スプリシー論文翻訳『ブラジルの「ボルサ・ファミリア(家族賃金)」制度から「市民基礎所得」への転換の可能性』

ブラジルの「ボルサ・ファミリア(家族賃金)」制度から

「市民基礎所得」への転換の可能性  

(または)

ブラジルにおけるベーシックインカム実施の政治的困難性と財政的制約

 

【ベーシックインカム・アースネット(BIEN)(*) 第11回国際大会における報告

 

ブラジル上院議員、市民基礎所得ブラジルネットワーク代表

エドゥアルド・マタラッゾ・スプリシー (**)

 

【訳:鈴木武志】

【干場 康行ポルトガル語部分補訳】 

 

訳注(*) 1986年、ベーシックインカム欧州ネットワークとして設立され、2004年、国際ネットに。2年毎に国際大会を開催する他、website上で各国のベーシックインカムをめぐる動き、論文などを伝えている。www.basicincome.org 本報告は、2006年11月2~3日、南アフリカ、ケープタウン大学における第11回大会でのもの。本稿は、著者の承認のもとで翻訳・公開するものである。著者は第13回大会(サンパウロ)における報告の方を推奨したが、既に本稿が翻訳完了しているので、それは別の機会に譲ることとした。

訳注(**) 1941生まれ。ミシガン州立大学より文学博士号取得。企業経営者にして、ブラジル労働者党創立に参画。1980年、同党初の上院議員に当選。1996年以来、ジェトゥーリオ・ヴァルガス財団経営大学院経済学部教授。同国におけるベーシックインカム制度提唱を主導。BIEN共同代表をへて、現在は名誉共同代表、顧問理事会メンバー。

 

 ブラジルの著名な地理学者で、サンパウロ大学教授のアジス・ナシブ・アブ・サーベルは、リオ・クラーロのUNESP “Júlio de Mesquita Filho”(サンパウロ州立大学「ジュリオ・ヂ・メスキータ・フィーリョ」[http://pt.wikipedia.org/wiki/Universidade_Estadual_Paulista_

J%C3%BAlio_de_Mesquita_Filho 大学の複数の施設の一つの名称。ジャーナリストの名前を冠している。]) 名誉教授に任じられた先週、82歳を迎えたが、万人への無条件のベーシックインカムを支持する重要な論点をもつ社会哲学の論文を完成させた。そのなかで彼は、「生まれるべき場所も、子宮も、家族の社会・経済的条件も、選ぶことは誰にもできない。どこに生まれるかは偶然が決める」と述べている。この現実は、我々が、もっとも劣悪な条件と場所で生まれた人々を含む、すべての人類のことを考えることの重要性を熟慮べきであることを求めている。

 

「市民基礎所得」法が成立

2004年1月8日、ブラジル大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァは、2003年に国会で承認された法律第10,835号を裁可した。これは、ブラジルに最低5年以上住んでいる外国人を含むすべての住民に、その社会的・経済的状況にかかわらず「市民基礎所得」を支給するものである。この基礎所得は、均等額であり、国の発展レベルと財政的限度を考慮しつつ、各人のニーズをかなえるに十分であり、年払いまたは月同額分割払いで支給される。「市民基礎所得」は、もっとも必要とする人々を優先した執行基準に従って、段階的に導入される。

 

既存の所得補助制度の「家族賃金」への統合

2003年10月にルーラ大統領によって制定された「ボルサ・ファミリア(家族賃金)」制度は、ベーシックインカムの実施に向けた1ステップと見ることができる。その際、大統領は、いくつかの既存の所得移転の諸制度を統合したのである。

私が1991年に上院議員に初当選した頃を思い起して欲しい。私は、「負の所得税」をとおした「最低所得保障」制度を提案した。月150米ドル以下の成人すべてが、財政的可能性を考慮した執行基準に基づいて、このレベルと本人所得の間の30%~50%の割合の補完所得を受給する権利をもつことになるものであった。この提案は、1991年12月、上院で承認されて下院に送られた。下院では財政委委員会から賛成の報告がなされたが、[総会での]採決には至らなかった。

しかしながら、それ以降、いくつかの進展があった。既に1980年代後期には、ブラジリア大学教授クリストーヴァン・ブアルケは、貧困家庭が子供たちを学校に行かせるための奨学金の支給を検討していた。1991年、ベロ・オリゾンテで開かれた、労働党に関係した経済学者たちのセミナーにおいて、ジョセ・マルシオ・カマルゴは、私や、最低所得制度の熱心な支持者アントニオ・マリア・ダ・シルヴェイラ教授とで、貧困家庭がその子供を学校に送っている限り、扶助金を与える制度とするよう議論した。子供たちが家計を支えるために、未熟なうちに働き始める代わりに、学校に行けるようにするためである。

1995年、こうした路線に沿った2つの先駆的実験がほぼ同時に開始された。カンピーナスでは、ジョゼ・ロベルト・マガリャンィス・テイシェイラ市長(社会民主党)は、14歳までの子供がいて平均所得が最低賃金の半分以下の家庭で、7~14歳の子供を学校に行かせている限り、所得補完を提供する「最低保証家族所得」制度を開始した。この扶助金は、該当家庭の全員に、最低賃金の半分を補完するに必要なものである。それは、100%の負の所得税の一種であり、子供の就学を条件づけるものであった。ブラジリア連邦直轄区では、知事クリストーヴァン・ブアルケ(労働者党=PT)が就学機会に関連づけた最低所得(ボルサ・エスコーラ)制度を開始し、7~14歳の子供がいて学校に行っている限り、すべての家庭(1人当たり所得が最低賃金の半分以下の場合)に、その家族の規模にかかわらず、最低賃金と同額の補完所得を与えるものである。

こうした路線に沿った制度が多数の地域の自治体(市・郡)で開始され、全国に拡がった。国会では、下院議員のネルソン・マルシェーザン社会民主党【連邦直轄区】)、ペドロ・ヴィルソン(労働者党【ゴイアス州】)シコ・ビジランテ(労働者党【連邦直轄区】)、上院議員のジョゼ・ロベルト・アルーダ(社会民主党【連邦直轄区】)、ネイ・スアスーナ(民主運動党【パライバ州】)、レナン・カリェイロス(民主運動党【アラゴアス州】)によって新たな提案が行われ、上記のような制度の制定を連邦政府に促すこととなった。1996年、大統領宮殿において、私はフィリップ・ヴァン・パリース教授(*)とともに,フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領を含む聴衆の前で講演した。その機会にヴァン・パリースは大統領に、この提案は人的資本への投資としての意味があるので、就学機会に関連づけた最低所得保障制度を開始する良いステップとなることを説得した。こうして1997年、国会において法律第9,533号が承認され、同大統領が裁可したのである。これは、地方政府が就学機会に関連づけた最低所得保障を制定するための資金の50%を連邦が提供することを定めたものであった。これは、国内のより貧困な地方から始まって、5年間で徐々に開始することとされた。

 

訳注(*) Phlippe Van Parijs。ベルギーのキリスト教大学ルーヴァン校、経済・社会・政治学部教授。1991年以来、フーバー経済・社会倫理学講座主幹。欧州におけるベーシックインカム論の発掘と再興・発展、BIENの創設を主導し、その議長を経て、現在は顧問理事会議長。主著”Real Freedom for All: What (if anything) can justify capitalism?”(邦訳『ベーシックインカムの哲学:すべての人にリアルな自由を』(勁草書房、2009年)

 

連邦・自治体合意による全国化

1998年8月、上院は、最低所得保障制度の経験に関する国際セミナーを開催した。出席者は、ガイ・スタンディング、ロバート・グリーンスタイン、マリア・オザニーラ・シルヴァ・イ・シルヴァ[まるごと人名です]、レナ・ラヴィナス、クリストーヴァン・ブアルケと、既に就学機会に関連づけた最低所得保障制度の先駆的経験をもついくつかの首長、ムンド・ノヴォ(マットグロッソ・ド・スル州)のドルセリーナ・サルヴァドール、ベレン(パラー州)のエジミルソン・ロドリゲスなどであった。これは、勇気づけられる出来事であった。(1)

2001年4月、新しい法律(第10,219)が国会で承認され、カルドーゾ大統領によって裁可された。これは、「ボルサ・エスコーラ」として知られる就学機会に関連づけた最低所得保障制度を採用するよう、連邦がすべての自治体と合意を取り付けることを認めたものである。就学している6~15歳の子供がいる家庭で、平均所得が最低賃金の半分以下の家庭に、子供1人で月額15レアル[約777円、1レアル=約51.8円]、2人で30レアル[約1,554円]または3人以上で45レアル[約2,331円]の受給権を与えるものである。

2001年6月、法律第10,689によって、同様の給付制度が創出された。「食料援助」と呼ばれ、同じ所得階層で、0~6歳児または妊娠中・授乳中の母親がいる家庭で、健康省が勧める予防接種を子供が受け、母親が健康センターの世話を受けていることを条件として、上記と同額を給付するものである。

2002年1月、カルドーゾ大統領は法令にもとづき、「ガス料金補助」制度を制定した。これは、1人当たり月所得が最低賃金の半分以下の家庭すべてに、家庭用ガスの購入用に、15レアル[約777円]を給付するものである。

ルーラ大統領政権の初期の2003年2月、「飢餓ゼロ制度」が制定された。それは、政権の所得移転制度の柱として、1人当たり月平均所得が最低賃金の半分以下の家庭に、50レアル[約2,590円]を支給する「フード・カード」制度である。この給付金は食品以外には使えないものである。

2003年10月までに、「児童労働根絶プログラム」(PETI)なども含む、こうした同様の制度の重複を考慮して、ルーラ政権は、「家族賃金(ボルサ・ファミリア)」制度に統合することを決定した。2006年4月以降、1人当たり所得月50レアル[約2,590円]~60レアル[3,108円]以下の家庭への平均給付額は、ほぼ3倍となった。50レアル(子供1人の場合)+15レアル(2人の場合)+45レアル(3人以上の場合)である。1人当たり月額所得が60レアル~120レアルの場合、給付金はそれぞれ15レアル、30レアル、45レアルだけである。支給条件は、6歳までの子供が健康省の定めるスケジュールに従って、必要な予防接種を受けていること、妊娠中・授乳中の母親とその新生児が健康センターに掛かっていること、7~15歳11カ月の子供が学校の授業の最低85%に出席していることである。この法律は、始めは暫定措置として制定されたが、まもなく法律第10,836号として承認され、2004年1月9日に裁可された。上述の諸法律はつねに、国会に議席をもつすべての政党によって承認されたことは銘記されるべきである。

 

原注(1) Suplicy, Eduard Matarazzo, editor, Renda Minima, Discussoes e Experiencias. Conferencia Internacional,1998.

 

「家族賃金(ボルサ・ファミリア)」制度による貧困層の縮小

この所得移転制度は、急速な拡大を見た。2003年12月、「家族賃金(ボルサ・ファミリア)」制度の受給家庭は、全国で350万だったが、2005年12月には850万家庭、2006年10月には1,111万家庭となったのである。1家庭=約4人と推定すると、これは、4,450万家庭、全人口のほぼ4分の1に相当する。「家族援助(ボルサ・ファミリア)」制度は、26の州と連邦直轄区(ブラジリア)の5,561自治体のすべてで導入されている。とくに1人当たり所得120レアル[約6,216円]の家庭のすべてへの給付という目標を達成した「家族援助(ボルサ・ファミリア)」制度には、正味の給付金だけで見ても、86.1億レアル[約4,460億円]の予算が充てられている。これはブラジルのGDPの約0.41%に相当するが、社会開発省の今年の予算240.5億レアルのごく一部に過ぎない。社会開発省は、高齢者や障がい者のための所得移転制度である「継続的保護給付」という重要な制度を管轄しており、その予算は135.3億レアル[約7,000億円]である。ジェトゥーリオ・ヴァルガス財団社会政策センターの行った、ブラジル地理・統計研究所のデータにもとづく調査によれば、2003年、人口の28.2%が1人当たり月121レアル[約6,268円]以下で暮らしていたが、この割合は2005年には22.7%に低下した。これは、絶対的貧困人口の19.18%の累積的低下に相当するが、1993年から95年までの18.47%の低下を上回る大きな改善であった。(2)

絶対的貧困人口の低下を政権の期間で見ると、カルドーゾ大統領(1995~2002年)の間は21.8%、ルーラ大統領(2003~2005年)の最初の3年間で15.16%であった。絶対的貧困人口の割合は、1995年の28.79%から2002年の26.72%に低下した。ブラジルのジニ係数(***) は、1990年代は世界の最高レベルに属し、93年には0.607に達したが、97年にはわずかながら0.600に低下し、そして2002年には0.589となった。ルーラ政権の間、徐々に低下が続き、2003年は0.583、2004年は0.572、2005年は0.568となった。2005年、人口の50%を占める最貧困層は国民所得の14.1%、次の40%が40.8%、残り10%の最富裕層が45.1%を得ていた。この構図は、より公平な社会の建設のために、さらに多くのことがなされるべきことを示している。

 

原注(2) Nery Marcelo Cortes, Coordinator, Miséria, Desigualdate e Establidade: O Segundo Real, Sumario Executivo, Centro de Socias, Fundação Getúlio Vargas, 2006.

訳注(***) 国民所得分配係数。社会の所得分配の不平等さを測る尺度として、イタリアのコッラド・ジニが考案

上院議員へ再選、「市民基礎所得」への前進

もうひとつ思い起していただきたいのは、私が1990年代初期、負の所得税をとおした最低所得保障制度を提案して以来、BIENの創立と、フィリップ・ヴァン・パリース、ガイ・スタンディング、ジェイムス・エドワード・メイド、クラウス・オッフェ、ロバート・ヴァン・デル・ヴィーン、ウォルター・ヴァン・トライアー、ルーベン・ロ・ヴオロ、マイケル・サムソン、ダニエル・ラヴェントース、カール・ウィダークィスト、等々の貢献によって興された、無条件のベーシックインカムに関する議論をますます知るようになった。所得分配の改善、文明社会の創出、万人への真の尊厳と自由の賦与による、絶対的貧困の解消という目的を達成する、より良い方法は、「市民基礎所得」の制定であると、ますます確信するようになった。これこそが、私の上院の2回目の任期(1999~2006年)中であった2001年に、「市民基礎所得」制定を提案した理由である。これは、2002年、上院において承認され、2003年に下院の委員会においてほぼ満場一致で承認され、2004年1月、ルーラ大統領によって裁可されたのである。

しかし、現状はどうか? ブラジルにおいてベーシックインカムがどの程度まで議論されているか? 最近の大統領選挙[2006年]において、候補者間の議論のテーマとなったか? その1回目は10月1日、2回目(労働党のルーラ対社会民主党のアルキミン)は先週10月29日であった。

今年の上院選挙戦における私の100回を超える講演や演説のすべてにおいて、「市民基礎所得」実施のためのたたかいと続けることを、つねに強調した。サンパウロ州(人口4,100万人、有権者2,800万人のブラジル最大の州)でたった1つの上院議席を19人で争う選挙だった。私の主要な競争相手は、大統領候補アルキミンと連携した自由戦線党[2007年解散、現民主党(DEM)に継承 http://bit.ly/l5Fv1Z ]のギリェルメ・アフィフィ・ドミンゴスであったが、彼は、経済活性化のための減税政策を主張した。朗報であるが、私はその構想を上院で主張し続けることができることになった。3期目(8年)の上院議員に再選されたのである。1990年の選挙では、420万票(得票率30%)、98年には670万票(43%)を獲得したが、今回は896万票(47.82%)を獲得した。ベーシックインカムについては何も語らなかった第2位候補者は、820万票(42%)であった。

重要なことは、ベーシックインカムが既に国会で採決されるべき法案になっているのもかかわらず、7人の大統領候補による最初の討論会でも、2人による2回目でも、議論の中心とはならなかったことである。彼らは、「家族賃金」制度については熱心に論じた。これが成功した制度だと考えられているので、すべての候補者がその拡大と改善をしようとしていると主張した。なかには、条件づけを厳しく要求することに言及した者もいた。「家族賃金」制度は、ルーラ大統領が全国に拡がる貧困層からの支持とあいまって、ブラジルのもっとも貧困な地方から主な支持を獲得するのに貢献したのは確かである。

 

ブラジル経済・財政の改善とルーラ大統領の再選

もちろん、2003年から2006年までのルーラ政権に多くの積極的な側面があり、それが彼の大統領再選に貢献した。インフレ率の低下(2002年の12.5%から2006年予測3%へ)、輸出の増加(2002年の600億米ドルから2006年1,340億米ドルへ)、貿易収支の改善(2002年の131億米ドルから2006年410億米ドルへ)、外貨準備高の増加(2002年378億米ドルから2006年767億米ドル)があった。経済(GDP)成長率は、それほど目覚ましくはなく、2003年0.5%、2004年4.9%、 2005年 2.3%、2006年予測3%であった。しかし、創出された雇用数は、その前の8年間に比べて顕著に大きかった。新規雇用数は8,000に対して105,000であった。カントリーリスク率(****)は、2002年12月の1,446から2006年10月26日の211へと低下した。GDPに対する公的債務残高の割合は、2002年の57%から2006年の50%と低下した。2005年8月以来、基準金利は、現在の13.75%(実勢年利9.3%に対応)までに下がり続けた。これはまだ高い水準ではあるが、この傾向は、今後、物価の安定を伴うより高い経済成長率の期間を始動するであろう。

8候補者が参加した10月1日の第1回投票を得票率48.61%で勝利した後、4週にわたる全国テレビネットワークでの4回の公開討論と、すべてのラジオ・テレビ局での各候補ごと20分の毎日の番組を経た第2回投票で、ルーラ大統領が再選された(10月29日、得票数5,829万、得票率60.83%)。対抗馬のゲラオ・アルキミンは、得票数3,754万、得票率39.17%であった。

BIEN共同議長としてガイ・スタンディングと私は、ルーラ大統領に、このBIEN第11回国際会議に公式メッセージを送るよう要請した。選挙戦の最終日で多忙であったにもかかわらず、彼は、その勝利の数日前に次のようなメッセージを寄せてくれた。

 

訳注(****)海外投融資や貿易を行う際、対象国の政治・経済・社会環境の変化のために、個別事業相手が持つ商業リスクとは無関係に収益を損なう危険の度合い

 

(略) ルーラ大統領(当時は候補)からのメッセージ

 

「市民基礎所得」制度の利点

ご覧のように、ルーラ大統領は、無条件のベーシックインカムをブラジルにおいて実現する日を明言していない。我々は、それが近い日だとは思わない。いずれにしても、私の講演、演説や著書で述べたように、「市民基礎所得」が完全に実施された場合には、次のような効果が得られると主張してきた。

 

●  所得扶助を受給するために行われる各自の所得調査に伴う、役所仕事の解消

●  所得補完を得るために自分の稼得を告げる時の恥辱感や不名誉感の解消

●  同一のコミュニケーション手段を通じて全国民に、平等な基礎所得を受け取る権利とすぐに受給する方法の説明を容易にする。

●  所得が一定のレベルに達しない場合に、どのような人・家族が補助を受給する権利があるかを定める諸制度のなかの、貧困と失業のワナを原因とする、依存的現象を終わらせる。[既存の諸制度が]仕事からの所得が一定レベルに達した場合には、政府は扶助を引き上げることを知っているので、経済活動への参加意欲を削ぐ。「市民基礎所得」の場合は、仕事からの所得の増加と各人のイニシャティブ[による所得]は、追加的なものとなる。誰でもがその所得のレベルにかかわらず同一の給付を受け取る。

●  「市民基礎所得」の保障はつねに、有効な雇用努力をもたらす。働いているか失業しているかを問わず、人が基礎所得の満額を保持することができるならば、働いている場合には失業している場合よりも、生活状況が改善される。

●  人間としての尊厳と自由の観点からもっと良いことは、国民とその家族が継続して、ブラジル国民のパートナーとしての市民の不可侵の権利として、ベーシックインカムを受け取ることを知ることである。それは、贈り物や慈善ではなく、すべてのブラジル人が街の公園で散歩したり、行きたければコパカバーナ[リオデジャネイロ市の南部にある海岸]に泳ぎに行くなど、富者も貧者も同じように何でもする権利と同じく、市民の権利である。

●  「市民基礎所得」にこのような利点があるにもかかわらず、すべての人に仕事を保証した方が良いのでは、と問う人が多い。経済理論と経験が示すところでは、万人へのベーシックインカムの保障は、社会の完全雇用の達成に大きく貢献することができる。さらには、基礎的なモノやサービスへの需要は、ベーシックインカムの給付によって増加する。これは、経済成長と雇用拡大へのインセンティブとして機能する。

●  市場は、人々がやりたい活動、やる必要がある数多くの活動に報いることはない。例えば、自分の子供に授乳している母親、子供の教育・保護のためのケアを行っている親のことである。あるいは、我々の親が年を取り、そのケアを始める場合である。我々のコミュニティ、教区、協会、学生ユニオンやクラブなどには、我々がやりたいたくさんの活動(普通は無報酬)がある。こうした活動は、ヒューマニティの基礎であるが、市場から認められることはめったにない。ゴッホやモジリアニがその天才的な作品を描いた時、それらを売ったとしても、それで生き延びることは難しかった。今日では、これらの作品は、数百万ドルで売られている。

●  もうひとつの主張も考慮に入れるべきである。多くの国と同様にブラジル憲法は、私的財産所有の権利を認めている。これによって、工場や農場・レストラン・銀行・金融債券・不動産などをもつ人は、収益・賃料・利息などの形での所得を得ることが許されている。しかし、憲法には、こうした条件にある人が、所得に応じて、働くことや、子供を学校に行かせる義務があるとは書いていない。しかし、資本をもつ人の大半は仕事をし、子供を学校に、それも最良の大学にも行かせている。それは、彼らが進歩に関心があるからである。それは良しとして、問題は、裕福な市民が資本から私的所得を得る権利を保障しているのに、すべての市民がこの国のパートナーとなる権利、完全な市民権を保障する適度の所得を受け取る権利をなぜ保障できないのかということである。

●  加えて、ベーシックインカムの保障が採用された場合、経済の成長と競争力の強化に貢献できるメカニズムとなることである。この点は、既に所得移転制度を採用している先進諸国の経験を分析すれば、より理解されるであろう。おもに、30年前にアラスカにおける「恒久基金」の創設で始まった、ベーシックインカムの先駆的経験の結果を観察することによってである。

 

 

アメリカの所得移転制度の変遷

1968年、ロバート・ランパン、ハロルド・ワッツ、ジェイムス・トービン、ポール・サミュエルソン、ジョン・ケネス・ガルブレースと1,200人の経済学者が、アメリカ連邦議会に、最低所得保障制度の制定を提案した。ニクソン大統領は、ダニエル・パトリックを召喚した。彼は、ケネディ、ジョンソン両大統領とともに、貧困とたたかう制度の設計のために働いていた。1969年8月、彼は、負の所得税を創出する「家族支援計画」案を提出した。家族の所得が3,900ドル以下の家族すべてに、そのレベルと所得の差額の50%を受給する権利を与えるものであった。

ダニエル・パトリック・モイニハンは、その著書『政治と保障所得』(1973年)において、保守派が「家族支援計画」で提案された最低所得保障を打ち破るために、進歩的支持者の大きな矛盾と誇張された要求をいかに利用したかを分析した。ある者は、年5,500ドルのベーシックインカムを要求したが、それは当時の財政を破綻させうるものであった。また、「AFDC(扶養児童補助)」制度や「フード・スタンプ(食料切符)」制度などの既存の制度との代替に反対する者もいた。とくに、食料生産州からの上院議員は、所得保障が第一次的ニーズ商品(とくに食料)の購入に充てられることを理解せずに、既存制度の防御に回った。また、働かざる者への所得給付の特権に反対する者もいた。(3)

 

原注(3) MOYNIHAN, Daniel Patrick. The politics of a guaranteed income -The Nixon Administration and the family assistance plan, New York: Random House, 1973.

 

マクガヴァン大統領候補の「デモグラント」構想からEITCへ

1972年、ニクソン[共和党]は再選を狙って、立候補した。相手はジェイムス・トービンやロバート・ソローという、著名なノーベル経済学賞受賞者の支持を受けたジョージ・マクガヴァン[民主党]であった。彼らは1人年1,000ドルの「デモグラント(demogrant)」(*)(社会的配当)制度を提案していた。マクガヴァンは敗退し、無条件ベーシックインカムの利点を人々に理解させることに失敗した。2005年2月、ワシントンのウッドロウ・ウィルソン研究者国際センターにいた私は、彼に電話し、同様の提案がブラジルで法定され、段階的に導入されることを話した。フロリダのある島にいたマクガヴァンは、そのニュースに喜び、「人は私のことを、時代に先走った男と言っている」と付け加えた。

後に1974年、民主党上院議員ラッセル・ロング(ルイジアナ州)提出の法案を可決した。それは、負の所得税の部分的導入となる、「勤労所得税控除(EITC)」である。働いていない者への所得保障についての、上院での議論で表出した憂慮に直面してラッセル・ロングは、家族の誰かが雇用されている家族のみへの補完所得制度を提案した。雇用されて働きながらも一定レベルの所得に達しない家族に、社会保障への支出として減殺された額を保障するための所得を与え、その扶養児童のケアを扶助し、貧困ラインからの離脱に貢献するものであった。EITC」は、共和党ジェラルド・フォード大統領時代の1975年に立法された。

民主・共和両党の支持のもとで、EITCは、ロナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュ大統領、より顕著にはビル・クリントン大統領のイニシャティブで、1986年、1990年、1993年にそれぞれ拡大された。その自伝『マイ・ライフ』おいてビル・クリントンは、その政権における「勤労所得控除」の重要性に17回も言及している。彼は、EITCを子供のいない家族に拡大すること、子供のいる家族への額を倍加することのために、「民衆第一」のモットーに基づいて、いかに決断したかを強調している。この拡大は、アラン・グリーンスパン率いるFRB(連邦準備制度理事会)が採用したもののようなその他の手段と相まって、クリントン政権の8年間で、経済活動の拡大と雇用レベルの上昇に貢献した。失業率は、1992-3年の約7.5%から2000年の3.9%に低下した。

2003年、子供なしで年間所得12,230ドル以下、子供1人で30,666ドル以下、2人以上で34,692ドル以下の家族は、税額控除を受ける権利を与えられていた。子供2人以上の家族の場合、控除額は上限の10,510ドルである。家族の所得が1,0510~14,730ドルであれば控除上限は4,204ドルである。14,730ドルから始まって、控除上限は、その上限を超える金額のそれぞれ21.06%ずつ減少する。このようにしてEITCは、年所得34,692ドルの夫婦の場合は、控除0となる。このポイントから上の家族は、所得税の支払いが必要となる。

 

訳注(*)  demo=人民、Grant=贈り物。「人民への贈り物」の意味だが、民主党(the Democrats)に掛けたものと思われる。

 

所得格差のわずかながらの縮小

2004年、アメリカ政府は、約393億ドルを国内の2,150万余りの家族・個人に支給した。子供1人の家族に支給したEITCの平均額は、2,100ドルであった。これは、アメリカ社会が、働いていながらも一定レベルの所得が得られていない者への大きな所得移転を行ったことを意味する。それによって、この制度がない場合に比べて、もっと多くを稼ぎ、より高い程度の満足感と生産性を獲得できるようにしたのである。そのため、アメリカ企業は、同様のメカニズム(より合理的な選択としては「市民基礎所得」のような制度)のない他の国(ブラジルや南アフリカ、アルゼンチンなど)の企業に比べて、高い競争力を得たのである。今日のアメリカにおいて、時給5.15ドルの最低賃金を得ている労働者が月160時間働けば、月824ドル、年9,888ドルの所得となる。妻と2人以上の子供のいる労働者が年に10,000ドルの所得であれば、EITCによって4,000ドルの税額控除を受ける権利がある。その場合の年間所得は14,000ドルとなる。アメリカ経済と直接の競争関係にある国々のいくつかで、同様のメカニズムが採用されている。例えばイギリスでは、2000年に「家族税額控除」制度を導入している。今日、家族持ちで月収800ポンド[約102,400円,1ポンド=128円]のイギリスの労働者は、400ポンド[約51,200円]の税額控除の権利がある。

アメリカにおける他の制度変更のなかで私が気づいたものは、AFDC(扶養児童家庭扶助)、EA(緊急援助-就労機会)の終了である。これらは、TANF(必要家族への一時的援助)に置き換えられた。これは、要件が厳しくなり、その制度下に入ってから一定の期限内に就労を開始することを要求している。給付は、最大5年間である。

強調すべきことは、EITCがアメリカのもっとも重要な所得移転制度となったにもかかわらず、約80もある所得保障制度のひとつであることである。2002年、公衆保健制度を含むそれらの制度の財政支出は、5,220.2億ドルとなり、そのうちの3,732億ドルは連邦の制度のもので、1,490億ドルが自治体・州のものである。全体として、これらの福祉支出は、GNPの5%に相当した。2002年の受給者数の平均は、「フード・スタンプ」だけでも2,020万人に上り、TANFで510万人、生活保護(SSI)で690万人、保健サービスで5,090万人、EITCで1,680万人に上っている。(4)

財政・政策プライオリティ・センターのロバート・グリーンスタインとアイザック・シャピロの調査によれば、EITCは、労働市場における親とシングル・マザーの大きな増加をもたらし、労働者のなかでの富裕層と貧困層の所得格差の拡大を緩和する結果となった。460万人以上(240万人の子供を含む)を貧困から脱却させた。1995年1月1日、フェルナンド・ヘンリケ・カルドーゾ大統領の就任の機会にアルベルト・ヒシュマン教授がブラジルを訪れた際に、私はクリントン大統領によるEITC拡大についての意見を求めた。彼はすぐに、「最高の成果だ」と答えた。

 

原注(4) Congress Research Service, The Library of Congress, Report for Congress received through the CRS Web, “Cash and Non-cash Benefits for Persons with Limited Income: Eligible Rules, Recipient and Expenditure Data, FY 2000-FY2002, November 25, 2005, Complied by Vee Bruke.

 

「アラスカ恒久基金」による所得保障

しかし、EITCよりも良い制度のひとつが無条件のベーシックインカムであるという証拠がどこかにあるだろうか? それはアメリカにある。1960年代初期、アラスカ州の小さな漁村ブリストル・ベイの村長が、村の大きな富が魚の形で得られていることに気づいた。しかし、多くの村人は貧しかった。そこで村長は、魚の価格に3%課税し、全員のものとなる基金をつくることを提案した。そのアイディアには抵抗が大きかった。ただの新税だと受け取られたのである。しかし、5年後、彼は村を説き伏せた。制度は成功し、10年後に彼はアラスカ州知事となったのである。アラスカでは巨大な量の石油が発見されていた。

1976年、ジェイ・ハモンド知事は、30万の市民に、自分たちの世代だけでなく将来の世代のことも考えるよう訴えた。石油その他の天然資源は、再生不能である。天然資源の利用のロイヤルティ収入の50%を分離して、全員のものとなる基金を創出しようではないか。この提案は、州議会だけでなく住民投票(賛成76,000、反対38,000)によって、州法の改正として承認された。この基金をどのように運用するか、5年間にわたって議論された。誰かが開発銀行の設立を主張した。それに対して、それは、既に富を成している起業家に、補助金付きの資金を提供することになる事実に注意を喚起した。彼らは会社を興し、仕事をつくるだろうが、ブラジルと同様に所得の集中に結果するだろう。万人が受益する平等な分配に回した方が良い。

それ以来、天然資源の利用のロイヤルティ収入の50%が、国債、州内企業の株に投資されて経済の多様化に貢献し、アメリカ企業の株、外国企業(ブラジル企業24社を含む)の株に投資され(「アラスカ恒久基金」による)、また不動産に投資された。「基金」の価値は、1980年代の10億ドルから、2006年には350億ドルへと増加した。各人は、1年以上アラスカに住んでいる限り、非常に簡単な手続きで家族全員を含めて、80年代の年300ドルから2006年の1,106.96ドルまでの配当を受け取ったのである。

EITCなどのすべての所得移転制度をもって、90年代のアメリカは、成長を成し遂げた。しかし、2002年のBIEN国際大会でスコット・ゴールドスミス教授が指摘したように、89年から99年までに所得の集中が見られ、20%の最富裕層が平均26%もの所得増加を得た一方で、20%の最貧困層の所得増は12%に過ぎなかった。(5) アラスカでは、毎年、GDPの約6%を全住民(現在、70万人)に平等に分配する「恒久基金」のお蔭で、20%の富裕層の所得増は7%、20%の貧困層のそれは4倍の28%であった。アメリカ50州のなかでアラスカは、もっとも平等な州になったのである。ゴールドスミスによれば、「アラスカ恒久基金」の配当制度を止めようなどと言うのは、政治リーダーにとって自殺行為だという。学校で学ぶ数学問題の証明の終わりでいつも言うように、「QED(証明終わり)」である。

 

原注(5) Goldsmith, Scott “The Alaska Permanent Fund Dividend: An experiment in wealth distribution”. In Guy Standing (Org.) Promoting income security as a right: Europe and North America. London. Anthem Press, 2004, pp.549-6

 

イラクに「アラスカ恒久基金」提案を

私は、この第11回国際大会を、昨年、83歳で亡くなったジェイ・ハモンドに敬意を表するために捧げることを提案したい。私は彼と、2004年のアメリカ・ベーシックインカム保障ネットワーク(USBIG)の国際会議で同席した。トーマス・ペインの『農地の正義』(1795年)(6) を知っているかどうか尋ねた。これは、フランス国民議会に「アラスカ恒久基金」を提案した論文であった。彼は知らなかったが、アメリカ革命とフランス革命の主要なイデオローグのひとりの主要な構想のひとつを適用したものだったことを知って喜んでいた。2005年に終わる生涯の晩年、彼はジョージ・W・ブッシュ大統領に、アメリカからイラクに対して、「アラスカ恒久基金」配当制度の例に倣うよう提案することを説得していた。『フォーブス』編集長スティーブ・フォーブスも、同様の講演を行ったことがある。2003年にこの提案に賛成したのは、セルジオ・ヴィエリア・デ・メロ、ポール・ブレマー三世、ガイ・スタンデイング、スティーブ・シャファーマン、スティーヴ・クレモンス、他であった。私は、このBIEN第11回世界大会がイラク国民に対して、アラスカの配当制度の例に倣って、ベーシックインカムを導入することが民主化と平和に大いに貢献すると、我々がいかに信じているかを伝えることを提案する。それによってこそ、すべてのイラク国民が国の富への参加の感覚を得ることができるであろう。

 

原注(6) Paine, Thomas (1796). “Agrian Justice.” In: Foner, P.F. (ed.) (1974). The Life and Major Writings of Thomas Paine. Secatus, NJ, Ciatel Press, 1974.

 

「市民基礎所得」への前進

ブラジルにおける教育・保険援助機会を関連づけた所得移転制度の有効性を確認しつつ、「市民基礎所得」の実施に向けたステップを踏み出すべき時ではないだろうか? 前年1月8日の法律第10,835号の裁可の1年後に当たる、2005年1月9日のルーラ大統領自身による、「市民基礎所得」の創設に関する声明を検討してみよう。それは、「ラジオ・ブラース[brásはbrasilの略」の番組「大統領と一緒に朝食を」で行われたものである。それは、地理・統計研究所によれば、「家族賃金」制度は2006年までに、貧困ライン以下の家族の総数に達することを強調した。彼は、こう述べた。

 

「私が望むブラジルとは、いつの日か、人々が働き最低限必要なものをそれで得ているので、国家が所得移転を行う必要がなくなることである。それが人に尊厳を与えるものである。自分自身の金で、自分の仕事と汗で生きることが我々に誇りを与えるものである。」

 

我が大統領のこの意思――我々皆が自分自身の仕事で生きる――を成就するためには、「市民基礎所得」が慈善や援助の良識によるものではなく、すべてのブラジル市民に国の富――天然資源からの産物や、先行世代(奴隷として働いた人々を含む)の産物であろうと、社会全体の発明家の相互作用によって達成された技術進歩のもたらした富であろうと――に無条件で参加する権利であることを理解する必要がある。

2005年1月のポルト・アレグレでの世界社会フォーラム(フィリップ・ヴァン・パリースも参加)における、パトルス・アナニナス社会開発大臣と私の討論、あるいは、2005年12月のナタールにおける経済学卒業生全国センターでの会議での討論で、大臣は、私の提案に大いに関心を示したが、いくつか重要な疑念を提示した。

 

●  1億8,700万人のブラジル人に合理的な額のベーシックインカムを支給することは、どのようにして可能になるか? 現在の「家族賃金」で支給している額は適切か?

●  ベーシックインカムは、どの程度の額から開始するべきか?

●  「家族賃金」を増額する方が適切ではないか?

●  どのようにして全員へのベーシックインカムをまかなうのか?

●  世論が就学と予防接種という要件を支持し、積極的なものと考えているなかで、どのようにして無条件の所得保障を開始できるのか?

 

「段階的実施・拡大」の重要性

「市民基礎所得」を創設する法律は、その実施に関しては、行政当局に大きな裁量の余地を与えていることを覚えておくことが、まず重要である。もっとも必要としている層を優先しながら全員に支給できるようにするという行政執行基準のもので、その支給額と実施は段階的なものである。

2006年1月、私はパトルス・アナニナス社会開発大臣とともに、カンピーナスのもっとも貧困な地区を訪問した。そこで我々は、所得移転制度で受益しているいろいろな家族と話し合った。8つの制度が重なり合っており、各家族がどの制度の対象になるのかを理解するのは非常に難しいと言う。いつの日か「市民基礎所得」制度をブラジル全体で実施できれば、国民にそれぞれに適格な権利を説明するのがきわめて簡単になるだろう。

ルーラ大統領の再選の後で彼が言ったように、政府は、4,500万人の受給者への「家族賃金」の額をどのように増額するかを検討している。政府はまた、この制度の対象家族の拡大も行うだろう。このような段階的な実施に代わって、始めには18歳までの人に適用される「市民基礎所得」の普遍的な授権をとおして行うことができる。この制度は、アルゼンチンの経済学者ルーベン・ロ・ヴオロ(7)、アルベルト・バルベイト、ブラジルの経済学者レナ・ラヴィーナスが初めに提唱したものである。(8)

これからの数年で「市民基礎所得」が制定されるとすれば、適度の額(例えば、1人月40レアル)[約2,072円]から始まるであろう。6人家族の場合、月240レアル[約12,432円]になる。世帯主が2006年に350レアル[約18,130円]の最低賃金を得ているだけなら、家族の合計所得は月590レアル[約30,562円]となる。40レアル×12か月で年480レアル[約24,864円]である。480レアル×1億8,700万人で898億レアル[約4兆6,516億円]となるが、2006年の「家族賃金」制度での支給総額の約10倍である。しかし、これは、公債利払い額(2006年で1,500億レアル[約77兆7,000億円]近く)よりもはるかに少ないものである。公債コストの削減による利率の低下がベーシックインカムの導入の財政的実現性に貢献するであろう。

上記の例のような適度の額でベーシックインカムを開始したとして、その費用総額898億レアルは、2006年の予測GDP2兆レアル[約103兆6,000億円]の4.5%近くに相当する。これは短期で実現可能な額ではない。この問題は、私が2005年に財務大臣と議論した際のテーマであった。この制度を段階的に導入することが、なぜ重要かである。前大臣のパロッシは、ありうる道は、ベーシックインカムを最初は貧困家族を対象とし、その後で全員に支給するようにすることであると語った。私は、それはあり得る選択肢であると答えた。

2001年の憲法改正で創出された、「家族賃金」制度の財源をまかなう「反貧困基金」は、2011年までのものであることを念頭に置く必要がある。従って、国の成長を維持できる恒久財源を考える必要がある。

 

原注(7) VUPLO, Rubén Lo, BARBEITO, Albert C., Contra la Exclusión. La propuesta del ingreso ciudadano. Buenos Aires, Ciepp/CIEPP/Mino y Dávila, 1995.

原注(8) Lavinas, Lena. et alli “Exceptionality and Paradox in Brazil: From Minimum Income Programs to Basic Income”.9th International Congress, Bien, Geneva, September 12th, 2002.

 

財源は「ブラジル市民基金」

可能な解決策は、「ブラジル市民基金」によって制度をまかなうことである。これはいずれ、トーマス・ペインや「アラスカ恒久基金」が定式化したモデルに従ったベーシックインカムを支給するのに必要な資源を提供できるものである。これは、1990年に私が上院に提案し8月に承認され、次いで下院の委員会で真価を認められた法律の主目的である。基金の最初の資金は、株式公開企業に連邦政府が共同投資する資本の10%によって形成される。この基金の財源は、連邦予算に寄託された基本財産で形成される。天然資源使用のロイヤルティの50%、公共事業・サービスの利権の50%、連邦の不動産などの資産の賃料の50%や寄付などで形成される。

世論が条件づけに積極的であることについては、偉大な師、ジーン・ピアジェ、マリア・モンテッソリ[イタリア語なのでこう読むと思います]、アニッシオ・テイシェイラ、パウロ・フレイレの教えに学ぶべきである。彼らは、教育とは、その過程で人がよりいっそう自覚的になる、解放であると教えた。豊かな人々がその子供に予防接種を受けさせ、最良の学校に行かせるという正しいステップを踏むのと同じように、どの家族であれ、全員のためのベーシックインカム受給の権利がいったん与えられるならば、子供の教育と保健のための努力をするであろう。

イタリアのパドゥア大学の哲学者のアントニオ・ネグリと、リオデジャネイロ大学の政治学者のジュゼッペ・コッコは、その論作『サンパウロの葉』で、「家族賃金」を普遍的で市民のための所得であると認めて、称賛した。彼らは、ルーラ政権による制度の無条件性の追求、制度の普及と民主化の促進を評価した。(9)

ブラジルの当代の偉大な経済学者セルソ・フルタードは、この提案をよく理解してくれた。この法律が裁可された日、彼は次のようなメッセージを大統領に送った。

 

共和国大統領 殿

 

貴職が「市民基礎所得法」を裁可された機会に、この手段によって、我が国がより調和した社会を建設するたたかいの先導者となったとの確信を表明するものです。ブラジルはしばしば、奴隷労働を廃止することでは最後の国のひとつと言われてきましたが、良き市民権の原則と、スプリシー上院議員の広大な社会ビジョンの成果であるこの法律をもって、今やブラジルは、広範な連帯制度を最初に制定した国、さらには、それが人民の代表者によって承認された国と言われることとなるでしょう。

この機会に私は、貴職に与えられた重要な使命の引き続く成功をお祈りいたします。

2004年1月8日、パリにて

セルソ・フルタード 

 

原注(9) NEGRI, Antonio e COCCO, Giuseppe, “Bolsa-Familia é embrio da renda

 

「マイクロ・クレジット」とベーシックインカム

しかし我々は、すべてのブラジル国民がこのフルタード教授の考えを共有するようになるには、これから多くのことがなされる必要があると予想している。去る10月、ムハンマド・ヤヌスがノーベル平和賞を受賞した時、ブラジルの主要紙のひとつ『オ・グローボ(地球)』は社説で、マイクロ・クレジットを、「家族賃金」制度の援助的・慈善的性格と対比して、その条件性にもかかわらず、受益者の起業家精神を刺激する非常に積極的なものと称賛した。(10) ブラジルや南アフリカ、そして世界中の国々で、マイクロ・クレジットもベーシックインカムもともに、正義にかない、市民化された社会、良き社会、ポール・ダヴィッドソン、グレッグ・ダヴィッドソン、ジョン・K・ガルブレーズが提唱した種類の社会を築くための主要な手段のひとつであることを示す、BIENの努力を続けなければならい。それは、2006年10月15日、ハーバード大学ケネディ校でポール・ダヴィッドソン自らの講演で鮮やかに気づかせてくれたようにである。(11)

最後に、私、レナラヴィーナス、マリア・オザニーラ・シルヴァ・イ・シルヴァ他、ブラジルからの参加者は、2004年、バルセロナにおいてBIENに対応する「市民基礎所得ブラジルネットワーク」を結成したことを報告することをもって結語とする。ここ南アフリカで、そしてナンビアその他のアフリカ諸国で、ベーシックインカムについての議論がいかに発展し、熟成したかを実感したからである。我々は、ここで皆さんから学んだことを、ブラジルその他の南アメリカの諸国に持ち帰るものである。

 

原注(10)“Premio Exemplar”, editorial of “O Globa”, October 18, 2006.

原注(11) Davidson, Paul’s Opening Remarks as member of a panel on “Towards Good Societies, Kennedy School, Harvard University, October 15, 2006, with reference to his book with his son, Greg. Economics for a Civilized Society, 1988, Macmillian, London and W. Norton, New York, revised edition 1996, and Galbraith, John Kennethe, 1966, The Good Society, Houghton Mifflin, Boston.

 

【訳者注:本稿の小見出しは訳者によるものである。[ ]内は訳者の補足である。】

 

 

【参考資料】ブラジルの政治・政権の流れ

ブラジルは1964年から85年まで軍政が続いた。現政権与党の労働者党は、80年、労働運動家、知識人などを中心に結成されたが、環境・人権などの市民運動・社会運動活動家が広範に参加し、政治的には中道左派から極左まで幅広い。82年に下院で初議席を獲得、直接選挙となった大統領選挙に労働組合の指導者だったルーラが立候補した(89年、94年、98年)が、落選。2002年に初当選。

ルーラ大統領は「飢餓ゼロ」計画を打ち上げ、貧困家庭向けの食料援助や援助金制度などを推進した。貧困家庭の生活水準改善を着実に進め、経済発展に取り残されていた内陸部へのインフラ整備も進みつつある。外交面では、南米統合へのリーダーシップも発揮した。2006年、ルーラ大統領は10月の大統領選挙で貧困層の圧倒的な支持を得て再選された。ルーラ政権下では2014 FIFAワールドカップブラジル大会や、リオ・デ・ジャネイロオリンピック(2016年)という二大スポーツイベントの招致に成功し、開催へ向けての準備が始まっている。2011年1月1日からはルーラの後を受け継いだジルマ・ルセフ新政権が発足した。(訳者)