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12月8日に、京都・仁和寺で開催されました関曠野さん講演録のHPアップ作業ですが、大変、申し訳ございません。編集作業が遅れておりまして、予告では、1月中のアップの予定でしたが、2月中旬ごろまでのアップとなります。講演録公開を望む多くのお声があるところ、重ねてお詫び申し上げます。
もう少々お待ちください。
関曠野さん、京都・仁和寺講演録について
2014.01.31 | Trackback(0)
関曠野さん講演会 IN 京都
「ベーシックインカムで日本を変えよう
――― 成長幻想から仏教経済学へ」
お話し 関曠野さん
これまで、ベーシックインカム・実現を探る会 主催・共催の関曠野さんの講演会は東京を中心に開催してきました。しかし、ベーシックインカムと通貨改革の日本的課題は、地方から日本を変えることが含まれていたはずです。そこで、今回は東京を離れ京都で関さんのお話を伺います。皆さんのご参加をお待ち申し上げております。
日時:2013年12月8日(日)午後2時~4時30分終了予定(開場午後1時30分より)
会場:仁和寺 御室会館 大広間 (京都市右京区御室大内33 ℡075-464-3664)
入場料:500円 申し込み不要
お話 関曠野さん
プロフィール1944年生まれ。評論家(思想史)。共同通信記者を経て、1980年より在野の思想史研究家として文筆活動に入る。思想史全般の根底的な読み直しから、幅広い分野へ向けてアクチュアルな発言を続けている。著書に『プラトンと資本主義』、『ハムレットの方へ』(以上、北斗出版)、『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房)、『歴史の学び方について』(窓社)、『みんなのための教育改革』(太郎次郎社)、『民族とは何か』(講談社現代新書)、『フクシマ以後―エネルギー・通貨・主権』(青土社)などがある。また訳書に『奴隷の国家』ヒレア・べロック(太田出版)がある。現在、ルソー論(『ジャン=ジャックのための弁明 ― ルソーと近代世界』)を執筆中。
お問い合わせ先
メール:info@bijp.net fax 0287-54-4824
2013.10.07 | Trackback(0)
ベーシックインカムはいかなる政治的意志により実現されるか。 ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕
元外交官で評論家の天木直人さんが、ご自身のメールマガジン(2013年5月29日第390号)で「ベーシックインカム論者はいまこそ対案を提示すべきではないか」という文章を書いておられた。それに応答する形で今回のメルマガを書いてみよう。
天木さんは、斉藤美奈子氏の東京新聞コラムを引用する形で、最近の生活保護法改悪(改正?)とマイナンバー制度導入に反対する対案をベーシックインカム論者は提起すべきではないか?と問いかけている。これに対する答えは、ある意味、ベーシックインカム論者には明確だろう。すなわち「無条件・個人単位」の「普遍的・万人への」所得保証こそが、温情主義(パターナリズム)や煩雑な制度と差別的スティグマにからめとられている生活保護制度への対抗案だということだ。
しかし、これでは、天木さんの本当の問いかけに答えたことにはならない。天木さんは、メルマガの最後を「少なくとも政治にその意思さえあれば」と書いて締めくくっている。
天木さんの言いたいことは、ベーシックインカム論者は、政治的に実現可能な対案を示せといっているのだ。無条件・個人単位のベーシックインカムが既成の社会保障制度に比較してよりましな制度だということは重々承知だ!そんなことはわかっているから、どうしたら、それが実現するのか、いいかげんにプランを示せ!ということだろう。
まさに、このメルマガのタイトル「ベーシックインカムはいかなる政治的意志により実現されるか?」が問題なのだ。
政治的意志ということで想起されるのが、ユーロ金融危機で揺れる欧州で台頭する既成政党とは一線を画す勢力のことだろう。野末編集長が何度もとりあげてきた海賊党やイタリアの五つ星運動などだ。これらの運動のスローガンや政策プランの中にはいっているのがベーシックインカムである(五つ星運動が、無条件の所得保証かどうかは明確ではないが)。上記の運動の特徴は、議会主義や政党政治を批判して人民の直接民主主義による政治改革を行おうということにある。また、その手段としてインターネットの大規模な活用ということも掲げられている。このこととベーシックインカムはどのように関連するのか。
関曠野さん(思想史)が、以前から強調しているように、近代租税国家と税の分配装置としての政党政治は、共に不即不離の関係にあって同時進行で解体過程にあるということだ。右肩上がりの経済成長の限界と共に税収も伸びず、その税収の大半を国債など負債の利払いに追われる近代国家とその延長にある福祉国家の欠陥を超越すべく、欧州の新興政治勢力は台頭してきたとみるべきだろう。ここにベーシックインカムが政策として盛り込まれる必然性があり、加えて、ベーシックインカム運動は通貨改革を伴う政府通貨発行へと行き着かなければならない。だが、ここで立ち止まろう。再度言う、それならば、その政治的意志はどこからどのように生まれてくるのか。
ポイントは、やはり、直接民主主義だ。これも、いままでのメルマガで紹介してきたが、スイスにおけるベーシックインカム制度化の国民投票実現への署名活動である。国民投票が憲法に明記されているスイスならではの動きだが、これこそがベーシックインカム実現のための政治的意志表現の重要なヒントとなる。
残念ながら、現行日本国憲法には、国民直接投票の規定がない(厳密には、憲法改正条項があるが)。そこで、考えられるのが、住民投票条例だ。原発問題と同様に各地方から続々とベーシックインカム住民投票条例運動が巻き起こること。またこれにリンクして全国知事会が過去に提起してきた日銀による国債の「直接」引き受け(政府通貨発行)政策圧力が中央政府に加わること、この二つこそが政治的意志の転換点だ。だが、再々度、ここで立ちどまることを余儀なくされる。どのようにしたら、上記のような状況が生まれてくるのか?
この状況が生じてくるためには、現在のまやかし量的緩和政策であるアベノミクスが失墜することに(これには、欧州やアメリカの経済的危機も加わる)よる一段の経済的混乱がなければならないだろう。そして、その萌芽はすでにあるともいえる。たとえば、7月の参議院選挙をめぐる自民党の地方県連と中央本部との対立だ。この対立は沖縄の普天間基地移設問題と福島の原発政策をめぐるものである。この対立の内容にはここではふれないが、日米安保エネルギー体制の揺らぎと言っておこう。中央と地方の対立、それも「沖縄と福島」という場が近未来の政治混沌への示唆となる。
ベーシックインカムと通貨改革の政治的意志は、さらなる政治的・経済的混沌を待って、表現されるだろう。天木さんが以前から提案されているインターネット政党も同じ位相で実現すると考える。インターネット政党は、「政党」という名前を借りてはいるが、それは、徹底した、既成政党政治と儀式化・既得権益化した議会政治への否定からはじまる。すなわち政党を否定する「政党」なのだから。
私の天木さんへの最終回答は、「まだ、少し、待とう!」ということだ。
地方と中央の格差と対立がさらに深まる時、そして、グローバリゼーションの化けの皮がはがれる時、過去の新自由主義論や幻想福祉国家論などのヤワな政策を吹き飛ばす、本格的なベーシックインカムと通貨改革を政策提言として含む政治的動きが生まれてくることを期待する。私もそこに参画する事を最後に記して天木さんへのお返事としたい。
2013.06.13 | Trackback(0)
「高島こども手当」について:高島市市議会議員 熊谷もも
私は政策として”こども1人あたり月に1万円相当の地域通貨を「高島こども手当」として支給することを提案します”、”脱原発・脱被曝が当たり前”を含む”ももの八策”を掲げて、先日の高島市議会議員選挙に私と同じように小さなこどもを抱えたママスタッフたちとともに挑み、第七位で当選いたしました。選挙活動では「36才3児の母としての立場、視点から誰もが住み良い暮らしのために、政治と暮らしをもっと身近なものにするために」と街宣車で回り、「高島こども手当」についても街頭演説を高島市内各地で行いました。
私は以前から、ベーシックインカムを日本銀行券ではなくて、地域通貨で実施すれば、地域にお金が回り、地域が元気になるのではないかと考えていました。「高島こども手当」は一見すると、子育て政策のようですが、地域の活性化政策の意味合いがあります。高島市には市町村合併に際して、地域通貨アイカが存在しています。アイカののぼりも地域の商店街ではためいており、地域通貨アイカは市民には知られたポピュラーな存在です。
ですから、地域通貨という言葉は一般的には馴じみが薄い言葉だとは思いますが、ここ高島市ではすでに馴じみがあります。
総予算額はいくらになるのか、そして、財源の裏付けがあるのかなど様々な課題はありますが、一つひとつ解決して、実現を目指していくつもりです。
また高島市は地場産業として、農業だけではなく、林業・材木業、そして繊維工業があります。衣食住の全てをまかなうことも可能な自治体なのです。人口の規模も5万人。十分に地域通貨で生活することも可能である、と私は見ています。ですが、高島市はその他の地方自治体と同じく高齢者が人口の多くを占め、若者の仕事がなく、若者は仕事のために都会に出て、お盆や正月を除いて、町は静まりかえっています。
畑や田んぼが目の前にあるのに、繊維工業があるのに、造り酒蔵も高島市内に5軒もあり、醤油やお酢の醸造元もあるのに、琵琶湖の湖魚が採れるのに、空き家がいっぱいあるのに、なぜ「仕事がない」のでしょうか?なぜ「儲からない」のでしょうか? なぜお金、日本銀行券の有る無しに振り回されなければならないのでしょうか。
私はこの素晴らしい高島市に盆暮れ正月だけでなく、若者が帰って来る、そして仕事があって、幸せに暮らしていける高島市にしていくことを目指しています。
熊谷 もも
ベーシックインカム・実現を探る会 主任研究員 平成25年2月より高島市市議会議員
お金に関する絵本を描き続け、2009年末『ベーシックインカムがわかる本Q&A入門編』2010年『銀行がナイショにしてるお金のひみつ』を著す。三人の乳幼児を抱える生活の中、広域瓦礫処理問題など高島市の問題に関わりながら、高島市政に同じ世代・境遇の声を届けることを決意。
2013.02.22 | Trackback(0)
「成長を超えて~~ベーシックインカム・通貨改革と脱原発への道」番外編~最低賃金制度論議からみえてくる福祉国家的現金給付の貧困 ~ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕
衆院選挙がらみの政策論議で、最低賃金制度廃止を求める議論があった。内容は雇用を増やすために最低賃金制を廃止して、そのために所得が減少した場合には負の所得税などの現金給付で補填するというものだ。そして、負の所得税の給付水準は、現行の生活保護費支給額が高すぎるということで、それ以下の金額水準を専門家に決めさせるということが加わっていた。一見すると高尚な議論にもみえるが、なんのことはない、緊縮財政のための方便としてお涙ちょうだい的な現金給付システムがくっつけられているだけのことだ。同じことが給付付税額控除にもある。また、過去にワークシェアリングも単なる賃下げワークシェアとして提案されてしまったことが、これまた同じ現象だ。そもそも議論の枠組みとなっている社会保障制度・福祉国家自体が「お涙ちょうだい」なのだ。
第二次大戦後の福祉国家の枠組みをつくったと言われるヴェバリッジ報告(1941年)をみると、右肩上がりの生産と労働者の生産意欲を失わせないために福祉としての保険や児童手当があるにすぎない。間違ってはいけない、個人の尊厳のために福祉があるわけではないのだ。加えて、その右肩あがりの福祉国家の財政はどうなっているのだろう。平成23年度一般会計予算(二次補正後)をみると、歳入における租税関係の収入は、全体予算の43.2%(409,270億円)しかなく、歳出のうち国債元利返済分が全体の22.8%(215,491億円)を占めている。大雑把に言えば、収入の半分が借金の返済に消えてしまうのだ。こんな窮屈な予算を政府・政治家たちは、予算編成だ!などといって偉そうにチマチマと分配行為をしているにすぎない。そんなチマチマさが冒頭に述べた貧困な現金給付政策の原因なのだ。
政府の予算と言っても政府が現金を創っているわけではない。日銀と市中銀行の貸し出しが現金を「利子つき負債」として創ることによりお金全体の動きが創られている。通貨発行権は中央銀行システムに握られているのだ。中央銀行システムに福祉国家はハイジャックされ、国債利払いなどで国民の税金も吸い取られてしまい、その下僕としての政治家と官僚が緊縮財政を国民に強いている。こんな状況では、負の所得税だろうがベーシックインカムだろうが緊縮財政の方便として利用される悪政になるだけである。このどん詰まりの福祉国家とそこに寄生する銀行マネーシステムを一新して通貨発行権を人民主権の政府が取り戻すことなしに、私有財産権としての普遍的なベーシックインカム(万人の所得保証)も永遠にありえないだろう。
(付記:今回は短文なので機会を改めて論じたいが、最低賃金制度も、資金にゆとりのある大企業に有利な制度で中小事業者にはきつい制度だ。銀行マネーシステムを廃止し本格的な普遍所得保証があれば、硬直した最低賃金制度とは違う地平も見えてくるはずなのだ。)
2012.12.07 | Trackback(0)
金融庁、預保版「特融」創設=無担保・無制限で危機回避―保険・証券にも公的資金
以下のようなことを許してはなりません。「公金」で金融業界全体を救済することを誰が合意したのでしょうか?マネーゲームのつけを「消費増税」などで、もたざる99%の国民におしつけてはならないと思います。(文責、白崎)
~~~~~~~ 以下転載記事 ~~~~~~~~
金融庁、預保版「特融」創設=無担保・無制限で危機回避―保険・証券にも公的資金
時事通信 11月10日(土)2時33分配信
金融庁は9日、リーマン・ショックのような国際金融危機を回避するため、預金保険機構による「特別融資」制度を創設する方針を固めた。経営破綻すれば金融システム不安につながるような大規模金融機関に対して、日銀の特別融資(日銀特融)と同様に無担保・無制限で貸し出し、危機の連鎖を断ち切る。銀行に限定していた公的資金の注入対象も保険、証券会社などに広げる。
金融庁は12日、金融審議会(首相の諮問機関)に新たな金融危機対応措置の原案として提示する。年末までに詳細を詰め、来年の通常国会にも関連法案を提出する。
2012.11.10 | Trackback(0)
成長を超えて~~ベーシックインカム・通貨改革と脱原発への道 (5) ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕
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ベーシックインカム・私有財産権・田中正造の思想
脱原発の世論の流れは決定的のように思えるが、そこに落とし穴はないのだろうか。危惧されるのは、過去に何度も繰り返されてきた「食うためには仕方がない」という理屈である。現実に、現在でも原発を推進・維持しようとする人たちは、日本の経済が空洞化するとか、雇用が守れないだとか主張しているわけだ。過去の地方の反原発運動でも、やはり、「食うためには仕方がない」という理屈が反原発派をおいつめてきた。
そのひとつの例が、私有財産権をもとにした原発阻止の運動である。原発立地計画が持ち上がった時、その土地の地権者・漁業権者が私有財産権を盾に抵抗した場合は、原発立地計画が挫折するが、ひとたび、地権者・漁業権者が土地などを手放し売却してしまうと、電力会社の立地計画と政府による許認可を見直させるのが困難となるという。この場合の私有財産権は、自分の所有物なのだからどのように使おうとも自分の勝手だ、という論理で「他人に迷惑をかけなければ何をしても自由」という自由主義の論理でもある。この自由主義の論理が無制限な経済成長を生み出し、その動因のひとつが原発でもあった。しかし私有財産権については、欧州に特有な国家権力等の侵害を許さないものとしての歴史的背景があるはずだ。また、聞くところによると、欧州では、私権にあたる漁業権は存在しないともいう。
私は、ベーシックインカムは、私有財産権の一部だと考えているが、上記の事柄から、日本の近現代史を中心にして私有財産権なるものを再考してみる必要性を感じている。もちろん、ここにコモンズ(入会権)を導入する人たちもいるだろう。共有地・共同の論理には一定の価値を認めるものではあるが、先に述べた反原発運動の歴史的経緯からいけば、それが有効に機能しなかったという反省もあるのではないか。そして、欠落していたのは、まずは個の論理とそれを公につなぐ回路なのではないだろうか。この仮説を田中正造の思想をみることで考えてみよう。
足尾鉱毒事件追及をしていた正造議員の鉱毒問題追及の論理は、明治憲法27条に規定されている「所有権不可侵」の原理を根拠にしてのものだった。まさに私有財産権の擁護だったわけだ。しかし、この論理では、古河足尾銅山側の営業権も「所有権」となり論理的弱点があるということになる。正造は、そこで、租税の多寡による「公益」論ということをもちだしてくるのだが本論の主題とはずれるので、今は「公益」論にふれない。では、正造は「所有権」を手放してしまったのだろうか。私はそうは考えない。谷中の人々と共に生きることを決意した晩年の正造は、ふたたび、この「所有権」を新しい形で持ち出してきている。「~~耕せバ天理です。谷中人民の口二入らぬともよろし。~~只天然天与の食料ハ人類及動物の口二入りて一日の生命を長ふせバ天理なり。~~」この文章を紹介している小松裕は、谷中の人々が収穫してそれを所有することは目的ではなく、土地が本来もっている生産力を生かすこと、無にしないことが本来の目的だと正造は主張していると解説を加えている。ただ、小松は正造が私的所有物ではなくて天来の共有財産として分かち合うことに力点をおいているが、それには異論がある。
正造が「天来のムラの自治権」を政治の原点として考え、また、治水など自然原理を利用した河川管理の在り方に研究を深めていたことを合わせて考えると、「耕せば天理」の意味とは、自然をみずからのものとして「所有」し大切にケアする「義務の」ことを表現しているのではないかと考える(この部分は、小松の指摘する「土地が本来持っている生産力を生かすこと無にしないこと」に近い)。上記には、自分のものだから勝手につかってしまってもかまわないという自由主義的な私有財産権とは異なる「私有財産権」思想が表現されている。当然、国家や企業にたやすく売り渡す財産権も、そして経済成長への道も、ここからは遠い。なぜなら耕せば「天」理なのだから。(小松裕の文章は『田中正造の近代』現代企画室、p592より引用)課題は、天理としての私有財産権と万人が労働市場から自由になる分配思想およびケアの思想との関係をどのように考えるか?だが、それは別の機会に考えてみたい。
(この稿続く)
2012.09.05 | Trackback(0)
成長を超えて~~ベーシックインカム・通貨改革と脱原発への道 (4) ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕
原発再稼働問題でも原発建設予定地での推進派と反対派の対立でも原発推進派から必ずでてくる科白が「原発がないと地域の経済が立ち行かない」というものだ。長い間、原発は地域を潤す特効薬として宣伝され政治の道具として使われてきた。そうであるならば、原発のかわりに、原発を受け入れている地方にベーシックインカムを支給して原発がとまっても何ら経済的に問題はないということを証明しようという発言がでてくるのは当然だ。twitterで映画監督の鎌仲ひとみさんがそんな風によびかけていた。正論だと思う。
正論には違いないがその実現のためには通貨改革を含めて相当な下準備がいるだろう。実現はそう簡単なことではない。そもそも、わたしたちには、いつの間にか東京を中心とする大都会は富んでいて、地方は限りなく貧しいという思考が刷り込まれている。確かに現実は「貧しい」のだ。ただ、それが永遠の昔からの常態であったような錯覚に陥っている。まずは、ここの思考の塊をほぐすことからはじめてみよう。
現在、知事選挙で話題の山口県には、上関原子力発電所建設計画問題がある。この原発を誘致しようとしている上関町とはどんな町なのだろうか。町の高齢化率は約50%(全国平均が20%)。ここ40年間で人口が6割減っている(1970年には8308人だった人口は2010年で3332人になっている)。これに関しては、朝日新聞(山口地方版)2011年3月8日に「交付金見込み17%増 上関予算案」という見出しの次のような記事がある。少し長いが全文引用する。
『上関町の2011年度一般会計当初予算案が7日、3月定例議会に提案された。上関原発建設計画に伴う国の原発立地地域特別交付金10億3800万円の歳入を見込み、総額は前年度比17・2%増の43億9496万円。「総合文化センター」と「ふるさと市場」(いずれも仮称)を年内に着工するほか、今年度に続いて全町民に2万円の振興券を配る。 総合文化センターは公民館と図書館、多目的ホールのある施設で、総事業費は約13億円。併設するふるさと市場には直売所や飲食店、航路待合所などを設け、総事業費約4億円を見込む。ともに上関町室津の埋め立て地に建設し、12年秋に完成する予定。室津小学校跡地に建設中の温浴施設「上関海峡温泉」と合わせ、11年度当初予算案に占める3施設の事業費は約11億2700万円。うち10億3800万円を特別交付金でまかなう。特別交付金は09~13年度に計25億円見込まれる。
町民3558人(1日現在)に2万円の「花咲く海の町振興券」を交付する事業は今年度初めて取り組み、経済効果があったとして新年度も約7400万円を予算化した。中電の寄付金などで運用する「ささえあい基金」を充てる。
一般会計当初予算の総額は09年度比で34・2%増、08年度比で40・5%増。歳入に占める町税(2億4233万円)の割合は5・5%しかない。「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表は「身の丈を度外視した予算。ハコモノばかり造って、将来は運営費がかさんで大変なことになる。よその原発立地町村の教訓を踏んでいない」と指摘する。(渡辺純子)』
(上記、人口推移および新聞記事の存在は、『原発廃炉に向けて』エントロピー学会編所収の「上関原発の建設中止の行方」三輪大輔著より学んだ)
なんと、中国電力の寄付金をもとに現金給付まで計画されているではないか。これこそお涙ちょうだい的「偽」ベーシックインカム!そして、予算総額はどんどん増えているが、歳入に占める町税の割合は微々たるものだ。この摩訶不思議な財政の背景に、原発立地困難地区対策として政策立案された「電源三法」(発電用施設周辺地域整備法、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法)があることはよく知られている。基本的な三法の仕組みは以下のようなことだ。
全国の電力会社(9電力会社と沖縄)から販売電力量に応じて一定額(1000kwにつき85円)の電源開発促進税を徴収し、それを電源開発促進対策特別会計の予算とし、その予算を電源立地促進のための多種類の交付金・補助金・委託金、特に発電所を立地する自治体(周辺市町村も含む)への「電源立地促進対策交付金」という「迷惑料金」にあてるというものだ。しかし、引用した記事のなかで山戸さんが言っているように「電源三法」制度は一時的な雇用・財政効果しかもたらさず、立地自治体には常に増設の圧力がかかり、麻薬的な作用を地域に強いるという批判は様々な論者からなされている(交付期間の終了により、財政規模が激減してしまうので、別の安定的な財源措置が必要になる)。また、法人住民税についても、進出企業の本社が他の自治体にある場合、従業員数に応じて比例配分される。そのため、電力会社本社が大都市にあり発電所が地方にあるような場合、法人住民税の多くは本社のある大都市に吸い上げられてしまう(たとえば、立地市町村に100人の従業員がいて、大都市本社など他の市町村に9900人の従業員がいれば、法人住民税の法人税割の99%は大都市に吸い上げられる)。
(電源三法、法人住民税のことは『新版・原子力の社会史』吉岡斉著および『脱原発の経済学』熊本一規著から学んだ)
冒頭に述べた地方はかぎりなく「貧しい」という刷り込みとも関連するがこのように地方が中央からの原発関連の予算配分にもたれて生きる構造、そして中央が地方から財・物・人が吸い尽くされてしまう構造はどのように生まれてきたのか?もちろん、この構造は、原発問題にかぎらず日本の近現代史における「中央VS地方」という構造に重なっているわけだ。
その歴史的原因は明治維新にある。典型的な例としても、また、福島原発が生まれてきた背景としても「東北」を例にそのことを考えてみたい。
東北地区は、幕末、東北諸藩が奥羽列藩同盟を結び薩長連合軍に対抗した。明治維新政府樹立後は、この東北同盟各藩は「朝敵」の汚名を着せられ弾圧政策にさらされる(それは白河以北一山百文という差別的な言葉によくあらわれている)。会津藩・盛岡藩など、減俸・転封を命ぜられた。これらの政策により東北地区は独自の近代化が遅れ「辺境」の地においやられてきたといってよい。この後、明治政府は、中央集権化政策のために官選知事を派遣して中央のコントロールのきく地方支配を貫徹しようとする。有名な県令・三島 通庸(みしま みちつね)はその典型的人物である。三島は、山形、福島などで地方隷属化の政策を断行し自由民権運動など抵抗勢力には厳しい弾圧を加えた。また、三島は、「土木県令」とあだ名されるように中央政府に都合のよい土木開発を行いその財源として地方への重税を課している。ゆがんだ「国土計画」の象徴が三島だ。三島のような人間像は、現在の東京電力の幹部にも受け継がれているといってよい。
このような流れと対極にある人物が盛岡藩出身の政治家、小田 為綱(おだ ためつな)である。小田は私擬憲法の「憲法草稿評林」の作成者として知られている。私は憲法思想と共に、彼が東北地区の地域実情にあった国土プラン「三陸開拓案」を明治政府に提案した人物としてその思想を評価すべきだと思う。小田のプランは現在からみても地方の地方による地方のためのものだといえよう。小田は、東北地区の農業開拓のために明治になって失職した士族を帰農させることを考えていた。この帰農プランの具体的な予算案もつくり、帰農者の生活資金などには鋳銭工場をつくりその利益をあてること、また、不足分は、富裕層からの借金なども考えていた。加えて地方独自の産業育成のための「陸羽銀行」(地方銀行)の設立や地方の人材育成のための「陸羽大学」(地方立大学)の開学も計画した(哲学・政治・農業・理化、医学、文学などの12学部の総合大学)。残念ながらこれらの提案はことごく明治政府によって無視されてしまう。
3・11以後の現在から未来を考えるとき、この小田為綱の思想から学ぶことは多いに意味がある。真の地方主権ということを考えていかない限りベーシックインカムも通貨改革もそのラディカルな実現は達成されないだろう。(この稿続く)
2012.07.25 | Trackback(0)
【草稿】社会信用論(Wikipedia [en] 対訳)
原文:http://en.wikipedia.org/wiki/Social_Credit
社会信用論
This article is about the philosophy, economic theory and history of Social Credit. For political parties, see Social Credit Party (disambiguation).
<社会信用論の性質及び哲学>
Social Credit is an economic philosophy developed by C. H. Douglas (1879–1952), a British engineer, who wrote a book by that name in 1924. Social Credit is described by Douglas[1] as "the policy of a philosophy"; he called his philosophy "practical Christianity". This philosophy is interdisciplinary in nature, encompassing the fields of economics, political science, history, accounting and physics. Assuming the only safe place for power is in many hands, Social Credit is a distributive philosophy, and its policy is to disperse power to individuals. Social Credit philosophy is best summed by Douglas when he said, "Systems were made for men, and not men for systems, and the interest of man which is self-development, is above all systems, whether theological, political or economic."[2]
<A+B定理の発見>
<国民配当金と補償価格制度の提唱>
<歴史概観>
Contents [hide]
1 Economic theory
2 The A + B theorem
2.1 Compensated Price and National Dividend
2.2 Critics of the A + B theorem and rebuttal
3 Political theory
4 History
4.1 Political history
5 Philosophy
5.1 Relationship to anti-Semitism
6 Groups influenced by Social Credit
6.1 Australia
6.2 Canada
6.3 Ireland
6.4 New Zealand
6.5 Solomon Islands
6.6 United Kingdom
7 Literary figures in Social Credit
8 See also
9 Notes
10 Further reading
10.1 Fiction and poetry
11 External links
1 経済理論
2 A+B定理
2.1 補償価格制度及び国民配当金
2.2 A+B定理への批判とそれに対する反論
3 政治理論
4 社会信用論の歴史
4.1 政治上の歴史
5 社会信用論の哲学
5.1 反ユダヤ主義との関連
6 社会信用論の影響を受けた団体等
6.1 オーストラリア
6.2 カナダ
6.3 アイルランド
6.4 ニュージーランド
6.5 ソロモン諸島
6.6 イギリス
7 社会信用論に関する文学作品
8 関連項目
9 脚注
10 参考文献
10.1 小説と詩
11 外部リンク
経済理論
<第一の生産要素としての文化的継承物>
<経済破壊の社会信用論>
"The economic effect of charging all the waste in industry to the consumer so curtails his purchasing power that an increasing percentage of the product of industry must be exported. The effect of this on the worker is that he has to do many times the amount of work which should be necessary to keep him in the highest standard of living, as a result of an artificial inducement to produce things he does not want, which he cannot buy, and which are of no use to the attainment of his internal standard of well-being."[8]「工業生産の全ての無駄を消費者へ転嫁した場合、購買力は大きく減退し、工業生産物の輸出依存率が増加していく。この影響で、労働者は不要なものや購入不可能なものや、内面的な幸福達成には無益なものに対する生産意欲を無理やり喚起させられ、その結果としての最高水準の生活を維持するのに必要な分、仕事を多くこなさなければならなくなるのだ。」[8]
"But it may be advisable to glance at some of the proximate causes operating to reduce the return for effort ; and to realise the origin of most of the specific instances, it must be borne in mind that the existing economic system distributes goods and services through the same agency which induces goods and services, i.e., payment for work in progress. In other words, if production stops, distribution stops, and, as a consequence, a clear incentive exists to produce useless or superfluous articles in order that useful commodities already existing may be distributed. This perfectly simple reason is the explanation of the increasing necessity of what has come to be called economic sabotage ; the colossal waste of effort which goes on in every walk of life quite unobserved by the majority of people because they are so familiar with it ; a waste which yet so over-taxed the ingenuity of society to extend it that the climax of war only occurred in the moment when a culminating exhibition of organised sabotage was necessary to preserve the system from spontaneous combustion."[9]「しかし、労力に対する見返りが減少する直接の原因を一通り見てみるのも得策であろう。ほとんどの具体例の根源にあるものを理解するには、現状の経済システムでは、商品やサービス、即ち進行中の仕事に対する支払を推奨いる者と同じ者がそれを分配していることに留意しなければならない。言い換えると、生産が停止すれば分配も停止するので、その結果、既にある有益な商品の分配が可能となるために、無益あるいは過剰な商品生産を行う動機が明確に存在することになる。この極めてシンプルな理由が、なぜ経済破壊行為とまで呼ばれているものの必要性が増大するかを説明している。大多数の人はそれに慣れきっているので、この日々の膨大な労力の浪費に全く気付いていない。その労力の浪費は、社会の拡大能力に対し、余りに過剰な負荷を既にかけているので、戦争のクライマックスは、組織的破壊行動を最も激しく発揮することが、システムの自己発火の防止のために必要となった瞬間にしか起こらなかった。」[9]note: 「a clear incentive exists to produce useless or superfluous articles in order that useful commodities already existing may be distributed.」生産者と分配者が同じなので、生産し続けないと商売上がったりになる。でも必要なものは既に皆の手にある。余計なものと分かっていても更に生産する。これが経済破壊行為ということだろうか。。in order that は目的を表すので、「既に存在する有益な商品が分配される」目的で「無益あるいは過剰な商品を生産する」行為をすることになるが、意味が繋がらない。「過剰生産すると今ある良い商品が分配される」?note: 「a waste which yet so over-taxed the ingenuity of society to extend it that the climax of war only occurred in the moment when a culminating exhibition of organised sabotage was necessary to preserve the system from spontaneous combustion.」構文が分かり辛い。so-that 構文を素直に訳すと訳文の通りだが、これだと、浪費によって強いられる拡大路線が限界に近づいても、経済システムが自己発火=暴発?しないためのガス抜き的な組織的破壊行動としての戦争は、ぎりぎりまで起こらないという意味になるが、それでいいのだろうか?労力の浪費に鈍感なのでなかなか暴発しないという意味だろうか。また、climax of war の意味がもう一つ文脈から解釈できない。
"1. The first of these is that it is a disguised Government, of which the primary, though admittedly not the only, object is to impose upon the world a system of thought and action. 2. The second alternative has a certain similarity to the first, but is simpler. It assumes that the primary objective of the industrial system is the provision of employment. 3. And the third, which is essentially simpler still, in fact, so simple that it appears entirely unintelligible to the majority, is that the object of the industrial system is merely to provide goods and services."[10]
<経済システムの目的と失業者問題>
<古典経済学への批判と貨幣の本質>
<今日の富の源泉>
<貨幣の今日的役割と価値>
<銀行システムへの批判>
- for being a form of government which has been centralizing its power for centuries, and
- for claiming ownership of the money they create.
- 何世紀にも渡って権力を集中させてきた支配体制、そして
- 創造した貨幣への所有権の主張
A+B定理
<経済活動の測定方法への批判>"It is not the purpose of this short article to depreciate the services of accountants; in fact, under the existing conditions probably no body of men has done more to crystallise the data on which we carry on the business of the world; but the utter confusion of thought which has undoubtedly arisen from the calm assumption of the book-keeper and the accountant that he and he alone was in a position to assign positive or negative values to the quantities represented by his figures is one of the outstanding curiosities of the industrial system; and the attempt to mould the activities of a great empire on such a basis is surely the final condemnation of an out-worn method."「この短い記事の目的は会計士の業務内容を蔑ろにすることではない。現実の条件下では、会計士以上に世界の商業上で起こっていることをデータで明確に示すことができる職能団体は、恐らくない。しかし、会計担当者や会計士は、自分達だけが数字で表された量に肯定的または否定的な価値を与えられる立場にあると慢心しており、それが思想な混乱を生じ、工業社会システムにおける奇妙な未解決問題の一つとなっている。偉大なる英国の活動を、このような考え方のもとに形成しようとするのは、最終的には時代遅れの手法であると間違いなく非難されるだろう。」
<A+B定理の発表>
"A factory or other productive organization has, besides its economic function as a producer of goods, a financial aspect—it may be regarded on the one hand as a device for the distribution of purchasing-power to individuals through the media of wages, salaries, and dividends; and on the other hand as a manufactory of prices – financial values. From this standpoint, its payments may be divided into two groups:
Group A: All payments made to individuals (wages, salaries, and dividends).Group B: All payments made to other organizations (raw materials, bank charges, and other external costs).
Now the rate of flow of purchasing-power to individuals is represented by A, but since all payments go into prices, the rate of flow of prices cannot be less than A+B. The product of any factory may be considered as something which the public ought to be able to buy, although in many cases it is an intermediate product of no use to individuals but only to a subsequent manufacture; but since A will not purchase A+B; a proportion of the product at least equivalent to B must be distributed by a form of purchasing-power which is not comprised in the description grouped under A. It will be necessary at a later stage to show that this additional purchasing power is provided by loan credit (bank overdrafts) or export credit.”[4]
「工場その他の生産組織の役割には、商品生産者という経済的側面の他に、財政的側面も存在する。一つには賃金・給与・配当金といった手段で個人に対し購買力を分配する装置という面、もう一つは価格、即ち財政的価値を作り出す工場という面である。この見地から、工場の支払は二つのグループに分けられる。
Aグループ:個人に対して支払うもの(賃金・給与・配当金)Bグループ:他の組織に対して支払うもの(原材料、銀行手数料その他の外部費用)
個人に支払う購買力のフローはAに等しいが、全ての支払が価格に反映されるので、価格のフローがA+B以下になることはありえない。どの工場の生産物も人々に購入されることを前提としたものと見なされるが、個人には無用であるが次の工場で有用である中間生産物である場合も多い。しかし、AではA+Bを購入できない。少なくともBに相当する部分の生産物は、Aグループに記載されているもの以外のもので構成される購買力の形で分配されなければならない。この付加的な購買力は、貸付信用(銀行当座貸越)又は輸出信用によって与えられることを、後の章で示す必要がある。」[4]
Beyond empirical evidence, Douglas claims this deductive theorem demonstrates that total prices rise faster than total incomes when regarded as a flow.
実証的な[en]論拠は別として、収入総額をフローとみなした場合、製品の価格総額はそれより速く上昇することを、この演繹的な定理が示しているとダグラスは主張した。
“I think that a little consideration will make it clear that in this sense an overhead charge is any charge in respect of which the actual distributed purchasing power does not still exist, and that practically this means any charge created at a further distance in the past than the period of cyclic rate of circulation of money. There is no fundamental difference between tools and intermediate products, and the latter may therefore be included.”[20]「この意味での一般費用は購買力が存在しない場合の全ての費用であること、それは一般費用が実質的に貨幣の循環期間よりずっと以前の時点で発生した全ての費用であるとことを意味することは、少しばかりの考察によって明確になるはずである。工場設備と中間生産物との間に本質的に違いはなく、そのため後者は前者に含まれることになる。」[20]
<貨幣の回転速度>
“Now we know there are an increasing number of charges which originated from a period much anterior to three weeks, and included in those charges, as a matter of fact, are most of the charges made in, respect of purchases from one organization to another, but all such charges as capital charges (for instance, on a railway which was constructed a year, two years, three years, five or ten years ago, where charges are still extant), cannot be liquidated by a stream of purchasing power which does not increase in volume and which has a period of three weeks. The consequence is, you have a piling up of debt, you have in many cases a diminution of purchasing power being equivalent to the price of the goods for sale."[21]「さて、三週間以前の期間に発生した費用増加分があることが分かっている。また、実際のところ、これらの費用にはある組織の別の組織からの商品購入関する費用のほとんどが含まれているが、資本費用の類いは(例えば、1,2,3,5,10年前に建設された鉄道の費用は未だ存在する)、量が増加しない上、三週間という期限付きの購買力の流通によっては、全てが清算されることはない。結果として負債が蓄積され、多くの、市場の商品総額と同等であった購買力が、減少していくことになる。」[21]
"In the first place, these capital goods have to be sold to someone. They form a reservoir of forced exports. They must, as intermediate products, enter somehow into the price of subsequent ultimate products and they produce a position of most unstable equilibrium, since the life of capital goods is in general longer than that of consumable goods, or ultimate products, and yet in order to meet the requirements for money to buy the consumable goods, the rate of production of capital goods must be continuously increased. "[22]「そもそも、これらの資本財は誰かに購入されなければならないはずだ。それらは、強制的に輸出されるべきものとして蓄積され、また、中間生産物であるから、それに続く最終生産物の価格に織り込まれなければならず、極限的に不安定な均衡状態を生み出す。なぜなら、資本財の耐用年数は一般的に消費財即ち最終生産物より長く、更に、消費財を購入するために必要とされる貨幣量に見合うよう、資本財の生産速度は常に大きくならなければならないからである。」[22]
"The factory cost--not the selling price--of any article under our present industrial and financial system is made up of three main divisions-direct labor cost, material cost and overhead charges, the ratio of which varies widely, with the "modernity" of the method of production. For instance, a sculptor producing a work of art with the aid of simple tools and a block of marble has next to no overhead charges, but a very low rate of production, while a modern screw-making plant using automatic machines may have very high overhead charges and very low direct labour cost, or high rates of production. Since increased industrial output per individual depends mainly on tools and method, it may almost be stated as a law that intensified production means a progressively higher ratio of overhead charges to direct labour cost, and, apart from artificial reasons, this is simply an indication of the extent to which machinery replaces manual labour, as it should."「現在の工業・経済システムにおけるあらゆる製品の製造原価(販売価格ではない)は、大きく三つに分類される。直接労務費、材料費、一般費用であり、その割合は、生産方法の「現代性」によって大きく変動する。例えば、彫刻家が作品を作る際に使用するのは、シンプルな道具と大理石の塊だけであり、一般費用はほとんどゼロであるが、生産速度は極めて小さい。一方、全自動の機械を使用する近代的なネジ工場では、一般費用は非常に大きいが直接労務費は非常に小さく、生産速度は大きい。一人当たりの工場での産出量の増加は主として設備と生産方式に依存するので、生産強化が直接労務費に対する一般費用の比率を高めていくことは、ほぼ法則であると言えるだろう。またその比率は、それが人為的なものかどうかは別にして、あるべき姿である、機械が人間の手による労働と置き換わっている程度をシンプルに示す、一つの指標でもある。」
<実際の生産原価の計算>
note: 生産物は全て消費されるわけでなない。貨幣流通量全体のうち、そのギャップ分を除いた部分が生産原価(費用)となる。ギャップ分は過剰商品か? それともこの知見はデータから帰納的に得られたものなのか?
<真の価格の計算>
note: TruePrice($), Cost($) なる変数に関しては説明がない。式と説明文も合致していない。前段のRaalCost(production)の式をCost($)に代入するのか?
<実際の生産原価の減少>
<払戻金の実例>
The National Dividend is justified by the displacement of labour in the productive process due to technological increases in productivity. As human labour is increasingly replaced by machines in the productive process, Douglas believed people should be free to consume while enjoying increasing amounts of leisure, and that the Dividend would provide this freedom.
A.W. ジョゼフは、バーミンガム保険数理学会に寄稿した論文「銀行業と工業」の中で、上記の典型的な批判に対してこう答えている。
"Let A1+B1 be the costs in a period to time of articles produced by factories making consumable goods divided up into A1 costs which refer to money paid to individuals by means of salaries, wages, dividends, etc., and B1 costs which refer to money paid to other institutions. Let A2, B2 be the corresponding costs of factories producing capital equipment. The money distributed to individuals is A1+A2 and the cost of the final consumable goods is A1+B1. If money in the hands of the public is to be equal to the costs of consumable articles produced then A1+A2 = A1+B1 and therefore A2=B1. Now modern science has brought us to the stage where machines are more and more taking the place of human labour in producing goods, i.e. A1 is becoming less important relatively to B1 and A2 less important relatively to B2.
「A1+B1 を一定期間に消費材工場において製品の生産に要する費用、うちA1を給与・賃金・配当金の形で個人に支払われた費用、B1を他の組織に支払った費用とする。A2とB2は、資本設備を生産する工場の対それぞれ応する費用とする。個人に支払われた貨幣はA1+A2であり、最終消費材の生産費用はA1+B1となる。もし人々の手にある貨幣が消費材の生産費用と同額になるなら A1+A2 = A1+B1となり、ゆえに A2=B1である。今私たちの社会は、現代科学によって、生産過程での人の手による仕事が増々機械に入れ替わっていく段階にある。従って、A1はB1と比べ、またA2はB2と比べ、その価は小さくなりつつある。
In symbols if B1/A1 = k1 and B2/A2 = k2 both k1 and k2 are increasing.B1/A1 = k1 及び B2/A2 = k2 とすると、k1、k2 とも増加する。Since A2=B1 this means that (A2+B2)/(A1+B1)= (1+k2)*A2/(1+1/k1)*B1 = (1+k2)/(1+1/k1) which is increasing.A2=B1 であるから、(A2+B2)/(A1+B1)= (1+k2)*A2/(1+1/k1)*B1 = (1+k2)/(1+1/k1) となり、[訳註:資本財の消費材に対する生産費用の割合は]増加する。Thus in order that the economic system should keep working it is essential that capital goods should be produced in ever increasing quantity relatively to consumable goods. As soon as the ratio of capital goods to consumable goods slackens, costs exceed money distributed, i.e. the consumer is unable to purchase the consumable goods coming on the market."故に、経済システムが稼働し続けるには、消費材の生産量と比べて常に資本財の生産量が増大し続けることが不可欠となる。資本財の消費材に対する費用の割合が減少すれば、直ちに、生産費用が人々に分配された貨幣量を上回ることとなり、消費者は市場にある消費財を購入できなくなる。」
<ホブソン博士への返答>
<セイの法則の否定>
<ケインズの論評>
“Thus the problem of providing that new capital-investment shall always outrun capital-disinvestment sufficiently to fill the gap between net income and consumption, presents a problem which is increasingly difficult as capital increases. New capital-investment can only take place in excess of current capital-disinvestment if future expenditure on consumption is expected to increase. Each time we secure to-day’s equilibrium by increased investment we are aggravating the difficulty of securing equilibrium to-morrow.”「故に、正味の収入と消費の間のギャップを埋めるため、新たな資本投資が常に負の資本投資を十分に上回らなければならないという供給における問題は、資本の増加に伴って増々困難になっていくという問題を提示している。将来の消費支出の増大が見込まれ、現在の負の資本投資を上回る場合にのみ新たな資本投資は可能である。投資拡大によって今日の財政均衡を保障するときは毎回、明日の財政均衡を保障することが更に困難になるのである。」[26]
The criticism that Social Credit policies are inflationary is based upon what economists call the quantity theory of money, which states that the quantity of money multiplied by its velocity of circulation equals total purchasing power. Douglas was quite critical of this theory stating, "The velocity of the circulation of money in the ordinary sense of the phrase, is – if I may put it that way – a complete myth. No additional purchasing power at all is created by the velocity of the circulation of money. The rate of transfer from hand-to-hand, as you might say, of goods is increased, of course, by the rate of spending, but no more costs can be canceled by one unit of purchasing power than one unit of cost. Every time a unit of purchasing power passes through the costing system it creates a cost, and when it comes back again to the same costing system by the buying and transfer of the unit of production to the consuming system it may be cancelled, but that process is quite irrespective of what is called the velocity of money, so the categorical answer is that I do not take any account of the velocity of money in that sense."[27] The Alberta Social Credit government published in a committee report what was perceived as an error in regards to this theory: “The fallacy in the theory lies in the incorrect assumption that money 'circulates', whereas it is issued against production, and withdrawn as purchasing power as the goods are bought for consumption."[28]
<他の批判及び反論(負債の蓄積への言及)>
他の批判者は、ダグラスの言うように収入と価格の間にギャップがあるならば、経済は即座に破綻するはずだと論じている。また、購買力が消費財の販売価格を上回る期間も存在するはずだとも論じている。
Douglas replied to these criticisms in his testimony before the Alberta Agricultural Committee:
ダグラスはこれらの批判に対して、アルバータ農業委員会の開会前の宣誓時にこう答えている。
"What people who say that forget is that we were piling up debt at that time at the rate of ten millions sterling a day and if it can be shown, and it can be shown, that we are increasing debt continuously by normal operation of the banking system and the financial system at the present time, then that is proof that we are not distributing purchasing power sufficient to buy the goods for sale at that time; otherwise we should not be increasing debt, and that is the situation."[21]「反対論者は、一日一千万ポンドという速度でその際に負債が蓄積されていることを忘れている。そして現在も、通常の銀行システムや財政システムの活動によって常に負債が増加し続けていることが示されるなら、それが誰も商品購入に十分な購買力形成を妨害しているわけではないという証拠であることを示すことができるのである。さもなければ負債が増える訳はない。これが実情なのだ。」[21]
<三位一体説の政治への適用>
ダグラスは、国家政体は有機体であり、単なる組織ではないと考えていた。[30] 彼の見解によると、あらゆる権力を持つ議会から 個人の権利を守るためには、コモン・ローの至高性を確立することが重要となる。ダグラスはまた、イギリス政府の有効性は、三位一体説として知られるキリスト教徒の教義を適用することによって、構造的に決定されると考えていた。「様々な形式をとりつつも、直近二千年間のブリテン諸島の君主は三位一体主義者のもとにあった。この三位一体を、王・貴族・庶民の名のもとに、あるいは政策・制裁・統治として見出すかどうかは別として、三位一体の状態が存在し、それらの間に均衡が得られていたとき、我らが英国は偉大な成功を収めていたのである。」[30]
<政党政治の否定>
<著書及び委員会での諮問>
ダグラスの最初の本「経済民主主義」は、彼の「超生産という妄想[23] 」がイングリッシュ・レビュー誌に掲載された直後の1920年に出版された。ダグラスの他の初期の著作には「生産の制御と分配」、「信用力と民主主義」、「民主主義と信用独占への警告」がある。 彼の興味の範囲が多岐に渡っていた証拠に、カナダ庶民院の銀行商業特別委員会(1923年)[34] 、経済学者ジョン・メイナード・ケインズとの意見交換を含む英国議会マクミラン委員会(財政・工業)(1930年)、アルバータ農民連合政権時代のアルバータ州立法議会農業委員会(1934年)への出席がある。
<運動への関与と晩年>
<カナダの社会信用党(アバーハート)>
1935年、最初の「社会信用党[en]」政権が、ウィリアム・アバーハート[en]の主導のもと、カナダのアルバータ州で選出された。モーリス・コルボーンの著書「社会信用論の意味」を読み、アバーハートは、C.H.ダグラスの理論がアルバータ州を世界恐慌から立ち直らせるのに必要であると確信した。アバーハートは、ダグラスの理論にキリスト教根本主義的な考え方を大幅に加えた。アルバータ州で大きく成長したカナダの社会信用運動[en]は、ゆえに、社会保守主義的な色合いを強く帯びるようになり、それが今日まで続いている。
<アバーハートとの訣別>
前の州政府の政権党であるアルバータ農民連合[en]の相談役をしていたダグラスは、アバーハートの顧問となったが、戦略上の考え方の相違から、まもなく辞任した。アバーハートは州の財政に関する通常の助言を求めたのである。両者の緊迫したやりとりの内容は、ダグラスの著書「アルバータ州の実験」として出版された。[36]
<均衡予算への疑義>
アルバータ州の首相[en]は、州の予算を均衡させたかったが、ダグラスは、均衡予算[en]の概念全体が社会信用論の原則と矛盾すると論じた。ダグラスは、現状の費用算出方式のもとでは、一定の経済の中で全ての予算を同時に均衡させることは計算上不可能[37]と述べた。アバーハートへの書簡の中で、ダグラスはこう述べている。[37]
"This seems to be a suitable occasion on which to emphasise the proposition that a Balanced Budget is quite inconsistent with the use of Social Credit (i.e., Real Credit – the ability to deliver goods and services 'as, when and where required') in the modern world, and is simply a statement in accounting figures that the progress of the country is stationary, i.e., that it consumes exactly what it produces, includingcapital assets. The result of the acceptance of this proposition is that all capital appreciationbecomes quite automatically the property of those who create and issue of money [i.e., the banking system] and the necessary unbalancing of the Budget is covered by Debts."
<法制化の挫折・減価貨幣の失敗・ゲゼル批判>
ダグラスは、社会信用論の技術顧問として、L・デニス・バーンとジョージ・F・パウエルの二人を英国から送り込んだ。しかし、社会信用論の法制化の試みは全て、カナダ最高裁判所[en]とロンドンの枢密院によって権限外[en]であると裁定された。 シルビオ・ゲゼルの貨幣理論に基づき、ウィリアム・アバーハートは繁栄証明書[en]として知られる貨幣代替物を発行した。しかし、これらの金券は、実際には長く所有すればするほど価値が減るものであったので、[38] ダグラスはこのアイデアを公に批判した。
"Gesell's theory was that the trouble with the world was that people saved money so that what you had to do was to make them spend it faster. Disappearing money is the heaviest form of continuous taxation ever devised. The theory behind this idea of Gesell's was that what is required is to stimulate trade—that you have to get people frantically buying goods—a perfectly sound idea so long as the objective of life is merely trading."[39]「ゲゼルの理論は、世界で起こっている問題の原因は人々がお金を貯蓄することであり、やるべきことは、お金をより早く使わせることだというものである。消えて行くお金は、これまで考案された中で最も重い継続的な課税方法である。このゲゼルのアイデアの背後にあるのは、必要なのは商業活動を刺激することだという理論だ。つまり、人々に熱狂的に買物をさせろということであり、確かに、それは全く正しい考え方である —ただし、人生の目的が商業活動だけであるとすればの話だが。」[39]
<社会信用党の変質>
アバーハートが若くして死んだ後を受け継いだアーネスト・マニング[en]のもと、アルバータ社会信用党[en]は徐々に当初の形から離れ、一般に右翼ポピュリズムとして知られる運動を行うようになった。事務局の雑誌である「An Act for the Better Management of the Credit of Alberta」で[40]ダグラスは、アルバータ州の社会信用運動を批判的に分析したものを掲載した。[41][42]彼はそこで、「マニングの運営方法は、もはや社会信用論のものではない。英国政府は労働党が運営しているのだと言うに等しい。」 マニングはダグラスとその支持者を反ユダヤ主義者と非難し、いわゆる「ドーグラサイト[訳註:Douglasと鉱物の一種douglasiteをかけた名前?ダグラス支持者のことと思われる。http://www.merriam-webster.com/dictionary/douglasite]」を全て党内から次々と追放した。アルバータ州の西にある州では、ブリティッシュ・コロンビア州社会信用党[en]は1952年に政権を取ったが、ダグラスやその理論との共通点はほとんどない。
<社会信用党の現状>
<神権政治の否定と新しい文明>
社会信用論的な社会では、神と人間との間の関係は唯一のものであるという事実が認識されている。[51] この観点から、この神との関係を追求するため、人に可能な限り最大の自由を許すことが重要となる。ダグラスは、自由を、一つのものを一度に選択又は拒否できること、また、望ましくない人間関係から離脱できることであると定義した。もし人々が、社会信用論に基づく分配の上で達成される経済的保障と余暇を与えられたら、ほとんどの人はマンモン [訳註:強欲の神] へ仕えることを止め、自己研鑽を達成するための精神的、知的、文化的目的を追求するために自由な時間を使うであろうと、ダグラスは考えた。[52] ダグラスは、自身が「力のピラミッド」と呼ぶものに反対した。全体主義はこのピラミッドを反映したものであり、社会信用論のアンチテーゼである。それは、政府を手段から目的に、個人を目的から手段に変える — Demon est deus inversus —「悪魔は逆さまになった神である」。社会信用論は、経済的・政治的・社会的な社会の要請の範囲で許される限り最大限の自由を個人に与えるよう設計されている。[53] 社会信用論は、個人の重要性を高め、あらゆる機関が個人に奉仕する状態、つまり、 国家が市民に奉仕するために存在し、個人が国家に奉仕するために存在するのではない状態を維持するものである。[54]
ダグラスは、全ての政策はそれぞれの哲学から導き出されたものであると強調し、「... 社会は第一義的には形而上学的であり、必ずその原型と有機的な結合関係にある」[55] 社会信用論は唯物弁証法の哲学を否定する。[55] 「特殊例から一般論を議論する傾向は、唯物主義から集産主義までの一連の思想に特有のものである。もし宇宙が分子の大きさにまで小さくなったら、究極的にはカタログや辞書は不要になる。全てが同じものになり、全ての言葉が音— 分子運動音 — だけになるのだ。」[56]
note: 最後の分子運動のたとえ話は、恐らく特殊例の敷衍を揶揄していると思われるが、分かり辛い。
<哲学全体への考察>
社会信用論者は、ダグラス自身を含め、反ユダヤ主義を拡大していると批判されてきた。ダグラスは「国際ユダヤ勢力[en]」に対し、特に晩年の著作において批判的であった。彼は、数名のユダヤ人が多くの大銀行を支配し、財政的権力を集中させていく国際的陰謀に影響を及ぼしていると断言していた。ユダヤ哲学に対して極めて批判的であることから、ダグラスが反ユダヤ主義者であると主張する者もあった。「社会信用論」という題名の著書の中で彼は、「キリスト教が、旧約聖書の考え方やキリスト教化前の時代の理想と矛盾するようになった根本的思想の一つが、このような抽象主義による廃位と関連していると言っても過言ではない。」[58]と述べている。
<抽象主義哲学への反対論>
<反ユダヤ主義への非難とフィンレイの再反論>
[edit]Canada
カナダ
Federal political parties:
Social Credit Party of Canada/Canadian social credit movement
Ralliement créditiste
Abolitionist Party of Canada/Christian Credit Party
Canadian Action Party (active)
Global Party of Canada
Provincial political parties:
Alberta Social Credit Party (active)
British Columbia Social Credit Party (active)
Manitoba Social Credit Party
Social Credit Party of Ontario
Ralliement créditiste du Québec
Social Credit Party of Saskatchewan
Organizations:
Pilgrims of Saint Michael
Committee on Monetary and Economic Reform
See also: Prosperity Certificate
[edit]Ireland
Monetary Reform Party
[edit]New Zealand
Country Party
Democratic Labour Party
New Zealand Democratic Party (active)
New Democratic Party (New Zealand)
Real Democracy Movement
Social Credit Party (New Zealand)
New Zealand Social Credit Association (Inc)[2]
[edit]Solomon Islands
Solomon Islands Social Credit Party (active)
[edit]United Kingdom
<ハインラインの描く社会信用世界>
ロバート・A・ハインラインは、社会信用経済を、死後最初に出版された小説「For Us, The Living: A Comedy of Customs[en]」で描いている。描写はこれより詳しくないものの、「未知の地平線[en]」でも同様の制度が描かれている。ハインラインの描く未来社会では、国家財政は税収によらず、政府は通貨を制御し、価格保証金を経済活動参加者に配り、全ての市民に収入を保障することでインフレーションを防いでいる。
<ウィルソンの描く社会信用世界>
<最近の書籍等>
ベーシックインカム
市民配当金[en]
脚注
- ^ "C.H. Douglas" (PDF).
- ^ Douglas, C.H. (1974). Economic Democracy, Fifth Authorised Edition. Epsom, Surrey, England: Bloomfield Books. pp. 18.ISBN 0-904656-06-3. Retrieved 12-11-2008.
- ^ "The Delusion of Super-Production", C. H. Douglas, English Review, December 1918
- ^ a b c d e f g Douglas, C.H. (1933). Credit-Power and Democracy. Melbourne, Australia: The Social Credit Press. pp. 4, 108. Retrieved 12-11-2008.
- ^ Keynes, John M. (1936). The General Theory of Employment, Interest and Money. London, England: MacMillan & Co Ltd.. pp. 32, 98–100, 370–371. ISBN 1-56000-149-6.
- ^ Douglas, C.H. (January 22, 1934). "The Monopolistic Idea" address at Melbourne Town Hall, Australia. The Australian League of Rights: Melbourne. Retrieved on February 28, 2008.
- ^ Douglas, C.H. (1973). Social Credit. New York: Gordon Press. pp. 60. ISBN 0-9501126-1-5.
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2012.07.02 | Trackback(0)
国際金融資本を鋭く批判するイタリア喜劇俳優べッぺ・グリッロの五つ星運動のブログ紹介
http://www.beppegrillo.it/japanese/2010/12/person-of-the-year-2010-movime.html
以下、そのブログから「銀行支配」という文章を転載します。
かつて議会があり、連邦政府があり、国とその将来について公的な討論がなされた。大して機能していなかったが、代表機関の国連もあった。これらすべては、記憶であり、民主主義的様相の灰で、過去の埃である。何も価値がなくなってしまった。他の組織は、人々にとって、WTO、BCE、IMFという神秘的なマークによって時代遅れになってしまった。私たちの運命は、彼らの手中にあるが、私たちはそれが誰によって操られているのか知らない。誰が目的を決めているのか知らない。誰も代表者を選んだわけでもないが、彼らに私達の生活は依存している。欧州中央銀行(BCE)は、政府に対して、脅しのレターを出すことができる。WTO は、自由経済で世界をむちゃくちゃにすることを決められる。 生産は多国籍企業がインドの子供か中国の労組のない権利のない労働者に任される。 何のグローバル競争について私達は話をしているのだろう。規則や権利が同等であれば競争は存在する。グローバルな搾取、産業化した先進諸国の給与の低下、前世代からの戦いで得た社会的、労組的成果の喪失について話したほうが正しいのではないか? いったい誰がすべてを決めたのか?WTOか。誰の名において?ギリシャはすぐにデフォルトにはならない。もし破綻したら、ギリシャの国債を有するフランスの銀行が倒産するから。 だから、まずその国有財産を売り、銀行を救済しなければならない。世界は銀行中心で社会政治についてはもう話題にもならない。EUはBCE、国連、WTOに取って代わられ、政府はIMFにとって代わられた。戦争自体が、リビア戦争で明らかになったように、もやは単に経済的目的しか持たず、もうイデオロギーや宗教、領土の戦争ではない。銀行は戦争に投資し、戦争が銀行に投資する。ホテルでは、身分証明書の代わりにクレジットカードを求められる。子供が生まれると、小児科医が決められる前に、財政赤字の分担分とともに納税番号が与えられる。政治家たちは、銀行家たちの給仕係で、私たちがその勘定を払うのだ。
2012.06.30 | Trackback(0)
つながりといのちを斬り捨てるBIには、NO!
「“しょうがい”って、どう書くんだっけ?」2010年1月初旬。生活保護の申請に同行したAさん(30歳)の質問に一瞬絶句した。申請を短時間に終わらせようと福祉事務所から聞かれそうな家族状況をメモして貰っていた時だった。
彼はきょうだいに障がい者がいたが「障害」という字が書けなかった。淡々と語る彼の生い立ちは寂しさに満ちていた。彼の家族は父の疾病で生活保護を受給していた。だが母は失踪。後に父の年金受給とともに、きょうだいの障害者年金もあったため生活保護は辞退させられた。(保護費には年金は上乗せされないにも関わらず…)
中学は不登校、定時制高校も直ぐに中退した。家出して建築現場の日雇いで働いた。路上生活に至る2009年末、直前に稼いだ金をパチンコですってしまったと正直に話してくれた。
Aさんは居宅保護を希望していたが、福祉事務所からは食事や就活費用などの現物支給のみの緊急一時保護センターと言われた。申請時にはセンターも無料低額宿泊所も満杯なため、ネットカフェ保護となった。その後、緊急一時保護センターに入れたと福祉事務所の担当者から聞いたが、彼の行方はいま、分からない。
震災を経て1年半たった今、彼はどうしてるだろうか…。誰かに支援されて屋根のある暮らしをしているだろうか…。
貧困を解決するのは金銭そのものより、金銭を活用する力や、より良い支援を引き出す当人の力ではないだろうか。それを私は“つながりをつくる力”と呼びたい。つながりには、人とのつながりだけでなく支援制度とアクセスするスキルも含んでいる。
いま維新の会と橋下市長は、もっとも“つながり”を必要とする底辺の人々を支えるシステムを次々に弾圧している。同じ橋下市長の口からBIが良いなどと言われても、それは私が求めていたBIとは真逆のBIであり、いのちを斬り捨てるBIでしかない!
いま生活保護への凄まじいネガティブキャンペーンが日本中を駆け巡っている。生活保護だけでなく、介護も保育も既に社会の責任から、家族責任へと実態も制度内容も移行している。今こそ、本当はBIを巡る、もっと地に足がついた議論が必要だ。特に維新の会がBIを船中八策にあげた今、BI推進者、特にメディアに影響力を持っている研究者や論客はしっかりとした批判をして欲しい。
私が身銭を切って出版し、実現を探る会が毎週メルマガを発行しても、草の根運動家の私たちにマスメディアは発言するチャンスを与えないのだから…。
維新の会のBI推進で、BIには暗雲が垂れ込めた。脱原発だけが取り柄だった維新の会は、私や関西の仲間たちの予想通り、大飯原発再稼働を容認し、脱原発の看板を半年ちょっとで降ろしてしまった。
脱原発を達成するには、過疎の疲弊をもたらした経済構造の変革が必要で、BIはその切り札となる。ただもちろんバラマキ的なBIではなく、白崎一裕さんの論考のような通貨改革とのセットでのBIなのだが、そういった議論にはなかなかなっていかない。今は、原発を再稼働させないための身体を張った運動だけで精一杯であるが、いずれBIと脱原発の議論が活性化していくことを願ってやまない。
白崎朝子
ケアワーカー。著書『介護労働を生きる』『ベーシックインカムとジェンダー』(編著者)共に、現代書館刊。
現在、『福島原発告訴団』への支援ならびに『福島女子のゆるゆる保養合宿』コーディネーター。
2012.06.20 | Trackback(0)
成長を超えて~~ベーシックインカム・通貨改革と脱原発への道 (3) ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕
前回は、国家・銀行・原発(エネルギー産業)の構造悪トライアングル分析についての予備作業のようなメルマガだったが、今回は、その構造悪トライアングルを抜け出していく方法を考えてみよう。
社会信用論のC・H・ダグラスは、その著書『CREDIT-POWER AND DEMOCRACY』のなかで、政策・生産活動に関する決定が銀行の信用管理により私的に運用されているといい、信用の管理を「民主化」しない限りは、本当のデモクラシーにはならないという趣旨のことを繰り返し述べている。この分析は、エネルギー問題を考える際にも同時に考えておくべき視点である。国家・銀行・原発の構造悪をたたくためには、エネルギーデモクラシーと銀行信用の民主化も同時並行的に進めていく必要性があるということなのだ。まず民主化のはじめの一歩は、九電力会社体制ともいわれる電力の一元的地域独占体制の地域・地方への分散化からだろう。エネルギーと通貨の地方主権。まずは、ここから始めよ、ということだ。
さて、みなさんは、地方公営企業法という法律をご存じだろうか。その法律の冒頭は以下の条文により構成されている。
(この法律の目的)第一条 この法律は、地方公共団体の経営する企業の組織、財務及びこれに従事する職員の身分取扱いその他企業の経営の根本基準並びに企業の経営に関する事務を処理する地方自治法 の規定による一部事務組合及び広域連合に関する特例を定め、地方自治の発達に資することを目的とする。
(この法律の適用を受ける企業の範囲)第二条 この法律は、地方公共団体の経営する企業のうち次に掲げる事業(これらに附帯する事業を含む。以下「地方公営企業」という。)に適用する。
一 水道事業(簡易水道事業を除く。)
二 工業用水道事業
三 軌道事業
四 自動車運送事業
五 鉄道事業
六 電気事業
七 ガス事業
上記に「電気事業」や「ガス事業」とあることに注目していただきたい。この法律を基にして、日本全国には「公営水力発電所」というものがある。たとえば、日本で唯一の「市営」水力発電所をもつ石川県金沢市の例だ。以下がそのURL資料である。
「犀川の恵み、4万戸分 金沢、全国唯一の市営水力発電所 」(北國新聞 2012年5月27日)
金沢市街地を流れる犀川を利用した発電事業は1900年(明治33年)にまでさかのぼることができるが、金沢市営第一号発電所は、1966年(昭和41年)運転開始の上寺津発電所であり、最大出力は1万6200KW。他に犀川と内川にあわせて5か所の市営水力発電事業をおこなっている。上寺津以外は、最大出力が1万KW以下で、ダム方式を採用しているとはいえ、小水力「公営」発電所といえるだろう。これらは、資料URLにあるように年間1億4千万kw時で、約一般家庭4万戸分(市内家庭電力の20%)をまかなっている。問題は、この発電の行方だ。これらの電気は、地元の北陸電力に売電されて供給されてきた経緯がある。この売電費用が極端に安値であり「地域独占」電力会社に有利な構造になっていることが最近の新聞記事でも指摘されている。(「東電に安値で売電 1都4県水力発電」2012年4月2日 東京新聞・などの新聞記事参照。この記事では、以下のように指摘されている。【水力発電所を運営する東京、神奈川、群馬、栃木、山梨の一都四県が、東京電力に随意契約で安く売電していたことが分かった。経済産業省などの試算では、仮に特定規模電気事業者(PPS)も交えた競争入札を実施し、直近の市場取引価格で売っていれば、最大で年間百十七億円も増収になっていた。東電に格安の電気を提供し、もうけさせてきたとも言え、住民から批判が出そうだ。】)
金沢市の公営発電所を最初に知るきっかけとなった『原発の経済学』(室田武著 朝日文庫)によれば、やや古い数字だが1991年3月現在の金沢市は1kw時あたり10円55銭で売電し、市民はそれを約25円で買い戻している。上記、東京新聞のコメントにもあるように、こんなアホな話はない。これでは九電力体制が儲かるだけではないか。ただ、この構造は変わる兆しをみせている。ひとつは、電力供給需要の自由化であり、もうひとつは、再生可能エネルギー固定買い取り制度(FIT)の実施だ。FITの原案では、中小水力の買い取り価格は1kw時あたり25.2円~35.7円(期間20年)となっている(ただ、ひとつの課題があり、この制度適用は、新規発電事業に有利で、既設の発電事業には適用されないというプランになっていることだ、ここは既設発電事業にもFITが適用されるようにプランの変更がぜひとも必要だ)。この売電収益をひっ迫する地方自治体の財源としてぜひとも使うべきである。
エネルギー収益を地方市民の暮らしのために使う発想は、実は再生エネルギー先進国ではすでにおこなっているところがある。たとえば、再生エネルギーが盛んなドイツ・バーデン・ベルデンベルグ州では、自治体法のなかに、地方自治体は「基本生活保障」のための事業をおこなうことができると定められていて、この法律を根拠に地域での自然エネルギー供給事業を地方自治体がおこなっている。(三菱UFJリサーチ&コンサルティングレポート「エネルギー自治に向けて地域でなすべきこと」より)
また、カナダ(オンタリオ州)では、グリーンエネルギー法が可決され、先住民コミュニティへの生活支援の意味を伴った価格優遇制度や地域雇用の創出など、自然エネルギーの成果を地域経済へ生かす試みがなされている。(『自然エネルギー白書2012』環境エネルギー政策研究所編より)
これらの先駆的事例をさらに進めて日本のエネルギー地方主権を質的に高めるべきだ。その際にモデルになるのは、やはり、社会信用論の成功事例ともいるアメリカ、ノースダコタ州立銀行だろう。ノースダコタ銀行の詳細については、「実現を探る会」のHPに掲載されている関曠野さんの講演録にその解説があるので参考にしていただきたい。ノースダコタ銀行は、地方にある「中央銀行」の働きをもち、地方の公益にかなう事業に低利で融資しており、まさに「信用の民主化」を実践しているといえる。その銀行収益は州の予算に組み込まれており、これが州民への還元にもなる。結果として全米最低の失業率(約4%)、銀行倒産なしなど健全な地域経済をもたらしている。これと同じ発想をエネルギー自治にももちこむのだ。売電費用をベーシックインカム的に地方市民に配当してもいいだろう。アラスカ・パーマネントファンドが、原油収益からの配当として州民にベーシックインカム的に支給しているわけだから、自然エネルギー収益が住民に直接還元されてもなんら不自然ではない。
信用とエネルギーの民主化・社会化!これこそが、脱原発への道なのだ。次回は、このエネルギーの地産地消ともいえる動きと地方銀行の関係、地方と中央の格差と原発立地・再稼働問題などを継続して考えてみたい(この稿続く)。
2012.05.31 | Trackback(0)