関曠野さん、大阪・應典院講演「追記」

●  関曠野さんの大阪・應典院での講演の「追記」を仮アップいたします。この「追記」は講演録正式アップの時に掲載しようと思いましたが、内容の重要性から仮アップいたします。正式アップも近々いたしますので、もう少しお待ちください。(白崎)

 

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追記 -会場からの質問で考えたこと

関曠野(思想史)

 

 2016年の11月にはじめて大阪で講演をさせて頂きました。私の話を聴きに来てくださった関西の皆さんに改めて感謝申し上げます。さすが大阪というべきか、講演の後では会場から幾つも鋭く率直な質問があり、私もたいへん勉強になりました。そしてこの大阪での講演をきっかけに、今後は「政府通貨」と「ベーシックインカム」という言葉を止めて、その代わりに「国民通貨」および「(基本)国民配当」を使うことにしました。

 

その理由ですが、会場からの質問で、「政府通貨」と聞くと政府がある日号令を出して自分の預金や保険契約などがパーになるという過激なデノミのようなものをイメージする人が多いことが分かったからです。実際には、銀行券と国民通貨が共に流通する移行期間があるでしょう。しかしイメージだけが問題なのではない。私が安易に「政府通貨」という言葉を使ってきたことが、もともと問題だったのです。会場からのもうひとつの質問が、そのことを私に気付かせてくれました。それは「通貨は公共の利益のために超党派的かつ民主的に発行されるべきということは分かった。だがこれは、政府通貨とベーシックインカムは今後も実現できないということではないか」という質問でした。これは当然の疑問です。政府通貨ときけば、議会制国家の枠内で、政権与党が政権維持を目的に党派的に発行する通貨になってしまう。実際、今の自民党政権は経営危機の東電救済のために無利子で公金を融資しています。こういう悪質な党派的政府通貨はすでに実現しているのです。中国の人民元も一種の党派通貨でしょう。「政府通貨」という言葉がこうした党派通貨を容認するものと受け取られるようなら、この言葉は使うべきではありません。

 

このように議会と政党の国家体制は、通貨の公共的な発行と管理、それによるベーシックインカムの支給とは原理的に両立しえないのです。もともと議会制は銀行経済とそれを補完する租税国家を前提とし、徴収した税金に使途を審議するための制度です。だから議会からは、政権与党による党派通貨以上のものは出てきません。議会は銀行経済と一体である以上、脱銀行の通貨改革はできません。だからベーシックインカムも実現できません。租税国家には、全国民にまともなBIを支給できるほどの税収はないからです。それでも国家がBIの導入を検討すると言い出した場合は、それは福祉合理化が狙いです。今の経済危機の中で戦後の福祉国家は完全に破綻しています。だから財政難の国家としてはBIと引き換えに社会保障を全廃できれば大助かりです。今フィンランドが検討している案は、まさにそういうものです。

 

私は以前から通貨は議会や官庁から独立した国家信用局が経済統計を踏まえて発行することが望ましいと主張してきました。これは国民の国民による国民のための通貨です。だから「国民通貨」と呼ばれるべきです。そしてこの通貨の使途も公的民主的に協議され、社会の合意に基づいて決められる必要があります。さもなければ国民通貨とは言えません。だから通貨改革とBIを実現するには、やはり国家体制の転換が必要です。その場合、デモクラシーの老舗のスイス連邦がひとつのモデルになりうるでしょう。スイスでは議会の権力はカントンの自治権および国民投票制によって制約されています。そのうえその議会も、一定の得票があったすべての党は入閣するので、議会は世論が代表される場であり、与野党の政権争奪戦の場ではありません。こういう体制なら通貨の使途は厳しくチェックされ、国民通貨が党派通貨に堕する恐れはきわめて少ないでしょう。スイス連邦は議会制国家というよりカントン中心の地方自治体連合国家なのです。このことがスイスを経済的デモクラシーにも適した国にしています。

 

今日どこの国でも議会と政党の国家体制は崩壊の過程に入っています。議会政治は銀行経済を前提にしていて、銀行は果てしない経済成長なしには存続できない。だからゼロ成長で銀行が破綻した現在、議会政治は空回りするだけの茶番劇に堕しています。アメリカのトランプの当選は共和民主の二大政党制が死んだことを意味しています。また議会制発祥の地英国で、EU離脱という一大事が国民投票で決まったことの意義はどれほど強調されてもいい。また昨今EUで急伸している反EU反ヨーロ反移民の諸政党は政党のかたちをとってはいますが、議会に党員を送り込むことより自治体を押さえることを重視してきました。その結果。グローバリゼーションに切り捨てられた地方の庶民を代弁する勢力としてEUの政治を揺るがすに至っています。日本でも遠からず国政の焦点は、中央の国会から地方自治体に移っていくと私は見ています。日本でもローカリゼーションのうねりが生じるでしょう。そして通貨改革とBIがローカリゼーションの中心的な戦略になるでしょう。

 

 今私はベーシックインカムと言いましたが、今後はもうこれを使わず、代わりに「(基本)国民配当」というという言葉を使うつもりです。誰が「ベーシックインカム」を最初に使ったのか私は知らないのですが、この言葉には戦後の先進諸国のケインズ主義的福祉国家路線の匂いがします。だからフィンランドがやろうとしているような福祉合理化に、この言葉はよく馴染む。「所得」というのはエコノミストの用語で、ヘリコプターマネーを大衆にばらまいて有効需要を大量に創出という彼らの上からの発想にも馴染みます。それに「所得」というから、働いていないのになぜ所得があるのか、といった疑問異論を招きやすい。

 

ダグラスがBIと言わずに「国民配当」という言葉を使ったことには理由があります。彼の課題は福祉政策でもマクロ経済の管理でもなく、経済的デモクラシーの実現でした。そしてこのデモクラシーの根幹をなすのは、すべての国民の貨幣=購買力への権利です。ダグラスが言うように、富の生産は人類が車輪やバネを発明して以来蓄積してきた文明の遺産に依拠しています。だからすべての国民には文明の相続人として国民経済が許すかぎりの配当をもらう権利があります。資本の所有者にだけ株や債券といったかたちで特権的配当があって、庶民には雇用による所得があるだけという経済体制は、デモクラシーではなく近代的農奴制とでも呼ぶべきものでしょう。ですから一国の経済生活に参加しているすべての国民には一定の配当をもらう権利があるのです。これは道徳的理想や過激な政治的信条などではなくて、近代経済の現実に根差した国民の基本権です。この基本権を無視すれば、富の極度な偏在が円滑な経済循環を妨げ、1%のスーパーリッチと99%の一般国民に引き裂かれた経済社会は破滅に向かいます。このままでは遠からず銀行経済は全面停止状態に陥り、文明は崩壊します。その兆候はすでに出てきています。だから今こそ、すべての国民のお金への権利が承認されねばならない。われわれが必要としているのは、お上が恵んでくれる「所得」ではなく、配当への当然の権利なのです。

仮アップ 関曠野講演録 IN 應典院「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」(大阪)

 

2016年11月19日 於:大阪・應典院

 

「銀行は諸悪の根源 ― どうしたらおカネを『みんなのおカネ』にできるか」

講演者:関 曠野

 

この講演録は、関曠野さんがお話しされた内容に加筆・訂正していただいたものです。

 

主催:ベーシックインカム・実現を探る会、ベーシックインカム勉強会関西

 

 

 

 

「銀行は諸悪の根源~~どうしたらお金をみんなのお金にできるか」 

関曠野(思想史家)講演録 IN 應典院(大阪)

 

 

トランプパニックの意味

 

まず初めにアメリカでトランプが大統領に当選してしまったので世界的に大騒ぎになっていますね。柄の悪いドナルドダックみたいなおっさんが大統領になっちゃった。これは大変だというので、特にグローバリゼーションを推進してきた各国の体制エリートはパニック状態と言っていい。私自身はトランプの当選よりも彼の当選に対する世間の反応の方が気になります。

人間としてはトランプよりも前のブッシュの方がよっぽどでたらめだと思うんですよ。

しかしブッシュが当選した時にはパニックは起きなかった。なぜトランプの当選でこんなに世間が大騒ぎになっているのか。これはやはりね、トランプ自身の人物評価はどうであれ、トランプが当選したことの意味を世間が薄々解っているからだと思います。アメリカが主導してきた戦後の豊かな工業社会が終わろうとしている。いや、終わるというか崩壊しようとしている。その予感があって、トランプがその予感を象徴している。それだから世間がこういうパニック状態になっているのだと思うんです。けっしてこれはトランプという人間の素質の問題ではないと思います。

そういう意味で戦後が終わり新しい世界が始まろうとしている。その不安が今の世界を支配している。明らかに2017年以後世界はがらりと変わるだろうと思います。今の戦後の世界秩序がどのようにして生まれ、今後どのように変わっていくか、それが今回の講演のテーマですが、ともかく豊かな社会が成長の限界にぶつかって否応なしに終わらざるを得ない。これはトランプだろうがヒラリーだろうが安倍政権がいつまで続こうが、関係ない。終わらざるを得ないということですね。

 

自由貿易と軍事的覇権をやめる

 

そしてトランプ自身、まさに時代を反映した大変リアルなことを言っている。つまり自由貿易を止めると言っている。20世紀は戦争と革命の世紀といわれますが、これは皮相な見解です。この世紀は貿易の世紀でした。だが世界を動かしてきた自由貿易が終わろうとしている。これからのアメリカは保護主義、一国至上主義で行くとはっきり言っている。このトランプ原則はぶれないだろうと思います。それと自由貿易主義とワンセットになっていた同盟国の安全保障体制も見直し、同盟国に負担を要求するという。こういう形でアメリカはもう軍事的覇権を求めず、世界の警察官をやめると言っている。

この自由貿易とアメリカの軍事的覇権が戦後のいわゆるパックス・アメリカーナ、「アメリカの平和」の二本柱だった。2大原則だった。ところがこのアメリカ帝国をもうやめると言ってるわけです。これは大変なことです。驚天動地の変化といっていい。だからこそマスコミはこの問題を論評しないで、トランプが女性に失礼なことをしたとか、そういうことばかり騒いで、話をすり替えようとしています。トランプは確かに飲み屋で気炎を上げているような感じのおっさんですけれど、原則は原則でものすごくはっきりしている人です。それをマスコミは徹底的に無視している、それが庶民の怒りを買って彼の当選になったんではないだろうか。

 

右翼左翼図式からグローバルVSローカル図式へ

 

何はともあれトランプの人物評価は別にして、歴史的な転換が不可避に起きようとしています。私の言葉で言いますと、グローバリゼーションが終わってローカリゼーションの時代が始まろうとしている。世界を単一の市場として統合しようとするグローバリゼーションの動きが終わって、これからは国民経済が復活する、さらに国民経済の中でも地域経済が復活する。そういう時代が始まろうとしている。また我々自身が積極的にそういう時代の転換を促進しなければいけないと考えています。

それからもう一つ、トランプの当選がはっきり示したことがあります。右翼左翼という従来の政治パターンではまったく理解できない時代が始まりました。これは非常に重要です。トランプ当選は彼の勝利というより、ヒラリーと民主党の敗北という要素の方が強かったと言えるでしょう。トランプはそんなに評価しないけれども、ヒラリーと民主党はもっと嫌だという庶民の空気があったようです。その結果、アメリカでは民主党が代表する左翼、それからトランプを露骨に誹謗中傷したマスコミが信任を失った、失権したと私は思っています。これまで左翼とマスコミは「我々は人民の利益を代表している」と称してきた。それが庶民の信任を失った。おそらく今後左翼とマスコミは消滅に向かっていくでしょう。だからと言って右翼の時代が来るわけではありません。さっき言ったようにグローバルかローカルかが現代政治の焦点になってきています。これからはローカリゼーション、ローカリズムの時代が始まるということです。

 

なぜ、左翼は失権したか

 

では左翼はなぜ失権したのか。1960年代にマーティン・ルーサー・キング牧師がアメリカの公民権運動を指導したことはご存知と思います。最後は暗殺されましたが。彼はなぜ黒人はいつまでも低い地位に留まっているのかという問題を考え抜きました。そして黒人には貧困な母子家庭が多い。その貧困な母子家庭が黒人の貧困を再生産しているという結論に達したんです。それで黒人の解放に本当に必要なのはそういう貧困な母子家庭を消滅させるベーシックインカム(以下BI)だと考えるようになった。これが彼らのいわば遺言だったと言えます。BIによる黒人の解放。特に女性の解放、母子家庭の貧困の解消。

ところがですね、アメリカ民主党はこのキング牧師の提言を全く無視しました。とにかく経済成長主義だったわけです。これからの経済はグローバル化で成長するということで、結局財界の別動隊となってグローバリゼーションの片棒を担いできたのがアメリカやヨーロッパの左翼です。ま、日本も似たようなもんだと思いますけれど。この財界協調路線がグローバリズムで痛めつけられた庶民の怒りを買った。経済成長主義ということでは左翼も右翼もない。左翼は実はエリートとグルなんじゃないかと庶民は疑い始めた。そうはいっても左翼っていうのは一応社会正義を代弁しているような顔をしなくちゃいけない。そこでアメリカ民主党に代表される左翼は、富と権力の公正な分配という問題を差別問題にすり替えたんです。富と権力の不公正な分配に対する抗議を差別の糾弾にすり替えたのです。それであちこちで差別現象と称されるものをほじくりだして騒ぎ立て、それで社会正義の代表者みたいな顔をする。それも言うにこと欠いてハリウッドで黒人俳優がオスカーをもらえないのは差別だとか、そんなことを言ってる。それにアメリカの庶民の堪忍袋の緒が切れたということがあると思います。

 

壊し屋、トランプ

 

だからトランプという人物自体は私はあまり問題にする気はないんです。アメリカの大統領というのはかなりマスコットの要素があってそんなに実権を持っているわけじゃない。ただ一つ違うのはブッシュでもクリントンでもオバマでも結局はアメリカのいわゆるディープステイトと言われる本当の奥の院の支配層のいうことを代弁しているだけでした。トランプはアメリカ帝国を壊そうとしている。これはやはりこれまでとは違うんじゃないか。ホワイトハウスの招き猫では済まないのではないか。そういう意味では人間のタイプは全く違うけれど、トランプはちょっとゴルバチョフに似た役割を果たすかもしれない。つまりトップダウンで体制を壊す。そういう人間になる可能性がある。それは別に革命思想を持っているということではなく、庶民層の怒りを代弁をしている限りにおいて、またアメリカ社会の停滞と混乱を何とかしなければと思っている一般のアメリカ人の気持ちを代弁している限りにおいて、トップダウンで体制を壊す人間が登場した。そういう見方もできると思います。 ただしトランプの任期中にアメリカ経済は連銀の誤魔化しに限界がきて最終的に崩壊する可能性がある。これは誰が大統領やったって打つ手がない問題ですが、それが全部トランプの無能のせいにされる、そういうスケープゴートにされる危険もありますね。その時になって「大統領なんてヒラリーにやらせておけばよかった」と後悔するかもしれません。

 

アウトサイダーのトランプ

 

トランプは何をやるかわからない危険人物のように思われていますけれど、私にいわせれば彼は大変わかりやすい単純な人ですよ。まずたたき上げの一匹狼の実業家です。だからエリートのサークルには属していないアウトサイダーです。もう一つ不動産屋ですから基本的に内需で食っている。だから国民の懐が温かくないと自分の商売も廻っていかないのでグローバリズムには反対なんです。経済を統計数字でしかみていないエリート層と違って、商売柄庶民の生活の実情を知っている。彼の政策も、周囲に色々わけのわからない連中をかき集めていますが、別に特定のイデオロギーがあるわけじゃない。要するに景気のよくなりそうなことなら何でもやる、見境なしにやるということです。非常に単純なんです。

しかもむちゃくちゃなこと言ってる。地球温暖化論議はアメリカの製造業をつぶそうとする中国の陰謀だなんて言っている。しかしですよ、トランプが本気で保護主義をやって世界貿易が縮小すれば、温室効果ガスの排出は劇的に減ります。温暖化について正確な科学的知識を自慢するインテリはここ何十年現実を一ミリも変えてこなかった。むしろ温暖化についてむちゃくちゃなことを言っているトランプの方がよほど温室効果ガスの排出を減らす可能性があります。政治家は学者じゃないんですから、これでいいんです。

 

経済戦争をしかけるトランプ

 

ただ景気を良くするためには何でもやるというので、かなり矛盾したことを言っている。企業の法人税を大幅に下げる。その一方で財政出動してインフラ公共事業をどんどんやるという。これ矛盾してますよね。じゃ、減税しながら財政出動するための財源はどうするんだ。この点では、トランプは外国との経済戦争である程度財源を作ろうとしているのではないか。そうすると関税などで増税なしに税収が増える。だから中国からの輸入品には45%の関税をかけると言っている。日本に対しても、ご存知のように在日米軍の駐留経費を日本に全部負担させようとしているし、ヨーロッパに対してもNATO関係の費用を全部ヨーロッパが持てと言っている。要求はこれに留まらないと思います。彼は破産するたびに借金を踏み倒してのし上がってきた男で、その政策を対外的にもやる可能性があると思います。日本はアメリカの国債を厖大に持っていて、毎年アメリカから8兆円の利子収入が入ってきている。トランプはひょっとしたらですが、日本が汚い商売をやって買ったアメリカ国債なんだから利子を払う必要がないとか、払っても1兆円に負けろとか言ってくる可能性があると思います。とにかく彼は外国との経済戦争は本気でやる気です。それ以外に財源の当てがありませんから。

 

「逆=黒船」へ

 

でもトランプのアメリカがそういう経済エゴに徹するのは私としては大歓迎です。おかげで日本もグローバリズムから脱却して経済的にも主権国家になり国民経済を立て直す、地域経済を再生させる。それ以外に選択肢がないということがはっきりしてくる。だからトランプのアメリカの自国中心主義は高く評価しています。とにかくこれで戦後日本が一貫して国家存立の前提にしてきた自由貿易とアメリカの覇権が消滅することになります。これからの日本はもう戦後の延長線上にはありません。トランプのアメリカという「逆=黒船」で、日本も鎖国ではないけれど、貿易をあてにしない内需中心経済への転換を迫られています。

 

お金とは、生産と消費を仲介するもの

 

今日のメモにあります本題に入ります。まずお金ということですけれどもね。お金は生産と消費を仲介するものです。つまり生産されたサービスや商品をお金があるから買えて消費するという単純な話ですね。お金は生産と消費を仲介する。だから貨幣というものは、消費を促進するためにあるのです。このことをしっかりと考えていけば世の中の仕組みが良く見え来ます。そして近代国家というのは根本においてお金の流れとして組織されています。国家というと我々はつい法律中心に考えていますけれど、法律というのは国家の骨格みたいなものです。国家の血液として循環しているのはお金なんです。だから国の実態はまずお金の流れとして解明すべきなのです。そのように解明していくと物事が良く見えてくる、何がどうなっているのかメカニズムがよくわかってくる。

 

銀行業に管理されているお金の流れ

 

そこで現状でのお金の流れですが、私企業である銀行がお金の流れをコントロールし、管理しています。日銀は資本金をもって設立された、株式も発行している私企業です。私企業が日本という国を取り仕切っている、内閣だの財務省の官僚だのはいわばその番頭に過ぎない。見かけだけの権力しかもっていない。日銀の正体は銀行業界のカルテルです。そして銀行業界が金の流れをコントロールしている以上、銀行が影の支配者として日本国家を取り仕切っているということです。

そしてこのお金の流れを血液循環に例えるならば、そこに極度の淀みや歪みが生じている。その結果お金の流れが滞って脳血栓や動脈瘤とかそれに近い現象が起きている。それが今のデフレなんですね。どうしたらお金の流れが再び順調に血液のように循環するようになるか。それが私が前から提起している問題で、BIもその一環です。BIは福祉じゃありません。お金の流れの淀みや歪を無くすための政策です。どうしてこのお金の流れに淀みや歪みが生じるのか。

 

C・H・ダグラスのA+B理論

 

20世紀初めにこの問題を最初に解明したのが英国のエンジニアのクリフォード・ヒュー・ダグラスという人です。私もこの人からお金の流れについての考え方を学びました。この人のことについては私も再三話しているので今日は延々と話すことはしませんけれども。

この人の重要な議論はA+B理論というものです。メモに書いてありますけれども。企業の帳簿を見てどういう風にお金が支出されているのか見てみましょう。そうすると従業員の賃金給与に支出されている部分Aがある。もう一つは生産のための原料と生産設備に関連して支出されている部分Bがある。原価償却とかそういう形で。そしてダグラスが発見したのは、どこの企業の帳簿でもA<Bだという事実でした。どの企業もAに比べると生産設備関係の支出Bの方が遥に大きい。しかしここには深刻な矛盾がある。企業が生産した商品を市場で売る際の価格は、このA+Bに銀行への利払いや利潤を上乗せしたものです。ところがそれを買う勤労者大衆にはAの所得しかない。しかも彼らだけが商品を買ってくれる消費者なのです。このように消費者の購買力という視点から見ると、企業が生産した商品の一部しか勤労者は買い取れない。すべてを買い取ることはできない。この基本的矛盾の結果、結局企業は売れ行き不振で生産過剰に苦しむ一方、勤労者の方は所得不足、必要なものさえ買えない所得不足に苦しむと。これは企業の会計構造それ自体に根差した問題です。企業の帳簿はあくまで効率的な生産のためのもので、消費には関係がないのです。ただしこのA<Bのギャップはタオルを作っている町工場のレベルなら大きな問題にはなりません。だが19世紀末以降、企業の機構が巨大化複雑化して、生産設備の刷新や研究開発に巨額の投資が必要になってくると、深刻な矛盾になってきます。

 

利払い銀行融資がマネーを歪める

 

さらに企業の機構が巨大化複雑化してくると、どんな企業でも銀行からの融資が必要になってくる。そうでなければやっていけない。トヨタクラスの巨大な多国籍企業だって銀行からの融資無しには回っていかない。そうなると銀行からの融資には利子を付けて返さなければいけない。利子というものは全く不生産的なものです。銀行は何も生産していない。生産に関係ない利子というもので儲けている。銀行は通貨の使用権に利子という価格を付けて売っているわけです。しかも利子はどんどん増えて、場合によったら複利で元本を上回るほどの額になる。こうして企業会計の中で銀行への利払いという不生産的なものが占める比率が大きくなっていきます。そうなると今お話したA<Bの矛盾に加えて銀行への利払いがお金の流れを歪めてしまう。この二つがお金の流れを淀ませ歪ませる根本原因です。

商品の価格には銀行への利払い分も上乗せされているので。ドイツのある研究によると商品価格の三分の一から約半分が銀行の利払い分だそうです。そういう形で経済の非生産的な部分が拡大していく。この二つの要因がやがて恐慌を発生させます。デフレになり、デフレはいずれ恐慌になります。

 

資本主義の矛盾をはぐらかすアメリカ

 

しかしここで疑問が生じてきます。ダグラスが論じたように現代経済の土台にそんな矛盾があるならば、なぜ資本主義は存続してきたのか。資本主義はあっという間に崩壊してしまったのではないか。実際英国人のダグラスは産業革命以来の資本主義の発展は宿命的な限界にぶつかったと見ていたのです。ところがアメリカがダグラスに対する答えを用意していました。第一次界大戦に参戦したのをきっかけに経済超大国にのし上がったアメリカは、ダグラスが指摘した矛盾をはぐらかすような新しいタイプの資本主義を作り上げた。それが20世紀の先進諸国を支配することになりました。

どういうことかというと、まずフォードシステムですね。自動車王ヘンリー・フォードは自動車の生産を徹底的に合理化して安く車を作れるようにし、労働者に自分たちが作ったT型フォードを買えるような高い賃金を払うことにした。これでA<Bの問題がはぐらかされたのです。第二に、勤労者大衆、消費者の所得不足の問題です。これには月賦販売方式で対処した。ローンというものを作りだして、普通の勤労者でも車や住宅のような高価なものを月賦で買えるようにした。このフォード・システムとローンによってA<Bのギャップという問題をはぐらかし先送りすることに成功した。これがアメリカの消費社会の特徴なんです。

 

石油という魔法が資本主義の矛盾を先送りに

 

 アメリカはこの問題をはぐらかしたり先送りしできた背景には、20世紀初めのアメリカは世界最大の産油国で、産業の一番の原動力である石油が安く豊富に買えたということがある。石油は英国の産業革命を可能にした石炭と比べても比較にならない優れたエネルギー源です。石油という魔法の資源のおかげでダグラスの指摘した矛盾を先送りできた。逆に言うと石油の価格が高騰してくるとアメリカの資本主義は行き詰る。実際それが石油ショック以来の状況です。

しかしご存知のように1930年代にアメリカは大恐慌に直撃され、労働者の4人に1人が失業という事態になります。してみればアメリカはダグラスが指摘した問題をはぐらかしただけで解決することはできなかったんですね。結局A<Bと銀行マネーの問題で格差が拡大した。階級、階層、職業別、地域格差が拡大していた。この富の分配の歪は他方では余り金によるバブルを惹き起こし、それが繁栄するアメリカという幻影を生みだしていた。そしてこの幻影が消えて景気が一気に悪くなると銀行に対する負債が重くのしかかってきて経済のブレーキになる。ということで大恐慌になった。お金の流れにおける脳血栓や動脈瘤がポックリ死をもたらした。

 

「自由貿易」で体制矛盾を輸出する

 

それでは、どうやってこの恐慌を打開するのか。これは富と権力の公正な分配という形で解決するしかない問題です。しかし当時のアメリカのエリートにはそれをやる気などない。そこでエリートが出した結論は、この矛盾を貿易による経済の拡大と成長で先送りにするということでした。英国のような植民地帝国のブロック経済を戦争で叩き潰し、アメリカの覇権の下でグローバルな自由貿易の国際秩序を作り出す。富と権力の歪んだ分配という問題はニューディールで多少手直ししただけで、そのままにしておく。そして矛盾のツケを外国に輸出することで問題を先送りにする。これが「自由貿易」という言葉が意味していることなんです。「自由貿易」とは、自国の経済の歪みや矛盾、体制の危機を他国に輸出することです。そういう形で外国に矛盾のツケを回し外国の富を貿易で奪って経済を成長させる。経済が成長すれば多少は富のかけらを勤労者大衆にも分配できるということでね、問題を先送りできる。他方で、戦間期、第一次大戦と第二次大戦の間の時期は貿易戦争の時代ですね。ダンピングとか、いわゆる隣人窮乏化政策がまかり通った。更にダンピングが高じて通貨戦争になる。自国の通貨を切り下げて輸出を有利にする。アメリカはこういう貿易戦争通貨戦争を予防できる国際秩序を作ろうとしました。

 

グローバル貿易VSブロック経済

 

この結果20世紀はアメリカが主導する貿易の世紀になりました。20世紀はアメリカの世紀であり、それはすなわち貿易の世紀であった。20世紀はよく革命と戦争の世紀だと言われますが、これは皮相な見解です。20世紀は実は貿易の世紀なんです。

第二次大戦の原因はふたつあります。ひとつは、一国資本主義の限界という問題。もう一つは完全雇用が先進諸国の最大の政策目標だったことです。一国資本主義の限界。現代企業の巨大な生産力にとっては、どんな大国であってもその市場は狭すぎ資源は少なすぎる。そこで日本とドイツは大英帝国型のブロック経済。植民地の資源と市場を持つ経済を作ろうとして戦争に訴えた。ドイツはレーベンスラウム、生存圏、日本は大東亜共栄圏という形でブロック経済を実現しようとした。アメリカはそれに対して世界全体が市場になるグローバル貿易を目指した。アメリ企業の巨大な生産力からすると、アメリカのような広大で資源に富む国でも狭すぎる。結局第二次大戦は、このアメリカのグローバル貿易主義がドイツと日本のブロック経済主義を叩き潰した戦争でした。

 

ブレトンウッズ体制という飴と鞭

 

そしてアメリカはまだ戦時中の1944年にアメリカのブレトンウッズという田舎町で連合国の関係者を集めて会議を開いて、世界の戦後の通貨貿易体制を構築します。第二次大戦後はこのブレトンウッズでアメリカが作り上げた通貨貿易体制が西側の先進諸国を支配します。これはメモにも書いてありますように、アメリカの戦略目標は、この通貨貿易体制によってふたたび恐慌や戦間期に起きたような通貨戦争貿易戦争が起きないようにすることでした。そのためにはどうしたかというと、ドルを金で裏付けて、そのドルを世界貿易の準備通貨決済通貨にする。金1オンスを35ドルと定める。その金で裏付けられたドルを基軸に世界各国の通貨の相場を定め固定相場にする。

だから例えば1ドルは360円として1970年代の始めまでこの相場は変わらなかった。そしてドルの価値を保証するために各国に輸出で稼いだドルは要求すれば金と交換しますよと約束する。そういう形でドルの流通を確実にする。こうしてアメリカの同盟国であればこのシステムに乗っかって世界中の資源と市場に自由にアクセスできますよと保証する。

他方でこの体制から逃げ出されちゃ困るので同盟国に米軍の基地を置く。安全保障体制と称して。だからアメリカが同盟国友好国に基地を展開しているのは冷戦でソ連と対抗するためというのは口実に過ぎなかった。本当は同盟国の主権を制限するため、同盟国の首に首輪をつけるためのものなのです。ヨーロッパや日本の米軍基地はそのためのものです。

だからこれは飴と鞭ですよね。アメリカの体制に従順に従っていればちゃんと資源と市場へのアクセスは保証される。だがアメリカの後見なしに主権を行使しようとすれば軍事基地を置かれているので圧力をかけられる。現に1950年代にエジプトのナセルがスエズ運河を国有化した時に英国とフランスはそれを阻止しようと現地に出兵しましたが、アメリカの圧力で結局撤兵せざるを得なかった。そういうことです。

 

変動相場制移行の意味が重要

 

ところがこのブレトンウッズ体制は、1971年のニクソン大統領声明で終焉します。ニクソンはドルと金の交換を停止すると宣言し、これ以後ドルは金の裏付けがないペーパードルになりました。ドル基軸の固定相場制の下で戦後の世界貿易はほとんどドル建て決済になりました。だから外貨としてドルを持っていない国は貿易に参加できない。そういう体制だったので、ドルがペーパードルになったからといってもドルを使うのを止めることはできない。それでは、ドルの価値は何で決めるかというと、その時その時の為替相場で決めようという変動相場制になるわけですね。この固定相場制が変動相場制に変わったことの意味をちゃんと理解している人が本当に少ない。経済学者でさえもわかっていないのが、たくさんいる。しかし実際今の世界の騒ぎは全部変動相場制が原因なんですよ。だから変動相場制が意味するものをきちんと押さえておく必要があります。

アメリカがドルと金の交換を停止した理由ですけれども、ひとつは日本やヨーロッパが戦災から復興してきて、競争力をつけてきたのでアメリカは当初のゆるぎない超大国ではなくなった。相対的にアメリカの地位が低下した、ゆるぎない大国ではなくなったということです。戦後は先進国の繁栄で、経済規模が巨大に拡大したものですからアメリカが保有する金を要求されたら金庫がすっからかんになってしまう。とくに重要なのは石油価格の問題でしょう。この頃までにアメリカの油田は枯渇しはじめていた。だが石油の需要は増える一方で、アメリカも膨大な石油を輸入せざるをえなくなった。この状況でドルと金を交換していたら、アメリカが保有する金はあっという間になくなってしまうでしょう。ニクソン声明はアメリカにとってはやむをえない政策の変更でした。

 

固定相場制の歴史的意義

 

とにかくこういう形で変動相場制になった。それで、変動相場制とは何なのかということなんですけどね。

しかしその前にブレトンウッズの固定相場制の歴史的な意義を考えてみてたいと思います。終戦直後から1970年までの時期の銀行の融資は、各国の戦災からの復興なり、各国経済の発展に貢献する社会的役割を期待されていたのです。単なるもうけ主義の融資じゃなくて社会と経済への貢献が期待されていた。その背景には大恐慌への反省もありました。銀行がもうけ主義の融資に走ったことが大恐慌の原因になったという反省もあって、社会的に責任ある融資ということが強調された。

融資には公共的責任があるとされた。自分勝手なギャンブル的融資はしちゃいかんと法的な規制が一杯あったわけです。銀行の社会的責任ということが1970年までは強調されていて、銀行もそれを無視することはできなかった。

 

変動相場制がカジノ資本主義を生む

 

それが変動性相場制になったらどうなるか。各国の通貨の価値は刻々変動する為替相場で決まる。つまりドルだの円だのポンドだのマルクだの、各国の通貨が株と同じものになるということですよ。そうなるとトヨタ、日産、ホンダのどの株を買ったら一番儲かるかというのと同じ発想で通貨が扱われる。通貨が純然たる金融資産になるということです。各国の国民経済がお金の流れとして組織されているということなど無視されてしまう。とにかく手持ちの金をうまく転がして金融資産をどんどん増やす。そういう姿勢で銀行が融資するようになる。そうなると資本市場はカジノに似たものになってしまう。通貨は金転がし。銀行と富裕層による投機の対象になる。どの株買ったら儲かるかと同じ調子で通貨が売られたり買われたりする。銀行は社会と経済の実態を無視して純粋に利子収入だけを目的に金を貸すようになる。

本来資本市場というものは、社会にとって必要な資金を供給するためにある。資金の需要と供給のバロメーターとしてある。それが社会の実体経済を無視してギャンブルの舞台にになるわけです。だから1970年代以降カジノ資本主義という、社会の実態に関係のない資本主義が発生してくる。そのカジノのおこぼれの金が我々庶民や小さな企業に多少回ってくる、そういう状況になる。銀行の社会的責任が一応強調された固定相場制が変動相場制に変わって、銀行がギャンブル業になってしまった。これが現代のさまざまな危機の根本的な原因です。

 

資本主義とは何か~生産の三要素

 

そこでちょっと視点を改めて資本主義とは何なのかを考えてみたいと思います。資本主義というのは難しく考えればえらく難しい問題になるけれど、簡単に考えるとえらい簡単な話なんです。今日はその簡単な方で行きます。

まず生産の三要素は、資本と土地と労働です。この三つの要素がないと生産は成立しません。資本というのは何かというと、お金のある人が生産のための道具や設備を買うとそれが資本になる。例えば印刷会社を始めようと思って印刷機を買ったらそれが資本になる。大工さんが金槌を買うのも資本です。土地というのは単なる地べたのことではなくて、農地になったりするし地下資源があったりする、いわば資源としての地球のことですね、これが土地です。それから労働はもちろん人間の労働ですけれども、人間は労働しながら生活しているわけで、いわば労働とは生活者としての人間のことです。(板書)

ですから例えば江戸時代の日本だって生産はこの三つによってやっていたわけです。

ただね、生産には資本が必要だからといって、そこからすぐに資本主義が生まれるわけではない。資本主義が生まれるためには、江戸時代の日本にはなかったような特殊な状況が必要なのです。それは、僅かな資金で大儲けできる一攫千金の機会がいくらでもあるような状況です。こうした状況があって、ちょっと何かを作ったりちょっと運んで売ったりするだけで、たちまち原資の何十倍もの金が入ってくるぼろもうけのチャンスがあったら、お金は資本として貴重になりますね。

 

資本主義の発生~資本の商品化

 

近代の初めにヨーロッパ人が新大陸アメリカを征服した段階でそういう状況が生じました。とにかくわずかな金で大儲けができる。そうなると資本はものすごく貴重になる。たとえばアメリカで奴隷を使って煙草を栽培し葉巻にしてヨーロッパに運んで売れば莫大な儲けになった。ちょっとでも資本があればそれでぼろ儲けできる。だからぼろ儲けを可能にする資金として資本自体が商品化されます。で、この資本の商品化をしているのが銀行なんです。17世紀の英国でイングランド銀行という形で最初の近代銀行が生まれました。英国がカリブ海の植民地のプランテーション経営などでぼろ儲けできる状況が生じた中で銀行が成立しているわけです。銀行はお金そのものを売っているのではなく、お金の使用権を売っています。そして、貨幣の使用権に利子という価格を付けて売っているのが銀行です。そうやって資本を販売している。市場で儲ける機会に比べて資本が少ないから、希少だから、資本に非常に貴重な価値があるから銀行の商売が成り立つ。だからぼろ儲けの話が少なくなったら、資本主義も銀行も消滅するはずなのです。そして現に消滅し始めている。それが世界経済の現状です。今の世界にぼろい儲け話は滅多にありません。

コツコツと地味な商売をやるしかない。現代経済の基調は否応なくそうした方向に変わってきています。

 

国際金融資本と主権国家の対立

 

ところがですよ、変動相場制の下では銀行主導で経済が純粋な商品としてのお金で動いているから、経済自体が金融化してくる。アメリカの場合、1980年代ぐらいまではGDPに金融業が占める比率は20%だったのが、今は40%を越えています。経済の半分近くが純粋に金融業界の取引額になっている現状です。そうなると金融資本というカジノ業界にとっては、先ほど言った生産の三要素のうちの土地と労働という存在が邪魔になってくる、儲けに対する制約になってくる。銀行の儲けというのは純粋に帳簿上の数字の問題です。だが土地と人間は現実の存在です。そこから軋轢や衝突が生じてくる。それも高度経済成長期によくあった、銀行が融資した開発業者のプロジェクトが地元住民の反対で潰れるといった次元のものならまだいい。現在この問題は、国際金融資本と国民全体の衝突にまでエスカレートしています。

国家は領土と人民によって成立しています。だからどんな国家でも土地と労働(人間)を代表せざるを得ません。そのために国家は資本にとって制約になってくる。国境などにお構いなく無制約に自由に動きたい金融資本には邪魔になってくる。しかし銀行という組織を成立させ、その営業利益を保証しているのはあくまでも国家が定めた法律なのです。国家の法律があるから銀行業が成立しているんです。にもかかわらず銀行には国家が邪魔になってくる。だから出来るだけ国家の制約を逃れようとする。それには当然国家の方からの反撃、特に国家を構成している人民からの反撃がある。また土地という要素も人々が資本の無制約な自由に反撃する根拠になる。地球は人類のかけがえのない住み処であり、資本の儲け話で使い捨てにされてはならないという声が高まってくる。

こういう形で国際金融資本と主権国家の対立がだんだん深まってきてます。この対立はレーガンの時代以どんどん深まって、現在極限に達していると言えるでしょう。以上申し上げたように、金融資本が主権国家すなわち人間と土地に対立してその無制限な自由を追求すること。それがグローバリゼーションという言葉が意味していることなんです。

 

資本の国際移動の自由とグローバリゼーション

 

そしてグローバリゼーションの発端はやはり変動相場制にあります。変動相場制で銀行の在り方が変わり経済と社会を支配し、土地と人民はその商売の邪魔になってきたので、なるべく無力化させようとする。だからグローバリゼーションは銀行主体の金融的な現象で、それに付随して社会の変化、企業の変化などがあるということです。ではグローバリゼーションはどのようなかたちで進行したのでしょうか。まず最初は。資本の国際移動の自由です。つまり円で儲けた金でマルクを買ってそれでさらに儲けて、その儲けた金でドルを買うとか、そういう自由な金転がしができなきゃ意味がないでしょう?金融カジノというのは。一国内でゴタゴタやっても意味がない。昔は資本は国家に規制されて勝手に国外に動かせなかったのです。たとえば戦後まもなくの日本で資本を海外に自由に持ち出せたら戦災からの復興など不可能になるから勝手に持ちだせなかった。昔の庶民は海外旅行なんてできなかったですね。

まず資本の国際移動の自由が拡大して、資本には国境がなくなると今度は全世界を舞台にお金のギャンブルをやる時代が始まった。とにかく金が自由に動くから、儲からなくなると一斉に逃げ出す。例えば90年代のアジア通貨危機では、東南アジアとか韓国に出ていたアメリカの資本がどうも本国の方が利上げで儲かりそうだと一斉に引き上げられ、アジア諸国の経済がガタガタになった。韓国はそれで破産状態になりました。

第二に、変動相場制の下で企業の多国籍化が急速に進行しました。いくら資本が全能といっても国民を入れ替えたり土地を動かしたりすることはできない。じゃあ資本の方が動いてしまえということで企業の多国籍化が進んだ。銀行はすでに国際化しているが、それに加えてモノづくりをやっている企業も生産拠点をどんどん例えばアメリカから中国に移す。そういう形で企業もなるべく国民と国境から自由になろうとする。

 

変動相場制が「変動人口制」を生む

 

一番最後に、これが一番大問題なのですが、変動相場制がついに変動人口制を生み出すに至ります。とにかく金融のグローバル化と企業の多国籍化は完了したから、次には生産の三要素のうちの人間の要素を徹底的に資本のコントロール下に置きたい。世界の人口を流民化、流動化させ、各国の人口をメガバンクと多国籍企業の都合のいい数に絶えず調整しようとする。これを私は「変動人口制」と呼んでいます。今世界では難民移民の問題が最大の政治の争点になっています。英国のEU離脱やアメリカのトランプ路線もそのきっかけになったのは移民でした。マスコミは移民とか難民とか言っていますが、これは変動人口制という問題なんです。とにかく国境も文化も無視して各国の人口の数をGDPの拡大に一番都合がいい形に調整しようとしているのです。

そのいい例がメルケルがトルコの難民キャンプからシリア難民をドイツに呼び込んだことです。以前にはメルケルは「このままではドイツはモスクだらけのイスラム国家になってしまう」と言っていました。「多文化主義は失敗した」と言ってたんです。ところが一転してシリア難民を呼び込んだ。この180度の転換の原因はおそらくドイツの銀行の危機です。ドイツが大恐慌の震源地になりそうだとかなり言われています。ドイツ経済は中韓両国並の輸出立国で実は脆弱なところがある。この脆弱さをユーロを梃にしたを金融マネーゲームで補ってきた面があります。ところがリーマンショック以来ドイツの銀行が抱えている金融派生商品やギリシャその他の国債がまとめて不良債権化した。金融で水膨れした経済が危ない。ドイツがこければEU自体もこける。そこで急遽難民移民で百万人くらい人口を増やせば、一時的にある程度消費が増えて、GDPが拡大する。それでGDPの予測数値を投資家に見せる。ドイツの銀行は危ないけれどまだ倒産しませんよ。ドイツはやっていけますよと投資家を説得する。このようなGDPの見かけのうえの数値稼ぎのためにシリア難民を呼び込んだ。おそらくこれがメルケルの豹変の真相です。

 

GDPのために利用される浮遊人口

 

シリアの内戦から逃れた人たちは隣国のレバノンやトルコの難民キャンプにいく。この段階では彼らは難民です。だがそこからメルケルの呼びかけに応じてヨーロッパに移動した人たちは流民というか、浮遊人口と呼ぶべき存在です。フローティング・ポピレーション。グローバリゼーションはここまできた。変動人口制で浮遊人口をあちこちに絶えず移動させてGDPの数字を一時的に改善する。それで投資家や金融業界を納得させる。まだうちのGDPは伸びますよと言って納得させる。移民を入れるのは財界が低賃金で働く奴隷労働者が欲しいからだという人がいます。しかし移民を労働力にするためには言葉や技術の習得とかに何年もかかるでしょう?今のグローバルな金融危機の中で各国のエリートにはそんな悠長なことを考えている余裕はありません。とにかく浮遊人口で自国の人口を増やして消費を拡大しGDPの数値を瞬間風速でいいから上げられればいい。当座の消費が増えればいい。そういうことです。GDPの数字は金融界が物事を考える際の唯一の尺度ですから。

 

右翼ではない反移民運動

 

ですからこういう政策に反対しているヨーロッパの反移民運動は人種主義の差別と偏見に基づく右翼的な運動なんかじゃないですよ。落ち着いた生活がしたい、安定し安心できる生活をしたいという庶民のごく普通の気持ちを代弁しているだけなのです。だからそういう意味で、英国のEU離脱とか、アメリカのトランプ当選は当然の民意の反映だと思っています。右翼の勝利などではありません。こうして変動相場制は、為替相場だけじゃなくてありとあらゆるものが絶えず目まぐるしく変動する世界を作りだしてしまった。目を覚ましてみたらアパートの隣室で外国人が騒いでいるとか、そういう社会が作りだされた。

さらに今の社会で餓死する人はめったにいないとしても、雇用が不安定になった。だから昔のプロレタリアートではなくて今はプレカリアート、不安定労働者という言葉が広まっていますね。結局今の社会の一番の問題は、社会の安定したパターンが崩れてきて将来を見通すことが困難になっていることでしょう。すべてが絶えずくるくる変わっていき明日は何が起きるか分からない。通常の人間の神経では耐えられないような社会が生まれてきた。これが現代社会の根本問題です。

 

経済の金融化の帰結~グローバリゼーション

 

ここまで1971年のニクソン声明以来の世界経済の金融化、グローバル化を説明してきました。そこでこの経済の金融化がもたらした三つの帰結をまとめてみます。

まず第一がグローバリゼーションですね。資本の国際移動の自由から始まり国際金融資本によって国の主権がどんどん形骸化していく。富がグローバル化の中でメガバンクとスーパーリッチに集中する。1%のメガリッチが後の99%の国民より多くの金融資産を持っている、富を持っているという状態が生まれます。銀行の課題は富を集中させてそれを投資することです。しかし現代の工業経済は以前から「成長の限界」という隘路にぶつかっています。だから銀行による富の集中だけが進行し、それが途方もない規模になっているのです。

 

経済の金融化の帰結~銀行負債という負の成長

 

第二に、銀行への負債が増えるだけの負の成長です。レーガンの時代以来、先進国は銀行からの借金で成長と繁栄の見かけを維持してきました。これは国債などで銀行への利払いが増える一方の負の成長です。そして今日の繁栄のために未来を質に入れている経済であり、その結果先進諸国では世代間格差が深刻化し、若い世代にツケが回っています。ローマクラブが「成長の限界」というレポートを出したのは1972年ですが、その当時から経済成長の限界は始まっていました。そのもっとも重要な指標になっているのは石油生産の逓減です。

有望な新油田も見つからないし、既存の油田は次第に枯渇していく。だから成長の限界は物理的必然というしかありません。しかし銀行業界だけはこの事実を絶対に認めることができません。経済が成長拡大するから企業、国家、家計は利子なんて余計なものを銀行に払う余裕があるわけで、低成長、ゼロ成長になれば利子を払えなくなる。成長が止まれば銀行商売の基盤がなくなる。だから成長の限界論など無視してあやしげな金融商品などを開発して、むしろ営業を強化する。そういう形で非生産的な銀行への負債が増えるだけの負の成長になる。これが80年代以降の特徴で、90年代のバブル破裂以後の日本なんかひどいものですね。企業も家計も銀行への借金で押しつぶされ、それがブレーキになって経済が動かない。こういう事態を負債デフレといいます。かつての1930年代の大恐慌の原因もこの負債デフレでした。今の世界経済の危機の原因もやはり負債デフレとして説明できます。

 

パンクした車のアクセルをふむような量的緩和

 

ただし今はお金の流れが滞留しているだけではなくて30年代大恐慌当時にはなかった富の異常な偏在、一極集中が起きています。スーパーリッチやメガバンクへ富の一極集中が起きている。これほど経済がひずんだことは世界史的にも前例がありません。この富の集中の原因はやはり、ニクソン声明で通貨が金の裏付けを失いペーパーマネーになったことでしょう。これで銀行は無からいくらでも実体のないお金を創造し、それを転がすカジノ商売に徹することができるようになった。しかしカジノだけでは経済は動かない。長期的には実体経済が成長してくれないと銀行も自滅します。しかし負債デフレでブレーキがかかって経済が止まっているのに銀行が経済を何とか動かそうとするのからおかしなことが起きる。それが皆さんも聞いたことがあるはずの量的緩和やマイナス金利なんです。量的緩和というのは、銀行が持っている債権とか資産を日銀がどんどん買い上げる。そのために日銀は新たに紙幣を大増刷してお金を無から作りだし、銀行はそれを受け取る。それをまた自分が日銀にもっている預金する。こういう紙幣の大増刷を量的緩和といっている。しかし銀行にいくら金をつぎ込んだって、このデフレで借り手はない。むしろ企業はみんな借金を返すのに必死になっている。これはパンクとガス欠で動かない車の運転席で懸命にアクセルを踏んでいるような馬鹿げた行為です。それでも増刷でお金の価値が目減りし減価するならば、企業、国家がかかえている負債が多少は軽くなるでしょう。しかし実体経済が失速しているのに紙幣を増刷するだけでデフレがインフレに逆転などということはありえません。結局量的緩和では、各銀行の日銀の口座の預金がやたらに増えただけでした。

 

マイナス金利から消費強制の減価貨幣へ

 

それでも悪あがきして日本やEUの銀行は今度はマイナス金利という窮余の策に手を出した。各銀行は日銀がつぎ込んできたお金を日銀にあるその預金口座に入れる。これには日銀が利子を払う。これを日銀に預けると逆に銀行が利子を取られるようにする。預けると損をするというのがマイナス金利です。こういうことをやる思惑はね、預金をして損をするくらいならリスキーな事業にも渋々貸し出しをするだろうという思惑です。だがこんなことまでやってもこの不景気の中でお金を借りようという人はなかなかいませんよ。だからマイナス金利をやってもお金の滞留は直らない。しかもマイナス金利をやればさらにお金の信用は低くなる。こんなことを続けていれば、お金はどんどん紙くずに近くなってくる。

銀行は成長の物理的限界にぶつかっているのだから、どうしようもない。量的緩和もマイナス金利も効果はなく経済の混乱と停滞を深めただけでした。そこで世界の金融エリートが今考えている奥の手は、経済全体をマイナス金利にすることです。今のデフレの中で庶民は将来が不安なので財布の紐を締め貯金を貯めこもうとする。だから銀行に預けたお金が時間と共にどんどん目減りするようにする。減価貨幣ということです。そうなると預金がさらに減る前にお金を使わざるをえなくなる。庶民に消費を強制できる。それで景気が回復する、というよりデフレで死にそうな銀行が生き延びることができる。しかしこんなことをやったら庶民は直ちに銀行から預金を下ろしてタンス預金にしてしまうでしょう。預けると損をする預金などやる人はいません。そうでなくても今どきの銀行は取り付け騒ぎを怖れています。リーマンショック以来、庶民の中でも銀行が国家の影の主権者であり諸悪の根源であること理解している人が増えています。またEUの一部の国では預金封鎖に似た事態も発生しています。大規模な取り付け騒ぎはありえないことではありません。

それは困るというので、EUではお金はすべてディジタルな電子マネーにして現金を廃止しようという動きが出てきています。現金を廃止してしまえば、もう取り付け騒ぎもタンス預金も不可能になる。EUには500ユーロという高額のお札、日本でいったら5万円かな、それをもう廃止しました。スウェーデンは現金の使用を制限するためにATMをどんどん撤去しています。スウェーデンは社会民主主義の優等生みたいに言われてきましたが、こういうあざといことをやっています。現金廃止の口実は脱税や犯罪組織による資金洗浄の予防ですが。本当の狙いは取り付け騒ぎの予防とできれば庶民の預金もマイナス金利にすることです。

 

経済の金融化の帰結~国家が銀行管理状態へ

 

第三に国家が銀行管理の状態になることです。先進諸国は70年代以降低成長になり国家の税収も伸びなくなった。しかし議会制民主主義国家では政治家は利権集団へのばらまきや福祉政策を止めるわけにはいかない。それで赤字国債を発行して借金で国を回していくことになった。本来国債の発行は税収不足を補うための臨時措置だったのですが、それがどの国でも恒常的なことになった。

国債を買うのは主に大手銀行です。低成長で儲からないので、国家への融資が銀行の主な仕事になってくる。国債が銀行の主要資産になる。銀行は、企業は倒産の恐れがあるけれど国家は倒産しないと考えたのです。国家は貸した金を必ず国民から税金という形で強制的に搾り取って返してくれる。国民全員を債務奴隷にしてでも負債を利子付で返済してくれる。皆さんの中にも銀行に一文も借金していない人がいるでしょうが、そういう人でも国民として銀行に借金して利払いを強いられています。それで増税されたり福祉を削られたりしている。国家が銀行管理の状態になっています。しかも国内のメガバンクだけじゃなくて国際金融資本全体がグルでやっている銀行管理です。この不景気の中で日本は消費税率を8%にあげました。消費税のアップはだいぶ前からIMF(国際通貨基金)が国際金融資本を代弁して日本に要請していたものです。あとOECDね。これが要請していた。増税は日本の財務省や日銀が考えたことではなくて国際金融資本の司令部からの指令なんです。だから日本の庶民生活の現状なんか無視して消費税を上げる。上げる目的は日本国民からさらに税金を搾り取って国債の価値を維持しよう銀行の経営を安定させようということです。 昔は不景気になると減税や財政出動というのが定石だった。それが今は、増税と緊縮財政が強行される。これは国家が銀行管理になり、国民ではなく銀行に奉仕しているからです。だからこの問題はね、安倍政権が悪いのどうのこうの言ってもどうしようもない。国際金融資本と日銀を潰さない限りこの状態は変わらない。政治家なんてどうでもいいんです。

 

ローカリゼーションの中心戦略は「社会信用論」

 

この調子でやっていくと銀行は破たんに破たんを重ね,いずれは経済の全面的崩壊が起きると思います。通貨が全面的に信用を失って経済がストップする、経済が心臓まひになる。そういう可能性がある。これは大変なことなんです。皆さんによく考えてもらいたい。1930年代の大恐慌は基本的に貧困と失業の問題でした。当時はまだアメリカだって農民なんかが多くてね、まだまだ素朴な社会だった。今は社会がはるかに高度に組織されている。皆さんのなかにも水道ガス電気なんかを銀行振り込みにしている人も多いと思います。スーパーだって在庫はもう秒単位でコンピューター管理して商品が流通している。こういう状況の中で通貨の流通がストップ状態になったら、これは経済危機というより文明の崩壊です。生活環境は大震災の津波直後の三陸海岸みたいになっちゃいます。水道ガス電気は止まるし、スーパー行っても棚が空だし、そういう社会になる。そういう銀行の破綻が原因の文明の崩壊は、何としても回避したいというなら、20世紀の始めにダグラスが提起した解決策を再評価する必要があるというのが私の長年の主張です。ダグラスが主張したのはお金の流れ方を根本的に変えること、通貨改革です。彼自身はこれをは社会信用論。ソーシャル・クレジットと呼びました。そして通貨改革は、ローカリゼーションの中心的な戦略になる。これまでお話ししたように、グローバリゼーションは銀行マネー経済の必然的な帰結です。銀行経済においては、お金はすでにお金があるところにさらに集中するのです。この流れを逆転させ、お金を分散させなければならない。BIは福祉ではなく、お金を個々人という究極の単位にまで分散させる方策です。政府通貨も、お金が滞りなく円滑に流れるようにして、経済全体に適切に分散させるための措置です。

先ほどお話しましたA<Bの問題。企業の生産過剰と庶民、消費者の所得不足という問題。これはBIで簡単に解決します。雇用によってしか所得が分配されないということが経済を極度に不安定にしているのです。所得は人間が生活するのに必要なものなのに、他方で雇用は企業の都合で決まるものですから。しかもいろいろ偶然な要素で所得が決定されている。それが問題なんです。そこでもう一度強調しますが、BIはお金の流れの淀み歪みを無くして円滑に循環させるための政策で、福祉政策じゃないですよ。そしてお金の流れが集中から分散に逆転すると、大企業、大都市が解体していきます。おそらくチェーン店といったものもなくなっていくでしょう。

 20世紀にはじめにダグラスがA<Bや銀行金融の問題を中心に経済を分析した背景には、この頃から企業や国家の機構の巨大化複雑化が始まったことがありました。それを逆転させる。おそらくBIが実現した社会では銀行による資本の集中がなくなるので、中小企業、地場産業、町工場、商店街の世界が復活することになるでしょう。

 

政府通貨発行による安定と均衡経済

 

それから政府が通貨発行権を銀行から取り戻し、経済統計に基づいて通貨を発行するといういわゆる政府通貨の問題です。国民経済計算という統計があるのですが、それで大体去年どれくらい日本経済が富を生産したかを把握できる。それによる所得分布も把握できる。それに基づいて社会が必要とする量の通貨を発行し流通させればいい。もしインフレになりそうであれば通貨の供給を減らす、デフレになりそうだったら増やすと、調整はいくらでもできます。これには銀行に利子を払う必要がない。利払いという無駄な支出、経済のブレーキになる支出がなくなる。更に利子を払うためにむりやり経済を成長させる必要もなくなる。つまり経済は成長ではなく安定と均衡及び生産と消費の円滑な循環を目標にすることができる。それを目標にすることができるということで、必然的にそうなるとは言ってませんよ。こういう脱成長ということは銀行経済には絶対に無理なんです。銀行は利子で儲けている以上、何が何でも経済が成長拡大してくれないと困る。その結果文明が崩壊しても知ったことではありません。しかもね、本来通貨というのは、私企業が勝手に自分の儲けをそろばんで弾いて発行しちゃいけないんですよ。通貨は、人間の生死にかかわる問題なんですから。

 

政府通貨発行による無税国家の実現

 

そして政府が国家維持のために税金を徴収する必要もなくなる。国家が銀行に通貨発行権を譲渡してしまったから国家維持のために別途税金を取る必要が生じているんです。政府が自ら通貨発行すれば銀行から国債を証文に借金する必要もないし国民から税金を取る必要もない。つまり基本的な教育、医療、福祉インフラなどは、政府がそれに必要な分だけ通貨を発行すればいいのです。統計に基づいて上限を設けて発行すればインフレにはならない。税金というのは本来いらないものなんです。なぜ日本人はみんな税金を払うのを当然だと思っているのでしょうか。江戸時代の年貢じゃないんですから。

悪い例かもしれないけど、ソ連には税金がなかったのです。ソ連においては労働は賦役みたいなもので、国民は労働で国家に貢献しているんだから別途に税金なんてとる必要がないとしていた。その代り働かないで家で引きこもりなんてやっていると警察に捕まりましたが。だから私は決してソ連のことは褒めていません。しかしソ連は、税金なしでも国家が回った例なんですよ。だからソ連みたいな一党独裁じゃなくて真に民主的な形で政府通貨を発行すればね。税金は基本的にいらなくなるんです。

もっとも例外的に臨時の徴税はあるかもしれません。例えば大阪で市特有のプロジェクトをなんかやりたい、そして市民はそれに賛成した場合です。そういう場合には目的が限定された市民税みたいなものを徴収する。これは一種のカンパですね。

もう一つは、資本転がし金転がしと土地転がしで懐にはいった不労所得。これには徹底的に課税する必要があります。田舎の田んぼだった物件が近くに鉄道の駅ができたので地価が100倍に上がった場合です。金転がし、資本転がし、投機で儲けたりした不労所得に対しても課税する必要がある。これは道徳的な理由で課税するんじゃないんです。そうした不労所得で儲けた金を蔓延らせておくと経済が歪んでくる。だから経済秩序を健全なものにしておくためには、金転がしと土地転がしで得た不労所得に対してだけは徹底的に課税する必要があります。そうすれば、お金の流れに淀みも歪みもなく、社会の隅々にまで行き渡るということです。

 

経済的「人権」保障を

 

現代社会では人権人権という言葉をよく聞くんですが、これは単に国家が市民に保障すべき法的な権利とみなされています。しかしですよ。人間の最も根本的な権利とはお金への権利です。だって文明社会ではお金がなければ生活できないわけですから。今の社会は。原始社会じゃない。だから最小限のお金への権利。所得を保証される権利、これこそが根本的な人権です。それがあってこそ社会に参加できるわけでしょう。人権はあまりにも法的に考えられすぎている。そして経済的人権保障のためにはやはり富と権力の公正な分配が必要だということです。そういう意味で、今どきの人権論には私は大変批判的です。経済的な問題を無視した抽象的な法律論が多すぎる。

 

大都市から地方にお金の流れを逆転させる

 

そういう形で政府通貨とBIによって銀行経済は終わる。経済的デモクラシーが始まる。金融化とグローバリゼーションは終わりローカリゼーションが始まる。そういう形で大都市が衰退し、解体し、国民経済、地域経済が復活する。もちろんこれは貿易による他国の富の略奪を必要としない内需中心の経済でもある。国民経済復活は即ち国家内の各地の地域経済の復活につながります。今の日本の地域に必要なのは企業の誘致や観光客の呼び込みではなく、所得保証による有効需要の創出です。たとえば島根県は日本一高齢化していて過疎でも苦しんでいる県です。でも島根県が何とか低空飛行でやっていけるのは、高齢者への年金がBIの代わりになっているからでしょう。夕張市がまだ息をしているのも高齢者の年金がBIになっているからでしょう。ということは、積極的にBIを実施すれば地方経済は一気に復活すると考えていい。逆にいえば、通貨改革で国内の資金の流れを逆転させなければ、地方は経済的な貧血や栄養失調で死んでいくでしょう。

BIは一国の毛細血管の隅々にまでマネーが行き渡ることを可能にします。そうすればほっといたって地域経済は復活する。だからこのお金の流れの問題は、地方自治体関係者にじっくり考えてもらいたい。結局国家はお金の流れとして組織されているということが分かっていれば、この話も分かるはずです。ところが分かっていない。相変わらずお金とは中央官庁にお願いして回してもらうものだと思っている。奴隷じゃないですかこれ。それで一生懸命ゆるキャラで宣伝とか中国人観光客を呼び込むとか、そんなことをやっている。ど田舎に空港を作ったりね。本当に地方自治体が考えていることは明治時代から変わっていません。政府通貨とBIで中央、大都市から地方にお金の流れを逆転させることができるのです。そして人の流れはお金の流れに従います。資本が地方に分散され、都会から地方に移住しても基礎所得の保障があるならば、深刻化している地方の人口の減少という問題も解決に向かうでしょう。

 

BIで社畜脱却を

 

さっき言ったようにそういう形で大企業が衰退し、町工場と商店街の世界が復活してくる。そのうえBIが支給されると、おそらく社畜サラリーマンをやる人が減るだろうとと思います。自営業を始める人が増えるでしょう。一生涯月10万でも保証されればそれに基づいて人生設計ができる。そうなると社畜サラリーマンなどをやっているより自営業をやるという人が増え、仲間を集めて中小企業を立ち上げるとか起業をやる人も増えるとでしょう。だからBIにはサラリーマン撲滅の効果があると思っております。BIが支給されるんだったら物価の安い地方にいこうということで、大都市から地方に移住する人も増える。特に地方で農業をやろうという人が一気に増えるでしょう。今だってそう考えている人が多いんですから。ただ地方に行ったら生活できるか分からないから動けないないわけで。しかし月10万円程度の所得が保障されるんだったら、当座は農民修業をやって10年もすれば農民として自立できるでしょう。だったら進学ローンでえらい借金を抱えて大学を出たのにフリーターになんて人生を送る必要はなくなる。

 

種子島鉄砲の重要な意味

 

  日本でも世界でも1970年代以来のグローバリゼーションの過程は、ローカリゼーションの過程に逆転しようとしています。この転換のきっかけは、リーマンショック以来の銀行経済の最終的破綻です。そして通貨改革でお金の流れを公的民主的にコントロールするようにすれば、国民経済、ローカルな地域経済が復活してきます。デモクラシーはこれまでもっぱら政治体制の在り方とされてきました。しかしデモクラシーは何よりも経済のデモクラシー、銀行に通貨発行権を横領させない経済体制のことでなければならない。しかもね、日本という国は歴史的に地方の底力によって支えられ発展してきた国なんですよ。

皆さんも種子島の鉄砲伝来の話は知っていると思います。16世紀の半ばに嵐で遭難した中国のジャンクが種子島に流れ着いた。それにポルトガル人の商人が二人乗っていて鉄砲を持っていた。それを種子島の領主が大金はたいて買い込んで、お抱えの鍛冶職人の金兵衛にその複製を作らせた。これがきっかけで戦国時代の日本に鉄砲が一挙に広まった。この話は皆さんもご存知でしょうが、ただ考えてください。こういっちゃ悪いけど種子島は今もへき地です。辺境の離島です。そこにちゃんと鍛冶屋がいて、それが見様見真似であっという間にヨーロッパの鉄砲の複製を作ってしまうほどの技術を持っていた。これすごいことですよ、考えてみると。これが日本という国のすごさなんです。どこの国でもね、都は栄えていても一歩都を外れたら何もないのが普通です。種子島のような離れ小島にも都に劣らない文化文明技術学問があったという、これが日本の底力です。じゃ何で種子島にそれほどの鍛冶屋がいてそれほどの技術や知識があったのか。種子島も戦国時代でやっぱり領国だったわけです。種子島時堯って言ったかな。若干16歳の領主がいて、これが大変知的にシャープな人で、鉄砲の価値をすぐに見抜いた。そこで当時の種子島にしてみれば大枚をはたいてポルトガル人から鉄砲を買った。しかもそれを撃って遊んでいたわけじゃなくて、すぐに鍛冶屋に複製を作らせた。領主である以上は一国一城の主として職人だの商人だのワンセットの体制が必要なんです。だからちゃんと腕のいい職人がいた。ただし僻地といいましたが、当時の種子島は東シナ海を舞台にした国際貿易の拠点であったし、昔から砂鉄が取れる所でね、製鉄が盛んだった。そういう事情もありましたけれど、やっぱりこの話はすごい。種子島から50年後には当時日本最大の工業都市だった泉州堺が鉄砲の産地になって、日本の鉄砲生産量はヨーロッパ全体をしのぐに至りました。何でこういうことが可能にだったのかというと、戦国時代で種子島もそれなりに領国だったことが大きいのではないか。戦国時代というと皆さんはNHKの大河ドラマなんかの影響でチャンバラばっかりやった時代と思うかもしれませんが、戦国時代はそういう文化文明学問技術が日本の国土の隅々にまで広がっていった時代なんです。だから各地に群雄割拠となり、争いが起きたわけです。このあたりが日本は他の多くの国とは違うのです。国の隅々にまで文化技術学問が行き渡った。更に江戸時代になると天下泰平で争いがなくなったので、更に各地方の独自の文化と経済の発展があった。近代日本はこの江戸時代の豊かな遺産なしにはありえませんでした。

 まだまだ多くの人が日本は明治維新で中央集権国家になって、そのおかげで近代化したと思っています。これは違います。近代化を可能にしたのはそれまでの地方の蓄積です。地方の底力です。例えばこの大阪にしたって1960年代まで経済指標は全て東京を上回っていました。そういう意味では、戦前の日本の順調な近代化を可能にしたのは地方経済の強さですよ。地方には人材も富もあった。東京は何をやってきたかというと地方の富と人材を吸い上げてきただけです。吸血鬼みたいなものです。東京はエリート官僚がいて、マスコミがあって、大学があるというだけのスカスカの都市です。ああいう都市は潰さなきゃいけません。

 

エネルギーと食糧の自給率を高める

 

とにかく今の日本は国土上の人口分布を均等化させていく必要があります。これにはもうBIが一番効き目がある。どんな地方、へき地、辺境の離島にまで文化文明技術学問が広まって蓄積があったことが日本のすごさなので、その点では今の東京の一極集中は日本の歴史から見るとまさに亡国の現象です。この流れを逆転させて、かつての種子島の鉄砲伝来のような。地方に中央に引けを取らない文化経済技術学問がある日本を再建しなければいけない。ついでに言いますが、最近中国の脅威がどうのこうのと国防論議が盛んですけれども、国防の基本はエネルギーと食糧の自給率の高さです。本当に国防を考えるなら、とにかくエネルギーと食糧の自給率を高めることです。これもまた政府通貨やBIによって政策として可能になります。戦前の日本は食糧は、もちろん、エネルギーもかなり自給していた。70%くらいは自給していた。どうしていたかというと林業をうまく使ったんですね。暖房もこたつだし、木炭をうまく使っていた。だから戦前では林業は主要産業だった。そういうことを考えなければいけない。石油をあてにしないで林業を復活させる。バスなんてみんな木炭バスにすればいいんですよ。木炭バスというのは木炭燃焼の時の水素が出る。それを利用しているからあれは水素エンジンです。原始的なものじゃない。理論的に言うと石油エンジンよりも木炭エンジンの方が高級なんです。

 

ケインズのバンコール通貨構想

 

先に申し上げたように20世紀は貿易の世紀でした。英国のEU離脱、アメリカのトランプ当選でそれが終わり、しかも欧米では移民問題が社会を混乱させ政治の焦点になってきている。移民問題といわれているのは実際には、金融資本が主導したグローバリゼーションが生み出した浮遊人口、変動人口制の問題です。だから欧米で起きている反移民の動きは、排外的人種主義による差別と偏見といった問題ではない。浮遊人口という異常な現象が問題なのです。なぜ国際的浮遊人口などという異常な現象が生じてきたのか。その原因を遡ると、1944年のブレトンウッズの国際会議に行き着きます。この会議で米英を中心に連合国は、戦後にどんな国際的通貨貿易体制を構築するか協議しました。そこで経済的軍事的覇権国になったアメリカが、英国のケインズが提出した国際通貨バンコールで決済される貿易体制という案を叩き潰したことが、現代世界の混迷の発端なのです。

戦後の通貨貿易体制を考えてみますとね、ドル基軸ですから、貿易でドルを稼いでドルを持っている、そういうドル保有国だけが世界貿易に参加できる。だから戦後のドル決済貿易は特権的な会員制クラブみたいなものです。日本はこの特権をひときわ享受した国です。だが南の貧しい後進国にはドルを稼げる可能性がない。これで世界貿易の会員制クラブから排除される。しかも足元をみられて徹底的に食い物にされたりする。私は、健全な国民経済のためには通貨の問題が決定的であることを強調してきました。世界貿易についても同じことが言えます。貿易においても公正な通貨ということが決定的に重要なのです。

ケインズはブレトンウッズでドル覇権体制を構築しようとするアメリカに反論し、全く別の方式を提案しました。その方式ではまず貿易決済用の通貨と国内通貨を分けます。貿易の決済にはバンコールという名前の通貨を計算単位として使う。それをできるだけ公正公平に運用するようにする。それで貿易でぼろ儲けする国と、大損する国、そういう国家間格差が出ないようにすることを提案したんです。これをアメリカが潰した。この提案を潰された心労からケインズは若死にしたと言われています。バンコールのことを詳しく説明する時間はありませんので、関心がある方は家に帰ってから「バンコール」でネットを検索してみてください。色々解説されています。今例えばザイールとラオスが相互に貿易してそれでお互いに経済発展しようとするとします。しかしザイールもラオスも貧しくて通貨の価値があまり信用できない。だからやっぱり世界一信用があるドルで仲介しないと貿易は難しい。ドルは一番安定して価値があるから。でもケインズのバンコールを使うと各国の合意で国際的に価値が保証されている通貨だからドルを持っていない国でも世界貿易に参加できる。商品を売ったけれども相手の国がドル不足で対価を払ってもらえずに倒産するとかそういう危険がなくなる。バンコールはドル以上に安定した信用できる通貨ですから。だからケインズの提案が通っていれば、なにも先進国市場への輸出に必死にならなくたって、南の国も様々な自主的な発展が可能だったはずです。

 

自給国民経済への転換

 

ガンジーは先進国型の工業化ではなく、紡ぎ車でインドの農村を発展させようとしました。村の経済を発展させようとした。しかしドル基軸の世界貿易体制の支配下では、ガンジーの理想は見果てぬ夢に終わってしまいました。インドだって必死になって工業製品を作らないと発展できないことになっている。しかしバンコールの体制があったらインド的発展ということも可能だったでしょう。もちろん中国だってそうです。今の中国は先進国の下請け工場になるために国土を徹底的に破壊しています。

20世紀という貿易の世紀は終わりました。しかし今更どの国も鎖国して貿易を止めるわけにはいかない。そういう意味ではバンコールの再評価が必要なのです。全ての国に公平に貿易の機会を保障し、共存共栄の貿易をやる。肝心なことは貿易を古典的な貿易に戻すことです。つまり自由貿易と称して富の分配の歪から生じた体制の危機を外国にツケとして回すんじゃなくて、国民経済を二次的に補完する貿易をやる。基本的に自給の国民経済があって、どうしても足りないものを貿易で補う。貿易が二次的な役割しか持たなかった古典的な貿易に戻す。それが大事なんです。しかしバンコールのような体制は簡単には実現しないかもしれない。その時日本としてどうしたらいいか。とにかく変動相場制の下で為替相場に振り回される貿易はやるべきではありません。そういう貿易は国民経済を攪乱させます。国民経済と貿易との間には仕切りがあるべきです。それならばナチスドイツの例に倣ってバーター貿易をやるという手もあります。日本の商品には世界的に需要がありますからね。それならバーター貿易をやればいい。とにかく貿易を純粋なギブアンドテイクの、双方に公平で恩恵があるものにしていく。現状の貿易はそんなものじゃないということですね。

 

脱アメリカニズムが日本の課題

 

あと二つだけ申し上げます。トランプの当選は覇権国アメリカ、ドルと軍事力で世界を支配したアメリカが終わろうとしている徴でしょう。19世紀には大英帝国が強大な覇権国であり経済大国だった。だが英国はその価値観を世界に押し付けることはなかった。むしろ世界と自国を区別して「光栄ある孤立」を誇っていました。しかしアメリカは違います。アメリカはアメリカ的価値、普遍性を信じていて、それを宣教師的に世界に広めようとした。だから単に政治的軍事的経済的な覇権で世界を統治しようとしただけではなく、いわゆるソフトパワーでアメリカ的な価値観や文化を世界に広げようとしてきた。そしてマイカーと電化製品に代表されるアメリカ的生生活様式も広めた。つまりアメリカは、世界をアメリカの色に染めあげる傾向があった国で、そのあたりが大英帝国とは違います。ですからアメリカの世紀が終わるということは、我々の文化価値観、生活様式においても脱アメリカが進むということでしょう。さまざまな面でアメリカニズムからの脱却することが今後の日本の課題になるはずです。

たとえばマイカー社会は広大な国土と豊富な原油というアメリカ独自の国情から生まれたもので、日本のような国でマイカー社会は正しい選択なのかどうか、議論になっていい。そういう意味ではわれわれは日本独自の風土や伝統を改めて再評価することが必要です。もちろん国粋主義ということではなく、日本人はどのように伝統に従って生きてきたのか、改めて考え直す必要がある。こうして日本人は日本の創造的な伝統に立ち返る。そういう時代が始まろうとしていると思います。

特に江戸時代の再評価が必要でしょうね。江戸時代に日本人はアメリカのエネルギーを浪費する消費社会とは正反対の社会、しかも高度に文明化されたを築き上げました。昨今は江戸時代は自治と分権の多様性に富んだ社会だったと再認識されてきています。今後も江戸時代の再評価が進むでしょう。江戸時代がすべてよかった、ユートピアだったなどと言いたいわけではありません。しかし明治維新と文明開化の影響で江戸時代を安直に否定的に評価してきたのは間違いだったと考える人がますます増えています。

 

外圧で変化する日本の国家体制

 

そしてトランプのアメリカはウッドロウ・ウイルソン大統領以来の国際主義、覇権主義、自由貿易主義から降りる。19世紀のモンロー主義に回帰する。これで日本を取り巻く国際社会の文脈が大きく変わります。この変化に対応して日本も変わっていかざるをえない。こういう外圧を受けるたびに、日本はそれを新たな発展の好機にしてきました。日本はそういう国なのです。日本は外圧でしか変わらない、革命が内部から起きないダメな国だという議論がかってありました。これは間違った見解だと思います。日本の支配層は伝統的に社会の安定ということを非常に重視するんですよ。そして体制が安定するためにはコンセンサス、社会的合意が必要です。日本の支配層はそういう社会的合意を確保するために絶えず体制の補正や修正をやり、いろいろ非公式な安全弁をつけておくことも多い。それで江戸時代は265年も続いた。戦後日本でも、自民党は財界べったりの政党ではあるけれど、一面社会民主主義的な政策もやってきた。だから長期政権を維持できた。今は露骨に経団連の御用政党になっていますが。とにかく支配層が合意を重視するので、日本は体制の激変なしに社会が徐々に進化していく。これが日本の独特の体質です。そして私としては、これはむしろ日本人の良識と賢明さの表れだと思っています。実際世界には、革命や内戦で何百万人も死んで結果として深い傷跡が残っただけという国がたくさんあります。日本に革命や大規模な内戦がなかったことはむしろ称賛すべきことです。内戦があったといっても、天下分け目の戦の関ケ原でもたった一日で終わってます。薩長なんてとんでもない奴らだったけれど、徳川幕府は引き際よく消えていき戊辰戦争を長引かせなかった。そういうことで日本は凄惨な内戦などしたことがない。

ただそれだけに、外圧があるたびに日本の国家体制は一変することになった。国際情勢は国内のようにコントロールできませんから。だから古代には大陸に隋、唐の帝国が成立した際にはその圧力の下で大化の改新をやって国家体制を整えた。それから17世紀には全世界にヨーロッパが海洋勢力として進出して植民地主義の脅威があった。それに対応するために外交的に鎖国をした。その後19世紀には黒船の圧力で開国し、欧米に倣って近代化した。さらに第二次世界大戦で敗北したので、アメリカの覇権体制の下で生き延びるためにアメリカナイズした。このように日本は大きな外圧を受ける度に国家体制を根本から変えてきました。これが日本の歴史的な特徴なんです。

 

復活しない国際主義・覇権主義・自由貿易主義

 

  世界はトランプ大統領が何をするかで騒いでいますが、彼は大したことはできないでしょう。アメリカ経済は負債の山に押しつぶされていて、量的緩和といった連銀のトリックが問題をさらに悪化させた。この現状にはスーパーマンでも対処できません。それにトランプはアメリカが絶頂期にあった1950年代、60年代への郷愁があるだけです。しかし彼がどうなろうと、アメリカの国際主義、覇権主義、自由貿易主義はもう復活することはないでしょう。それに感づいているから世界のエリート、グローバリストはパニックになっている。戦後日本の国家体制にとっては、この三つは公理みたいなものでした。それがなくなる。ですから2017年以降、日本は否応なく国家体制の転換と変革の時期に入らざるをえないでしょう。そしてアメリカの二大政党制の崩壊に見られるように、どこの国でも政党政治の時代は終わっています。これからは、地方自治体が体制転換の拠点になると私は見ています。ローカリゼーションの時代が始まっているからです。だからこそ皆さんには、ベーシックインカムと信用の社会化は、たんなる所得保障ということではなく、地方の再生、内需中心の国民経済復活のための戦略であることを訴えたいと思っています。

ちょうど時間になりました。ご清聴ありがとうございます。

アイスランドの政府通貨プラン、注目記事です!

2008年金融危機後の政治経済改革が注目されてきたアイスランドで、ついに政府通貨政策が提案されました。与党の政策プランなので実現する可能性が高いと思われます。国民投票に通貨改革案がかけられているスイスよりも早く実行されるかもしれません。以下、イギリスのテレグラフ誌に掲載された記事をサインイン前の部分のみ翻訳して掲載いたします。ご参考にしてください。

元記事

Iceland looks at ending boom and bust with radical money plan- Telegraph

http://bit.ly/1aBYOgh

テレグラフ誌 2015年3月31日

アイスランドは画期的な通貨改革プランで超不安定な経済を終わりにしようと考えている

アイスランド政府は民間銀行の信用創造のはたらきを停止して中央銀行にその機能を取り戻す提案をおこなった。

(以下本文)

アイスランド政府は、民間市中銀行におけるお金の信用創造のはたらきを停止し、中央銀行の下でのみ信用創造を行うという画期的な通貨政策を提案している。

現代金融政策の歴史において転換点となるであろう上記の提案は、中道与党「Progress Party」所属議員の「Frosti Sigurjonsson」氏によって書かれた「アイスランドのためのより良き通貨政策」と題されているレポートの中にある。「レポートの成果は、来るべき通貨政策と信用創造に関しての議論に重要な貢献をするだろう」とSigmundur David Gunnlaugsson アイスランド首相は言っている。

首相によって委託されたそのレポートは、2008年を最後に多くの金融危機を起こしてきた通貨制度に終止符をうつことを目的としている。

四人の中央銀行総裁が行った調査研究によれば、アイスランドは、1875年以来20回以上の異なるタイプの金融危機を経験してきた、そして、それは平均して15年ごとに起きる6回の深刻で複合的な金融危機を伴ってきた。

Sigurjonsson 氏は、過去におきた金融危機は過度な経済の回転により通貨が膨張して引き起こされた、と述べている。

また、彼は、中央銀行は、高価で無駄の多い国家介入そして銀行崩壊の危険な兆候、および誇張されたリスクを負う憶測に拍車をかけるインフレを放置した信用膨張を封じ込めることができなかった、と主張している。

他国の近代市場経済と同様にアイスランドにおいては、中央銀行は紙幣とコインのコントロールをおこなうが、マネー全体の信用をコントロールするわけではない。そして、マネーの大部分は信用創造において市中(民間)銀行貸し出しとして瞬時につくられる。

中央銀行は、通貨政策手段として、マネーサプライに影響を与えられるのみである。これに対して、「政府通貨政策」とよばれる下では、国家の中央銀行はマネーの唯一の創造者になる。

Sigurjonsson氏は、次のように提案する。

「重要なことは、信用創造の権力は、新しくつくられたマネーがどのように使われるかということを決める権力とは区別したままにしておかなければならないということである。」そして「国家予算審議と同様に、議会は、新しい政府通貨の割り当てについて政府提案を議論することとなるだろう。」

こうして民間銀行は、会計計算の運営および借り手と貸し手の間の仲介者としての機能をはたすことになる。実業家でエコノミストでもあるSigurjonsson氏は、2014年5月に立ち上げられた、アイスランド家庭の債務救済プログラムの立役者の一人でもあり、2008年金融危機以前に、インフレに連動しローン契約をしたことによって家計が逼迫している多くのアイスランド人の救済を目的にもしていた。

北欧の小国アイスランドは3大銀行の崩壊の要因となったアメリカのリーマンブラザーズ投資銀行の破綻によって手ひどい打撃を受けた。当時、アイスランドは、この25年間において、疲弊した経済を救済するためにIMFに救済の申し立てをしたヨーロッパにおいて最初の国となった。

そのアイスランドのGDPは、経済がふたたび再興する以前は、2009年の5.1%から2010年の3.1%まで下がることとなった。(以上、文責、白崎)

【草稿】社会信用論(Wikipedia [en] 対訳)

原文:http://en.wikipedia.org/wiki/Social_Credit 

訳註:
1. 各段落前の見出し<○○○○○>は、訳者が整理の為に付与したものです。
2. 各段落の下に[note:  ]として、翻訳及び解釈についての疑問や不明な点その他気付いたことを記しています。
3. [en]の記載のある日本語、又は英語のハイパーリンクは英語版Wikipedia、記載なしは日本語版Wikipediaの用語へのリンクです。
尚、リンク箇所はほぼ原文のままとなっています。
4. 注釈([10]など)のリンク先は、原文のNotesとなっています。
5. 赤字部分は、翻訳に疑義があり保留となっている箇所です。
6. 著書等の固有名詞は、和訳が存在しないものについては適宜和訳しましたが、敢えて原文のままの場合もあります



社会信用論

From Wikipedia, the free encyclopedia
フリー百科事典ウィキペディアより

This article is about the philosophy, economic theory and history of Social Credit. For political parties, see Social Credit Party (disambiguation).
この記事は社会信用論の哲学、経済理論及び歴史について述べています。政党については、社会信用党[en](曖昧さ回避)をご覧ください。

<社会信用論の性質及び哲学
Social Credit is an economic philosophy developed by C. H. Douglas (1879–1952), a British engineer, who wrote a book by that name in 1924. Social Credit is described by Douglas[1] as "the policy of a philosophy"; he called his philosophy "practical Christianity". This philosophy is interdisciplinary in nature, encompassing the fields of economicspolitical sciencehistoryaccounting and physics. Assuming the only safe place for power is in many hands, Social Credit is a distributive philosophy, and its policy is to disperse power to individuals. Social Credit philosophy is best summed by Douglas when he said, "Systems were made for men, and not men for systems, and the interest of man which is self-development, is above all systems, whether theological, political or economic."[2]
社会信用論は、英国の技術者である C. H. ダグラス[en] (1879–1952)が発展させた経済哲学であり、同名の著書が1924年にダグラスによって著されている。ダグラスは[1]社会信用論を「哲学による政治」と記述し、その哲学を「実用キリスト教」と呼んだ。本質的に学際的であり、経済学政治学歴史学会計学及び物理学の各分野を含んでいる。権力の唯一安全な在処は多くの人の手の内であると仮定しているので、社会信用論は分配的[en]哲学でもであり、その政策は個人に権力を分配するものである。「 制度は人間が作ったのものであり、制度のために人間がいるのではない。人の重大事である自己の発展[en]は、神学的にも、政治的にも、経済的にも、あらゆる制度に優先されるのだ。[2]」というダグラスの言葉に、社会信用論の哲学は集約されている。

<社会信用論の端緒
It was while he was reorganising the work of the RAE during World War I that Douglas noticed that the weekly total costs of goods produced was greater than the sums paid out to workers for wages, salaries and dividends. This seemed to contradict the theory put forth by classic Ricardian economics, that all costs are distributed simultaneously as purchasing power.Troubled by the seeming disconnect between the way money flowed and the objectives of industry ("delivery of goods and services", in his view), Douglas set out to apply engineering methods to the economic system.
第一次世界大戦中、王立航空研究所の業務再構築を行っていた際、ダグラスは、一週間の生産物にかかる全費用が、労働者へ支払われる賃金・給与・配当金の合計額より多くなることに気付いた。 このことは、費用は全て直ちに購買力となって分配されるという古典的なリカード派経済学[en]が推進してきた理論と矛盾するように思われた。貨幣の動きと工業生産の目的(ダグラスの見解によると「商品やサービスを分配すること」)とが乖離しているらしいことに悩んだダグラスは、経済システムに工学的な手法を取り入れ始めた。

<A+B定理の発見
Douglas collected data from over a hundred large British businesses and found that in every case, except that of companies heading for bankruptcy, the sums paid out in salaries, wages and dividends were always less than the total costs of goods and services produced each week: the workers were not paid enough to buy back what they had made. He published his observations and conclusions in an article in the English Review where he suggested: "That we are living under a system of accountancy which renders the delivery of the nation's goods and services to itself a technical impossibility." [3] He later formalized this observation in his A+B theorem. The theorem divides a company's payments into two categories: A = income, and B = payments to other organizations. Prices equal A+B, but income only equals A in any cycle of production. Since income (A) is always less than total prices (A+B), he believed the theorem demonstrated that people's income is always insufficient to buy back all of production: the consequence of which is ever increasing debt.
ダグラスは、100以上の英国の大企業のデータを集め、倒産へ向かっている企業を除く全てのケースで、一週間の給与・賃金・配当金の合計額が、常に商品やサービスの生産費用の合計額より少ないことを発見した。労働者は、自分が生産したものを全て買い戻すだけのお金は貰っていなかったのである。ダグラスはその研究結果をイングリッシュ・レビュー誌に投稿し、「我々は、国内の商品やサービスを、全て国内で分配することが技術的に不可能な会計システムのもとで暮らしている」 [3] と示唆した。ダグラスは後にこの研究結果をA+B定理として定式化した。この定理では、企業の支出を二つに分類し、A = 従業員の収入、B = 他の組織への支払とする。生産物の価格は A+B に等しいが、どのような生産サイクルでも、従業員の収入はAに等しい。従業員の収入(A)は常に生産物の総額(A+B)より少ないので、人々の得る収入は常に、全ての生産物を買い戻すには十分ではないことを、この定理は示していると確信した。その帰結として、負債は増加し続けることになる。

<国民配当金と補償価格制度の提唱
Douglas proposed to eliminate this gap between total prices and total incomes by augmenting consumers' purchasing power through a National Dividend and compensated price mechanism. According to Douglas, the true purpose of production is consumption, and production must serve the genuine, freely expressed interests of consumers. Each citizen is to have a beneficial, not direct, inheritance in the communal capital conferred by complete and dynamic access to the fruits of industry (consumer goods) assured by the National Dividend and Compensated Price.[4] Consumers, fully provided with adequate purchasing power, will establish the policy of production through exercise of their monetary vote.[4] In this view, the term economic democracy does not mean worker control of industry.[4] Removing the policy of production from banking institutions, government, and industry, Social Credit envisages an "aristocracy of producers, serving and accredited by a democracy of consumers."[4]
ダグラスは、国民配当金と補償価格制度によって消費者の購買力を高め、生産物の総額と総収入額の間の乖離をなくすことを提唱した。ダグラスによると、生産[en]の本来の目的は消費することであり、生産は、消費者の正当かつ自由に示した利益に奉仕しなければならない。社会共同資本に対する間接的な相続権は、全ての人が有している。その権利は、国民配当金と補償価格制度が確立した、産業の果実(消費財)への完全かつ機能的なアクセスによって与えられる。[4] 充分な購買力[en]を得た消費者は、貨幣による投票行為によって生産方針を確立することになる。[4] ダクラスの見解では、経済的民主主義[en]という言葉は、工業の労働者支配[en]を意味しない。[4] 社会信用論は、金融機関、政府、及び産業界から生産に関する施策を実施する権限を排除しつつ、「消費者の民主主義に奉仕し、消費者に容認[en]された、生産者による貴族制」という社会像を描いている。[4]

<歴史概観
The policy proposals of Social Credit attracted widespread interest in the decades between the world wars of the twentieth century because of their relevance to economic conditions of the time. Douglas called attention to the excess of production capacity over consumer purchasing power, an observation that was also made by John Maynard Keynes in his book, The General Theory of Employment, Interest and Money.[5] While Douglas shared some of Keynes' criticisms of classical economics, his unique remedies were disputed and even rejected by most economists and bankers of the time. Remnants of Social Credit still exist within Social Credit parties throughout the world, but not in the purest form originally advanced by Major C.H. Douglas.
社会信用論の提案する政策は、20世紀の2つの大戦の間の数十年間、その時代の経済状況に合致していたため、多くの人の興味を引いていた。ダグラスは、生産能力が消費者の購買力を超過することをはっきり指摘してきたが、同様のことは、ジョン・メイナード・ケインズの著書、雇用・利子および貨幣の一般理論[5] でも指摘されていた。ダグラスは、ケインズへが古典経済学から受けた批判と同様の批判を受ける一方、その独特な対処法が論争の的となっただけでなく、当時のほとんどの経済学者や銀行家から拒絶されることすらあった。社会信用論者は今でも世界中の社会信用党[en]という形で残っているが、元々C. H. ダグラス少佐が発展させてきた理論を純粋に継承している形とはなっていない。


Contents [hide
1 Economic theory
2 The A + B theorem
2.1 Compensated Price and National Dividend
2.2 Critics of the A + B theorem and rebuttal
3 Political theory
4 History
4.1 Political history
5 Philosophy
5.1 Relationship to anti-Semitism
6 Groups influenced by Social Credit
6.1 Australia
6.2 Canada
6.3 Ireland
6.4 New Zealand
6.5 Solomon Islands
6.6 United Kingdom
7 Literary figures in Social Credit
8 See also
9 Notes
10 Further reading
10.1 Fiction and poetry
11 External links
目次
1 経済理論
2  A+B定理

2.1 補償価格制度及び国民配当金
2.2 A+B定理への批判とそれに対する反論

3 政治理論
4 社会信用論の歴史
4.1 政治上の歴史
5 社会信用論の哲学
5.1 反ユダヤ主義との関連
6 社会信用論の影響を受けた団体等
6.1 オーストラリア
6.2 カナダ
6.3 アイルランド
6.4 ニュージーランド
6.5 ソロモン諸島
6.6 イギリス
7 社会信用論に関する文学作品
8 関連項目
9 脚注
10 参考文献
10.1 小説と詩
11 外部リンク



経済理論


<第一の生産要素としての文化的継承物
Douglas disagreed with classical economists who divided the factors of production into only landlabour and capital. While Douglas did not deny these factors in production, he believed the “cultural inheritance of society” was the primary factor. Cultural inheritance is defined as the knowledge, technique and processes that have been handed down to us incrementally from the origins of civilization. Consequently, mankind does not have to keep “reinventing the wheel”. “We are merely the administrators of that cultural inheritance, and to that extent the cultural inheritance is the property of all of us, without exception.”[6] Adam SmithDavid Ricardo and Karl Marx claimed that labour creates all value. While Douglas did not deny that all costs are ultimately due to labour charges of some sort (past or present), he denied that the present labour of the world creates all wealth. Douglas was careful to distinguish between valuecosts and prices. He claimed that one of the factors leading to a misdirection of thought in terms of the nature and function of money was economists' obsession over values and their relation to prices and incomes.[7] While Douglas recognized "value in use" as a legitimate theory of values, he also claimed that values were subjective and not capable of being measured in an objective manner. Thus, he rejected the idea that the role of money is to act as a standard, or measure, of value. Douglas believed that the role of money is to act as a medium of communication by which consumers direct the distribution of production.
ダグラスは、生産要素土地[en]労働資本[en]のみに分割する古典経済学者の考え方に同意していない。この3要素を否定した訳ではないが、 「社会の文化的継承物[訳註:直訳すれば「社会文化遺産」であるが、重要文化財等に近い含意があるので、敢えて「継承物」とした。]が第一番目の生産要素であるとダクラスは考えた。文化的継承物は、知識・技術・手続のように、文明の始まりから徐々に内容が追加され、私たちに受け継がれたものと定義される。そのおかげで、人類は終わりなき「車輪の再発明」を続ける必要がないのである。「私たちはその文化的継承物の管財人に過ぎない。その限りにおいて、文化的継承物は、例外なく私たち全員の財産なのである。」[6] アダム・スミスデイビッド・リカードカール・マルクスは、労働が全ての価値を生み出すと主張した。ダグラスは、全ての費用が究極的には一種の人件費(過去や現在の)によるものことは否定しなかったものの、現在の世界の労働が全ての富を生み出しているということは否定している。ダグラスは、価値[en]費用[en]価格を慎重に区別し、自然や貨幣の機能に関する考え方を誤った方向へ導いている要因の一つは、価値について、また価値と価格と収入の関係について経済学者が抱いている固定観念だと主張した。[7] ダグラスは、「使用価値説」が価値に関する正当な理論だと認識はしていたものの、価値は主観的なものであり、客観的方法で測定することはできないと主張した。ゆえに彼は、貨幣に価値の基準を与えたり、価値を測定する役割があるという考え方を拒否した。ダグラスは、貨幣の役割は、消費者が生産物を分配管理のための伝達手段であるとしている。

<経済破壊の社会信用論
Closely associated with the concept of our cultural inheritance is the Social Credit theory of economic sabotage. While Douglas believed the cultural heritage factor of production is primary in increasing wealth, he also believed that economic sabotage is the primary factor decreasing it. The word wealth derives from the Old English word wela, or "well-being", and Douglas believed that all production should increase personal well-being. Therefore, production that does not directly increase personal well-being is waste, or economic sabotage.
文化的継承物の考え方と密接に関係するのが、経済破壊の社会信用論である。ダグラスは、文化的継承物の第一の生産要素はの増加であり、経済破壊行為が富を減少させる最大の要因であると考えた。「wealth(富)」という言葉の語源は古英語の「wela(幸福・福祉)」であるので、ダグラスは、 全ての生産は個人の幸福や福祉の向上に資するべきと考えていた。ゆえに、直接に個人の幸福や福祉を向上させることのない生産行為は、浪費あるいは経済破壊行為ということになる。

"The economic effect of charging all the waste in industry to the consumer so curtails his purchasing power that an increasing percentage of the product of industry must be exported. The effect of this on the worker is that he has to do many times the amount of work which should be necessary to keep him in the highest standard of living, as a result of an artificial inducement to produce things he does not want, which he cannot buy, and which are of no use to the attainment of his internal standard of well-being."[8]
「工業生産の全ての無駄を消費者へ転嫁した場合、購買力は大きく減退し、工業生産物の輸出依存率が増加していく。この影響で、労働者は不要なものや購入不可能なものや、内面的な幸福達成には無益なものに対する生産意欲を無理やり喚起させられ、その結果としての最高水準の生活を維持するのに必要な分、仕事を多くこなさなければならなくなるのだ。」[8]

<労力の浪費の原因
By modern methods of accounting, the consumer is forced to pay for all the costs of production, including waste. The economic effect of charging the consumer with all waste in industry is that the consumer is forced to do much more work than is necessary. Douglas believed that wasted effort could be directly linked to confusion in regards to the purpose of the economic system, and the belief that the economic system exists to provide employment in order to distribute goods and services.
現代の会計方法によると、消費者は無駄を含む全ての生産原価を支払うよう強いられる。工業生産の無駄を全て消費者に転嫁した結果、消費者は必要以上に働かされることになる。ダグラスは、その労力の無駄は、経済システムの目的が混乱していることや、商品やサービスを分配するために職を与えることが経済システムの存在意義だという信念と、直接結びついていると考えた。

"But it may be advisable to glance at some of the proximate causes operating to reduce the return for effort ; and to realise the origin of most of the specific instances, it must be borne in mind that the existing economic system distributes goods and services through the same agency which induces goods and services, i.e., payment for work in progress. In other words, if production stops, distribution stops, and, as a consequence, a clear incentive exists to produce useless or superfluous articles in order that useful commodities already existing may be distributed. This perfectly simple reason is the explanation of the increasing necessity of what has come to be called economic sabotage ; the colossal waste of effort which goes on in every walk of life quite unobserved by the majority of people because they are so familiar with it ; a waste which yet so over-taxed the ingenuity of society to extend it that the climax of war only occurred in the moment when a culminating exhibition of organised sabotage was necessary to preserve the system from spontaneous combustion."[9]
「しかし、労力に対する見返りが減少する直接の原因を一通り見てみるのも得策であろう。ほとんどの具体例の根源にあるものを理解するには、現状の経済システムでは、商品やサービス、即ち進行中の仕事に対する支払を推奨いる者と同じ者がそれを分配していることに留意しなければならない。言い換えると、生産が停止すれば分配も停止するので、その結果、既にある有益な商品の分配が可能となるために、無益あるいは過剰な商品生産を行う動機が明確に存在することになる。この極めてシンプルな理由が、なぜ経済破壊行為とまで呼ばれているものの必要性が増大するかを説明している。大多数の人はそれに慣れきっているので、この日々の膨大な労力の浪費に全く気付いていない。その労力の浪費は、社会の拡大能力に対し、余りに過剰な負荷を既にかけているので、戦争のクライマックスは、組織的破壊行動を最も激しく発揮することが、システムの自己発火の防止のために必要となった瞬間にしか起こらなかった[9]
note: 「a clear incentive exists to produce useless or superfluous articles in order that useful commodities already existing may be distributed.」生産者と分配者が同じなので、生産し続けないと商売上がったりになる。でも必要なものは既に皆の手にある。余計なものと分かっていても更に生産する。これが経済破壊行為ということだろうか。。in order that は目的を表すので、「既に存在する有益な商品が分配される」目的で「無益あるいは過剰な商品を生産する」行為をすることになるが、意味が繋がらない。「過剰生産すると今ある良い商品が分配される」?
note: 「a waste which yet so over-taxed the ingenuity of society to extend it that the climax of war only occurred in the moment when a culminating exhibition of organised sabotage was necessary to preserve the system from spontaneous combustion.」構文が分かり辛い。so-that 構文を素直に訳すと訳文の通りだが、これだと、浪費によって強いられる拡大路線が限界に近づいても、経済システムが自己発火=暴発?しないためのガス抜き的な組織的破壊行動としての戦争は、ぎりぎりまで起こらないという意味になるが、それでいいのだろうか?労力の浪費に鈍感なのでなかなか暴発しないという意味だろうか。また、climax of war の意味がもう一つ文脈から解釈できない。
<三つの経済政策
Douglas claimed there were three possible policy alternatives with respect to the economic system:
ダグラスは、経済システムに関する政策には、三つの選択肢があると言った。

"1. The first of these is that it is a disguised Government, of which the primary, though admittedly not the only, object is to impose upon the world a system of thought and action. 2. The second alternative has a certain similarity to the first, but is simpler. It assumes that the primary objective of the industrial system is the provision of employment. 3. And the third, which is essentially simpler still, in fact, so simple that it appears entirely unintelligible to the majority, is that the object of the industrial system is merely to provide goods and services."[10]
「1. 選択肢の一番目は、唯一ではないにせよ、その第一の目的が、ある思想と行動の体系を皆へ強制することであるという真意を隠蔽している政府。2. 二番目の選択肢は、一番目の選択肢とある程度似ているが、より単純である。工業システムの第一の目的を、雇用の分配とするもの。3. そして三番目は、実際、本質的に更に単純なものだ。単純過ぎて、大多数の人には全く理解されないように思えるが、工業システムの目的は、単に商品とサービスを供給することとするものである。」[10]

<経済システムの目的と失業者問題
Douglas believed that it was the third policy alternative upon which an economic system should be based, but confusion of thought has allowed the industrial system to be governed by the first two objectives. If the purpose of our economic system is to deliver the maximum amount of goods and services with the least amount of effort, then the ability to deliver goods and services with the least amount of employment is actually desirable. Douglas proposed that unemployment is a logical consequence of machines replacing labour in the productive process, and any attempt to reverse this process through policies designed to attain full employment directly sabotages our cultural inheritance. Douglas also believed that the people displaced from the industrial system through the process of mechanization should still have the ability to consume the fruits of the system, because he suggested that we are all inheritors of the cultural inheritance, and his proposal for a national dividend is directly related to this belief.
ダグラスは、経済システムは三番目の選択肢の政策に基づくべきであるが、思想的な混乱によって、一番目と二番目の選択肢の目的による支配が、工業システムにおいて許容されてきたと考えた。経済システムの目的が最大限の商品やサービスを最小限の労力で届けることであれば、最小限の雇用でこれらを届ける能力があることが実際には望ましい。ダグラスは、失業は生産過程において機械が人の労働と置き換わることの当然の帰結であって、この流れに逆行する完全雇用達成への政策的試みは、我々の文化継承物を直接に破壊するものだと提唱した。ダグラスはまた、機械化の過程で工業システムから取り残された人々にもなお、このシステムの生み出す果実を消費する能力があると考えた。我々は全員文化的継承物の相続人だからである。国民配当金の提案は、彼のこの信念に直接関係している。

<古典経済学への批判と貨幣の本質
Douglas also criticized classical economics because it was based upon a barter economy, whereas the modern economy is a monetary one. Initially, money originated from the productive system, when cattle owners punched leather discs which represented a head of cattle. These discs could then be exchanged for corn, and the corn producers could then exchange the disc for a head of cattle at a later date. The word “pecuniary"[11] comes from the Latin pecunia, originally and literally meaning "cattle" (related topecus, meaning "beast").[12] Today, the productive system and the monetary system are two separate entities. Douglas demonstrated that loans create deposits, and presented mathematical proof in his book Social Credit.[13] Bank credit comprises the vast majority of money, and is created every time a bank makes a loan.[14] Douglas was also one of the first to understand the creditary nature of money. The word credit derives from the Latin credere, meaning "to believe". "The essential quality of money, therefore, is that a man shall believe that he can get what he wants by the aid of it."[15]
ダグラスはまた、古典経済学を、実際には現代の経済は貨幣経済であるのに、未だに物々交換経済に基づいていると批判した。はじめ、貨幣は生産システムから、牛の所有者が牛一頭と等価のレザーディスク[訳註:円形又は楕円形の皮革製品のようだが、適当な和訳が見つからない]をこしらえた時に生まれた。このディスクは穀物と交換が可能で、穀物生産者は後日、そのディスクを牛一等と交換することができる。「pecuniary」[11]という言葉の由来はラテン語の「pecunia」であり、元の文字通りの意味は「牛」(topecus(獣)とも関連している)である。[12] 今日の生産システムと貨幣システムは別個のものである。ダグラスは、貸付 [訳註:「融資」とどちらが相応しい訳語か判断しかねる] 預金を生み出していることを示し、著書「社会信用」で、それを数学的に証明した。[13] 銀行による信用創造は、貨幣の大多数を占め、銀行が融資を行う度に作られている。[14] ダグラスはまた、貨幣の「信用性」を理解していた最初の一人である。「credit」という言葉の由来はラテン語の「credere(信じること)」である。「ゆえに、貨幣は、それがあれば欲しいものが入手可能であると人が信じていることがその本質である。」[15]

<今日の富の源泉
According to economists, money is a medium of exchange. Douglas argued that this may have once been the case when the majority of wealth was produced by individuals who subsequently exchanged it with each other. But in modern economies, division of labour splits production into multiple processes, and wealth is produced by people working in association with each other. For instance, an automobile worker does not produce any wealth (i.e., the automobile) by himself, but only in conjunction with other auto workers, the producers of roads, gasoline, insurance, etc. In this view, wealth is a pool upon which people can draw, and money becomes a ticketing system. The efficiency gained by individuals cooperating in the productive process was coined by Douglas as the “unearned increment of association” – historic accumulations of which constitute what Douglas called the cultural heritage. The means of drawing upon this pool is money distributed by the banking system.
経済学者によると、貨幣は交換媒介物とされる。ダグラスはこれについて、かつて富の大部分が個人によって生み出され、すぐに交換されていた時代には確かに適合していたと論じた。しかし現在の経済においては、分業制によって生産は複数の過程に分断されており、富は人々の相互協力によって生み出されている。例えば、ある自動車工はいかなる富(自動車)も一人では生み出してはいない。道路、ガソリン、保険等の他の自動車関連労働者と共同でのみそれは可能となる。この見地からは、富は人々が引出すことのできる蓄積物、貨幣はチケット・システム[en]となる。生産過程における協力によって個人が得る効果をダグラスは「共同不労所得」という造語で呼んだ。それは、ダグラスが文化的継承物と呼ぶものを構成する、過去の成果の蓄積物であり、それは銀行システムによって分配された貨幣によって引き出される。

<貨幣の今日的役割と価値
Douglas believed that money should not be regarded as a commodity but rather as a ticket, a means of distribution of production.[16] "There are two sides to this question of a ticket representing something that we can call, if we like, a value. There is the ticket itself – the money which forms the thing we call 'effective demand' – and there is something we call a price opposite to it."[16] Money is effective demand, and the means of reclaiming that money are prices and taxes. As real capital replaces labour in the process of modernization, money should become increasingly an instrument of distribution. The idea that money is a medium of exchange is related to the belief that all wealth is created by the current labour of the world, and Douglas clearly rejected this belief, stating that the cultural inheritance of society is the primary factor in the creation of wealth, which makes money a distribution mechanism, not a medium of exchange.
ダグラスは、貨幣は必需品ではなく、生産物を分配するためのチケットとみなすべきと考えた。[16] 「チケットが、そう呼びたければ価値と呼んでも構わないが、何を表しているという問題には、二つの側面がある。チケットそのもの、つまり「有効需要」と呼ばれるものを形づくる貨幣としての側面、そして、それと反対の意味の、価格と呼ばれるも側面である。[16] 貨幣は有効需要を表し、その貨幣を回収する手段が価格や税である。近代化の過程で実物資本が労働と入れ替わったので、貨幣は増々分配のための道具とされるべきである。貨幣が交換手段であるという考え方には、現在の世界の労働から富が生み出されているという信念が関与している。ダグラスはこの信念を明確に否定し、社会の文化的継承物が富の創造の第一の要因であり、それは、貨幣が交換媒介物ではなく分配機構であることを意味すると述べている。

<銀行システムへの批判
Douglas also claimed the problem of production, or scarcity, had long been solved. The new problem was one of distribution. However; so long as orthodox economics makes scarcity a value, banks will continue to believe that they are creating value for the money they produce by making it scarce.[17] Douglas criticized the banking system on two counts:
  1. for being a form of government which has been centralizing its power for centuries, and
  2. for claiming ownership of the money they create.
The former Douglas identified as being anti-social in policy.[18] The latter he claimed was equivalent to claiming ownership of the nation.[19] Money, Douglas claimed, was merely an abstract representation of the real credit of the community, which is the ability of the community to deliver goods and services, when and where they are required.
ダグラスはまた、生産に関する問題、即ち欠乏はとっくに解決していると主張した。次に問題となるのは分配である。しかし、通常の経済学が希少性に価値を置いている限り、銀行は、自ら作り出す貨幣を希少なものとすることによって価値を生み出していると信じ続けるであろう。[17] ダグラスは次の二つの点で銀行システムを批判した。
  1. 何世紀にも渡って権力を集中させてきた支配体制、そして
  2. 創造した貨幣への所有権の主張
ダグラスは1. を反社会的政策であると断じた。[18] 2. については、国の所有権を要求しているに等しいと主張した。[19] ダグラスは貨幣を、商品やサービスを必要な時に必要な場所へ分配する能力であり、共同体の真の信用を抽象的に表わすものに過ぎないと主張した。

A+B定理

<経済活動の測定方法への批判>
In January 1919, A Mechanical View of Economics by C.H. Douglas was the first article to appear in the New Age, edited by A.R. Orage, critiquing the methods by which economic activity is typically measured:
1919年1月、ダグラスの最初の記事「力学的観点からの経済学」が、A.R. Orage[en]が編集を勤めた「ニュー・エイジ」誌に掲載された。彼はそこで、経済活動の通常の測定評価方法を批判した。

"It is not the purpose of this short article to depreciate the services of accountants; in fact, under the existing conditions probably no body of men has done more to crystallise the data on which we carry on the business of the world; but the utter confusion of thought which has undoubtedly arisen from the calm assumption of the book-keeper and the accountant that he and he alone was in a position to assign positive or negative values to the quantities represented by his figures is one of the outstanding curiosities of the industrial system; and the attempt to mould the activities of a great empire on such a basis is surely the final condemnation of an out-worn method."
「この短い記事の目的は会計士の業務内容を蔑ろにすることではない。現実の条件下では、会計士以上に世界の商業上で起こっていることをデータで明確に示すことができる職能団体は、恐らくない。しかし、会計担当者や会計士は、自分達だけが数字で表された量に肯定的または否定的な価値を与えられる立場にあると慢心しており、それが思想な混乱を生じ、工業社会システムにおける奇妙な未解決問題の一つとなっている。偉大なる英国の活動を、このような考え方のもとに形成しようとするのは、最終的には時代遅れの手法であると間違いなく非難されるだろう。」

<A+B定理の発表>
In 1920, Douglas presented the A + B theorem in his book, Credit-Power and Democracy, in critique of accounting methodology pertinent to income and prices. In the fourth, Australian Edition of 1933, Douglas states:
1920年、ダグラスは著書「信用力と民主主義」内の、収入と価格に適合する会計手法に関する評論の中でA+B定理を発表した。1933年のオーストラリアで出版された第四版の中で、ダグラスはこう述べている。
"A factory or other productive organization has, besides its economic function as a producer of goods, a financial aspect—it may be regarded on the one hand as a device for the distribution of purchasing-power to individuals through the media of wages, salaries, and dividends; and on the other hand as a manufactory of prices – financial values. From this standpoint, its payments may be divided into two groups:
Group A: All payments made to individuals (wages, salaries, and dividends).
Group B: All payments made to other organizations (raw materials, bank charges, and other external costs).
Now the rate of flow of purchasing-power to individuals is represented by A, but since all payments go into prices, the rate of flow of prices cannot be less than A+B. The product of any factory may be considered as something which the public ought to be able to buy, although in many cases it is an intermediate product of no use to individuals but only to a subsequent manufacture; but since A will not purchase A+B; a proportion of the product at least equivalent to B must be distributed by a form of purchasing-power which is not comprised in the description grouped under A. It will be necessary at a later stage to show that this additional purchasing power is provided by loan credit (bank overdrafts) or export credit.”[4]
「工場その他の生産組織の役割には、商品生産者という経済的側面の他に、財政的側面も存在する。一つには賃金・給与・配当金といった手段で個人に対し購買力を分配する装置という面、もう一つは価格、即ち財政的価値を作り出す工場という面である。この見地から、工場の支払は二つのグループに分けられる。
Aグループ:個人に対して支払うもの(賃金・給与・配当金)
Bグループ:他の組織に対して支払うもの(原材料、銀行手数料その他の外部費用)
個人に支払う購買力のフローはAに等しいが、全ての支払が価格に反映されるので、価格のフローがA+B以下になることはありえない。どの工場の生産物も人々に購入されることを前提としたものと見なされるが、個人には無用であるが次の工場で有用である中間生産物である場合も多い。しかし、AではA+Bを購入できない。少なくともBに相当する部分の生産物は、Aグループに記載されているもの以外のもので構成される購買力の形で分配されなければならない。この付加的な購買力は、貸付信用(銀行当座貸越)又は輸出信用によって与えられることを、後の章で示す必要がある。」[4]

Beyond empirical evidence, Douglas claims this deductive theorem demonstrates that total prices rise faster than total incomes when regarded as a flow.
実証的な[en]論拠は別として、収入総額をフローとみなした場合、製品の価格総額はそれより速く上昇することを、この演繹的定理が示しているとダグラスは主張した。 
<支払「B」の発生源>
In his pamphlet entitled "The New and the Old Economics", Douglas describes the cause of "B" payments:
「新旧経済学」というパンフレットの中でダグラスは、支払「B」の発生源について記載している。

“I think that a little consideration will make it clear that in this sense an overhead charge is any charge in respect of which the actual distributed purchasing power does not still exist, and that practically this means any charge created at a further distance in the past than the period of cyclic rate of circulation of money. There is no fundamental difference between tools and intermediate products, and the latter may therefore be included.”[20]
「この意味での一般費用は購買力が存在しない場合の全ての費用であること、それは一般費用が実質的に貨幣の循環期間よりずっと以前の時点で発生した全ての費用であるとことを意味することは、少しばかりの考察によって明確になるはずである。工場設備と中間生産物との間に本質的に違いはなく、そのため後者は前者に含まれることになる。」[20]

<貨幣の回転速度>
In 1932, Douglas estimated the cyclic rate of circulation of money to be approximately three weeks. The cyclic rate of circulation of money measures the amount of time required for a loan to pass through the productive system and return to the bank. This can be calculated by determining the amount of clearings through the bank in a year divided by the average amount of deposits held at the banks (which varies very little). The result is the number of times money must turnover in order to produce these clearing house figures. In a testimony before the Alberta Agricultural Committee of the Alberta Legislature in 1934, Douglas said:
1932年、ダグラスは貨幣の回転速度をおよそ三週間であると算出した。これが貸付金が生産システムを経て銀行へ戻るまでに要する時間である。一年間の銀行での手形交換高[en]の量を銀行が保有する預金の平均量(ほとんど変化しない)で除すことで計算が可能である。それは、これらの手形交換所の取引量を作り出すために必要な貨幣の回転の回数に等しい。1934年、アルバータ州立法議会農業委員会の宣誓時、ダグラスは次のように述べた。

“Now we know there are an increasing number of charges which originated from a period much anterior to three weeks, and included in those charges, as a matter of fact, are most of the charges made in, respect of purchases from one organization to another, but all such charges as capital charges (for instance, on a railway which was constructed a year, two years, three years, five or ten years ago, where charges are still extant), cannot be liquidated by a stream of purchasing power which does not increase in volume and which has a period of three weeks. The consequence is, you have a piling up of debt, you have in many cases a diminution of purchasing power being equivalent to the price of the goods for sale."[21]
「さて、三週間以前の期間に発生した費用増加分があることが分かっている。また、実際のところ、これらの費用にはある組織の別の組織からの商品購入関する費用のほとんどが含まれているが、資本費用の類いは(例えば、1,2,3,5,10年前に建設された鉄道の費用は未だ存在する)、量が増加しない上、三週間という期限付きの購買力の流通によっては、全てが清算されることはない。結果として負債が蓄積され、多くの、市場の商品総額と同等であった購買力が、減少していくことになる。」[21]

<負債の不可避的増加とその弊害>
According to Douglas, the major consequence of the problem he identified in his A+B theorem is exponentially increasing debt. Further, he believed that society is forced to produce goods that consumers either do not want or cannot afford to purchase. The latter represents a favorable balance of trade, meaning a country exports more than it imports. But not every country can pursue this objective at the same time, as one country must import more than it exports when another country exports more than it imports. Douglas proposed that the long-term consequence of this policy is a trade war, typically resulting in real war – hence, the Social Credit admonition, “He who calls for Full-Employment calls for War!”, expressed by the Social Credit Party of Great Britain and Northern Ireland, led by John Hargrave. The former represents excessive capital production and/or military build-up. Military buildup necessitates either the violent use of weapons or a superfluous accumulation of them. Douglas believed that excessive capital production is only a temporary correction, because the cost of the capital appears in the cost of consumer goods, or taxes, which will further exacerbate future gaps between income and prices.
ダグラスによると、A+B定理から帰結される主な問題点は、負債が指数関数的に増加することである。更にダグラスは、社会が消費者の欲求や購入可能性のない商品の生産を強いられることになると考えた。後者[訳註:自国で購入可能性のない商品の生産]貿易収支における輸出超過、即ち、ある国の輸出輸入を上回ることを意味する。しかし、自国以外の国が輸出超過のとき、自国は輸入超過とならざるを得ないので、全ての国が同時に輸出超過状態となることは不可能である。この輸出超過政策を長期に渡って実施した場合、結果として貿易戦争を引き起こし、本当の戦争に至ることも珍しくはないので、 ジョン・ハーグレイヴ[en]率いる英国社会信用党[en]が発した「完全雇用を求める者は戦争を求める者だ!」という社会信用論から導かれる警告を、ダグラスは広めた。前者[訳註:消費者の欲求に適わない商品の生産]は、過剰資本、または、あるいは同時に、軍備増強を意味する。軍備増強は、暴力的な兵器の使用や不必要な備蓄を必要とする。ダグラスは、過剰資本は一時しのぎの辻褄合わせであると考えた。資本費用が消費財価格や課税額に反映され、結局将来の収入と価格のギャップを悪化させるからである。

"In the first place, these capital goods have to be sold to someone. They form a reservoir of forced exports. They must, as intermediate products, enter somehow into the price of subsequent ultimate products and they produce a position of most unstable equilibrium, since the life of capital goods is in general longer than that of consumable goods, or ultimate products, and yet in order to meet the requirements for money to buy the consumable goods, the rate of production of capital goods must be continuously increased. "[22]
「そもそも、これらの資本財は誰かに購入されなければならないはずだ。それらは、強制的に輸出されるべきものとして蓄積され、また、中間生産物であるから、それに続く最終生産物の価格に織り込まれなければならず、極限的に不安定な均衡状態を生み出す。なぜなら、資本財の耐用年数は一般的に消費財即ち最終生産物より長く、更に、消費財を購入するために必要とされる貨幣量に見合うよう、資本財の生産速度は常に大きくならなければならないからである。」[22]


<一般費用の収入に対する割合の増加>
The replacement of labour by capital in the productive process implies that overhead charges (B) increase in relation to income (A), because "'B' is the financial representation of the lever of capital”.[4] As Douglas stated in his first article, "The Delusion of Superproduction":[23]
生産過程において労働が資本と置き換わることは、一般費用(B)が収入(A)に対して増加することを意味する。なぜなら、「(B)は資本のレバーを表しているからだ」[4] ダグラスは初めての記事「超生産という妄想」でこう述べている。[23]

"The factory cost--not the selling price--of any article under our present industrial and financial system is made up of three main divisions-direct labor cost, material cost and overhead charges, the ratio of which varies widely, with the "modernity" of the method of production. For instance, a sculptor producing a work of art with the aid of simple tools and a block of marble has next to no overhead charges, but a very low rate of production, while a modern screw-making plant using automatic machines may have very high overhead charges and very low direct labour cost, or high rates of production. Since increased industrial output per individual depends mainly on tools and method, it may almost be stated as a law that intensified production means a progressively higher ratio of overhead charges to direct labour cost, and, apart from artificial reasons, this is simply an indication of the extent to which machinery replaces manual labour, as it should."
「現在の工業・経済システムにおけるあらゆる製品の製造原価(販売価格ではない)は、大きく三つに分類される。直接労務費、材料費、一般費用であり、その割合は、生産方法の「現代性」によって大きく変動する。例えば、彫刻家が作品を作る際に使用するのは、シンプルな道具と大理石の塊だけであり、一般費用はほとんどゼロであるが、生産速度は極めて小さい。一方、全自動の機械を使用する近代的なネジ工場では、一般費用は非常に大きいが直接労務費は非常に小さく、生産速度は大きい。一人当たりの工場での産出量の増加は主として設備と生産方式に依存するので、生産強化が直接労務費に対する一般費用の比率を高めていくことは、ほぼ法則であると言えるだろう。またその比率は、それが人為的なものかどうかは別にして、あるべき姿である、機械が人間の手による労働と置き換わっている程度をシンプルに示す、一つの指標でもある。」
<物価と雇用の関係>
If overhead charges are constantly increasing relative to income, any attempt to stabilize or increase income is met with rising prices. If income is constant or increasing, and overhead charges are continuously increasing due to technological advancement, then prices, which equal income plus overhead charges, must also increase. Further, any attempt to stabilize or decrease prices must be met by falling incomes according to this analysis. As the Phillips Curve demonstrates, inflation and unemployment are trade-offs, unless prices are reduced from monies derived from outside the productive system. According to Douglas's A+B theorem, the systemic problem of rising prices, or inflation, is not "too much money chasing too few goods", but is the increasing rate of overhead charges in production due to the replacement of labour by capital in industry combined with a policy of full employment. Douglas did not suggest that inflation cannot be caused by too much money chasing too few consumer goods, but according to his analysis this is not the only cause of inflation, and inflation is systemic according to the rules of cost accountancy given overhead charges are constantly increasing relative to income. In other words inflation can exist even if consumers have insufficient purchasing power to buy back all of production. Douglas claimed that there were two limits which governed prices, a lower limit governed by the cost of production, and an upper limit governed by what an article will fetch on the open market. Douglas suggested that this is the reason why deflation is regarded as a problem in orthodox economics because bankers and businessmen were very apt to forget the lower limit of prices.
もし一般費用が収入に対して常に増加するならば、収入を安定あるいは増加させようという試みは、どうやっても物価の上昇に帰着することになる。もし収入が一定あるいは増加し、一般費用が技術革新によって増加し続けるならば、価格は収入と一般費用の和に等しいので、これも上昇する。更にこの分析によれば、価格を安定あるいは下降させようとする試みは、ことごとく収入減に帰着することになる。フィリップス曲線が示すように、生産システム外部から得られた資金によって物価が下降しない限りは、インフレーションと失業はトレードオフ[訳註:二律背反]の関係にある。ダグラスのA+B定理によると、価格上昇即ちインフレーションの構造的問題は「金が多く、モノが少ない」ことではなく、完全雇用という政策と結びついている工業において、労働が資本と置き換わることによる一般費用の割合が増大していくことである。ダグラスは、過剰な貨幣が希少な商品を求めることがインフレーションの原因とはなり得ないとは言わなかったが、ダグラス自身の分析によると、これはインフレーションの唯一の原因ではない。一般費用が収入に比べて常に増加するならば、原価計算のルールによって、インフレーションは構造的なものだということになる。言い換えると、消費者に全ての生産物を買い戻せるだけの十分な購買力が存在するときでさえ、インフレーションは起こりうるのである。ダグラスは、価格決定には日立つの限界があると主張している。下限は生産原価により、上限はその商品が自由市場でいくらで売れるかによる。ダグラスは、これが通常の経済学でデフレーションが問題視される理由であるとした。なぜなら、銀行家や実業家は価格の下限について非常に忘れがちだからだ。

補償価格制度と国民配当金

<補償価格と国民配当金の総論>
Douglas proposed to eliminate the gap between purchasing power and prices by increasing consumer purchasing power with credits which do not appear in prices in the form of a price rebate and a dividend. Formally called a "Compensated Price" and a "National (or Consumer) Dividend", a National Credit Office would be charged with the task of calculating the size of the rebate and dividend by determining a national balance sheet, and calculating aggregate production and consumption statistics.
ダグラスは、価格に現れない信用分を価格払戻金や配当金の形で消費者に支払い、購買力を増大させることで、購買力と価格の間のギャップをなくすことを提案した。正式には「補償価格」及び「国民(又は消費者)配当金」と言い、国家信用機関は、国の貸借対照表作成による払戻金や配当金の計算業務や、生産及び消費の統計の総計[en]の計算業務を所掌することとなる。

<実際の生産原価の計算>
The price rebate is based upon the observation that the real cost of production is the mean rate of consumption over the mean rate of production for an equivalent period of time.
価格払戻金は、実際の生産原価が、同期間における平均消費速度を平均生産速度で除したものに等しいという知見に基づいて計算される。
where M = Money distributed for a given programme of production, C = consumption, P = production
M = 所与の生産プログラムにおいて分配された貨幣、C = 消費、P = 生産

note: 生産物は全て消費されるわけでなない。貨幣流通量全体のうち、そのギャップ分を除いた部分が生産原価(費用)となる。ギャップ分は過剰商品か? それともこの知見はデータから帰納的に得られたものなのか?

<真の価格の計算>
The physical cost of producing something is the materials and capital that were consumed in its production, plus that amount of consumer goods labour consumed during its production. This total consumption represents the physical, or real, cost of production.
何かを生産するときの物理的な原価は、その生産期間内の材料と資本の消費分に、その生産期間内に労働者が消費した消費財の量を加えたものである。この消費額全体は、物理的な、即ち実際の生産原価に等しい。

where Consumption = cost of consumer goods, Depreciation = depreciation of real capital, Credit = Credit Created,
Consumption = 消費財の生産原価、Depreciation = 実物資本の減価償却費、Credit =信用創造額
Production = cost of total production
Production = 総生産原価

note: TruePrice($), Cost($) なる変数に関しては説明がない。式と説明文も合致していない。前段のRaalCost(production)の式をCost($)に代入するのか?


<実際の生産原価の減少>
Since fewer inputs are consumed to produce a unit of output with every improvement in process, the real cost of production falls over time. As a result, prices should also fall with the progression of time. "As society's capacity to deliver goods and services is increased by the use of plant and still more by scientific progress, and decreased by the production, maintenance, or depreciation of it, we can issue credit, in costs, at a greater rate than the rate at which we take it back through prices of ultimate products, if capacity to supply individuals exceeds desire.".[4]
常に生産方法の改善がなされている場合、産出の際に投入・消費されるものはほとんどないので、実際の生産原価はその期間中減少する。結果、時間の経過に伴い価格も低下する。「社会の商品やサービスを届ける能力は、工業設備の利用や、更には科学技術の発展によって増大し、生産や維持費用や減価償却によって低下するので、費用に対して信用創造による貨幣発行が可能であり、その発行割合は、望まれる量以上の生産能力を社会が有している場合は、それが最終生産物の価格へ転嫁されるものより大きくなる。」[4]
<払戻金の算出法
Based on his conclusion that the real cost of production is less than the financial cost of production, the Douglas price rebate (Compensated Price) is determined by the ratio of consumption to production. Since consumption over a period of time is typically less than production over the same period of time in any industrial society, the real cost of goods should be less than the financial cost.
実際の生産原価は財政上の生産原価より小さいという結論に基づくと、ダグラスの価格払戻金(補償価格)は、消費の生産に対する割合によって決定される。通常、どの工業化社会においても一定期間の消費は同期間の生産より少ないので、実際の商品原価は財政的原価より小さくなるはずである。

<払戻金の実例
For example, if the money cost of a good is $100, and the ratio of consumption to production is 3/4, then the real cost of the good is $100(3/4)=$75. As a result, if a consumer spent $100 for a good, the National Credit Authority would rebate the consumer $25. The good costs the consumer $75, the retailer receives $100, and the consumer receives the difference of $25 via new credits created by the National Credit Authority.
例えば、ある商品の財政上の原価が100ドルで、消費の生産に対する割合が3/4とすると、実際の商品原価は100ドル×(3/4)=75ドルとなる。結果、消費者が100ドルを支払ったときは、国家信用機関が消費者に25ドルを払い戻す。消費者価格は75ドル、小売業者の受領額は100ドルなので、消費者は差額の25ドルを、国家信用機関によって新しく創造された信用として受け取るのである。

<国民配当金の正当性
The National Dividend is justified by the displacement of labour in the productive process due to technological increases in productivity. As human labour is increasingly replaced by machines in the productive process, Douglas believed people should be free to consume while enjoying increasing amounts of leisure, and that the Dividend would provide this 
freedom.
国民配当金は、人間の労働からの排除が、技術発展による生産性の向上に起因することから正当化される。生産過程において人間の手による労働が増々機械と置き換わっていくに伴い、人々は増加した余暇を楽しみながら自由に消費すべきであり、このような経済的自由は国民配当金によって与えられるとダグラスは考えた。


A+B理論への批判とそれに対する反論

<一般的な批判
Critics of the theorem, such as J.M. Pullen, Hawtrey and J.M Keynes argue there is no difference between A and B payments. Other critics, such as Gary North, argue that Social Credit policies are inflationary. "The A + B theorem has met with almost universal rejection from academic economists on the grounds that, although B payments may be made initially to “other organizations,” they will not necessarily be lost to the flow of available purchasing power. A and B payments overlap through time. Even if the B payments are received and spent before the finished product is available for purchase, current purchasing power will be boosted by B payments received in the current production of goods that will be available for purchase in the future."[24]
J.M.ピューレン、ホートレイ、J.M ケインズのようなA+B定理の批判者は、支払Aと支払Bの間に違いはないと論じた。ゲイリー・ノースをはじめとする他の批判者は、社会信用政策はインフレーションを誘発するものだと論じた。「はじめに『他の組織』へ支払ったからといって、Bが必ずしも有効購買力のフローから消え去るわけではないという理由で、A+B定理は、ほとんど全ての大学の経済学者から相手にされなかった。支払Aと支払Bは、時間の経過とともに重複していく。例え支払Bが、最終生産物の購入前に受領され支払われたとしても、将来購入されるべき商品の現在の生産過程によって受領された支払Bによって、現在の購買力は増大するはずだ。」[24]

<ジョゼフの反批判
A.W. Joseph replied to this specific criticism in a paper given to the Birmingham Actuarial Society, "Banking and Industry":
A.W. ジョゼフは、バーミンガム保険数理学会に寄稿した論文「銀行業と工業」の中で、上記の典型的な批判に対してこう答えている。
"Let A1+B1 be the costs in a period to time of articles produced by factories making consumable goods divided up into A1 costs which refer to money paid to individuals by means of salaries, wages, dividends, etc., and B1 costs which refer to money paid to other institutions. Let A2, B2 be the corresponding costs of factories producing capital equipment. The money distributed to individuals is A1+A2 and the cost of the final consumable goods is A1+B1. If money in the hands of the public is to be equal to the costs of consumable articles produced then A1+A2 = A1+B1 and therefore A2=B1. Now modern science has brought us to the stage where machines are more and more taking the place of human labour in producing goods, i.e. A1 is becoming less important relatively to B1 and A2 less important relatively to B2.
「A1+B1 を一定期間に消費材工場において製品の生産に要する費用、うちA1を給与・賃金・配当金の形で個人に支払われた費用、B1を他の組織に支払った費用とする。A2とB2は、資本設備を生産する工場の対それぞれ応する費用とする。個人に支払われた貨幣はA1+A2であり、最終消費材の生産費用はA1+B1となる。もし人々の手にある貨幣が消費材の生産費用と同額になるなら A1+A2 = A1+B1となり、ゆえに A2=B1である。今私たちの社会は、現代科学によって、生産過程での人の手による仕事が増々機械に入れ替わっていく段階にある。従って、A1はB1と比べ、またA2はB2と比べ、その価は小さくなりつつある。

In symbols if B1/A1 = k1 and B2/A2 = k2 both k1 and k2 are increasing.
B1/A1 = k1 及び B2/A2 = k2 とすると、k1、k2 とも増加する。

Since A2=B1 this means that (A2+B2)/(A1+B1)= (1+k2)*A2/(1+1/k1)*B1 = (1+k2)/(1+1/k1) which is increasing.
A2=B1 であるから、(A2+B2)/(A1+B1)= (1+k2)*A2/(1+1/k1)*B1 = (1+k2)/(1+1/k1) となり、[訳註:資本財の消費材に対する生産費用の割合は]増加する。

Thus in order that the economic system should keep working it is essential that capital goods should be produced in ever increasing quantity relatively to consumable goods. As soon as the ratio of capital goods to consumable goods slackens, costs exceed money distributed, i.e. the consumer is unable to purchase the consumable goods coming on the market."
故に、経済システムが稼働し続けるには、消費材の生産量と比べて常に資本財の生産量が増大し続けることが不可欠となる。資本財の消費材に対する費用の割合が減少すれば、直ちに、生産費用が人々に分配された貨幣量を上回ることとなり、消費者は市場にある消費財を購入できなくなる。」

<ホブソン博士への返答
And in a reply to Dr. Hobson, Douglas restated his central thesis: "To reiterate categorically, the theorem criticised by Mr. Hobson: the wages, salaries and dividends distributed during a given period do not, and cannot, buy the production of that period; that production can only be bought, i.e., distributed, under present conditions by a draft, and an increasing draft, on the purchasing power distributed in respect of future production, and this latter is mainly and increasingly derived from financial credit created by the banks." [25]
更に、ホブソン博士への返答においてダグラスは、自説の核心となるテーゼについて再び述べている。「ホブソン博士が批判されている理論について、繰り返し断言します。ある期間内に分配された賃金・給与・配当金によって、当該期間の生産物が購入されることはないし、購入することも出来ません。生産物は、現在の条件下では手形によってのみ購入即ち分配が可能です。将来の生産を見越して分配される購買力を担保にした手形の流通が増加すれば、この増加した手形は主に、更に増々銀行の信用創造から得られることになるのです。」[25]

<セイの法則の否定
Incomes are paid to workers during a multi-stage program of production. According to the convention of accepted orthodox rules of accountancy, those incomes are part of the financial cost and price of the final product. For the product to be purchased with incomes earned in respect of its manufacture, all of these incomes would have to be saved until the product’s completion. Douglas argued that incomes are typically spent on past production to meet the present needs of living, and will not be available to purchase goods completed in the future—goods which must include the sum of incomes paid out during their period of manufacture in their price. Consequently, this does not liquidate the financial cost of production inasmuch as it merely passes charges of one accountancy period on as mounting charges against future periods. In other words, according to Douglas, supply does not create enough demand to liquidate all the costs of production. Douglas denied the validity of Say's Law in economics.
収入は、生産プログラムの複数の段階で労働者に支払われる。通常認められている会計上の慣習によると、これらの収入は財政上の費用や最終生産物価格の一部とされる。得られた収入によって生産物が購入されるためには、生産過程が終るまで、これらの収入は全て貯蓄されていなければならない。ダグラスは、概して収入は、過去の生産物に対し、現在の生活の必要のために使用されるものであり、将来完成するであろう商品に対しては使用できず、その商品には、その製造期間に支払われた収入の合計額を算入しなければならないと論じた。従って、単に次の会計期間へ負担を先送りするだけであり、財政上の生産費用が収入によって清算されることはない。言い換えると、ダグラスによると、供給が生産費用を全て清算するだけ十分な需要を生み出すことはないのであり、経済学上のセイの法則の有効性は否定される。

<ケインズの論評
While John Maynard Keynes referred to Douglas as a “private, perhaps, but not a major in the brave army of heretics,[26] he did state that Douglas “is entitled to claim, as against some of his orthodox adversaries, that he at least has not been wholly oblivious of the outstanding problem of our economic system.” [26] While Keynes said that Douglas’s A+B theorem “includes much mere mystification”, he reaches a similar conclusion to Douglas when he states:
ジョン・メイナード・ケインズはダグラスについて「勇敢な異教徒の軍の大佐というより、恐らくは一兵卒だ」[26] と評し、ダグラスには「月並みな反論に対しては、少なくとも経済システムにおける未解決問題を完全に忘れている訳ではないと言い返す資格はある」[26] とも述べた。ケインズはダグラスのA+B定理を「単なるごまかしを多く含む」と言う一方で、次のように述べ、ダグラスと同様の結論に達している。

“Thus the problem of providing that new capital-investment shall always outrun capital-disinvestment sufficiently to fill the gap between net income and consumption, presents a problem which is increasingly difficult as capital increases. New capital-investment can only take place in excess of current capital-disinvestment if future expenditure on consumption is expected to increase. Each time we secure to-day’s equilibrium by increased investment we are aggravating the difficulty of securing equilibrium to-morrow.”
「故に、正味の収入と消費の間のギャップを埋めるため、新たな資本投資が常に負の資本投資を十分に上回らなければならないという供給における問題は、資本の増加に伴って増々困難になっていくという問題を提示している。将来の消費支出の増大が見込まれ、現在の負の資本投資を上回る場合にのみ新たな資本投資は可能である。投資拡大によって今日の財政均衡を保障するときは毎回、明日の財政均衡を保障することが更に困難になるのである。」[26] 

<貨幣数量説の否定
The criticism that Social Credit policies are inflationary is based upon what economists call the quantity theory of money, which states that the quantity of money multiplied by its velocity of circulation equals total purchasing power. Douglas was quite critical of this theory stating, "The velocity of the circulation of money in the ordinary sense of the phrase, is – if I may put it that way – a complete myth. No additional purchasing power at all is created by the velocity of the circulation of money. The rate of transfer from hand-to-hand, as you might say, of goods is increased, of course, by the rate of spending, but no more costs can be canceled by one unit of purchasing power than one unit of cost. Every time a unit of purchasing power passes through the costing system it creates a cost, and when it comes back again to the same costing system by the buying and transfer of the unit of production to the consuming system it may be cancelled, but that process is quite irrespective of what is called the velocity of money, so the categorical answer is that I do not take any account of the velocity of money in that sense."[27] The Alberta Social Credit government published in a committee report what was perceived as an error in regards to this theory: “The fallacy in the theory lies in the incorrect assumption that money 'circulates', whereas it is issued against production, and withdrawn as purchasing power as the goods are bought for consumption."[28]
社会信用論がインフレーションを誘発するという批判は、経済学者が貨幣数量説と呼ぶ理論に基づいている。貨幣数量説とは、流通速度を貨幣量に乗じたが購買力の総額になるというものである。ダグラスはこの理論に対して非常に批判的であり、「通常の意味での貨幣の流通速度というのは — もしそう言ってもいいならば — 完全な神話である。貨幣の流通速度が購買力の増加分を生み出すことは全くない。勿論、人の手から手へ商品が移動する速度が貨幣の使用速度の増加によって大きくなるのは仰る通りだが、購買力一単位が一単位以上の費用と釣り合うことはない。購買力一単位が原価計算システムを通過する度に費用が発生し、それは購入及び生産物一単位の消費システムへの移動によって元の原価計算システムに戻って来たときに相殺されるが、その過程は貨幣流通速度と言われるものには全く関係ないので、そういう意味での貨幣流通速度というものは考慮に値しないと私は断定する。」[27] アルバータ州社会信用党政府は、委員会白書の中で、貨幣数量説に関して誤りと思われる箇所について述べている。「この理論の誤りは、貨幣が「流通する」という不適切な仮定にある。実際には、貨幣は生産に対して発行され、消費のために商品が購入される際の購買力として引き出されるのである。」[28]

<他の批判及び反論(負債の蓄積への言及)
Other critics argue that if the gap between income and prices exists as Douglas claimed, the economy would have collapsed in short order. They also argue that there are periods of time in which purchasing power is in excess of the price of consumer goods for sale.
他の批判者は、ダグラスの言うように収入と価格の間にギャップがあるならば、経済は即座に破綻するはずだと論じている。また、購買力が消費財の販売価格を上回る期間も存在するはずだとも論じている。

Douglas replied to these criticisms in his testimony before the Alberta Agricultural Committee:
ダグラスはこれらの批判に対して、アルバータ農業委員会の開会前の宣誓時にこう答えている。

"What people who say that forget is that we were piling up debt at that time at the rate of ten millions sterling a day and if it can be shown, and it can be shown, that we are increasing debt continuously by normal operation of the banking system and the financial system at the present time, then that is proof that we are not distributing purchasing power sufficient to buy the goods for sale at that time; otherwise we should not be increasing debt, and that is the situation."[21]
「反対論者は、一日一千万ポンドという速度でその際に負債が蓄積されていることを忘れている。そして現在も、通常の銀行システムや財政システムの活動によって常に負債が増加し続けていることが示されるなら、それが誰も商品購入に十分な購買力形成を妨害しているわけではないという証拠であることを示すことができるのである。さもなければ負債が増える訳はない。これが実情なのだ。」[21]



政治理論

<ダグラスの政治観—有責投票
C.H. Douglas defined democracy as the “will of the people”, not rule by the majority,[29] suggesting that Social Credit could be implemented by any political party supported by effective public demand. Once implemented to achieve a realistic integration of means and ends, party politics would cease to exist. Traditional ballot box democracy is incompatible with Social Credit, which assumes the right of individuals to choose freely one thing at a time, and to contract out of unsatisfactory associations. Douglas advocated what he called the “responsible vote”, where anonymity in the voting process would no longer exist. "The individual voter must be made individually responsible, not collectively taxable, for his vote."[30] Douglas believed that party politics should be replaced by a "union of electors" in which the only role of an elected official would be to implement the popular will.[31] Douglas believed that the implemenation of such a system was necessary as otherwise the government would be the tool of international financiers. Douglas also opposed the secret ballot arguing that it led to electoral irresponsibility, calling it a "Jewish" technique used to ensure Barabbas was freed leaving Christ to be crucified.[31]
C.H.ダグラスは、民主主義を、多数による支配ではなく、「人民の意思」として定義した。[29] これは、十分に有効な数の民衆の求めによって支えられる政党であればどれであっても、社会信用政策を実施することができることを示唆している。一旦、現実路線として手段と目的を一つにしてしまったら、政党政治の存在意義はなくなる。従来の投票箱による民主主義は社会信用論と両立しない。あるものを自由に一度に選べ、不愉快な人間関係から離脱する権利が個人にあると仮定しているからである。ダグラスは、投票行動における匿名性をなくした「有責投票」を提唱した。「一人一人の有権者は、一斉に投票義務を課されるのではなく、それぞれの責任で投票しなければならない。」[30] ダグラスは、政党政治は「有権者連合」による政治に取って代わるべきだと考えていた。そこで選ばれた人は、人々の意思を実施に移す役割のみを果たす。[31] ダグラスは、政府が国際金融家の手先とならないためには、このようなシステムにすることが必要だと考えていた。ダグラスは、無責任な投票行動に繋がるという理由で秘密投票に反対していた。それをダグラスは、 キリストが十字架に磔にされる一方でバラバの釈放を確実にする際に用いられた「ユダヤ的」手法であると呼んだ。[31]

<三位一体説の政治への適用
Douglas considered the constitution an organism, not an organization.[30] In this view, establishing the supremacy of common law is essential to ensure protection of individual rights from an all-powerful parliament. Douglas also believed the effectiveness of British government is structurally determined by application of a Christian concept known as Trinitarianism: "In some form or other, sovereignty in the British Isles for the last two thousand years has been Trinitarian. Whether we look on this Trinitarianism under the names of King, Lords and Commons or as Policy, Sanctions and Administration, the Trinity-in-Unity has existed, and our national success has been greatest when the balance (never perfect) has been approached."[30]
ダグラスは、国家政体は有機体であり、単なる組織ではないと考えていた。[30] 彼の見解によると、あらゆる権力を持つ議会から 個人の権利を守るためには、コモン・ローの至高性を確立することが重要となる。ダグラスはまた、イギリス政府の有効性は、三位一体説として知られるキリスト教徒の教義を適用することによって、構造的に決定されると考えていた。「様々な形式をとりつつも、直近二千年間のブリテン諸島の君主は三位一体主義者のもとにあった。この三位一体を、王・貴族・庶民の名のもとに、あるいは政策・制裁・統治として見出すかどうかは別として、三位一体の状態が存在し、それらの間に均衡が得られていたとき、我らが英国は偉大な成功を収めていたのである。」[30]

<政党政治の否定
Opposing the formation of Social Credit parties, C.H. Douglas believed a group of elected amateurs should never direct a group of competent experts in technical matters.[32] While experts are ultimately responsible for achieving results, the goal of politicians should be to pressure those experts to deliver policy results desired by the populace. According to Douglas, "the proper function of Parliament is to force all activities of a public nature to be carried on so that the individuals who comprise the public may derive the maximum benefit from them. Once the idea is grasped, the criminal absurdity of the party system becomes evident."[33]
ダグラスは、社会信用政党の成立には反対しつつも、技術的事項に関しては、選ばれたアマチュアが優秀な専門家集団を管理すべきでないと考えていた。[32] 最終的な結果責任は専門家にあるものの、政治家にも、人々の望む政治的成果を実現するようこれらの専門家に圧力をかける義務がある。ダグラスによれば、「議会の固有の機能は、あらゆる公的な性質を有する活動を、大衆を構成する個人が最大限の利益を得られるように継続するよう強制することである。一旦この考え方が理解されれば、政党制の犯罪的なまでの不合理性が明白になるであろう。」[33]


社会信用論の歴史

<雑誌での普及
C.H. Douglas was a civil engineer who pursued his higher education at Cambridge University. His early writings appeared most notably in the British intellectual journal The New Age. The editor of that publication, Alfred Orage, devoted The New Age and later The New English Weekly to the promulgation of Douglas's ideas until his death on the eve of his BBC speech on Social Credit, November 5, 1934, in the Poverty in Plenty Series.
C.H.ダグラスは、土木技術者であり、ケンブリッジ大学で高等教育を修めた。彼の初期の著述は、最も著名な英国の知識層向け雑誌である「ニュー・エイジ[en]」に見受けられる。その雑誌の編集者であるAlfred Orageは、1934年11月5日、BBCの番組「豊かさの中の貧困」の中で社会信用論に関して話す予定の前日の夜に死去するまで、雑誌「ニュー・エイジ」、後に雑誌「週刊ニュー・イングリッシュ」で、 ダグラスのアイデアの普及に専心した。 

<著書及び委員会での諮問
Douglas’s first book, Economic Democracy, was published in 1920, shortly after his article The Delusion of Super-Production[23] appeared in 1918 in the English Review. Among Douglas’s other early works were The Control and Distribution of Production,Credit-Power and Democracy, Warning Democracy and The Monopoly of Credit. Of considerable interest is the evidence he presented to the Canadian House of Commons Select Committee on Banking and Commerce[34] in 1923, to the British ParliamentaryMacmillan Committee on Finance and Industry in 1930, which included exchanges with economist John Maynard Keynes, and to the Agricultural Committee of the Alberta Legislature in 1934 during the term of the United Farmers of Alberta Government in thatCanadian province.
ダグラスの最初の本「経済民主主義」は、彼の「超生産という妄想[23] 」がイングリッシュ・レビュー誌に掲載された直後の1920年に出版された。ダグラスの他の初期の著作には「生産の制御と分配」、「信用力と民主主義」、「民主主義と信用独占への警告」がある。 彼の興味の範囲が多岐に渡っていた証拠に、カナダ庶民院の銀行商業特別委員会(1923年)[34] 、経済学者ジョン・メイナード・ケインズとの意見交換を含む英国議会マクミラン委員会(財政・工業)(1930年)、アルバータ農民連合政権時代のアルバータ州立法議会農業委員会(1934年)への出席がある。

<運動への関与と晩年
The writings of C.H. Douglas spawned a worldwide movement, most prominent in the British Commonwealth, with beachheads in Europe and activities in the United States where Orage, during his sojourn there, promoted Douglas’s ideas. In the United States, the New Democracy group was headed by the American author Gorham Munson who contributed a major book on Social Credit titled Aladdin’s Lamp: The Wealth of the American People. While Canada and New Zealand had electoral successes with “Social Credit” political parties, the movement in England and Australia was primarily devoted to pressuring existing parties to implement Social Credit. This function was performed especially by Douglas’s Social Credit Secretariat in England and the Commonwealth Leagues of Rights in Australia. Douglas continued writing and contributing to the Secretariat’s journals, initially Social Credit and shortly thereafter The Social Crediter (which continues to be published by the Secretariat) for the remainder of his lifetime, concentrating more on political and philosophical issues in his later years.
C.H.ダグラスの著作は世界中に社会運動を引き起こした。英連邦内の運動が最も激しく、ヨーロッパを足掛かりとして、米国での活動が活発化した。米国滞在中はOrageがダグラスのアイデアを広めた。米国では、新民主主義グループが、社会信用論に関する有名な書籍である「アラジンのランプ:アメリカ人の富」に寄稿した米国の作家Gorham Munsonに率いられて活動していた。カナダとニュージーランドでは「社会信用論」政党が選挙で成功を納めていたが、イングランドとオーストラリアの運動では、社会信用政策を実施するよう既存政党に圧力を加えることに専念していた。この機能を果たしたのは特に、英国ダグラスの社会信用論事務局とオーストラリアにあった 英連邦右翼連合であった。ダグラスは著作活動を続け、はじめは「Social Credit」、間もなく「The Social Crediter」という名称に変わった事務局の雑誌(現在も事務局によって発行が続けられている)に、自分の人生の残りの時間を費やして寄稿した。晩年は、更に政治的、哲学的なテーマに集中していった。

政治上の歴史

<労働党による拒絶
In early years of the movement, Labour Party leadership resisted pressure from Trade unionists to implement Social Credit, as hierarchical views of Fabian socialismeconomic growth and full employment, were incompatible with the National Dividend and abolishment of wage slavery suggested by Douglas. In an effort to discredit the Social Credit movement, one leading Fabian, Sidney Webb, is said to have declared that he didn’t care whether Douglas was technically correct or not – they simply did not like his policy.[35]
運動の初期、労働党指導部は、社会信用制度を実施せよという労働組合からの圧力に抵抗していた。フェビアン社会主義者経済成長完全雇用という階級闘争的な見解が、国民配当金と賃金奴隷[en]廃絶というダグラスの提案と相容れなかったからである。社会信用論運動への信頼を貶めようとする中で、フェビアン社会主義の指導者の一人であるシドニー・ウェブは、ダグラスの論が専門的な観点から正しいか正しくないかは問題ではないと公言したと言われている。彼らは、ただ単にダグラスの政策が気に食わなかっただけなのである。[35]

<カナダの社会信用党(アバーハート)
In 1935 the first “Social Credit” government was elected in AlbertaCanada under the leadership of William Aberhart. A book by Maurice Colbourne entitled The Meaning of Social Credit convinced Aberhart that the theories of C.H. Douglas were essential for Alberta's recovery from the Great Depression. Aberhart added a heavy dose of fundamentalist Christianity to Douglas' theories; the Canadian social credit movement, which was largely nurtured in Alberta, thus acquired a strong social conservative tint that it retains to this day.
1935年、最初の「社会信用党[en]」政権が、ウィリアム・アバーハート[en]の主導のもと、カナダアルバータ州で選出された。モーリス・コルボーンの著書「社会信用論の意味」を読み、アバーハートは、C.H.ダグラスの理論がアルバータ州を世界恐慌から立ち直らせるのに必要であると確信した。アバーハートは、ダグラスの理論にキリスト教根本主義的な考え方を大幅に加えた。アルバータ州で大きく成長したカナダの社会信用運動[en]は、ゆえに、社会保守主義的な色合いを強く帯びるようになり、それが今日まで続いている。

<アバーハートとの訣別
Having counselled the previous United Farmers of Alberta provincial government, Douglas became an advisor to Aberhart, but withdrew shortly after due to strategic differences. Aberhart sought orthodox counsel with respect to the Province's finances, and the strained correspondence between them was published by Douglas in his book, The Alberta Experiment.[36]
前の州政府の政権党であるアルバータ農民連合[en]の相談役をしていたダグラスは、アバーハートの顧問となったが、戦略上の考え方の相違から、まもなく辞任した。アバーハートは州の財政に関する通常の助言を求めたのである。両者の緊迫したやりとりの内容は、ダグラスの著書「アルバータ州の実験」として出版された。[36]

<均衡予算への疑義
While the Premier wanted to balance the provincial budget, Douglas argued the whole concept of a "balanced budget" was inconsistent with Social Credit principles. Douglas stated that, under existing rules of financial cost accountancy, balancing all budgets within an economy simultaneously is an arithmetic impossibility.[37] In a letter to Aberhart, Douglas stated:[37]
アルバータ州の首相[en]は、州の予算を均衡させたかったが、ダグラスは、均衡予算[en]の概念全体が社会信用論の原則と矛盾すると論じた。ダグラスは、現状の費用算出方式のもとでは、一定の経済の中で全ての予算を同時に均衡させることは計算上不可能[37]と述べた。アバーハートへの書簡の中で、ダグラスはこう述べている。[37]

"This seems to be a suitable occasion on which to emphasise the proposition that a Balanced Budget is quite inconsistent with the use of Social Credit (i.e., Real Credit – the ability to deliver goods and services 'as, when and where required') in the modern world, and is simply a statement in accounting figures that the progress of the country is stationary, i.e., that it consumes exactly what it produces, including
capital assets. The result of the acceptance of this proposition is that all capital appreciationbecomes quite automatically the property of those who create and issue of money [i.e., the banking system] and the necessary unbalancing of the Budget is covered by Debts."
「これは絶好の機会だと思い、均衡予算が現代社会においては社会信用論(本当の信用 — 必要な時、必要な場所へ商品やサービスを届けられる能力)と極めて矛盾していること、均衡予算が国家の進歩が停滞していること、つまり、消費額と固定資産を含む生産額が全く同じであることを、会計上の数字で表しただけのものであることを強調しました。この均衡予算という提案を受け入れることは、全ての資本増価[en]分が完全に自動的に貨幣を創造し発行している者[訳註:銀行システムのこと]の資産となり、その必然として生じる予算の不均衡が負債によって賄われるという結果になるのです。」

<法制化の挫折・減価貨幣の失敗・ゲゼル批判
Douglas sent two other expert Social Credit technical advisors from the United Kingdom, L. Denis Byrne and George F. Powell. But all attempts to pass Social Credit legislation were ruled ultra vires by the Supreme Court of Canada and Privy Council in London. Based on the monetary theories of Silvio Gesell, William Aberhart issued a currency substitute known as prosperity certificates. But these scrips actually depreciated in value the longer they were held,[38] and Douglas openly criticized the idea:
ダグラスは、社会信用論の技術顧問として、L・デニス・バーンとジョージ・F・パウエルの二人を英国から送り込んだ。しかし、社会信用論の法制化の試みは全て、カナダ最高裁判所[en]ロンドン枢密院によって権限外[en]であると裁定された。 シルビオ・ゲゼルの貨幣理論に基づき、ウィリアム・アバーハートは繁栄証明書[en]として知られる貨幣代替物を発行した。しかし、これらの金券は、実際には長く所有すればするほど価値が減るものであったので、[38] ダグラスはこのアイデアを公に批判した。
"Gesell's theory was that the trouble with the world was that people saved money so that what you had to do was to make them spend it faster. Disappearing money is the heaviest form of continuous taxation ever devised. The theory behind this idea of Gesell's was that what is required is to stimulate trade—that you have to get people frantically buying goods—a perfectly sound idea so long as the objective of life is merely trading."
[39]
「ゲゼルの理論は、世界で起こっている問題の原因は人々がお金を貯蓄することであり、やるべきことは、お金をより早く使わせることだというものである。消えて行くお金は、これまで考案された中で最も重い継続的な課税方法である。このゲゼルのアイデアの背後にあるのは、必要なのは商業活動を刺激することだという理論だ。つまり、人々に熱狂的に買物をさせろということであり、確かに、それは全く正しい考え方である —ただし、人生の目的が商業活動だけであるとすればの話だが。」[39]

<社会信用党の変質
Under Ernest Manning, who succeeded Aberhart after his untimely death, the Alberta Social Credit Party gradually departed from its origins and became popularly identified as a right wing populist movement. In the Secretariat’s journal, An Act for the Better Management of the Credit of Alberta,[40] Douglas published a critical analysis of the Social Credit movement in Alberta,[41][42] in which he said, "The Manning administration is no more a Social Credit administration than the British government is Labour". Manning accused Douglas and his followers of anti-Semitism, and went about purging all of the so called "Douglasites" from the Party. The British Columbia Social Credit Party won power in 1952 in the province to Alberta's west, but had little in common with Douglas or his theories.
アバーハートが若くして死んだ後を受け継いだアーネスト・マニング[en]のもと、アルバータ社会信用党[en]は徐々に当初の形から離れ、一般に右翼ポピュリズムとして知られる運動を行うようになった。事務局の雑誌である「An Act for the Better Management of the Credit of Alberta」で[40]ダグラスは、アルバータ州の社会信用運動を批判的に分析したものを掲載した。[41][42]彼はそこで、「マニングの運営方法は、もはや社会信用論のものではない。英国政府は労働党が運営しているのだと言うに等しい。」 マニングはダグラスとその支持者を反ユダヤ主義者と非難し、いわゆる「ドーグラサイト[訳註:Douglasと鉱物の一種douglasiteをかけた名前?ダグラス支持者のことと思われる。http://www.merriam-webster.com/dictionary/douglasite]」を全て党内から次々と追放した。アルバータ州の西にある州では、ブリティッシュ・コロンビア州社会信用[en]は1952年に政権を取ったが、ダグラスやその理論との共通点はほとんどない。

<社会信用党の現状
Social Credit Parties also enjoyed some national electoral success in Canada. The Social Credit Party of Canada was founded with support from Western Canada, and eventually built another base of support in Quebec. Social Credit also did well at the national level in New Zealand, where it was the country's third party for almost 30 years.
社会信用党もまた、カナダの国政選挙で成功を収めた。カナダ社会信用党[en]はカナダ西部の支援のもと設立され、やがて、ケベック州にも別の拠点を構えた。ニュージーランド[en]では社会信用党は国レベルで成功しており、およそ30年に渡り、国会の第三勢力となっている。

社会信用論の哲学

<実用的キリスト教>
Douglas described Social Credit as "the policy of a philosophy", and warned against viewing it solely as a scheme for monetary reform.[43] He coined this philosophy "practical Christianity" – the central issue of which is the Incarnation. Douglas believed there was a Canon which ran through the universe, and Jesus Christ was the Incarnation of this Canon. However, he also believed Christianity remained ineffective so long as it remained transcendental. Religion, which derives from the Latin word religare (to “bind back”), was intended to be a binding back to reality.[44] Social Credit is concerned with the incarnation of Christian principles in our organic affairs. Specifically, it is concerned with the principles of association and how to maximize the increments of association which redound to satisfaction of the individual in society – while minimizing any decrements of association.[45] The goal of Social Credit is to maximize immanent sovereignty. Social Credit is consonant with the Christian doctrine of Salvation through unearned grace, and is therefore incompatible with any variant of the doctrine of salvation through works. Works need not be of Purity in intent or of desirable consequence and in themselves alone are as "filthy rags". For instance, the present system makes destructive, obscenely wasteful wars a virtual certainty—which provides lots of "work" for everyone. Social Credit has been called the Third Alternative to the futile Left-Right Duality.[46]
ダグラスは、社会信用論を「哲学の政策」と記し、それを単なる貨幣制度改革とみなすことに対して注意を促した。[43] 彼は、この哲学を「実用的キリスト教」と命名した。その中心課題は受肉である。ダグラスは全宇宙で通用する聖書正典の存在と、イエス・キリストは、この聖書正典の受肉[訳註:人の姿]であったと信じていた。しかし、 超自然主義のままでいる限り、キリスト教は無力なままであるとも考えていた。ラテン語の「religare(「後ろで束ねる」)」に由来する「Religion(宗教)」という言葉は、現実に対して後ろ手に縛られたままにするという意図が含まれている。[44] 社会信用論は、私たちの根本的な物事において、受肉というキリスト教原理に関わっている。特に、共同体の原理や、共同体の不利益を最小限にとどめる一方で、社会での個人の満足に還元される共同体の利益を最大にする方法に関わっている。[45] 社会信用論の目的は、人に内在する主権を最大化することである。社会信用論は、生まれながらの恩寵よる救済というキリスト教の教義と一致しており、それゆえ、仕事による救済という考え方とは、いかなる形であっても両立しない。仕事は必ずしもその意思において純粋でもなく望んだ結果でもない。それ自体が「汚れた衣」のようなものである。例えば、現在のシステムは、破壊的かつ不愉快で浪費的な戦争を、事実上必然的なものにしている。なぜなら、戦争は、全ての人に「仕事」を与えるのだから。社会信用論は、無益な政治的左右二元論に代わる三番目の選択肢であると言われている。[46]
note: キリスト教の「受肉」の本質は、神が人間に大事な事を伝えるためにわざわざ肉体を得たことから、「ためになることを伝える」ところにあるようだ。「共同体の利益を最大にする方法」は、キリストが人間に伝えようとした知恵?の類と同一視されるというのがこの文章の可能な解釈の一つである。キリスト教に詳しい方であれば、他の正しい解釈も可能かも知れない。
note: 「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6口語) http://www.clife.info/sda-osaka/08/080519.html どのような正しい行いでも、「死んだ心をもって何をしても、結果は絶望的」なのである、という意味のようだ。望んでやらない仕事は絶望的ということか

<神権政治の否定と新しい文明>
Although Douglas defined Social Credit as a philosophy with Christian roots, he did not envision a Christian theocracy. Douglas did not believe that religion should be thrust upon anyone through force of law or external compulsion. Practical Christian society is Trinitarian in structure, based upon a constitution where the constitution is an organism changing in relation to our knowledge of the nature of the universe.[30] "The progress of human society is best measured by the extent of its creative ability. Imbued with a number of natural gifts, notably reason, memory, understanding and free will, man has learned gradually to master the secrets of nature, and to build for himself a world wherein lie the potentialities of peace, security, liberty and abundance."[47] Douglas said that Social Crediters want to build a new civilization based upon absolute economic security for the individual—where “...they shall sit every man under his vine and under his fig tree; and none shall make them afraid.”[48][49] In keeping with this goal, Douglas was opposed to all forms of taxation on real property. This set Social Credit at variance from the land-taxing recommendations of Henry George.[50]
ダグラスは、社会信用論をキリスト教に基礎を置く哲学であると定義したが、神権政治を思い描くことはなかった。ダグラスは、宗教は法律や外部的な強制力によって押し付けられるべきではないと考えていた。実用的なキリスト教の教派の構造は三位一体的で、万物の性質についての知識との関係によって組織を変化させる仕組みに基づいている。[30] 「人間社会の進歩の程度を最もよく表しているのは、その創造的活動能力の度合いである。理性、記憶、理解力、自由意思といった自然からの贈り物が行き渡ったことによって、人間は自然の秘密を解き明かし、平和・安全・自由・豊かさを実現する可能性のある世界を作る方法を徐々に学んできた。」[47] ダグラスは、社会信用論者は、個人の絶対的な経済的保障に立脚する、新しい文明を作りたいのであると述べた。そこでは、「...彼らは、全ての人をブドウの樹とイチジクの樹[en]の下に座らせるだろう。そして、誰も彼らを恐れさせないだろう。」[48][49] この目標を守り続けるため、ダグラスは現実の財産への課税はどんな形のものも全て反対した。この点が、社会信用論が、ヘンリー・ジョージが地価税を推奨したことと相違するところである。[50]
note: 新約聖書マルコ福音書に、3年前にブドウ園の中に植えたイチジクの樹が見つからないとキリストが怒って全て切り倒せと言った逸話がある。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_061.htm イチジクの樹はイスラエルの象徴で、この逸話自体が裁きの象徴らしい。が、良く分からない。

<自由の尊重と全体主義の否定>
Social Credit society recognizes the fact that the relationship between man and God is unique.[51] In this view, it is essential to allow man the greatest possible freedom in order to pursue this relationship. Douglas defined freedom as the ability to choose and refuse one thing at a time, and to contract out of unsatisfactory associations. If people are given the economic security and leisure achievable in the context of a Social Credit dispensation, Douglas believed most would end their service to mammon and use their free time pursuing spiritual, intellectual, or cultural goals leading to self-development.[52] Douglas opposed what he termed "the pyramid of power". Totalitarianism reflects this pyramid and is the antithesis of Social Credit. It turns the government into an end instead of a means, and the individual into a means instead of an end — Demon est deus inversus — “the devil is God upside down.” Social Credit is designed to give the individual the maximum freedom allowable given the need for association in economic, political and social matters.[53] Social Credit elevates the importance of the individual and holds that all institutions exist to serve the individual – that the State exists to serve its citizens, not that individuals exist to serve the State.[54]
社会信用論的な社会では、神と人間との間の関係は唯一のものであるという事実が認識されている。[51] この観点から、この神との関係を追求するため、人に可能な限り最大の自由を許すことが重要となる。ダグラスは、自由を、一つのものを一度に選択又は拒否できること、また、望ましくない人間関係から離脱できることであると定義した。もし人々が、社会信用論に基づく分配の上で達成される経済的保障と余暇を与えられたら、ほとんどの人はマンモン [訳註:強欲の神] へ仕えることを止め、自己研鑽を達成するための精神的、知的、文化的目的を追求するために自由な時間を使うであろうと、ダグラスは考えた。[52] ダグラスは、自身が「力のピラミッド」と呼ぶものに反対した。全体主義はこのピラミッドを反映したものであり、社会信用論のアンチテーゼである。それは、政府を手段から目的に、個人を目的から手段に変える — Demon est deus inversus —「悪魔は逆さまになった神である」。社会信用論は、経済的・政治的・社会的な社会の要請の範囲で許される限り最大限の自由を個人に与えるよう設計されている。[53] 社会信用論は、個人の重要性を高め、あらゆる機関が個人に奉仕する状態、つまり、 国家が市民に奉仕するために存在し、個人が国家に奉仕するために存在するのではない状態を維持するものである。[54]
note: 「一つのものを一度に選択又は拒否できること、また、望ましくない人間関係から離脱できること」原文には「ability 能力」 とあるが、この場合は属性というより状況能力なので「〜できること」が適切か。abilityは能力一般のことみたいなので可能か。しかし、この翻訳内容では前後の文脈と余り関係ないのであるが…
<唯物論の否定>
Douglas emphasized that all policy derives from its respective philosophy and that “... Society is primarily metaphysical, and must have regard to the organic relationships of its prototype.”[55] Social Credit rejects dialectical materialistic philosophy.[55] "The tendency to argue from the particular to the general is a special case of the sequence from materialism to collectivism. If the universe is reduced to molecules, ultimately we can dispense with a catalogue and a dictionary; all things are the same thing, and all words are just sounds — molecules in motion."[56]
ダグラスは、全ての政策はそれぞれの哲学から導き出されたものであると強調し、「... 社会は第一義的には形而上学的であり、必ずその原型と有機的な結合関係にある」[55] 社会信用論は唯物弁証法の哲学を否定する。[55] 「特殊例から一般論を議論する傾向は、唯物主義から集産主義までの一連の思想に特有のものである。もし宇宙が分子の大きさにまで小さくなったら、究極的にはカタログや辞書は不要になる。全てが同じものになり、全ての言葉が音— 分子運動音 — だけになるのだ。」[56]

note: 最後の分子運動のたとえ話は、恐らく特殊例の敷衍を揶揄していると思われるが、分かり辛い。

<哲学全体への考察>
Douglas divided philosophy into two schools of thought that he labeled the "classical school" and the "modern school", which are broadly represented by philosophies of Aristotle and Francis Bacon respectively. Douglas was critical of both schools of thought, but believed that "the truth lies in appreciation of the fact that neither conception is useful without the other".[57]
ダグラスは、哲学を二つの思想に分け、それぞれ「古典学派」と「近代学派」と名付けた。それぞれアリストテレスフランシス・ベーコンに広く代表される。ダグラスはいずれの学派にも批判的であったが、「どのような概念も他の概念の存在なしには有益なものとならないという事実を正しく認識することの中に、真実はある。」[57]と考えていた。

反ユダヤ主義との関係

<ユダヤ哲学に対する批判
Social Crediters, and Douglas himself, have been criticized for spreading anti-semitism. Douglas was critical of "international Jewry", especially in his later writings. He asserted that some Jews controlled many of major banks and were involved in an international conspiracy to centralize the power of finance. Some people have claimed that Douglas was anti-Semitic because he was quite critical of Jewish philosophy. In his book entitled Social Credit, he wrote that, “It is not too much to say that one of the root ideas through which Christianity comes into conflict with the conceptions of the Old Testament and the ideals of the pre-Christians era, is in respect of this dethronement of abstractionism.”[58]
社会信用論者は、ダグラス自身を含め、反ユダヤ主義を拡大していると批判されてきた。ダグラスは「国際ユダヤ勢力[en]」に対し、特に晩年の著作において批判的であった。彼は、数名のユダヤ人が多くの大銀行を支配し、財政的権力を集中させていく国際的陰謀に影響を及ぼしていると断言していた。ユダヤ哲学に対して極めて批判的であることから、ダグラスが反ユダヤ主義者であると主張する者もあった。「社会信用論」という題名の著書の中で彼は、「キリスト教が、旧約聖書の考え方やキリスト教化前の時代の理想と矛盾するようになった根本的思想の一つが、このような抽象主義による廃位と関連していると言っても過言ではない。」[58]と述べている。
note: ここでの廃位 dethronement は、恐らく抽象主義がキリスト等の人間的要素を排除していることを示すと思われるが、難解である。

<抽象主義哲学への反対論
Douglas was opposed to abstractionist philosophies, because he believed these philosophies inevitably led to the elevation of abstractions, such as state, over individuals. He also believed that what he called Jewish abstractionist thought tended to lead them tocommunist ideals and the emphasis of the group over the individual. John L. Finlay, in his book, Social Credit: The English Origins, wrote, “Anti-Semitism of the Douglas kind, if it can be called anti-Semitism at all, may be fantastic, may be dangerous even, in that it may be twisted into a dreadful form, but it is not itself vicious nor evil.”[59]
ダグラスは、抽象主義哲学に反対していた。これらの哲学が必然的に、国家を個人の上位に置くというように、抽象化された概念を優先する方向へ進むと考えていたからである。また、ユダヤ抽象主義思想とダグラスが名付けたものには、共産主義的な理想や、個人より集団を重視する考え方を導き出す傾向があると考えていた。ジョン・L・フィンレイは著書「社会信用論:英国における源流」で、「ダグラスのような反ユダヤ主義(それが完全に反ユダヤ主義と呼べるとすると)は、ひどく曲解され、空想的だとか危険だとさえ言われるが、その考え自体には悪意や邪なものはない。」[59]

<反ユダヤ主義への非難とフィンレイの再反論
In her book, Social Discredit: Anti-Semitism, Social Credit and the Jewish Response, Janine Stingel claims, “Douglas's economic and political doctrines were wholly dependent on an anti-Semitic conspiracy theory."[60] John L. Finlay disagrees with Stingel's assertion and argues that, "It must also be noted that while Douglas was critical of some aspects of Jewish thought, Douglas did not seek to discriminate against Jews as a people or race. It was never suggested that the National Dividend be withheld from them."[59]
ジェイニン・スティンゲルは著書「社会不信論:反ユダヤ主義、社会信用論とユダヤ人の反応」で、「ダグラスの経済的、政策的な方針は、反ユダヤ主義的陰謀論に完全に依拠するものであった。」[60] と主張している。ジョン・L・フィンレイはスティンゲルの主張には同意せず、「ダグラスの批判は、ユダヤ思想のいくつかの面に対してのみであったことに注意しなければならない。ユダヤ人そのものや、その人種を差別しようとはしていない。ユダヤ人へは国民配当金を支払うべきではないといった示唆も全くない。」[59]

社会信用論に影響を受けた団体等

[edit]Australia

[edit]Canada
カナダ

Federal political parties:

[edit]Ireland
アイルランド
Monetary Reform Party

[edit]New Zealand

[edit]Solomon Islands
ソロモン諸島
Solomon Islands Social Credit Party (active)

[
edit]United Kingdom


社会信用論に関する文学作品

<著名人及びSF作品
As lack of finance has been a constant impediment to the development of the arts and literature, the concept of economic democracy through Social Credit had immediate appeal in literary circles. Names associated with Social Credit include C.M. Grieve,Charlie Chaplin, William Carlos Williams, Ezra Pound, T. S. Eliot, Herbert Read, Aldous Huxley, Storm Jameson, Eimar O’Duffy, Sybil ThorndykeBonamy DobréeEric de Maré and the American publisher James LaughlinHilaire Belloc and GK Chesterton espoused similar ideas. In 1933 Eimar O’Duffy published Asses in Clover, a science fiction fantasy exploration of Social Credit themes. His Social Credit economics book Life and Money: Being a Critical Examination of the Principles and Practice of Orthodox Economics with A Practical Scheme to End the Muddle it has made of our Civilisation, was endorsed by Douglas.
財政的な裏付けの欠如が常に芸術や文学の発展を妨げてきたので、社会信用論による経済民主主義という考え方は、文学界に直ちにアピールした。社会信用論に関わった著名人には、ヒュー・マクダーミッド[en]チャールズ・チャップリンWilliam Carlos Williamsエズラ・パウンドT・S・エリオットハーバート・リードオルダス・ハクスリーStorm Jameson, Eimar O’Duffy、Sybil ThorndykeBonamy DobréeEric de Maré、そしてアメリカの出版人であるJames Laughlinがある。ヒレア・ベロックギルバート・ケイス・チェスタートン は同様の考え方を支持した。1933年、 Eimar O’Duffyは、社会信用論をテーマとして探求したSF「Asses in Clover」 を出版した。彼の社会信用経済の著書「Life and Money: Being a Critical Examination of the Principles and Practice of Orthodox Economics with A Practical Scheme to End the Muddle it has made of our Civilisation」は、ダグラスによって推奨された。

<ハインラインの描く社会信用世界
Robert A. Heinlein described a Social Credit economy in his posthumously-published first novel, For Us, The Living: A Comedy of Customs, and his Beyond This Horizon describes a similar system in less detail. In Heinlein's future society, government is not funded by taxation. Instead, government controls the currency and prevents inflation by providing a price rebate to participating business and a guaranteed income to every citizen.
ロバート・A・ハインラインは、社会信用経済を、死後最初に出版された小説「For Us, The Living: A Comedy of Customs[en]」で描いている。描写はこれより詳しくないものの、未知の地平線[en]」でも同様の制度が描かれている。ハインラインの描く未来社会では、国家財政は税収によらず、政府は通貨を制御し、価格保証金を経済活動参加者に配り、全ての市民に収入を保障することでインフレーションを防いでいる。

<ウィルソンの描く社会信用世界
In his novel The Trick Top Hat, part of his Schrödinger's Cat Trilogy, Robert Anton Wilson described the implementation by the President of an alternate future United States of an altered form of Social Credit, in which the government issues a National Dividend to all citizens in the form of "trade aids," which can be spent like money but which cannot be lent at interest (in order to mollify the banking industry) and which eventually expire (to prevent inflation and hoarding).
シュレディンガーの猫 三部作[en]の一つである小説「トリックのシルクハット」で、 ロバート・アントン・ウィルソンは、別世界の未来の米国大統領によって、別の形での社会信用経済が実施されている様子を描いている。そこでは、政府は全ての市民に、「取引助成金」という形で国民配当金を配っている。それは、貨幣同様に使うことはできるが、利子を付けての貸出しは禁止され(銀行業のあり方を修正するため) 、最終的には無価値になる(インフレーションと蓄財を防止するため)。

<最近の書籍等
More recently, Richard C. Cook, an analyst for the U.S. Civil Service Commission, Food and Drug Administration, NASA, the U.S. Treasury Department, and author of the books Challenger Revealed and We Hold These Truths, has written several articles relating to Social Credit and monetary reform at Global Research, an independent research and media group of writers, scholars, journalists and activists. Frances Hutchinson, Chairperson of the Social Credit Secretariat, has co-authored, with Brian Burkitt, a book entitledThe Political Economy of Social Credit and Guild Socialism.[61]
最近ではアメリカ連邦人事委員会[en]アメリカ食品医薬品局アメリカ航空宇宙局及びアメリカ合衆国財務省のアナリストかつ「Challenger Revealed and We Hold These Truths」の著者であるリチャード・C・クック[en]が、ライター、学者、ジャーナリスト、活動家による独立系の調査・メディア集団であるグローバル・リサーチにおいて、社会信用論及び貨幣制度改革[en]に関するいくつかの記事を書いている。社会信用論事務局議長のFrances Hutchinsonは、Brian Burkittと共著で「The Political Economy of Social Credit and Guild Socialism」[61]という題名の本を出版している。

関連項目

ベーシックインカム
市民配当金[en]

脚注

  1. ^ "C.H. Douglas" (PDF).
  2. ^ Douglas, C.H. (1974). Economic Democracy, Fifth Authorised Edition. Epsom, Surrey, England: Bloomfield Books. pp. 18.ISBN 0-904656-06-3. Retrieved 12-11-2008.
  3. ^ "The Delusion of Super-Production", C. H. Douglas, English Review, December 1918
  4. a b c d e f g Douglas, C.H. (1933). Credit-Power and Democracy. Melbourne, Australia: The Social Credit Press. pp. 4, 108. Retrieved 12-11-2008.
  5. ^ Keynes, John M. (1936). The General Theory of Employment, Interest and Money. London, England: MacMillan & Co Ltd.. pp. 32, 98–100, 370–371. ISBN 1-56000-149-6.
  6. ^ Douglas, C.H. (January 22, 1934). "The Monopolistic Idea" address at Melbourne Town Hall, Australia. The Australian League of Rights: Melbourne. Retrieved on February 28, 2008.
  7. ^ Douglas, C.H. (1973). Social Credit. New York: Gordon Press. pp. 60. ISBN 0-9501126-1-5.
  8. ^ Douglas, C.H. (1919). "A Mechanical View of Economics" (PDF). The New Age (38 Cursitor Street, London: The New Age Press) XXIV (9): pp. 136. Retrieved 2008-03-14
  9. ^ Douglas, C.H. (1974). Economic Democracy, Fifth Authorised Edition. Epsom, Surrey, England: Bloomfield Books. pp. 74.ISBN 0-904656-06-3. Retrieved 12-11-2008.
  10. ^ C.H. Douglas. "Warning Democracy". Australian League of Rights. Retrieved 2008-12-18.
  11. ^ billcasselman.com
  12. ^ Pollock, Fredrick (1996). The History of English Law Before the Time of Edward I. Lawbook Exchange Ltd. pp. 151
  13. ^ C.H. Douglas. "The Working of the Money System". Social Credit. Mondo Politico. Retrieved 2008-02-27.
  14. ^ "The Bank in Brief: Canada's Money Supply". Bank of Canada. Retrieved 2008-02-28.
  15. ^ Douglas, C.H. (April 22, 1927). Engineering, Money and Prices. Institution of Mechanical Engineers: Warning Democracy. pp. 15. Retrieved 2008-02-28
  16. a b Douglas, C.H. (February 13, 1934). "The Use of Money" address at St. James’ Theatre, Christchurch, New Zealand. The Australian League of Rights: Melbourne. Retrieved on February 28, 2008.
  17. ^ Douglas, C.H. (1973). Social Credit. New York: Gordon Press. pp. 47. ISBN 0-9501126-1-5.
  18. ^ C.H. Douglas. "FIRST INTERIM REPORT ON THE POSSIBILITIES OF THE APPLICATION OF SOCIAL CREDIT PRINCIPLES TO THE PROVINCE OF ALBERTA" (PDF). Social Credit Secretariat. Retrieved 2008-12-18.
  19. ^ Douglas, C.H. (November 24, 1936). "Dictatorship by Taxation" address at Ulster Hall, Belfast. The Australian: Melbourne. Retrieved on February 28, 2008.
  20. ^ Douglas, C.H.. The New and the Old Economics. Sydney, n.d.: Tidal Publications.
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国際金融資本を鋭く批判するイタリア喜劇俳優べッぺ・グリッロの五つ星運動のブログ紹介

http://www.beppegrillo.it/japanese/2010/12/person-of-the-year-2010-movime.html

 

以下、そのブログから「銀行支配」という文章を転載します。

 

かつて議会があり、連邦政府があり、国とその将来について公的な討論がなされた。大して機能していなかったが、代表機関の国連もあった。これらすべては、記憶であり、民主主義的様相の灰で、過去の埃である。何も価値がなくなってしまった。他の組織は、人々にとって、WTO、BCE、IMFという神秘的なマークによって時代遅れになってしまった。私たちの運命は、彼らの手中にあるが、私たちはそれが誰によって操られているのか知らない。誰が目的を決めているのか知らない。誰も代表者を選んだわけでもないが、彼らに私達の生活は依存している。欧州中央銀行(BCE)は、政府に対して、脅しのレターを出すことができる。WTO は、自由経済で世界をむちゃくちゃにすることを決められる。 生産は多国籍企業がインドの子供か中国の労組のない権利のない労働者に任される。 何のグローバル競争について私達は話をしているのだろう。規則や権利が同等であれば競争は存在する。グローバルな搾取、産業化した先進諸国の給与の低下、前世代からの戦いで得た社会的、労組的成果の喪失について話したほうが正しいのではないか? いったい誰がすべてを決めたのか?WTOか。誰の名において?ギリシャはすぐにデフォルトにはならない。もし破綻したら、ギリシャの国債を有するフランスの銀行が倒産するから。 だから、まずその国有財産を売り、銀行を救済しなければならない。世界は銀行中心で社会政治についてはもう話題にもならない。EUはBCE、国連、WTOに取って代わられ、政府はIMFにとって代わられた。戦争自体が、リビア戦争で明らかになったように、もやは単に経済的目的しか持たず、もうイデオロギーや宗教、領土の戦争ではない。銀行は戦争に投資し、戦争が銀行に投資する。ホテルでは、身分証明書の代わりにクレジットカードを求められる。子供が生まれると、小児科医が決められる前に、財政赤字の分担分とともに納税番号が与えられる。政治家たちは、銀行家たちの給仕係で、私たちがその勘定を払うのだ。

関曠野さん講演会「3・11以後~~原発事故をくぐった日本の将来を考える」

●調布市西部公民館主催 2011教育講座「遊学塾」(持続可能な未来を子どもたちに残すために)プレ企画 関曠野さん講演会

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演題「3・11以後~~原発事故をくぐった日本の将来を考える」

 

 

「戦前の日本帝国はヒロシマで終わり、戦後の日本株式会社はフクシマで終わった~~」(関曠野「図書新聞」3011号より)。3.11は、私たちに何をもたらし、私たちはどこへ向かえばよいのか。グローバルな歴史的視野で3・11以後を考える思想史家関曠野さんの講演会です。

9月24日(土) 午後6時~8時終了予定(開場午後5時30分より)
会場:調布市文化会館たづくり8F映像シアター(京王線調布駅南口徒歩3分)
http://www.chofu-culture-community.org/forms/menutop/menutop.aspx?menu_id=723

 

入場、無料  
定員:申込み順100名


お話 関曠野さん   プロフィール
1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。

 

●主催
調布市西部公民館  〒182-0035 調布市上石原3-21-6

 

●お申し込み受け付けは、9月6日(火)午前10時からです。
担当石黒まで以下の電話・FAX・メールにてお願いいたします。

TEL 042-484-2531   FAX 042-484-3704
メール seibuk@W2.city.chofu.tokyo.jp