的緩和といった連銀のトリックが問題をさらに悪化させた。この現状にはスーパーマンでも対処できません。それにトランプはアメリカが絶頂期にあった1950年代、60年代への郷愁があるだけです。しかし彼がどうなろうと、アメリカの国際主義、覇権主義、自由貿易主義はもう復活することはないでしょう。それに感づいているから世界のエリート、グローバリストはパニックになっている。戦後日本の国家体制にとっては、この三つは公理みたいなものでした。それがなくなる。ですから2017年以降、日本は否応なく国家体制の転換と変革の時期に入らざるをえないでしょう。そしてアメリカの二大政党制の崩壊に見られるように、どこの国でも政党政治の時代は終わっています。これからは、地方自治体が体制転換の拠点になると私は見ています。ローカリゼーションの時代が始まっているからです。だからこそ皆さんには、ベーシックインカムと信用の社会化は、たんなる所得保障ということではなく、地方の再生、内需中心の国民経済復活のための戦略であることを訴えたいと思っています。

ちょうど時間になりました。ご清聴ありがとうございます。

「仁和寺講演追記・イスラム銀行について」 関曠野(思想史)

講演で私はイスラム銀行のことを話しましたが、イスラム銀行が車住宅などの個人ローンをどのようにやっているかには言及しませんでした。これを補足説明しておきます。 車や住宅の場合、融資希望者に代わってまず銀行がそれを買ってしまいます。それに多少価格を上乗せして希望者に売り,債務者はそれを長期分割払いで返済します。これは利子のように見えますが、まず利子を払ってしまい複利で増えることもない。価格の上乗せは融資手数料とみなすべきでしょう。

イスラムの個人ローンでは債務者が死んだり不治の病になった場合には債務は帳消しになります。また債務の保証人の必要はなく家族の連帯責任もありません。融資のリスクは債務者ではなくすべて銀行が負うというのがシャリ ア(イスラム法)の原則です。だから返済期限も明確でないことがあります。

では進学ローンのような無形のものにはどうするか。この点では、日本や欧米とイスラムでは教育観がまるで異なることに注意する必要があります。日本や欧米では大学教育は基本的に資本主義的な労務管理であり、それが学歴差別や学歴信仰の原因になります。例えば、奨学金の制度は、30年代大恐慌に際して新卒の若者が労働市場に大勢入ってきて失業問題がさらに深刻になることを防ぐために若者を大学に囲い込んでおくというローズヴェルト大統領のニューディール政策の産物でした。そしてアメリカが恐慌を大戦の軍需ブームで乗り切った後は、大卒の学歴は豊かな消費社会に都会のホワイトカラーとして参入するための入場券になりました。しかしイスラム社会にはこのような労務管理としての大学教育やそれに伴う学歴信仰はありません。

この社会では古典的な学問観が生きつづけています。イスラムの価値観では貧しい家庭の子弟の向学心を借金漬けにして金儲けの種にすることは言語道断なことです。そしてイスラム社会には学問は社会の共同財産とする立場から貧家の子弟に学資を無利子で貸す慈善団体がいろいろあるようです。銀行は融資希望者と面談のうえそうした団体との仲介役をやります。

銀行自身が融資することもあります。その場合は、日本の講に似たTAKEFULというシャリアの概念が使われます。卒業して社会人になった債務者は奨学基金に返済し、それは基金の資本の補填に充てられます。 既卒者と進学希望者の共済組合のようなもので、もちろん無利子融資です。

ただイスラムの進学ローンでは進学の動機、目的、学習プランなどが面談で厳しく審査されます。社会に貢献する専門家の養成につながる進学であることが融資の条件になります。そしてイスラムでは大学教育も基本的に実用教育とみなされるので、科学技術系の学部学科への進学が優先されるようです。

関曠野さん講演録「成長幻想から仏教経済学へ」

関 曠野 講演録

ベーシックインカムで
日本を変えよう

― 成長幻想から仏教経済学へ ―

2013年12月8日 於:京都・仁和寺
「ベーシックインカムで日本を変えよう ― 成長幻想から仏教経済学へ」

講演者:関 曠野

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

主催:ベーシックインカム・実現を探る会

講演 INDEX

  1. はじめに
  2. 悪者探しではなく、システム欠陥の是正を
  3. 経済的民主主義・普通収入権があるべき
  4. ダグラスの理論を補完する
  5. ダグラスのA+B理論とは
  6. 銀行経済に従属する企業
  7. 銀行マネーが国家を管理する
  8. 銀行は無から金をつくっている
  9. 銀行の部分準備制度と信用創造の仕組み
  10. 裏付けのない「法定通貨」
  11. 経済にブレーキをかける利子
  12. 銀行とは富裕層のためのもの
  13. 1% vs 99%は経済の破局につながる
  14. 解決策はベーシックインカムと政府通貨
  15. 公益事業として通貨を発行する国家信用局
  16. 地方自治体の融資協議会が政府通貨融資を管理する
  17. イスラム銀行 ―― 投資の民主化に学ぶ
  18. 政府通貨で実行すべき国家プロジェクトとは
  19. 政治的には劇薬という政府通貨の問題点
  20. 政府通貨を皇室券として発行する
  21. 皇室券と日銀券の関係
  22. 政府通貨発行で国家負債もなくなる
  23. ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働力の流動化、少子化問題、都市人口集中、教育、女性の権利、起業
  24. ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働と余暇、年金制度
  25. 政府通貨とベーシックインカムの思想的根拠
  26. 政府通貨とベーシックインカムによる日本経済は仏教の精神で運営
  27. 「経営」という言葉は仏教から
  28. 仏教は道として極める仏道のこと
  29. 仏教は宗教というより精神療法
  30. 仏教は決断の宗教
  31. 苦の問題の解決に知性の総力を挙げる
  32. 徹底的に実践的な仏教
  33. 欧米の労働観は、奴隷制と神罰に由来する
  34. 労働が作業量として計測されるだけのヨーロッパ的労働観
  35. 日本では労働はたましいのはたらき
  36. ベーシックインカムによって西洋的労働観から解放する
  37. 慈悲と簡素さ
  38. 経済活動の目的は心の平安
  39. 仏教経済学の指針のもとでの投資や商業活動のありかた
  40. ネット世論の圧力で政府通貨とベーシックインカムの実現を
  41. 追記
  42. 質疑応答

はじめに

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)、『フクシマ以後―エネルギー・通貨・主権』(青土社)、『グローバリズムの終焉-経済学的文明から地理学的文明へ』藤澤雄一郎氏との共著 農山漁村文化協会(2014年3月5日刊行予定)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも関です。

年末のお忙しい中、私の話をお聞きするためにお集まりいただきましてありがとうございます。こうしてみなさんが仁和寺に集まったのも、やはり日本という国はどこの面でも行き詰っている。そのことをひしひしと感じておられるからではないのかと思うんですね。私は今日、この日本の行き詰った現状を打破するプランはあることをお話ししたい。このプランが絶対に正しいかどうかはわかりません。しかし私としては自信をもって出せるプランであり、それを皆さんが日本の現状を考える際のヒントにしていただきたいということです。まずそのための政府通貨の発行と全国民にベーシックインカムを支給するという問題。次いで日本経済と仏教の精神という二つのテーマでお話ししたいと思います。

悪者探しではなく、システム欠陥の是正を

今の日本の現状はもちろん貧困や失業も深刻な問題ですけれども、一番問題なのは不安だと思うんです。とにかく未来が不確実で不安で明日が信じられないから長期的な生活設計ができない。貧乏なら貧乏で、貧乏が一生こんな程度の貧乏と解っていればそれなりの人生設計ができるけれども、それもできない。こういう不安な社会では。悪者探しが始まる。とにかくどこかに悪者がいるからそいつをやっつければ社会がよくなるという、そういう風潮が広まってくる。こういう風潮は危険というよりナンセンスだと思います。そんなことやったって社会がさらにすさむだけですよ。やはり、この社会の問題は誰が悪いというよりも今の経済のシステムに構造的な欠陥があるからだ、その構造的な欠陥をきちんと是正する政策を実行すればいい、そう考えるべきだと思います。

経済的民主主義・普通収入権があるべき

ですから今日お話しするのは今の経済システムにどういう構造的欠陥があるかということです。その欠陥を是正する政策とは、経済的市民権、すべての人に経済に関与し参加する権利を認めて、経済自体が民主主義の構造を持つようにする、そういう経済にするということです。経済的民主主義とは、政府が福祉を拡充すれば民主主義だというようなことではありません。経済の構造自身が民主的でなければならない。昔は制限選挙といって貧乏人には投票権がなかった。今は貧乏人に選挙権を認めないと言ったら大騒ぎになるでしょう。だから今は普通選挙権が常識になっています。昔は貧乏人には知性と教養がないから選挙権がなくても当然だという議論があったけれども、今こんな議論をする人はいません。しかし経済に関してはそうじゃない。貧乏人は先祖の祟りかなんかで貧乏なんだから生活苦であがいて餓死してもしょうがないということになっている。これはおかしいんじゃないですか? 普通選挙権があるんだったら普通収入権っていうものがあってもいいんじゃないですか? 買い物をしたり銀行に預金したりする経済行動自身が選挙で投票するのと同じ意義を持つ。そういう経済でなければいけない。こっちに自動的に動くメカニズムとしての経済があって、こっちにそれとは別に民主主義がありますという考え方はおかしい。経済生活とデモクラシーはまったく一体のものであるべきです。

ダグラスの理論を補完する

ではどうやって経済行動自体が民主主義であるような経済を作るか、どのように今の日本のひずんだシステムをリセットするか。それをまず申し上げたいと思います。とにかく現状では誰しも食うに追われて生存競争で生き残るのに必死な世の中です。しかしたまには経済のシステムを大局的に見るということも必要だと思います。まず最初に構造的な欠陥の問題ですが、現代の工業経済、これは資本主義といってもいいと思いますが、これには構造的欠陥がある。どういう欠陥があるかという問題では、20世紀初めに社会信用論という経済思想を創始した英国人のクリフォード・ヒュー・ダグラスという人がいまして、私はこの人の理論を参考にしています。ただダグラスの理論は時代の制約もあって今となってみると色々補足や補完が必要です。ですから私はダグラスの理論をそっくりそのまま繰り返すのではなくて、参考にした上で特に現代日本の事情や歴史に合わせて補足や補完をしながら議論します。

ダグラスのA+B理論とは

ダグラスは、企業会計をA+B理論という形で考えました。Aは企業会計の中で従業員の賃金給与などに充てられるお金です。Bは生産設備の減価償却や他の企業から購入した機械とか部品とか原料に支払うお金、つまり物理的な生産費です。このA+Bに利潤を加えたものが商品の価格になります。 Bは物理的な生産に関係した費用です。他方で賃金は一応生産コストではあるけれども、一方では給与ですから勤労者の購買力になるものです。購買力として消費の資金になる、消費に回る。そうすると企業会計はA+Bですから、小学生でもわかることですが、A+B>Aです。この単純なことが大問題なわけです。商品の価格はA+B+利潤なのにそれを買う勤労者はAのお金しか持っていない。 これでは労働者は企業が生産した商品をすべて買うことはできない。A+B>Aですから。こういう構造があるから資本主義経済においては、必然的に生産と消費は釣合いがとれません。その結果、企業は生産過剰に悩み、勤労者は消費者としては慢性的に所得不足に苦しむことになります。

この生産と消費の不均衡が最後には恐慌にまで行き着く。今の世界の現状がそうです。これが資本主義のシステムに宿命的な構造の欠陥です。それまでのリカドウなどの古典的な経済学は経済を物々交換をモデルに考えていて生産と消費、需要と供給は自動的に均衡するとしていた。ダグラスは企業の会計監査をやったことがある人だったので、この誤謬を一掃したのです。

銀行経済に従属する企業

この生産と消費の不均衡という問題も、企業がすべて日用品などを作っている小さな企業だったら深刻な問題にはならないでしょう。ところが19世紀末からマルクスの言う機械制大工業、大企業の時代に入ります。企業は設備投資や研究開発に膨大な費用をかけるようになる。そうするとこの問題が深刻になってくる。A+B>Aで、企業会計の中で生産費用の比重がどんどん大きくなる。それに比例してAの部分、賃金給与分は相対的に縮小していく。これは経営者が強欲で賃金カットをするということではなく、構造的にこうなってしまう。当然それだけ経済は恐慌とか不況に陥る傾向が強まる。労働者がかなり賃上げされたとしても、A+BのBの部分にやたらに金が回っているようなら、どのみちギャップは埋まらない。

そして20世紀には企業は膨大な投資が不可欠になってくるので、大企業でも銀行からの巨額の融資を受けないとやっていけなくなります。こうして銀行が企業経済に介入してくると、システムにさらに深刻な問題が生じてきます。今は中小企業だって何億円もする機械が必要です。まして大企業なら天文学な額の融資が必要なわけです。そうなってくると企業は次第に銀行経済に従属して銀行経済の一部になってしまう。銀行がすべてを動かす経済が出現する。純然たる企業経済なんてもう町の八百屋さんかなんかにしか残ってない。先進国はみんなそういう状態です。

銀行マネーが国家を管理する

ところで世間に出回っている通貨の95%以上は銀行マネーです。銀行が貸し出したり銀行に返さなければいけなかったり、銀行がらみの金です。我々がスーパーのレジで出したり引っこめたりしているような現金で使われる通貨は通貨流通量の数%を占めるにすぎません。経済を動かしているのは銀行信用です。銀行のお金が世間を動かしている。そうなると銀行マネーに絡んでいる様々な問題がそのまま企業経済の問題になり、また企業の賃金で食って消費している労働者とその家族、国民の問題になってくる。そう言う形で国家は否応なしに銀行管理国家になってしまいます。いまだに日本銀行は国の銀行だと思っている人が多いんですけど、日銀は銀行業界の代表幹事みたいなもの、銀行カルテルの代表です。

みなさんが持っている1,000円札を見てください。日本銀行券と書いてあります。日本国通貨とは書いてありません。日銀が、経済がいいとか悪いとか言っているのは銀行業界にとっていいか悪いかを言っているだけで庶民の暮らし向きには関係がありません。むしろ相反することが多い。

銀行はあくまで自分たちの営利目的で通貨を動かしている。日銀が通貨を日銀券として発行している。そういう形で経済が回っています。私企業の銀行が自分のソロバン勘定で発行したり引っこめたりしている通貨が我々の生活を動かしている。それが先進国の現状です。たとえば私企業が空気や水を独占販売していて貧乏人は空気も吸えない水も飲めないという経済を考えられますか?中国はそれに近い経済のようですが。しかしマネーは現代では生活インフラみたいなものです。お金に恬淡としている人だってマネーなしには生活できません。そのマネーを全部銀行が独占販売管理しているわけですから。ある意味では空気や水を私企業が管理しているようなものです。だから貧乏人は金がないので餓死してもしょうがないという経済になってくる。

銀行は無から金をつくっている

そして銀行が通貨を発行するということはどういうことかというと、かりに銀行が一千万円を中小企業の経営者に貸すとします。そこで銀行は何をしているかというと、「関様」という預金口座を作ってそこに銀行の金を一千万円入れる。一千万入れるといってもキャッシュじゃないですよ。銀行の帳簿上のことですからコンピューターのキーボードをちょこちょこと打って、パチン。「はい、一千万入りました。貸しましたよ」という、コンピューターのキーボードをいじっただけです。

ところが借りた私はね、満期の来た2年後には汗水たらして稼いだ手の切れるようなキャッシュを利子をつけてちゃんと銀行に返さなくちゃいけない。コンピューターのボードをちょこちょこというわけにはいきません。つまり銀行が金を貸すというのは財布を作っただけなんです。その財布の中に後日我々が稼いだキャッシュが入るようになっている。それが銀行マネーです。こうして銀行は無から金を作っている、ゼロから金を得ているという。そういう構造になっているんです。

銀行の部分準備制度と信用創造の仕組み

さらに銀行の部分準備制度という問題があります。

これはつまり、銀行は手持ちの預金を貸しているわけではない、手持ち預金の8倍から10倍くらいの金を貸し出しているということなんです。あくどい高利貸しだって手持ちの金を貸しているだけです。ところが銀行はいわば架空の金を貸し出している。なぜそういうことになるかというと銀行は我々が預金した金を人の金と思っていない。自分の金と思っているんです。銀行の金融資産ということになっている。だから人の金の使い込みみたいなことをやってる。

どうやって我々の預金した金がその8倍10倍に膨れあがることになるのか。銀行はなにをやってるかというと、私がA銀行に100円を預けたらAはそのうちの10円を取っておいて90円を貸し出す。この90円を借りた人が今度はB銀行にその90円を振り込むとまたその90円から10円を取っておいて80円を貸し出す。この80円を借りた人がC銀行に振り込むとCは80円の内から10円を取っておいて70円を貸し出す。建前では銀行は我々の100円を預かっていることになっていますが、実際は使い込みと貸し出しで預金は殆ど無くなっています。それでもATMで預金を下ろせるのは銀行に新規の預金が次々に入ってくるからです。銀行のビジネスはこのようにネズミ講の一種です。

見てください。初めが100円だったものが+90、80、70です。どんどん水増しされていく。水増しということは、銀行が私企業のソロバン勘定で私的に信用を創造している、無からお金を作り出しているということです。実体経済に根拠のない半ば偽札みたいな金が世間に氾濫することになります。こういう金が銀行のソロバン勘定の都合で経済を動かしているわけですから経済が不安定になる。私企業の銀行が社会に公的に流通する通貨の量を勝手に増やしたり減らしたりしているせいで好況と不況が絶えず入れ替わる景気循環が発生します。しかも預金者はいつでも自分の預金を下ろす権利を持っています。だからミルトン・フリードマンみたいなごりごりの新自由主義の経済学者が部分準備制度はやばいからやめろと言っているんです。

この部分準備制度に対して過去に何度も完全準備制度が提案されています。この場合、銀行の預金業務を当座預金型と定期預金型に分ける。前者では銀行は金庫業で、預金者の金を保管し小切手を発行したりするだけで他者に貸し出さない。だから自分の預金が不安になった預金者が取り付け騒ぎを起こすといったことはない。後者は投資に使われるリスクを伴う預金で預金者もハイリスク・ハイリターンを承知しています。さらに次の問題です。

裏付けのない「法定通貨」

現代の通貨はどこの国でも通貨は法定通貨です。法定通貨とはつまり法律で通貨と定められたもの。昔は通貨にはすべて裏付けが必要だったので、紙幣も兌換紙幣でした。銀行に持っていくとそれに相当する金(きん)に代えてもらえた。今こういう制度は完全になくなりまして、国家が「これが通貨ですよ」と宣言すればそれがそのまま通貨になってしまう。金本位制の金と通貨が兌換できた時代は通貨には実物の担保があったわけです。銀行が持っている金の保有量で銀行の貸し出せる額が制限されたので、それが一定の安全装置になっていた。だが金本位制を廃止して金の裏付けで価値を保証する必要がなくなったから、もう通貨はタヌキが化かす木の葉みたいなもので、いくらでも刷れる、銀行が無制限にプリントできる。今アベノミクスと称して日銀がやっているのがこれです。むちゃくちゃ紙幣を刷ってる。刷ってるといっても事実上はコンピューターでちょんちょんとやっているだけですが。こんなことをやっていると紙幣は無限に紙切れに近づいていく。通貨という大事なもの自体が不良債権化してしまう危険があるわけです。通貨を金銀じゃなくて紙きれで代用するというのはある意味では合理的なことなのですが、やはり通貨には裏付けがないといけない。これはやばいということになると紙幣は一瞬のうちに紙切れになってしまいます。リーマン・ショック以来、世界にはもう信頼できる安全な銀行通貨はありません。

経済にブレーキをかける利子

それからなんといっても銀行マネーは利子つきの負債、借金のことなのです。この負債も経済が順調に発展成長をしている時には生産的な投資になりうる。それに見合った富を生産して利子つきでも返せるし、経済のアクセルになる。しかしこの利子とは何ですか。生産上の根拠が全くない金です。つまり銀行が独占的にマネーを管理し販売しているという特権から生ずる利得です。いわば関所の通行料のようなもので、まったく生産に関係ない金です。そして利子こそが銀行業を成立させている。ですから銀行が得ている収入は労働に対する報酬ではない。企業はブラック企業だって一応労働に対する報酬で存続していますが、銀行の場合は巨額の金を所有して動かしているという、たんなる所有に対する報酬です。 そして生産による根拠がない利子を返す金は生産以外のどこから出てくるのか。結局利子とは誰かにババ抜きでツケがまわって、負債を負債で返すことになるわけです。だから債務者本人ではなくてもツケがぐるぐるまわって誰かが銀行から借金してそれが利子の支払いに回るという構造になっているんです。

そして経済が不景気になり停滞してきても銀行はもう利子やめたなんて言いません。そうすると経済のなかで利払いという不生産的な部分が占める比率が異常に増えてくる。こうして銀行マネーはアクセルから一転してブレーキになる。銀行マネーによる全面制動がかかっているのが世界経済の現状です。とにかく負債はまだ経済に対してアクセルになる可能性がありますが、利子は順調な時にも余計な支払いで、不景気になると経済に対する決定的なブレーキになります。

銀行とは富裕層のためのもの

しかもですよ。

ここに企業Aがあって、そこに企業BやCが部品や原料を納めています。このBCがAに請求する代金にはこの両者が銀行に払う利子の分が上乗せされています。A自身も銀行への利払いを抱えている。そうするとAが作っている最終製品の価格にはA、B、Cの銀行への利払いがごっそり上乗せされています。ドイツのある研究によると平均して商品価格の半分が銀行への利払いです。

だから「俺は銀行に借金なんかない」なんて威張っている人だって商品を買うときには銀行に利子を払っているのです。それでは結局利子とは何なのか?我々も銀行を利便のために使っていますが、本当に銀行という制度で得しているのはやはりリッチ、金持ちです。何十億という資産があってそれを定期預金に預けておけば放っておいてもどんどん金が増えていきます。してみると銀行が仲介していますが、利子とは銀行そのものというよりは銀行の実際のスポンサーである富裕層のところに自動的に金が入る仕組みなのです。銀行とは富裕層が一般勤労国民から稼いだ金を吸い上げる仕組みにほかなりません。

1% vs 99%は経済の破局につながる

昔の産業革命時代の資本が足りない時代は、銀行がそういうことをやってもそれなりに経済発展に寄与した面はあります。しかし今みたいに経済が低成長、ゼロ成長の時代になっても銀行がひたすらリッチのために一般国民、プロレタリアートだけじゃなくて99%の一般国民から金を吸い上げて1%の富裕層の懐を増やしていることは経済の破局につながります。今の世界経済の問題はこれに集約されます。だから1%と99%という言葉が広まっています。一般国民は銀行に利子と負債で金を吸い取られて、給与のほうはA+Bの問題で相対的に減る一方ということになったらどこの国でも負債デフレが発生し経済は恐慌に行き着きます。

我々にとっては負債を負債で返す債務奴隷にされるのはたまらないことですが、富裕層にとっては、これは金が金を生むトリックです。定期預金を10億円預ければ何もしなくても金が金を生む。しかもその結果として生産と消費の均衡が狂って経済が破綻する。ほんとうは豊かな国のはずがホームレスはいるは、非正規雇用で若い人には希望がないは、という社会になってしまう。

このように企業経済に内在するA+Bの問題、そして銀行経済が孕む一連の問題があります。この2つは経済システムの構造的欠陥として是正する必要がある。これは資本主義の打倒といったことではなく、国民的合意に基づくシステムの再設計、リセットが必要ということです。どういう解決策があるかというと、

解決策はベーシックインカムと政府通貨

A+Bの問題に対する解決策はベーシックインカム。銀行マネーに関する解決策は政府通貨ないし公共通貨ということになります。

このどちらも生産と消費の均衡を回復させるための政策といえます。経済学用語でいえば、マクロ経済のフローの次元で生産と消費を均衡させるための政策です。放置したままでは不均衡がひどくなるばかりだから政策によって均衡を実現する必要があるということです。ベーシックインカムをやればすべての国民が月8万~10万円ぐらいを一律無条件に生涯にわたって支給される。当然これは福祉効果を持ちますけれども、これは結果であってベーシックインカムは福祉政策ではありません。政策上の狙いはあくまで生産と消費をマクロで均衡させることです。

公益事業として通貨を発行する国家信用局

政府通貨の発行とは、銀行が私企業のソロバン勘定で通貨をコントロールすることを止めさせることです。その代わりに国家機関が公益事業として通貨を発行し管理する。水道や電気と同じように社会生活に必要不可欠な公共インフラとして通貨を供給する。利子付き負債の銀行マネーではない経済循環を円滑に促進するための通貨を企業と国民に供給する。企業に融資された通貨は一応回収されますが、これは銀行の借金取立てではありません。通貨の過剰供給でインフレが発生するのを予防するための措置です。ですから返済の時期や条件については柔軟で交渉が可能です。今は国民経済計算というものがあって、生産消費所得投資といった経済の諸要素を統計的に把握できますから、それから生産と消費を均衡させるのに必要な通貨の総量を算定できます。その量の通貨を発行すればいい。具体的にいうと、国家信用局という国家機関を設立します。この国家信用局が毎年四半期ごとに国民経済計算に基づいて必要な量の通貨を発行し企業と国民に供給します。それと同時に以前に発行して経済循環の中で役割を終えた通貨を回収します。

この国家信用局の仕事はテクニカルなものです。必要な通貨量を算定して供給し、御用済みの通過を回収するという純粋にテクニカルな仕事です。言ってみれば気象庁が気象を観測して天気予報を出しているのと同じような業務であり、政府や政治家や官僚が手出しできるようなものではありません。

地方自治体の融資協議会が政府通貨融資を管理する

ベーシックインカムの話は後にします。まず政府通貨の話ですけれども、国家信用局は具体的にはどのように仕事をしたらいいのか。ベーシックインカムの支給は簡単です。毎月すべての国民の銀行口座に自動振り込みをすればいい。問題は政府通貨の企業への融資です。どこの企業だって利子が付かず負債にならない融資だったら喉から手が出るほど欲しいでしょう。そうなると利権や情実が絡んできたり、また場合によっては市場から退場すべき企業に融資して延命させてしまう、そういう問題が起きる恐れがあります。

この問題についての私の考えですが、自治体の首長が管轄し、自治体の職員、市民と議会の代表および金融専門家の四者で構成する融資協議会を作ったらどうか。そして企業から申請があった融資案件を四者で審査して、公共的意義が認められた企業に政府通貨を融資する。

今の日本でいうと、例えば東北被災地の復興に関係している企業に優先融資するといったことです。こういう形でやれば政府通貨の融資で、利権がらみのスキャンダルが起きる恐れはかなりなくなるのではないか。ただそうなると、政府通貨をすべての企業に融資するわけにはいかない。それから特定のマニア向けのビジネスをやっている企業に政府通貨を融資するわけにはいかないでしょう。それに政府通貨の融資はあくまで生産と消費を均衡させるための措置です。ですから生産部門ではない流通業や金融業はそもそも融資の対象にはなりません。

イスラム銀行 ―― 投資の民主化に学ぶ

そうすると仮に銀行マネーを政府通貨によって廃止したとしても、民間の資金需要を満たす民間金融は必要です。では民間金融はどういう形にしたらいいか。そこで利子のつかない民間金融としてイスラム銀行が参考になるのではないか。 イスラム世界ではコーランが利子を禁止しているので、イスラム銀行は基本的に融資の際の手数料で食っています。そして融資先の企業とはパートナーシップの関係をとります。企業が成功して収益を上げたら企業と銀行で収益を分ける。その分ける比率は企業2:銀行1です。企業が失敗したら銀行もリスクをかぶる。これが本当の市場経済なんじゃありませんか?今の銀行みたいに企業が失敗したらその資産を差し押さえにかかる。銀行自身が失敗したら税金で救ってもらえる。こんなもの市場経済じゃありません。ただの銭ゲバ経済ですよ。

そしてイスラムでは預金者と銀行の関係もやはりパートナーシップの関係です。銀行の業績が順調に伸びた場合、イスラム銀行は利子じゃなくて業績に見合った配当を預金者に払います。この場合は銀行2:預金者1の比率です。これ面白いですね。こうなると、どこの銀行に預金するかで配当が違ってくる。今我々は銀行が我々が預けた金をどう使っているのか全然知らなくて、暴力団に融資していたというニュースを聞いてびっくりしたりする。

イスラム銀行参考図

イスラム方式にすると自分の預けた銀行がどこに融資しているのか誰もが関心を持つようになる。配当が違ってきますから。そうなると預金それ自体が投資の性格を持ちます。これはいいことです。資本主義経済の一番の問題は、余剰資金がある富裕層が自分のソロバン勘定だけで投資をしていて、それが社会と経済に様々なひずみをもたらしていることです。イスラム方式でやれば、すべての預金者は自分の銀行がどういう融資をしているかに関心を持ちますから、投資の民主化になります。ちなみにイスラム銀行は聖職者の監査の下にあり、例えばギャンブル、他の銀行、兵器産業などへの融資は禁止されています。

しかも今の日本でもイスラム型銀行はすぐに作れます。政府通貨やベーシックインカムが実現していなくてもイスラム銀行を作ることは明日にでも可能です。資本金がちょっとあれば。そうしたらイスラム銀行に預金者が殺到するんじゃないですか?

政府通貨で実行すべき国家プロジェクトとは

政府通貨の話に戻りますが、仮に日本で政府通貨発行に踏み切るとする。今の日本には大体20兆~30兆といわれる需給ギャップ、デフレギャップがあります。だから膨大な額の政府通貨を発行してもインフレにはなりません。それなら、日本再生のためにこの際一連の国家的プロジェクトをやって、それに政府通貨を集中的に投下すべきです。

そういうプロジェクトとしては、まず第一に、東北被災地の復興です。第二に電力の問題。地域電力独占はみんな経営的にはゾンビ状態でいずれみんな潰れますよ。ですから電事連体制に代わる全国的な電力供給体制の新たな構築が必要です。これは大規模なプロジェクトで私企業の手におえるものではありません。これも国家プロジェクトとしてやる。同時に54基の今ある原発を廃炉にしなければいけない。原発を廃炉にするには膨大なコストがかかりこれも私企業ではできません。だから国家プロジェクトとしてやる。これはまた廃炉で原発関係の交付金を失う原発立地自治体に対する地域振興策にもなります。

それから高度成長期に作られたインフラが今一斉に寿命が来ています。その建て替えと補強が必要です。これにも政府通貨を投下する。さらに予測されている南海トラフ地震対する全国的な防災体制の構築というプロジェクト。あと一つ出来ればやりたいのは、日本の食糧自給率を70%にまで回復させるプロジェクトです。こういう一連の国家プロジェクトは政府通貨でないとできないでしょう。

政治的には劇薬という政府通貨の問題点

政府通貨の発行は資本主義の構造的欠陥から生じた経済危機に対する経済的特効薬であることはすでに歴史によって証明されています。戦前の日本とドイツの金融政策がその例です。しかし政府通貨は経済的には特効薬でも政治的には劇薬なんです。というのは政府通貨を議会制の枠内でやると政権与党の利権ばら撒きに使われて経済は滅茶苦茶なことになるからです。

戦前の日本とドイツでは高橋是清とドイツのライヒスバンク総裁のヒャルマール・シャハトが事実上の政府通貨発行をやりました。高橋の場合は日銀の国債直接引きうけ、ヒャルマール・シャハトの場合は労働財務証書という形で事実上の政府通貨を発行した。ドイツは、これでワイマール期のハイパーインフレでボロボロになったドイツ経済を3年間でヨーロッパ最強の経済に立て直し、完全雇用も実現しました。だからドイツ人はナチスをあれほど支持したんです。

高橋とシャハトは議会の雑音を排除して金融独裁という形でやったわけです。

高橋の場合はカリスマだったし、シャハトの場合はヒトラーから金融改革の全権を委任されていました。そういう形で二人とも金融独裁でやったから政府通貨の使い道も彼らの胸先三寸でした。これはアウトバーン建設に使うとかこれは東北の農村の振興に使うとか。

その結果、金融独裁の問題が出てきた。シャハトも高橋も金融実務家として政府通貨を軍拡に使うことにはインフレになるとして反対しました。そのために高橋は2.26で軍人に暗殺され、シャハトも最後は強制収容所に入れられました。

結局二人は金融独裁という形で軍国主義に都合のいいシステムを作ってしまった。このように政府通貨を議会政治の枠内でやると利権ばらまきで滅茶苦茶なことになるし、金融独裁でやるとファシズムになってしまう。

政府通貨を皇室券として発行する

それではどうしたらいいのか、議会制でもダメだし独裁制でもダメです。このジレンマを超越して政府通貨を実現する方途はないものでしょうか。そこで私の考えを申し上げます。

日本には皇室という政治を超越した権威があります。また現行の日本国憲法でも天皇は「国民統合の象徴」とされています。それなら日本国通貨の発行権は基本的に皇室にあるとしたらどうか。皇室直属の国家信用局を作って政府通貨を皇室券として発行する。皇室券でベーシックインカムの支給と企業への融資を実施する。天皇制国家主義みたいなことを言ってるわけじゃないですよ。これは政府通貨を立憲主義的に実現するための方策です。皇室は政治を超越した権威なのだから皇室が発行した通貨ならば国会も官庁も干渉できない政府通貨の非政治的な運営が可能になるということです。

そして国家信用局は永田町と霞が関の干渉を避けるために皇室の本来の所在地である京都に置きます。この仁和寺の一角を借りてもいいと思います。政府通貨は皇室の通貨、俗なる地の通貨ではなく天の通貨ですから、議会政治家や役人が汚い手を出すことはできません。そして国家信用局が皇室直属ということは、ひとえに「国民統合」の原則に忠実に業務を遂行するということです。今上天皇はああいうお人柄ですから「国民の幸福のためなら」ということでおそらくこの政策を了承されるだろうと思います。これは天皇の政治利用ということではなく、反対に皇室の非政治性を深く尊重した政策です。日本には先述した政府通貨をめぐるジレンマに対して皇室という切り札があるのです。

皇室券と日銀券の関係

ただこうなると、二重通貨という問題が起きてくる。世間に皇室券と日銀券という二つの通貨が出回って混乱が起きる可能性がある。この二つの通貨の間に相場の違いが生じてくるという問題です。どうしたらいいか。これについて私は東西ドイツ再統一の際の西ドイツのコール政権の政策が参考になると思います。 ドイツは東西分断時代も東西共にマルクを使っていたのですが、東西の経済力の差を反映して相場にはかなりの差がありました。ベルリンの壁崩壊当時にはその差は1:10にまで広がっていました。

ところが西ドイツのコール政権は、ドイツマルクと東のオストマルクを1:1の相場で交換すると決めました。これは当然西ドイツが損をして、そのツケは西ドイツの納税者に回りますが、コール政権はこれをドイツ再統一のコストとして割り切ったのです。

おかげでドイツは経済的混乱なしに再統一できました。日本の場合は分断国家じゃないから重大な問題は生じない。三年なら三年と期間を区切ってその期間は皇室券と日銀券は1:1で交換すると法で決めればいい。法定通貨だからそういうことができる。その間に何が起きるのかは大体予想がつきます。当然、ベーシックインカムの支給に使われている皇室券のほうが信用が高いから。この三年の間に大抵の人が手持ちの日銀券を皇室券に交換してしまうでしょう。

政府通貨発行で国家負債もなくなる

そうなると日銀券で預金する人もいなくなる。こうして三年の間に日銀は市場原理による自然淘汰の形で野垂れ死にすると思います。では銀行業界はどうなるか。今の大手都市銀行の主要資産は日本国債です。ですから銀行は相場が1;1の間に手持ちの厖大な日本国債を売って皇室券に換えようとするでしょう。しかし日銀券建ての国債なんてもう買う人いませんよ。そうなると主要資産が紙切れになってしまうのですから、大手都市銀行は軒並み倒産すると思います。大手銀行が軒並み倒産すると、国債の償還を請求する法的主体が消滅するわけですから日本国家の天文学的負債はチャラになる、自動消滅します。

国債みたいなやばいものを買ったのは金融機関の自己責任なんですから、これは仕方ないですね。そしてこれは市場の判断なのですから政府に責任はありません。その後は国家信用局が生産と供給が均衡する量の通貨を社会に供給するというテクニカルな仕事があるだけです。

次に政府通貨を発行した場合に税制とか福祉とか貿易とかがどうなるかという問題がありますが、そこにまで踏み込むとちょっと時間をとりますので今日は端折ります。基本的には政策を間違わなければとくに問題は生じないということです。ただ、政府通貨は主権国家の国民経済を前提にしています。無国籍なグローバリゼーションにはなじみません。だから資本の国際移動に対する規制は必要でしょう。それから貿易に関してはある程度の保護主義も必要です。ベーシックインカムを支給してもそれが百円ショップで中国製の安物を買うのに使われたのではどうしようもない。

ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働力の流動化、少子化問題、都市人口集中、教育、女性の権利、起業

そこでベーシックインカムの話になりますが、これで生産と消費の均衡が一気に回復することは間違いありません。その結果、デフレが終わるので失業や倒産も大幅に減るでしょう。

それだけではない。ベーシックインカムには様々な社会的効果もあるはずです。

まず労働力の流動化です。現状では経営者は簡単に従業員をレイオフできない。労働者の方も会社を辞めたくても辞められない。会社にしがみついているしかない。労使双方が身動き出来ない。これがベーシックインカムで最小限の生活資金が確保できるとなったら労働力は一気に流動化します。企業が労働者を簡単に解雇できるように法を改定するといった不人情なことをしなくても、ベーシックインカムがあれば労働力は流動化します。

それから少子化問題。私は長期的には人口の減少は望ましいという立場ですが、急激な人口の減少は好ましくないし、若い人たちが経済的事情によって結婚できないのは悲劇です。しかしベーシックインカムがあれば、仮に月8万とすると二人で所帯を持つと16万、子供ができて子供には半額の4万で計20万になる。最低20万は入ってくる。かりに後はアルバイト収入しかない場合でも、これで所帯を持てるんじゃないでしょうか。金額自体は少なくても生涯にわたる固定収入があれば生活設計が容易になります。少子化対策としてはベーシックインカムしかないと思います。

それから今の日本の根本問題は大都市への人口の集中、特に首都圏への人口の集中だと思います。これがベーシックインカムが支給されると月8万か10万でも物価の安い地方に行けばそれだけ使い出があるというので都会から地方に移住する人が増えると思います。

さしあたりベーシックインカムがあれば地方にすぐ職がなくても移住に不安はない。地方に移住してから職をぼちぼち探すなり自分で起業するなりすればいいわけで、ベーシックインカムは大都市に集中した人口を全国的に均しく分散させる可能性を秘めています。実際大都会のサラリーマンで地方に住みたいとか農業をやりたいという人はかなりいるわけで、そういう人は夢がかないます。

それから、教育の問題。今の日本で猫も杓子も大学に行こうとするのは学問が好きだからではなくて将来の経済的保証を求めるからです。だから生涯にわたってベーシックインカムが保証されるとなったら教育の在り方ががらりと変わるはずです。学歴の肩書きを付けるために大学に進学するより技能が身に付く専門学校に行こうという人が増えるでしょう。さらに中学高校を出たらまず社会人になって、社会の中で自分のやりたいことを改めて見つけたらその時大学に入って専門の勉強をする、それが普通になるでしょう。大学は社会人入学が中心になることが望ましい。今のように、受験秀才がそのまま大学にはいって社会常識に欠けた専門家になるのは大変問題です。教育改革でいくら議論を重ねても日本の教育問題の根本は所得の問題だからどうしようもない。ベーシックインカムを実施しないかぎり教育の問題は解決しません。

それから女性の権利の問題。女性に経済的なハンディキャップがあることは間違いがありません。最近は女性も企業戦士になってバリバリ働くことが女性解放だ、みたいな説を聞くんですが、こういう話を聞くと戦時中の女学生の女子挺身隊を連想してしまいます。専業主婦をするか、キャリアウーマンになるか、それとも無理なく職業と家庭を両立させるか、女性には多様な選択があってしかるべきです。ベーシックインカムは女性の選択を多様化するのではないか。また経済的事情で暴力亭主と離婚できないといった話は激減すると思います

そして現代は大企業といえども明日はどうなるかわからない時代です。これからは大企業で組織の歯車になって働くより自分で小さい企業でも起こそうという人が増えていくと思います。環境保護のためにも企業規模のスケールダウンでそういう草の根企業が増えることが望ましい。ベーシックインカムがあれば起業に失敗しても食い詰める心配はないわけですから起業に不安がなくなります。日本の経済をサラリーマン経済から起業型経済にするためにもベーシックインカムは極めて有効です。

ベーシックインカムの社会的効果 ―― 労働と余暇、年金制度

それから最後に労働と余暇の問題。労働と余暇は、人間の生涯にわたってバランスの取れたものであるべきです。ところが今の年金制度は産業主義的な制度で、若いうちはガムシャラに働いて歳をとったら産業廃棄物となって国に管理されてぶらぶらしておれ、そしてなるべく早く死んでくれという制度です。これはおかしい。人生観としておかしい。若い人にだって勉強や遊びのための余暇は必要です。ベーシックインカムには労働と余暇のバランスを回復させるという効果もあると思います。

年金制度に関しては、日本の年金制度はもう完全に破綻していて、若い世代ではどうせ年金はもらえないだろうと年金を納めていない人が多いですね。年金制度は所詮人間を労働資源としか見ていない制度なのです。それよりも定年制などやめて、誰もが生涯現役で働けるように職場や産業の在り方を変えていくべきではないか。

以上述べましたように、政府通貨とベーシックインカムは、日本という国をリセットしてがらりと変えることになるでしょう。繰り返しますが、経済の根本問題は生産と消費の均衡であり、その点で政府通貨とベーシックインカムには論理的なつながりがあります。だからベーシックインカムは福祉政策ではない。税収を財源にしてではベーシックインカムの実現は不可能だから政府通貨でやろうということでもありません。この両者は論理的にワンセットの政策であることをご理解いただきたい。

政府通貨とベーシックインカムの思想的根拠

もちろん政府通貨によるベーシックインカムが実現したからといってこの世が天国やユートピアになるわけではありません。

しかし現在の銀行の銀行による銀行のための経済というものはなくなります。現状では経済は銀行のために動いている。経済は問答無用で銀行のためにあるのだから、いったい経済生活は何のためにあるのか、我々は何のために働いているのか、そういうことを議論したってナンセンスなことになる。ところが経済的市民権が保障され、経済の在り方が国民の世論を反映するようになってくると、経済活動の目的は何か、私たちはなんのために働くのか、そういうことが問題になってくるでしょう。経済を動かす価値観、人生観、労働観、そういうものが明確にならないともう経済の運営はできません。政府通貨とベーシックインカムには、たんなる経済的合理性を超えた思想的根拠が要請されるのです。

これから申し上げますように、各社会の労働観は民族の宗教的伝統に深く影響されています。そして宗教的伝統ということでは、日本はやはり神道と仏教の国です。

政府通貨とベーシックインカムによる日本経済は仏教の精神で運営

それならば日本の経済は仏教の精神で運営されるのが望ましいのではないか、日本の伝統を考えるならば仏教の教えが日本の経済の在り方にかなっているのではないか。もちろん信仰の自由は尊重されるべきで、キリスト教徒の排除などありえません。経済全体の在り方として仏教の精神が運営の指針になるということです。そこでそうした指針になる仏教経済学についてこれから話をさせていただきます。ただ皆さんは仏教経済学という言葉には突飛な印象を持たれるかもしれません。袈裟をまとったお坊さんと経済学は結びつかない。ところがこれは私が作った言葉ではありません。1970年代に出た今読んでもきわめて意義深い「スモール・イズ・ビューティフル」Small is beautifulという名著があります。エルンスト・シューマッハーという人が書いた本ですが、これは図書館にも大抵あります。この本の第三章の題が「仏教経済学」なんです。これから申し上げることも基本的にこの本の中でシューマッハーが言っていることに私がいわば補足し敷衍したものです。そういう意味では全く突飛なことを申し上げているわけではありません。

「経営」という言葉は仏教から

講演会会場の仁和寺

講演会会場の仁和寺

仏教経済学がさほど突飛なものではないとことの例をもうひとつ出すと、経営という言葉がありますね。経団連なんてものがあるから「経営」はゴリゴリの資本主義的なビジネス用語だと思われています。だがこの経営という言葉は日本で最初にどこで使われたか皆さんご存じですか。それは源氏物語の中です。源氏物語の夕顔の章の中で「世話を焼く」とか「育てる」という意味で使われています。

だから経営者は本来「人を育てる者」を意味するはずなんです。そして紫式部がどこからこの経営という言葉を持ってきたかというと、これは仏教の経典からですね。経営は元々仏教用語なのです。ですから仏教経済学はそれほど突飛なものではない。聞いてみればなるほどというようなものなんです。シューマッハーは先ほどの本の中でどういう議論をしているかというと、基本的に欧米の経済学者と仏教徒の考え方の違いを対比して論じています。彼ははっきりとは言っていませんが、要するに欧米の経済学者は餓鬼なので、経済学の名で餓鬼道に堕ちた世界を論じている、そういうことです。

さらにシューマッハーが言うには、仏教には八正道という基本的な徳目がある。

この中の一つに正業(しょうごう)という徳目があります。これは浄らかな正しい生き方をということです。仏教にはこういう生活の指針が含まれているのだから、もともと仏教には経済思想があるということです。このようにシューマッハーは生き方として仏教経済学を論じています。私もそうなので、大乗仏教の色即是空の教義から経済理論を作るとか、そういうことを言っているわけではありません。

そして日本では「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の出だしを知らない人はいないでしょう。また田舎道を歩いていてお地蔵さんに出会ったら何かほっとした気持ちになる。そういう日本人の感性に染みこんでいる仏教、特定の教義ではない仏教的感性、それを大事にしたいのです。経済を運営するときにそれを基本的な姿勢にしたいのです。

仏教は道として極める仏道のこと

ただ私も戦後世代の例にもれず長いこと仏教というものを誤解していました。 偏見を持っていたわけではないけれど誤解していました。誤解の原因になったのは「仏教」という言葉です。この仏教という言葉は明治になってキリスト教を意識して使われるようになったもので、この言葉のせいで仏教はキリスト教と同じような意味での宗教なんだろうと考えていました。そう考えると色々おかしなことがあるので、理解に苦しんでいたことがありました。ところが明治以前は仏教じゃなくて仏道と言ったんです。仏教というのは信じるというよりは道として修めるとか極めるものなのです。このことが分からなかったから誤解してしまった。

私は西洋思想史は多少かじっていますが仏教には素人です。そんな私が仁和寺で仏教の話をするなど畏れおおいことですが、皆さんに仏教経済学についてイメージを持っていただく必要があるので、また今時の日本人によくある仏教に対する誤解や偏見を正すということも含めて、あえて知ったかぶりで西洋思想史をやってきた人間から見た仏教ということでお話しをさせていただきます。

仏教は宗教というより精神療法

では仏教とは何か。人間も動物も病気をしますが、人間だけがノイローゼやうつ病になったり精神病になったりします。仏教はこのことと深く関係しているように思います。だからあえて乱暴な言い方をすると、仏教は宗教というよりも精神療法といったほうがわかりやすい。実際チベットのダライ・ラマは神経生理学に非常に詳しいそうです。もっとも精神療法といっても仏教の場合は倫理学や美学も含む広い意味での療法ですが、精神療法と考えるとわかりやすい。そして釈迦という人は、宗教家というよりもむしろ宗教と闘った人だと思います。とくに世界は神が創造したとしてそれでカースト制度を正当化しているバラモン教と戦いました。

また釈迦の時代にはインドは都市や商業が発達して社会が複雑化してきて色々な新しい宗教が現れた。そういう宗教に惑わされる人も増えてきた。釈迦はそういう状況を見て憂うるところがあった。といっても宗教は迷信で唯物論が真理だといった単細胞なことは言いませんでした。いろいろな宗教を調べてみて、そうした宗教は出来そこないの精神療法だという結論に達した。そこで現実に根差し、人間と世界の観察に基づいた知的に洗練された精神療法を編み出した。それが仏陀の教えではなかったか。僧侶の方からは異論があるかもしれませんが、私としてはそう考えています。

仏教は決断の宗教

この釈迦という人、もともとは今はネパールになっている北インドのカビラヴァットゥ王国のゴータマという王子でした。王子ですから召使に囲まれて何不自由なく暮らし、将来は国王になって富と権力の座を極めるはずでした。ところが知性と感性が極めて優れた人だったので、二十代にして富と権力は人間を苦しみ、迷い、病気や死の不安から守ってくれないことを悟った。それで富と権力が約束されている将来の国王の座を捨てました。仏教という宗教は坐禅を組んで瞑想しているといった静的イメージがあるのですが、仏教のすべては、富と権力の座を捨てたゴータマ王子のこの決断の上に成立しています。仏教は決断の宗教です。

苦の問題の解決に知性の総力を挙げる

そして釈迦はすべてを捨てて森の中に入り6年にわたり死んでもおかしくないような激しい苦行をした。その苦行の末の釈迦の結論は、苦行は人間を解放しないということでした。そして森の中から出てきた釈迦は、村娘のスジャータが差し出したミルク粥を飲んで生き返った思いがした。だから仏教の根本には生きる喜びがあるのです。ところが仏教はネクラな厭世的な思想だと思われている。

釈迦は医王と呼ばれることがあります。医者の王様ということです。また釈迦は対機説法といって、相手の性格や境遇を見てそれに合わせて説法をします。これはお医者さんが患者さんの症状に合わせて薬を処方するのと同じです。このように仏教は医療に重なるところが多い。つまり仏教的な考え方からすると、喜びや楽しみはそのまま素直に味わえばいい。しかし苦しみや迷いや不安に対しては人間は知性の総力を挙げて取り組み解決する必要があると考えます。

だから仏教は四苦八苦とか一切皆苦とか言うのです。これは別に厭世的なわけではない。病気の話ばかりするからといってお医者さんはネクラな人間ではないでしょう。それと同じです。あくまで苦の問題にこそ知性を集中させるべきだ。楽しいこと、うれしいことについては屁理屈をこねる必要はない。そういうことだと思います。

徹底的に実践的な仏教

それから仏教は徹底的に実践的な教えです。ヨーロッパの形而上学みたいな要素は全然ありません。釈迦にある弟子が、「この世界は有限なのか無限なのか、死後の世界は存在するのか」といった質問をした。釈迦はそれに一切答えなかった。そして「私には人が現に抱えている苦しみを解決することが大事なのだ。」と答えたそうです。

仏教の各宗派には複雑精妙な教義があります。だが教義は解脱の境地に達するための乗り物で、目的地に着いたら乗り物は捨てられます。だから仏教は教義中心の宗教ではありません。また仏教では宗派間で教義の違いを巡って血みどろの宗教戦争が起こったということもありません。

それから時々仏教は宗教というよりも哲学ではないかという意見を目にしますが、哲学は頭で理解するものです。だが仏教は身体のトレーニングを伴います。何らかの身体のトレーニングをしない仏教徒は考えられません。こういう点では仏教は、あくまで実践的な成果を上げることを課題にしている教えです。

欧米の労働観は、奴隷制と神罰に由来する

そして日本人は仏教の教義の精密なところは理解していなくてもその伝統に漠然と影響を受けてきました。それでは神道や仏教の伝統は日本人の労働観にどのような影響を及ぼしてきたのでしょうか。

経済とはなんですか? 経済とは煎じ詰めれば労働ということです。動物はそこらへんに転がっているものを食べていればいいけれど、人間はどうしても働いて食うしかない。それが経済ということです。しかも人間の労働観は民族の文化によって大きく異なり、それには宗教的伝統の影響が決定的なのです。このことに経済学者は全然気が付いていないのですが、私のように西洋思想史をやった人間から見るとそうなんです。

ヨーロッパ人の労働観を形成した一つに古代ローマの奴隷制の遺産があります。ローマでは奴隷は物言う道具といわれ人格のない道具として扱われました。もう一つは聖書の遺産で、アダムとイブが禁断の木の実を食べて原罪を犯し楽園から追放されて(注)、それ以来人間は額に汗して働かざるをえなくなった。神罰としての労働ということです。ローマの奴隷制の遺産とキリスト教の神罰としての労働。

これが欧米の労働観の根本にあります。古代にローマ帝国が滅亡した後、この古代の遺産は西ヨーロッパ各地の修道院に保存されて、修道院が新たなヨーロッパ文明を形成する核になります。修道院から新しい文化が生まれ、それがヨーロッパ文明を作っていきます。その中で代表的だったのがベネディクト派の修道院です。このベネディクト派の修道院においてローマの奴隷労働とキリスト教の神罰としての労働という二つの遺産が融合しました。それが欧米の労働観の原型になった。

ベネディクト派の修道院には「労働は祈りなり」ラボラーレ・エスト・オラーレという標語がありました。これは、人間は神の道具として奴隷のように働くべしということです。ベネディクト派の修道士は、ローマのように人間の主人に仕えるのではなく神が主人の奴隷になった。キリスト教では神を「主よ」と言います。キリスト教では神と人間と関係は主人と奴隷の関係です。その神に奴隷として奉仕することが労働です。

だから労働とは一種の苦行で、苦しみに耐えてこそ価値があるということになる。苦しい労働を禁欲的にやる、そのように奉仕してこそ神に褒められる。

労働が作業量として計測されるだけのヨーロッパ的労働観

それゆえにヨーロッパ的労働観では、労働は純然たる作業量のことです。たんなる作業量として測られる、つまり時間単位で測られる。均一の作業量で何時間働いた、何日働いたという形で測られる。だからヨーロッパ的労働の代償はラテン語に由来するサラリーで、日給とか月給とかで払われる。サラリーマンの原型は古代ローマの奴隷なんです。

労働とは苦痛に満ちた非人格的で量的に測られる作業にすぎない。そういう発想があるから、ヨーロッパは機械が発明されてもそれで労働を楽にすることはなく、今度は人間を機械の奴隷にしてしまった。機械によってヨーロッパ的な奴隷労働をむしろ拡大したといってもいい。機械のせいで人間はますます忙しく奴隷のように働くことになった。

そうなると労働なんて奴隷がやることなんだからと、他方で働かないで豪勢に贅沢できる奴がかっこよくて賢い、真面目にコツコツ働くやつは馬鹿だという風潮が生まれてくる。それが昔も今も欧米の上流階級の気風です。働かないで金をがっぽり儲けてえらい贅沢ができる。そういう人間であることをひけらかす伝統が欧米にはあります。儒教の中国にも似た伝統があります。帝政中国のエリート官僚は働かなくていい身分であることを誇示するために爪をやたらに伸ばしていました。世界的に見れば上流階級が働かないで贅沢できる身分であることをひけらかす伝統の方がむしろ主流でしょう。今のアメリカの金持ちなんかも似たようなものですね。

日本では労働はたましいのはたらき

だが日本ではどうでしょう。日本ではまじめにコツコツ働く人が評価され、尊敬されるのではないでしょうか。

この国では、食うために仕方なくやっているんだというのでぞんざいな仕事をするような人間は軽蔑されます。だから日本人は世間があまり高く評価しない仕事でも概してきちんとまじめにやります。それから日本の上流階級にも働かないで贅沢できる身分であることをひけらかす伝統はなかったと思います。

京都のお公家さんだってみんな芸事のお師匠さんなんかをやっていたんで、ぶらぶらしていたわけではない。天皇も質素な暮らしをして儀式だの詩歌や学問の勉強で忙しかった。そして日本では賃金と労働条件が少しいいというだけでポンポン職場を変える人は今も少ないんじゃないでしょうか。むしろ経営者の方はそういう人が出てくるのを待っているのかもしれませんが。ヨーロッパ的ないしは中国的な労働観だととにかく労働は苦痛にすぎない。経営者にしてみれば労働はできるだけ切り詰めたい費用にすぎない。できれば完全にオートメ化してゼロにしたいコストに過ぎない。

労働者も仕方ないから苦痛に耐えて働いている。苦痛に耐えた代償として賃金をもらっている。だから労働者の方も少しでも楽をすることしか考えない。欧米や中国の労働観だとそういう風になりやすい。ところが日本の場合はちょっと違うのではないか。まず日本には神道の伝統がありますから。物にもたましいが宿ると考える。だから労働も単なる物質的必要を満たすための物質的活動と考えない。労働もたましいの働きと考える。日本人にはそういうところがあります。

ベーシックインカムによって西洋的労働観から解放する

もう一つは仏教の影響で、労働を修行とか精進と考える傾向があります。労働することは人格的修養であると考える。労働することによって人は自分を成長させることができる。自分中心じゃない社会人に成長する。言葉でなく毎日の労働で人としての在り方を身に着ける。日本人にとって労働は社会倫理の実践なのです。

だからこそ日本人にとっては失業は大問題なのです。経済的に苦しいのどうのという以前に人間失格の危機ですから。日本人には報酬以上にとにかく仕事があるということが大事なんじゃないでしょうか。このように日本人の労働観は神道と仏教の影響なしには考えられません。

私がベーシックインカムを推進するのも、日本人を西洋的キリスト教的労働観から解放したいからです。日本人はもともと凝り性の職人気質の民族でね、日本経済はそういう日本人の気質に合ったものであるべきです。労働は苦痛に満ちた奴隷労働だからできるだけやりたくないという欧米的および儒教的な発想は日本人には馴染みません。もっとも経営者や経済学者の中には欧米崇拝で日本人はまだ奴隷の自覚が足りない、奴隷になり切れてないと怒っている人もいますけれどね。政府通貨によるベーシックインカムが実現したら働くことの意義、経済活動の目的ということが改めて問題になってくるだろうと言いましたが、そういう意味では、こっちに物質的経済があり、こっちに精神的文化があるという二元論はもう通用しなくなってくる。経済が民主化されたら経済自体が文化活動になってきます。そうなると日本の神道や仏教の伝統が新たな意味をもってくるだろうということです。そしてシューマッハーは、仏教経済学の二原則は非暴力と簡素さ、シンプリシティだといっています。

慈悲と簡素さ

非暴力とは仏教用語でいえば慈悲ですね。この仏教の慈悲というのはたんなる感情でもないしいわゆる愛他主義のことでもない。むしろ利己主義か愛他主義かという議論は偽の議論だという思想だと思います。この世のすべてのことは相互に密接につながっているのだから、他人や動植物や自然に対して無慈悲にふるまう人間は、結局最後には自分自身に対して無慈悲に振る舞うことになる。そういう認識であり、そういう認識から生まれてくる感情だと思います。だから人に冷たい仕打ちをすれば、最後にはそれが自分に跳ね返ってくる。経済はそういう認識に立って運営されるべきだということです。

それから簡素さということですが、これは何も仙人みたいに禁欲的な生活をしろということじゃない。そうじゃなくてやはり正業ということですから、人生をよく生きるために邪魔になるもの、足手まといになる余計なものは整理しろ、場合によっては捨てろということです。釈迦のようにすべてを捨てて森の中に入る必要まではありませんが。

経済活動の目的は心の平安

仏教の視点では、富はやたらにあっても余りに少なくても困るものなんです。たとえば貧乏はなぜいけないのか?贅沢ができないからでしょうか。そうじゃないでしょう。貧乏であるということはたえず不安に苛まれ、社会的に屈辱的な思いをするという心をかき乱される体験です。もちろん極度に貧乏していれば健康も害しますけれどね。なにより貧乏とは心をかき乱し人間を貧しくする体験です。だから貧乏は良くない。

しかし、富裕であるということも心を乱す。富裕であれば財産の管理に神経をすり減らし、それなりにストレスや不安で一杯で財産を管理するために生きているようなことになってしまう。財産に執着して人間が見えなくなってくる。おまけにいかがわしい人物がすり寄ってくる。これはこれで心をかき乱される体験です。極端な貧困と極端な富裕は共に人間の心をかき乱す。貧富の差は、あってもそこそこのものでなくてはならない。これを仏教経済学の言葉で言うなら中道ということでしょう。そして経済活動の目的は物質的なものではなく一定の心の状態を実現することにある。あまりにも貧困で技術も未発達だと、人々は生存競争で生き延びることに必死になる。しかしある程度衣食住が充たされたら経済活動によって実現さるべき究極的な心の状態とはどんなものかが問題になってきます。簡素さという仏教経済学の原則からすれば、それは静かな喜びを伴った心の平安ということになるでしょう。

そして日常的に経済活動をしながらそういう心の平安を達成する、そういう経済を考えるべきなのです。これはそんな突飛なことではないはずです。表面的にはせっせと活動し忙しく働きながら心の中は不思議な平安が支配している、そういう体験をしたことがある人は少なくないでしょう。

仏教経済学の指針のもとでの投資や商業活動のありかた

仏教経済学を指針とする経済は、別に停滞した眠ったような経済ではありません。そこには相変わらず企業があり、労働や投資や商業活動があります。こま鼠のようにあくせく働く必要はないスローな経済ではあるかもしれませんが。しかし仏教徒が修行の成果として涅槃に近づくように、経済活動の終着点は心の平安であるべきなのです。経済的な富も技術の革新もこの理想を達成するための手段です。日々の労働もまた悟りと解脱への途である。これが仏教経済学の理想です。そして社会は経済成長、GDPの拡大に固執する必要がなくなります。というのもGDPが絶えず拡大しないと回っていかない経済を作り出しているのは、銀行マネーだからです。銀行マネーにはこれまで述べてきたような一連の矛盾があり、それによる破綻を先送りするためには何が何でも経済の成長が必要なのです。この点では銀行は絶えず泳いでいないと呼吸ができなくて死んでしまうホホジロザメと同じです。だから銀行は死んでも経済成長をやめられない。だが銀行マネーが廃絶されたら社会はゼロ成長でも困りません。むしろ均衡を原則とする経済にはゼロ成長の定常状態に向う傾向があるでしょう。

そうしたゼロ成長経済でも大半の企業はそこそこにやっていけると思います。企業も銀行マネーへの隷属から解放されるのですから。戦後日本の大企業はずっとアメリカ風のコーポレーションをモデルにしてきました。そして質の維持と向上より量と規模を重視する経営をしてきました。しかしこの日本株式会社の時代は90年代以降のデフレと共に終わりました。これからの日本の企業は顧客の信用第一に長年暖簾を守ってきた京都の老舗をモデルにすべきです。老舗型の企業ならゼロ成長でもやっていけます。そういう企業を支えるのは、市場占有率ではなくて独自の製品やサービスから生まれる誇りでしょう。どんな企業もその企業文化の質が問われることになるでしょう。

ネット世論の圧力で政府通貨とベーシックインカムの実現を

これで一応今日の私の話は終わりますが、最後にもう一つ生臭い話をしなきゃいけない。もし私のプランがかなり妥当なものだとして、どうやったらそれを実現できるのかという大問題が残っています。ベーシックインカム党という政党を作って選挙戦を戦って政権取るといったことはできない。そんなことをしても政党間の利権政治に巻き込まれるだけです。

私の考えでは、将来的には議会制国家を自治体連合国家に作り変えて自治体の協議会が中央政府の代わりになることが望ましい。しかしそういう国家体制の転換はすぐには実現しない。ではどうしたらいいか。

現状は自民党政権ですが、自民党政権は一度死んだ者が息を吹き返したゾンビです。そして、60年代の、高度成長よもう一度、というタイムマシン政権です。ゾンビがタイムマシンに乗っている。こんな政権が長くもつはずがない。世界的にも政党政治はどの国でも崩壊状況で、この点ではアメリカやヨーロッパの議会政治も中国の一党独裁もみんな末期症状です。では日本の状況はどうかというと、イタリアと似た感じですね。安部自民党ゾンビ政権がこけた後にはもう有力政党はありません。泡沫政党のきわめて不安定な連立政権になるでしょう。世論の圧力に弱いことがそういう政権の唯一の取り柄です。足腰が弱いから右顧左眄して千鳥足でふらふらする。ですからこの手の政権が出来たら政府通貨をやれ、それでベーシックインカムをやれという世論の圧力を徹底的に高めるべきです。

もっとも世論の圧力を高めるといっても皆さんも忙しいから集会だのデモだのはやってられない。各地でベーシックインカム研究会を作るのもいいけれど、それも容易ではない。しかしパソコンを持っていればネットで発言することはいつでもすぐにできるはずです。だからとにかくネット世論を盛り上げるべきです。インターネットを覗いたらどこもかしこもベーシックインカムの話だらけという状況をつくりだす。そして「ベーシックインカムをやります」といわなくては選挙ではとても当選できないと政治家が観念するような空気をネット世論で醸成していく。こうしてよろめく泡沫政党の連立政権を世論で包囲し押し切って、超党派で政府通貨とベーシックインカムをやらせる。

それからアベノミクスが案の定破綻したら、デフレに対してはもう政府通貨しか打つ手は残っていないという声が出てくると思います。そういう声は前からかなりあったわけですから。実際、どう見ても経済の窮状の打開策としては今や政府通貨とベーシックインカムしかないのです。海外でも財界寄りの新聞までそうした議論を取り上げるようになってきています。

さしあたり皆さんは私の見解が基本的に正しいと思えたならば以上の方向でネット世論を盛り上げていただきたい。長いことご清聴ありがとうございました。

(注)キリスト教の中でも明確な原罪の教義があるのは、聖アウグスティヌスの神学を継承した西欧のカトリックとプロテスタント諸派だけです。ロシア正教など他の宗派には明確な原罪の教義はありません。

追記

社会信用論チャート1

社会信用論チャート2

追記:ダグラスの社会信用論には政府通貨の発行とベーシックインカムの実施に加えてもうひとつ「正当価格」JUST PRICEという政策提言があります。これはある国の経済の供給と需要にかりに20%のギャップ、デフレギャップがあった場合、一定の期間を区切って全国一斉にすべての商品を20%値引きして販売するというものです。値引きした分は販売部門に政府通貨によって後で補償されます。これも円滑な経済循環を促進するための政策です。もちろんこの措置によっても売れ残る商品は出ます。しかしこの政策の狙いは心理的効果にあります。

デフレの状況では消費者は商品はこの先さらに値下がりすると予想して財布の紐を締めてしまい、そのために企業は価格破壊競争に走りデフレは一層深刻化します。しかし値引きが全国一斉に同一の値引き率で公的に秩序だった形で行われた場合には、大抵の消費者は値引き期間中に商品を買っておこうとするでしょう。正当価格の狙いはこうした心理的効果によるデフレ・スパイラルの予防にあります。

ダグラスと同時代の通貨改革論者シルヴィオ・ゲゼルは使わないでいるとどんどん目減りする減価貨幣によって人々に否応なく商品を買わせることを考えました。インフレを起こそうとしているアベノミックスにもそうした通貨の減価を目論んでいるところがあります。こうした貯蓄に対する事実上の課税によって消費を強制する試みに対して、ダグラスは所得を保証したうえで価格を正当なものにすれば人々は進んで商品を買うと考えた訳です。

質疑応答

大分から来ましたAと申します。最初にまず誰が悪いというスケープゴート探しをするんじゃなくてまず構造自体の問題であるというお話があったと思いますが、日本人をあえて考えてみると、構造の中でコツコツやるのが日本人的かなと思ったので、世論をネットでもりあげていくというのはちょっと難しいかなと思ったんです。その点では盛り上げ方をお聞きしたいと思います。はかなさみたいなものをめでて、経済状況もそれと同じでその中で順応していくというか、頑張っていこうみたいなのがあるような気がするんですけど。

はかなさの美学といえば、日本人は別に経済がゼロ成長でも平気なのではないでしょうか。日本人の感性や考え方は進歩というより諸行無常ですからこの国はむしろゼロ成長経済に向いているのではないか。ネット世論の盛り上げ方としては、政府通貨とベーシックインカムで景気回復とか経済成長再びみたいなことが強調されると私が言っていることと趣旨がずれる感じですね。生産と消費の均衡の回復が経済の根本問題で、それには政府通貨とベーシックインカムしかないこと。これが一番わかりやすくて世間で通る議論ではないかと思います。

しかもこればかりは、日本人的な精神でコツコツと部分的に徐々に実現というわけにはいかない。通貨の問題はシステムの問題ですから。このことがなかなか分かってもらえなくて私も苦労しているんです。通貨currencyとは紙幣や硬貨のことではなくて近代経済を統合しているシステムのことなのです。ですから部分的手直しということはできません。アベノミクスなるものは、日銀がじゃんじゃん通貨を発行して銀行に注ぎ込めばデフレは部分的手直しで何とかなると思っているわけですが、かえってそれでシステムの不安定性が増している。このままやらせておけばえらいことになると私は思っています。通貨や金融に関してだけは困難であってもシステムを再構築するラディカルな政策が必要です。

関さんのお話大変感動しました。明日からでももうベーシックインカム実現したいなと思います。私は国産小麦を使ったパン屋をやっています。いい材料ばかり使ってまさにゼロ成長の儲からないなぁと思いながらも仏教経済学の精神でやっていまして、今日勇気をもらいました。話は変わるんですけど、年金制度のこれからをちょっとお聞きしたいと思います。私は今40歳なんですけれども、いままで真面目に20年払ってきまして、でも消えた年金の役員たちの下手人もまだ挙がってないし、消費税を今度から上げるといって、謝罪もなくまた違う使い道にしようとしている。個人的にちょっと悩んでいまして年金を払うのを、今ちょっとストップしています。ちょっと下世話の話なんですけど、どのような行動をとっていいかというご相談と年金制度の未来をお聞きしたいです。

これについては原則的なことを申し上げるだけで、人生の選択に関してあなたに受けあえるような責任ある発言はちょっとできませんけれども。私があなたの年だったら年金払いませんね。私は今70です。戦後の繁栄で一番得をした世代です。ろくに働かなくても年金はがっぽり。だから今の高齢者は保守化して、高齢者の利権を守ってもらおうと自民党に票を入れているわけでしょう?

あなた方はツケだけまわっておいしいものは何もない損な世代です。本当に私は怒っている。あなたのように起業されている人は本当に幸せです。日本人は労働を修行として考えると私は言いましたが、そういう意味ではアルバイト暮らしで食いつなぎながら気が付いたら40代になっていたといった方々の空しい思いは察するにあまりあります。これぐらい日本人の気質に反する生き方はありません。私があなただったら年金を払う分を別のものに使いますね。その分貯金したほうがましかもしれません。年金制度は実質的に崩壊していると思います。私の周りでも若い人は国民年金を納めていない人が普通です。

年金という制度は果てしない経済成長や人口の増加が前提になっています。日本の年金制度は基本的には農村を解体させるための政策でした。高度経済成長を支える労働力を作り出すためには地域の地縁血縁の相互扶助でつながっている農村の社会構造を解体させる必要があった。日本の農村は戦後の農地改革のおかげで一応豊かでした。必死になって都会に職を求めて出る必要はなかった。それじゃ困るから都会に働きに来ても年金があるから大丈夫という制度を自民党政権が作った。今は日本は完全に都市化してしまったのでこういう制度は歴史的役割を終えて破綻ということになった。国は長期的なことは考えていません。

定年制は人間をたんなる労働資源として見ている制度です。私としては、定年制はやめてベーシックインカムで基礎所得を保証して、高齢者でも生涯現役で働けるように職場と産業の在り方を変えていくべきだと思っています。例えば高齢者には職住接近というだけでも助かる。満員電車で通勤なんて高齢者にはしんどい。そういう労働環境があればベーシックインカムにプラスアルファ―程度のなにか老後の基金で年金はなくても済むのではないか。それに今は青壮年の体力を要求しない仕事も増えています。ただし定年制の廃止はあくまでべーシックインカムとワンセットでなければならないと思います。

福井から来ましたBと申します。今日はお話ありがとうございました。質問というかご意見を伺いたいことがあります。私もベーシックインカムの実現を目指したいなと思いまして周囲の人にも話していますけれども、そんなものを導入すれば働かなくなる人が出る。ということをいう人がいます。私はそうは思ってないんですけど。 ベーシックインカムの状況でも貧富の差というものは拡大していくわけです。それを抑制するためには法の整備が必要になってきます。そうすると今の腐敗した政治では、富を持つものによって政治も作り変えられてしまいますので、ベーシックインカムとは私は日本に合う選挙制度や政治システムとセットにならないと実現は難しいと思っています。それに関してベーシックインカムとセットになるべき政治システムというものに関しては何かアイデアをお持ちなのかということを個人的にお聞きしたいと思っています。

ベーシックインカムと聞くとすぐに条件反射的に「そんなことやったら怠け者が増える」という反応が返ってきます。これはなぜか。現代人の労働は奴隷的労働だから人々は心の中に「一度遊んで暮らせる身分になってみたい」という無意識な欲望をもっています。それがベーシックインカムと聞いてすぐさま口に出るということではないか。ではそういう人が実際にベーシックインカムが実現したら遊んで暮らすかどうか。月8~10万円程度の所得で遊んで暮らせるかどうかは別にして、まったく働かなくなってダルマさんみたいになる人はきわめて稀なのではないか。人間にとっては何もしなくていいことは、むしろ苦痛です。というのも労働は個人と社会を結びつけるもっとも決定的な絆だからです。働かないでいることは辛いことです。だから私の周囲の年金暮らしの人でもダルマさんをやっている人は一人もいません。引きこもりやニートが羨ましいという人も聞いたことがありません。何もしないで平気という人はむしろ病理的な例でしょう。

ただベーシックインカムが実現すれば我々の働き方はスローで寛いだものになりそうです。もうあくせくする必要はなくなります。これは大変結構なことです。1970年代に北欧などで生涯総労働時間の規制ということが議論されたことがありました。現代人は働きすぎるから環境が破壊され資源が枯渇する。だから一人の人間が生涯に働く時間に上限を設けようという議論でした。実際、環境保護という点では、バリバリ働く有能な人より競輪競馬に夢中の方が環境にやさしいと言えるのです。まあ競輪競馬はさておいて、現代人の働くテンポが緩やかになることは環境にとっても人間にとってもきわめて望ましいことです。

それから仏教経済学は何よりも経済を運営する姿勢のことです。理論でも政策でもイデオロギーでもありません。日本人の民族的宗教的伝統に根を持つ労働観を尊重して経済を運営していこうということです。そしてこの伝統は神道と仏教であり、アメリカのキリスト教的伝統や中国の儒教的伝統とは異質なものです。日本人はこのことをはっきり認識してわが道を行きわが道を貫くべきです。これは排外的ナショナリズムとは何の関係もありません。自分たちの個性とそれを形成してきた自国の歴史を自覚するということです。そして外国とは国際法の遵守とギブ・アンド・テイクのビジネスを原則として付き合う。国際法を守らず詐欺的ビジネスをやる国とは付き合いません。つまり経済的には互恵を条件とした開国で社会的には脱グローバル化の鎖国ということです。もっとも自国の文化にとって栄養になる外国の文化は積極的に学習し摂取します。そのかぎりで国際的な文化交流は重視します。そしてこのような外国文化の学習、そのおいしいところを適当につまみ食いすることには、昔から日本人は大いに長けていました。例えば音楽。外国人は概して音楽に関しては国粋的で、フランス人はカンツォーネを聴かないしイタリア人はシャンソンに無関心です。アメリカ人など同じ英語の英国の音楽すら聴かない。ところが日本ではシャンソンやタンゴやカントリーでプロの歌手さえいます。こんな国は他にありませんよ。おかげで日本は市場規模でアメリカと肩を並べる音楽大国になっています。

それから政治体制についてはデモクラシーしかありえません。今日も私はデモクラシーは経済的なものでもあるべきだという話をしました。政治体制は、各国の民族的宗教的伝統に根ざした労働観とは別の事柄です。というのもデモクラシーにはいわば人類学的な普遍性があるからです。例えば仏教の信徒の団体であるサンガには模範的なデモクラシーが見られますが、仏教でなければデモクラシーは実現できないということはない。他方で同じキリスト教の伝統を持ちながら、スイスには本物のデモクラシーがあるのに、アメリカにはデモクラシーと称する政党とマスコミのデマゴギーがあるだけです。デモクラシーには人類学的普遍性があり、近代の欧米にしかないものではない。ですから例えば日本でも戦国時代の末期にこの京都府に山城国一揆として一時的に共和国が生まれたことがあったし、江戸時代の惣村では入れ札(選挙)で村長を選ぶことが普通でした。輪番制もあったようです。また寺や神社が中東のモスクに似た役割を果たして民意が表明される場になり、それが為政者に伝わるといったこともあったらしい。

ではなぜデモクラシーには普遍性があるのか。それは一度征服などによる暴力に基づく統治が否定されると、その後は世論による統治しかありえないからです。そして世論が本物の世論であるためには、個々人の意見が尊重されねばならない。ところが世論の統治としてのデモクラシーには常に二つの危険があります。その一つは政党やマスコミや教育が世論を操作したり捏造したりする危険です。この危険を警戒し絶えずそれと闘うことなしにはデモクラシーは存続できません。もう一つは、世論にはまともな言論とおかしな言論を篩い分ける淘汰のメカニズムが備わっていなければならない、誰もが好き勝手なことを言っているのは世論ではありません。今日のデモクラシーにはこの言論の淘汰機構が欠けています。だから容易にデマゴギーに堕してしまう。言論の自由は、言論の篩い分けを可能にするための自由です。好き勝手なことを言ったり嘘で人を欺く自由ではありません。アメリカは自由な選挙と言論の自由があればデモクラシーなのだと言っていますが、この世論の淘汰がないのでデマゴギーに支配された国家になっています。

そして個々人の意見を尊重することは個々人に他者と等しい権力を与えることです。その意見が正当なら人を動かせるということがなければ意見を表明する自由は無意味です。ですからデモクラシーのもう一つの原則は自治と分権です。権力の集中の排除です。この点ではやはり模範的なのはスイス連邦です。スイス人は自由な選挙で選ばれる議会がありさえすればデモクラシーだとは考えない。議会への権力の集中を排除するために、国民発議権などの直接民主主義やカントンの自治で議会の権力を制約し、カリスマ的指導者がでてこないように大統領も輪番制にしています。だから皆さんも多分、今のスイスの大統領の名前を知らないでしょう。とにかく本物のデモクラシーということでは、スイス連邦から学ぶことは多いです。

京都から参りましたCと申します。本日は貴重なお話ありがとうございます。政府通貨の制度の物価上昇に関してなんですけれども、先生のお話だとデフレ下では機能すると思うのですが、インフレに転じている時であったり、今みたいに需給ギャップが縮小していた場合だとこれをやると物価が永続的に上昇してしまうと思います。その対策というのがあれば教えていただけるでしょうか。

まさにそうした問題がありうるから国家信用局がテクニカルに信用を管理する必要があるのです。ただし大規模なインフレやデフレはあくまで銀行が私的ソロバン勘定で通貨の供給を増減させているから発生するということは押さえておいていただきたい。しかし経済循環の円滑な促進に必要な量の通貨をきっちり正確に算定することは不可能でしょうから通貨の過剰供給で多少インフレが発生することはありうるでしょう。そして生産と消費が均衡する量の通貨を供給することだけでなく、通貨の価値を安定させることも国家信用局の課題です。そしてこの機関はソロバン勘定で動いているわけではないから、事態をコンピューターで適切に分析し、それに応じていくらでも通貨の供給量を調整できます。ではどのように調整するかについては、いろいろな方策がありえます。景気の過熱を抑制するための臨時措置として企業への融資に利子を付けることもありうるかもしれない。場合によっては一時的にベーシックインカムを減額することもありうるかもしれません。しかしこれはあくまで通貨の過剰供給を修正するための措置であり、銀行の借金取立てや貸し剥がしと同じものではありません。物価の上昇が止まったらこういう措置は直ちに撤回されます。

そしてこの通貨の価値の安定ということも、私がベーシックインカムは信用の公的管理とワンセットでなければならないと主張する理由です。税収を財源としてではベーシックインカムは難しいから政府通貨でということではないのです。この点では、私はスイスでの動きに危惧を持っています。ご存知のようにスイスでは先に国民発議によってベーシックインカムの支給を憲法条項にするかどうかで近く国民投票が行われます。スイスの案は、私のようにマクロ経済のフローの次元で生産と消費を均衡させるといったものではなく、福祉のより充実した代案として出てきたもののようです。これはやはりインフレをもたらす危険がある。28万円ほどを支給するという案ですが、スイスはハンバーガーが何千円もする物価が高い国なので、日本円にすれば8~10万円程度の支給ということらしい。しかし通貨の供給量の公的調整がないからインフレになる可能性がある。そうなるとベーシックインカムは実質的に数万円程度の所得保証の名に価しないものになってしまう恐れがあります。そして財源としては税収で、社会保障費を全廃してベーシックインカムに回すということらしい。ベーシックインカムを通貨改革の一環としてではなく、福祉の代案として考えると、そういうことになる。しかし例えば身体障害者や一人暮らしで病気がちの高齢者などの場合、月8~10万程度の所得があればいいということにはならないでしょう。やはりベーシックインカムと福祉や社会保障は別個に考える必要があります。もともと別のものなのですから。スイスの案はもし実施されたら税収を財源とするベーシックインカムは不可能であることを証明する結果になると予想しています。

京都で関西ベーシックインカム勉強会というのをしていますDと申します。今日はお話聞かせていただきましてありがとうございました。少し前なんですけれども政治記者をされている方の講演を以前お聞きしたことがありまして、そこで自民党の方が給付付税額控除ということで、ベーシックインカムに近い形であれば実現もう少し早まるんじゃないかというお話を聞かせていただいたことがあります。 このようなベーシックインカム的な方法から実現してみて問題点が起きて変更していくという形よりは、最初から政府発行通貨によるベーシックインカムという形で進めていくということの方が望ましいのでしょうか。そのあたりをお聞かせいただけたらと思います。

お話したように政府通貨は議会政治とは両立できません。だから世界で政府通貨発行の方向で動いている国は一つもありません。その点では、皇室の伝統的権威というものがある日本は、世界の中で例外的に信用の公共的管理を容易に実施できる国なのです。議会制による混乱もファッショの危険もなしにです。その自民党の案というのは存じませんが、負の所得税というのは以前からよく議論されていますね。所得が一定の基準に満たない人に対しては国が逆にその基準にまで所得を補填するという措置です。これはケインズ主義者を自称したニクソン大統領がやろうとしてウォーターゲート事件で流産してしまったもので、新自由主義のミルトン・フリードマンも推奨している政策です。まあ、これは大企業にとってはさほど懐が痛まずに有効需要は確保できるという財界も異論がない政策なのでしょう。銀行も安泰な政策です。だからといって私はこれを否定するつもりはありません。これですぐに実施できるようなら、まず負の所得税を実現したらいい。日本の国籍さえあれば誰にでも最小所得への権利があるという思想が世に広まるのは結構なことです。そしてこれをやってみても経済はさほど好転しなくて、やはり政府通貨を発行しないとダメだということになると思いますよ。

どうも京都から来たEです。ありがとうございます。質問ですけどイスラム銀行のお話をされていましたが、イスラム銀行がうまくいっているのはやはり思想的にもバックボーンとしてイスラム教というものがあると思います。日本で、関さんが言われるように仏教をバックボーンとして、しかも皇室発行券とか使ってはたしてそれでうまくいくかなと思うんですね。働くことはいいのだけれどお金ということに対して日本人は少し汚さを感じる側面、士が偉くて上で商が下というような考え方まだあると思います。そのあたりは、どう思われるか、お考えをぜひお聞かせください。

今日は通貨改革と仏教経済学の話を同時にしましたので、皆さんも私の話をどう整理して理解したらいいのか、多少戸惑われたかもしれません。別立てにして話すべきだったのかも。そこで私の勝手なお願いですが、この二つの論題ははっきり区別して頂きたい。政府通貨とベーシックインカムはあくまで制度の構築の問題です。他方で仏教経済学はあくまで心構えの問題、経済は日本の宗教的伝統に根ざした労働観を尊重して運営さるべきだということです。ですから国家信用局は、憲法の「国民統合」の原則に忠実にあくまで金融のエキスパートとして仕事をします。毎朝仕事に取りかかる前に皇居の方向を拝んだり、座禅を組んだりするわけではありません。

それから庶民の間にはお金を汚いもの、不浄なものとみなす風潮があることは確かです。その理由ですが、おっしゃるように官尊民卑の遺制があると思います。江戸時代の武士は、武士には義があるのに町人や職人には利しかないと公言していました。もっともこれは身分差別というより、町人や職人の方が自由で豊かだったことに対する武士の僻み根性の表れだったのではないかと思いますが。そしてこの武士の高慢さを高級官僚が受け継いでいます。官僚には義があるのに愚かな国民には利しかないのだから、国民は官僚に指導さるべきだという屁理屈です。そして金には超然としている振りをする。しかし有利な天下り先のことで頭が一杯の官僚のどこが士なんでしょうか。しかも彼らは実質的に銀行の下僕です。公僕ではなくて銀僕です。だからバブルが弾けて破綻した銀行を国民の公金で救ってやる。とんでもない話です。

庶民が金を汚いものとみなすもう一つの理由は、銀行の銭ゲバ経済の当然の反映です。銭ゲバが経済全体を動かしている。だから庶民がお金を銭ゲバの道具とみなすのは無理からぬことです。そしてもう一つの重要な理由は、庶民にはお金のあるべき姿についての漠然としたイメージがあるので、それに較べてこの浮世のお金は汚いと感じるのです。庶民は実は労働に対して「賃金」を払うという西洋的発想には納得していません。そして報酬というものは、相手に対する敬意をこめた「謝礼」であるべきだと思っている。だから賃金としての金は汚い感じがする。しかし講演で申し上げたように、現代社会ではお金は生活インフラです。電気や水道と同じようなものです。だから葬式に行くのにも香典が必要です。香典は汚いお金でしょうか。

私がデモクラシーは経済的なものでもあるべきだと論じたのは、まさにお金の在り方を変えたいからです。皇室券の形ですべての国民に無条件にベーシックインカムが支給され経済的市民権が保証されるようになれば、人々のお金についての考え方も変わるでしょう。そしてマネーは人々の人倫の絆、国民の相互信頼の印とみなされるようになることでしょう。

もう一つとてもお伺いしたいことがありましてお伺いします。天皇の存在についてなんですけれども、確かに江戸時代ですと幕府があり天皇がいる。その二つが調整を非常に良くしていたので江戸時代というものはうまく成り立っていたと思いますが、明治維新以降天皇の存在というものは大分変形変容してしまったと思うんですね。戦争をするために一神教の主となる天皇というものをつくったのではないかと考えます。私は天皇制については反対なんですけどその点についてはどのようにお考えでしょうか。

肝心なことは皇室と天皇制を明確に区別することだと思います。皇室は古代日本に登場して以来幾多の歴史的変遷を経てきた存在です。皇室の歴史は古代に帝政中国から導入された律令国家の体制が日本の風土に即して変容してきた歴史と言えるでしょう。他方で天皇制はあくまで薩長が維新と称するクーデターで非合法に簒奪した政権を正当化するためにでっちあげた虚構です。明治の天皇制国家はファッションとして国粋を装いました。しかし前から指摘されていますように、この国家のモデルになったのはカイザーのプロイセンです。帝政ドイツの権威主義国家体制です。そして明治政府はヨーロッパの強国は一神教のキリスト教と不可分であることを知って、天皇を神格化する神学として国家神道なるものをでっちあげた。キリストが人となった神であるように天皇は現人神とされた。しかし江戸時代の京都では天皇は「天皇はん」と呼ばれていたわけですよ。この点では、天皇制国家によって最大の打撃を受けたのは日本古来の神道の伝統でしょう。

そして左翼は明治国家の体制を天皇制と命名することによって、左翼イデオロギーによって虚構をむしろ補強してしまった。左翼は天皇制を虚構として暴くことをせず、あたかも日本の歴史の中に深い根を持つものであるかのように論じることによって、天皇制に事実上協賛することになってしまった。しかし薩長の権力亡者がクーデターをやる以前には、皇室は歴史的変遷の末に京都文化と一体化していたのです。ですから皇室は江戸城(皇居)から平安時代以来の座である京都に、京都御所に帰還して本来の姿を取り戻すべきでしょう。「京都」はもともと天子のおはす都という意味なのですから、これは当然のことです。そして京都は例えばバチカンやかつてのイエルサレムのような聖都、京都皇国といったものにすることも考えられます。私が皇室券を発行する国家信用局は京都に置くべきだと言ったのも以上のような見解に基づいております。

関さんがよく言われる「高橋是清は日銀による国債の直接引き受けをして事実上の政府通貨を発行した」という文言。国債の日銀直接引き受けがなぜ政府通貨の発行になるのですか。わかりやすく説明してもらえるとありがたいのですが。

日銀による国債の直接引き受けを図にすると下図のようなことになります。

日銀国債直接引受参考図

日銀は政府が売ってきた国債をその額に相当する通貨を刷って直接買い取ります。これは政府と日銀の間の売り買いですから、政府の日銀に対する借金にはなりません。そして国債には本来銀行に払うべき利子が付いていますが、日銀の場合は利子収入を国庫に納めることになっているので政府が日銀に利子を払う必要もありません。この方式なら政府は銀行に対する負債にならず利子も付いていないお金をストレートに手に入れることができます。つまり政府通貨の発行と事実上同じことになります。

ただこのように既成の制度の運用で政府通貨の発行に等しいことをやった場合、長期的には問題が生じてくる恐れがあります。つまり日銀が売れるかどうか不明な厖大な額の国債を帳簿上で抱え込むと いう問題です。

下図は日銀が目下いわゆるアベノミックスでやっている国債の間接引き受けを図にしたものです。

日銀国債間接引受参考図

これは日銀が経済危機でアップアップしている銀行にお金をどんどん注ぎ込むための方策です。金融用語では公開市場操作における買いオペと呼ばれるものです。日銀はお金をどんどん刷り増しして、それで銀行業界から各銀行がこれまでに買い貯めた国債を買い取る。引き換えに銀行には日銀が無から創造したお金がたっぷり手に入る。銀行業界を救済するためのものです。

こうすれば資金が潤沢になった銀行は企業や個人にお金を気前よく貸すようになって景気が回復するというのが日銀の言い分です。しかし非正規雇用などによる賃金の低迷、失業や倒産という実体経済の現状で、それでも銀行から借りようという人はきわめて少ない。そこで銀行は日銀から注ぎ込まれたお金を株式や商品などへの 投機に回す。それで株価が上昇して景気が回復したかのように見えることがあります。また株の高騰などで手持ちの金融資産の価値が上がった富裕層が、いわゆる富裕効果で贅沢品を買ったりして、やはり景気がよくなったように見えることがあります。しかしこれは一時的で線香花火のようなバブルにすぎません。そして日銀がいつまでもこんなお金の刷り増しをやっていると円=日銀券の価値に不信感をもつ投資家が増え、国債の利回りを高くしないと国債に買い手が付かなくなる。すでに日本の税収の四分の一は国債を買っている銀行への利払いに充てられています。そして長期国債の利回りが2%台になると税収はすべて銀行への利払いに充てられ、日本国家は消滅するという議論もあります。

関曠野さん講演録「ポスト3.11日本の将来を考える」第2部

関 曠野 講演録

3.11以後

― 原発事故をくぐった日本の将来を考える ―

2011年9月24日(土)東京都内にて開催

講演者:関 曠野

※ 本講演録は、当日の記録に関さんの加筆訂正を加えてあります。特に「経済問題」を扱った第二部は、現在の社会状況にあわせて全面的に書き直していただいたものです。

第二部:ポスト・ドル基軸通貨時代の日本社会を問う INDEX

  1. ポストフクシマで問われる日本の政治経済システム
  2. 戦後日本における美学から経済学への文明原理の転換
  3. 伝統とは新しい境地を切り開くこと
  4. 嘘で動いている現代社会
  5. 自由貿易論の由来
  6. アメリカの覇権を正当化する嘘としての自由貿易
  7. 特権的地位を得たドル紙幣
  8. ドル基軸通貨体制を防衛するための「自由貿易」
  9. 主人と奴隷の弁証法
  10. 必要なくなる自由貿易による正当化
  11. 日本にのみ通用する「自由貿易」
  12. アメリカの本音では迷惑な日本のTPP参加
  13. 19世紀と20世紀で違う貿易の意義
  14. 過剰生産を貿易で解決したアメリカ
  15. 消え去るしかない世界貿易
  16. アメリカ型浪費型経済の終わり
  17. 現代経済は市場経済というのはデマ
  18. 現代は銀行独占経済
  19. 公益事業としての通貨発行を独占している銀行
  20. インフラ通貨から金融商品通貨への変容
  21. マルクスの資本主義論の間違い
  22. 議会制と政党政治化では党派マネーになる政府通貨の問題
  23. 民間需要に社会信用論はどう対処するか
  24. イスラム銀行に学ぶ
  25. 公共通貨とベーシックインカムの相互関係
  26. 第一部:「国土風土に根ざした思想を再考する」へ戻る

ポストフクシマで問われる日本の政治経済システム

反原発派は、普通の事故と違って、原発事故は一度起きてしまったら取り返しがつかないとして、原発に反対してきました。福島の事故は今なお進行中ですが、その取り返しのつかないことがすでに起きてしまったのです。この事故の全貌が健康被害を含めて明らかになるには、あと何十年もかかるでしょう。事故の傷跡が一応癒えるには、1世紀ぐらいはかかるでしょう。

冷戦の時期には、どこかの邪悪な国が日本を核攻撃して領土を奪う危険があるとされていました。ところが今、我々は自国の政府と電力会社によって核攻撃され、国土の一部を立ち入り禁止の形で奪われてしまいました。この日本の政治経済システムこそ、真に我々の敵であります。してみればこのポスト・フクシマの状況で、我々がまず問わねばならないのは、「なんでこんなシステムができてしまったのか」という問いでありましょう。

戦後日本における美学から経済学への文明原理の転換

そこで今日は、その部分的なヒントになりそうなことを申し上げました。

その第一は、戦後日本の見境なしのアメリカナイズという問題です。そのせいで、国土、国柄、それが育んできた文化について深く考えなくなってしまったことです。第二に、戦後からさらに明治維新にまで歴史を遡れば、京都から東京への首都の遷都はたんなる行政的措置ではなく、日本人の価値観や生き方の転換や変質を意味していました。しかしこの事実も軽視されてきました。私の見るところでは、これは美学から経済学への文明の原理の転換、ビューティフルからビッグへの価値の転換にほかなりません。

伝統とは新しい境地を切り開くこと

それゆえに、維新と遷都で一度は死にかけた京都の再生の歴史は、ポスト・フクシマの状況に放り出されて迷い悩む日本の草の根の人々には、進路を照らす指針やヒントになるのではないでしょうか。そこでとりわけ大事なのは、京都の永年の地域自治の伝統です。番組小学校の運営費も琵琶湖疎水の建設費も、京都市民は政府をあてにせず特別税などで自ら拠出しました。これもしっかりした自治の伝統があればこそです。英語で伝統を意味するTRADITIONの語源をラテン語に遡ると、これは「譲り渡すこと」を意味しています。伝統とは、価値あるものを世代から世代に譲り渡していくことである。そして京都の場合、市民の地域自治がその価値あるものでした。この伝統ゆえに京都は雅であるとともにタフな都市でもあった訳です。そして伝統とは古臭い物事にしがみついていることではなくて、それ自体絶えず脱皮しながら人々が新しい境地を切り開くことを可能にしてくれるものなのです。

嘘で動いている現代社会

原発は実はウランで動いているのではありません。原発は嘘で動いています。「原発は安全」という嘘で国民を騙せていなければ、電力会社も政府も原発を建設したり稼動させることはできません。しかし嘘で動いているのは、原発だけではありません。実は、現代社会全体が嘘、ふたつの嘘によって動いています。それを以下の表にしました。

 真実
「自由貿易」アメリカ資本の利益になるように作られているドル基軸の世界貿易システム
「市場経済」銀行の独占経済

自由貿易論の由来

まず自由貿易ですが、これは十九世紀半ばの英国で生まれた言葉です。当時の産業革命のさなかの英国では、新興のブルジョア企業家層と貴族の地主層が対立していました。そして、産業資本家層は農産物の輸入を自由化すれば、労働者の賃金の切り下げが容易になると考え、高い関税による農業の保護を主張する地主層と対立しました。その際、前者の要求を正当化するために出てきたのが自由貿易論でした。これは要するに、各国がその得意とする有利な産業分野に専念して、商品を障害なしに国際的に自由に取引できるようにすれば、結果的に世界全体が豊かになるという議論です。アダム・スミスの「見えざる手」の説を国際経済に適用した議論と言えます。ですから自由貿易論は農産物の輸入に関する英国の国内的議論にすぎなかったのです。しかも現実には、産業革命で先頭を切っていた当時の英国でも、50%の保護関税が普通でした。

アメリカの覇権を正当化する嘘としての自由貿易

そして、この自由貿易という言葉は今でも使われているだけでなく、世界経済の理想、あるいは原則や基準とされ、各国の政財界やマスコミが掲げる錦の御旗みたいになっています。ところがこの錦の御旗の「自由貿易」は、まったくの嘘なのです。この言葉は本来の自由貿易論とはまったく関係がない、政治的現実を正当化するために意図的に誤用されています。では、それで何が正当化されているかというと、アメリカの覇権、アメリカ資本の特権的利益のために存在しているドル基軸経済システムをもっともらしく正当化するために、世論を煙に巻く煙幕として使われているのです。ただし目下、アメリカは覇権国家としては経済的軍事的に急速に没落しつつあります。だが、アメリカが行き詰っているがゆえになおさら、自由貿易が奇跡を起こす魔法の呪文として、騒々しく至るところで唱えられているのが現状です。

特権的地位を得たドル紙幣

では、この嘘はいつから蔓延するようになったのでしょうか。そのきっかけはおそらく、アメリカがドルと金の交換を停止した、1971年のニクソン声明です。それまでアメリカは各国に、貿易で稼いだドルを随時アメリカが保有する金と交換しますと約束していた。この約束がドルの価値を裏づけ、ドルが信認される根拠になっていました。たが、ニクソン声明でドルは、連邦準備銀行が発行するただの紙切れになってしまった。いずれリーマン・ショックと世界恐慌に行き着くアメリカの没落が始まったのです。しかしこれは長期的な問題で、当座は、アメリカはタダで労せずしてぼろ儲けをするトリックを見つけました。アメリカが第二次大戦で勝ち、比類ない超大国になって以来、ドルは世界貿易の準備・決済通貨でした。ドルの力ゆえに旧ソ連にさえドルで高級品が買えるドル・ショップがあったほどです。それだけに、ドルで回る世界貿易は自由貿易どころか会員制クラブみたいなもので、ドル準備がない国はそれに参加できませんでした。だから南の国では、民衆が飢えてもドルを稼げるコーヒーやカカオを栽培するといったことも行われました。

ところが、ニクソンがドルと金の交換という国際公約を破棄したので、これ以後アメリカは、自国が保有する金の量に制約されずにドル紙幣を発行できるようになった。そして各国から輸入した商品に対しては、ドルを刷って払えばいいことになった。ニクソン声明以前のアメリカは世界でトップの先進工業国でしたが、その圧倒的な経済力軍事力以外に特権をもっていた訳ではありません。しかし、ドルを梃子に世界の銀行になるという特権を手に入れたのです。

ドル基軸通貨体制を防衛するための「自由貿易」

我々が資金を銀行から借りようとすると、銀行は「信用の私的創造」ということで、コンピューターのキーボードを叩いて、その資金を労せずして無から作り出して我々に貸します。しかし負債の返済期限が来たら、汗水たらして必死で稼いだピカピカの現金を銀行にもって行かねばならない。商品と引き換えにドルを刷ればいいアメリカの立場は、この銀行と同じものです。こうしてアメリカは、真面目に働かなくても豊かさを享受できる特権的な国になりました。これが1970年代以降に成立したドル基軸の世界経済システムです。アメリカが「自由貿易」を錦の御旗にして守ろうとしているのは、このシステムなのです。自由貿易の建前は、商品の障壁のない自由な交換による互恵であり国際的な共存共栄です。

しかし実際は、アメリカはそんなことには関心がありません。ただ、例えば日本車の輸入が増えすぎて経常収支の赤字が深刻になると、ドル自体の信認が揺らぎかねない ―― そういう場合にドルを防衛するために「自由貿易」をがなり立てるのです。そして、「日本は農業を高関税で保護するなど、フェアでない」と主張します。日本車のせいでアメリカの労働者が失業しても平気で、大統領選の際に一応騒ぐだけです。

主人と奴隷の弁証法

輸入商品の代価にはドルを刷ればいいアメリカは、結構なご身分に見えるかもしれません。しかしその後起きたことは、哲学者のヘーゲルが「主人と奴隷の弁証法」として論じたことに重なります。ヘーゲルによると、主人は奴隷を働かせて自分は安楽に暮らしている。だが、そのうち、主人は奴隷に依存しなければ生活していけないことが明らかになり、主人と奴隷の立場は逆転してしまう。アメリカが主人なら、さしづめこの奴隷は日本や中国でしょう。アメリカは勤勉な日本に貢がせた。しかしアメリカの産業は衰退し、アメリカ人は日本の車や電化製品なしでは暮らせなくなってしまった。そして日本は対米輸出で稼いだドルでアメリカの国債などをどんどん買い、アメリカの債権者になっていった。アメリカはドルをキーボードで無から作れても、日本の債権になったドルに対しては現金で払わなければならない。実際アメリカはその国債の利子だけでも日本に毎年八兆円も払っています。

必要なくなる自由貿易による正当化

アメリカは1970年代以降、とりわけレーガン政権以降、工業国からいわば金融国になったために、利子つき負債という銀行マネーの宿命的矛盾から2008年のリーマン・ショックに行き着き、目下の世界恐慌の震源地になりました。今のアメリカは、メガバンクも家計も、企業も国家や自治体も、みんな莫大な負債に押し潰されています。そのためにドルの世界貿易の準備・決済通貨としての地位も大きく低下し、ドルに対する世界の信認は揺らいでいます。ドルに代わって、世界の主要通貨のバスケット方式で貿易を決済することも、議論され始めています。

この状況では、もうアメリカには、ドル防衛のために自由貿易をがなり立てる余裕はなくなっているように見えます。アメリカが梃子入れして、世界貿易の完全な自由化を意図して、1995年に設立された世界貿易機関(WTO)での協議も、自国の零細農民を保護せざるをえない中国やインドの抵抗で、暗礁に乗り上げたままです。とにかく今のアメリカには、かつてドル防衛の費用を日本に一方的に負担させたプラザ合意の当時のような勢いはなく、自分の家に火がついています。そしてその国内でも、国民生活の安寧と経済の再生のためには、自由貿易ではなく保護主義が必要という声が高まってきています。アメリカの覇権がこれほど弱体化すれば、ドル基軸経済システムを自由貿易という偽りの決まり文句で正当化する理由がなくなります。

日本にのみ通用する「自由貿易」

しかしアメリカがあまりこの言葉を使わなくなったのに、世界中、とりわけ日本では、「自由貿易」がまるで神のお告げのような言葉としてまかり通っています。なぜなのか。それはドル基軸システムのおかげで高度な経済成長を実現できたと思っている国々が、アメリカの凋落にもかかわらず、何とかこのシステムを建て直し存続させようとしているからです。アメリカの衰退、ドルの地位の低下という歴史の現実を無視したこの動きは、ほとんどカルトに堕した、経済成長信仰および過剰消費社会アメリカの生活様式を世界が真似るべき模範とする価値観と一体になっています。そして、この点でとくに悪あがきが目立つのが日本です。

この国の政財官界のエリートは、戦後日本は、アメリカのドルと核の傘の体制にうまく適応してきたおかげで、経済が高度に成長し、経済大国になれたと信じています。しかしその後、金融国家に変容したアメリカは、その貿易赤字とドルの揺らぎは日本の輸出攻勢が主な原因だとして1985年のプラザ合意で日本にドル防衛の費用を押し付け、その結果生じた日本の金余り現象はバブルの発生と破綻を惹き起こし、90年代以降の長期的デフレをもたらしました。それでもこの国のエリートは懲りていない。彼らは60年代の甘い生活がいまだに忘れられないのです。だから、60年代に出来上がった日本の政策から大きく方向転換し、アメリカとドルから自立することは、考えもしないのです。

アメリカの本音では迷惑な日本のTPP参加

目下、日本は、環太平洋経済提携協定(TPP)の交渉に参加するかしないかの問題で、大きく揺れています。日本では、TPPは日本の市場と資産を狙っているアメリカの圧力という見方が広まっていますが、私はこれは少し違うと思います。TPPは深刻化している失業の問題に積極的に取り組んでいる振りをする必要があるオバマの、来年の大統領選に向けた選挙対策です。経済的にはあまり意味がない政治的アトラクションです。ところがその国際交渉に日本が入ってくると大変なことになる。

TPPが実現すれば日本は関税自主権を失うだけでなく、健保など国民生活の枠組みになっている制度がTPP基準で改変されて、日本は別の国になってしまうでしょう。しかもそれでデフレ、震災、原発事故の三重苦に喘ぐ経済が立ち直る可能性はゼロです。だがアメリカにとっても関税がゼロになれば、実力は世界一の日本の製造業の高品質な部品や資本財がなだれ込んでくる。アメリカの衰退した製造業はTPPで日本に止めを刺される恐れがある。日米は相討ちで共倒れになります。

ですから本音では、アメリカにとって日本のTPP参加は迷惑なはずです。ただのアトラクションには入ってこないでほしい。ところがTPPをごり押ししている外務省や経済産業省の官僚は、60年代そのままの発想で、オバマの顔を立てて、アメリカにゴマをすっているつもりなのです。滑稽というしかありません。

国連やIMFなど戦後の国際秩序は大戦で勝利した超大国アメリカがつくりました。だがベトナム戦争やニクソン声明後、アメリカの影響力は衰えつづけ、今はアメリカはもう、国際世界の主役どころか急速に没落している国です。しかし日本の官僚は浦島太郎なので、その頭の中ではアメリカ中心時代がいまだに続いている。とんでもないことです。

19世紀と20世紀で違う貿易の意義

以上述べましたように、「自由貿易」は、アメリカ資本(大企業と大銀行)の巨大な利権になっているドル基軸経済システムを正当化する煙幕として使われてきた言葉です。だから「自由貿易が日本と世界に繁栄をもたらす」といった主張をする人は、アメリカ狸に化かされているのです。それでは、このシステムが崩れてきている中で、世界の貿易は今後どうなっていくのでしょうか。だがその前に、19世紀と20世紀では貿易の意義が違ってきたという問題を考える必要があります。

かつては貿易はいわば必要悪で、どの国も高い関税で自国の産業を保護育成することが普通でした。ところが、英国では産業革命のおかげで、有り余る商品を生産できるようになり、それを海外にも売りさばく必要から、自由貿易の名で「貿易はいいことだ」という議論が登場したのです。しかし、その英国でさえ、産業革命のエネルギー源の石炭は国内で自給していました。こうして貿易は、長らく国民経済の自給を補完する二次的なものにすぎませんでした。自由貿易の論理を徹底すれば、世界中の自動車と電子技術製品は日本が作り、例えばフランスはワインと香水だけ作っていればいいということになりますが、そんなことは現実にならなかった。

過剰生産を貿易で解決したアメリカ

ところが20世紀に入ると貿易は別の意義をもつようになりました。ダグラス少佐が社会信用論で分析したように、資本主義の工業経済には勤労者の所得不足=購買力低下とそれに伴う企業の販売不振=過剰生産の問題が付き纏います。この問題は富の再分配によって解決するしかありません。しかし大恐慌を経たアメリカは、この問題を分配ではなく、貿易によって解決しようとした。過剰生産の商品は海外に輸出すればいい、という戦略です。そこで戦後のアメリカは、ドルを基軸通貨とする世界貿易のシステムを作り上げた。こうして貿易は、アメリカの体制的矛盾を解決するという、政治的意味をもつものになりました。しかしその後アメリカは、厖大な商品と資本を輸入して生きのびる金融立国の国になってしまい、ドル防衛策もあれこれ講じたけれども、結局、ウォール街の金融も破産してしまった。

消え去るしかない世界貿易

世界貿易の胴元だったアメリカが最終的に破産し、中国などの貿易立国を可能にしてきたローンやクレジットに支えられたアメリカの巨大な消費市場も消滅してしまったのですから、戦後の「世界貿易」のシステムというものも今後は消え去るしかないのです。事実、リーマン・ショック以来、世界の貿易はどんどん縮小し続けています。市場の消滅、ドルやユーロの揺らぎに加え原油価格の高騰が海運業を苦しめており、恐慌は銀行の信用状を介した貿易の決済にも悪影響を与えます。目下はどこの国も輸出による恐慌の打開に空しい期待をかけていますが、売りたい国ばかりで買いたい国がありません。とにかくどこの国のエリートも、世界貿易の時代はあらゆる点から見てもう終わったという、明らかな現実を直視しようとしないのです。

アメリカ型浪費型経済の終わり

交易は人類とともに古く未開社会にも存在しました。しかし「世界貿易」はアメリカの世紀と言われる20世紀においてだけ、アメリカとそのドルの比類ないグローバルな影響力と、豊富で水のように安い原油を条件として成立した、歴史的に特殊な現象です。そしてこうした条件は消え去りつつあります。アメリカとドルが凋落すれば、それに代わる基軸通貨やエネルギー資源などない以上、世界貿易というゲームは終了するしかない。

これは「経済成長」というアメリカ的な幻想が消滅したことの必然的な帰結です。では貿易そのものはどうなるのか。例えば日本は、もうカレー粉の原料をインドから輸入することさえできず、カレーライスは食べられなくなるのか。いや、そんなことはありません。世界はたんに、ニクソン声明以前の、ある意味ではまっとうな状態に戻るだけです。

そこでは経済は国家主権の下にある国民経済になり、貿易は国家的自給を補完する二次的なもの、つまり本来の常識的な貿易に回帰することになる。この過程を、レーガン政権以来のアメリカ主導の世界経済の、いわゆるグローバリゼーションに対して、ローカリゼーションと呼んでもいいでしょう。これによってアメリカの世紀は完全に終わります。それと共に世界貿易を前提に貿易立国でやってきた中国や韓国のような国は破綻するでしょう。

その点日本は、GDPの輸出依存度がせいぜい10%台の内需経済の国なので、相対的に恵まれています。各国の御用マスコミは、世界経済がグローバル化すれば南の貧しい国も奇跡のように豊かになると宣伝してきましたが、今後のアメリカはインドのような貧しく荒廃した国になるでしょう。現にアメリカ国民の貧富の差はエジプトやイエメンより大きいのです。そして言うまでもなく、アメリカの世紀の終わりは、アメリカ的な資源浪費型生活様式の終わりでもあります。

現代経済は市場経済というのはデマ

次は、「現代の経済は市場経済」というのはデマだという問題です。旧ソ連が崩壊したとき、西側のエリートは「これは、国家に統制された指令経済に対する市場経済の勝利だ」と喧伝しました。ところが現在、市場原理の模範とされたアメリカを震源地として世界恐慌が発生しています。だから市場原理というものに問題があるのでは、と考える人たちが増えています。しかし旧ソ連の崩壊を見てきた以上、指令経済を肯定する気にもなれない。そのために経済の自由で公正な在り方ということをどう考えたらいいのか、途方に暮れている人が多い。しかし実は、指令経済か市場経済かというのは、偽のジレンマであり存在しない問題なのです。というのも現代の経済は全然市場経済ではないからです。

現代は銀行独占経済

世界の現状を見てみれば、市場経済などどこにも存在していないことは小学生でも分かるはずです。バブル破裂当時の日本でも、今のアメリカやヨーロッパでも、政府は無茶なギャンブルをやって破産した大銀行を納税者の公金で助けています。経済をギャンブルで破綻させて、世間にとんでもない迷惑をかけた張本人の大銀行が、その被害者に助けてもらうとは、前代未聞のスキャンダルです。そして市場経済なら、事業に失敗した企業は、法的に清算されて消滅するのがルールなのではありませんか。だから、倒産という厳しく苦い現実があるのではありませんか。ところが大銀行にかぎって、悪事をはたらいて破産しても、政府がかばってくれて、破産のツケを一般の人々に回せるのです。こんな市場経済がどこにありますか。

現代経済は、市場経済ではなくて、銀行による独占経済なのです。市場経済に不可欠な潤滑油である通貨の発行権を、銀行が独占している経済なのです。銀行マネーはどういうものでどんな問題があるかは、すでにインターネットで公開されている私の講演「生きるための経済」で説明してあるので、ここでは繰り返しません。

公益事業としての通貨発行を独占している銀行

通貨が過不足なく出回っていて、商品とサービスの交換が円滑に行われることなしには、市場経済は成立しません。その意味では、通貨の流通は市場経済にとって空気や水のように不可欠な、一種のインフラだといえるでしょう。してみれば銀行が通貨の発行権を独占している経済は、私企業が空気や水を独占的に販売していて、貧乏人は空気も吸えず水も飲めないで死んでしまう経済のようなものです。本来、経済のインフラとして、公益事業としてあるべき通貨の発行を、私企業にすぎない銀行がやっていて、その経営がおかしくなると誰にもカネを貸さなくなり経済は餓死する、ないし潤滑油がなくなってエンストする。それが現在の世界恐慌の原因なのです。

インフラ通貨から金融商品通貨への変容

通貨は市場経済のインフラということの実例は、第二次大戦後の世界経済です。この戦争に無傷のまま勝利し、比類ない超大国になったアメリカは、安定した世界市場を作り出すことを意図してブレトン=ウッズ体制を構築しました。この体制の下では金の価格は1オンス35ドルと定められ、例えば日本にとって1ドルは360円というように西側諸国の為替相場は、このアメリカが保有する金に裏付けられたドルの価値を尺度にして固定されました。

この場合、アメリカはドルを、商品の交換が円滑に行われる世界市場を成立させるための、一種のインフラ的通貨にしたわけです。もちろんこの体制は、貿易によるアメリカ企業の繁栄を狙って構築されたものではありましたが、通貨はあくまで交換のための手段でした。

ところが先述のニクソン声明によって、ドルは金の裏づけを失い、ドルをはじめとする各国の通貨は資本市場の信認によってその価値が決まり、それが絶えず上下する変動相場制に移行しました。通貨はたんなる交換手段ではなくなり、それ自体が商品に変わった訳です。こうして為替相場とか円高といった言葉が生まれました。そしてこれをきっかけに世界経済は金融化・虚業化しはじめ、その長期的な結果として今の世界恐慌が発生しました。

いわゆるグローバリゼーションなるものが意味しているのは、世界貿易の発展などではなく、経済の金融化・銀行化なのです。それは、産業が衰退したアメリカが、残された唯一の競争力のある商品であるドルを梃子に生きのびようとする戦略から生じたものです。そして、目下、そのドルの地位がどんどん下落しているのです。

マルクスの資本主義論の間違い

この戦後の世界経済の歴史を振り返ると、マルクスの資本主義論が間違っていることがよく分かります。マルクスにとって資本主義の要は、生産手段の私的所有と労働力の商品化です。しかし、私有財産とそれに基づく社会契約は特殊に資本主義的なものではなく、むしろ普遍的な文明化の原理というべきものです。

マルクスの議論を鵜呑みにして、そこらの食堂や商店まで国営にしてしまった共産圏の実情がどんなものであったかは、今更、説明する必要はないでしょう。そして、資本主義の根本的不条理は労働力の商品化ではなく、資本の商品化 ―― 利子が付くことで貨幣が商品になり、それによって経済が動いていることなのです。そして、この資本の商品化は銀行が独占しているビジネスであり、国家が公認している銀行券以外の通貨をつくる者は偽札を製造した罪で厳重に処罰されます。

しかし、交換手段としての通貨はいわば社会資本なのであって、商品化されてはならないのです。通貨は市場経済のインフラなのだから、国民経済の規模に見合った通貨を過不足なく流通させることは、国の公益事業であるべきなのです。これは自治体の水道局が公益事業として家庭や企業に水を供給していることと同じです。ですから、恐慌や激しい景気変動のない、安定した自由で公正な経済を実現するためには、銀行券を国が管理する公共通貨ないし政府通貨に置き換える必要があります。もちろん、通貨の発行=信用の社会化は、企業間の規律ある競争を排除するものではありません。

議会制と政党政治化では党派マネーになる政府通貨の問題

ところがここで、二つの問題が出てきます。

まず第一に、現在の議会制と政党政治という国政の枠組みの下では、政府通貨は選挙に勝って与党になった政党の党派マネーになってしまうでしょう。それはその党の票田を優遇する徹底的な利権バラマキ政治の道具になり、ひどいインフレが発生するでしょう。ゆえに議会制民主主義と称している体制が存続するかぎり、公共通貨の発行は不可能です。

ただ、私の見るところでは、世界に唯一その気になれば政府通貨を発行できる国があります。それはスイス連邦です。スイス人はたとえ議会にでも権力が集中することを警戒します。そのためスイスでは、様々な形で議会の権力は相対化され、抑制されています。

例えば政府の構成では、選挙結果がどうであれ、すべての主要政党が入閣することになっていて、与野党の区別がなく、議会が政党間の政権争奪戦の場になることが予防されています。大統領や議会の長老は持ち回りで就任する名誉職であり、カリスマになる恐れはありません。そして、カントン(邦)の自治や、国民投票による直接民主主義によっても議会の権力は相対化されています。スイス連邦は中央集権の要素が全くない、自治体連合として成立している国と言えるでしょう。

こういう体制なら、政府通貨を発行してもそれが党派マネーになってしまう恐れはありません。もっとも、スイス・フランの高騰という悩み以外には経済的に安定している国なので、今のスイスにそうした動きはありませんが。それゆえに、日本の国家体制をスイス型の自治体連合国家に近いものに変えれば、公共通貨の発行は可能になるというのが現在の私の見解です。

民間需要に社会信用論はどう対処するか

それから第二の問題は、信用が社会化された世界で、民間の資金需要にどう対処するのかという問題です。自治体連合国家において、国家予算自体が市民の参加によって民主的に編成されるという、理想的な状況を仮定しましょう。その場合、信用が社会化されている以上、企業への融資も市民の承認が必要になる。だから、資金は、市民生活に深く関わっている企業に、優先的に融資されることになるでしょう。そこまではいい。だが問題が出てきます。例えば全く新しいタイプの事業を起こそうとする人、あるいは少数の人にしか価値が分からない学術書を出版しようとする人への融資はどうなるのか。こういう融資を大多数の市民が承認してくれるでしょうか。市民が容易に承認するのは、最大公約数的な資金需要にかぎられるでしょう。これは、かつて自由主義者のJ・S・ミルが論じた、「多数者の専制」という問題です。つまりデモクラシーを徹底すると、それが全体主義にひっくり返ってしまうという問題です。

しかし実はこの問題は存在しません。銀行マネーが問題なのは、銀行がそれを私的に無から信用として創造して、利子付き負債として販売することにあります。様々な民間の資金需要を充たす民間の金融業が存在することは、何ら問題ではないのです。資金を貸したい人と借りたい人を仲介して、その手数料で営業している金融業なら、銀行のように「金が金を生む」トリックをやっている訳ではありません。そういう業者は、すでに流通している通貨量の枠内で通貨の使い手を変更しているだけなので、銀行による信用の創造のように経済を撹乱する恐れはありません。ただ、融資の際に利子を付けると銀行に似てくるので、仲介の手数料だけで営業してもらう必要があります。そうなると、利子をとらないイスラム銀行の例が有る程度まで参考になりそうです。その場合、業者は利子をとらない代わりに、融資した事業が成功したら、その収益を融資先と折半ということがあってもいいでしょう。そういう利得が許されているなら、業者は様々な事業に積極的に融資するでしょう。

イスラム銀行に学ぶ

ただ庶民はこういうイスラム風銀行に預金しても、それには利子は付きません。では銀行は資金集めに苦労するのではないか。そうでしょうか。今でも、庶民が預ける程度の額の預金に付く利子など、ATMの使用料にもなりません。銀行は、自分が借りるときには徹底的にケチなのです。そして大部分の人は預金に付く利子など当てにせず、支払いの便宜などから銀行を金庫代わりに使っているだけでしょう。ですから、イスラム風銀行が、とくに資金集めに困るということはないはずです。

公共通貨とベーシックインカムの相互関係

そして最後に、ベーシック・インカムは公共通貨によってしか実現できないし、また経済の安定と均衡という点では、公共通貨の最も有効な使い方であることを強調しておきたいと思います。というのも、全世界的に近代の租税国家は崩壊しつつあり、どこでも緊縮財政が経済をさらに収縮させている現状では、税収を財源にしたベーシック・インカムは逆立ちしても不可能だからです。ギリシャやイタリア、スペインをはじめとする各国の財政破綻の原因は、やはり銀行マネーです。ドルが金の裏づけを失って以来、各国の国債が先進諸国の大銀行にとって最大の金融資産になりました。そのせいで現在、そういうメガバンクのマネーゲームが原因の破綻が、直ちに租税国家の崩壊を惹き起こしている訳です。目下の世界恐慌は、国際金融資本のもはや回復不可能な破綻と、工業経済の唯一のエネルギー源である原油の生産が先細りという、二重の危機が重なって発生しています。ですからこの恐慌を打開するには、結局、国家体制を全面的に転換させて、銀行マネーを社会的に管理される公的信用に置き換えるしかありません。そのような利子と負債から解放された経済は、エネルギー不足でゼロないしマイナス成長になっても安定と均衡を保つことができるでしょうし、銀行に負債を利子付きで返済するために、やむを得ず資源を浪費し、環境を破壊する必要もなくなるでしょう。ただし信用の社会化がその効果を最大限に発揮するには条件があり、それは政府通貨がベーシック・インカムを保証するために使われることです。

 

第2部終了

関曠野さん講演録「ポスト3.11日本の将来を考える」第1部

関 曠野 講演録

3.11以後

― 原発事故をくぐった日本の将来を考える ―

2011年9月24日(土)東京都内にて開催

講演者:関 曠野

※ 本講演録は、当日の記録に関さんの加筆訂正を加えてあります。特に「経済問題」を扱った第二部は、現在の社会状況にあわせて全面的に書き直していただいたものです。

第一部:国土風土に根ざした思想を再考する INDEX

  1. 原理的矛盾をかかえる原発
  2. 生命進化の論理を全面否定する原発
  3. 疫病とみるべき原発事故
  4. 平和と人道に対する罪としての原発
  5. 反原発運動は、科学を人間の不可能性証明としてみる運動
  6. 震災と原発事故の歴史的意味を考える
  7. 日本人のふるさとへの想い
  8. 「国土」というとらえかたの欠如
  9. アメリカ追従の原発政策を進めた日本の理由
  10. 国土風土に根差した思想を再考する
  11. 死を受け入れる日本の思想
  12. 完全に安全なシステム vs 諸行無常
  13. 文明人の名に値する日本人
  14. 神道と仏教にみる日本人の思想
  15. 美しいものは儚い、儚いものは美しい
  16. 梅から桜への感性の変化
  17. いま、必要な行為の美学
  18. 美の伝統を代表する京都
  19. 「東京時代」の終わりの始まり
  20. 文化的首都としての京都
  21. 藩校のなかった京都の意味
  22. 薩長クーデターによる京都の危機
  23. 京都の市民がつくった「番組小学校」
  24. 町衆がリードした開国に即応した教育システム
  25. 福沢諭吉の影響
  26. 国際法を小学校一年で教える
  27. コミュニティセンターとしての番組小学校
  28. 京都再生プロジェクト~~琵琶湖疏水
  29. 日本人の力で工事を進める
  30. 環境を良くする「地域開発」
  31. 地域エネルギー源としての蹴上発電所
  32. 都市計画のモデルとしての京都
  33. 使い捨て文化と対極の日本の伝統
  34. 第二部:「ポスト・ドル基軸通貨時代の日本社会を問う」へ

原理的矛盾をかかえる原発

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも、今日はお忙しいところを私のお話を聞きにいらしてくださり、ありがとうございました。関です。

最初から単刀直入に話をしますと、私は1970年代から一貫して反原発派でした。その理由は非常に単純簡単、中学生でもわかるような理由です。ひとつは核反応というのは非ニュートン的現象であって、それをニュートン物理学の枠内の技術でコントロールすることは原理的に不可能である。ザルで水をすくうような事である。この原理的矛盾は、技術の改良とか安全の多重化ということによって解消できるものではない。

生命進化の論理を全面否定する原発

次の問題は、原発事故が起きた場合の放射能汚染というものをどうとらえるかという問題です。皆さんご存じの通り46億年前に地球が誕生した時、地球は放射能の塊であって、しかも宇宙から強烈な放射線が降り注いでおりました。

それが長い間かけて地球の物質的組成が変わって、生命の隠れ家となるようなエアポケットみたいなものが出来て、水が出来て、植物が生まれ、光合成が始まり、地球は緑の星になって行ったわけです。その中で生命が生まれて進化してきた。ということは、ウランを掘り起こしてエネルギー源に使うということは、地球を46億年前の状態に戻すことになる。そして生命進化の論理を全面的に否定することに等しい。だからこれは、原発事故というものを交通事故と比較して、死者の数が多い少ないなんていう問題じゃない。生命進化の論理の否定になるから。

疫病とみるべき原発事故

だからどうなるかというと、まずは直接すぐに癌や白血病で死ぬ人は少ないかもしれないけれども、長期的に生命を蝕むし、DNAが傷つけられて何が起こるか分からないし、しかも被害は成長期の子どもに集中します。さらに人々の住処が根こそぎ破壊される。つまり、水と土地と植物が汚染される。放射能が長期的に人間をむしばむという点で、原発事故を惨事と呼ぶのは間違っていると思います。むしろこれは、ペストとかコレラとか疫病みたいなものと考えるべきだと思う。とすると、福島原発でメルトダウンがはっきりしてきたときに、当然、事態を疫病と同じように考えて、福島県内の子どもと若者は全部県外に避難させるべきであった。それをしなかった。やる気になったらできたのに。原発事故が起きたら、それはもう、すさまじい疫病みたいなものなんだという認識がない。単なる普通のニュートン物理学の枠内のリスクの事故だと思っている。これは根本的に間違っていると思うわけです。

平和と人道に対する罪としての原発

そういう意味では、ウランの本性からすると核兵器と言う形で徹底的な破壊に使うのは、正しいと言うと語弊があるけれども、ウランの本性にかなった使い方ではあるわけですね。これを日常的なエネルギーに使うということは、毒薬を毎日の常食にする様なもので、これはとんでもない話です、放射能の危険ということでいうと、原爆よりも原発の方がよほど危険なんです。だから、未だに国連が原発に肯定的なことは、本当にけしからんことで、原発というのは平和と人道に対する罪で起訴していいものだと思っております。

反原発運動は、科学を人間の不可能性証明としてみる運動

それから反原発運動ですが、政府や東電は反体制左翼運動みたいに思っていたらしいけれど、そういうものではない。根本にあるのは科学についての考え方ですね。科学を知的活動と考えるか、それとも人間が空を飛んだり地球の裏側に情報を送るような事を可能にする魔法みたいなものと見るか。成果だけ見て、魔法のようなものだから商売になると、科学を商売ネタにする。私はね、科学を産業に応用して商売にすること自体には反対しません。

でも、産業に応用する以上は、知的活動としての科学というものを尊重してもらいたい。知的活動として科学を尊重すると、科学は決して魔法じゃなくて、むしろどちらかというと、人間にとっての絶対的な限界とか不可能性というものを証明するものなんです。

つまり1+1は絶対に4にはならないという。科学というのは、そういうきわめて厳しいものなんです。その科学が証明する限界や不可能性の内に、人間は核エネルギーをコントロールできないということも入っています。ですから科学のとらえ方をめぐる争い、それが電力会社と反原発派との争いになったという風に考えております。

震災と原発事故の歴史的意味を考える

私は反原発派として、福島原発の破局を許してしまった事を痛恨の極みと思っております。しかし今日の話としては、原発をやめて再生可能なエネルギーで日本の電力を賄えるかどうかといった問題は、私なんかよりもずっと適任の方が一杯おられます。そういう話じゃなくて、私自身は自分を在野の歴史家と考えておりますので、この震災と原発事故は歴史的に言って、どういう意味で日本の分岐点でありうるだろう。どういうふうに歴史的なパースペクティブで捉えることができるだろうかということで、私なりの考え方を申し上げて、皆さんに問題提起したいと思います。

日本人のふるさとへの想い

まず言えることは、この震災と原発事故を第二次大戦と敗戦の経験にたとえる人がおりますけれども、これは違うと思うんですよ。

第二次大戦の敗北したあの時にはまだ、「国破れて山河あり」と言ういい方ができた。

我々は原発で福島の山河を失ってしまった。その一方では、あれだけのすさまじい震災津波に見舞われても、大半の三陸の人々がこんな危ない所に住むのはやめたといって故郷を捨てるということがない。あれだけ危険に見える土地でも故郷の山河を愛して、何とか歯を食いしばって町や村を復興しようとしている。これは日本人だけではもちろんないんでしょうけれども、日本人にとってのふるさとへの想いというのはこれほど強いものかと、改めて感動しました。これも我々が日本の将来を考える上でのひとつのヒントであろう。

「国土」というとらえかたの欠如

ところで原発事故は、ちょっと大げさな言い方をすると、明治以来輸入技術で工業化してきたそういう日本の近代の破局と見ていいのではないか。しかし一方では、東北の人々を見ると日本人は国土への愛情を失なっていない。むしろ深まっている。そのことを考えなくてはいけないと思うんです。そう見ると戦後の日本人の問題点は、国土というものをあまり考えなかったことではないか。自然保護を言う人でもエコロジーとか環境とかとか抽象的な言葉を使ってきたので、ふるさとや国土という捉え方をどれだけしてきたか、そこに色々問題があったんじゃないか。

アメリカ追従の原発政策を進めた日本の理由

例えば今世界で原発大国と言うとアメリカがトップ、フランス二番目、日本三番目ですけれども、アメリカはそれこそ科学をビジネスにしてきた国ですから、だから原発大国になり原発商売をやる。フランスの場合ですが、ここはとにかくアメリカに左右されるのは嫌だと。アメリカから自立してフランスの栄光を追求したい、そういう意識が強い。原油市場は大方アメリカ資本が握っているから、原油を使わないですむように原発を推進して、それでエネルギー的に自立すればアメリカと喧嘩できるようになる。そういう発想で原発大国になっているんだと思います。そういうフランス流の国家主義がかなり背景にある。だから各国の原発事情は一様じゃないですね。

日本の場合はフランスと反対なわけです。アメリカべったりな所から原発大国になった。ご存じのようにジェネラルエレクトリックとかウェスティングハウスとかアメリカ製を導入してきた。地震銀座の日本の国情に合わないアメリカ製原発を動かしてきた。

じゃ、なんで、日本がこんなにアメリカべったりで、アメリカ直輸入の危険な代物を建設してきたのか。これはやはりですね、日本を負かしたアメリカという国の力の秘密をものにしよう、アメリカナイズしようという発想が、企業や政府だけではなくて国民にもあって、それが日本を原発だらけにしてきたのではないだろうか。そういうパワー崇拝みたいなものがあったんではないか。

国土風土に根差した思想を再考する

とにかく戦後の日本人は国土とか風土とか国柄とか、そういうことをあまり考えなくなった。かつての日本の好戦的排他的民族主義、これはよくないです。それがよくないというあまりに、国柄とか風土とかとかを論ずることが排外的民族主義みたいに思われてきたので、そういうことを考えない、議論してこなかった面があり、それが日本の国土風土にそぐわない原発がやたらにある現実を生んできたのではないか。

原発事故は人災ですから一般日本人が反省する必要はありませんが、国柄とか風土についてあまり考えてこなかったことは、日本人全体が反省すべきではないかと思っております。

国土、風土の違いはある程度まで思想と文化の違いになってくる。日本の国土風土に根差した思想や文化とはなんだったのか考えなおし、それを国造りの基本にして行くことが今後必要になってくると考えています。

死を受け入れる日本の思想

例えばその風土の違いで言うと、死ぬことについての考え方。これも日本と中国やヨーロッパとは違うと思います。例えば、キリスト教では前の世紀ぐらいまで、長い間、霊魂の不死というプラトンの説が教義になっていました。そしてキリスト教会は、例えばキリストの復活を信じれば永遠の生命が得られると言いますし、中国の場合は、道教では不死の仙人になることが理想とされます。

ところが私自身の知る限り、日本の歴史上、不死ということを懸命に探求した思想家とか作家はひとりもいないようです。日本人は死を受け入れているという感じです。

日本の子ども向けアニメがアメリカのテレビで放映されることがありますが、幼児向けアニメでも主人公や登場人物が死んだりする。アメリカではそれは困るということで、死ぬ場面はカットされたりするそうです。日本では、子どもでも人が死ぬシーンを見ても、そんなものかと思っている。死に方にしても、永遠に生きたいと思っている日本人は稀でしょう。むしろ、「きれいな死に方をしたい。みっともない死に方をしたくない」と思っている人が大半ではないでしょうか。

完全に安全なシステム vs 諸行無常

このヨーロッパ的な不死の追求は、同時に安全の追求になります。とにかく完全に安全なシステムを追求しようとする。ヨーロッパ哲学のロゴスというのも、確実な真理に確実に到達する方法として追求されてきました。

様々な社会システムも、とにかく安全ということを非常に重視して作られる。そしてこれだけ安全なんだから、ちょっとヤバい事やってもいいだろうというので、銀行のマネーゲームをやったり原発を作ったりする。根本には、人間は完全に安全なものを構築できるという信仰みたいなものがある。日本人の場合は、どうも違うんじゃないか。どちらかというと、死とか流転とか滅びというものを悟って受け入れるのが日本人の特徴ではあるまいか。諸行無常と言うことですかね。「ゆく川の流れは絶えずして」という感性です。

しかもこれは決してペシミズムとか無力感を意味していない。そういう無常感を、仏教の教義を知らなくても、日本人は感性として知っている。それが打たれ強さという強みになっているのではないか。今回の震災でも、東北の人々はあれほどのすさまじい震災津波に直撃されながら、礼節も他者への思いやりも失わなかった。これは世界を驚かせました。

文明人の名に値する日本人

今でもインターネット上では、日本人は世界でもっとも文明人の名に値する人々、”the most civilized people on earth”という外国人のコメントをよく見かけます。

大きな代償を払ってるんですけれども、今ほど日本人の評価が高かったことはないと思います。もちろん日本人は災害慣れしていることもある。だがそれ以上に、日本人には、普通の庶民でも災害に対する心構えができていると言うべきでしょう。安全をいくら追求しても完全な安全などあり得ないと思っているので、むしろ非常事態の中でも平常心を保てる心構えが肝心だと考える。そこが日本的なんじゃないか。そしてこれはやはり日本の風土に根ざしている。原発を絶対に安全と信じて災害多発列島につくる愚行は、本来の日本文化の体質から出てくるものではなくて、やはりアメリカかぶれから出てきたものでしょう。

神道と仏教にみる日本人の思想

それで改めて考えてみますと、日本の宗教の一番初めは神道です。神道はご存じのように人生を底抜けに明るく肯定する宗教です。

しかし日本でも次第に文明が発達して、人々が個人としての悩み苦しみ死の恐怖といったものを知るようになってくる。そこで日本人は伝来した仏教を学んだ。だから奈良や京都はお寺だらけなわけですが、しかし日本人は結局神道の底抜けに明るい人生の肯定を捨てなかった。ただ仏教が入ってきたことによってそういう肯定は条件付きになった。つまり人生は明るく素晴らしい楽しいものだけれども、同時に移ろいゆく儚いものである、そういう認識を条件として人生を肯定する。これが、特定の思想家というよりも、日本人全体が漠然と感じて身に着けている思想ではあるまいか。

美しいものは儚い、儚いものは美しい

そして物事のはかなさ、うつろいやすさを自覚していることは日本人の強みであると私は思います。そこから出てきたのが、美しいものは儚い、そして儚いものは美しいという美学です。そういう意味では日本人の美学と言うか美的感覚は、仏教の教義を知らない人でも仏教に大きく影響されているように思います。仏教に影響されて美しいものは儚い、儚いものは美しいと感じる感性が生まれた。そこには人生を肯定するけれども、同時に死と滅びと言うものを受け入れているところがあると思います。

梅から桜への感性の変化

その典型な例が、平安時代に日本人が最初は梅を愛でていたのが、桜を愛でることに変わった事です。平安時代の貴族は舶来崇拝で、唐の文化にかぶれていましたから、唐のまねをして梅を愛でていた。それが平安時代の間に遣唐使廃止などもあったんでしょうけれど、桜を愛でるようになった。もっともこれは、日本土着の伝統に戻ったということだと思います。

昔から日本の農民は、桜が咲くと山の神が田に下りて来て田植えを始めろという合図をしたのだと考えていた、ですから昔から農民は桜を愛でていた。

平安貴族も唐かぶれはやめて、日本の土着の桜を愛でる伝統に戻っていったのです。ただし、そこには仏教の要素が混じってきて、儚いものの美しさを咲いては散っていく桜が代表することになった。

いま、必要な行為の美学

そういう点では今どきは、原発事故や震災で日本経済がどうなるという経済の話ばかりですが、むしろ今の日本に必要なのは美学ではないか。これは美しいものを作るとかデザインがどうとかというだけのことではない、人間の行為にも美学があるので、東電の態度は見苦しい、醜いという、美学が必要なのではないか。そういう行為の美醜は、人間なら誰だって感ずることです。そういう意味の美学を再評価する時代が来ていると、私は考えております。

美の伝統を代表する京都

今日の講演には日本の将来と言うタイトルがついていますけれども、変な未来学みたいなものを論じるつもりは全然ありません。それよりも、温故知新ということで、過去の日本を振り返ってみる事の中から将来のヒントが出てくるのではないか。過去のヒントということでお話したいと思います。

ところで、日本で長らく美の伝統を代表してきたのは、京都という都市でした。江戸時代でも、江戸は単に将軍がいただけの政治の中心であったにすぎず、日本の事実上の首都は京都でした。それが明治維新のせいで京都から東京に首都が移ったことが、どれほどこの国の相貌を変え文化を変質させてしまったことか。日本文明の原理が美学から経済学にまるごと変わってしまったのです。

「東京時代」の終わりの始まり

明治以降の時代は、明治・大正・昭和・平成と元号で区分されています。しかし日本史では、時代は、江戸時代とか鎌倉時代とか権力中枢の所在地で区分されています。この区分からすると、明治以降の日本は「東京時代」ということになります。

そして私は、今回の原発事故をもってこの東京時代の終わりが始まったのだと考えています。東京的なシステム、東京的な価値観、東京的な政治、それが原発を作ってきた一方、東京のGDP信仰は三陸地方を切り捨ててきました。それがどん詰まりに来ていたところで、福島原発の破局がドカーンと全てをぶっ壊してしまった。ただ、東京時代の終わりがどう形をとり、その帰結はどうなるのか、それは誰にも予見できませんが、とにかく私見では東京時代の終わりが始まったのです。

文化的首都としての京都

そうならば温故知新ということで、平安時代から江戸時代までずっと日本の首都であった京都とはどんな町だったのか、もう一度考え直してみてもいいのではないか。

まず江戸時代ですが、我々は学校で当時は武家の天下だったと習います。しかし文化的首都は相変わらず京都であって、それを皇室が守っておりました。皇室が京都の守護神みたいになっていたので、武家の力は京都には及ばなかった。皇室が京都文化の武家に対する防波堤になっていたのです。

藩校のなかった京都の意味

だから、武家が支配する藩だったらどこにもある藩校が、京都にはなかった。その代わり、多種多様な学校がありました。今で言うフリースクールです。ですから江戸時代と言うのは実は二重構造になっていて、武家の権力は江戸にあるけれども文化は京都という構造でした。そして上方という言葉が示すように、関東より関西が格が上ということは当時の常識でした。

薩長クーデターによる京都の危機

しかしこの京都の地位が明治維新のせいで変わる。薩長が自分たちがクーデターで奪取した権力を正統なものに見せかけようとして、拉致も同然に皇室を強引に江戸に遷した。そして、日本では天子のおはします土地は「京都」と呼ばれるべきだったので、江戸を東の京都を意味する「東京」というでっちあげた名称に変えた。江戸城も「皇居」に変えた。

この遷都は京都にとっては大打撃だったわけです。京都のいわば看板だった皇室がいなくなってしまった。それだけではない。京都の伝統産業の顧客だった公家や皇室がまとめて東京に行ってしまい、京都は都市としてほとんど死にかけた。40万あった人口が20万台にまで減り、そのままだったらたぶん、美しい古都の京都は消滅していました。寺社仏閣も荒れ果て、京都は侘しい田舎町になってしまったでしょう。しかしそうはならなかった。なぜそうならなかったのか、これからお話したいと思います。

京都の市民がつくった「番組小学校」

時代の激変に対処するために京都の人たちは色々な事をやりましたが、そのひとつが教育改革でした。新しい京都市民を作る教育改革をやる。もうひとつは地域開発。京都を近代的都市に作り変える地域開発をやる。

教育改革ですけれども、これは番組小学校という江戸時代の寺子屋と全く違う近代的な小学校を早くも明治二年に市民の力で実現しました。明治初年の日本ではどこでも、オカミによる学制改革で文部省が通学を強制するは、それに民衆は反発して学校を焼き討ちにするは、という騒ぎでした。その中で京都だけは、明治5年に文部省が学制を実施する前の明治2年に、市民が財源も負担して、地元の力でどんどん学校を作っていったのです。

町衆がリードした開国に即応した教育システム

この番組小学校の設立は、東京遷都がもたらした危機には直接の関係はありません。京都にはかねてから町衆による自治の伝統がありました。応仁の乱で公家と武家の双方が勢力を失ったために、京都では町衆による市民の自治が発展しました。幕末から開国時期にかけて、その町衆が、日本も開国したのだから新しい時代に即応した教育システムで京都を活気付けようと考えたのです。明治維新前後には、京都には、町組という地域的自治組織がありました。それが番組という、通しナンバーのついた名前に変わった。60幾つかの番組があったのですが、基本的に1番組(1地域)ごとにひとつの小学校を作ることにして、明治2年にすでに64の小学校を設立しました。この計画は町衆がリードし京都市も助成、京都の富裕層も寄付しました。

福沢諭吉の影響

町衆の自治の伝統があったから、こういうことが出来たのだと思います。財源的には、子どもがいない人も地域のためということで、所得に応じて学校運営費用を負担し、それで集まった資金で金融会社を作って、その利子収入で64の小学校の運営費を賄いました。

町衆がこの教育改革に乗り出したきっかけは、福沢諭吉の影響です。福沢諭吉の著作を読んで、日本の開国に応えて京都も変わらねばいけないと考えたということです。「小学校」も諭吉が使った言葉です。

国際法を小学校一年で教える

学校でどういうことを教えたかというと、普通の国語算数音楽体育などを教えたんですけれど、日本は開国したのだからと小学1年生に国際法を教えました。それから京都の伝統工芸を守り育むような人材が必要ということで、書道と日本画を教えました。おかげで番組小学校からは北大路魯山人とか、様々な京都の美術工芸に貢献する逸材が輩出しました。

ほかに面白いですが、カリキュラムに「修身」というのがありますが、これは公衆衛生の勉強のことです。

コミュニティセンターとしての番組小学校

しかも、この学校は市民が自腹を切って作った学校なので、単なる学校というよりもコミュニティーセンターみたいなもので、ある程度の役所の機能があり、それから校舎は2階建てなんですが、見張り塔が上にあり、火事が起きたら知らせるという消防署の役割も果たしていた。それから町会所、町の寄り集まりにも使われました。

コミュニティーセンターを兼ねる小学校という伝統は今でも京都に残っていて、小学校の中に消防の倉庫があったりする。また番組小学校以来、京都では、学区は単なる文部省が指定した通学区のことではなく地域の自治組織でした。学区は独自財源を持って、学校の運営費を負担し、その分だけ学校の在り方に責任を負う。1941年の国民学校令が出て潰されるまで、そういう市民の自治組織でした。京都の町には今もそういう地域自治の伝統があって、町内会単位で運動会なんかもやったりする。

京都再生プロジェクト~~琵琶湖疏水

もうひとつ、京都再生のプロジェクトとして教育改革に並んだのは、琵琶湖疏水の計画です。これは要するに、琵琶湖の水を山を穿ってつくった水路で京都にもってくるという大工事です。

これは明治18年に始まって27年までかかった工事でした。当時の京都に北垣という知事がいまして、見識のある立派な人だったようです。この人が東京遷都のせいで京都が衰退していく様を深く憂いていて、どうしたら京都を再生させ新しい京都を作れるか思案していました。その時、東京帝国大工学部の学生で、旧幕臣の砲術家の息子の田辺朔郎という若者が学内で書いた、琵琶湖の水を京都に引くことが可能であるという論文がこの知事の目にとまったのです。それで知事は、この田辺に白羽の矢を立て、琵琶湖疏水という大プロジェクトに着手したわけです。

日本人の力で工事を進める

このプロジェクトは現在の金額で一兆円必要だったのですが、これは京都市民が特別税で負担しました。そして若干21歳の田辺が、日本史上空前の大プロジェクトの総指揮をとりました。当時の事ですから、こういう事業は大抵外国人の助言者を迎えて、外国人エンジニアを雇ってやるのが普通でした。しかし琵琶湖疏水の工事は日本人だけでやり、建設資材もセメントとダイナマイト以外は全部国産でした。当時はブルドーザーなど無い人力工事の時代だったので、琵琶湖から京都まで山を穿って水路をつくる工事は大変だったようです。

工学を勉強しながら工事を進めたそうで、夜に工学の勉強をして次の日の昼にそれを応用とか、そんな形で疏水を作っていきました。そして9年後の明治27年に疏水は竣工しました。その時、京都市民は大文字を焼いて、祇園まつりの山車を総出にして祝ったそうです。

環境を良くする「地域開発」

この琵琶湖疏水で注目したいのは、これは地域開発が環境を保護、むしろ良くする、環境や景観を破壊しない地域開発もあるという例になっていることです。我々は地域開発というと環境破壊や景観破壊とかすぐそう思いがちなのですが、とにかく琵琶湖疏水によって、これ以降、京都は二度と水不足に苦しむことがありませんでした。

さらに、伝統工芸や新興工業にも潤沢に水が供給され、京都の緑はさらに濃くなり、環境破壊どころか、哲学の道とか、疏水沿いに新たな名所が生まれました。

地域エネルギー源としての蹴上発電所

さらに特筆すべきことは、琵琶湖と鴨川には40mの水位の落差があるのですが、この差を利用して発電所を作りました。この蹴上(けあげ)の発電所は現在なお現役です。この発電所が京都に電力を供給したので、もちろん電灯は灯り、西陣織の製造にも電力が応用され、さらに京都は日本で最初に路面電車が走る町になりました。このおかげで、京都はまもなく企業と工場の数で東京と大阪を抜くに至りました。ここでひときわ印象深いのは、こうして京都は地域のエネルギー源を持つことができたために、中央政府や外部の大資本に食い物にされずにすんだことです。おかげで京都独自のペースで都市の近代化を進めることができた。これが中央政府と大資本に食い荒らされていたら、どんな京都になっていたことかと思います。京都の例は、地域の戦略としてのエネルギー問題の重要性を示すものです。

都市計画のモデルとしての京都

他にも京都の人は様々な試みをしましたが、何よりも番組小学校による教育改革、市民自治を原則とする教育改革、および琵琶湖疎水によって、一時、衰退しかけた京都は見事によみがえりました。ですから、美しい古都京都は自然に存続してきたのではありません。この京都の再生の物語はおそらく、日本の近代史の中でもきわめて注目すべき出来事ですが、なぜか教科書には載っていません。もう天子がいない京都は観光名所にすぎないからでしょうか。

それにしても、この京都の再生は、同じ明治時代に起きた栃木県足尾銅山の悲劇とは、あまりにも対照的です。もしも、近代日本の都市計画や地域開発が京都をモデルにしていたら、チッソの水俣病も福島原発の事故もなかったかもしれません。何でも京都のまねをしろとか、京都だけがエレガントで素晴らしいと言っている訳ではありませんが、やはり京都の例は学ぶに値するものではあるまいか。ところが日本ではどこでも、東京というモンスターが都市計画や開発のモデルになってきました。例えば原発の地元の自治体は交付金で東京をモデルにしてハコモノをつくり、それで文明化した気でいる。こういう愚行はもういい加減にやめるべきです。そして地域の市民自治に基づく開発、都市計画ということでは、やはり京都はモデルであろう。さすがに平安時代からの都、京都はだてに都であったわけではありません。

ところで京都の下京区には、学校歴史博物館という、この番組小学校を記念した当時の校舎をそのまま使った、こじんまりとした博物館があります。それから左京区には琵琶湖疏水記念館があります。みなさんも京都に寺社仏閣巡りに行かれた折には、ついでにこういうところにも足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

使い捨て文化と対極の日本の伝統

この京都と東京を比べると、日本の首都が京都から東京に遷ったことの意味がいかに大きいかを感じざるを得ません。東京の価値は何かというと、それはビッグということではあるまいか。とにかく大きいことに価値がある。大日本帝国。戦後は経済大国と大企業。これに対して京都の価値は、ビューティフルということでしょう。

京都の人の生き方は今でもそうですけども、とにかくあの狭い盆地に大きな豪邸なんて建てたってしょうがない。だから、質素だけど趣味のいい暮らしをするというのが京都人のライフスタイルであり、しかも実は、昔の日本人は皆そのような生き方をしていたのではないでしょうか。京都は狭い所にごちゃごちゃ人が住んでるから、東京みたいな郊外型の巨大スーパーなんて作りようがないです、だから未だにアーケードの昔ながらの商店街です。京都には首都圏みたいな広いスペースもないし、豊富な資金もないけれど、その中でいろいろ心地よく暮らす工夫をしてきました。ですから例えば、京都名物の町屋は、外気を遮断してしかも通風がいいという、省エネ住宅の傑作です。そして京都は西陣など呉服の一大産地ですが、良質な和服は高価です。しかし生地の持ちがよく、ほぐして縫い直せるので、お婆さんから娘からその孫にまで代々受け継いでいけます。本来日本の伝統はそういうものだったのではないか。日本人ほど、本来は使い捨て文明とは反対のことをやってきた民族はいないのではないか。

 

第1部終了

後半は、世界の動きを視野に入れた通貨・経済論を軸に展開する第二部です。 あわせてお読みください。

関曠野 講演録「3.11以後」第2部

関曠野講演録「ベーシック・インカムについて考える ― マネーは何のためにあるのか」

関 曠野 講演録

ベーシック・インカム
について考える

― マネーは何のためにあるのか ―

TAGTAS/FORUM第三期レクチャーより
2010年12月27日 於:Spaceカンバス
「ベーシックインカムを考える ― マネーは何のためにあるのか」

講演者:関 曠野

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

主催:TAGTAS 前衛舞台芸術連合

TAGTAS(トランス-アヴァンギャルド・シアター・アソシエーション)が、年間を通じて公開の連続研究会を開催しています。 「TAGTAS/FORUMー条件なき大学ー」は、演出家、振付家、舞踊家、俳優、舞台制作者など舞台上演に関わるものや、人文研究者などが集まって、互いの領域を横断しながら、協働で討議していく公共の場所を目指しています。 舞台に関わるすべての方々をはじめ、学生、社会人、反/非社会人などの幅広い参加をお待ちしています。 年間で全三期30回を予定しています。

http://d.hatena.ne.jp/tagtas/

講演 INDEX

  1. はじめに
  2. なぜBIが必要なのか
  3. 恐慌はなぜ起こるのか
  4. 1. 法定通貨
  5. 2. 負債経済
  6. 3. 利子
  7. 部分準備制度と信用創造
  8. 恐慌の原因、まとめ
  9. 「政府通貨」の発行
  10. 「租税国家」とは
  11. 経済成長モデルに立脚する租税国家
  12. 政府はなぜ銀行を救済したのか
  13. アイスランドと、ギリシャ・アイルランドとの財政破産の違い
  14. 租税国家から社会信用国家へ
  15. ソーシャル・クレジット・ステイト
  16. 政党政治と租税国家
  17. 自治体の連合体としての国家
  18. 中央と地方
  19. 自治体銀行 ―― 段階的な戦略
  20. 社会実験を促進するためのBI
  21. BIの未解決問題 ―― 3K労働

はじめに

関 曠野さん

話し手:関 曠野さん

1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

どうも関です。

ベーシック・インカム(以下BI)という言葉は、市民権を根拠に、全国民に一律無条件に8万円程度の所得を生涯にわたり給付するというものですが、この言葉は最近は驚くほど広まりましたね。新聞雑誌でもよく見かけるようになって、そう言う意味ではもう異端思想でも何でもない。下手すると悪い意味で変な主流になるかもしれないという、そういう状況です。ただし、その割には中身が薄いという感じがしているんです。

私はこれまでBIについてかなり発言してきた人間で、私の講演などもインターネットにアップされて全国的にかなりの読者がいるようです。

ところで私はつい先日、当分BIについては発言しないと宣言しまして(本サイトのメールニュース・バックナンバー参照)、これがかなり波紋を呼んでいるようなんですがその意図をお話します。私はBIについてはこれまで経済論として議論してきました。それがいかに必要であり可能であるかという議論をしてきました。ただ、そういう議論をする段階はもう終わったのではないか。もうこれだけ言葉は広まったし、BIという言葉が何を意味するかは非常に多くの人がもう知っている。

それで今後はむしろ政治論としてBIを議論したいのです。BI論議を政治化すべき段階に来たと私は判断しているわけです。そのための仕掛けで一旦発言を中断することにしました。経済的なBI論議はもういいから、政治的な次元に議論を移行させるタイミングとして、世の中がもっとガタガタになってくるのを待ちたいのです。頃合いを見計らってまた発言を始めるつもりです。今日の話は、どういう風に私が今後BIの議論を私流に政治化して行くのか、そのひとつの皮切りになります。今日の議論を皮切りにして後しばらく中断の後、様子を見てまたいろいろ問題を提起しようと考えております。

そういうことで今日の話は、BIと言うよりももっと根本的なマネーの問題です。マネーはこれまで経済の問題として議論されてきた。しかしマネーは根本的に政治の問題なのです。政治としてのマネーという、それを今日の話の軸に据えたいし、そういう観点からマネーの改革を考えていきたい。通貨改革の一環としてBIと言うことを私は前から考えています。と言ってもこれは難しい問題じゃない。マネーというものについての考え方は2つしかない。

ひとつは生活のツール、道具である。これは私の立場であるし、たぶん皆さんもそう思われているでしょう。

もうひとつは権力のマジックの源泉としてマネーを偏愛する立場。それが今の持てる者、銀行なり富裕者なりの立場であります。そういう意味では、ツールかマジックかという、立場の争いがあります。

BIは政府通貨と結び付いて、これからお話するようにツールとして、生活の道具としてのマネーを実現するものです。今日はそういう観点から論じますので、BIは今日の話の「結論」として出てきます。ですから、講演のタイトルは「BIについて」なのに関はなかなかその話をしないじゃないかと、皆さんイライラされるかもしれませんが、ちょっと勘弁してください。その前提になる話を延々とやりますので、その点をひとつご承知願います。

なぜBIが必要なのか

そもそもBIの話をする前にですね、BIが必要になる根拠を考えましょう。それは我々が今置かれている経済状況がまさに恐慌だからです。恐慌はなぜ起きるのかということとBIの必要は密接に関係するので、まず恐慌の原因について話したいと思います。

ただ恐慌と言っても、久しぶりに豊橋から東京の都心に出て来てきまして、ちょっと街の様子を見ても恐慌という深刻な状況には見えませんね。東京の街はイルミネーションに彩られて相変わらず繁栄しているように見える。

日本の場合は確かにリーマン・ショックの間接的な打撃を受けた程度で済んでいるんです。日本の銀行は90年代にバブル崩壊で火傷したので、その後のマネーゲームに手を出す余裕がなかった。だから欧米の銀行みたいにマネーゲームに大規模に手を出していないので、帳尻の悪化ですんでいるところがある。経済状況で言うと、アメリカとEUはタイタニックで沈没寸前と言う状況ですね。アメリカなんか子どものホームレスだけで百何十万という。日本にもホームレスはいるけれど、ちょっと考えられないでしょう、そんな数。

日本はそれに比べると浸水ぐらいですんでいる。それもあって日本では経済危機に関しては間の抜けた生ぬるい議論しか見かけません。

しかし、やはり世界が恐慌状態の中で、日本だけが安全地帯ということはあり得ない。じわじわ、じわじわと世界恐慌の影響は及んで来るし、現に及んで来ています。東京にしたって、有楽町西武が閉店とか、次々に寂しい話が出て来ているわけです。ましてや地方に行かれたら、これが同じ日本かと思うほど荒涼とした光景があります。町全体が次第にゴーストタウン化している、そういう所もあります。

この恐慌の原因ですが、1930年代にアメリカを震源地にした大恐慌がありました。ただね、この前の大恐慌の場合は、あくまで金融メカニズムが、つまり資本主義の矛盾や欠陥がもろに出て来て恐慌になった。純粋に経済問題だったということがあります。

しかるに今私たちが体験している21世紀のこの恐慌は、ちょっと違っています。かつて1970年代にローマクラブ報告「成長の限界」と言う本が出て、世にたいへん衝撃を与えた事があります。あの本が証言したように70年代に資本主義は成長の限界にぶつかっている。資本主義の成長の限界だったのですが、先進各国の政府、銀行、大企業は、この事実をもみ消して、マネーゲームや生産拠点の海外への移転で袋小路の現実をごまかしてきた。

しかしどうもその限界の問題から逃れられなくなった。特に70年代以来、文字通りの経済のエネルギー源である原油の価格がどんどん高くなってきた。そういう長期的な資源と環境の危機が、今回の恐慌の背景になっています。それを背景に金融資本のグローバルな破綻が起きているわけです。

しかしこの資源と環境の危機という問題は、今日の話に直接には関係ありませんので、一応カッコに入れます。

恐慌はなぜ起こるのか

それで、恐慌の原因というのは3つに尽きるわけです。

1. オートメーション

どんどんオートメーションが進んで人手がいらなくなる。当然、いわゆる機械による失業で所得がなくなる人が出てくる。それだけじゃない。オートメーションで労働者がいらなくなれば、雇用されている労働者も賃金が抑えられて低くなってしまう。さらに今の生産の現場では、機械が主役で人間は雑用をしている。だから人間にはコンビニのレジみたいな、雑用と言っては失礼だけれども、低賃金の雑用の仕事しかないという状況があります。

オートメーションが進行すればするほど、雇用による所得に固執しているかぎり、所得はどんどん先細りになっていく。それによって市場もしぼんでいく。所得に裏打ちされた有効需要が減るのですから。

この問題が、生産と消費を均衡させるためには人々の所得に対して雇用以外の何らかの補強措置が必要である、という議論の根拠になります。オートメで言えば、日本はロボットテクノロジー大国でありまして、その点ではオートメによる打撃は大きいはずの国なんです。それはぜひ考えていただきたい。

2. 企業会計

それから企業会計。現代企業は膨大な設備投資を必要としています。しかも、競争に勝つためには絶えず生産設備を高度化していかねばならない。企業会計の中で設備投資に充てる費用がどんどん膨れ上がっていく。

それに反比例して、企業会計の中に占める勤労者の賃金給与は減っていきます。相対的に減っていく。

しかも、その勤労者の賃金給与だけが商品の購買力であるわけです。労働者、すなわち消費者でもありますから。ということで、企業はどんどん設備投資をやっても、それで大量生産した商品を企業で働いている労働者が買うことができないということが起きてくる。

その結果、所得不足による商品の販売不振と言うことで、これも経済危機の原因になる。とにかく商品の価格には設備投資費が上乗せされていて、これからお話するように、銀行への利払いがさらに上乗せされている。そういう上乗せされた価格の商品をますます低くなる給与じゃ買えない。そこで需要不足および販売不振による過剰生産の問題が、資本主義に付きまとうことになります。

こうして資本主義が順調に発展していくこと自体が、やがて恐慌を引き起こすわけです。恐慌はなにかが間違って起きるんじゃなくて、資本主義の必然なのです。

3. 銀行マネー

それから銀行マネーと言うことですが、今の企業は膨大な設備投資を必要としているので、どうしても銀行からの融資を受けないとやっていけない。町の小さな工場だって、何千万もする機械を買わなきゃいけない。そんなものは手持ちの資金では買えないので、銀行から融資を受ける。

こうして企業が絶えず投資するためには、銀行からの融資が必要なので、経済の95%は銀行が貸し出す銀行マネーで動いています。

私たちが普通お金と言うと、財布の中に入っていてスーパーのレジで払うようなものと思いがちですけれども、そういうマネーはせいぜい経済全体の3%位だと言われています。後は全部銀行マネー、銀行信用で動いているんです。

だから銀行がお金を貸す、貸さない、貸してくれるかどうかで、経済の在り方が決まってしまう。銀行がマネーフロー、お金の流れを取り仕切っているということをしっかり認識する必要があります。

で、銀行マネーの問題が3つあるんですね。

  1. 法定通貨
  2. 負債経済
  3. 利子

1. 法定通貨

昔はお金と言えばイコール宝物ということでもっぱら金銀のことだったわけですね。19世紀ぐらいまでは。それが20世紀に入ってから、どこの国でも法定通貨ということで、国家が法律によってお金と定めたものがそのままお金であることになった。具体的に言えば紙きれですよね。それが通貨であることになって、今、世界のたいていの国ではマネーと金(きん)は切り離されています。

この法定通貨というのは国が発行しているのではなくて、国が委託するようなかたちで、実際は私企業にすぎない銀行が発行しています。いまだに日本銀行は日本国の銀行だと勘違いしている人が多いんですけれども、日銀は基本的には私企業で、私企業として帳簿の公開もしています。要するに日銀は銀行業界の代表なのです。

だから日銀が経済状態が良いの悪いのと言っているのは、銀行にとって良いの悪いのであって、庶民の生活の浮沈には関係ありません。そして、銀行による銀行のためのマネーということで、日本銀行券という千円札以上のマネーを発行しています。

現代の大規模で複雑な信用経済が、金銀の呪物崇拝から法定貨幣に移行することは、不可避だったと私は考えます。しかし問題は、その法定通貨が私利で、私的利益、私的企業の儲けのために発行されていることなんです。生産や消費の実態など踏まえないで、銀行の儲けになるかどうかだけで発行されたり回収されたりしていることが問題なんです。

これはつまり、現代経済は根本的に無秩序だ、アナーキーだっていうことですよ。だから景気が上向くとか下向くとかいうのも、自然現象ではなく、このアナーキーの現れなんです。しかも、法定通貨なら金銀と違って紙切れだから、無制限に出せる。紙きれにお札の模様を刷ればいいんですから。それが非常に社会を混乱させる。

たとえば今の恐慌にしても、きっかけはアメリカのサブプライムローンという住宅ローンのバブルですが、とても住宅ローンを払いきれないような低所得層に5千万とか6千万円の家をローンで買わせる。銀行はいくらでもペーパーマネーを発行できるから、そういう危険なこともできる。

2. 負債経済

それから次に負債経済。現代経済は主に信用、すなわち時間差のある交換で動いています。だから、今すぐじゃなくて将来払いますよ、という約束でお金を借りられることは、とても大事なことです。

ただ問題は、先に言ったように銀行が自分が儲かるか儲からないかの基準だけでお金を貸して、それが我々を法的に拘束する負債になることです。人間誰だれだって借金は気が重くて嫌なんだけども、銀行にとっては人に借金させることがその資産になる。それだけでおかしいですよね。人の借金が俺のシアワセという。これはそれだけでどこかおかしいと思わなくてはいけません。

しかも銀行は、自分のそろばんだけで生産とか消費の実態の客観的な分析なしに貸しているから、返せない人が次々に出てくる。その時に銀行は、お前にまた貸してやるからそれでローンを払えと言う。ローンをローンで、負債を負債で払うということがザラにある。これで銀行の資産はさらに膨れ上がる。

そういう意味では、今の経済は負債経済ですから。もしすべての人、すべての会社が全ての負債を返しちゃったら、経済はその瞬間にストップしてしまう。崩壊してしまう。誰かが負債で苦しんでいてくれている、――― 誰かどころじゃない、大抵の人がローンで苦しんでくれている。そのおかげで経済が動いている。これは異常な経済ではないか? しかも、経済が倍々ゲームで一時的に成長している間は、負債をある程度返せるからいいんですけど、一旦それが揺らいでくると、経済は積み重なった負債で身動きできなくなる。

日本の90年代以来の経済の低迷は、バランスシートリセッション、バランスシート不況と言われている。要するに企業が借金だらけで動けない。借金を返す方が先になって、とても新規投資をして、人を雇って、新しい商品を売りまくって、なんていうことをやる余裕がない。借金漬け経済ということが、日本の今のデフレの根本です。でも日本は、個人や家庭にさほど借金がないからまだいいですよ。アメリカが悲惨なのは、クレジットカード社会なので、個人が借金につぶされちゃっていますから。

銀行にとっては人の借金が自分の資産だから、いざとなったら差し押さえでも何でもやる。今、アメリカではどんどこローンを滞納した住宅を差し押さえていて、ホームレスが何100万人も生まれています。それが負債経済というものです。

3. 利子

そして、銀行マネーの一番の問題点は利子の存在です。負債の場合なら、ラーメン屋を開店するために1千万借りたけれど、商売が予想どおり当たって、繁盛して返せました、ということもあるでしょう。それなら負債にも生産的な意味があったことになる。だが利子と言うのは実体経済の中に何の根拠もない。

では利子を払う金はどこから持ってくるのか。負債の場合は負債に見合うだけの儲けがあるかもしれないけれど、それにさらに利子がプラスされることには何の根拠もない。しかも場合によっては、それが複利でものすごく増えていくわけですよ。だから住宅ローンなんて、最後は利子分の方が元本よりも大きくなっちゃうでしょう? 根拠のないお金を銀行がふんだくっているわけですよ。

で、どうするかというと、人からもぎ取ってくるしかない。詐欺や犯罪みたいな事をしないと利子は返せません。そんなことをしないで利子を返すためには、また借金をして多重債務者みたいになる。そういうことが今の資本主義国では普通なわけです。結局利子とは何かといえば、要するに、お金を持って貸し付けている銀行とその株主などの経済強者にお金が移動するということです。持たざる者から持てる者にお金がどんどん吸い上げられ、利子のせいで富が富裕層にさらに集中するのです。

皆さんは、「俺は借金なんかひとつもしていないから銀行経済には関係ない、利子も関係ない」と言われるかもしれない。しかし、会社にいて給料をもらってる場合、たいてい企業が銀行から借りたお金がそこに入っています。

しかもそのお金で商品を買うと、その価格の3分の1から半分は利子だと言われています。直接と言うことじゃなくてね。たとえばトヨタが車を作る場合、何百という会社がトヨタに部品や材料を納入しています。そういう会社がみんな銀行への利払いを抱えている。それを全部集計すると最終的に商品価格の3分の1から2分の1が利払いということになってしまう。

BIをかりに実施しても、それで商品を買って銀行に利子を払うんじゃあ、BIっていったい何なんだろう。そういうわけで、無人島にでも行かないかぎり、現代人は銀行経済の魔手から逃れることはできません。

部分準備制度と信用創造

そしてこの法定通貨、負債経済、利子という要素は、銀行マネーの根本原理である「部分準備制度」がはらむ問題を、危機的に増幅させるのです。この制度は、銀行はその貸付に対しては部分的な準備=預金があるだけでよい、とするものです。つまり銀行は全預金者が一斉に預金を引き出したりする恐れがないのをよいことに、預かっている預金の八倍から十倍の金を貸し出しているのです。こうして我々が預金した一万円が十万円に化ける。差額の九万円は、銀行がパソコンのクリックひとつで何の対価も労働もなしに無から創造したもので、負債となり現実の金となっていずれ利子付きで銀行に戻ってきます。そしてこの九万円が回りまわって別の銀行に預金されれば、それはまた十倍のカネになります。こうして部分準備制度はインフレの恒常的な原因になり、実体経済が負債で揺らぐと、銀行マネーは今度はデフレの原因になります。

銀行によるこの無からのマネーの創造は「信用の創造」ということですが、もちろん現代経済に信用は不可欠です。だが問題は、銀行が本来、公共的社会的な意義をもっている信用を私企業として私的利益の目的で横領し独占していることなのです。そしてこの独占を確実にするために、大銀行はカルテルを作り、そのカルテルが「中央銀行」と呼ばれているのです。言うまでもなく、この部分準備制度による銀行信用の創造と、それによる融資=通貨の供給が経済的アナーキーの根本原因です。

多くの人は銀行を大きな金庫のようなものと勘違いしていて、銀行がマネーフローを取り仕切っているということを理解していません。だから自分の預金は銀行の金庫に保管されていて、それをATMで引き出しているのだと思い込んでいる。だが実際は預金は銀行が作り出すマネーフローの中に消えているのです。それでも我々がATMで預金を引き出せるのは、銀行に次々に新たな預金が入ってくるからです。だから銀行は、ネズミ講みたいなことをやっているわけです。例えばですが、詐欺師の集団がいて偽札を作り、しかもそれでネズミ講をやっているとします。誰でも「これはひどい話だ」と思うでしょう。しかし銀行がやっていることは、この詐欺師集団とあまり変わらないと思います。

とにかく、こういうかたちで経済を銀行が勝手に取り仕切っていると、結局銀行は経済を窒息させてしまう。

恐慌の原因、まとめ

では、なぜこの経済はリーマン・ショック以前にもっと早く窒息しなかったのか。思うに、戦後長らく銀行マネーのトリックが破綻しなかった背景には、石油という魔法の資源が水のように安かったということがあるのではないでしょうか。そのおかげで資本主義の矛盾をもみ消したり先送りしたりできた。それが70年代からじわじわと原油の価格が上がってきて、とくに今世紀に入ってから急騰してきた。それを背景として、銀行マネーのトリックが全面的に破綻したと言えるように思います。

それではここで、恐慌の原因についての話をいったんまとめます。

まず、オートメ化と企業会計の矛盾が需要不足と過剰生産をもたらしますが、これはまだ不況の状況です。不況なら、「企業の在庫調整でそのうち景気が回復するから、それまでの間、政府は雇用対策をやれ、企業は賃上げをやれ」などと、のんきなことを言っておられる。だが、不況に出口がなく、遊休化した過剰資本が投機に向ったあげくバブルが弾け、銀行マネーの機能がアクセルからブレーキに一転して、経済全体が銀行への負債で身動きできなくなる。これが恐慌です。恐慌とは銀行マネーの問題点がはっきり表面化したもので、銀行マネーによる経済の窒息死です。

アメリカで住宅バブルが弾けたことをきっかけに起きた今の世界恐慌は、その意味では銀行マネーのグローバルな最終的崩壊、ハルマゲドンです。天文学的な額のマネーゲームをずっとやってきたせいで、世界の金融資本が抱える負債の総額は人類社会全体のGDPの十四、五倍に達すると言われています。こんな負債を返せる筈がありません。世界の大手銀行はすべて、破産の実態をあの手この手で誤魔化して生き延びているゾンビ銀行です。だから各国の政府やマスコミが垂れ流している、「もう少し辛抱すればトンネルの出口が見えてきて景気は回復する」という言辞はまったくのデマです。この銀行の破綻に加えて、いわゆるピーク・オイルの問題があります。国際エネルギー機関によると、世界の原油生産は2006年にピーク(原油増産の限界点)を越したとみられるそうです。だからもう1960年代のような経済成長はありえないのです。

日本でもアメリカやEUでも、今、各国の政府がやっていることは、恐慌という現実を否認してそれを不況にすりかえることです。そして「これは不況なんだから従来の不況対策を徹底すれば間もなく景気は回復し経済はまた成長する」と言い張る。そして、ゾンビ銀行が生き返れば問題はすべて解決するとして、必死になって国民の血税で銀行を救済している。危機の原因である銀行を無くすどころか強化しようとしている。こうして政府が銀行の手先としてあれこれ策動するために、恐慌はますます破局的なものになっています。

「政府通貨」の発行

これまで述べてきたように、不況が大恐慌に転化する根本原因は、銀行マネー、銀行信用です。ですから銀行マネーを経済と生活の信頼できるツールであるような別のマネー、別の通貨システムに置き換えないかぎり恐慌は解決しません。それは「政府通貨」の発行ということです。政府通貨は四つの点で銀行マネーと異なり、それと正反対の性格をもちます。

  • まず第一に、「政府」という言葉が示すように、それは公共の福利、社会全体の利益のために発行されます。具体的に言えば、それは、経済が滑らかに回って安定するよう、自由な交換の手段としての通貨を、社会に過不足なく供給することを目的に発行されます。

  • 第二に、銀行はその商売の道具である銀行券をアナーキーに発行しますが、政府は通貨の管理を公益事業として行い、水や電気のように社会に必要な通貨を供給します。ですから政府通貨に利子は付きません。

  • 第三に、政府通貨による融資にも返済が必要ですが、これは発行されて交換の促進という役割を終えた通貨を回収して、経済の正常なサイクルを維持するための措置、通貨の過剰供給によるインフレの発生を予防するための措置です。乗客が移動という目的を達成したら、降りた駅で切符が回収されるのと同じことです。だから政府通貨による融資は、当座貸し越しです。それは、返済が法的義務で担保を差し押さえられることもある銀行マネーの負債ではありません。

  • 第四に、銀行が損得勘定だけでアナーキーに融資するのと異なり、政府通貨は国民経済計算のできるだけ客観的なデータに基づいて、社会の必要に応じて供給されます。データに誤差があって経済がインフレ気味になった場合には、通貨政策をすぐに修正すればいいのです。

そして政府通貨による恐慌の解決には、すでに立派な先例があります。1930年代の大恐慌に見舞われた時、日本とドイツだけが政府通貨の発行に踏み切ったのです。その結果、恐慌は2、3年で解決しました。ところがアメリカは、悲惨な大戦が生んだ軍需ブームによってしか恐慌を克服できなかった。この日独の実例が広く知られると銀行資本にはまずいので、政府通貨の発行はファシズムのやることだという議論が出回っていますが、これはぜんぜん事実ではありません。日本で国債の日銀引き受けというかたちで政府通貨の発行をやったのは高橋是清(これきよ)で、インフレになると軍拡に反対して軍人に暗殺された人です。もちろんファシストなどじゃない、偉大な人です。

ドイツのシャハトは、これも金融のエキスパートで、彼の場合はヒットラーに全権を与えられて金融改革をやって、ヒットラーは一切口出ししなかった。だから銀行家として一番合理的と考える通貨改革をやり、ワイマール期の、パン一つ買うのに大八車一杯の紙幣を持っていく必要があったハイパーインフレをたった3年で解消し、ドイツをヨーロッパ最強の経済に立て直した。シャハトもまた軍拡に反対して、最後は強制収容所に送られました。だから政府通貨の有効性は、とっくに証明済みなんです。そこで、マネーフローを人々が往来する大通りにたとえましょう。大通りでは人々は自由に往来できて当然です。ところが、私企業が通りのあっちこっちに勝手に関所を作って通行人から通行料を取ったら、誰でも怒るでしょう。しかし、銀行がマネーフローで関所を設けて金を巻き上げていることには怒る人がいない。これは不思議です。これに対して、あくまでマネーの順調な流れを維持すること、それが政府通貨の課題です。

ついでに言うと、政府通貨の発行には税収の裏付けなんか必要ないんで、それで国家予算を編制する場合には国家財政の財源という問題はなくなりますね。社会に必要なものを見極めて、正しい国民経済計算をやって、それに基づいた通貨供給をやっていればいい。電力や水の供給と同じ問題です。

この政府通貨によってBIを保証することが、経済の流れをスムーズにするためには理想的ですが、これは後でお話しします。

「租税国家」とは

ところが政府通貨の発行に対しては、実は重大な障害があるんです。

現代国家は「租税国家」である。皆さんは租税国家という言葉は聞きなれないと思いますので、これから詳しく説明します。国家というものは、昔の左翼の発想だと暴力装置だということになる。国家を国家たらしめているのは暴力の独占である。そういう要素も少しはあるけれど、国家の国家たる根本は税金です。モナコは税金がなかったかな。しかしあれは代表的な例とはいえない。やはり国家たるものは、税金を取ってそれを国民のためと称して使う。そして税金が絡んでくると、まさにマネーの問題が政治の問題になってくるんです。

それでは、租税国家というのはどういうものか。江戸時代の年貢は、本当の意味での税金とはいえない。幕府や藩がぼったくっているだけで、見返りの行政サービスなんてないわけですから。それから戦前、大正時代の初めくらいまでは選挙が制限選挙と言って、富裕な納税者でなければ選挙権がなかった。当時は、国家はお金持ちクラブのようなものと思われていたんですね。庶民は高い税金を払う必要がない代わりに、何もしてもらえなかった。年金も健康保険も何もない。

先進諸国で租税国家と言えるものが完成されたのは、第二次世界大戦後のことです。それはどういうことかと言いますと、この国家は税金を誰からもくまなく取る。その代わり、ちゃんと税金でサービスをしますという建前になっている。だから消費税となると、ホームレスの人でさえ商品を買えば税金を納税している事になります。納税しているんだからホームレスの人も面倒をみるべきだ、ということになりますが、そういうかたちで誰からも税金を取るけれども、それは行政サービスとしてちゃんとお返ししますと国は約束する。

そして、戦後にできたこの租税国家が存立する前提となっているのは、経済成長です。

経済成長モデルに立脚する租税国家

この国家は、永続的な経済成長を制度の前提として設計された国家です。市民から強制的に税金を徴収する。所得税なり消費税なり。しかし税収は、直接間接に、経済発展の条件を整備するために使われる。そして経済発展で国が豊かになれば、国の市民へのサービスが拡大し、福祉国家が充実してくる。強制的に税金を取られても、結果的には、それによるサービスや福祉の拡充で市民にとってプラスになるとして、税金が正当化されているわけです。そういう見返りなしには、国が強制的に市民から税金を取る根拠がありませんから。

そして、経済の低迷で国家予算に見合うだけの税収がなかった場合には、しょうがないから国債を銀行に買ってもらい、赤字を埋めるということになりますが、これは本当はおかしい。

国や自治体は、企業みたいに投資による事業の拡大を目指しているわけではない。それがなんで、銀行に借金して利子を払う必要があるのか。現に、日本の法律では、基本的に赤字国債の発行は禁止されている。建設国債は認められていますが、赤字国債の発行は本来違法なんです。ということは、国債の発行は、国が財政的にピンチになった場合の、あくまで臨時的、一時的、例外的な措置だということです。

そして国債を発行すること自体、将来、経済が成長をして増えた税収で借金を返せるという前提があってのことです。ところが、1970年代以降、先進国はどこでも低成長経済になって、税収不足が恒常的になり、それでいて福祉の拡充を求める世論は揺るがない。ですから先進国はどこでもタブーを破り、赤字国債を発行するようになった。その結果、銀行に対する国家の借金がどんどこ増えて、国家予算のかなりの部分が銀行への利払いに充てられるようになった。これは全く不毛な支出です。税金はいろいろなことに使えるはずなのに、利払いでは何の意味もない。国が自由に使えるお金が減るだけです。

政府はなぜ銀行を救済したのか

ところで、日本政府は90年代、バブル崩壊後に破産寸前になった銀行を、公金を投じて助けました。なんで、地上げ騒動などで世間に大迷惑をかけたあげく、窮地に陥った大手銀行を納税者が助けてやる必要があるのか。

こんな不条理な措置を、自民党政府が世間への釈明もなしにとったのも、実は租税国家と銀行マネーは一体のものだからです。先に申し上げたように、銀行に任せておくと、銀行は社会にどんな混乱が起きようが悲劇が起きようが知ったこっちゃなく、自分の損得勘定だけで融資しますから、社会はきわめてアナーキーな不安定な状態になる。そんな混乱が拡大すると、最後には銀行自身も危なくなる。それで銀行マネーとは別の通貨流通システム、マネーフローを作り、それで銀行マネーの支配を補完することが必要になる。あくまでも銀行マネーに従属し、そのサブシステムとして機能する、人為的な、政治的なマネーフロー。それが税金だということです。

だから税金をマネーフローとして考察することが必要です。公共の福祉が課税の建前になっていますが、税金は赤い羽根の募金じゃない。銀行の矛盾を覆い隠してごまかして、銀行の経済支配を補完することが現代における税金の役割です。

そしてリーマン・ショック以来、先進各国の政府はそろって、マネーゲームの破綻でゾンビ化したメガバンクを公金で救済しようとしました。税金というマネーフローは、銀行のマネーフローを補完するためのサブシステムと考えれば、これはある意味で当然なんです。だいたい銀行は昔から影の政府だったのですが、これがリーマン・ショック以来、アメリカやEUでは正体を現して表の政府になってきている。アメリカの今のオバマ政権は銀行政権というしかない。ウオール街の金融マフィアみたいな連中がホワイトハウスの経済政策担当になって、ウォール街とメガバンクの利益のための政策をどんどこやっています。そういう意味で、今や先進各国の政府は銀行の代理人にすぎません。今の政府は何をやっても失敗していて、事態を悪化させることしかしていないのに、銀行の代理人の役割だけはちゃんとやってるんです。よく見ていただきたい。

アイスランドと、ギリシャ・アイルランドとの財政破産の違い

たとえば今、EUでは、ギリシャとアイルランドが財政的に破産ないしは破産寸前というので、ECBヨーロッパ中央銀行が、巨額の支援の融資をしました。しかし、あんな支援は毒まんじゅうを食わせるようなものです。つまり、ぜんぜん両国民を助けるための融資じゃなくて、アイルランドとギリシャに貸し込んでいるドイツ、フランス、その他のヨーロッパの大手銀行と、その株主や両国の国債の保有者を助けるための融資です。

しかもその融資にきわめて高い利子が付いている。だから負債でつぶれたギリシャ、アイルランドがさらにまた負債を抱え込み、しかもそれで当座なんとか浮かんでいられるだけなのです。それがEUによる救済の内幕で、銀行が生き延びるためなら社会や国家が滅びようがなんだろうが知ったこっちゃない、という状況が生まれています。もうギリシャもアイルランドも孫の代までもみんな、銀行に借金を返すためだけに生きているような国になってしまうでしょう。さらに債権者の銀行のご機嫌をとるために、ギリシャとアイルランドの政府は経済がどん底なのに大増税と超緊縮財政をやっている。この二つの国では、若者が将来に見切りをつけてどんどん外国に移住しているようです。まさに亡国です。

その点、救いはアイスランドです。アイスランドは、銀行が勝手に国のGDPの11倍もの規模のマネーゲームをやったあげく、ご存じのように国家的に破産した。しかしここでは、国民投票で銀行救済を拒否した。具体的に言うと、アイスランドの銀行が資金源だった外国に対して抱えている負債を、国ぐるみで踏み倒したのです。その結果、経済はたいへん厳しい状態ではあるけれど、マネーゲームに責任がない一般国民が銀行に利子と負債を払いつづける必要がなくなった。

この債務不履行の結果、アイスランドのクローナが暴落した。だが、暴落した分、タラの塩漬けなんかを安く輸出できるようになって、経済が持ち直してきている。失業率も大方のEU諸国より低い。状況はひどいけれど、とにかくやっていけるし、アイスランドは再建できるという希望が生まれてきている。その点、ギリシャとアイルランドにはまったく希望がない。それなら、一時的にはどんなに苦しくても借金を踏み倒しちゃえばいいじゃないか。それをやらない。そこが根本問題なんです。

銀行がギリシャやアイルランドにさらに増税だの緊縮財政を強要したら、経済はさらにじり貧になることは誰でもわかります。でも、銀行は政府に対するそういう強要をやめない。結局、銀行の帳簿のつじつまが合っているかどうかだけが問題なんで、その結果が実体経済にどういう影響を与えようが知ったことではない。銀行としてみれば、わかっちゃいるけどやめられないんです。政府の方もですね、租税国家は経済成長を前提に設計されていますから、こういう状態になっても、必死にがんばればトンネルから抜け出てまた景気回復がある、まず銀行を救おう、という発想でやっている。その結果、ますます断崖からまっさかさまみたいな状態になってきています。

租税国家から社会信用国家へ

それではなぜ経済成長が必要かというと、これは要するに利子の問題があるからです。そこそこ食っているだけじゃ、絶対、銀行に借金を返せないから、経済規模を拡大することで利子を返さなきゃいけない。利子つき負債の銀行マネーが経済成長の論理を生み出すのです。

福祉国家の延長線上でBIを考えて、福祉と同じく消費税なり所得税なりの税収を財源にBIをやればいいという議論が、日本ではまだ主流だと思います。私はそう言っている人の揚げ足を取るつもりはないんですが、現実には租税国家の解体がどんどん進行しています。先進諸国ではもう景気の回復や経済成長はありえないので、税収は先細りになるばかりで、今後は福祉、社会保障支出の大幅削減が予想されるし、アメリカでは財政破綻した自治体が教師、警官、消防士などをまとめて解雇し、治安がひどく悪化している例もあるそうです。

租税国家と銀行マネーは一体なのですから、恐慌で銀行マネーが崩壊すれば、それに伴って租税国家の解体が進行する。具体的に言うと、政府が増税しても税収は落ち込む一方だし、赤字国債を発行しても買い手がつかず、税収の大半は銀行への利払いに充てられ、最後には国家予算の編成自体が不可能になるという極限的事態もありうるわけです。こういう国家の自殺を回避する方策はただひとつ、銀行券を政府通貨に置き換え、政府通貨を土台にして国家体制を再組織するしかありません。

そこで、経済を滑らかに回すためにー ―― 負債にも利子にも関係がない ―― 切符のような純粋な交換の手段として政府通貨が発行される、そういう政府通貨によって経済が動く国家を私は「社会信用国家」、ソーシャル・クレジット・ステイトと呼びたいと思います。

ソーシャル・クレジット・ステイト

この国家においては、国民経済の正確なデータに基づいて、必要なだけの通貨を経済に供給することが国家の仕事、その国家信用局の仕事になります。これは気象庁の天気予報のような基本的に技術的な作業です。このように国家の仕事は「信用の管理」になるので、税収を基に国家予算を組んで支出するという、会計としての国家財政というものはなくなります。もちろん国債発行の必要もなくなります。そして当然、財務省も廃止されます。ただ、税金は自治体レベルで部分的に残ってもいいでしょう。例えば、ある町が市民の合意に基づいて、景観保存税を設けるといったことです。

政府通貨の企業への融資については、様々なシステムが考えられます。とにかく国民生活や地域社会に必要不可欠な仕事をしていると公的に認められた企業には、政府通貨が融資されるでしょう。それから日銀と日銀券は廃止されても、地域の銀行は存続が認められるでしょう。だから政府通貨がカバーしない、例えば趣味的な商品を扱っている企業などには、そういう商業銀行が融資する。ただ諸悪の根源である部分準備制度=銀行による私的でアナーキーな信用の創造は認められません。あくまで手持ちの預金だけを貸し出してその手数料でやっていくことが銀行の営業条件です。もっとも、イスラム銀行のように、事業が当たった場合には資金の借り手と銀行が儲けを折半ということは、あってもいいかもしれません。

だが以上とは別に、国家には教育、医療、福祉、国防、その他の資金となる国庫への収入が必要です。税金のかたちをとらずにそういう収入を確保する必要がある。そこで、私は以前の講演で提案したのですが、企業への融資に1~2%のごく低い利子を付けたらどうか。利子という言葉がまずいなら、融資手数料と言ってもいい。政府通貨による融資は国民経済の大動脈をなすものですから、これによる国庫への収入は膨大なものになる筈です。これは、政府が銀行と同じ金貸し業をやっていることを意味しません、そうではなくて、これは企業経済の繁栄が、そのまま国民生活の安定と充実につながるような連動装置を設けることなのです。

政党政治と租税国家

ところが租税国家を社会信用国家に変えようとするや、その最大の障害として現れてくるのが、議会制と政党政治なのです。議会なるものは租税国家の一環をなしている制度であり、だから議会政治の中身といえば、国家予算の編成をめぐる政党間の争いや駆け引きや取引です。税金の取り方、使い方そして昨今は国債発行額の限度といった事柄で政党が争っている、それが議会というものです。ですから租税国家が社会信用国家に変わったら、議会と政党はすることがなくなってしまいます。そもそも会計としての国家財政というものが消えてしまうのですから。

政党とは何ですか。それは租税国家を前提にして、それを自分たちのグループにできるだけ都合よく利用したい連中が、他のグループと争うために徒党を組んだものです。

政党はそういうグループや個人の野心で動いているから経済全体の分析なんかどうでもいいんです。銀行が経済全体の事なんか考えずに融資しているのと同じです。政党と政治家は次の選挙で勝って権力を握れるかどうかだけで動いている。そういう意味では銀行は貪欲を動機として動いており、政治は野心や名誉欲を動機として動いている。人間には野心や名誉欲も必要でしょうが、それで経済を動かされては困るんです。

いずれにせよ社会信用国家が生まれたら、大手都市銀行と政党は存在理由がなくなる。だから銀行と政党は、こういう方向での社会の変革には死に物狂いで抵抗するでしょう。しかし銀行マネーの崩壊と租税国家の解体が進行すれば、そうした抵抗の基盤がどんどん崩れていくことも事実です。

議会制と政党政治は政府通貨とは相容れないと、今、言いましたが、あえてですよ、議会制の枠内で政府通貨が発行されたらどうなるか。それに近い例は中国の人民元です。人民元は変な意味での政府通貨で、銀行マネーならぬ党派マネーです。やはり利子付き負債のマネーですが、中国共産党の独裁支配の道具です。中国では党が銀行に命令します。だから、人民の福祉も社会の安定も生産も消費のバランスも考えておらず、共産党の権力を守れるかどうかの観点だけで融資されている。昨今マスコミは、中国は未来の超大国などというヨタ話を垂れ流しています。冗談もいい加減にしてもらいたい。党派マネーで動いている国にまともな経済発展などありえません。

実際、中国経済の歪みや政府の無茶苦茶な景気刺激策が生んだバブルは凄まじいようで、投資目的で建設され誰も住んでいないマンションが全国に200万あるとか、そのような状態です。

自治体の連合体としての国家

ところで先程から政府通貨と言ってきましたけれども、これは銀行が発行する通貨と発行主体を区別して政府通貨と言っているわけです。通貨の性格で言ったらパブリックマネー、公共通貨と言えるでしょう。この場合、政府通貨における政府とは何を意味するのか。選挙で勝った党派とか、武力クーデターで権力を握った党派とかを意味することはあり得ない。

ここで「政府」とは、社会契約に基づく全人民のしっかりした合意を意味しているのだと思います。政府は人民相互の合意を象徴する存在であるべきです。社会契約とは、社会に参加する以上は人を傷つけるようなことはしませんとか、自分の利益がみんなの利益に一致するように努めますといった、基本的なことをすべての人がすべての人に対して約束することです。

そうならば、政府通貨発行の条件は、その発行と使途の公共性、それが公共の利益に即しているかどうかについての全人民の合意ということになります。そうすると、政府通貨の発行に際しては、国家予算の編制の徹底的な民主化が必要になるでしょう。誰も排除されてはいけない。すべての市民が国家予算の編成に参加する。そうでないと本当に信認されて安定する通貨は発行できない。してみると、政府通貨と国家予算編成の徹底的な民主化は一体のものなのです。しかし、この予算編成の民主化、全人民の討論による予算編成など、可能なことなのでしょうか。

これは論理的には簡単にできる。つまり中央銀行と並んで中央の政府も廃止すればいい。国家を自治体の連合体として再組織する。そして、自治体が市民も参加してその予算案を作る。市民参加の予算作りはブラジルで始まって、日本でも埼玉県の志木など実験的にやっている自治体があります。(ただ自治体連合としての国家といっても、外交や国防などのナショナルな事柄はどうするかという問題があります。これは例えば、自治体の首長が協議会を作り、その成員が互選で「内閣」を組織するといったことなどが考えられるでしょう)。

そういう市民参加で各自治体の予算案を作って、それを中央の国家信用局に上げる。そして国家信用局は全国から集まってきた予算案を国民経済計算のデータと照合しながら調整し、統合して、国家予算を編成し、それに従って通貨を供給すればいい。この場合、国家信用局の課題は調整と統合およびインフレの予防です。通貨の過剰供給によるインフレが発生することがないよう予算案を審査し、必要なら自治体の同意の下にそれを修正する。ただし予算案の中身には立ち入らない。もし市民がおかしな予算を作って問題が起きたら、そのツケは市民自身が払って、将来への反省材料にするべきなのです。以上は体制転換の精密な青写真などではなくて、こういう考え方、やり方もあると、例を説明申し上げているわけです。

中央と地方

このようなかたちで、全人民の討論による国家予算の編成が可能になります。この方式なら、国家予算で何を優先するのか、教育か医療か福祉か国防か、そういうことも常時国民投票をしているのと同様な形で決めることができる。そして予算がつくというかたちで国民の選択が明確になるわけです。今の話を聞いて、これは結構だが革命的ユートピアじゃないかとおっしゃるかもしれません。しかし国家予算編成の民主化について、私は悲観していません。確かに、今、私が提示した方式はラディカルすぎる。すぐに実現できるものではない。しかし租税国家が解体する中で、議会も政党も中央の官僚制も、もうまともに機能していません。皆さんもそう思うでしょう? 今の国会なんか、程度の悪いナンセンスギャグコメディーみたいなものです。

国家は機能不全の状態。これは深刻な問題ですよ。日本の財政はアメリカやEUよりはまだ破綻までに時間的に余裕があると思いますが、このままほっておくといずれは、年金も、健康保険も、全部なくなっちゃうかもしれない。

そしてこの状況の中で、市町村から道府県に到る自治体が、国民生活の危機と転換の焦点になってきていると思うのです。その理由は、国と地方では財政の事情が違うからです。国の場合は財政が火の車になったら、日銀=銀行業界に懇願して、景気刺激策や赤字国債発行で多少は渋々協力してもらえることがある。しかし地方にはそんな日銀とのパイプなどなく、財務省の言いなりです。地方は90年代のバブル崩壊後に、国に景気対策として地方債による公共事業をやらされた。今その巨額のツケが回ってくる中で、税収がどんどん落ち込んでいる。しかも地方自治体は中央の政府と違って住民に密着していますから、福祉切捨てなどやたらに不人情なこともできない。アコギなことをすれば、すぐに首長の評判にはね返る。こうして自治体は、破綻した国家財政と住民の間で板ばさみになり、身動きできない状態です。そのうえグローバリゼーションによる地域経済の衰退や地域人口の高齢化など、国政のツケもすべて東京以外の地方に回されています。

それゆえに、現在の日本では中央と地方の間に活断層が走っていて、それが今後のこの国の政治の震源になりそうです。これからは地方自治体が日本の政治の焦点になってくるでしょう。だから我々としても、国政選挙なんか放っておいて、自分たちの住んでいる地方自治体の尻を叩く必要がある。もしも自治体が、財政が苦しいから、例えば保育園への補助金を打ち切るとかそういうことを言ってきても、頑として認めないようにする。「子どもたちが健やかに育つためには、優良な保育園が絶対に必要だ。財政のことはそっちで考えろ」と、徹底的に分からず屋として抵抗して、自治体を追い詰める。自治体が追い詰められて、国家に八つ当たりしていくように仕向けることが必要です。とにかく、自治体の財政事情に対して物分りがよくなってはいけないと思います。むしろ要求をどんどん出していくぐらいのことが必要でしょう。

自治体銀行 ―― 段階的な戦略

それはとにかく国家を自治体連合に再組織するというのはラディカルな案で、すぐには実現しない。それでは、段階的に社会信用国家を作っていく手立てはないでしょうか。ここでまず必要なのは、日銀と財務省をバイパスするマネーフローを作ることです。住民の利益に、必要に答えるような、マネーフローを設計する。

自治体の懐は苦しいけれども、自治体はそれぞれ、山野だの、名所旧跡だの、公共の建物だの、様々な資産を持ってます。そうした自治体の持っている資産を裏付けにして、各自治体が資金を……出しあって、全日本自治体銀行という公立銀行を作ったらどうか。この銀行はあくまで公共の福祉のための銀行ですから、教育とか福祉とか地域社会の安寧と繁栄に必要なものに優先的に融資する。地元の地域社会で重要な役割を果たしている地場産業、中小企業に融資とか。一応、利子は取ります。政府通貨じゃなくて日銀券を使っていますから。ただし低利子で、しかもこの利子収入は、そのまま自治体の収入になります。今みたいに経済が低迷している時には、こういう利子収入は自治体にとっては非常によい財源になる筈はずです。それから、この銀行で働くのは自治体の公務員で、その職務で特別に高い給与をもらう訳ではありません。

そしてこの公立銀行は、銀行の部分準備制度を公共の福利のために活用すればいいのです。全国の自治体が懸命に資金を集めても、100億円くらいにしかならないかもしれません。しかし、今、言ったように部分準備制度を応用すれば、これが800億とか1,000億になって地域社会に融資できます。

自治体の公立銀行の実例としては、現にアメリカに北ダコタ銀行という州立の銀行がありまして、これが非常に成功している。この銀行は、かつて東部の銀行資本と戦った西部の農民運動が生んだ銀行です。地元の地域経済発展のために、公共的な意義のある融資をやっています。その収入は北ダコタ州の収入になります。今、アメリカの州や都市の多くが破産状態ですが、北ダコタ州は黒字で、失業率も全国でいちばん低い。

この自治体銀行は、地域の銀行とは協力し協調する必要もあるでしょう。北ダコタ銀行もそうしています。ただ、大手都市銀行は自治体銀行に対して、「営業妨害だ」と激しく反対するでしょう。それなら我々は逆に「大手銀行はこれまで何をしてきたのか」と問い詰めればいいのです。大手都市銀行は潰れた方がお国のためです。

もし全日本で自治体銀行を設立してうまくいったら、次のステップに進む。今度はいよいよ通貨を発行する。政府通貨に等しいものを、日銀と財務省をバイパスして発行する。ただ、日本国の法律では日銀が法定通貨を発行するので、それ以外には誰も通貨を発行できないことになっています。しかしこの問題は言い逃げてしまえばいいんです。これは通貨ではなく証書です、人が働いて物やサービスを生産したことを証明する証書です、と言い張って、それを実際は通貨として流通させてしまえばいい。そういう証書の流通によって経済が一気に回復したら、財務省や日銀も文句をつけにくいでしょう。

そういう自治体財産証書みたいなものを発行し、自治体がそれを梃子にして日銀と財務省をバイパスした地域自治体連合経済を作っていく。こういうことをやらない限り、租税国家は追い詰められて、増税と緊縮財政を繰り返して自滅するだけです。

社会実験を促進するためのBI

ここでようやくBIの話になります。というのも政府通貨が根本的な課題で、政府通貨が実現したら、BIはお茶の子さいさいで出来てしまうからです。まず、BIの財源の問題がなくなります。そして銀行マネーが消滅し、利子付き負債の返済が経済を動かすことがなくなると、経済成長、GDP(経済規模)の拡大はもう国や企業にとって至上命令ではなくなる。そして政府通貨の安定した流通を実現するためには、生産と消費が均衡することが望ましいと考える人々が増えるでしょう。その結果、政府通貨でBIを保証することこそ、政府通貨のもっとも有効な使い方だとする世論が高まるでしょう。

そういう意味で、BI実現のためには、まず政府通貨という第一のハードルを突破しければならないと、私は考えているのです。その上で、BIについて二言ばかり付け加えたいことがあります。まず第一に、BIは福祉の延長線上にあるものではないことはおわかりだと思います。逆にいえば、仮にBIが実現したからといって福祉は切り捨ててもいいということにはなりません。BIと福祉は、本来、目的も意義も異なるものなのです。

私の考えでは、BIを求める世論の高まりは、今の社会が巨大な実験をしようとしていることに関係しています。冒頭で申し上げたように、今後、我々はゼロ成長経済の中で生きていくしかありません。ところが現代社会では、経済も国家も成長を前提にしたシステムとして作られている。教育もそうです。そしてゼロ成長やマイナス成長社会をどうしたら作れるのかは、はっきりいって誰にもわからない。結局、そういう新しい社会は、すべての人が生活者として実験し、模索する過程の中から、徐々に生まれてくるのでしょう。そうした実験的な生き方を可能にするところに、BIの深い意義があると私は考えています。

具体的な例を上げると、今の就職超氷河期で必死に就活して、100社回っても全部はねられた、そんな思いをするくらいなら、以前から関心があったし、地方で有機農業をやってみようか、と考える若者はかなりいるんじゃないでしょうか。

といっても、都会人が一人前に農業をやれるようになるには、だいたい10年はかかりますよ。

しかしBIがあれば、ライフスタイルの転換は極めて容易になる。安心して農の修業ができる。それから経済成長ゼロの社会においては精神的な要求の充足が重要になってくるでしょう。そこでは芸術や芸能の役割は大きいでありましょう。しかし芸術は、それでは食えないものと、相場が決まっています。それだけにBIは芸術や芸能に関係する人たちを支えることで、経済中心から文化中心への社会の原理の転換に貢献できるだろう。実験的な生き方を可能にするBIは、革命とか暴力なしに社会の在り方を変えていくことができる。

だから、「BIが実施されたら怠け者が増える」といった議論を、私は相手にしません。むしろ実験的な自由な生き方をしてみようと思う人が、一斉に出てくるんじゃないでしょうか。

BIの未解決問題 ―― 3K労働

しかしながら、BIには実は未解決の大問題があると思います。3K労働をやる人がいなくなる可能性がある。BI論者の中には、3K労働をやる人には高給を出せばいいという議論がありますが、そういう発想はダメだと思います。今の若者はたとえ高給を貰えても嫌な仕事はしない。ネットカフェ難民になるくらいだったら3K労働をやろう、とは思わないようです。もっとも私は、食い詰めても自分がピンとこない仕事はしないというのは、今の若者のいいところだと思っているんですよ。彼らは、自分がピンとくる仕事なら、無給のボランティアでもせっせと働きます。ともあれ、派遣切りをやられたり、ネットカフェ難民をやってる若者でも、月50万やるから漁業やらないかと言っても来ないらしい。私の地元の渥美半島でもそうですが、今の漁業は中国人労働力なしには動いていかない状態になっています。

これはしょうがないです。だからBIが実施された場合、アジや秋刀魚の味覚はあきらめる必要があるかもしれません。そこでちょっと脱線して、この問題をさらに考えてみますと、漁民の子弟は就職と思って漁師になるわけではない筈です。就職と考えたら、こんな3K労働は嫌だ、ということになるでしょう。

そうじゃなくて漁村や農村、とくに漁村の場合はどこでも近代以前からの長い歴史があり、豊かなフォークロアが語り継がれる共同体がある。そういう共同体の中で育ってその伝統を世代的に継承していく、そういう意識で漁師になるのだと思うのです、漁民の若者は。これを就職みたいにしてしまったら、農業や漁業はやる人がいなくなる。ですから農業や漁業の後継者不足は、ある意味でフォークロア的共同体をどうやって再生させるかという問題でもあると思います。これは経済政策や政府の号令で解決できる問題ではない。これもやはり様々な人が模索するしかないことなのでしょう。しかし、そういう模索をする人々には、BIはやはり一つの支えにはなるでしょう。

とにかく3K労働の問題は、BI論議において未解決の問題であると私は考えております。

今日はこれで一応話を終わりにします。どうもご静聴ありがとうございました。

古山明男さん講演録「ベーシック・インカムのある社会」第2部

古山明男 講演録

「ベーシック・インカムのある社会」

― 労働と教育の根本的転換 ―

第3回ベーシック・インカム入門の集い講演録
2009年7月12日 於:青山学院大学

講演者:古山明男

主催:ベーシックインカム・実現を探る会/フォーラム・スリー

講演者より
この講演録は、2009年7月12日に青山学院大学で行われた講演をもとにしていますが、説明がよりわかりやすいものになるよう、大幅に加筆修正してあります。 ここに記載された内容は実際の話より「こういう説明をしたかった」ものであることをご諒解ください。 なお、講演趣旨の変更にあたる場合は、附記として最後に付け加えています。

第2部「生活を保障する公共通貨」INDEX

  1. ベーシック・インカムの財源
  2. 電子マネー型公共通貨 e¥
  3. e¥の使い方
  4. 引き出し権は絶対に保護される
  5. お金が生まれる仕組み
  6. 信用創造が生産側だけでいいのか
  7. 消費者側への信用創造
  8. 普通¥(円)との交換手数料
  9. e¥は納税通貨
  10. 歴史的実例
  11. なぜ減価させるのか
  12. e¥の正体は“積立型”国債
  13. e¥では使えないもの
  14. 減価の方法
  15. e¥を受け取った企業はどうするか
  16. 運転資金
  17. 減価マネーでの貸し借り
  18. 長期資金の返済
  19. 銀行貸出しの大変化
  20. e¥管理銀行による無利子融資
  21. e¥での賃金
  22. e¥での国、自治体の税収運営
  23. 公共経済の財源
  24. おおまかなシミュレーション(1) GDP
  25. おおまかなシミュレーション(2) 公共経済構築
  26. 輸入増の問題
  27. 財政問題
  28. コントロールしやすさ
  29. 地方通貨も可能
  30. 附記1 e¥の流通残高
  31. 附記2 e¥回収額の設定について
  32. 附記3 定率法と定額法 古いお金の寄贈
  33. 附記4 “減価ストップ債”の方法
  34. 附記5 納税されたe¥も減価ストップしない
  35. 附記6 利払いの割増費用
  36. 附記7 合計5つのレバー
  37. 第1部へ戻る

ベーシック・インカムの財源

古山明男さん

話し手:古山明男さん

1949年千葉市生。 京都大学理学部卒。 出版社で雑誌編集に従事したのち、私塾、フリースクールを主宰し、さまざまな教育ニーズに応える。 教育制度、教育財政を研究。 著書に『変えよう!日本の学校システム』(平凡社)。

「ベーシックインカムのある社会」blog
economics-human.at.webry.info
古山教育研究所HP
www.asahi-net.or.jp/~ru2a-frym

ベーシック・インカムの最大の問題はですね、じゃあ実現させるお金があるのかなんです。

月8万円出すとして、子どもが半額として年115兆円ほどかかります。今の地方と国を全部合わせて予算規模が150兆円。政府予算で80兆円。いまの国の予算を軽くオーバーしちゃうんです。

ですから普通に考えたらきついでしょ。そんなことできるのか、って言うのは当たり前です。そしてそれに向かって「出来ます」と言うなら、それはやっぱり責任ある形で提示しなきゃいけないんです。

具体的な方法はいくつかあります。まともに行くんなら税でちゃんと集めて構成します。

これはね、小沢修司さんなんかが所得税45%でいちおう行けるんじゃないか、と計算しています。

もうひとつ消費税を財源とするというやり方があります。たとえばゲッツ・ウェルナーというドイツのドラッグストア・チェーン店をやっている社長さんがベーシック・インカムを主張していて、所得税なしで、消費税50%、それでベーシック・インカムの財源は出る。そういう計算をしているのがあります。

日本の今の状況でおおざっぱな計算をしてみると、税負担を考えるときの基礎にする国民所得というものがあって、それが約370兆円なんですね。

そこから、たとえば北欧諸国は所得の7割くらい税金と社会保険に使っていますので、それくらい出す気になりますとね、260兆円くらいを再配分に回せます。そうしますと110兆円のベーシック・インカムを出して、まだたっぷり残ります。だから、もし北欧諸国並みの負担率を覚悟すれば、すぐにでも実現可能です。

ベーシック・インカムはそもそも不可能ということではなくて、可能なだけの経済規模を私たちは持っているということなのです。

しかしながら、実際の増税は難しいです。やっぱり増税アレルギーっていうのはありますし、現実問題としてはなかなかまとまらない。

しかも、現実に税収の落ち込みが始まっています。この間の報道では、昨年度の税収がね、前年度に比べて13%落ちちゃった。国の税収50兆円位あったのがね、43兆か44兆です。今年もっとひどいですよ。

それから地方の税収も落ちています。

この状況だからこそ根本的な財政問題とかベーシック・インカムとかの議論に入れるんですが、入れるんだけれども、そのときには正真正銘、金がないんですよ。そういうジレンマに今あるわけですね。

80年代にもし高負担、高保障型の財政に移行する合意が出来ていたら楽に出来ていたと思う。あのころは財政力強かったです。でも、いまは財政基盤が弱くなっています。

電子マネー型公共通貨 e¥

そこで、私がこれなら実現可能性があると思う、電子マネー公共通貨案があるんです。これだと、財源はいりません。新たな経費的なものは年数兆円程度かかりますが、それで100兆円を超えるベーシック・インカム全体を運営できます。

前回関さんの講演会を聞いていらっしゃった方あると思うんですけれども、関さんは財源はいらない、公共通貨を出せばいいというお話でした。

私も、新しい公共通貨発行によってベーシック・インカムが可能だと考えています。いまの日本というこの社会の中でやれる形を考えてみました。

ウソみたいな話だと思うかもしれませんが、魔法じゃありません。片方で、生産の設備と技術は余っている。もう片方には、働いても働いても報われない人たちやお金がなくて生活に困っている人たちがいる。そういう状況なら、パイプを作るだけでうまくいくんです。

公共通貨は、いろんなものがあり得ます。これから紹介するのは、減価マネーを使って消費者側に信用創造するタイプです。これなら信用されるだろうという堅実なものにしました。

公共通貨は、誰にどのように渡すか、税とどう組み合わせるかなど、実は他にもいろいろなものがあり得ます。色々あります。みなさんも、これをもとに、シミュレーションをいろいろやってみると、おもしろいと思います。

e¥の使い方

e¥(イーエン 仮称)
  • 紙幣や硬貨は存在しない
  • ICカードで決済

これから話をする都合があるので、e¥(イーエン)ととりあえず名前をつけさせてもらいます。これね、紙幣もありません、硬貨もありません。JR東日本のSuicaとか私鉄のPASMOとかありますね。あれと同じです。カードで触ってピッ、で支払い終了。

ベーシック・インカムが生まれてくるための、すべての個人の口座がありまして、国ないし自治体が管理しています。そこに、たとえば毎月8万円、e¥を引き出す権利が発生します。

図1:すべての個人に新通貨の引き出し枠ができる。

注意:この個人枠は通常の銀行口座とは性格が違う。

それをカードにチャージすれば、どこのお店でもカードをピッと触れるだけでお買い物できます。チャージは、郵便局やコンビニでできるように機械を置きます。高額のお買い物でしたら、IDとパスワードを使って、自分のコンピュータか、お店のコンピュータから払います。

なんでいちいちチャージする方式にするかというと、カードというのはいつも盗難、紛失、偽造の怖れがあるからです。カード自体には数万円程度しか入らないようにして、お財布と同じ使い方をします。カードは何枚も持っていてかまいません。これなら、お小遣いの金額だけ入れたカードを子どもに持たせて、気楽に使わせることもできます。

でも高齢者や僻地に住む人は、カードを使うのが困難な場合もあるでしょう。そういう場合には、ベーシック・インカムを現金で受け取れるようにします。

 

それだったら、それぞれの人が指定する銀行口座に毎月振り込めばいいじゃないか、いまの給料振り込みと同じでいいじゃないかと思うでしょう。

実は、このe¥は、普通の銀行口座に振り込むわけにいかないんです。普通のお金と性質が違うので、普通のお金とまぜることができません。

e¥は、毎月1%ずつ目減りするのです。銀行がこんなお金を預かったらたいへんです。預金の利息が年に1%もつけられないのに、預かったら毎月マイナス1%、(複利で年にマイナス11.4%)なんて、それは銀行にとってあんまりです。

図2:月の1%の減価

1ヵ月以内に他人に渡せば、負担はなし。

でも、銀行で決済ができるようにしないと不便です。ですから銀行には、e¥専用の口座が作られることになるでしょう。その口座では、毎月1%の目減りは、預金者が引き受けます。その口座を電気料金や水道料金の引き落としに使います。送金に使ってもいいです。給料振り込みに使ってもいいです。銀行は、手数料をとって、管理しているだけです。

引き出し権は絶対に保護される

それだったら、とまた疑問が湧くと思います。はじめから銀行にe¥専用の口座を作って、そこにベーシック・インカムを振り込めばいいじゃないか、と考えませんか。なぜ、国か自治体に個人口座を作って、「引き出し権」にするのか。

ベーシック・インカムが生まれるとき、引き出し権として別にする理由が二つあります。

  1. 減価しないし、担保にもされない聖域を創る。
  2. 将来、個人が信用創造できる可能性を作る。

まず、聖域を作ることについて説明します。ベーシック・インカムは、なんの対価でもない、それぞれの人の生活権を保障するためにだけ生まれるものです。

この引出し権は絶対に保護されています。絶対に誰も差し押さえはできません。本人しか引き出せません。ですから、ヤミ金融に追われている人も、家庭内暴力から逃げだしたい人も、これを頼りに生き延びることができます。

そのベーシック・インカムを、毎月引き出して生活費にしてもかまいません。1~2年貯めて、車を買ってもいいです。万が一の時のために、とっておいてもいいです。たとえば、5年引き出さないでいると、500万くらい貯まります。ただし5年以上も引き出さなかったぶんの権利は消滅させたほうがいいでしょう。

引き出し権は目減りしません。まだお金ではないからです。「手続きすれば、お金になりますよ」と言われただけで、もらったわけではないのです。所得税もかかりません、資産税もかかりません。誰も奪えません、借金のカタにとることができません。

ベーシック・インカムが、最初から減価するお金で渡されると、生活に余裕のある人まで早く使おうとするので、消費が不必要に膨らみ、せわしない世の中になりそうです。

引き出し権のままプールされるようにしておけば、通貨供給を不必要に増やしません。また、好況の時にはあまり引き出されず、不況のときにたくさん引き出されるので、ちょうどダムのような働きをすることになります。

法律的には、憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」にもとづきます。

 

もう一つ、引き出し権の口座を作る理由があります。それは、個人が信用創造できるようにすることです。引き出し権のときはまだお金ではないのですが、e¥としてチャージするか銀行口座に移した瞬間に、国がお金としての価値を保障します。これは、個人がお金を創っていて、それを国がバックアップしているとも言えます。

いま、銀行がお金を創ってしまえるのですが、個人もお金を創ってしまえるようにしようということなのです。

同じ仕組みを使って、将来、出産とか、成人とか、病気や事故に遭ったとか、そういう時に、個人も新たにお金を創れるようにできます。将来、これで、セーフティ・ネットの完備した社会を作ることが出来ます。もちろん、やたらにお金を創れるということではなくて、だれもが納得できる基準に合っているときだけです。

個人がお金を創ってもいいのですか?

このことを説明するには、お金の仕組みがどうなっているかから説明しなければなりません。

お金が生まれる仕組み

お金というとふつう現金のことを思い浮かべます。でも、現在使われているお金の大部分は銀行預金なのです。

会社同士の決済は、互いの銀行口座から銀行口座へと振り込むことで行っています。普通の人の給料も、今は銀行振り込みになってますね。電気、水道、ガスも銀行引き落としです。

お金の大部分は、銀行預金のまま流通しています。いちいち現金にしないのです。

そのほんの一部分が、給料や買い物のために、紙幣の形になっているだけです。量で示すと、次の図のようになっています。これは、お金の量を表すのによく使われる、M2と呼ばれる預金と現金の合計です。

図3:お金の量(M2)

2009年6月現在(日本銀行調査統計局)

その銀行預金が、銀行でどんどん生まれるのです。銀行がお金を創っています。そんなバカな、銀行だってだれかが預けなければ預金は増えないだろう、と思うでしょう。ところが、おもしろいメカニズムがあるのです。

銀行預金は、銀行が「わかりました、ご融資いたしましょう」と言った瞬間に生まれています。

どういうことなのか、図を使って説明しましょう。

図4:信用創造の仕組み(1)

いま銀行が、A社という企業に100万円貸出をしたとします。そうしますと、銀行はA社の預金口座に100万円を書き加えます。そして、「ご融資いたしましたことをご確認ください」と言います。貸したという書類も作ります。

このとき100万円は、銀行の預かり金から移転させたのではありません。お金を貸した相手にすぐに預金させたのです。すると、結果として、集めた預金を貸したのと同じになっています。しかし、100万円の銀行預金はまったく新たにできました。つまり、ここで新しいお金が生まれています。

この新しい100万円はもう生まれていて、流通します。この100万円をA社がP社への支払いに使ったとしても、やはりどこかの銀行預金になっています。

図5:信用創造の仕組み(2)

さらにP社がこのお金を現金にして給料として払っても、同じ額がどこかに存在しています。お金はもう生まれてしまい、流通しているのです。

さらに、このやり方で、雪だるま式に預金が増えます。次の図です。

図6:信用創造の仕組み(3)

銀行はA企業へ貸出をしたので自分のところの預金が100万円増えました。預金が増えたのですから、その100万円をまた貸出に使えます。

そのままの額を貸出すことはできず、ある率は準備にとっておきますが、たとえば9割の90万を貸すとします。その90万は、また新たな銀行預金として生まれます。そしてまたその9割の81万円を貸します。こうやっていくと、どんどん増えますね。高校で教える無限等比級数を使って計算すると、合計で1,000万円のお金が生まれます。

これが、いまのお金のしくみです。お金は、銀行が貸出をしたときに銀行預金として生まれます。そして銀行預金のまま、あちらの口座からこちらの口座へと動いています。そして給料として払われて生活費になったり、税に払われて政府の予算になったりします。でも、元の生まれたところはと言えば、ほとんどは銀行の貸出だったのです。

預金の一部が、給料支払いの時などに、日本銀行券の姿になります。それをわれわれが、買い物に使っています。

信用創造が生産側だけでいいのか

こういうふうにお金を創ってしまうことを、信用創造と言っています。いろんな信用創造があるのですが、銀行の信用創造で生まれるお金を銀行貸出マネーと呼ぶことにしましょう。

銀行貸出マネーは、企業が「これから生産活動を行いたい」という時に、新しくお金を創れるシステムなのです。好況でお金が必要なときは、どんどんお金が生み出されますし、不況でお金の必要が少ないときは、返済されるお金のほうが多くなります。たいへん柔軟であるという長所があります。

なかなかよくできていて、高度成長する経済を支えることができました。

しかし、大きな問題もいくつかあります。

銀行貸出はすべて利息を伴っていますから、貸出の総量より返済の総量が必ず多くなります。経済成長を続けていないと、全部は返せなくなるのです。

また、銀行貸し出しマネーは、生産活動だけではなく、株や不動産を買うためにも生まれています。株や不動産は、投資と投機の区別が難しいです。買うから値上がりし、値上がりするから買う、で実体以上の値段がついては、暴落して大量の不良資産を生み出します。それがバブルです。

世界各国でバブルは起こっています。バブルはネズミ講のようなものでして、かならずいつかははじけます。その影響があまりに大きいので、各国の政府と中央銀行は次のバブルが起こるように誘導して、その場をしのいでいます。でもこれは、問題を先送りしただけです。次にもっとひどい症状が待ちかまえています。

そして根本的な問題は、この銀行貸出マネーは、生産の側には必要に応じて供給されますが、消費の側には供給されないことです。消費者の側は、賃金からしかお金を得られません。

図7:消費の側には信用創造が適用されない

もちろん消費者ローンはあります。でも、消費者はお金を貸してもらっても、お金を返すときは、消費を切り詰めて返すしかありません。

そのため、消費者が使うお金が増えないので、生産側も収入がのびません。企業が銀行に貸出を受ければ店の設備を作ることはできます。しかし、肝心な売上げは、消費者が買ってくれないと伸びません。

銀行貸し出しマネーだけでは、人々の所得を増やせないことを、よく現したグラフがあります。日本の通貨の量とGDPを表したものです。

図8:通貨量とGDP (日本銀行「時系列統計データ」より作成)

GDPというのは、企業利益と個人所得の合計です。日本のGDPは、90年代以降ほぼ横ばいです。ところがその間にお金の量(代表的な指標であるM2をとりました)は、どんどん増えています。

このようにお金はじゃぶじゃぶとあります。でも、人々の収入は増えていないのです。

消費者側への信用創造

そこで、消費者側に信用創造することが考えられます。ベーシック・インカムとしてお金を生まれさせるのです。

生産と消費は一体のものです。それに必要なお金を、生産側から入れても、消費側から入れても、同じことです。いったん入れれば、あとは循環するだけです。

消費側に信用創造してしまってもいいではありませんか。これで、生産と消費のバランスがとれるようになります。

図9:消費者側への信用創造

とはいえ、ここで大きな問題があります。

消費者への信用創造は、貸し付けても返済される見通しがありません。消費者は、お金を使えばそれっきりなのです。それが消費というものです。ですから貸すのではなく、あげるしかありません。しかし、そうすると出回っているお金がどんどん増えていきます。ベーシック・インカムは毎年100兆円もの額になります。流通して、結局はお金持ちのところに集まり、バブルになりそうです。今の世の中では、お金があまった人たちは、モノを買うより株や不動産に向かいますから、インフレよりバブルのほうが起こりやすいです。

でも、持続可能なサイクルを作ることはできます。普通の方法としては、消費税や所得税で回収することです。この方法も真剣に検討されてよいと思います。

しかし、コンピュータが発達した現在、電子マネーを利用すると、そのお金が人から人へと移されるたびに、たとえば1%ずつ、自動的に回収することができます。お金を使った人は、かならずそのお金の恩恵を受けているのですから、わずかな使用料を払うつもりで回収に応じてもいいではないですか。あらゆる口座移転の際に回収します。

図10:電子公共通貨 回収システム

つまり、この電子マネーによる信用創造は、個人に貸したが、返済は人から人へと回るときに、使った人みんなでする、という形になっています。みんなで担う、公共の通貨なのです。けっきょく、ベーシック・インカムを受け取った個人は返さなくてもいいのですから、もらったことになります。誰もが同額をもらっているのですから、不公平はありません。

使った時の1%回収だけでなく、この電子マネーは1ヵ月保有するごとに、その保有者から保有料として1%を回収します。この公共通貨は、みんなで使うためのお金です。誰かが資産として貯め込みにくくしてあります。ただし、1ヵ月以内に使った場合には、保有料は払わなくてかまいません。

こうしますと、この電子マネーは、絶対に毎月1%以上が回収されます。毎月1%というペースは、5年9ヵ月で半分になり、20年で1割以下になるペースです。発行されたe¥は、かならず消滅します。だから、次から次へと出すことができます。

回収された電子マネーは、また次のベーシック・インカムの資金にできます。古い電子マネーを消滅させるのにも使われます。(附記1)

こうすれば、持続可能な、消費者のための信用創造システムが作れます。しかも、返済に困る人も現れませんし、貸し倒れの心配もありません。

さらに将来は、この電子マネーシステムを使って、ベーシック・インカムだけではなく、人々の生活の必要に応じた信用創造ができます。病気や怪我をしたとき、医療費や生活費のために信用創造していいのです。あるいは、一家の稼ぎ手が急逝したとき、家族に信用創造を認めればいいです。

そうしたら、生命保険や疾病保険なしに、国や自治体の予算もなしに、生活のセーフティ・ネットを作れます。

ただし、電子マネー公共通貨による信用創造は、生活に必要なことに限定することが大事です。それが、インフレやバブルを防ぐことになります。

普通¥(円)との交換手数料

e¥は普通のお金と交換できることが保障されていないと不便です。普通の円と交換が保障されていないと、「e¥では受け取れません」という人やお店も出てくるでしょう。

でも、もしe¥と普通のお金を自由に交換できたらどうなるでしょう。誰でも、e¥をもらうと同時に、普通のお金に換えてしまうに決まっています。目減りするお金より、目減りしないお金のほうがいいですから。そうしたら、e¥は流通しなくなります。

そこで、e¥から普通のお金に換えるときは、手数料を取るようにします。たとえば、1年分の減価にあたる11.4%を払ってもらいます。

こうしますと、手数料を払って紙幣に換えることが保障されます。でも、安い手数料でもないので、e¥のまま使ったほうが得になります。買い物にはほとんどe¥がそのまま使われるでしょう。

でも、結婚式のご祝儀はやはり紙幣でないと熨斗袋に入れられませんね。それは、銀行に行って11.4%の手数料を払って1万円札に交換してもらいます。

e¥は納税通貨

新しいお金を作ろうとするとき、それを受け取った人の立場を考えなければなりません。

そのお金を受け取ったお店にとって、使い道があるかどうかなんです。もし使い道がないならば、お客がe¥で払おうとしても、お店としては「普通のお金で払ってください」と言います。そうなったら、もうe¥は流通しないお金になってしまいます。

どうすれば、e¥を受け取った側が、そのお金をもらっても不自由しないでしょうか。

必要なことは、e¥をそのまま納税に使える通貨として認めることです。e¥は国が作る公共通貨です。その通貨を国が税金として受け取らなくて、「税金は日銀券で払ってくださいね」などと言ったら、どうなるでしょうか。そんな通貨は誰も信用しなくなってしまいます。だから国は、ふつうの¥とこのe¥をわけへだてなく税金として受け取ります。地方税にも使えます。

そうすれば、どこのお店も会社も、e¥を受け取ります。税金に払えるなら、誰でも必ず使い道があるからです。自分が多すぎれば、納税の多い人と交換すればいい。

そうするとおもしろいことが起こります。e¥は月に1%ずつ目減りするお金です。商売をしている人たちにとって、月に1%は死活問題です。e¥を受け取ったら、さっさと手放してしまおうとします。税金の支払いに使えるなら、e¥をつまみ出して、払ってしまいます。それでもまだe¥があるなら、先の税金まで払おうとします。持っているよりはましです。

つまり、税金の先払いが流行るようになります。納税者が「来年のぶんまで払わせろ」と言うと、税務署が「ダメです、今年のぶんしか受け取れません」と押し問答するようになるかもしれません。

歴史的実例

このような減価するお金、しかも納税に使えるお金は、実例があります。

1932年にオーストリアのヴェルグルと言う町で地域通貨を出しました。大恐慌の時代なのですが、この地域通貨のおかげでこの町だけものすごく経済効果が上がって生き延びました。これは町でもって労働証明書という名前で紙幣を出しちゃいまして、公共事業をやったときの賃金として払いました。その紙幣は毎月額面の1%のスタンプを買って貼らないと通用しないという仕組み作りました。これがその紙幣の写真です。

図11:ヴェルグルのスタンプ通貨

この証書の右上に空欄がありますけれども、所有者はここに毎月一枚づつスタンプを買って張るんですね。それは1%ずつ毎月価値が減っているようなものなんですよ。

このお金は持っていると余分なスタンプ代を払わなければならないので、どんどん使われます。お金の形で貯め込もうとしないで、早く使おうとするのです。そのため、ものすごく経済が活性化しました。失業者が減り、生産が増えました。税金を前払いする人たちも現れました。

すごくうまくいったんです。でも、真似しようとするところがたくさん現れたもので、通貨制度が混乱することを心配した国に禁止されてしまいました。これやると税金が地方には入るけれど、国の方に入らなくなっちゃいます。

e¥は、このヴェルグルの労働証明書みたいなものと考えればいいです。スタンプ貼る代わりに、手持ちのe¥の一部を自動的に回収していきます。そのため、手持ちのe¥が減るのです。

なぜ減価させるのか

我々はお金を貯めたがります。すべてのモノは、腐ったり、すり減ったり、壊れたりしますが、お金にしておけばいつでも欲しいモノと交換できるからです。お金が貯まっていると、とても安心できますね。

すると、どうしても貯めるのが上手な人と下手な人がいます。上手な人はたくさんお金を集めて、使わずに貯め込みます。そうすると、お金が循環しなくなります。トランプでチップをぜんぶ集めてしまう人ができると、ゲームが続行不能になるようなものです。生活に苦しむ人ができるし、経済活動が滞ります。

そこで、貯まったお金が活用されるように、利子という制度を作って、お金持ちがお金を貸すようにし向けます。銀行がその仲立ちをします。これで、お金が死蔵されることはなくなります。でもそうすると、お金を持っている人は何もしなくてももっとお金を殖やすことができますし、お金のない人はけっきょく利子のぶんをたくさん払わなければなりません。貧富の差がどんどん大きくなります。やがて、ドカーンとすべてをご破算にしてしまうような事態が起こります。

ゲゼルという経済学者は、減価するお金を考え出しました。われわれの生活に必要なさまざまな物資よりもお金の価値が少し低くなるようにするのです。そうすると、お金は貯め込まれなくて、よく流れるようになります。ヴェルグルの町長さんは、ゲゼルの理論を実行したのでした。

減価するお金は、お金を貯め込む人たちからお金を徴収するのと同じ働きがあります。人々はお金を貯めるより、お金を使おうとします。お金は滞らずに循環するようになります。

しかし、お金が目減りするだけだったら、みんなが貧乏になります。お金が湧き出しているところが必要です。

すべての個人ごとに必要な生活費としてお金を湧き出させるのが、お金のもっともよい湧き出しどころだと思います。どんな文明であろうが、人々の生活維持が経済活動の根幹なのです。生活費は、労働と生産を生み出すために使われ、次の人へと渡されていきます。ベーシック・インカムと目減りするお金の組み合わせは、いつも流れている川を作り、そこから誰でも水をくめるようにするようなものです。誰でもが安心できる社会を作れます。

しかし、目減りしないお金も存在していないと、いまの経済はうまくいきません。普通のマネーとe¥が共存していくのがいいと思います。

e¥の正体は“積立型”国債

では、このe¥という電子マネーは誰が発行した、どういうお金でしょうか。

おもしろいことに、いろいろに作れるのです。政府が発行した通貨としてもかまいません。別な日銀券としてもかまいません。あるいは、政府が保障する新たな種類の消費者クレジットとすることもできます。

いろいろあり得るのですが、「信用される通貨を作る」ことが大事です。それには、e¥は国債である、とするのがいちばんいいと思います。

国債というのは、国が発行した債券で10年後とかの期日に額面の金額を払い戻します、という約束なのです。国債は、あらゆる債券のうちでもっとも信用があります。もしそのまま人に渡せば、お金を渡したのと同じことになります。しようと思えば、国債をそのまま通貨にすることだって、可能なのです。

e¥は、額面100円の小額国債が集まっているものだとします。e¥の一枚一枚は、「満期になれば、絶対に100円玉一個と交換します」と国が約束してあります。そうして、最初から100円のお金として通用させるのです。

しかし、普通の国債とは、たいへん違ったところがあります。

普通の国債ですと、発行したときに購入者がお金を払い込み、期日になったら国が払い戻し(償還)します。利子も払います。次の図です。

図12:通常の国債

e¥ですと、次の図です。払い込みなしに発行してしまい、それが流通する間に少しずつお金を集めて、満額になったら払い戻します。“不特定多数者による積立型国債”とでも言ったらいいと思います。利子は払いません。

図13:“積立型”国債

国債と通貨との関係ですが、日銀券の場合ですと、日本銀行は66兆円の国債を保有し、76兆円の日銀券を発行しています(09年7月)。各国の中央銀行も、これと同じような構造になっています。

日本銀行は、国債という信頼できる資産を持っていることで、日銀券の信用を得ているのです。でしたら、国債そのものを直接にお金として通用させたほうが、もっと確実ではないでしょうか。e¥は国債そのものです。

 

"不特定多数者による積立型国債"であるe\は、使用1回1%と保有一ヵ月1%で払い込んでもらいます。この払い込みのために減価するのです。113円になったところで満額となります。そのとき113円のe¥または100円の現金で払い戻しして、消滅します。(附記2)

e¥運営には、かなり大がかりな全国電子システムと、たくさんの窓口を必要とします。e¥をまとめて管理するところが必要です。国と自治体による直営システムを新たに作っても、日銀がやってもいいのですが、似たようなシステムをすでに持っている「ゆうちょ」あたりが管理するのもいいんじゃないでしょうか。

e¥では使えないもの

ところが、目減りするお金では、どうしても受け取るわけにいかないという業種があります。たとえば、銀行にe¥を持っていって「定期預金にしてください」と言っても、銀行は、目減りするお金を殖やして利息を付けることは不可能です。「普通のお金に換えてからいらっしゃってください」と言うしかありません。

他にも、お金を長期に渡って運用する場合には、e¥では運用不可能だから受け取れなくて当然なのです。銀行預金をはじめ、株式、国債、社債、保険、年金積み立てなどがそうです。

また、外国通貨との交換も無理です。目減りする通貨を外国が受け取ってくれるはずがありません。

土地を売る人も、e¥では受け取れないことが多いでしょう。

貯蓄、外国通貨購入、土地売買などは、みんな消費税がかからない取引です。これらは生産・消費活動ではないのです。これらの場合には、e¥での受け取りを断れるように決めておいてよいでしょう。普通の円に交換してから使います。

こうすると、たまったe¥を不動産や株や通貨の投機に使おうとしても、交換手数料があるために儲けるのは非常に難しくなります。これによって、e¥のバブルマネー化が防げます。

減価の方法

図14:1枚1枚の100円国債は額面を保つ

減価の実際ですが、e¥管理銀行が1%の自動徴収(国債払い込み)をすることで、目減りします。1万円のe¥があったらそこから100円を一枚抜き取る方式です。これだと、全体は1%減りますが、一枚一枚は100円の価値を保ちます。(附記3)

1%ずつ払い込まれたe¥は管理銀行に保管されて、満額になったe¥国債を償還させるための準備金になります。保管されたe¥は貸出にも使われます。

もし何もしないで10万円のe¥をじっと持っていると、次のグラフのような減り方になります。1年で8万8,638円になります。5年9ヵ月で半分の5万円になります。

図15:e¥の減価プロセス (月1%減価 15年間)

単位:縦軸=万円/横軸=月

113ヵ月のところで、ちょっと増えています。これは、償還期日です。一枚あたりe¥113を払い戻しされました。e¥113という額は、普通円の100円と交換できる額です。

ただし、回収は古い電子マネーから行いますので、古い電子マネーはたいてい管理銀行にあります。償還は管理銀行の中で行われ、自分で自分に払うことで古い電子マネーを消滅させます。

e¥を受け取った企業はどうするか

企業の立場を考えてみましょう。企業は、いつも借入金を返済し、手形を落とさなければなりません。売上げの多くがe¥になった企業はどうしたらいいでしょうか。

e¥でのベーシック・インカムが実現したとすると、貧乏人でもお金持ちでも、ふだんのお買い物でe¥から使ってしまおうとします。

そうしますと、スーパーとかコンビニとか消費者相手の商売は、e¥ばっかりたまっちゃいます。

そのままでは、商売する人にとって困ったことになります。企業は、仕入れには手形を使い、手形の期日までに銀行の当座預金に振り込みます。また、運転資金を銀行から借りては返済しています。ところがe¥では、銀行口座に振り込めません。普通のお金に換えるには、11.4%も手数料がかかってしまいます。11.4%では、商売が成り立たないでしょう。

運転資金

  • e¥での約束手形を発生させる。
  • e¥での運転資金借り入れを発生させる。
  • 過渡期には、11.4%の手数料を国が補助して、返済を援助するなども可。

そこで従来の手形とは別に、電子マネー版の手形を発行できるようにします。いついつに、いくらを電子マネーで払いますという約束手形です。約束は約束であって減価することはありませんので、信用ある企業のe¥約束手形は価値あるものになります。手形割引も可能です。

いったん移行してしまえば、問題なく回転するでしょうが、移行するときはかなりの配慮が必要になると思います。手形を落とせないことは倒産を意味します。

企業がe¥しか持っていないので手形を落とせないという事態を防ぐために、過渡期には、国が普通¥との交換手数料を補助する。あるいは、手数料部分の繰り延べ返済を認めていいでしょう。また、銀行から企業へe¥融資が必要になりますが、その資金としてe¥管理銀行が一般銀行にe¥無利子貸出をします。

減価マネーでの貸し借り

e¥のように減価するお金では、お金の貸し借りが難しくなるのではないかと想像されると思いますが、そうではなく、たいへん面白いことがおこります。

生産活動を活発に行っている企業ならば、e¥で借りるメリットがあります。借りたら、すぐに仕入れや賃金の支払いに使ってしまうのです。そして売上げから、返済の期日に同額を返済します。そうすれば、減価を引き受けないで済みます。けっきょくこれは、無利子融資を受けて運転資金に使ったのと同じです。たいへん得になります。

いっぽう、e¥を持ったまま、使い道がなくて目減りの危険にさらされている企業や銀行もあります。そういうところは、6ヵ月後とか1年後に同額を返してもらう約束をして、生産活動をしているところに渡します。そうしますと、自分は減価を引き受けないですみ、同額が期日に返ってきます。この方式なら、貸すメリットがあります。多少のマイナス金利であったとしても、持っているよりましです。

つまりe¥は、そのまま持っていると価値が減るのですが、生産活動が活発なところに貸せば、価値が減らないのです。e¥は、生産活動が活発なところに集まってきます。

長期資金の返済

手形や運転資金は、e¥建てのものを発生させて、誰にも損のないようにできます。しかし長期資金への対応は簡単ではありません。長期の銀行借入金、社債、株式などです。

長期借り入れを普通円でしたのに、売上げがe¥ばかりという企業はどうしたらいいでしょうか。

これには、返済期日に同額のe¥で支払うことを認め、ただし、本来払うはずだった普通円と交換するための手数料は、繰り延べ払いにすることを認めることで解決できます。貸した側は、返済されたe¥の総計を普通円に交換すれば損がありません。e¥のまま使ってもいいです。返済した企業側は、結局手数料ぶんだけ余計に払わなければならなくなりますが、e¥発行による経済活性化のメリットを十分に受けています。繰り延べ払いにすることで、急なショックはありません。また、e¥売上げに対する法人税の減免で、企業の損を軽くするという手段もあります。

e¥の流通が盛んになったとすると、企業が資金を調達するやり方に変化が起こります。普通円で長期の借り入れをしたのに売上げがe¥ばかりという企業は、いったん普通円に交換してから返済しなければなりませんので、結局、高い利率の借り入れをしたのと同じことになります。それでは引き合わないのでe¥での借り入れが多くなります。その場合、借り入れてそのままお金で持っていると損するので、必要なときに必要なだけ借り入れてすかさず使ってしまうやり方が主流になってくると思われます。

自動車のトヨタが、「カンバン方式」というのをやって、材料や部品の不必要な在庫は持たない、必要なタイミングに必要なだけ納入されるシステムを作りました。それと同じように、不必要なお金は持たない、必要なタイミングに必要なだけ借りる、という方式が資本調達でも行われるようになると思います。返済は、将来の時点での売上げから行います。

投資が必要なときに必要なだけe¥で社債を発行し、予想収入に合わせて少しずつの返済を約束するタイプが増えると思います。

株式発行ですが、株式は返済の心配をしなくていいので、普通の円で発行すればいいでしょう。配当はe¥で払うようなタイプが増えそうです。

銀行貸出しの大変化

e¥の流通量が増えてきますと、銀行の仕事が変化します。銀行は、普通のお金と同じにe¥を預金として受け取ることが危なくてできません。自分で持っちゃったら大変、毎月1%減っていくのを引き受けなくてはなりません。そこで、決済や引き落としのためには、目減りの責任はお客さまご自身で、という新しい当座預金を作ることになるでしょう。銀行は、場所を貸しているだけです。管理手数料を取るのは正当なことでしょう。

減価マネーでは、銀行がみなさんから大量の預金を集めてそれを貸し出す業務は、困難になります。銀行が預金を集めても、タイミングよく借り手がいればいいのですが、そうとも限りません。借り手を見つけられなくて自分で持っていると、たちまち減価のリスクにさらされます。

そこで、銀行はいったん自分のところの預金として受け入れることはしないで、貸し手と借り手を仲介して手数料を取る仕事をするようになります。

いっぽうで、e¥での資金需要はけっこうあります。企業は運転資金としてe¥の借り入れを必要とします。銀行は、e¥を持っていて使い道がなくて困っている企業と、e¥借り入れをしたい企業を仲介します。

銀行がe¥を貸す場合でも、自分のところの預金量をそのままにして貸すのではなく、いったん渡してしまいます。そして、返してもらう約束をします。

けっきょく、e¥の場合には、銀行貸出による信用創造が起こらなくなるということなのです。図にしてあります。

図16:銀行貸し出しの大変化

実は銀行の信用創造が、こんなに資本主義が脆弱である大きな原因なんです。銀行が、利子でもうけようとして、貸出しをしすぎるんです。そのため貸出の1割も不良債権が発生すると、倒産してしまいます。5%でも危ないでしょう。銀行が倒産すると、企業も他の銀行もバタバタと連鎖反応で倒れます。

減価マネーですと、銀行は貸出で儲けにくくなり、生産者と資金の仲介者という本来の役割を果たすようになります。e¥が多くなると、価値が保存される日銀マネーも大事になってきますので、銀行の新しい仕事もたくさん生まれると思います。

e¥管理銀行による無利子融資

  • e¥管理銀行は、一般銀行に対して、e¥を無利子融資する。
  • 回収された古いe¥を、融資に使う。融資に新規発行はしない。

企業から、運転資金としてe¥の需要はかなりあるでしょう。それに対して、銀行の手持ちe¥や、斡旋できるe¥が不足することはあります。そのときは、e¥管理銀行から一般銀行にe¥の無利子融資を行います。あるいは、銀行が、e¥管理銀行から企業に貸すことの仲介をします。

一般銀行のe¥貸出金利は、市場に任せればいいと思います。e¥管理銀行からの無利子融資が控えていますので、高い金利になることはあり得ません。e¥を貸したい人が多い場合には、マイナスの金利が生じることもあり得ます。

e¥の貸出にあたって、原則としてe¥管理銀行が新たにe¥を作り出すことはしません。e¥管理銀行には、回収したe¥がありますから、それを一般銀行を通じて貸出に使います。

e¥といういくらでも作れるお金を、国が新たに無利子融資に使うと、あぶないと思います。もういくらでも融資出来ちゃうんですよ。経営危機の大企業があると、結局は民主主義国家いろんな圧力があるわけで、助けてくれーっていうのは、労働者も経営者も思いますよ。そういうところにぼんぼんお金を貸して、潰れそうな会社をみんな助けちゃうんです。そうすると日本が社会主義国と同じになってしまいます。ゾンビ企業ばっかりになっちゃう。やはり経営責任は経営責任です。そしてベーシック・インカムで、人を助けています。失業しても人が生き延びられる仕組みを作っています。で、そのぶん企業は、経営責任を取ったほうがいいです。

無利子融資といっても、e¥ではあらゆる口座移転に際して1%の手数料がかかります。往復だと2%かかりますので、これが実質的な金利になります。この口座移転手数料の率を調節すると、短期金利の調節と同じ意味を持ちます。

e¥での賃金

e¥で賃金をもらう人の立場はどうでしょうか。はじめのうち、e¥での給料支払いは給料の一部でしょうが、売上げがe¥ばかりの企業は、賃金もe¥で払わせてくれと言います。そこで働く人がe¥ばっかりで賃金をもらっちゃったらどうしましょう。ちょっと困っちゃうでしょ。生活費として使うのなら問題ないのですが、一番困るのは住宅ローンを抱えている人たち。だってe¥はそのままローン返済には使えないことになっています。あるいは、家を建てるために貯蓄をしたい人たちもいます。

その解決策に、絶対というものはないので、いくつか案を作りました。

A案
給料全額e¥払いを認める。ローン返済、預金などには、個人が手数料を払って¥に交換。かわりにe¥所得税低率。
B案
給料全額e¥払いを認める。ある割合の¥との交換を国が手数料補助。
C案
給料のある割合は、普通¥で払うことを企業に義務づける。

A案は企業が全部e¥で払っても構わない。その代りにe¥での収入に対する所得税は0%か、非常に低くする。

B案も、給料を全部e¥で払っても構わない。けれども、ある割合を普通¥と交換するのは国が手数料を援助してくれる。

C案。一定割合は普通の円で支払うことを企業に義務付ける。普通の円との交換は企業が責任を負う。

いろいろな方法があるんです。(附記4:“減価ストップ債”の方法もある)

e¥での国、自治体の税収運営

ベーシック・インカムにe¥が使われるようになりますと、e¥が集まってしょうがないところができます。国と地方自治体の税収です。個人でも企業でも、e¥は真っ先に税金の支払いに使われるに決まっています。

税金の前払いが流行るようになりますね。

普通の円を持っている人も、そのまま納税に使わないで、e¥を持てあましている人とちょっといい率で交換してからe¥で納め、差額のぶんを得しようとするかもしれません。

そこで国があわてて、e¥での納税を制限したりしたら、e¥は信用を失ってしまいます。ここは、e¥で税金を受け取ります。

国の工夫は、いかにe¥をe¥のまま通用させるかにかかってきます。国や自治体はその年の収入でその年の支出をまかなう方式で、蓄えを作るタイプではありませんので、基本的にはe¥でやれるはずです。

予算のうちもっとも大きな部分は、公務員給与をはじめとした人件費です。e¥が定着してなんでも買い物ができるようになったら、人件費は基本的にe¥にしていいでしょう。しかしそれでは住宅ローンなどで普通円に交換しなければならない人たちが手数料で損しますので、e¥でもらう給与に関しては所得税フリーにしたらどうでしょうか。

政府がe¥で払うのでは問題になりそうな費目もあります。最大のものが、これまでに発行した国債や地方債の利払いや償還です。普通の円で払う約束をしてあるのに、税収はe¥ばかりなのです。この問題に対しては、普通円への変換手数料分を割増してe¥で払うことを認めたらどうでしょうか。受け取った人は、すぐに普通円に換えれば損はまったくありません。しかし、変換するとは限らなくて、e¥のまま使うかもしれません。

現実には、公債の借り換え(普通円のまま継続)に応じる人が多くなって、実質的には国債や地方債の償還をしなくてすむ割合が大きくなると思います。e¥が行き渡ってきたときには、減価しないし利子も付くという債券は、新規発行が少なくなり、貴重なものになってくるからです。

国や自治体に納税されたe¥は、減価がストップするようにします。(附記5)

いっぽう、積み立てて運用するタイプの政府管掌事業(基礎年金等)は、だんだん運用が困難になります。長期的には徴収タイプに移行することになるでしょう。そのほうがいいんじゃないでしょうか、積み立て運用型の政府事業が、年金やかんぽ事業などの問題を起こしてきたんです。

公共経済の財源

ベーシック・インカム実現後も、公共経済、つまり福祉・教育・医療・環境、そういうところにお金が回っていかないと本当の意味で生活が充実してきません。そういう公共経済は、もうかるもうからないではなく、必要だから作るものです。みんなで出し合うお金、つまり税金をもとに運営しなければなりません。そのための税収が必要になります。

図17:ベーシック・インカムによる公共経済拡大

e¥でベーシック・インカムを出し、消費税と組み合わせる方式で行きますと、この財源が作りやすいんですね。消費は必ず増えます。その増えた分から払う税ですので、無理がありません。また、電子マネーであることを利用して、支出したときに消費税を源泉徴収することもたぶん可能です。

行政サービス、教育、福祉などの費用を、商品の原価の一部と考え、買い物をするときに払ってもらうことは、合理的だと思います。どんなモノやサービスも、道路や港があり、制度が整い、教育程度の高い人々がいるから、生産できているのです。

しかし、消費税には問題もあります。消費税は収入の少ない人も同じ率で払わなければならないので、貧富の差が大きくなることです。ですから、消費税は、ベーシック・インカムと組み合わせなければいけません。そうすれば、低収入層にとってはけっきょく収入増になります。さらに、減価マネーの場合は、実質的に資産税を課しているのと同じですから、お金を貯め込む人たちへの対応がすでにできています。この資産税の脱税は不可能です。

税っていうのは、みんなでお金を出し合って維持しているサービスのためにあります。

ですから、税収を増やすなら、住民自治が絶対に必要です。自分たちで決めたことだから、払う気になるんですね。それに、実際に住んで暮らしている人たちで決めないと、ほんとうの必要度がわからないです。

今とにかく地方にもっとお金が行かないとだめです。職がないから人々も都会でばっかり暮らしちゃう。今消費税5%取られているでしょう。そのうち、地方に行くのは1%なんです。4%は国に行っています。地方の方にもっといっぱい渡して自分たちで何が必要か判断して、責任を持って使うようにしなくちゃいけない。

この地方と国の分配率を7:3とか6:4で地方に多くしていくべきです。それにともなって、地方に権限を移譲して、自治を拡大します。

おおまかなシミュレーション(1) GDP

大まかなシミュレーションをちょっとやってみました。これ絶対っていうことはないんだけれども、ちょっと目安にはなるかと思います。

ベーシック・インカム毎月8万円で15歳以下を半額としまして年間116兆円かかります。これをe¥を新規発行して出します。

収入がこのくらい増えたら消費がこのくらい増えるというのは経験的に知られてるんですよ。日本の場合0.6~0.7くらいだとされてます。

アメリカだとすごくて、0.9以上を消費に回しちゃう。アメリカはほぼ使っちゃう。日本の場合は、もっと使い方が控え目なんですけれども、このe¥でのベーシック・インカムの場合には、超貧乏ですぐ使ってしまう人たちみんなにも渡るでしょう。給与の一部もe¥というどんどん使わないとやばいお金になる。なおかつ将来のために貯めなくてもいいという条件が付いている。

だもんで、消費に回るお金の率は、相当多いと思います。控え目に見て0.8としました。そうしますと93兆円、四捨五入して90兆円の消費増が期待できます。

そうしますと民間の最終消費支出、とにかく投資じゃなくて現実に金を使っているのが、現在240兆円のが、330兆円くらいになる計算になります。一方でね、消費が盛んになるとそれだけ国内で生産が起こる部分もあるんだけれど、中国から買っちゃえ、というようなのが相当あるんですね。おそらく30兆円程度が輸入になります。そうしますと差し引き60兆円くらい国内生産が増えるという計算です。

今年のGDPを480兆円として、GDPがおそらく540兆円くらいになります。この毎月8万円のベーシック・インカム出しましてGDPが11%ぐらい伸びちゃうという計算なんですよ。これはかなり控えめな計算をしているとは思うんだけれども、信じられないようなすごい数字なんです。ちょっと経済に明るい人だったらウソじゃないかって言うような数字になるんですよ。

これが、予算を使わずにe¥でベーシック・インカムを出すことで起こります。

ただしe¥の一部は、普通の円に転換されて貯蓄に向かったり輸入に向かいます。おおざっぱですが30兆円くらいとみています。それがe¥と交換されるのに応じるために普通の円も用意しなければなりません。それは普通円の国債を発行してまかないます。ほんとうに政府の出費になるのは、交換される普通円とe¥との差額の部分、つまり11.4%の部分です。そうしますとこの新しい公共通貨運営にかかる費用は、この差額部分、とりあえずの計算では3.4兆円ということになります。あと、システムを作るための初期費用はどうしてもかかります。1~2兆円でしょうか、そのくらいだと思います。

けっきょく年間4兆円程度の出費を覚悟して、それで11%のGDP増加です。しかも、一回かぎりではなくて、持続可能です。(附記6)

いま、国内の生産力に余力はありますし、安い輸入品もある時代ですので、かんたんにインフレにはなりません。

おおまかなシミュレーション(2) 公共経済構築

単純にGDPが増えてもほんとうには豊かになれなくて、さきほど話しましたように、公共経済を構築する必要があります。それには税収がどうなるかです。

これから挙げるのは極端な一例ですが、参考にはなると思います。

個人の所得税はなし、消費税25%とします。

そうしますと、民間最終消費330兆円の25%で、消費税収が約83兆円になります。現在の個人からの税は、所得税が国と地方の合計で約28兆円、消費税が約13兆円、計41兆円です。したがって、42兆円の税収増。ただしe¥と普通円との交換手数料約4兆円と公債費のe¥割増3兆円が新たな費用ですのでそれを引くと、35兆円税収が多くなることになります。(附記:講演では公債費割増を含めなかったので38兆円としました)

この35兆円の増収は、無理な増税じゃないんです。個人の収入は増えています。経済活動も盛んになってGDP増えています。それでもって増えた税収なんですよ。

35兆円あると、いろんなことできますね。

例えば教育費です。教育費の研究をしていまして、幼稚園から大学まで公立も私立も全部タダにするのに6兆円で足りちゃうんですよ。たった6兆円。さらに、一人一人に応じた教育を発生させるための費用をつけてやってとりあえず8兆円も出れば、かなり充実します。

それと今一番財政の問題で困っているのは年金です。パンクしかけちゃっている。これちょっと根本的な設計変更しなきゃならないと思われるんですけれども、基礎部分はベーシック・インカムで置き換えがききます。さらに10兆円もあったら、十分な給付ができそうです。

あとですね、今福祉関係で、たとえば介護のヘルパーさんなんて給料安いですね。ああいう人たちにいっぱい払ってあげるといいです。ヘルパーさんたちは裕福でない人たちが多いから、あの人たちが普通の生活をして普通にお金を使うようになると、それで経済がよくなります。

生活そのものが充実することでお金の循環がよくなっていくと、本当の経済発展であり、本当のGDP成長なんですね。そういう生活の充実に、たとえば福祉で5兆円増やせる。医療費で5兆円増やせる。これでも合計まだ28兆円なんです。とにかく、人々がほんとうに必要としているものに使うことです。そうするとお金が生きます。

こういうようなお金を公共経済の方に使っていって、それこそ本当に豊かな社会が出来るんですね。

輸入増の問題

問題は輸入増なんですよ。ベーシック・インカムを新たな通貨で出すとインフレが起こるんじゃないかって考えると思うんですけど、今の我々に買いたいものが増えたら外国から輸入するものが多いです。中国あたりで安いものをぼんぼん作っていますからね。現に今輸入は増え続けていまして、2005年に68兆円だった輸入が、2008年に、わずか3年で88兆円になっているんです。消費に対する比率でそのまま計算しますとベーシック・インカムによる消費増で、もう30兆円くらい輸入が増えると思われます。

ある程度は輸入超過でいいんですよ。外貨が余ってるっていうのはバカらしいですよ。今までドルをしこたま貯め込んだ。結局ね、商品券もらって喜んでいるだけなんですよ。結局最初360円の価値あったのが、今1ドル100円を切っています。その商品券の価値がどんどん失われました。買い物しないまま商品券のまま貯めてどんどん減っちゃったっていうものなんですね。

輸入の場合は通貨の問題があります。最初のうちは、外国への支払いは今まである普通の円でドルやユーロと交換して払えばいいんですけどもね、だんだんe¥が多くなった場合、e¥でもって輸入しようとすると、そんなお金を外国は受け取ってくれないですから一旦普通マネーに変換しなくちゃならないんですね。そしてこのe¥から円に変換するのに手数料が11%必要ですけれども、そのためにe¥を持っているところが輸入をすると、外国製品ちょっと割高になります。実はこれがね、実質的な関税の役割を果たすんですよ。

これちょっと大事な国内産業保護になると思うんです。

財政問題

そして大きな財政問題として、政府の累積債務の問題があります。

今、国も地方もすごい債務を抱えています。いま、借金で借金を穴埋めしていますので、破局にいたる可能性があります。そこで、e¥と日銀公定歩合なんかと組み合わせてちょっと緩やかなインフレを起こして、政府累積債務を実質的に軽減していくようなことが出来るはずです。これなら、破局にいたらずに軟着陸できます。普通、インフレは年金生活者に大打撃を与えてしまうのですが、ベーシック・インカムと組み合わせてあれば、その痛みは軽くできます。

日銀マネーというのは、企業に渡ってすぐ土地買ったり株買ったりするんですね。で、バブルを起こしやすいお金です。このe¥は、生活者に渡るからお買い物しやすい。モノの値段を押し上げてインフレを起こしやすいんです。

コントロールしやすさ

e¥はコントロールしやすい。4つのパラメータをもつ。

  1. 発行額
  2. 日銀券との交換率
  3. 減価率
  4. 使用料

このe¥は非常にコントロールしやすいです。発行額の調整、日銀券と交換手数料、使うときの一回あたり手数料。時間による減価の率、そういうものでコントロールできます。

例えば月1%目減りしますなんてのは、無くすか低率にしちゃえばe¥は日銀マネーとほとんど変わらなくなります。こういう、アクセルもついてます、ブレーキもついてます、右にもハンドル切れます、左にもハンドル切れます。という形にしておけば非常に対応しやすいんですね。(附記7)

地方通貨も可能

もしかして、いままでの話は、ちょっと難しい話になっているかもしれないですけど、同じような仕組みで、地方からも作れるんですよ。この地方税と地方債とを組み合わせて、地方通貨を作れます。それを財源に、地方ベーシック・インカムを作ることもできます。そのような形でかなり実現性があるんじゃないかと思います。

ちょっと世に問うてみたいと思ったもんですからこういうものを作ってみました。

どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)

【附記】
以下は、講演のレジュメにはありませんでしたが、HP版に付け加えたものです。

附記1 e¥の流通残高

このようにe¥を発行していくと、流通残高はどうなるでしょうか。単純化したシミュレーションをしてみました。収束することが一目でわかると思います。

図18:e¥の流通残高 (毎月10兆円追加 月2%回収として)

これは毎月10兆円(年120兆円)のe¥がベーシック・インカムとして渡され、流通残高の2%が毎月回収される場合の、流通残高の20年間のグラフです。

e¥は最低でも月に1%回収されますが、実際の回転はかなり速くなると思われます。仮に2%としました。

500兆円に収束することがわかります。

毎月の回収率が3%だとすると、330兆円で収束します。

現実の動きはもっと複雑になりますが、だいたい現在のM1(現金+当座預金+普通預金)流通残高480兆円と同じくらいになりそうです。

それでも流通残高が多すぎる場合は、

  • 減価率を上げる
  • 減価もしない貸出にも使われない預金または債券を作って吸収する

という方法があります。

附記2 e¥回収額の設定について

113円で回収としましたが、これは普通の円で償還するためです。しかし、やはり100円貯まったところで償還のほうがいいと思われます。シミュレーションをしてみると、e¥113での償還は、ある時期から発行残高がかなり減ります。

附記3 定率法と定額法 古いお金の寄贈

講演では、1ヵ月ごとに所持e¥の1%を抜き取って回収する方法を示しました。この場合常に一定の率で減価しますので、減り方はだんだんなだらかになります。10年間の減価のしかたは次の通りです。

図19:e¥の10年間の減価の推移 (定率減価 月1%として)

もう一つのやり方として、一枚一枚のお金が1ヵ月ごとに99円、98円…というふうに、額面が小さくなっていくやり方があります。定額ずつ減価します。100ヵ月(8年4ヵ月)で消滅します。

このやり方をすると、新しいお金と古いお金が違った性質を持つようになり、年齢が感じられる生き物みたいになります。

図20:e¥の10年間の減価の推移 (定額減価 月1%として)

定額法ですと、1万円を受け取ったときに、e¥100が100枚という場合もありますし、e¥20が500枚ということもあります。毎月の減価がどちらも一枚あたり1円ずつですので、古いお金のほうが目減りの率が高くなっています。e¥100の場合には毎月の減価率は1%、e¥20の場合には減価率が5%になります。使うときの価値に問題はないのですが、古いお金はくたびれています。

この場合、古いお金(たとえば額面がe¥20未満e¥10以上)は学術・文化・スポーツ・教育など、直接の生産でもニーズでもないが、人間の精神文化を維持し発展させるための部門に寄贈するのがいいでしょう。この部門に対して、政治経済状況に左右されない経済的基盤を作ることは、たいへん重要なことです。

その場合、毎月10兆円のe¥を新規発行すると、7年目近くから額面20円未満のe¥が、毎月2兆円ずつ発生することになります。それを文化部門への寄贈に使います。年間24兆円は、かなりの額です。

額面があまりに小さくなったお金は、最後に持っている人が損しないよう、何枚かまとめて新しいe¥100に交換してもらえるようにしておきます。

 

額面が小さくなっていく減価の場合、口座移転手数料も毎月の減価と同じ方式にすると、新しいお金か古いお金かで率が一定せず、経済取引が困難になります。口座移転手数料は、一定の率として、抜き取り方式で徴収するのがよいでしょう。

附記4 “減価ストップ債”の方法

給料がe¥ばかりになってしまった人を保護する他の方法として、“減価ストップ債”をe¥で購入できるようにするという手段があります。この“減価ストップ債”は、e¥管理銀行が売り出し、1年後とか2年後とか決められた期間の後に、買ったときと同じ額でe¥を払い戻してくれます。個人が、給料をもらったときだけ買えるようにします。これを使えば、給料がe¥ばかりの人が、「お金を早く使わないと損する」という圧迫から逃れることができます。

“減価ストップ債”はe¥の流通残高が多すぎる場合の対策としても使えます。吸い上げて休眠させるためなのです。運用資金を集めるための債券ではありません。“減価ストップ債”を売って集めたe¥は、貸出には使いません。貸出に使ったら、また市中に出回ってしまいます。

このような減価しない例外を作るのは、減価マネーを作る趣旨に反するのですが、減価マネーの運用は未知の領域ですので、安全弁を設けておいたほうがいいと思います。

“減価ストップ債”はお金として流通しにくくします。記名式で譲渡不能にします。途中解約すると初めからの減価分を負担しなければなりません。

“減価ストップ債”を売って集めたe¥も減価しつづけているのですが、e¥管理銀行にとっては、自分で回収して自分のところに置いておくので、実質はプラスマイナスゼロです。

附記5 納税されたe¥も減価ストップしない

講演では、納税されたe¥は減価がストップするとしました。

しかし、そうしますと、国や自治体だけがお金を減らさずに貯めておくことができます。これは、国や自治体に銀行業務の特権を与えるようなものです。なにかというと、目減りしないことがウリの「~積立金」を集めることができます。ところが、国や自治体は、お金を運用するのが下手なところです。これまでもたくさんの問題を起こしてきました。

やはり、国や自治体も、入ってきた税収を減価ストップせずに使ってもらうのがよいと思います。国や自治体は、公共サービスの事業体として経済活動を担います。税収は、みんなの必要を満たすために、みんなから集めたお金です。

附記6 利払いの割増費用

講演では、e¥で予算を組むため約4兆円の出費増があるだろうとしましたが、他に国債や地方債などの利払いをe¥で払うための割増を含めていませんでした。これを含めると、さらに約3兆円の出費増になります。

詳しく言うと、現在国債の償還と利払いに約20兆円を使っていますので、e¥割増11.4%で2.3兆円。別に地方債が140兆円(2006年)くらいありますので、その5%が償還と利払いに必要だとして、e¥割増は0.8兆円。

合計約3兆円程度が、公債の償還と利払いをe¥で行うときに新たに必要になります。

附記7 合計5つのレバー

さらに、通貨供給量が多すぎる場合のための“減価ストップ債”も含めて、合計5つのレバーを備えることができます。これら5つで、たいていの事態に対応できると思われます。

第2部終了

古山明男さん講演録「ベーシック・インカムのある社会」第1部

古山明男 講演録

「ベーシック・インカムのある社会」

― 労働と教育の根本的転換 ―

第3回ベーシック・インカム入門の集い講演録
2009年7月12日 於:青山学院大学

講演者:古山明男

主催:ベーシックインカム・実現を探る会/フォーラム・スリー

講演者より
この講演録は、2009年7月12日に青山学院大学で行われた講演をもとにしていますが、説明がよりわかりやすいものになるよう、大幅に加筆修正してあります。 ここに記載された内容は実際の話より「こういう説明をしたかった」ものであることをご諒解ください。 なお、講演趣旨の変更にあたる場合は、附記として最後に付け加えています。

第1部「ベーシック・インカムのある社会」INDEX

  1. はじめに
  2. ベーシック・インカムのある社会
  3. ベーシック・インカムの必然性(1) 「働かざるもの食うべからず」か?
  4. ベーシック・インカムの必然性(2) 「所得=労働」は人間の商品化
  5. ベーシック・インカムの必然性(3) 生きる権利の保障
  6. ベーシック・インカムの必然性(4) 労働市場の柔軟化
  7. ベーシック・インカムの必然性(5) 不況からの脱出
  8. 公共経済の構築
  9. ベーシック・インカム後の社会
  10. 労働訓練としての教育
  11. 贈与経済が大事
  12. 第2部

はじめに

古山明男さん

話し手:古山明男さん

1949年千葉市生。 京都大学理学部卒。 出版社で雑誌編集に従事したのち、私塾、フリースクールを主宰し、さまざまな教育ニーズに応える。 教育制度、教育財政を研究。 著書に『変えよう!日本の学校システム』(平凡社)。

「ベーシックインカムのある社会」blog
economics-human.at.webry.info
古山教育研究所HP
www.asahi-net.or.jp/~ru2a-frym

古山です。 今日はお集まりいただきましてありがとうございます。

少し自己紹介なんですけど、千葉市で私塾をやってたんです。 私のポリシーは絶対に生徒を選ばない。 そうしましたら色んな生徒が来ましてね、不登校、落ちこぼれ、障害児、外国人もいました。 生徒数としては補習や受験が多かったのですが、とにかく私塾に来るのは、何らかのために今の学校に不満があるから来るわけですよね。 お金払ってでも。

そういう生徒たちを相手にしているうちに、これは制度問題だと思うものがものすごくありまして、教育制度の研究をまとめたりしていました。 外国のことも色々調べましたら、教育費全部タダっていう国がいっぱいあるんですよ。 実現してます。 これだけ豊かな日本でなぜ教育費無償ができないのか、というところから公共経済の研究をやっていました。

教育費の無償は、本当に日本で進んでいないんです。 こういうものは財政にとってのお荷物で、負担になるだけで、そんな事やったら国潰れるっていうその考えしかないんですよ。 そうじゃない、公共経済っていうのはとっても大事なんです。 これで国が成り立っていくんです。 そういう公共経済の研究なんかをしていますところにね、ベーシック・インカムのことを聞いたんです。 いい話しだねえ、と思いましたね。

なぜいいかと思ったかというと二点あります。 ひとつは、過酷な労働が自然消滅するだろうということです。 そうすると、教育も、過酷な労働に耐えさせる訓練ではなくなるだろう。 これは社会と人間が根本的に変わるだろうと思いました。

自分の生徒を持っていまして、私の場合はずっと付き合う場合が多くて、高校を出た、大学を出た、そして就職したというところまで付き合っていることが多かったです。 そうすると、就職して大変なのがわかるんですよ。 ほんと若い人たちこき使われている。 安い給料でこれだけ働かされるのか。 どうみたってそれでウツ病になって当たり前だよっていうのに出くわします。 月100時間以上残業しているシステムオペレーターだとかね。 あるいは福祉事務所で働いているんだけど、ものすごい安くて長時間労働。 それを一生懸命やったって、15万も手取りがいかないのをやっているとかね。 いっぽう、一流大学を出ると、これまたこき使われてますねえ。 これはちょっと世の中おかしいな、っていうそういう思いが非常にありました。

ベーシック・インカムなんかあったら、あんまりひどい労働から若者たちがさよならできる。 そうしたら、労働条件が変わっていく。 教育も変わる。

もう一点はですね、経済の研究が好きなんです。 いま、経済はかなりひどい状況です。 これは相当ひどいと思っています。 で、ベーシック・インカムの話を聞いて、「あ、これなら全部解決するじゃない」って思ったんですよ。 恐慌を乗り切れるだろうと。

ベーシック・インカム、これいいね、うまく実現できるといいねえ、なんて思ってたわけね。 でも実現可能性があるとは思っていませんでした。

ところが去年リーマンブラザースのショックがあったでしょう。 あれを見て「ヤー、きた~」って言う感じなんですよ。 歴史の転換点に遭遇しちゃった。 ベーシック・インカムでもやるしかない状況になるかもしれない。 こりゃ、実現の可能性があるぞと思って、本気で経済やベーシック・インカムの研究を始めました。

前回の集会で関さんが「これは不況じゃありません、恐慌です」っておっしゃってましたね。 私も同じ意見なんです。

今アメリカでも日本でも、連鎖倒産おきたら大変だから国が一生懸命お金を出して銀行を助けて、大会社を助けている、それで経済が保っています。 いろんな会社の困難を国の方が引き受けているんですね。 それで保っているんですけど、次の問題がですね、国の財政が続くかどうかなんですよ。 国の収入ってのは税収しかありません。 その税収を担保にして国債を発行して、借金してます。 いつまで国が借金できるかっていう問題になっちゃっていて、私の見るところそうは保たないんじゃないかな、その後どうするんじゃいな、と思っています。

その時に、経済が生き延びるにはこれしかないんじゃないかというのがベーシック・インカムと公共通貨の創設。 実現の可能性が大いにありと思ったんです。

 

第1部で、私たちの社会はベーシック・インカムでどのように変わっていくか、そして教育はどう変わっていくかというお話をします。

そこで必ず行きつく問題がですね、「やぁ、結構なお話でしたね。 だけどお金あるんですか?」、そういう問題が必ずあります。 そこでベーシック・インカムの資金として、新しい電子マネー型の公共通貨を設計してみました。 そのお話を第2部でさせていただこうと思います。

第1部 ベーシック・インカムのある社会

まず、ベーシック・インカムというのはなんであるか。

 

ベーシック・インカムというのは社会のすべての人に、

無条件で…、無条件ですよ…、

個人ごとに…、世帯ごとじゃないんです…、

継続的に…、1回だけの定額給付金じゃないんです…、

最低生活費として渡される所得。

 

と言いますと、疑問がいっぱい湧きますよね。

よくある質問を5つほど拾ってきました。

 

「人々が働かなくなりませんか?」

「働いた人と働かない人が同じでいいんですか?」

「社会主義国と同じになりませんか?」

「なぜお金持ちにも配るんですか?」

「働かざるもの食うべからずではないですか?」

 

こういう質問について、まずちょっとお話ししようと思います。 まず、

人々が働かなくなりませんか?

予想されるベーシック・インカムはおそらく月8万ないし10万くらいじゃないかと思われます。 今の社会状況今の経済規模、まぁ実現可能性ということからすると、当面こんなものだろうと思います。 ちょっと考えてみてください。 月8万とか10万とかもらったとして、ですね、多分飢え死にはしないです。 でも本当にそれは飢え死にしないってだけだと思いますよ。 健康で文化的な生活なんてのは無理だと思います。 そのくらいもらったからって仕事辞められますか?

ちょっと無理でしょう。

従いましてこの程度のベーシック・インカムで離職する人は非常に少ないと予想されます。

でも、それでも辞める人いますよね。 じゃそれはどういう立場の人か。

ひとつは働くのがもともと非常に苦痛だった人たちです。 うつ病があるとか、体が弱いとか、人間関係が下手糞だとか、こういう人たちは最低限生きていけりゃ辞めたいんです。

もうひとつ、チャレンジしてみたいことがある人たちですね。 いや、自分は実は絵描きになりたいんだ。 食えさえすればそっちの方をもっと追究したい。 起業してみたいんだ。 勉強しなおしたいんだ、落語家になりたいんだ。 いろんな道、ボランティアの方で一生懸命やりたいんだ。 食えさえすればこっちで身を粉にしてもやりたい。 結構そういう人たちがいます。

もうひとつは、共働きを余儀なくされている人たちですね。 主婦の人がパートに出ている場合いろんな動機があります。 でも、その中で多いのは奥さんも稼がないとやっていけない。 子供がある程度大きくなって教育費がかかって住宅ローンも抱えちゃったらそれしかどうしようもないんですね。 そういう場合は、仕事がしたいからじゃなくて金稼ぐしかないから働いているケースが多いんです。

ちょっと考えて、ベーシック・インカムができたら仕事が苦痛だからやめる人が数10万人くらい。 それから、チャレンジしてみたいことがあるから仕事を離れる人が数10万人くらいいるんじゃないか。

お金のために余儀なく働いている主婦の数ですが、主婦のパートやアルバイトが、全部で800万人かそこらいますので、4分の1くらいがお金のためだけの人たちだとして、まぁ200万人くらい。

そうしますと、おそらく合計で300万人くらい離職するんじゃないかなというのが私の予想です。

一方労働力人口は6,000万を超えていますので、働かなくなる人たちは、せいぜい5%くらいじゃないかという予想なんです。 全体にこの程度で社会の大変動を起こすことはないだろうし、これで離れる人たちは重要な労働力ではなかった人たちなんですね。 働いているのが、本人にはちょっと不幸だった人たちが主です。 そういうことで、ベーシック・インカムができても、労働力に特に問題は起こさないだろうと思います。

働いた人と働かない人が同じでいいのですか?

同じになりません。

同じになると思うのは、生活保護から類推しちゃってるんです。 生活保護の場合ですとね、この図です。

図1:生活保護とベーシック・インカムの違い

働いている人はこれだけ働いてもらっているでしょ(水色部分:賃金)。 でも全然働かない人がこれだけもらうでしょ(緑色部分:支給された生活保護)。

そうすると働いている人が「何だ、おれこんなに苦しい思いをしているのに、全然何もしていないやつと同じかよ。」

で、生活保護を出すお役所のほうも、そういう働く人たちの手前もありますから、誰にでもポンポンと出すわけにはいかなくて、「あなたほんとに働けないんですか? ほんとうに生活が苦しいんですか?」いろいろと、もらいにくくします。 予算を切り詰めたいってのもありますし。

ベーシック・インカムっていうのは違うんですよ。

もともと働いた人の収入はこの水色のぶんだけある。 そこに両方とも同じだけ、オレンジ色のベーシック・インカムがつきます。 ですから働いた人は、働いた分だけちゃんと報われますし、差がつきます。 働かない人と、働いた人が同じということはありません。

社会主義国と同じになりませんか?

みなが食えるようにすることだけは同じですが、あとは全然違います。 ベーシック・インカムは、経済活動の自由にまったく干渉しません。 ベーシック・インカムは個人の自由にも干渉しません。 そこが、社会主義国とはまったく違います。

社会主義国は経済にむちゃくちゃ干渉します。 干渉なんてものじゃなくて、国が経済を運営してます。 社会主義国は完全雇用をして、その労働で賃金を渡して人々の生活を確保しようとしました。

図2-a:社会主義の場合

それで、社会主義国では採算がとれていない企業も潰れません。 ほんとうは潰れているような企業でも、ちゃんと給料を出します。 国が面倒みてくれるからいいんです。 生産は数さえ合っていればいい。 使い物にならないものを作っても、平気の平左。 働くほうは、時間だけ働いていればいい。 なまじっかやる気を出すと、官僚支配にぶつかる。 だから、みんなでチンタラ無責任をやった。 けっきょくそれで、国全体が潰れちゃったんです。

社会主義国は、労働そのものに価値があるとしています。 だから、作ったものはみんな価値があることになった。 そんなことはない、労働というのは人の営みそのものでして、賢いことも愚かなこともするものです。

図2-b:ベーシック・インカムの場合

ベーシック・インカムの場合は、労働に対して払うのではありません。 人の生存そのものに対して払います。 企業に試行錯誤はつきもの。 効率重視でけっこう、儲けてもけっこう、潰れてもけっこう。 しかし、人は助ける。 何があろうと人が路頭に迷うようなことにはぜったいにさせないぞ、というのがベーシック・インカムです。 効率の悪い企業、採算のとれない企業は自然に退場します。

社会主義国は、企業を国営にして絶対に潰れないようにすることで、誰もが食える社会を作ろうとした。 そうしたら、人まで助けられなくなってしまいました。

なんでお金持ちにも配るんですか?

ベーシック・インカムのもとになる考え方は、すべての人の生きる権利です。 国が人々の権利を保障しようという場合にどんな差別もしないこと、これは絶対的なことです。 お金持ちだからといって差別しません。 ベーシック・インカムは、「金持ちかそうでないか」という見方を捨てて、社会の絶対的なセーフティ・ネットを作ることに意義があります。

不思議なもので、貧乏人よりお金持ちのほうが「財産をなくす」不安が強いものです。 ベーシック・インカムはその不安を軽くします。

また、金持ちと貧乏人を区別しようとすると、どこかに線を引かなくてはならなくなって、その線のところでもらえる人ともらえない人の不平等を生じます。

金持ちと貧乏人をよりわけ、ほんとうかどうかチェックするというのは、ものすごくたいへんなことです。 面倒なお役所仕事に手間と経費をかけたあげく、かえって不平等感や屈辱感が増すんです。

もうひとつ、ベーシック・インカムの大きな目的は生産と消費のバランス調整なんです。 福祉は福祉でちゃんと存在しています。 医療、教育、福祉などを収入に関係なく受けられることは、ベーシック・インカムがあっても同じです。 同じどころかもっと進めます。 貧富差の調整がなくなるわけではありません。 ベーシック・インカムは金持ちか貧しいかと別な次元にあります。

「働かざるもの食うべからずか?」

ここからもうちょっと具体的にお話ししたいと思います。

「働かざるもの食うべからず」か?
ベーシック・インカムの必然性(1)

これはですね、ギリシャのアテネ市民の様子です。

図3:ラファエロ「アテネの学堂」(1508)

ただし、ギリシャの時代から1800年経っちゃった…付近にラファエロが描いた絵です。 想像図です。

ギリシャ、特にアテネでは、学問、芸術が非常に栄えました。 で、働かないで学問とか芸術やってる、政治をやっている、それこそが人間のあるべき姿という理想を持っています。 ここにいる人たち、働いてないですねえ。

ここに、働かざるもの食うべからずの思想はないです。 「働かざる者食うべからず」と言われるのは、もう少し後の時代のようです。 時代と国を超えて、「働かざる者食うべからず」だったわけではないんです。

で、一方ですね、市民たちは奴隷をたくさん使ってるんです。 奴隷がいけないという思想もないんです。 同じ人間じゃないか。 喜び、苦しみ、生きることは同じじゃないかっていう発想はなかったんですね。

図4:ギュスターヴ・ブーランジェ「奴隷市場」(1882以前)

これは古代ローマの奴隷市場の想像図です。 19世紀に描かれたもの。 古代ローマもたくさん奴隷使っていました。

いい値段で売れそうな商品が並んでますね。 まだ色々教えこめそうな子供とか、よく働きそうな屈強な若者だとか、魅力的なお姉ちゃんたちとか。

手前で腰掛けた市民らしき人が、何か食べています。 こういう人を見ると「働かざるもの食うべからず」なんて言いたくなりますよね。

古代ローマは大変繁栄したんですけども、彼らも奴隷制度っていうものを全く疑っていません。 奴隷制の上に成り立っていました。 奴隷のおかげで、市民たちが楽な暮らしをしています。

現在の我々もたくさんの奴隷を使っています。

http://www.citynet.co.jp/search/item.asp?shopcd=07049&item=EE20-0008

お洗濯奴隷といってもいいかな、お洗濯ロボット。 洗濯っていうのも大変な労働でしてね、洗濯機一台で、たぶん昔で言ったら奴隷一人分くらいの価値あると思います。

http://www.komatsu.co.jp/CompanyInfo/press/2003112818151113077.html

コマツのブルドーザー。 これは300馬力のブルドーザーなんで、単純に馬力計算しますと、奴隷1,000人分くらいの価値があります。 実際はもっとでしょうね。 管理が楽ですから。

http://www.yanmar.co.jp/index-news.htm

刈り取りのコンバイン。 もともと農業は重労働です。

http://www.meti.go.jp/information/recruit/keizai/tokkyo/01.htm

豊田の自動織機です。 布づくりっていうのは古来ものすごい労働だったんです。 でも、われわれもう、いかに布が作られているのか誰も知らない程になってしまいました。 もし人が働いていたらものすごい労働力に当たるものを、今これよりももっとすごいものでジャーっと作っています。

こういうふうに機械がいっぱい出てきた。 そうしたら我々は労働から解放されるはずですね。 こういうふうに技術が発達するたびに人間は考えるんです。 これで苦しい労働から解放されるはずだ。 わずかな人たちが働くだけで、生産は足りるはずだ。 あるいは、短い時間働くだけで食っていけるはずだ。

でもね、ここで大問題があります。

人間が労働から解放されたら、その解放された人たちはどうやって食っていくんですか?

どうやって収入を得たらいいのでしょうか?

利子生活者になれる人は一握り。 ビル建てて、あるいはアパートを建てて収入で食える人たちは一握り。 みんながそうなっちゃったらテナントになって金払ってくれる人が誰もいなくなっちゃいますからね。

われわれの社会は、働かないと食っていけない仕組みになっています。 いくら科学技術が発達しても、生産性が上がっても、我々が労賃をもらって生きる仕組みである以上、働かないと収入があるはずはないです。 生活保護があることはありますが、これは働いて食うことを前提にしての例外です。

したがって、我々は慢性的な失業問題を抱えています。 機械が出来ます。 そうしますと今まで人間がやっていた労働が不要になります。 で、その機械で職を失った人たちの収入はどうするのかという問題です。

高度成長期はなんとかなったんです。 新たな産業が出てきて新しい職ができ、人々を吸収しました。 しかし、経済成長が飽和したら、どうしたらいいのでしょうか。

具体的な数字で見ていきましょう。

図5:総人口と産業別就業者数

これ日本の総人口と産業別の就業人口です。 この真ん中の青い線から下が、パートやアルバイトまで含めて、働いている人たちです。

こちらの赤いのが一次産業、青いのが二次産業、水色が三次産業。

特にこの赤いのを見てください。 いくら働かないと言ったって絶対これだけは必要というのが食料生産です。 その一次産業にたずさわる人の数が、比率じゃなくて絶対数で少なくなっているんですね。 日本の人口は増え続けていたのに。

食料自給率が落ちているということもあります。 今食料自給率、カロリーで40%ぐらいです。 60年ごろは80%くらいありました。 だから単純計算して今の2倍くらい就業者が必要としても、それにしても一次産業の人は60年くらいの数まで行かないですね。 これは農業機械、農薬、流通、などの産業があるから少ない人数で食料生産ができているということはあります。 単純には考えられません。 でもそれにしても、すごい減り方です。 二次産業だって少なくなっています。

食料生産がわずかな人数で足りているのですから、もし食料さえあればいいという生活をするのでしたら、仕事のない人がいっぱい出るわけです。 それを二次産業三次産業で吸収してきました。

でも70年代以降二次産業はさほど増えてないんですね。 それを圧倒的に三次産業で吸収してきました。

その三次産業の吸収力もちょっとわからなくなってきたのが、90年代以降なんです。 ここの最近の就業者数、1995年から2005年の棒グラフの水色の線の上のところ、落ちてきているでしょう。 ここを拡大するとこうなります。

図6:産業別就業人口

1995年から10年間で、一次産業で約90万人、二次産業で約420万人減っています。 それに対して第三次産業は170万人しか増えていません。 それがこの水色の上の線の落ち込みなんです。 少子老齢化で、労働力人口が減ってきているのが最大の理由ですが、失業者も100万人増えています。 三次産業が吸収しきれていません。

三次産業というのが本当にピンからキリまであります。 サラ金だって三次産業、パチンコだって三次産業、あるいはいろんな広告、新聞の折り込み広告とかを、たくさんの人が作っているのも三次産業。 そういうふうに、三次産業にいろんな仕事ができて、食えるようにしてきました。

その割に、日本では福祉とか教育とか医療とか、三次産業でも必要度の高いものがさほど充実しないままでした。 これは、そういうものをお荷物だって考えたのがいけなかったです。 ほんとは、必要とされてるし、雇用を確保できるし、大事な分野です。

これまで、なくてはならない労働っていうのが比較的少なくて、なくても済ませられる労働が多いという社会を作ってきたとも言えます。

だから、もし、みんなの収入が少なくなって、みんなが生活を切り詰めにかかると、ものすごく収縮する可能性があります。 なくてもなんとかなる産業が多いですから。

では、全人口のうちで働いている人がどれだけで、働いていない人がどれだけか、もう少しくわしく見てみましょう。

図7:全人口中の就業者数

グラフの青い部分は仕事を主としている人たちです。 この人たちが約4割なんです。 それから家事の他仕事という人が6.7%、通学の傍ら仕事が0.8%、お金をもらえる仕事に就いている人たちが合わせて48%くらいですね。

働かざるもの食うべからずと言うんだけれども、実は働いている人は意外と少ないです。 人口の半分いってないんです。 主婦のパートや学生アルバイトは、それで自分が食えるってほども稼いでいないのが普通です。 ですから、働いている主力はだいたい4割の人たちで、それで全体の人たちの生産をまかなっていると考えていいです。

そしてこちらの水色、働いていない人たちは、こども、老人、学生、主婦、が中心です。 失業者と休業者も含まれています。 この働いていない人も食っているから、それで社会全体が成り立っています。 いわゆる扶養家族というのもそうです。 働いていない人たちの存在もだいじなんです。

もしもですよ、この水色の人たちに対して、「働きもしないのに食っている」ということで、まあ死なせるわけにもいかないから、最低限のカロリー摂取をして粗末な服しか着てはいけないなんて、生かさぬよう殺さぬよう江戸時代の農民みたいな生活をさせたらどうなるでしょう。 とたんに、スーパーの売上げはガタ落ち、外食産業はメタメタ、子供服は売れない、老人向け健康食品は売れない、ゲームは売れない、本は売れない。 すごい不景気になって、こんどは働いている4割の人たちの生活が確保できません。 失業者がたくさんできてしまいます。

稼いでいる人たちが「おれたちが働いているから、お前たちは食えてるんだぞ」と言います。 それはもちろん間違ってはいないのですが、逆に働いていない人たちが「おれたちが食っているから、お前たちは失業しないんだぞ」と言うこともできるんです。

そして、どれだけの人が働いたらみんなが生活できるだけの生産が可能か、これは科学技術の問題です。 倫理・道徳の問題じゃないです。 科学技術、そして社会のシステムの問題です。

おそらく、現在の生活水準を維持するとしても、その生産に必要な人たちは、人口の3分の1くらいじゃないかと思います。 いま、とにかく無駄なことをいっぱいやっています。 作る端から捨てたり壊したりしています。 働かざるを得ない仕組みがあるから、とにかく仕事を作り出しています。 働きたい人だけが働いて、もっと効率よくやると、3分の1くらいで済むのではないかと思います。

でもそうしますと、職がなくなった人たちにどうやってお金を渡すかという問題が生じますね。 働かない人たちにお金が渡らないと、大不景気が起こってしまいます。 そこで必要なのが、ベーシック・インカムなんです。

じつは、現在でも、ベーシック・インカムを作ってみんなにお金を渡すことでもしないと、経済が持続可能ではありません。 これは、後でまた説明します。

生産力が低くて、みんなで働いてやっとこせ食えるという時代は確かにありました。 それが人類の歴史の大部分でもあります。 そういう時代に「働かざる者食うべからず」と言っていたのは理解できます。 しかし、今の時代は働かざる者が食っていないと、みんなが食えなくなってしまう時代です。

働かない理由を、子どもだからとか老人だからとか限定しなくて、「生来の怠け者」や「やる気がない」なんかに広げたって、経済全体にとってはいっこうにかまわないわけです。 そういう人たちを無理に型にはめて普通の仕事をさせても、本人にもまわりにも、ろくなことがないんじゃないですか。

最近の不正規雇用の問題も、見てみたいと思います。 どんな働き方をしているのかというのをグラフにしたのが次の図です。

図8:全人口中の就業者数

いま、非正規雇用が正規雇用の大体半分あります。 非正規、つまりパート、アルバイト、派遣、契約社員が全人口に対して13.8%で、正規の職員・従業員が26.5%です。 90年バブル崩壊以後、働く側にずいぶんとシワ寄せがいっているんですね。 いつ首を切られるかわからない、いろんな保険や手当もつかない人が増えました。 こういう人たちは、なかなか不満の声すらあげないです。 不満を言えば、「来月から来なくていいですよ」になるのが心配です。

この解決がまた難しいです。 法律で正規雇用を義務づけることを誰でもまず考えるのですが、そうするとぎりぎりのところでやっている企業が立ちゆかなくなったり、かえって人を雇わなくなったりします。 命令ひとつで単純に解決するのが困難です。 でも、このままでいいってことはありません。 根本的なところから考えなければならないんです。

ついでですが、上掲の図の下に1955(昭和30)年と比べたものがあります。

昭和30年頃と比べますと、働き方がものすごく変化しています。 あの頃は自営業者とその家族の方が多かったんですよ。 農業や商店が多くて、そしていわゆるサラリーマンの方が少ないという社会。

それがわずか半世紀でその自営業者が6.5%というところまで社会が大変化を起こしているんですね。 そして我々も雇われて働くタイプへと大変なストレスも伴いつつ、大変化を起こしつつあったというわけなんです。

日本で高度成長期が終わったあと、人々の所得がどうなったのか、わかりやすいグラフを用意しました。 これは、家計の所得を棒グラフにしたものです。 80年代にどんどん伸びていったのが、急に横ばいになり、それから減っています。

90年バブル崩壊がほんとうに曲がり角でした。 いろんなものが売れなくなったの、当たり前ですね。

このグラフは、お金持ちから貧乏人まで全部合計した数字です。 格差は拡大していますので、貧乏人はかなりたいへんじゃないかと思います。

図9:内閣府経済社会総合研究所 SNA(国民経済計算)

この横ばいになった曲がり角、1990~92年ごろが、バブルのはじけたときです。 それからは横ばい、98年からは減少しています。 2005年からちょっと持ち直しました。 でも、08年にはまた落ちます。 08年は、まだ統計の数字が出ていませんが。

水色が自営業の人たちの所得です。 農家とか商店とかです。 ずいぶんと減ってますね。 数自体がどんどん減っています。

ピンクは、利子や配当の収入です。 減りましたねえ。 低金利のためです。 資産家がずいぶんと打撃を受けて、お金の使い方が変わっているでしょうね。 でも、打撃を受けているのは、資産家とは限りません。 日本の平均的な家庭はかなりの貯蓄を持っています。 老後の生活のために貯金した人たちとか、子どもの教育資金を貯金した人たちも、計算がずいぶんと狂ったはずです。

こんなふうに家計の所得が減りますと、とうぜんモノの売れ行きは落ちます。 次の図は、日本のいわゆるGDP(国民総生産)を図にしたものです。 上は生産で、下が支出して買っている側です。

図10:高度成長期の終わり 慢性的消費不足

大きく言いますと、日本では、支出がどれだけあるかで生産が抑えられています。 生産が足りなくて経済がおかしくなっているのではないです。 社会主義国だと、たとえば鉄の生産が予定より2割少ない、だもので橋が作れないし、送電設備ができないし、車が作れない。 そのためにまた鉄の生産が落ちてしまう、そんなことが起こりますが、そういうタイプの経済危機をやっているのではありません。

日本で企業が潰れるときは、作れてるのに売れなくて潰れるわけです、あたり前ですけど。 生産力はあるのに、倒産したり、生産物を廃棄したり、工場を遊ばせたりしています。 そのことを「潜在GDPがある」って言い方をすることもあります。

倒産や失業が起こっているのは、人々が働かないからじゃないんです。

景気が悪くなるのは、働く人たちががんばっていないからではなくて、もっと構造的に生産と消費が釣り合わないためです。

あの100円ショップを見てください。 あれね、どうみたって原価が100円以上かかってると思うものがゴロゴロしています。 そういうのは、業績不振や倒産した会社の投げ売りです。 そこで働いていた人たちのことを考えて下さい。 いくら一生懸命に働いても、売れなかったら結局は無駄働きやりました。 労働不足じゃないんですよ。 勤めている人たちはよく働いていますよ。 それでもその人の作ったものが100円ショップに並ぶしかないんです。

企業の方が賃金を上げようとしても、先が分からないのに雇用もそう簡単に増やせないです。 人雇っちゃったら大変でしょ。 これから先何年もお金を払い続けて、賢い経営者ならそう簡単に増やせないですよ。 それで、派遣やパートにして、いつでも首を切れるようにする、正規社員の賃金も減らす。 でも、そうすると、全体の売り上げが減る、また会社が人を減らす。 ということになります。

ですから消費の方が増えるようにしてやらないとバランスが取れない。

支出を増やせば景気が良くなることは政府も知っていますから、日本の場合90年代以降、政府が一生懸命に金を使って、景気を支えました。 それなりの効果はありましたが、でも、結果としては政府の借金がすごく貯まっています。 いっぽう企業は輸出に力を入れ、政府も為替レートに働きかけました。 結果として民間にはドル資産がすごく貯まりました。

しかし、政府の巨額負債を政府が返しきれるはずがないし、アメリカの巨額負債をアメリカが返しきれるはずがないです。 どちらも、いずれなんらかの形で目減りし、一部しか返ってこないでしょう。

草の根の人たちにお金が渡らないと、ほんとに豊かな経済はできないです。

働かざるもの食うべからずというあれはですね、生産が足りない時代の話で、今は消費の方を多くしないとバランス取れない時代です。 何らかの形で、働かない人間を食えるようにしてやらないと、みんな食えなくなっちゃう。 そういう時代に我々は入ってきています。 だからね、「働かざるもの食うべし」、これは日本なら言っていいんですよ。 でも生産の足りない国で言うとこれはまずいです。 生産の高い国ではいい。

生産性の高い国では働かない人間も食わないとみんな食えない。

「所得=労働」は人間の商品化
ベーシック・インカムの必然性(2)

今われわれ収入を得るにのにね、働かないと収入を得られない。 所得=労働。

でもね、これは人間は金のために何でもしなくちゃならないっていうことじゃないですか。

この写真は、大学生の就職活動の様子です。

みんな、リクルートスーツです。 これはやっぱりリクルートスーツ着ないわけにはいかないでしょ。 なんで着るかというと、私はそんなにとっぱずれた人間ではありません。 常識を持っています。 規格品でございます。 と、言ってるわけですね。

大学生は、3年生になるともう就職活動でしょう。 大学に入って、高校までとは違う環境で、やっと自発性が出てきたかな、というところで自分を商品化して身売りするしかなくなる。

身売りといっても、昔の農家が娘を身売りしたようなひどいものではありません。 自分の知識や技能、サービスを売っているということでもあります。 でも、対等に契約を結ぶ立場かというと、そうではないです。 これから残業にも耐えます、仕事を家に持ち帰ります、無理な指示でも極力従います、という立場です。

個人は、サービスという商品を作り、それを売って収入を得ます。 それは当然のことです。 しかし、「なんでもお言いつけどおりにします」というサービスは、ちょっと違います。 人間そのものを丸投げして商品にしてしまっています。

本来商品として作られたものだけが商品であるべきなんです。 人間は商品じゃないです。 人間そのものを商品にしちゃうと、奴隷にしちゃいます。

今の日本で奴隷制はないですけれども、人々はかなり奴隷的です。 程度の問題ではありますが、食うために「お言いつけどおりに」と服従する奴隷でもあります。

さて、ではどのくらい奴隷かというその奴隷度なんですが、これはまったくのグレーゾーンでして、簡単にどちらと決めつけることはできません。 白っぽいのと黒っぽいのがあります。 完全な判別はできませんが、チェックポイントを挙げることはできます。

  • 報酬は十分か。
  • 断ることができるか。
  • どれだけ命令・指揮されるか。
  • 自分の技術、判断を生かせるか。
  • どれだけの時間働くか。
  • 労働のきつさはどれくらいか。

などです。 もっと他に挙げることもできると思います。

図11:現代の奴隷度グレーゾーン

例えば、弁護士さんなら自分の知識や判断を売って報酬を得ています。 あるいは、歌手なら自分の技能と魅力を売っています。 売りたいときに売ればいいのですから、奴隷的ではないですね。 ま、すごい売れっ子だけど、事務所の言いつけのままにあっちのステージこっちのステージで歌って、ふつうの月給もらってるだけなんて歌手もいたりしますけれどね。

いっぽう、「きつい」、「きたない」、「危険」の3K労働なんて、報酬が少なかったら黒っぽいです。 ほかにいくつか、図の中に職を挙げましたけれど、これはこのとおりのきちんとした順番ということではないです。 すべてそれぞれの職場によりけりです。 零細企業経営者で、借金と賃金の支払いに追われて、まるで奴隷じゃないかという人います。 3K労働でも、一日5万もらえれば、ほくほくするでしょう。

しかし労働からしか所得を得ることができなかったら、世の中、能力が高い人たちばかりではありません、立場の弱い人たちは、なんでもお言いつけに従いますと“身売り”するしかないでしょう。

労働市場は、対等な関係での需要と供給にはなっていないです。 市場原理だったら、嫌がられる仕事は応募者が少ないから労賃が上がるはずです。 そうじゃなくて、強い立場の人たちから順にいい仕事をとっていって、最後に残った、人気のない仕事に、食うためにはやむを得ない人たちが低賃金であっても応じるという構造です。 まるで、経済的カースト制度です。 いやだったら、上のカーストに生まれ変われっていうんです。 輪廻転生ではなくて、能力で生まれ変わってですけどね。 そんなことがまかり通るのは、収入を得る手段が労働だけしかないようにしているためです。

そこにベーシック・インカムを出してきますと、すべての人が大前提は食えますから、「それはあんまりだ」という仕事を断ることができます。 奴隷労働グレーゾーンの一番黒っぽいやつはやり手がいなくなって消えていきます。

図12:現代の奴隷度グレーゾーン BI実現後

このことのもたらす社会変化は大きいでしょう。 いま、恐怖が人を動かしています。 中学や高校の先生で、生徒を脅す人がいるんですよ。 「そんなことじゃ、お前、将来はニートだぞ」とか、「日雇いにしかなれないぞ」とか。 親にもいます。 不安と心配にかられて、脅すんです。

ベーシック・インカムができると、とにかく、食えるんですから、そんな脅しは、吹っ飛びます。 社会全体が、「食っていきたかったら、忍耐しろ」という脅しに頼らないで成り立つようになります。

多くの人がもっと自信を持って生きられるようになります。 自信を持って生きられるということは、最後の最後は他人に依存しないでも生きられるということじゃないでしょうか。 他人に支配されたり虐待されたりしたときに、逃げ出す道が残されていることじゃないでしょうか。

では、いい仕事ってどういう仕事なのでしょうか。 私も、生徒たちに就職の相談なんかされることがあります。 「これはたとえ金をもらわなくてもやる、ということをやって、しかも食えていることだ」なんて言ってます。 それには、脅しや競争に訴えるのではない、しっかりした教育が必要です。

仕事一般に関してですが、こういう仕事がいい仕事だと思います。

  1. 十分な報酬がある。

    ある程度収入がないといけません。 暮らせません。

  2. 仕事を通じて社会と関係を持てる。

    仕事があってわれわれは社会的存在になっていきます。 私はこういう人間ですと名刺を差し出すことが出来て、関係ができていきます。

  3. よい仲間がいる。

  4. 達成感がある。

    毎日毎日、流れ作業の中でネジを締めるようなことをしていると、何をしているのかわからなくなります。

  5. 熟達できる。

    それやっているうちにプロになれる、熟達できるっていうものがないとつまらないです。

  6. その人に応じた判断、技能が必要

    その人の能力に応じた判断や技能が必要なものでないと、人が化石になっていきます。 能力より低すぎてもだめだし、あんまり要求が高くてもノイローゼや胃潰瘍になります。

  7. 頭脳と肉体のバランスがよい。

    できれば頭脳と肉体をどちらも動かす方がいい。

われわれは、仕事から多くのものを得ています。 収入はある程度満たされれば、こんどは自分のアイデンティティだとか、よい仲間がいるとか、技能を尊重されているとか、そういうことが大事になります。 ベーシック・インカムができたからと言って、人がたくさん会社を辞めるようなことはないでしょう。 仕事には収入以外にも大事な価値がありますから。 ベーシック・インカムでは、奴隷的労働が淘汰されるだけです。

生産性の高い国では、ベーシック・インカムによって奴隷的労働をなくすべき。

生きる権利の保障
ベーシック・インカムの必然性(3)

今、生きる権利を保障しようとすると、国はまず雇用と賃金を確保しようとします。 公共事業をやったり、いろんな経済政策で、景気をよくしようとします。 個人に対してはできるだけ就業を促し、やむを得ないときに生活保護をします。 収入を、雇用と賃金を通じて確保しようとするので、間接型と言えます。

それを次の図にしてあります。

図13-a:間接型保障

でも、国が、個人の雇用と賃金を確保してあげるのは、難しいです。

高度成長期には、たまたまうまくいきました。 国が道路を作れば、産業も発展するし、雇用と賃金も増えました。 でも、いまそれをやっても効果は小さく、政府の借金ばかりかさみます。

実体経済の巨大さは国なんかの力をはるかに超えていて、国がそう簡単に経済の舵取りできるものではありません。

そもそも企業は、雇用と賃金を最小限で済ませたいわけでしょう。 そこにすべての人の雇用と賃金を確保させようったって、そううまくはいきません。 企業は、「社会主義国じゃあるまいし、余剰人員を抱え込んで潰れそうになっても、国は面倒みてくれないでしょう」って言います。

ところが、企業は潰れそうになると、国に泣きつきます。 「うちが潰れたら、たくさんの人が失業してしまいます」って。 実際、会社が潰れると、たくさんの人が路頭に迷います。 大企業だと、下請けやら孫請けまで潰れます。 地域全体が壊滅的打撃を受けることもあります。 だから、国は助けるしかなくなる。 銀行とかゼネコンとかを助けました。 これは、経営に失敗している会社に国がさらに投資するということでして、たいていは効率の悪い出費になります。

いくら国が自由主義を標榜していても、人に対するセーフティ・ネットを作ってなかったら、国は経済干渉をするしかなくなっちゃうんです。 あの自由主義のアメリカですら、銀行やゼネラル・モータースを助けるしかなかったんです

現在国は、個人に対しては、できるだけ働くようにし向けます。 それでどうしようもないと、生活保護をやります。 でも、生活保護っていうのは出来るだけ受けさせないようにしますんでね、審査がうるさくて、微妙に、時には露骨に本人を貶めて、生活保護を受けにくくします。 推定では、もらう資格がある人のうち20%以下しか捕捉していないそうです。

そうじゃなくて、個人を守りたいんだったら直接個人を助けちゃった方が効率いいです。 本人も貶めない。 企業も自由です。 次の図です。

図13-b:直接型保障

ベーシック・インカムは、無条件で出しますから、審査などいっさいありません。 収入や持ち物があるから出しませんなどと、とやかく言われることはまったくありません。

それから、ベーシック・インカムは個人に出します。 世帯に出すと、家庭の中で虐げられている人たちに渡りにくいんです。 家庭内の暴力とか、封建的支配とか、精神的支配とかは、虐げられている人を護ってあげないといけないです。 家の中にいると抑え込まれてしまうので、飛び出せるようにしてあげるのが一番です。 ベーシック・インカムがあると、とにかくどこかで生き延びることができます。

それから、ベーシック・インカムには、絶対に債務の差し押さえの手が届かないようにします。 ヤミ金融なんかに、借金の担保に持って行かれないようにするためです。 最低限の生きる権利には、誰も手をつけさせてはいけません。

そうしますと、おそらく、自殺が激減します。

自殺は98年に急に増えています。 それまで2万人台だったのが、急に1万人くらい増えたんです。 この増えた最大の原因は経済問題です。 中年の男性に多かった。 住宅ローンに追われた人や、借金に追われた自営業者なんかです。 こういう人たち、これはお金の問題ですから、お金があれば途端にすくわれます。 おまけに、女房子どもの食い扶持までベーシック・インカムで出るわけでしょう。 自殺が1万人はあっという間に減ります。 あと、自殺する人は、働くことができなくて、自分が無用の穀潰しだと思い込んで、落ち込んでいくことが多いです。 ベーシック・インカムがあれば、「あんたが生きているおかげで、うちは食っていけるんだよ」というのは、明白な事実です。 自殺者は減ります。

自殺者が一人いれば、自殺未遂はその10倍くらいあるものです。 死ぬことを考えて生きている人はそのまた10倍くらいいるものです。

自殺者の数が実際に減るようならば、生きる希望を取り戻している人は、その百倍はいるに違いありません。 そのまた家族が楽になっていることを考えたら、もっとすごい数の人が救われています。

高度成長の終わった国では、雇用と労賃を通じてより、ベーシック・インカムで生活の安全保障を。

労働市場の柔軟化
ベーシック・インカムの必然性(4)

今度は雇う側の立場から見てです。 北ヨーロッパの国々が、たいへん効率のよい産業構造を作り出しています。 その考え方に、ベーシック・インカムと共通するものがあります。

ここにあげたのはデンマークの例です。 柔軟性(フレキシビリティ)と安全性(セキュリティ)の二つの言葉をつなげて、フレキシキュリティと呼ばれています。 90年代にデンマークとオランダで成功し、2000年代になってEUが本格的に取り組んでいます。

図14:社会のフレキシキュリティ

週間東洋経済2009年1月9日号より

このフレキシキュリティ型の社会ですと、失業が怖くないんです。 どうして失業が怖くないかと言いますと、この図の左下なんです。 手厚い社会保障のセーフティ・ネットがあります。 失業給付がすごく充実しているんですよ。 最長4年間もらえます。 会社辞めても怖くない、会社が潰れても怖くない。 失業給付だけでなく、医療費、福祉、教育費、老後の生活などが保障されています。

さらに、次の仕事に移るための教育訓練プログラムがありまして、ほとんどタダなんです。 それが再就職しやすくします。 いろんなタイプのプログラムが選べるようになっています。 デンマークは大学がタダですし、入試がなくて書類だけなので、大学に入り直して、学び直す人も多いです。 けっきょく、学費がタダで、しかも生活費をもらえますから、大学に行き直せるわけです。 労働力の質のアップという点では、そうとうな水準になるものです。 日本の、教育訓練所に行くというようなイメージとは、かなり違います。

生活に困らないから、労働者の方も「ほかのことしてみたい」くらいで辞められる、経営者の方も「うちの経営の先行きがどうもね」くらいで解雇できる。 会社が縮小したり新しく出来たり、労働者が会社を移ったりするのが、とてもやりやすい。 そこで、産業構造の調整が早いんですね。 国際競争力が高いです。

デンマークは、もともと、経営者が解雇する自由を得るいっぽうで、労働者側は社会保障を獲得してきたという歴史的経過があります。 日本は逆ですね。 日本は、雇用を終身雇用で護るが、社会保障は充実していないというタイプでした。 そこに不景気がやってきたので、日本でも、リストラがたくさん起こったし、非正規雇用を認めるとかしてきました。 終身雇用にこだわらない企業も増えました。 でも、これをやるときは、社会保障の充実と組み合わせないと危ないんです。 社会不安を引き起こしてしまいます。

柔軟な労働市場と社会保障を組み合わせるタイプは、北欧に共通しています。 小さな政府と人々の自己責任を言う国々は、北欧社会のことを、高い税率であんないわゆる高福祉社会をやって、そのうちに企業が負担に耐えかねて行き詰まるさ、なんて見ていたらそうならなかった。 北欧諸国は国際競争力のトップの方に行ってます。

日本は、社会保障をお荷物視して産業に直接カネをつぎ込む考えが中心だったのですが、それより、むしろこういう手厚いセーフティーネットを作った方が人が安心できるし、産業と労働を柔軟に再編成できます。 不況の時に、消費の下支えをできます。

ベーシック・インカムというのは、このフレキシキュリティをさらに進めたものです。

図15:ベーシック・インカムのある社会

ベーシック・インカムは、失業給付みたいに条件をつけませんし、何年間という期間なしにもらえます。 教育訓練を受けていないと出さないなんて、野暮なことも言いません。 会社を辞めた場合、自由な生活設計ができます。 趣味やっても結構です、学び直しをしてもいいです、ボランティアしてもいい、休養しても結構です。 もちろん、職業訓練でもいいです。 この自由な生活設計の中から出てくるものが、ほんとうの社会活力になります。 クリエイティブなんですよ。

社会は、ゆとりの部分をもっていないといけないです。 すべての人が目的を与えられていて、それに向かって頑張っているなんて、いかにもいつかドーンと破滅しそうじゃないですか。 あるパーセント、アソビがあったほうが健全です。 無理して完全雇用なんか目指さなくていいんじゃないですか。

自由な生活設計の中から、新しい生産に結びつくものも生まれるでしょう、新しい消費に結びつくものも生まれるでしょう。

ただ、ベーシック・インカムは、デンマークなどの失業給付金に比べて、一人あたりの額が小さいです。 いろんな福祉や、高等教育までの教育費無償も実現させておかないと、それぞれの人の学び直しがなかなかうまくいきません。 教育費は、幼稚園から大学まで公立も私立も全部無償にするのに、あと5兆円か6兆円でできます。 めちゃくちゃ安いです。 人々が安心できて、能力を伸ばせて、社会が安定する。 しかも、将来の見返りが見込める。 こんな安いお買い物、めったにないと思いますよ。

生産性の高い国では、ベーシック・インカムによって産業構造の転換、労働力の適正配置、生産性向上。

不況からの脱出
ベーシック・インカムの必然性(5)

日本は、バブル崩壊以降、長い不況の中にあります。 そこに、昨年のアメリカの金融危機のあおりで、いま輸出が激減して大ピンチ。 しかも、もう従来型の対策はほとんど手をうち尽くしているんじゃないでしょうか。 どうなるんでしょうねえ。 でも、ベーシック・インカムをやると大きな効果があるはずです。 そのことを、お話しします。

日本は、90年のはじめに、バブルがはじけてしまいました。 土地はいつまでも値上がりし続けると信じていたのに、ただのバブルでした。 株式も大幅値下がりです。 企業は借り入れして土地や株を買っていましたから、さあたいへん、借金返済に追われます。 懸命に経費を切り詰めますし、倒産するところもあります。 銀行も貸し倒れで大損失を蒙ります。

図16:バブル崩壊

このままだと、不景気の坂道をどんどん転げ落ちるので、政府は景気をよくしようと、いろいろな策をとりました。 公共事業をやるなど、政府の投資や消費を増やしました。

図17-a:従来の景気対策(1) 政府支出増

いわゆるケインズ政策と呼ばれるものです。 これは、それなりの効果はあるんですが、その時だけの効果で終わってしまいました。 高度成長期だと、高速道路を造ると、とたんに物流が盛んになる、ビジネスも観光も生まれると、経済活動全体が大きくなったし、結局税収も増えてモトがとれたのですが、90年代以降では、そんなにうまくいきません。 政府は国債を出して資金をまかなっていますから、国債の発行残高がどんどん貯まりました。

もうひとつ、景気対策の方法として、日銀が金利を下げて、企業がどんどん融資を受けられるようにしました。

生産のほうが足りない経済なら、この方法が劇的に効くはずです。 日本の戦後は、これがよく効きました。 でも、今はそうじゃないです。

図17-b:従来の景気対策(2) 低金利政策

実際には、企業は売上げが増える見込みがないと、危なくて設備投資もできないし、雇用も増やせないですよね。 だから企業はあまり借りないです。 目端の利く会社は、株や債券や不動産で利回りを取ろうとしますから、資金がそっちに流れます。 それがこの図です。

円キャリー取引なんていうのまでありましてね。 日本は超低金利、それを借りてアメリカなどで向こうの利回りのいい株や債券を買うんです。 せっかく日本の方で資金を用意してあげたんだけど、外国の経済に投資するのに使われる。 アメリカの住宅バブルの原因のひとつだとも言われるくらいです。

結局、働く人たちに渡る賃金は少ししか増えませんし、家計の消費もあまり伸びません。

さらにもうひとつ、景気を良くする方法として、輸出を増やすことがありました。 日本国内に買う力がないから、外国に売るのです。 これにも問題がありまして、汗水たらして作った生産物を自分たちは使わないで外国に渡し、かわりにドルという商品券をもらって喜んでいることになります。 ドルを有効に使えれば問題ないのですが、結局かなりの部分がアメリカの債券や株を買って、自国は貧乏暮らしに甘んじ、アメリカ経済に投資するのに使われていました。

このように、景気対策の手段が、なかなかうまくいかない。 国があれこれカネをつぎ込んでも、ほんとうに国内の生産と消費に使われる部分が小さいんです。

ほんとうに大事なのは、人々が消費に使うお金の部分なんですよ。 ここが増えないと売上げが増えない。 企業はいくら融資を受けられても、売上げが増えないとどうしようもないじゃないですか。

だから、本気で生産と消費のバランスをとりたいなら、直接ここのピンクのところに入れてやればいいんですよ。 ベーシック・インカムって書いてあるところです。 家計消費側に。 特に生活費に。

図18:不況対策としてのベーシック・インカム

それも、貸すのではダメです。 あげてしまわないといけない。 消費者に貸したって、返せるはずないでしょう。 消費者に貸したら、サラ金です。

ここに渡せば、生活費に使われます。 それが、企業に回ります。 それがまた賃金に支払われ、投資に使われ、というように回転がすごくいいです。

これをやれなかったのは、「働かざるもの食うべからず」や、「働かないでカネが入ると、ぐうたらのダメ人間になる」ということを信じ込んでいたためじゃないでしょうか。 でも、不労所得が人を堕落させるなら、資産家はみんなぐうたらのダメ人間だということになります。 そんなことないですよ。 人間が立派かどうかは、資産や収入に関係ないです。

公共事業をやるよりもベーシック・インカムで貧乏人に金を渡した方が、景気がよくなります。 貧乏人はハンド・トゥ・マウスでしょ。 全部生活に使うでしょう。 それはすなわち、商店や企業の売上げってことだし、そこからまた給料に支払われたり、次の生産の資金になったりします。

今は、生活に困っている人にお金をあげるほど有効なお金の使い方ないんですよ。 社会全体が豊かになるんです。 公共事業に使うより生活保護に使った方が、効率がいいはずです。

ベーシック・インカムは、貧乏人だけに渡すのではなく、一律にお金持ちにも渡します。 これは、金持ちと貧乏人を区別することの弊害が大きいと考えるからです。 でも、人数からしたら、お金持ちは少ないですから、大部分は庶民に渡ります。

公共経済の構築

ベーシック・インカムの景気に対する効果はすごいと思います。

でも、長期的な視点で考えるなら、不況を脱出するにはもう一本柱が要ります。 公共経済を大きくすることです。 福祉ですとか教育ですとか、医療ですとか環境ですとか、そういう、直接の採算はとれないけれど、生活に必要だというものを充実させることです。 そうでないと、次から次へとものを買って消費するだけのあたふたした経済になっちゃいます。 需要のほうも、アタマ打ちになってくるでしょうし、好景気と不景気の浮き沈みを繰り返すでしょう。 もっとじっくりした生活作りが必要です。

高度成長終わっちゃいますと、企業がね、いろんなものを作ってますけれども、有利な投資先がなくなります。 世界的な現象です。

図19:高度経済成長が終わると

でも、企業ってのは借入金の利息や返済を払わないといけないし、株主に配当しなければいけません。 そこで企業は株買ったり不動産買ったりします。 個人も同じです。 信託銀行とか、保険会社とか、年金とか、資産を運用しなければならないところはみんな同じです。 株式や不動産を買います。

バブルになります。 はじけます。

高度成長を終えた国の内部では、お金を有効に投資する道がなくなっちゃっているんです。

では、生活者のほうが、もう必要なものがないほど豊かになっているからモノが売れないのかというと、そうじゃありません。 福祉、医療、教育、環境といった分野が遅れているんです。

医療とか教育とかは、お金のある人しか受けられないのではいけないです。 たとえば、義務教育を実費で払うようにしたら大変です。 貧乏人は子どもを学校に行かせることができません。 いま生徒一人あたり年80万円くらいかかっています。 月あたり約7万円です。 毎月7万円の授業料を払える家庭でないと、子どもを小中学校に行かせられません。 子ども二人だったら14万円。 それじゃ、家計が破産します。

だから、義務教育費は税金でまかない、国や地方が支出します。

図20:商品経済と公共経済は補完関係

公共経済は、他にもたくさんあります。 道路や橋や港などのいわゆるインフラ整備がそうです。 住民票の発行などの行政サービスや、法律を整えたり、裁判制度を維持するのも公共経済です。

消防や警察も、営利に任せていたら成り立ちません。 昔アメリカなんかにね、火事になると消防車がくるんだけどその場で、いくらだけどお宅払えますか?なんて交渉まとまってから水かけてくれるなんてそんな会社があったそうです。 これじゃ、困りますね。

公共経済は、所得を再分配して、貧富の差を小さくする機能があります。 生活保護や失業保険、年金などは、まさしくそうです。

こういう、ご自分の金でご自由にどうぞ、と言っているとうまくいかない分野を、公共経済が担います。

商品経済は、なんでも自由にお金を使ってよろしい、採算がとれるかどうかの原則で自然にやってくれということです。 いっぽう公共経済は、みんなで出し合ったお金で維持します。 使うときはほんとうに必要なことなのかどうか判断しますし、公平であることを原則とします。

商品経済と公共経済は補完関係にありまして、どっちも大事なんです。

ベーシック・インカムができると、購買力が増します。 でもそれを商品経済の中でだけ回すのではなく、公共経済にもたくさんお金が回る必要があります。

この公共経済のほうにたくさんお金が流れるシステムを作ってうまくいっている実例があります。 北欧諸国です。 スウェーデンとかデンマークとか、社会保障を充実させた国が、生産性が高く、国際競争力が世界のトップクラスです。 さきほど述べましたフレキシキュリティが成立しています。

これらの国では、社会保障、教育、福祉、医療といった分野で、安定した金の流れと雇用を作り出しました。 それが産業発展にも有効だったんです。

北欧諸国では、税金と社会保険の負担が、所得の7割くらいになります。 ところが彼らは、平気で税金を払っています。 というのは、教育も、医療も、老後も保障されていると、お金を貯めなくても生きていけます。 失業も怖くない。 不安のない、豊かな暮らしができるんです。

図21:ベーシック・インカムによる公共経済拡大

公共経済を充実させるには、増税が必要になります。 みんなのお金を集めて、みんなで必要としていることに使うのが公共経済です。

でも、ベーシック・インカムから所得税を取るのはナンセンスです。 他の税源にしても、私は今の仕組みのままでの増税には反対です。 絶対に反対です。

増税するならどうしても前提になるのが、住民自治です。 住民自治がしっかりしていないと、なにが必要とされているのかよくわからないままお金が使われるんです。 住んでいる人たちが、このお金で橋をかけるのがいいか、教育に使うのがいいか、産業を誘致するのがいいか、自分たちで決めることが大事なんです。 そうすると、予算が生きた使われ方をするようになります。 財源と権限をもっと地方に渡すべきです。

税のシステムですが、私は、税金は漸進的に消費税(あるいは支出税)にまとめたほうがいいと思います。 公共経済にかかる費用は、あらゆる商品の原価の一部と考えるべきです。 どんな商品も、交通・通信網が整備され、人々の教育水準が高く、制度が整っているおかげで、生産・販売されているのです。 その費用は、材料費と同じような原価として、価格に反映させるべきです。

いまは、税収が所得の多い個人や企業にかなり依存しています。 収入の多い人が金を出すというのは、それなりによくできているように見えるのですが、そうしますと、国は、税収を維持するために、金持ちや大企業に依存するようになります。 金持ちや大企業は、自分のところが繁栄すれば、国も豊かになると主張し、政策に反映させます。 それが、今の姿じゃないでしょうか。 それで、貧富の差の大きい、不安定な社会ができてしまうのです。

ベーシック・インカム後の社会

ベーシック・インカムができたら、社会がどうなるでしょうか。

まず、労働市場がどうなるか。

おそらく、働く人はやや減ります。 さっき言ったように5%くらい減るんじゃないでしょうか。

求人数はそうとう増えるでしょう。 100兆円くらいベーシック・インカムに出してやりますと、7割くらいは消費に回ると思われます。 所得が増えると、日本の場合6~7割程度が消費に回ることが、知られています。 大幅な消費増が、継続して起こりますから、雇用は大幅に増えるはずです。 とにかく求職者は減って求人数は増えるわけですから、労賃は上昇する傾向にあると思います。

いっぽう生産のほうは、遊ばせている部分が多いでしょうから、どんどん供給してくると思われます。 そうかんたんにインフレにはならないでしょう。 収入は増えてインフレにはならないですから、ずいぶんと豊かに暮らせます。

ベーシック・インカムができたら、それぞれの立場はどうなるか、考えてみましょう。

サラリーマン(ウーマン)

失業の恐怖から解放されます。 会社が潰れても、なんとかはなる。 会社を飛び出しても、なんとかはなる。

つらい仕事、つらい職場からは逃げ出すことができます。 最後のセーフティネットができてるから、かなり楽になります。

転職が楽になります。 しばらく休んでのスキルアップもやりやすくなります。

経営者

無理な雇用はしなくて済みます。 効率を追求した経営をしてよい。

人が辞めやすくなりますから、人をつなぎとめるよい職場作りが必要。

主婦(主夫)

主婦が、だいぶ大きな変化を起こすと思うんです。

どうですか、主婦の皆さん。 もしね、月に8万円でも入ったら。 どうします? 黙っていても入ってきたら。

その人が一番いいと思う方向に、生活を向けることができると思うんですよ。

金のために余儀なくパートをしていた人は、パートで月に10万稼ぐのは容易じゃないでしょう。 それが何もしなくても入ってくるわけだから、辞めちゃいますよね。

仕事に打ち込みたい人は、打ち込むことができます。 収入が多くなっているから、楽です。

家事に専念することもできます。 家事は、これは大事な仕事ですよ。 今産業とはされていないけど、家事をお金に換算してGDPに含めた方がいいという説もあります。 家計にゆとりがあるなら、専業主婦をやっていたい人も多いでしょう。

老人を抱えている家庭も多いですよね。 やっぱり親はとことん見てあげたいっていうそういう人たちもかなりいるはずです。

あとね、いろんな社会活動を見ていますと、今女性の方が元気ですね。 どうも、お母さんたち元気。 お父さんたち疲れてる。 なんか意欲的にこれやろうって言う人、お母さんたちにとっても多いんですよ。 その人たちが思いっきりやれますね。 「自分は稼いでいないのに...」っていう引け目を感じなくてよくなるんだもの。 女性の行動が非常に自由になると思います。

趣味に専念することもできます。 学校に通うこともできます。

農業

個人経営の農業がなんとか成り立つようになります。 いまもう高齢化でどんどん離農する人が増えていて、農地が荒れ放題になるとこ、いっぱい出てきちゃってますよね。 でも、農業をやりたいって言う人も結構います。 最低限の現金収入があるっていうことになったら脱サラして農業始める人かなりいると思います。 相当な数の人が入っていくと思います。 僻地で農業をやっている人たちがいるってのは、環境保全もしているんです。

農業は産業でもありますが、生活でもあります。 自然と対話しながら生きたい人たちの生活を保障してあげるのはいいことです。

起業

起業する人たちが増えるでしょうね。 「失敗しても、なんとか食っていける」から、チャレンジできます。 家族持ちの人でも、家族の生活が保障されてますから、チャレンジできます。 起業は、たいてい苦しい時期があってそれを乗り切るのはたいへんなのだけれど、最低の食い扶持があることは大きいです。

芸術

芸術やってみたいって言う人も多いですよね。 絵を描いてみたり、小説を書いたり、ロックをやってみたり。 どんどんチャレンジするでしょう。

社会活動

社会活動に打ち込む人たちが、相当に増えると思います。

この『ベーシック・インカム実現を探る会』の人たちと話していると、「いやあ~、ベーシック・インカム実現してくれりゃぁ、どんなに楽なことか」と話が合います。 稼ぐことはそこそこにして、時間が自由になることを選んでいる人たちなんです。

世界のいたるところにこういう人たちがいます。 社会発展のためのDNAみたいな人たちなんです。 こういう、最低限でも食えりゃやっていくぞ、という人たちが試行錯誤を引き受け、道を切りひらいてくれるんです。

私は、草の根で無認可の学校をやっている人たちとたくさん会ってきましたが、食うや食わずでやっている人たちが多いんです。 この人たちに無条件の月8~10万があったら、ずいぶんと楽になりますね。 なんの分野でも、意義のあることに取り組もうという人たちが増えると思います。

地方都市

どこにいても収入があるなら、地方の方が暮らしやすいです。 家賃が違います。 この間私の会った人は、都心のだいぶいいところに住んでいたけど千葉の津田沼に引っ越したんだって。 近々会社を辞めるかもしれないから、今まで家賃10万払っていたのが5万で済むところに越したんだそうです。

この東京の青山のあたりだったら、独身用のマンション10万以下っていうことないでしょう。 ちょっといいところだと13,4万行っちゃうんじゃないかな。 ところが電車で1時間のところへ行ったら、5万くらいでかなりきれいなところがあります。 生活費全般も安いし、そうとうの人が地方都市に越すと思います。 人が収入付きで越してくるのですから、そうすると、地方にまた職ができていきます。

地方都市の立場からすると、地域振興にたいへん役立ちます。

過疎地

農業やる人が引っ越していって暮らすようになります。 自然の中で暮らしたい、生きて行けさえするなら、っていう人がけっこういます。

学生

大学、短大、専門学校などにたいへん行きやすくなります。 たとえ授業料が変わらなかったとしても、基礎生活費がありますから、仕事をせずに学校に行く時間が作れます。

子ども

何歳までいくら出すかはむずかしいところです。 6歳まで4割、12歳まで5割、18歳まで6割というような段階的出し方、一律に18歳まで半額とするやり方、などいろいろありそうです。 何歳まで、親がベーシック・インカムを全部管理していいかも、研究しなければいけないですね。

子育てに専念する人が増えるでしょう。 もう一人育てようかという人も増えるでしょう。 子育ては、たいへんだけど充実感のあるものです。 子どもにとって親は、世界で一番好きで、一番頼れる人です。

ベーシック・インカムはやっぱり少子化の切り札になりますね。 仮に大人8万子ども4万とするでしょ。 そうすると夫婦子供2人いると24万。 何もしなくても夫婦子供2人で24万入って来たら最低限食えるじゃない。 あと、夫婦のどちらかが働けば、普通の生活ができます。

ベーシック・インカムがあると、本当に「子は宝」になります。

失業者

収入がない人という意味だったら、いなくなってしまいます。 多分路上生活者は、大抵は消えると思います。 ああ、でも趣味の人も少しいるかな。

うつ病の人

減ります。 頑張らなければとか、こんな自分ではだめだ、というプレッシャーを抱え込むのがウツ病です。 あなたがどんなであっても、とにかく生きていていいのだ、ということを毎月現金で証明してくれるんですから。

引きこもりの人

減ります。 ベーシック・インカムが引きこもりを助長するんじゃないかと思われがちですが、引きこもりの原因は恐怖なんだから、安心できるようになったほうが減るんです。

フリーター

いろんな立場が入り乱れるようになり、全体としては増えるでしょう。 ベーシック・インカムで、これ幸いと働くのを減らす人。 ベーシック・インカムで、教育を受け直すなど自分のスキルアップをするための余力が生じる人。 最低限食えるならと、正規雇用より自由な時間を作ろうとする人。 いろいろだと思います。

教育の変化

そして教育が大変化を起こします。

この子が、将来社会で食っていけるんです。 なんとかはなるんですよ。

この子が将来食えていくかで、それでいろいろと親が不安になり、教師が不安になって、「社会は甘くないぞ」っていう発作を起こすんです。 ほんとは、自分の不安なんですけどね。

ベーシック・インカムがあると無理強い教育が激減します。

今の教育をちょっと考えてください。 労働訓練の意味を強く持っているんです。

労働訓練としての教育

  1. 休まないこと。 机に座っていること。

    ともかく休むな。 全然勉強で効果が上がってなくても、いじめられていても、休むなっていうんですよね。 小さいうちから、とにかく机にちゃんと座っていなさい。

  2. 無味乾燥に耐えること。

    大事ですね。 それがないと将来生きていけないです。 つまらないことに耐えなければいけません。 不適切なカリキュラムも、つまらない授業も、無味乾燥に耐えることに役立ちます。

  3. 個人ごとの評定点のために働く。

    学校では、個人ごとに評定点が下されます。 それのために頑張るようにし向けるんです。 小学校の評定から始まって、中学高校の定期試験、大学入試の点数、大学の優良可まで、あれのために学ぶんです。 個人ごとについてまわるクレジットがあって、それを蓄積するために学校に行くんです。

    会社に入ると自分の評定点のために働かなきゃならない。 だから小さいときから慣れないといけません。

    学校が「自己評定点頑張らせ体制」が基本になっています。 それを忘れて、「個性尊重」とか「ゆとり教育」とか言うから、カラ振りになるんです。

  4. 何を手に入れても満足しない。

    何を手に入れても満足してはいけません。 先生がすぐ向上心向上心といいますね。 あれです。

    多分南米かなんかの話しだと思いました、よく働いてくれたからと労働者のお給料を上げたら、とたんに働きに来なくなっちゃった。 いったい何が不満なんだってきくと、

    「だって今日暮らせるのに、どうして働くんですか?」

    つまり我々は、今日暮らせても明日のために働く、そういう人間たちを育てないとこの社会維持できないんです。 だから、いい成績をとっても、賞を取っても、「それで満足してはいけない」、「上を目指せ」、「まだここが足りない」。

    もちろん、明日を考える人間を育てることは大事です。 しかし、それはラットレースで追い立てることや、満足を知らない人間を育てることとはまったく違います。

  5. 目標に向かって努力する

    目標を与えるとそれに向かって努力する人間でないと、雇用することができません。

    でも教育で目標管理をやりますと、結果だけ取り繕うとか、ご褒美がほしいとか、そういうものに生徒たちを走らせます。 浅薄な知性を育ててしまうんです。

  6. 賞を欲しがり、罰を察する

    こうなってもらわないと、昇進や昇給をめざして頑張ってくれません。 まずいことに対しては、どんな罰があるかの見せしめをやっておいてから、「ああなるよ」ってほのめかします。

  7. 学校の仕事を家庭に持ち越す

    宿題がいっぱいあります。 夏休みの宿題もあります。 テストのために家庭での時間を犠牲にするほど誉められます。 個人の生活のバランスを崩してしまうことに、教師たちが無頓着です。 これはのちの残業につながります。 仕事の持ち帰りにつながります。

  8. 教師生徒、先輩後輩の序列を作る

    人間序列を作ります。 教師と生徒、先輩と後輩。 これは企業社会での服従の訓練ですね。

    教育は、それぞれの人が権威・権力から自由になって、物事がほんとうはどうなっているのかを発見できるようにすることです。 たとえ大学教授が言うことだって、違っていたら小学生がそれ違うんじゃありませんか、と言えることです。 そういうものを確立していくのが、民主主義国家の教育なんです。

    職場は、機能集団ですから、命令と服従の指揮系統は存在します。 だからこそ、就職する前に、なにが正しいかを見抜く能力を育てないと、殿様が白馬を黒馬だと言うと、はい黒馬ですと言ってなにも考えない人間にしてしまいます。 いまは、学校に身分制度があるんじゃないですか。

ここに挙げた8つの徳目はみんな労働倫理なんですね。 人そのものを伸ばすという教育本来から発生しているのではありません。 将来職場に適応できるように、子どものときから準備させてあげようということです。 それで、子どもたちとトラブルを起こすんです。

もちろん、勤勉も忍耐も、それ自体は意味のあるものです。 しかし、画一的、暴力的に仕込まれるものではありません。 内面には、逆のものが形成されてしまいます。

でも、ベーシック・インカムができると、根こそぎ変わります。

ベーシック・インカム後の教育はどうなるでしょうか。

  1. 労働訓練から個性を伸ばす教育に

    その生徒が食っていけるかどうかはもう保障されているのだから、先生と生徒は、一緒に事物を探求し、いろんなことにトライし、人間づきあいをしていればいいんです。

  2. 家庭的教室

    今は教室が事務所的、工場的です。 もっと家庭的になると思いますね。 命令的、指揮的ではなく、学校が生活の場っていう感じになってくる。

  3. 目的遂行 → 感受性と創造性

    今はとにかく、脇目もふらずに目的遂行、を植え付けようとします。 夢を持ちましょう、ってよく言うでしょう。 あれも自分で目標を管理しろということなのね。

    そうじゃなくて、感受性が、つまりもっとあるがままを知る力が必要です。 他人と自分の動機を見抜くことが、自由に生きることの出発点です。

    創造性だけは、訓練で育てることができません。 子どもが全身全霊をあげて遊んでいるとき、とても創造的です。 あれは目的意識が干渉しないからそうなるんです。 クリエイティブであるというのは、大人の知識・技能をもったまま、目的意識や欲が入りこまない状態でいられることなんです。

  4. 総合的人間発達の評価

    学校が、労働力訓練キャンプであることをやめたとき、教育は人間を総合的に見て育てるという、本来の役割を取り戻すでしょう。

    そこから、新しい国家、経済、文化を担う人たちが生まれてきます。

    もちろん、就職予備校的な学校もあったほうがいいです。 でも、小学校や中学校の年齢ではありません。

  5. 生涯教育体系の構築

    生涯教育体系を創らないといけないということをお話します。 生涯教育体系は、図書館充実させましょうとか、老人教育作りましょうみたいに考えられています。 それは、ほんの一部です。 大事なことは、何歳になっても高等教育が受けられることです。

    これを実現するための条件は二つあります。 ひとつは、大学まで公立も私立もすべての教育が無償であること。

    もうひとつは入学が資格制度であることです。 高卒資格、あるいは大学入学資格とかを一度取れば、あとは書類を出すだけで入れる。

    これが当たり前の国けっこうあるんです。 こうすると、学びたいと思ったときに学校に行き直してスキルアップしてまた行ける。 職場と教育の出入りが自由になります。 しかも生活費はベーシック・インカムで出るんです。

    たとえばスウェーデンでね、いつでも、どこでも、ただで、っていうスローガン掲げまして本当に無償の生涯教育体系を作っていきました。 スウェーデンでは、ほんとうに大学まで公立も私立も無料です。

ベーシック・インカムそのものは、お金の問題であり、経済問題です。 経済次元のことしか変わりません。 しかし、教育が変わったとき、社会が根底的な変化をはじめます。 おそらく、ベーシック・インカムをやって教育が変化し、20~30年くらいたったときにその影響が現れてきて、社会がほんとうにクリエイティブになってくると思います。 ほんとうの変化が、そこから始まると思います。

贈与経済が大事

ベーシック・インカムが軌道に乗ってきて、人々の生活にゆとりが出てきたら、公共経済の充実だけでも足りないものがあります。 公共経済にも、作りすぎ、オーバースペックというものはあります。 今は、道路がもうオーバースペックです。

もっと、個人の「それいいね」とか「ありがとう」とかが経済に反映されてこないと、欲望と必要だけで動く社会になってきます。 いいと思ったら、見返りを求めずに、ぽんぽんと金を出す経済も大事なのです。 こういうものがあると、社会が自由になってくる、クリエイティブになってくるのです。

図22:贈与経済の発達

大規模なのですと、リオのカーニバルみたいなやつでしょう。 一年かけて準備したものを、サンバ、サンバでパーッと使い尽くす。 ものすごく自由で明るい気分で、盛り上がるのです。 こういう人たちにわれわれが、「それがなんの役に立つんだ」と聞くと、ブラジルの人は、「お前たち、なんのために生きてるんだ」って言うでしょう。

見返りを求めない、使い方を監視しない、個人のひらめきだけで動くカネ。 これが大事です。 たぶん、それがお金のもっとも生きた使い方だと思います。

例えば、「この貧乏画家は、天才かもしれない」と誰かが思っても、だからといって市役所が助成金を出すわけにはいきません。 自称他称の天才はいくらでもいますから、そんなものに公共のお金は出せないです。 感じ取った人が出せばいいんです。

学術研究で、これが独創的なものかどうか、お役所が判断するのは無理です。 「いいね」と思った人が、ぽんとカネを出すのがいい。 へんな見返りをもとめず、感覚でやったほうが的確なことをするものです。

それは、文化、学術のすべての領域で言えることです。 個人の寄付を取りまとめる協会のようなものもあるといいです。

宗教活動も大事です。 宗教というと、われわれはすぐにウサン臭い団体を想像しますが、そんなものはごく一部です。 あらゆる文明が、独自の宗教活動を持っているのです。

独創的なNPOがおもしろい社会活動をはじめたら、たちまち寄付金が集まってくるのがいいです。 ある程度軌道に乗れば、公的なものだとして市の助成も得られるでしょうが、そこに至るまでをみんなの「いいねえ」で支えなければなりません。

あるいは、感謝の気持ちを、もっと商品券か通貨の形で渡せばいいんです。 日本人は、目に見えない貸し借りの感覚が発達していますし、これが社会的セーフティネットにもなっています。 これを盛んにすればいいんです。

こういう贈与経済は、すべて既にあるものです。 けっして目新しいものではありません。 ベーシック・インカムができたら、誰もが食うのには困らなくなっているのですから、もっともっと盛んにできます。 税制などでも優遇します。 そうすると、自由な社会ができてきます。

いま、商品経済だけが経済だと思われています。 そうではなくて、公共経済と贈与経済もいっしょに考えると、ほんとうに豊かな社会ができてきます。

 

第1部終了

ベーシック・インカムの財源論として古山明男さんオリジナルな公共通貨「e¥」(イーエン)を論じた第2部を公開しました。 あわせてお読みください。

古山明男 講演録「ベーシック・インカムのある社会」第2部