年金に代わる高齢者の生活保障の仕組み:関曠野(思想史)

今日の若い世代のもっとも切実な関心は、年金制度がまったく破綻しているという問題です。先の仁和寺の講演でも会場から「国民年金保険料を払い続けるかどうか迷っている。関さんはどう考えるか」という質問がありました。ベーシックインカムをめぐる議論はこの問題に今より深く立ち入り、若い世代のかかえる不安に応える必要があります。とにかく年金というネズミ講の破綻は明白です。しかも現状は、経済危機で苦しんでいる若い世代が今も高度成長期の恩恵に浴している高齢世代を支えるというとんでもない世代間搾取になっています。そして給与生活者の若者には源泉徴収なので保険料納付を拒否する自由もありません。

講演で私は、定年制を産業主義的な制度として廃止したうえでベーシックインカムにプラスして老年基金を設けるという案に触れました。しかしこの案の具体的な中身については論じる時間がありませんでした。そこで以下、この老年基金についての私の構想を説明しますから、皆さんがこれから年金の問題で討論する際のたたき台にしてください。

まず定年制は廃止して多くの人が生涯現役で働けるように労働環境をスローなものにすることに重点を置きます。農業関係者などは今でも生涯現役が普通なのですから、これは無理な話ではありません。しかし歳をとるとやはり体力能力が低下し病気がちになることも事実です。ですから60歳以上の人には何らかの生活保障の措置が必要でしょう。そして私の構想は、この措置を「負の所得税」方式で実施し、高齢者に政府通貨を支給するというものです。

なぜこの方式をとり、例えば高齢者には二倍のBIを支給するといったことをしないのか。その理由は、

  1. BIはあくまで生産と消費を均衡させるための通貨政策であり、福祉政策ではない
  2. BIの大幅な増額はインフレを発生させる恐れがあり、そのうえ定年制を廃止する主旨に矛盾する
  3. また高齢者の所得と健康状態にはかなり個人差があるということを考慮する必要がある
ーということです。

この方式をどのように実施するか。まず60歳以上の高齢者の基準生活費を法律で決め、BIと所得を合わせてもこの基準に達しない場合に差額を政府通貨で補填します。そしてこの基準は国や県ではなく市町村が条例で定めることにします。ただし基準は地域毎に違っても、基準生活費を算定する方式は基本的にほぼ全国一律であるべきでしょう。

その理由は、

  1. 市町村の方が地域の高齢者の生活実態を具体的に把握できる
  2. 県単位で基準を設けると物価の安い地域に高齢者が大勢移住して地域の人口構成比に歪がでる恐れがある
ーということです。

この方式の結果、例えば横浜市と鳥取市の基準が異なったとしても、この差は地域の家賃などの物価や食費などを反映したものですから、不公平なことにはなりません。こうしてある市の基準が月20万で、そこに住む高齢者の所得がBIの8万と軽作業による月収が6万だった場合、差額の6万が市から支給されることになります。

それから最後に付け加えますが、高齢者には働かない自由、60代になったら働かないで趣味やボランティアの世界で生きるという選択も認められるべきです。これは経済ではなく文化や社会への高齢者ならではの貢献になるでしょう。ただしそういう人は自治体への所得申告がないのでBI以外の所得補助は難しいと思います

以上の私の構想をたたき台に活発な議論が始まることを期待しています。

書評『グローバリズムの終焉~~経済学的文明から地理学的文明へ』 シリーズ地域の再生3巻 関曠野、藤澤雄一郎著 農文協 定価2600円プラス税

評者 ベーシックインカム・実現を探る会代表 白崎一裕

評者は、1980年代半ばから90年代前半まで、不登校やヤンキーの子どもたちのくる私塾をやっていた。その頃の子どもたちの口癖のひとつに「将来のことなんて聞くんじゃね~~」という悪態があったものだ。彼ら・彼女らにとっては将来や未来のことなんて鬱陶しくて抑圧的なものであり、未来がいまより良くなるということは信じられなかったのだ。また、その当時聞いたことだが、定時制高校教師の勉強会で出る話の中に、生徒たちが教師のことを「このジジイ!」とか「このババア!」とか攻撃的に呼ぶようになるのが、ほぼ同時多発的でしかも1975年頃からというのである。本書で何度もとりあげられるニクソンのドルショックが1971年、ローマクラブ報告『成長の限界』の公刊は1972年。そしてオイルショックが1973年と続く。先に述べた1970年代の「子どもたちの変容」と本書で指摘されているドルと石油の二つのショックによる成長経済の終焉は、単なる偶然とは言い難い同時性を有している。近代資本主義の終わりの始まりを子どもたちの感性は鋭敏に捉えていたと解釈すべきではないだろうか。「子どもたちの変容」は、その後80年代から90年代へむかうにつれて、校内暴力・いじめに加えて、不登校・引きこもりという現象を伴い継続していく。これらは、単なる青年期の病理現象を超えて現在では普遍化され、草食系とかサトリ(悟り)世代とか呼ばれるようになってきている。「24時間戦えますか」というサラリーマン向け栄養ドリンクのコマーシャルは、発表された当時から、バブル期のサラリーマンをパロディ化するものでもあったが、現代では、まったくの死語といってよいだろう。子ども・若者の感性レベルでは確実に成長経済は終わっているのだ。

本書では、成長経済をもたらしてきた資本主義の歴史が、コロンブスの航海によるグローバル化を伴ってはじまり、新大陸アメリカの広大な国土と資源を「タナボタ」的に手にいれることによりその資本主義が軌道にのったことが説明されている。この資本主義は、結局のところ大衆の消費欲に支えられた過剰発展と所得不足による矛盾をかかえているのだが、その過剰発展を支えているのが、銀行が生み出す利子付き負債マネーと19世紀には石炭、そして、圧倒的なエネルギー収支の効率の良さをもつ20世紀の石油という化石燃料だった。しかし石油危機やその後のピークオイルにより成長経済はあきらかに行き詰まり、それを仮想現実的に埋め合わせようとして金融マネーゲームが介入するというのが1980年代以降における資本主義成長経済の最後の悪あがきだったというべきだろう。ただ、本書は、単に資本主義的成長経済の終焉を分析しているだけの書物ではない。ポスト成長経済(資本主義)のための見通しをしっかりと提示している。その方法こそが、ダグラスの社会信用論を発展的に受け継いだ、銀行経済から脱却する政府通貨の発行と、過剰発展と過少消費の矛盾を解消する個人単位・無条件のベーシックインカムの実施なのである。これらの制度改革により、冒頭に述べた若者の成長経済への感性的違和感は、その出口と着地点を「農」的暮らしを基盤とした「人間を人間の本分に即して保全する文明」へ求めることとなるだろう。従来からの資本主義批判とエコロジー的環境主義は、お互いがその抽象性から成長経済後の世界を展望することができなかった。しかし、本書は、通貨とエネルギーの問題点を歴史的に総括することにより具体的で実践的な道筋を私たちに提示してくれる。本書が呼びかける提言、すなわち成長経済と資本主義そして化石燃料を消尽する経済学的文明から、地理学・生態学・熱力学の科学的洞察に立脚してエントロピーの抑制を課題にする地理学的文明への転換こそ、実は最も先鋭的な政治的課題であることを最後に付け加えておきたい。

付記:本書の著者のひとりである関曠野さんも理事で参加する、島之内芸能(合同会社)の試みが「実現を探る会HP」にて紹介されている。この会社では、大阪から明治維新以来の日本の歴史を問い直し、なおかつ、大阪の芸能の伝統を生かし、ベーシックインカムや社会信用論の運動にも取り組もうということらしい。ぜひ、ご参考にしていただきたい。